第4話

 病院の建物を出ると、桜の花びらがひらりと目の前で舞った。敷地内の桜は、今年も見事な花を咲かせていた。

 多希は目を細め、桜花がたおやかに揺れる枝を、正確には、その向こうの空中を注視する。空を薄くおおっているのは、ハナミネコの侵入を防ぐ結界である。



 未知の生物、ハナミネコが突如現れ、ハナミネコから確認されたウイルスが人の命を奪うようになって、早5年。この四季島国は大きく変わってしまった。

 ハナミネコは、科学や物理では対処しきれない生物だとわかった。唯一対抗できるのは、特殊な能力のみ。俗に言う、呪術である。

 ハナミネコ及びハナミネコウイルスがこの国を脅かすようになってから台頭してきた人達がいる。

 荻野おぎの姓をルーツとする人々が中央政界や経済に進出し、ハナミネコウイルス対策に大きく貢献した。それだけなら荻野の一族が救世主のように聞こえなくないが、ここまでの社会的地位を築く前、荻野の一族は長い間誹謗中傷にさらされてきた。

 荻野の一族は、かつては平安なる都で天皇に仕えていた貴族であり、呪術にも長けていたと伝えられていた。

 時代は流れ呪術より科学が優先される世の中になってからは、地方に拠点を移して県議会議員や市議会議員を輩出してきた、地方の政治家一族となっていた。

 転機は、20年前。約300年前に国学者だった先祖が書き記した書物が発見され、それが未知の生物による感染症の爆発的感染増加を予言していた。

 荻野の一族は、先祖の予言を信じ、声高にメディアに発表した。誰も予言を信じず、荻野の一族は反感を買った。国学者である先祖が視覚障害者だったと伝えられていたこともあり、盲目の先祖を神様に仕立て上げる危ない宗教だと非難された。荻野の一族と関係ない、苗字が荻野の人や、字面が似ている「萩野はぎの」氏も中傷の標的となった。荻野の一族は、自分達とは関係ない人々を傷つけることはやめてほしいと訴えたが、火に油を注ぐ結果となり、中傷は静まらなかった。

 荻野の一族の言葉が受け入れられたのは、5年前のハナミネコウイルス感染症の爆発的増加であった。これが先祖による予言だと信じられるようになり、荻野の一族は人々に受け入れられるようになった。

 国会の議会解散後の選挙で、荻野の一族が何人も立候補し、軒並み当選した。それまでも国会議員として冷遇されてきた荻野氏は、内閣の一員にまでなった。今の内閣総理大臣は、荻野の一族の出身である。



 嫌なことを思い出してしまったな。多希は最寄り駅に向かい、来た電車に乗った。吊り革に掴まって電車に揺られながら、車窓からの景色を眺める。閑静な住宅街にも、駅や電車にも、結界が張られている。結界は見える人と見えない人がいるが、多希は見える人である。うっかり見つめていれば、術式が見えてしまう。

 ――俺、術式が解けちゃうかも。

 かつて同じデイサービスで働いていた介護士が、言っていた。その介護士が本当に術式を解いたのかは、今となってはわからない。その介護士の言葉は、多希の中で呪いのようになっていて、自分が結界の術式を解いてしまったらどうしようと不安に駆られることがある。

 次の駅で電車に乗り込んだ、ブレザー姿の女子高生達が多希を見て、「あれじゃない?」と小声ではしゃいだ。彼女達はスマートフォンの画面と多希を見比べている。多希の隣に立っていたサラリーマンも、自分のスマートフォンと多希を見比べ、無言で目を見開いた。

「……すみません。この動画の人もですよね?」

 サラリーマンが見せてくれた動画には、グランドピアノで演奏する多希の姿がはっきりと映っていた。

 ――イケメンな上にピアノまで弾けるとは、ずるい。

 ――やばい。俺全部歌えるwww

 ――ヲタクを炙り出すリサイタル。

 ――ラジオ体操も演奏して、パニックを治めたんだって?

 ――ラジオ体操の効果やべえ。

 コメント欄が盛り上がっていた。多希がラジオ体操を演奏したことになっている。

 多希が肯定も否定もできないでいると、気になるコメントがアップされた。

 ――国会議員の荻野保希に似てる。

 ――確かに似てる!

「人違いです」

 多希は、女子高生にも聞こえるように声を張って否定した。サラリーマンは、すみません、と軽く謝り、スーツのポケットにスマートフォンをしまった。

 国会議員の荻野保希やすきに顔が似ているとは、以前から言われていた。その父、内閣総理大臣の荻野篁一郎こういちろうに似ているとも言われている。ふたりとも整った顔立ちで世間の印象は悪くないが、似ていると言われるのはあまり良い気はしない。個人的な感情ではあるが。

 座席が空き、誰も座らないので座らせてもらう。愛美からコーヒーをもらっていたことを思い出し、通勤用のリュックサックからブラックコーヒーのペットボトルを出した。よくよく見れば、ボトルに無料通信アプリのIDと栗木愛美の名が書かれていた。

 多希は自分のスマートフォンを出し、愛美のIDを入力してアカウントを登録した。ついでに、SNSをチェックする。

 SNSやウェブニュースでは、人間国宝の烏間掃部が亡くなったことが話題になっていた。総理大臣、荻野篁一郎の会見の様子もライブ配信されている。表には出てこないが、厚生労働大臣の佐々木橘子も対応に追われていることだろう。

 漆芸家の烏間掃部は弟子を取らず、技術を書き残すこともせず、ハナミネコウイルス感染症で他界してしまった。烏間掃部の漆芸の技術は誰も継承できず、絶たれてしまった。国の文化の大いなる損失だとコメントする人もいた。

 ハナミネコウイルスは、ハナミネコが人を引っ掻いたり噛むことで傷口からウイルスが侵入し、感染症を引き起こす。

 ハナミネコウイルス感染症の症状は、脳の萎縮によって引き起こされる認知機能や身体機能、心肺機能の低下である。認知症と似ているが、明らかに異なるのは、途中からの症状の進行の早さである。ハナミネコウイルスの感染症が確認されて間もない時期に、40代の男女が発症から半月で亡くなったという例があった。認知機能の低下がわずかに疑われた期間が12日間。残り2日間で認知機能と身体機能、心肺機能が一気に低下し、心不全で亡くなったという。

 ワクチンも開発されたが、どんなに改良しても75歳以上の高齢者はワクチンに体が耐えられないおそれがあり、ワクチン接種を強行した高齢者の大半がワクチンが原因で亡くなっている。それ以下の年齢の人はほぼ全員副反応も無く、運悪くハナミネコに外傷を負わされても感染した例が今のところ報告されていない。



 多希は電車を下り、駅から離れた自宅アパートに帰った。シャワーを浴びてから少し昼寝をして、夕方にフィットネスクラブに出かける。

 荻野の呪術がハナミネコに効果的だと認められ、荻野の術式の結界が張られるようになり、結界を保つ装置の開発も進んだ。ハナミネコがより活動的になる夜にも出歩けるようになり、ハナミネコの出現前ほどではないが夜に出歩く人が多くなった。多希もそのひとりだ。

 フィットネスクラブで、フリーウェイトで筋トレをしてからランニングマシンで走る。走っている間に頭をよぎるのは、先日発表された試験の結果だ。

 第4回介護士資格試験、不合格。

 国家資格として新設された介護士試験に落ちるのは、二度目である。

 介護士試験は介護従事者だけでなく、看護師も介護の職務経験が規定に満たせば、受験することができる。「介護職員初任者研修」や「介護福祉士」とは異なるが、介護福祉士試験を受験をして、希望者が介護士試験を受けられることになっている。

 介護士試験の内容は、バーチャルリアリティによる疑似体験である。制限時間は明確に決められていないが、夜間の施設にハナミネコが結界を突破して侵入した想定で、入所者を守りながらハナミネコを駆逐することが合格の基準になると言われている。

 多希は一度目の試験でも二度目の試験でも、ハナミネコを麻酔銃で撃って動きを封じることはできたが、どうしてもそれだけに集中して他の採点基準に満たないらしい。看護師と介護職員では普段の介護業務でも視点の違いを感じていたが、介護士試験に受からない現実を目の当たりにすると、看護業務とはまた違う介護業務の難しさを痛感する。

 フィットネスクラブでもシャワーで汗を流してアパートに帰宅し、VRゴーグルと専用のモデルガンを起動して装着する。

 VRゴーグルをつけると、多希の意識は、メタバース空間に集中した。

 民間企業が開発した、介護士試験対策教材のひとつである、介護士疑似体験機能を購入し、暇さえあればメタバースで試験対策を行っている。フィットネスクラブで体力づくりをしているのも、その一環だ。アパートの部屋が1階で良かった。足音をたてないようにしているが、多分うるさいはずだ。

 メタバース空間で、ハナミネコに麻酔銃を向ける。本物の麻酔銃は、荻野の呪術である術式が構築されているが、モデルガンにはその機能が無い。

 もしも、万が一。多希が介護士試験に合格して、麻酔銃の引き金を引くことになったら。自分は今以上に、自分は死んでも構わないと思うようになるかもしれない。ふとした瞬間にブレスレットの大ぶりなビーズに触れ、そう思った。

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