葉桜と夜桜

芝川愀

葉桜と夜桜

 思えば彼は、最初から僕に救われたがっていた。「俺、死のうと思うんだ」 そんな言葉を聞いたのは5時間前で、それを言ったのは葉桜で、彼の身につけていた服は錆びた灰色をしていた。それは24の秋で、ということは彼にとっては27の秋で、「随分と遠回りしてしまったように思う。俺はずっとこうすべきだったんだと思う。俺はもう駄目なんだと思う」彼がまたそう言っていたことを思い出す。 彼に似合わない言葉だった。彼は人生を上手くやれているように思えたし、僕は彼を少なからず尊敬していたところがあるのだ。彼のようになりたいとさえ思った。 だから彼が死のうと思っていると言ったとき、実際に死んだという知らせを聞いたとき、理解できなかった、ということもなかった。まどろっこしい言い方で申し訳ない。でもそうなんだ。理解できない、なぜあんな人が、と思うと同時に、いや、だからこそなんじゃないか、彼はたしかに死の気配をまとった人物だった、とも思った。彼は自分の人生を、生死すらコントロールするほど強い自己を持っていた。僕はそういうところに憧れたのかもしれなかった。 ともかく、葉桜が、僕の唯一とも言える友人の葉桜が、先程その人生に終止符を打ったのだった。死因は落下による頸部骨折、というかまあ全身骨折してるに違いないのだが、警察は僕にそう言った。僕はただ、そうですか、と応えた。彼は先月残っていた最後の飲食店が撤退し、実質的な廃墟となったビルに侵入したらしい。廃ビルは5階建てで、ということは屋上は6階で、飛び降りるのにはやや高度が足りないような気もする。彼がそんな中途半端なことをするだろうか。それとも、やはり未練があったということなのか。 あるいは、彼が自分の意思ではなく、その命を奪われたということも考えられるのではないか。いや、彼は彼の口で、僕に死のうと思っている旨を伝えた。明らかに僕の考えすぎだった。気が立っている。頭が上手く回らない。僕は案外、彼の死を悲しんでいるようである。なにせ身近な人間の死なんて、そう経験したことがないのだ。小5の夏祭りでとってきた金魚は2日と経たないうちに白い綿のようなものを纏うようになり、そこから2日と経たないうちに死んでしまった。病気をもっていたんだろう。それでも当時の僕には、僕が殺したようにしか思えなかった。死んだ金魚の暗い目が、僕を睨んでいるような気がした。母はお墓を作って埋めてくるように言い、僕はその通りにしたが、そこから半年ほどのあいだ、僕はその金魚を埋めたあたりを避けて通るようになった。それが唯一僕の触れ合った生き物の死である。人生経験の少ない僕には相対的に重たい記憶となっていたのか、この出来事は簡単に思い起こされた。 一夜明けて翌朝、僕はアパートの隣、葉桜の部屋が空いていることにまた深い喪失感を覚えた。彼は一浪一留の貧乏学生である僕と違い、そこそこの会社でそこそこの給料をもらっていたはずである。「住居に金をかけるやつは馬鹿だと思うんだ。俺は男の一人暮らしだし、家ですることなんてたいしてないじゃないか。高い家が欲しいだなんて、そりゃ価値基準の狂った馬鹿の考えることだろう」そう彼は言っていた。まったくのミニマリズムである。また彼は恵まれた容姿とある程度の社会的地位で結婚適齢期を迎えながら、妻や子供を欲しがることはなかった。彼に言わせれば、それらは負債にすぎないのだという。彼のミニマリズムは住居に留まらず、人生哲学の域に達していた。 結婚や育児、更には老後など、社会一般で唱えられている人生の必須事項を減らしていけば自ずと幸福のハードルは下がる。それが彼の持論だった。それには僕もおおかた賛成していたが、まさか27で生を終えるとは思わなかった。女遊びはしていた。友人も多いように見えた。まさか彼が実はロックスターだったということもあるまい。何が不満なのか僕には理解できなかった。彼にはそこそこの貯金があったはずで、その気になれば数年のあいだ働かずに暮らすこともできただろう。彼の生活ならそれができる。しかし彼は自死を選んだ。そこにはなにか意味があるように思えたが、きっとたいした意味でもないのだろう、そう頭のどこかでわかっていた。


そういえば、蝉の声がしなくなっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

葉桜と夜桜 芝川愀 @sbkwsyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る