第53話〈医務室での会話〉

「世の大半の人間は、『殺し』を否定する。でも、それが奴らの関節を錆びつかせて、戦闘能力を鈍らせるのだなあ……。錆びついた関節には油をささないとね。やはり、油は不可欠さ。我々人間にとってはね」


 プラチナブロンド短髪の青年が、暇を持て余すかのような独り言を吐いた。場所はソフィー号の医務室。赤い葉を薬品に漬けて成分抽出を試みている綺麗な金髪の少女に向けて、青年は尋ねた。


「医者の孫娘である君は、どう考えるのだね?なぜ人は人を殺してはいけないのか」


「……なぜって、そんなの当たり前じゃないですか」


 少女は青年の方へ振り向いて、ニッコリと笑った。


「『死』なんて、この私が許さないからです。どんなに辛く痛く苦しい症状だったとしても、どんなにキツイ治療だったとしても、途中で死ぬなんて、許せません。『死』は最低です。ましてや『殺す』なんてもってのほかです。そうでしょう?私が絶対させませんから」


 そう言って、少女はまた薬品の成分抽出を続けた。抽出と並行して真っ白い用紙に何やら文字や図を書いてゆき、やがて真っ黒になるまで書き込まれたそれを机の引き出しにしまった。


 少女の名前はシーナ・ドリュートン。ソフィー号の医務室で働く看護婦であり、医者である。現在、侵入者ヘルシング・バザナードと共にこの医務室に立てこもってから数日が経過していた。


 数日前、船の牢を脱走し、追手を退けて医務室に現れたバザナードに対し、シーナはこう尋ねかけた。


「どうしました?どこかお悪いんですか」


「……そうだね。怪我をしているのだ」


 そう言って、バザナードは腕にある火傷のような痕を見せた。手錠を薬品で溶かした時に手にはねて出来た傷痕だ。それを見たシーナは、薬品棚の引き出しを開けて言う。


「治療しますから、そこに座って下さいね」


 シーナに促されたバザナードは、ニヤリと笑って医務室の扉を閉めると、木製の小さな椅子に腰かけた。


「すまないなあ。医者のお嬢さん。……時に、君は、俺の事を知っているのかね」


「……知りませんよ。でも、推測することは出来ます」


 薬品棚に目を向けて、いくつかの薬草を手に取って机に並べながら、シーナは平然と答える。


「数日前、この医務室にあったある薬品が、知らないうちに減っていました。それは金属をも腐食させてしまう劇薬で、人の手についてしまったらほんの少量であっても、深刻なダメージを負ってしまう。それはちょうど、今のあなたの腕にあるような火傷にも似た傷ができるのです」


 しばらく無音の時間が過ぎた。バザナードの傷にシーナが薬を塗って、包帯を巻く。


「どうも理解が出来ないのだが……」


 腕の包帯に視線を向けながら、バザナードがおもむろに口を開く。


「つまり、君は大まかとは言え、俺の正体を察しているわけだ。そしてその推察は当たっている。盗まれた劇薬をつかって拘束を解き、牢から逃れた侵入者。そのような男の傷を、君はなぜ治療している?」


「なぜって、決まってます。それが私のお仕事だから」


「……なるほど」


 バザナードが呆れたように笑った。


「いかれてる。俺には理解が出来ないな。我々は互いに相容れない存在のようだ」


 笑いつつ、懐に手を入れる。取り出したのは、荊と翼装飾の鞘に納まった銀色のナイフであった。抜刀と共に長い刀身が姿を現し、シーナの首元に向けられる。息を呑む彼女にバザナードが腕の包帯を突き付けた。


「この治療の手際を見ればわかる。君は優秀な医者だ。……だからこそ、哀しいかな、君はここで死ななければならない。我々にとって都合の悪いものを生み出してしまったのだから」


 冷たい刃に目を向けて反らし、ゆっくりと、バザナードの顔を見る。その顔は薄ら笑いを浮かべていた。シーナはその表情を睨みつけた。


「いともたやすく、人を傷つけて殺してしまう。……あなたのような人の方が、よっぽどいかれてます」


「当然だ。それが傭兵なのだから。言っただろう、相容れないと」


 シーナはゆっくりと呼吸をし、バザナードの目を見つめていた。その吐息は小さく震えている。やがて、青ざめた唇に笑みを浮かべると、挑発するような口調で、彼女は言った。


「回りくどいのは、辞めにしませんか?……あなたが、私を殺せるわけが無いんですから」


 それは、シーナにとっては命がけの交渉であった。バザナードは片眉を上げ、値踏みするようにシーナの表情を見つめつつ尋ねた。


「どういうことだね?何もおかしなことは無いだろう。自分の胸の内に聞いてみたまえよ。君が何を作ろうとしているのか。そこから推測すれば、俺の行動の意図が読めるはず」


「ええ。あなたは、この船に侵入してきた。それは、この船で運んでいる死裂症の治療薬を盗み出すため。そしてそれを利用して、フォルトレイクで内戦を起こそうとしている。その陰謀を成功させるためには、あなた方が治療薬を独占している必要があった。だから、新たな治療薬を作ろうとしている私が邪魔。そういうわけでしょう?」


「よく分かっているじゃ無いか」


 バザナードは小さく笑った。しかし、シーナはさらに続ける。


「でも、それだけじゃ無いはずです。あなた方の陰謀には、さらに裏がある。……いや、裏が出来たと言うべきでしょうか。……私が新たな治療薬を作ろうとしているという事を知ってから、あなた方の作戦には別のプランが加わったはずです。従来よりも優れたプランが」


 話しながらシーナは注意深くバザナードの顔を観察する。バザナードは何も答えず、顔色一つ変えず、彼女の視線を見つめ返していた。


「……そもそも、あなた方の策は穴が多すぎるんです」


 シーナはチクリと呟いた。


「あなた方のやり方には時間制限があります。もし治療薬の奪取に成功したとしても、国政評議会がクラフトフィリアと結託してまた新たに治療薬を輸入すれば、盗んだ薬の価値は減る。つまりあなた方は、国政評議会が新たに薬を輸入するまでの限られた時間内で、フォルトレイクを二分し、内戦を起こす必要があった。それは、とても難しい事です。しかし、私の作る新型の治療薬があれば、その制限は無くなる」


 バザナードは無言のままシーナの話を聞いていた。


「フォルトレイク国民は、基本的に大国に頼ることを良しとしない。私の開発する新薬であれば、アバシリ草の栽培に成功しさえすればフォルトレイク国内での薬の製造が可能です。もしその製法をあなた方とブラックカイツが握ってしまえば……クラフトフィリアからの輸入に頼る国政評議会と、自国での製造が可能なブラックカイツ。そのどちらを支持するかで国は真っ二つに割れる。あなた方の望みはいともたやすく叶う。だからこそ……だからこそ、あなたは私を殺せないんです。あなたの本当の目的は……私に新薬を完成させて、その製法を奪うこと。……違いますか?」


 そう言って、シーナはバザナードを睨みつけた。バザナードは裂けるように深い笑みを口元に湛え、笑い声を上げた。


「なるほどなあ……素晴らしいね。すごいよ。そんなとこまで見抜いてしまうなんて。心が潤っていく気持ちだ。……隊長の言っていた通り、聡明なお嬢さんだ……」


「……私を殺すなどと言って、こんな刃物で脅しているのも、私の心を支配するためですよね。恐怖で私を縛り、意のままに操るため。製法について嘘をついたり、反抗したりしない従順な傀儡にするための演技です。……でも、私にそんなものは効きません。私の心は、あなたに屈したりはしない」


 首に当てられた刃に手をかけ、そっと自身から離す。バザナードは特に抵抗することなく、メタナイフを退かすと、それをそのまま鞘に納めた。


「参ったねえ……こうもタネが割れていたらやりにくくって仕方が無い。困ったな」


 その言葉とは裏腹に、バザナードは少し楽しそうに笑った。


「だから言ったでしょう。回りくどいのは辞めにしましょうって。私はもとより、抵抗するつもりは無いですから。治療薬はあと少しで完成します。そうしたら、その完成品も、製法も、あなたにお渡しします。それで良いでしょう」


「随分と従順なのだな。逆に怪しく思えてしまうよ」


 探るような訝しげな視線をまじまじと向けるバザナードに対し、シーナは小声で、しかしはっきりとした口調で、答えた。


「私はまだ死にたくないんです。生きていたい。そのためだったら、悔しいですが、治療薬を渡すのも仕方が無いんです。それが弱い私にできる唯一の方法だから。この気持ちが、あなた方傭兵に分かりますか」


「……さあ、どうだろうね」


 バザナードは自嘲するように笑った。


 それから数日、二人はこの医務室を出ることは無かった。窓から差し込む陽の光に目をやりながら、退屈そうに部屋を歩き回るバザナードは、度々シーナに話しかける。


「船の連中、慌てているようだな。まあ、無理もないか。でも彼らはこの部屋の中には入っては来られない。俺が君を人質にしている以上ね。あの変わり者の船長さんであっても、手出しのしようがない」


 その言葉に対し、シーナはメモに書き込む手を止めて背後に視線を向け、バザナードを見た。


「確かに、皆はこの部屋の中に入って来られない。でも、逆もまた然りです。あなたもここから出られない。そうでしょう?完成した治療薬を私から奪った後、あなたはどうやってこの船を出るつもりなんですか?」


「さて、どうしようかね。この窓なんか、人一人ならば通れそうじゃ無いかな」


 バザナードがはぐらかすように笑う。窓を背にして壁にもたれかかり、腕を組んでシーナを見た。


「そんな話はどうでも良い。せっかくだ。君自身のことを聞かせてくれたまえよ。君という人間に俄然興味が湧いているのだ」


「私とより長く会話をして、私の喋り方を分析したいんですか?嘘をついているかどうか分かるように」


 シーナはジトッとした目でバザナードを見ながら、書いていたメモをくしゃくしゃに潰し、木製の小さな屑籠に捨てた。そんな彼女の苛立ったような仕草にバザナードは苦笑いをした。


「それは邪推しすぎだなあ」


「どちらにしろ、私に拒否権は無いんでしょう。私はあなたに脅されているんですから。死にたくなければ言うことを聞くしかない」


「そういうことだね。まあそう気を張る事はないさ。なんてことない世間話じゃあないか。君はなぜ医者になりたいと思ったのだい?」


 シーナは少し思案するように左下の方へ目を向ける。それからまた机の上に紙を広げて筆を動かしながら、ゆっくりと口を開いた。


「私の家族は、みんな医者なんです。お爺様も、お父様も、お母様も。だから、自然な流れと言えばそうなのかもしれません。でもね、昔は嫌いだったんですよ。医者と言う職業がね」


 話しながらも、さらに文章を書いていく。びっしり書き記したそれを、机の引き出しにしまった。バザナードはその様子を観察しながら促すように問うた。


「嫌いだった?なぜ」


「だって、お父様もお母様も医者のお仕事で忙しくて、あまり遊んでくれないんですもの」


 冗談っぽく笑いながら、シーナはメモを続けた。


「もちろん、二人とも私の事を愛してくれていました。なんて言ったって私は可愛い一人娘でしたからね。でも、それ以上に医者の仕事が忙しかった。当時はお父様がお爺様の仕事を継いだばかりで、特に慌ただしかったということもあってね。だから、比較的時間に余裕のあったお爺様が私の相手をしてくれていたんです」


 思い出すように柔らかく微笑むと、書き終えたメモを手に持って確認するように読み返す。それからそれをぐしゃぐしゃに丸めて屑籠へ捨てた。


「お爺様は優しいですし、大好きでした。もちろん今も大好きです。……でも、私はお父様やお母様にも構ってほしかった。二人ともたくさんの人を助ける仕事を一生懸命にしている。そんなことは分かっていました。それでも私は、私のことを一番に見てほしかった。私のことを最優先にしてほしかった。子供って、そういうものでしょ?」


「そうだろうなあ。親に甘えたい年ごろというのはあるものだ。俺にもそんな時期があった、あった」


 バザナードの嘘くさい同意を気にも留めず、シーナは新しい紙と筆を手に取って続けた。


「医者なんて仕事をしているから、私と遊んでくれないんだ。ずっとそう思っていました。だから、医者と言う仕事が嫌いだった。でも、ある時その気持ちが変わる出来事が起こったんです」


 シーナの語る声がトーンを落とした。書き込む手が止まる。少し無言の時間が過ぎてから、また書く手と話す口が動き出した。


「『嫌い』と言う気持ちが『憎い』という気持ちに変わったんです」


「なんだって?」


 バザナードが、小さく驚きの声を上げ、シーナの後ろ姿にジッと目を向けた。彼の目に映ったのは、たくさんの図表が描かれた紙を注意深く確認した直後にそれをクシャッと潰して屑籠へ捨てる彼女の姿であった。


「当時、まだ治療法が確立していなかった死裂症の研究をしていた私の両親は、二人ともその死裂症にかかって死んでしまったのです。お爺様が治療薬を完成させたのは、それからしばらく経ってからのことでした」


「なるほど。それは確かに、医者って仕事を憎みたくもなるかもなあ。それで、お爺さんが敵を取ったという形になるわけだ」


 相槌を打ちながら、バザナードは壁際から離れゆっくりと室内を歩き周る。その足は、木製の屑籠に向いていた。そんな彼の動きには見向きもせずに、シーナはメモを取り続ける。


「医者として、どこの誰かも知らないたくさんの人のために尽くして、その結果、私を置いて死んじゃった。私は、悲しかったし辛かった。見ず知らずの人達のために私を置いて行ってしまうなんて、なんで?……って思った。理解が出来なかった。そんな私を抱きしめて、お爺様は言いました。『ごめんね。もう寂しい思いはさせないから。どんなに忙しくても、私はシーナを一人にしないからね』って。そしてその言葉の通り、お爺様は医者としてのお仕事を全うしながらも、私を放っては置かなかった。私を常に一緒に連れて行ってくれたんです」


 綺麗に書き終えたメモを、一瞥もせずに引き出しへとしまう。それから手を止めて、小さく笑った。


「私はずっとお爺様の傍にいました。お爺様の仕事を手伝いながら、いつも間近で見ていました。そんな生活を続けていくうちに、医者という仕事に対しての思いが変わっていったんです。大切な人と別れる辛さを私はよく知っている。お父様や、お母様や、お爺様の仕事によって、その辛さを味合わずに済んだ人たちがたくさんいるんだってことに気づいたんです」


 クシャッと、紙を丸める音がして、シーナは振り向いた。バザナードが手に持っていた紙くずを屑籠に捨てていた。シーナは、少し口を止めて何か考えた後、バザナードに向かって答えた。


「なぜ医者になりたかったのかってあなたは聞きましたね。正直、もしかしたら私は医者になりたいなんて思ったことは無いのかもしれません。でも私は知っている。私は大切な人を失う悲しさを知っている。そんな悲しみを作り出す『死』が最低なものだって知っている。そして何より、医者の仕事をして人を治していたら、お爺様とずっと一緒にいられるって知っている。寂しい思いをしなくて済むって知っている。そんな自分本位で幼稚な理由です」


「そうか」


 バザナードは、ニヤリと笑った。


「非常に理解のしやすい動機だな。親近感すら湧くよ。俺は常々謎で謎で仕方が無かったのさ、自分の心身を削ってまで他人に尽くす医者って生き物の生態がさ。その答えが少し分かった気がするよ。つまり、他人のために尽くしているわけじゃあないのだ。自分のために動いた結果、偶然他人を救えているだけのこと……」


「私の話だけで、医者全体を知った気にならないでください」


 シーナは不快げに顔を顰めてバザナードを睨んだ。


「だが間違ってはいないだろう?今の君だってそうだ。自分のためだよ。両親の敵討ちなのだ、死裂症の治療薬開発はさ。そしてその、君自身のための行動が、他人を救う。『俺達』と言う名の『他人』をね」


 そう言って、バザナードはニヤリと笑った。


「手が止まっているよ?……完成かい?」


 直後、けたたましい鳴き声と共に、窓から大型の黒い鳥が侵入してきた。シーナは驚いて耳を塞ぐ。黒い鳥は騒がしく鳴き喚いて、バザナードへ何かを伝えている様子であった。


「……どうやら、こちらも迎えがきたらしい」


 そう呟くと、バザナードは懐から取り出したメタナイフを抜刀してその刃先をシーナへ向ける。


「完成、したんだろ?治療薬。そのサンプルと……製法を記したメモ。さっきからずっと書いていた奴さ……それを渡してもらおうか」


 シーナは何も言わず、ただジッとバザナードを見つめていた。薬と製法を渡すのを渋っている様子であった。


「君の手首の一本や二本を斬り落としてから再度尋ねても構わないんだぜ?」


 バザナードの催促に観念したのか、シーナはゆっくりと背後の机の引き出しを開けて中にある紙の束を取り出した。それと共に、棚に置いていたガラス瓶を持ってきて、無言で差し出す。バザナードがそれを掴んで引いたが、シーナは離そうとはしなかった。


「本当に、腕ごと頂いちゃうよ?」


 再度催促する。その声には、微弱ながら焦りのようなものが感じられた。シーナは紙束と瓶を見つめながら、震える声で呟く。


「……分かっています。分かっています。けど、少し待ってください。そして察してください。私の身を裂かれるような気持ちを。あなた言いましたよね。治療薬開発は私にとっての敵討ちだって。その通りですよ」


 俯くシーナの顔から水滴が零れた。塩辛いそれは、製法を記された紙束に落ち、染みていく。


「お爺様の作った薬は、私の親の無念を晴らした。でも、まだ完全では無かった。お爺様の薬ではまだ助けることが出来ない人達がいる。その穴を埋めるのが、私のこの薬なんです。お爺様と私。二人の努力が合わさって初めて、死裂症を克服できる。その結晶を、あなたは今奪い去ろうとしているんです」


「あいにくだが、俺に泣き落としは効かないよ。俺は、心の冷たい殺人者だからね。もし拒むならば、君の命をここで奪って行ったって一向にかまわないのだから」


「分かっています」


 シーナは顔を上げて、潤んだ瞳でバザナードを睨みつけた。


「……私は、死ぬわけにはいきません。お爺様を一人にはできませんから。……あんな寂しい、悲しい思いを、もう二度と、お爺様にさせたくないから」


 そう言って、シーナは両手を離した。研究の成果、死裂症の新薬は、バザナードの手に渡った。バザナードは少し安堵したように笑う。


「賢明だ。せいぜい爺さん孝行することだね。俺はこう見えても嘘を見破るのは得意だから分かる。君の涙に偽りは無いってね」


 製法メモを見つめて言った。それから急かすように鳴く黒鳥に目で合図を送ると、窓に近づいた。外に出ようとするバザナードの背に向けて、シーナが低い声で恨めしそうに呟く。


「レイモンドさんに、どうぞよろしくお伝えください」


「……気づいていたのか」


 バザナードが振り返る。シーナの頬を涙が伝って落ちた。


「まあ、そうか。ヒントが多すぎたね」


 そう言って笑った後、バザナードは窓から外へ飛び降りて行った。シーナが顔を出して下を見ると、そこには小型トカゲ船の足跡と、あとは塩の砂漠が広がっているのみであった。


 部屋に一人残されたシーナは、少し歩いて机の前の椅子に座ると、小さく溜め息をついた。それから目に残った雫を拭った後、誰へともなく舌を出した。


「……じゃあ、薬とその製法は持って行かれてしまったわけか。いや、しかし何にせよ、まずはお前が無事で本当に良かった」


 心から安堵した表情で、ムスタファは笑った。バザナードが去ってから少しして、部屋の鍵を開けた瞬間に真っ先に室内へ入ってきたのが彼であった。その姿を見たシーナは、途端に全身から力が抜けてその場に崩れ落ちてしまった。ずっと張りつめていた緊張の糸が、船長の姿を見た途端に切れたのだ。それからしばらく休んだ後、シーナは船長室に来て、閉じ込められていた時の状況の一部始終をムスタファへ語ったのであった。


 渡された湯をゆっくり飲みながら、シーナは少し悪戯っぽく笑う。


「船長。……あの治療薬の製法は、私にとっては大切なものです」


「ああ、分かってるさ。だから必ず取り戻して……」


「そんな大切なものを、この私が簡単に渡すって、思います?」


 ムスタファは目を見開いて、シーナを見た。


「ブラフか!……だが、よくバレなかったな」


「私のようなか弱い少女の涙に、騙されない人なんていませんからね」


 クスッと笑いながら、シーナは話を続ける。


「医務室にある、小さな木製の屑籠を調べてください。その中に、真の製法を記したメモが、くしゃくしゃになって入っているはずです」


「そうか。おい、誰か医務室行ってこい!」


 ムスタファの指示により、手の空いていた船員が医務室へ走る。まもなく小さな屑籠を手に船長室へと戻って来た。中には丸められた紙くずがぎっしりと入っている。そのうちの一つを手に取ったシーナは、眉をピクリと震わせた。


 慌てて広げたその紙くずには、大きな文字でこう記されていた。





「『ご愁傷様。聡明なお嬢ちゃん』」


 小型のトカゲ船を操り、フォルトレイクの港へ向かいながら、バザナードは一人呟いた。それは、彼が屑籠に残してきたメモの中身であった。


「言っただろう?俺は、嘘を見破るのが得意だってさ」


 誰へともなく言いながら笑うと、バザナードは先ほど受け取った薬の製法を記した紙束を、宙に投げた。それは強く吹いた風に飛ばされて舞い、広大な砂漠に散らばっていった。それからおもむろに懐へ手を入れると、くしゃくしゃに丸められた紙くずを取り出す。広げたそこには、とある薬の作り方が詳細に書き記されていた。

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