第3話

 烏間からすま掃部かもり。漆芸家のひとり。享年90歳。弟子を取らないことで有名だった。

 臨時ニュースの最中、スマートフォンに目を落としていた人が顔を上げ、声を張った。

「やばいよ! この病院に運ばれてたらしい!」

 嘘だ。多希は口にこそ出さなかったが、誤った情報だと、何となく察しがついた。人間国宝が入院したとなれば、もうすでにナースステーションは噂話でもちきりになっているはずだ。

「うわ! まじだ!」

 待合スペースに動揺が広がった。どうやら、SNSで誤報が拡散されているらしい。

「やばい! うちらもハナミネコに感染しちゃう……!」

 慌てて立ち上がり、病院を出ようとする人。その辺のスタッフに食ってかかる人。椅子に座ったままうずくまる人。待合スペースは一気に混乱の渦に巻き込まれた。

「落ち着いて下さい! ここは平気です!」

 多希も声を張り沈静化を試みるが、効果は無い。

 どうしようかと考えていると、突然、鼓膜を突き破りかねない鋭い音が聞こえた。直後、誰もが静まり返り、一瞬動きを止めた。

 にわかに聞こえてきたのは、ピアノの音。マイクで音を拾っているようで、わずかに雑音が入る。

 待合スペースの人達は、先程とは違う理由で動揺した。ピアノが奏でているのは、ラジオ体操のメロディーだとわかったからだ。

 待合スペースの隅には、誰でも自由に弾けるグランドピアノがあり、歌うこともできるように、マイクもセットされている。多希のいる場所からは、奏者がピアノの陰になって姿が見えないが、誰かがいることはわかる。

 そのうち、人々はまばらに体操を始めた。よくよく見れば、私服姿の浦野もいる。皆、浦野に合わせて体を動かしている。

 何だ、この光景は。なんだかんだ考えても、多希もピアノの演奏に合わせて小さく体を動かしていた。

 これに似た状況を、多希は体験したことがある。この病院の前に勤務していたデイサービスで、レクリエーションの出し物が予定より早く終わってしまい、時間稼ぎにラジオ体操を行った介護職員がいた。ブーイング状態だった高齢者は、介護職員につられて体操をして、最後はまんざらでもない表情をしていたのだ。

「多希さん」

 ラジオ体操をしながら、浦野が近づいてきた。

「誰がピアノを弾いてるのかわかりませんが、なんか、助かりましたよね」

「ええ。浦野さんも、ご協力ありがとうございます。浦野さんのお蔭で、皆さんつられて体操してくれています」

「退勤して帰ろうとしたら、あんな騒ぎになっていたんです。SNSで嘘が拡散されたんでしょ。これで気が紛れれば、良いんですが」

 ピアノの演奏が終わり、拍手が湧く。拍手はにわかに、アンコールに変わっていた。しかし、奏者は椅子から下り、人の波を掻き分けてどこかへ行ってしまった。一瞬だけ、多希はその人の姿を見た。学生のような青年で、黒髪、小柄。カジュアルな服装だった。

「多希さん、ごめんなさい。あたし、帰らなくちゃ」

「あ、お気をつけて。おつかれさまでした。……皆さん! 次は、この人が演奏します!」

 浦野の弾ける声に、皆が注目した。

「多希さん、ピアノ弾けるんでしたよね。お願いしますね」

 笑顔で無茶振りをして、浦野は帰っていった。

 残された多希は、渋々グランドピアノに向かった。一度椅子に腰を下ろし、高さを調節してから、再度座り直す。

 見られてる。目茶苦茶見られてる。世間は春休みであるせいか、若い人が多い。ならば。

 手馴てならしに、映画音楽の「禁じられた遊び」をスピードを上げて弾くと、拍手が起こった。多希自身、ピアノを弾くのは久しぶりだが、思ったほど感覚は鈍っていない。

 暗譜している曲の中で多希が選んだのは、合唱曲「旅立ちの日に」。若い子が声を揃えて歌ってくれた。狙い通りだ。

 この一曲だけで帰ろうと思ったが、期待の目を向けられてしまう。

 もう、どうにでもなれ。

 次の曲は、「残酷な天使のテーゼ」。先程より、合唱率が高かった。伴奏している多希も、心が軽くなってきた。調子に乗り、「紅蓮華」や「メリッサ」、「やさしさに包まれたなら」を休まずメドレー形式で演奏した。確実に、ヲタクを炙り出しにかかっていた。

 流石に、夜勤明けの疲れが出始め、アンコールを無視してグランドピアノの蓋を閉めた。

「多希さん、ごめんなさい、離れてしまって」

「あ、愛美まなみさん」

 厚生労働大臣、佐々木橘子きっこの秘書、栗木愛美のことを、すっきり忘れていた。

「人間国宝のかたが亡くなったと聞いて、先生と対応に追われてしまって。ごめんなさい。今お話は無理かも……」

「じゃあ、手が空いたら連絡を頂けますか?」

 多希はスクラブのポケットからメモ帳を出し、ボールペンで電話番号と無料通信アプリのIDを書いて、愛美に渡した。

「本当に、ごめんなさい……あ、コーヒー、持ってって下さい」

「すみません。愛美さんも、先生も、どうか働き過ぎないで」

「うう……お心遣い痛み入ります」

 愛美は、ぺこりとお辞儀をして、エレベーターホールに向かっていった。多希は愛美を見送ってから、ロッカールームへ行き、私服に着替える。勤務中は、スマートフォンや時計、アクセサリー類の持ち込みは禁止である。愛用のブレスレットを手首に通すと、安堵の溜息が出た。細い革紐に、マクラメビーズと特注のカプセル型のビーズを通したブレスレットは、十年来、多希のお守りになっている。

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