第34話〈綺麗な赤色の葉〉

 愚かだって事は分かってる。間違ってるって事も。分かってるけど無理だ。泣き叫ぶあの子の目。僕のことを見た目が、頭から離れない。ここであの子の元へ戻らなかったら、僕はこの先ずっと忘れる事が出来ない気がするんだ。この先どんなに楽しい事があっても、嬉しい事や素晴らしい事、幸せな事があったとしても、今日を思い出して、きっと僕は笑えない。だから、戻らなくちゃいけないんだ。何も出来ないかもしれないけど、あの子の目を見捨てられないんだ。


「……ん。……ヴ君、サヴァイヴ君!」


 背後から、僕を呼ぶ声が聞こえる。振り返ると、包帯ぐるぐる巻きのドリュートン先生が、こちらに向かって走って来ていた。先生は言う。


「私も、行くよ!」


「先生!」


 やがて、泣き声を上げる少年の姿が、僕の目に入ってきた。





「サヴァイヴとドリュートン先生、来ないね……。私達がマクロの町に着いてからもう三日」


 広大な畑で、瑞々しい赤い実を収穫しながら、アリスが呟いた。頭には大きな麦わら帽子を被っている。彼女のすぐ横で雑草を抜いていたエグゼが、苛立ちを露わにしながら答える。


「知らん!放っとけ!どいつもこいつも、馬鹿ばかりだ」


 会話をする二人に、農場主である壮年の男が声をかける。


「おうい、そろそろ朝メシの時間だで。一旦休憩だ!」


「朝メシ」


 アリスの目が輝く。そんな彼女を笑いつつ見ながら、農場主の妻が軽く諫めた。


「アリスちゃん、女の子がそんな言葉遣いしないの」


「……はい。朝ご飯」


 アリスは無表情ながら軽やかな足取りで、機嫌良く農場主の家の中へ入って行った。農場主の家の小さな双子達も、彼女の後に続く。釈然としない表情で立っているエグゼに対し、農場主が声をかけた。


「ほら、エグゼも早よしろ。全部アリスとチビ達に食われちまうぞ」


「ああ……」


 服の袖で汗を拭きつつ、エグゼも向かう。その途中でふと、我に返り、彼は誰へともなく叫んだ。


「……それで、俺達は何をしているんだここで⁉」


 人の家の農場にて住み込みで働いているのだ。


 なぜそのようなことになったのか、それは今から三日前、二人がこのマクロの町に辿り着いた時にまで話は巻き戻る。


「……愚か者ばかりだ!」


 エグゼとアリスがマクロの町に着いたのは、ちょうど日が沈んだ辺りの時間であった。二人は小さな料理屋の席に座って食事を取っていた。


「サヴァイヴとドリュートン先生……追いついて来れるかな」


 野菜のたっぷり入ったシチューを口にしつつ、アリスが呟く。


「……美味しい」


「奴らのことはもう知らん!我々だけで任務を完遂する。ブラックカイツやレイモンド・キャビックの足取りを掴んで、薬を取り返す」


 不機嫌そうに指でテーブルを小刻みに叩きつつ、野菜サンドイッチに乱暴に齧り付いた。


「……美味い」


 エグゼも呟いた。そこへ、声をかけて来る者が一人。


「そうだろう。美味いだろう。ここの店主の腕が良いのももちろんだが、何より食材の質が高いかんな」


 二人の隣の席に座る壮年の男だ。アリスとエグゼは、少し不審げな目を彼に向ける。男は笑った。


「怪しむな、怪しむな!俺の名はモルトだ。ここの料理に使われてる野菜を作っとる者だ。この店で飯を美味そに食う客の声を盗み聞くのが趣味だ」


 そう言って右手を差し出す彼に、二人は握手を返す。エグゼの殺人者センサーには引っかからなかったのだ。


「あんたら、この町のモンじゃ無いな?旅人か?宿は?」


「……決めていないが」


 エグゼは先ほどからずっと訝し気な目でモルトを見ていた。そのような彼の視線にお構いなしと言った感じのモルトはサムズアップをして二人に言う。


「俺ん農場に泊まってけよ!すぐそこだで」


「いや、結構」


 即座に断って代金をテーブルに置き、店を出ようとするエグゼの背に、モルトは呟くように告げる。


「『奴ら』のこと探してんだろう?……アジトの場所を知ってるぜい」


 エグゼは店のドアの前で足を止めた。アリスがモルトの顔をジッと見つめる。


「……『奴ら』とは?」


「『ブラックカイツ』さ。とぼけんなよ。言ったろう、客の会話の盗み聞きが趣味だって」


 モルトは笑って言った。


「お前たちの正体、俺は感づいとるぜい。国政評議会直属の、仮面憲兵と言ったところだろう。憎たらしいブラックカイツの情報を探ってんだな」


 一人で語るモルトから目を離さずに、アリスはエグゼに近づいて囁いた。


「……何か勘違いしているみたい」


「……それは好都合だ。それに何やら連中の情報を持っているらしい」


「どうする?」


 エグゼは、モルトの方へ振り返って、彼に言う。


「どのみち手がかりを探していたのだ。貴様の提案を受けよう。よろしく頼む」


「偉そーだな。だが、そうこなくっちゃよ」


 モルトは笑顔で頷いた。


 そうして彼の農場に泊まり、そのままそこの仕事を手伝って過ごすうちに三日が経過した。


 農場の朝は早い。まだ日も昇らない真っ暗な時間に起こされて、眠い目をこすりながら、アリスとエグゼはモルト一家と共に牛舎に向かう。この農場では複数種類の野菜と、数頭の乳牛を育てている。牛達の寝床の掃除と餌やり、そして朝に町の市場に売りに行くミルクを絞り、野菜を収穫するのだ。


「牛さん、おはよう」


 木製のT字型の棒を持ちつつ、アリスが牛に挨拶をする。そんな彼女を見て、モルトの息子である幼い双子達が笑う。


「牛が挨拶なんか返すかよう。やっぱ姉ちゃん馬鹿だな!」


「馬鹿だな!」


「そんなことない。牛さんは分かってる」


 アリスに見つめられた牛は、ブモーッと鳴いた。


「貴様ら、無駄話をしていないでさっさと仕事をしろ」


 エグゼがバケツを運びながら三人に言う。元来真面目な性格の彼は、目の前の仕事に対して常に一生懸命だ。双子達は口を尖らせながら、両サイドからアリスに抱き着いて文句を言う。


「兄ちゃんこわーい」


「こわーい」


「……だって。エグゼ」


「知るか!」


 エグゼは舌打ちをして、寝床に横たわる牛を起こしに向かった。


 牛の世話、乳しぼり、野菜の収穫や畑の雑草取り。このような早朝の仕事を一通り終える頃には、藍色の空も明るくなって、空気はオレンジ色を帯びていた。モルトの家で朝食を食べながら、エグゼはブツブツとぼやく。


「……俺は、一体何をしているんだ……?」


 食卓にはたっぷりの野菜を一晩かけて煮込んだポトフのような食べ物や、新鮮なサラダとミルクが並ぶ。水分を多く使う煮込み料理も、採れたての野菜も牛乳も、船では滅多に食べることが出来ない貴重なものだ。アリスは幸せそうな表情でそれらを頬張っていた。アリスの事が気に入っているらしい双子は、彼女の表情をからかう。


「姉ちゃん、馬鹿っぽい顔してんな」


「馬鹿な顔!」


「……違う。これは、美味しいって顔」


 そう言って、彼女はニッと双子に笑いかけた。モルトの妻が柔らかく笑う。


「それは嬉しいわ。もっと食べてね」


 その言葉に甘えるように、アリスはさらに料理に手を伸ばす。そんな彼女を見て眉を顰めつつ、エグゼは持っていた匙を空いた皿に置いた。不機嫌そうなエグゼに向けて、モルトの妻は心配そうに声をかける。


「お口に合わなかったかしら」


「いや……違う。料理は、美味しかったです。すごく。しかし、あまり世話になりすぎる訳には、と思って……」


 モルトの妻から目を反らしつつ、しどろもどろにエグゼは言う。そんな様子の彼に向けてモルトは笑いかけながら、肩を叩いた。


「まあ、そう焦るなや。この家からなら、奴らのアジトを監視し放題じゃねーか。お前達、仲間と合流する必要があんだろ?それまで、うちの仕事を手伝っていれば良いでね」


 言いながら、モルトは窓の外を見つめる。彼の農場のすぐ隣には、大きく古い木製の倉庫のような建物が建っている。ブラックカイツのアジトだ。それを忌々しげに見つめながら、モルトは呟く。


「奴ら、戦闘訓練だとかなんだとか言うて、アジトの周りで殴り合いやら斬り合いやらをやってやがんの。うちの畑にまで平然と侵入して踏み荒らして行くんだ。腹立つ連中だで。自分達の正義んためだったら何しても良いと思ってんだ」


 モルトのブラックカイツへ向けての愚痴を聞きつつ、エグゼはアジトを睨みつけていた。


「日に日に、聞こえてくる声も増えているようだな」


「ああ。どーも、国中から奴らの仲間たちが集まって来てるみたいだでね。なーにをやらかそうとしてんのやら」


 そう言って、モルトは野菜の煮込みを口へかき込んだ。


 


 

 私はテイラー。鳥だ。相も変わらずサヴァイヴの肩や頭に留まって、彼らの行動を見守っている。

サヴァイヴと共に来たドリュートン先生が少年の母親の看病を始めてから三日が経過した。正直、ここまでかかるとは思っていなかった。それほどまでに、母親の病状は悪かったのだ。少年には父親がおらず、母親と二人暮らしであるらしい。その家は人里から少し離れた森の中にある一軒家であり、小さな庭には様々な種類の植物が栽培されている。家の中に入る前に、顔を包帯でぐるぐる巻きに覆われた先生は、少年とサヴァイヴに大きめのハンカチのような布を渡して、言う。


「感染の恐れがあるから、二人は出来るだけお母さんの寝ている部屋に入らないように」


 鞄から手袋を出して両手にはめつつ、先生はいつになく真剣な声色で言った。


 先生が部屋に入る際に隙間から見えた母親は、全身が裂傷で覆われ息が荒く苦しげであった。熱はだいぶ高いようで汗ぐっしょりで、意識も朦朧としてろくな会話も出来ない。素人目に見ても、危険な状態であることは明らかだ。


 この三日間、先生はほとんどつきっきりで母親の看病を行っていた。しかしいくら先生が腕のある医者だと言っても、有効な医療道具がほとんどないこの状態では何も出来ないに等しい。現時点で母親の命を繋いでいるのは、彼女自身の生命力に他ならないと、先生は語っていた。


「なんとかならないのかよ⁉ここにある薬を飲ませたら、母ちゃんが治ったりしないの⁉」


 先生の鞄の中にある瓶を取り出して、少年が言う。先生は取り乱す少年の手から薬瓶を取り上げて、冷静に、諭すように彼に話す。


「これらの薬は、治療には使えないんだ。カミフラの果汁に、オシヤマンベ油。どちらも薬草の成分抽出用であって、人体に投与しても意味が無いんだよ」


 もちろん、このような状況でサヴァイヴに出来ることなど何もない。一時、彼は自身の体に持つ呪いを使って少年の母親の死裂症を消し去ることが出来ないかと密かに思案していたが、そもそも発動条件がはっきりと分かっていない。いくら念じてみたり祈ってみたりしてみても、先生を蘇らせた時のような、青い炎のような呪弾を産み出すことは出来なかった。


「本当に……僕は、無力だ……っ」


 サヴァイヴがその身に宿す呪縛。この世のありとあらゆるものを破壊すると言うその呪いを駆使することが出来れば、死裂症の原因ウイルスを破壊することが出来るのかもしれないが、今のサヴァイヴにはその力を使うことが出来ないのだ。


 今のサヴァイヴに出来ることと言えば、それは泣きじゃくる少年の話し相手となって、少しでも彼の気持ちを落ち着かせることぐらいであった。


 三日も経つと、もはや涙も枯れ果てたのか、少年は泣き声を上げなくなっていた。代わりに表情が真っ暗になって、何も言わずに床に座って虚を見つめている。そんな彼の様子を見かねたサヴァイヴは、少しでも気を紛らわせることが出来たら、と考えたらしく、少年を外の森へと連れ出した。


「フォルトレイクは、緑が豊かだよね。特にこの辺りはいろんな花や木が見られる気がする」


 サヴァイヴが、作ったような明るいトーンで少年に話しかける。森を進むサヴァイヴの後ろをゆっくりとついて歩きながら、少年はかすれたような声で答えた。


「……当然だろ。だから、俺も母ちゃんもここに住んでるんだ」


 サヴァイヴは、振り向いて少年の顔を見た。少年はぽつりぽつりと続けた。


「母ちゃん、植物博士なんだ。研究のために、ここに住んでるんだもん。乾燥のせいで世界から植物が減っていっちゃうのを何とかするために頑張ってるんだ」


「そうなの⁉」


 サヴァイヴは驚きの声を上げて、少年に向かって身を乗り出した。


「お母さん、凄い人なんだね」


「そうだよ。母ちゃんはすげえんだ」


 足元に咲く小さな花に視線を向け、しゃがみこんでそれを見つめながら、少年は少し誇らしげに語り続ける。


「こんな、森の中の、なんてことない小さな花の名前だって知ってる。この森の植物の事は、全部知ってる。そんなの、何の役に立つんだよって思っちゃうけどさ。母ちゃんは、言うんだ。『全ての動物は、植物がいないと成り立たない。私達は皆、植物によって生かされているんだよ。だから、全ての植物にありがとうって言いたいんだ』って。この森は、世界でも類を見ないほどにたくさんの種類の植物達が一緒に暮らしてる場所で、普通は人里から離れた山の奥にしか咲かない珍しい花とか、草とか、そういうもんも見ることが出来るって。母ちゃんは……この森が、植物たちが大好きで、尊敬していて……」


 母の事を思い出して語るたびに、少年の声が震えていく。目が潤んで、枯れたと思われた涙が滲み始める。やがて足元の花に大粒の涙を浴びせかけながら、少年は絞り出すような声をあげた。


「植物はさ、俺達を生かすんだろ……?だったら母ちゃんの事も助けてよ……っ。母ちゃんは、君達のことが大好きなんだよ。大切に思ってるんだよ。なあ、分かっているんだろう?なのに、母ちゃんを見捨てるのかよ。なんで……俺の母ちゃんが、何か一つでも、悪い事したのか?してないだろ……?なんで、なんで母ちゃんが……あんなに苦しまなくちゃいけないんだよ……俺達が何をしたってんだよ……!」


 サヴァイヴは慌てて少年の元へ駆けよって、彼の両手に手を置いた。少しでも安心させられるように、落ち着かせるように、語り掛ける。


「大丈夫、大丈夫大丈夫!お母さんは今も生きているんだ。頑張っているんだ。きっと、この森の植物たちが守ってくれてるからだよ。大丈夫。お母さんが愛する植物達と、名医のドリュートン先生が、絶対にお母さんを助けてくれる!だから……」


 そう言いながら、サヴァイヴが自身の右手を少年の肩から離して自身の足に強く爪を立てるのを私は見た。それは、サヴァイヴの心中の悔しさを表しているように見えた。まるで神頼みのような事しか言えない、自分自身の無力さをこれでもかと味わっているのだ。


 風が吹き、森の木々や草花が揺れる。葉と葉が、擦り合う音が鳴って、何か私達に語り掛けているように思えた。それが、友好的なものなのかそうでないのかは、分からない。少年の母親なら理解できるのだろうか。彼ら彼女らの言葉が。


 サヴァイヴも、森の植物達の鳴らす音、語り掛ける声に対して何かを思ったようで、悔しげに歪めた視線を少年から離して足元の草花に向けていた。そして大きく生える草の根元に隠れたある一つの葉を見つけて目を見開く。


 それは、サヴァイヴ自身の瞳の色に似た、真っ赤な葉であった。サヴァイヴは何かに取りつかれたかのようにその綺麗な赤色の葉を見つめていた。そして、一言呟く。


「新鮮な……アバシリの……葉……」

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