おいしいご飯。しあわせ

芝川愀

おいしいご飯。しあわせ

奇声を発しながら性器を床に擦りつけ、手で掻き出し、そこらじゅうに体液をばらまく彼女を見て、ああこれは夢だったのか、と思ってしまうほどおれは現実を希薄にするしか救われなかった。弟の首を締め上げ、ああおれもされたなあって、あれこれちょっと死ぬんじゃない?やばいやばい止めなきゃって思う。けれど体が動いで数瞬、腕に痛みを感じる。思いっきり噛まれた。そして苦い味が舌に触れ、鼻を抜ける。彼女は掻き出した体液を、おれの口に突っ込んでいた。吐きそうになる。押し倒され、馬乗りの格好になる。息ができない。腕が動かない。血、ああこれおれの血かあ、やっぱり夢かもな、と思う。視界が暗く、くぐもった音しか聞こえなくなっていく。


洗濯機のなかの生乾きの匂い、ダンボールの押し入れのカビの匂い、2月の横浜のベランダの寒さ。寒さは痛みに変わって確実に体温を、生命を奪う。声はでない。口がガムテープで塞がれていて、髪は何本か抜けている。そうだ、さっき自分は髪を引っ張られて引きずり回されていたのだ。痛かったなあ、頬のあたり、たぶんちょっと擦りむいてるよな、お腹も殴られて吐きそう。跡残らないのずるいよなあ、自分で傷つけちゃおうかな。そんなこと考えてると、だんだん眠くなってくる。これ寝たら死ぬんじゃね?洗濯機もダンボール箱も死ななかったけど、これは死ぬだろ、さすがに寒い。肌が引きつって痛い。呼吸、できてないもんな。死ぬよなこれ。まあ、いっか。もういっか。死んじゃっても。もうなんか、いいや。眠たいもん。死んだら痛くないよな。たぶん痛くないよな。


目を覚ますと、暖かくて、冷たいのは自分の細い指だけだった。目の前にはおいしそうなご飯があった。母親は笑顔だった。早く食べな、と言った。夢みたい。夢みたいだけど夢じゃない。夢じゃないことはわかる。だって口周りはかぶれてるし、お腹だってちょっと痛い。それでもご飯はおいしくて、お風呂は暖かくて、なんだおれとっても幸せだ。死にたくないなあ、と思う。やっぱ死にたいと思う。そんな時期のこと、おれはなぜだか思い出していた。

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おいしいご飯。しあわせ 芝川愀 @sbkwsyu

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