2.落雷
「おはよう」
「はよー」
入学して二週間が経った。ネクタイを締めるのにも慣れ、新しい環境に馴染むのに一杯一杯だった先週と異なり、周りを見渡す余裕が出てくる時分。
教室に入るとクラスの半分くらいの席は埋まっていた。自然な笑顔を心がけながら、みんなにおはようというと、ちらほらと挨拶が返ってくる。
「おはよう、一条さん」
すでに席に着いて、本を読んでいる一条さんにも声をかける。強烈なビンタとともに振られたのが一週間前。あの日から僕たちの関係にこれといった変化はない。お互いに避けるわけでもなく、僕は今まで通りみんなにするのと同じように一条さんに挨拶をするのだった。
「……」
いや、以前と変わらないというのは正確じゃなかった。告白前は目線だけをこちらに向けて小さく挨拶を返してくれていたのが、今では完全な無視になってしまった。まるで路傍の石のように、存在を認識していないみたいだ。やはり、あの告白で一条さんに嫌われてしまったのかもしれない。
少し肩を落としながら、これ以上話しかけても余計にうざがられるだけだろうと、僕も大人しく自分の席に向かった。
「おはよう、シュン」
「うぃーす」
僕の右隣の席に座っているシュンにも同様の挨拶をしながら、席に着く。シュンはスマホを見ながら、気だるげに返事をした。
「てか、一条にも律儀に挨拶するのな。あんなことされたのに」
「あれは僕が悪いし。一条さんとも仲良くなりたいしね」
「シカトされてるけどなw」
目の前の画面に夢中のようで、さっきのやり取りは見ていたようだ。揶揄われるかなと思ったけど、もうそれに興味はないという風にスマホの画面をこちらに見せて「ミッキー、これ見た?」と話題を変えてきた。
画面に映っていたのは最近流行っているSNSのショート動画だった。シュンが再生ボタンを押して、動画が流れ始めると僕はギョッとした。それは教室の隠し撮りだった。けど制服が学ランだったので、すぐにこの高校じゃないことに気づいた。
内容はこうである。授業中に騒いでいる生徒。それを注意する教師。そこまではどこにでもある普通の光景。だが、教師の注意が徐々にヒートアップしていき、やがて生徒の容姿や性格について言及していく。騒いでいた生徒もそれに反論し、反論された教師も熱くなるという無限ループ。それを見ながら笑っている撮影者。
一言で言えばカオスだった。こんな動画が急上昇になっているのか……。その感情を察したシュンは動画横の吹き出しマークをタップし、コメント欄を表示させた。うん、概ね僕と同じ意見だった。
「この教師は自主退職。動画を撮影してたやつは停学処分。ちなみに騒いでたやつは厳重注意だけらしい」
シュンの顔に浮かんでいたのは、いつもの爆笑ではなく冷笑だった。そこには教師と騒いでいた生徒だけでなく、撮影者に対しても蔑みの笑みを浮かべている。
シュンと出会ったばかりの僕なら、教室での隠し撮りなんてシュンこそやってそうだと思っただろう。だけど、罰ゲームで女の子への告白を提案する彼にも、彼なりの美学があるみたいだ。
そうこうしているうちに、教室のほぼ全ての席が埋まっていた。いつもギリギリに登校する高橋くんが小走りで教室に入って来るのが見えた時、シュンはスマホを閉じてポケットにしまった。そのすぐ後に、予鈴が鳴り、これまたいつも時間ピッタリにくる担任の先生が教室の戸を開けた。よく見ているなあ。
結局シュンがなぜその動画を見せてきたのかわからないまま、朝のホームルールが始まった。
「ササキー」
「はぁい」
「シキガミー。…………。っと四季神は休みか。次、タカハシー」
「はい」
レンヤは休みなのか。四季神レンヤはシュンとトウマと並んでよく話す友人だ。クラスが決まってから、ある程度仲がいいメンバーでグループができていく中、僕、レンヤ、シュン、トウマはよく4人でつるんでいた。
ホームルームが終了し、授業が始まる。今日の一限は英語表現か。担任の先生が去り、英語担当の先生が来るまでの束の間の間、シュンはそういえばと自分の席から体だけをこちらに向けた。
「そうそう、さっきの動画に映ってた教師なんだけどさ。雨岸に似てね?」
「言われてみれば……」
雨岸先生は英語表現の教師である。彼女は少し、というか結構、性格が難しい先生なのだ。もちろん先程の動画とは別人なのだが、なんとなく雰囲気が似ている。今からその人の授業が始まるのだが、まあ空気が悪くなってもいつもみたいにレンヤが────。
「って今日レンヤ休みじゃん!」
「それな」
冷や汗をかく僕と、だるそうなシュン。周りを見るとみんな僕たちと同じような顔をしていた。ため息をついている人までいる。トウマなんか最初からサボる気満々で机に突っ伏して眠っている。いつも通りなのは一条さんくらいだ。
そわそわとしていても、レンヤが元気になって登校してくるわけでもなし。僕はあきらめて、鞄から英語の教科書とノートを取り出し、机の上に置いた。
そして、一限開始の本鈴がなるちょうど一分前、ぴしゃりと勢いよく教室の戸が開かれ、件の人物が姿を現した。
年齢は40くらいだろうか。黒髪のショートヘア。釣り目型の銀縁眼鏡の奥からのぞく目も、同じく神経質そうな釣り目。かっちりとしたスーツに身を包み、その服装に見劣りしないキビキビとした所作で教室に足を踏み入れた。これだけを見るとスパルタだけど有能な女教師みたいだ。
教壇に立ち軽く授業の準備をし終えると、教卓に手を置きチャイムが鳴るのを急かすように、指でタンタンと音を刻んだ。
「ハイ、授業を始めるわ」
チャイムが鳴ったと同時に、雨岸先生は高く鋭い声で授業開始を宣言した。先生は黒板の粉受けにある使いかけのチョークを無視して、新品のチョークを教卓の引き出しから取り出すと、カツーンと叩きつけるように黒板に白文字を書いていった。力を込めすぎせいか、チョークの先が砕ける。すると雨岸先生は「チッ」と舌打ちをした後に、今しがた使っていたチョークを粉受けに置き、また新しいチョークを取り出した。
今日は一段と機嫌が悪いなあ。
「じゃあ先週の続きカラ。この日本文の英訳をしなさい。そうね、高橋君」
「は、はい!」
言葉少なに指名された高橋君は、返事をして黒板へ向かい使いかけのチョークを手に取り訳文を書き連ねた。
『私は昨日コーヒーを飲みました。』
『I drank a coffee yesterday.』
やばい。その英文を見た雨岸先生は元々の釣り目をさらに吊り上げた。
「飲み物は不可算名詞だから『a』はつけない!アア!何回言えば分かるのよォ」
海外滞在歴が長い人にありがちな、少しイントネーションが英語訛りの日本語。地声よりさらに高い金切り声をあげて、高橋君をなじった。この指摘をされるのは2回目だった。けど僕は気づいた。高橋君が書き終えた後に小さく「あ」と言って、すぐに黒板消しで訂正しようとしていたことを。その前に雨岸先生に遮られたけど。
「ヒステリーババアすぎw。絶対昨日、彼氏となんかあったって」
シュンが小声で言う。雨岸先生は中国人のパートナーがいるのだが、最近関係がよろしくないらしい。そのストレスを学校で生徒にぶつけているともっぱらの噂だ。でも私情を職場に持ち込むなんて、そんなことあるだろうか。……ないとは言い切れないのが恐ろしいところである。
そう、これがこのクラスの授業における目下最大の問題。
雨岸先生の難しい性格というのは、彼女が重度のモラハラ気質なことであった。
怒鳴られて完全に委縮してしまった高橋君は、「すみません」と言いながらすごすごと帰ってくる。
この後も、雨岸先生の指導という名の懲罰は続いた。
問題を間違った生徒に対し、「よくこの高校に入れたわね」と煽りをいれた。
名前を呼ばれて声が小さかった生徒には、聞こえないと三度名前を呼び、返事をさせた。
居眠りをしていたトウマの机に教科書の角をたたきつけた。
「教科書16ページのQ1~Q3を解きなさい。五分たったら、当てていくからそのつもりでね」
先生の嵐のような”指導”はいったんやみ、僕はやっと一息ついた。
しかし、安心できたのはほんの数十秒だけだった。席の間を縫うようにつかつかと歩いて監視する先生。黙々と問題をといているみんなに対し、頬杖を突きながらペン回しをしていたシュンに目を付けた。
「佐々木くん、もう問題は解き終わったの?」
「うす」
「…………まともに返事ができないのネ。そうね、この問題はあなたに答えてもらいましょう!あと服装がだらしないわ、今すぐ直しなさい!」
「あー、さーせん。明日から気を付けまーす」
「親から謝り方を教わらなかったのね、ホントウに可哀そう!」
どんどんと授業とは関係ないことに発展していく先生の小言と仕置きは、僕にも飛んできた。
「八王子君、その髪は緩くパーマをかけてるデショ。まったく……それくらいだったらバレないと思ったのかしら」
「いや、もともと癖毛なんですよ。今日は湿気が多いんで余計にそう見えちゃうのかもしれないですね」
校則違反を疑われたが、やんわりと否定する。幸い先生は「そう」と言って、それ以上追及してくることはなかった。
クラス全体の雰囲気を反映させるかのように、窓の外は暗く、空は灰色の雲が一面を覆っていた。ぽつぽつと水滴が窓についたと思ったら、やがてザーと堰を切ったように大粒の雨が降り出した。
「一条さん、その長い前髪を切ったらどうかしら。イヤね、みっともない」
「…………」
そして遂には、一条さんにもその矛先が向くのだった。
今までは、どうでもいいとなじられている生徒に目もくれなかった一条さんは、敵を見定めるようにまっすぐ雨岸先生の方を見上げた。
一条さんの横を通る先生を見て、内心一条さんには声を掛けないで!と祈ったのだが、その祈りは届かなかったみたいだ。
一条さんは基本的に授業態度は良好である。普段の雨岸先生であれば、僕にも注意をすることなどなかっただろう。だが今日の先生は手当たり次第だった。そして知らず知らずの内に虎の尾を踏んだのだった。
「先生。お言葉ですが、この高校の校則に前髪の長さに関する規定はありません。それに私の前髪は長いとはいえ目元が隠れるくらいなので、常識に外れるような長さもしていません。私に注意できる部分がないからと、粗を探した結果がそれでしたら、あまりにも稚拙と言わざるを得ないです」
「…………なんですって。それが教師に対する口の利き方なの!前々からあなたのその何でも知ってますみたいな澄ました顔が気に入らないのよ!大体……」
一条さんは目の前に立ちふさがる人間に容赦しない。十人が十人首を立てに振るだろう正論を持ってして、雨岸先生に抗弁した。だが虫の居所が悪い先生にとって、その正論は火に油を注ぐのと同じだった。顔を真っ赤にした先生の金切り声が、至近距離で一条さんに浴びせられる。
「魔女とヒステリックババアの対決w。まあ似たもの同士だしな」
違う。と思った。雨岸先生はただの抑えきれない感情の発露に近いのに対して、一条さんのは自分の進行方向を阻む障害物をどける作業をしている感じだ。自分の道を曲げないために。僕はそこに惹かれたのだから。やっていることはあんまり変わらないけど。
罵詈雑言一歩手前の言葉を一通りまくし立てた先生は、さすがに疲れたのかぜーぜーと肩で息をした。その瞬間を見計らっていたように、相手が話している間黙っていた一条さんが口を開く。
「雨岸先生。私に常識を解く前に、まず自分の行いを省みることを提言します。先生が先ほどから行っているのは教育ではありません。ただの憂さ晴らしです。私生活でどういった鬱憤が溜まっているのか知りませんが、それを仕事の場に持ち込み、まして自分が教え導く対象である生徒に向かってぶつけるなんて言語道断だと思います」
それはまるで勧善懲悪のワンシーンのような一刺しだった。だが一条さんは正義ではなくあくまで"悪"である。その言葉に、クラスメイトを助けることや先生を諫めるといった意図は微塵もない。
そして、正論は万人が正しいと認めるから正論なのである。故に隙がない。先生が返す言葉を考えている間に、一条さんが二の句を継ぐ。
「今まで誰も先生に口答えしなかったのは、決して先生に正当性があったからではありません。生徒と教師という上下関係の都合、しぶしぶ受け入れたのが半分。単純に先生の剣幕が恐ろしかったというのがもう半分でしょうか。このクラスの人たちは優しいのでしょうね。未だに教師の変更を学校に掛け合っていないのですから。私であれば、モラハラを受けたその日に校長室に直訴しに行っていたでしょう。ハラスメントが騒がれる昨今、貴方が今もこの高校で教鞭を振るえるのは、そんな周囲の状況に甘えていられるからに他なりません」
「…………Son of a bitch」
ぐうの音もでないとはこのことだろう。茹蛸のように真っ赤な顔色の先生は、するどい目つきで一条さんを睨むがそこに反論の言葉はなかった。いや小声で何かを言っていたようだが、外の雨の音にかき消されてよく聞こえなかった。
そして彼女は一週間前に僕にしたのと同じように、死体蹴りを開始した。いや言葉で人は死なないから、生体蹴りか。一条さんは「ついでに言いますと」と、黒板の英文を指さした。
「先ほどの『a coffee』ですが、不加算名詞の前に加算名詞が付く場合は『a』が付きます。例えば、一杯のコーヒー『a cup of coffee』。それと同じ意味で『a coffee』は現地の日常会話ではよく使われる表現だと聞きます。ただ間違いを指摘するのではなく、そのあたりも含めて説明してあげた方が親切なのではないでしょうか。仮にも教師として教壇に立つのであれば。目的が生徒への八つ当たりというのであればその限りではないですけど」
一条さんの雨岸先生批評は彼女の授業内容にまで波及した。興味がなさそうにしていても、内容はちゃんと聞いていたようだ。
その意見の目的としては教師としてのプライドを揺するためだったが、不満が蓄積されていたクラスメイトは「そうだそうだ」と同調した。
クラスメイトは30人強、対する先生は一人。完全に四面楚歌だった。周りを見て、自分に味方がいないことに気づいた先生は、俯いて黙り込んだ。
「お、流石に雨岸でも一条には勝てなかったかw。まあ俺は最初から『魔女』が勝つと思ってたけどな。あーなんか賭けときゃよかった」
そう嘯いたシュンの言う通り、傍目からではこの口論の勝敗は決しているように見えた。
静かになった雨岸先生を見て、クラスのみんなはよく言い負かしたという気持ちで一条さんを称え、これで先生も大人しくなるのではないかという希望を持っているようだった。
しかし、僕は全く逆の気持ちだった。それは一つの悪い予感が頭に浮かんだからだ。
日頃のストレス発散に近い嫌がらせは、雨岸先生なりの機嫌の調整方法だったんじゃないだろうか。やり方は決して褒められたものじゃないにしろ、瓶から水があふれないように少しづつ減らしていたのだとしたら。そこには必ず臨界点がある。
臨界点を超えてストレスがあふれた場合、このクラスに落雷が落ちる。最悪、それこそあの動画みたいに誰かが退職や停学になるかもしれない。黙ったままの先生を見て、そんな確信に似た予感が僕の頭を埋め尽くした。
だが誰もそのことに気づけていない。気づいているのは、僕だけだった。一条さんの言う通り、人の顔色を窺うのが癖づいていたからかもしれない。
外から聞こえる雨の音が、このクラスに雷が落ちるまでのカウントダウンのようだった。
誰かが仲裁しないと。気づいている僕が。だがその焦燥感に反して、体は動かなかった。理由は知っている。雨岸先生の矛先が自分に向くのが怖かったのだ。
なおも一条さんの批評はとまらない。先生の状況にまったく気づけていない。真っ赤を通り越して紫色になった雨岸先生の顔。目は瞳孔が開きギラギラと輝いている。そして深く息を吸い込んだ。
落ちる、落雷が。体を固くする。だが次に音を発したのは、開かれた雨岸先生の口からではなく、ガララと開く教室の戸であった。
「すみませーん!遅刻しました!ん?あれ、なんか暗くない?」
ピりついた空間にそぐわないほど明るく通る声が響く。現れたのはこのクラスの太陽。四季神レンヤその人だった。
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