第2話
「先生……橘子さん、それは手術の経過を見てから考えましょう。私の方でも調整しますから」
「マナミさん、いつもありがとう。ところで……」
橘子は秘書と仕事の話を始めてしまい、多希は病床を離れた。
「あっ、多希くん、丁度良いところに来た! 上の物品、取れる?」
「やってみます」
ナースステーションに戻った途端、多希は小柄な女性看護師に呼ばれた。物品の棚に積み上げた段ボール箱の上げ下ろしは、身長180cmの多希の仕事と化している。
段ボール箱は、意外と重かった。段ボール箱は未開封で、プラスチックグローブの商品名が印字されている。
「多希くんがいてくれて、本当に助かるわ。女だけだと、たちの悪い患者に舐めてかかられるもの。この間も、多希くんが間に入ってくれたから、トラブルにならずに済んだわ」
「そんなこと、ないです。ただ、突っ立っていただけでしたから」
多希は否定した。確かに、数日前にそんなことがあった。新人の女性看護師が、父親ほど歳の離れた患者に怒鳴られていたのだ。多希は何も考えずに野次馬的に現場を覗き込んだだけなのに、怒鳴っていた患者は多希を見上げてあんぐり口を開け、言葉を止めてしまった。その患者はまだ入院しているが、問題行動の報告は受けていない。
「多希くんは黙っていればクールな感じだから、意外と威圧感があるのよ。本当は優しくて、多少は口が悪いのは御愛嬌よ」
「言ってくれますね」
多希は生意気な口を利いてから、破顔した。この看護師は親しみやすく、冗談を言い合える。
「多希くんも困ったことがあれば、あたし達に言いなさいよ。多希くんもチームの一員なんだから」
「ありがとうございます」
「で、大臣はどんな感じ?」
長々とした前置きの後の本題は、それか。この看護師は噂を広める人ではないから、心配して言っているのだろう。
「今朝のバイタルとか、カルテに書いておきますね」
「ごめん! 責めてるんじゃないの! あたしが軽率でした!」
他の看護師もナースステーションに戻ってきて、お喋りはおしまい。多希は橘子の今朝の様子を電子カルテに記録し、保存した。患者の発言も記録の対象になるが、地方訪問の予定の話は書くべきではないと思い、記録はしなかった。橘子の様子で記録が必要なのは、ベッドをギャッジアップしてノートパソコンで仕事をしていたことと、ギプスで固定した脚は動かしていないことだ。
夜勤の記録も申し送りも全て終わり、時計を見ると9時50分だった。定時までまだ10分ある。物品の補充か他のスタッフの手伝いをしようと思ったとき、ナースステーションに多希を訪ねて来た人がいた。
「多希さん……と仰いましたよね?」
「えっと……マナミさん、でしたっけ」
「はい。
先程、橘子の病室にいた、多希と同年代の、橘子の秘書だ。
「あ、すみません。自分、
「やっぱり」
秘書、栗木愛美は、何かに納得したように頷いた。
多希を信頼してくれる人が大抵、多希の生い立ちを察して下の名前で呼んでくれる。タキという響きが苗字みたいだが、先に下の名前を知った人の中には、多希が苗字だと勘違いする人もいる。愛美もそのひとりだろう、と多希は思った。
それはそうと、栗木という苗字は、多希の小学校時代の同級生にもいた。その子も女子だったが、下の名前は愛美ではなく
「多希さん、少々お話ししてもよろしいですか?」
そろそろ定時ではあるが、まだ業務中だ。先輩看護師の顔をちらりと見ると、行っておいで、という風に頷かれた。
「大丈夫です。カンファレンスルームを確保しましょうか」
「いえ、立ち話で大丈夫です」
愛美は遠慮したが、多希にしてみれば、大臣の秘書に立ち話をさせるわけにはゆかない。外来のコンビニの前のテーブル席に腰を下ろすことにした。
「愛美……栗木さん、何か飲みますか?」
「多希さんは?」
「自分はまだ業務中で、お金もスマホもロッカーに入れたままで……」
「じゃあ」
多希は断ったつもりだったが、愛美は2人分のペットボトル飲料を買ってくれた。春限定の苺カフェオレと、ブラックコーヒー。愛美は苺カフェオレを開栓した。
「コーヒー、ブラックでよろしかったですよね?」
「はい。よくご存知で」
「昨日の夕方、ナースステーションで口にしていたから」
確かに昨日、夜勤で出勤してすぐに、多希は900mlボトルのブラックコーヒーを
「態度、悪かったですよね。申し訳ありません」
「そんなことないです。水分補給は大切ですから」
「いや、俺、ラッパ飲みだったし、酒飲みみたいとよく言われるし……コーヒーのお金、後で返しますね」
「平気です。先生から、多希さんに何かしてあげて、と言われているので。あの、お話ですが」
愛美は、ちらりと自分の腕時計を見た。多希も外来の待合スペースのデジタル時計を見上げ、定時である10時を過ぎたことを確認した。
「退勤、してきて下さい」
「すみません。行ってきます!」
事務所前のカードリーダーで退勤の打刻をしてから、外来の待合スペースのテレビが視界に入り、多希はニュース速報に目を疑った。
『人間国宝・
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