介護士は今日も戦う

紺藤 香純

第1章

第1話

 夜が明けた。今日も生きている。

 緑埜みどの多希たきは寝不足の目をこすり、眩しい朝日に目を細める。

「よお、多希くん。徹夜おつかれ」

 トイレから帰るところだろう、79歳の男性患者、萩野はぎのすすむが陽気に手を上げた。多希は一気に目が覚め、萩野に駆け寄った。

「ハギノさん! 杖! 杖、使わなくちゃ!」

 利き手と反対側の手はむくみ脱力しているが、足はまあまあ動いている。転んだ感じはないが、歩行が安定していると言い切れない。

「大丈夫だよう!」

 萩野さんは脳梗塞の記憶があり、利き手と反対側の左手と左脚に麻痺が残っている。それに加え、先日、急に意識を失ってこの病院、静寛院せいかんいん大学病院に搬送されてきた。意識は回復したものの、まだ入院しながら経過観察しているところである。

「多希くんは、今日も男前だな。多希くんみたいな看護師がいてくれて、俺は助かるよ。女の人にはどうしても弱音を吐けなくてね」

「そう思ってもらえるのは有り難いのですが……」

「あ、ハギノさん! 駄目じゃないですか!」

 女性スタッフの大きな声が廊下で弾けた。29歳の多希より4歳若い女性スタッフ、浦野うらのは、元気の良さが取り柄だが、他の入院患者はまだ寝ている時間もこのボリュームなのは、いただけない。

「まだ皆さんは寝ているんですよ! ハギノさんももう少し休みましょうよ! 多希さん、ハギノさんの、ありがとうございました! ハギノさんは責任を持って私がまで誘導します!」

 多希は浦野の勢いに押され、萩野さんを任せてしまった。

 しばしの間、多希は呆然と廊下に立ち尽くしてしまった。見守り、居室……以前は特別養護老人ホームに介護職員として勤めていた浦野は、介護用語を多用する。看護用語とはまた異なるため、看護師である多希は未だに戸惑うこともある。それと同時に、介護用語を使う浦野が羨ましくもある。

 看護助手のスクラブを着用する浦野は、大手スポーツメーカーが開発した十分丈の特殊インナーを着込み、スクラブの裾からはホルスターが見え隠れしている。

 浦野の職種は看護助手であるが、「介護士」の資格を有しており、待遇は看護助手の中でも特別に良い方だと言われている。

「多希くん、おつかれさま」

「お……おつかれさまです!」

 他の夜勤看護師に声をかけられ、多希は気が引き締まる思いがした。

「どうしたの。浦野ちゃんみたいになってるよ」

 浦野を比喩の対象とするのは大抵、声の大きさを注意されるときだ。

「……すみません。善処します」

「多希くんは真面目ねえ。浦野ちゃんも見習ってもらいたいわ」

 この看護師は、1年前に多希がこの病院に転職したときに仕事を教えてくれた先輩だ。

「浦野ちゃんは良い子だとは思うんだけど、態度が大きいのよ。看護師の方が偉いわけじゃないけど、何というか……」

 先輩看護師は、適切な言葉が見つからず、黙ってしまった。

 多希は看護業務を教えてもらった手前、先輩に異を唱えることができない。

 多希は浦野に悪い印象は持っていない。業務以外の付き合いをするつもりはないが、尊敬している。

 浦野はこの病院の夜間を守ることができる、数少ないスタッフのひとりである。声が大きいのは、真剣さの裏返しだ。ただでさえ心身の負担が激しい夜勤で、浦野はよく耐えていると、多希は思う。

 廊下で浦野の背中を見送ったとき、スクラブの裾から見え隠れするホルスターを思い出した。あれは、「介護士」だけが使用できる、有事の際は使用しなくてはならない麻酔銃を携帯しているのだ。



 ガラパゴスの国、四季島しきしま国。

 この国がそう揶揄されるようになって久しい今日こんにち

 未知のウイルス、俗称、ハナミネコウイルスによる感染症の爆発的増加によって人々の生活は大きく変わった。

 5年前、突如現れた動物、ハナミネコによってばらまかれたウイルスは、高齢者を中心に感染が確認され、多くの人が命を落とした。そのハナミネコウイルスから高齢者を守るために新たにつくられた国家資格が「介護士」である。

 介護士は勤務中にハナミネコにだけ効果を発揮する麻酔銃を携帯する義務があり、ハナミネコを発見した際に警察や保健所に通報をし、可能な限り麻酔銃でハナミネコの動きを封じることが求められる。介護士は、この国がこれからの時代に求める人材でもある。



 早番の看護師がナースステーションに出勤し、夜勤から早番へ申し送りがなされる。その後、バイタルチェックや朝食の配膳、点滴やリハビリの施行など、看護師の仕事は多い。

 その上、多希は気を抜くことができない患者の担当看護師になってしまった。

 階段で一番高い病室の階まで上り、病室の前に警護がなされた個室に向かう。テレビドラマで見るような広くて豪華な部屋ではなく、質素な個室。そこに入院しているのは、厚生労働大臣、佐々木橘子きっこである。

「橘子さん、おはようございます」

「多希くん、おはよう」

 ベッドをギャッジアップして朝からノートパソコンで何かやっていた橘子は、顔を上げてパソコンを閉じた。入院着を着ていても背筋が伸びて品があり、64歳とは思えないほど若々しい。ただ、掛け布団から覗く下肢はギプスで固定されて、痛々しい。

「ねえ、多希くん。やっぱり、普通の病室にしてもらえないかしら。何だか落ち着かなくて」

「そんなことをしたら、橘子さんの立場が……」

 多希は、ベッドの傍らに控える秘書の表情を伺った。多希と同年代の女性秘書が、多希の言葉に頷き、多希は安堵した。多希を担当看護師に推したのはこの秘書だと、看護師間の噂話で耳にした。おそらく、多希のとある受験歴を秘書が知ったのだろう。

「それに、脚をきちんと治すには、少しでも心穏やかに療養して欲しいんです」

 橘子が脚を骨折して手術入院したのは、つい先日だ。

 これまではテレビのニュースでしか見たことがなかった政治家の佐々木橘子氏は、政治家二世で品格のある雰囲気から、厳しくて気難しい人だと思っていたが、接しているうちに庶民的で気さくな「おばちゃん」だとわかった。それなのに、気遣いは人一倍される。

「多希くんは真面目ねえ」

 父親と同じ苗字である「佐々木」や「先生」と呼ばれることを嫌い、下の名前で呼んでほしいと周りの人に頼んでいる。多希のことは、気を遣って下の名前で呼んでくれる。

「ねえ、多希くん。わたくし、決めたわ。地方訪問、予定通り行うの」

 まるで遊びに行くような口ぶりの橘子に対し、秘書は頭を抱えていた。

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