天使がおちる夜に

つかさ

第1話

 夢だったのかもしれない。そうでなかったかもしれない。どちらにせよそれはきっと空にぷかぷかと浮かぶ粒子なんかに影響を受けたのだろう。真珠のような一つ一つ艶のある粒が無数にぶつかり合いながらこの地に落ちようとしている。パチパチと弾けば光が生まれる。しかし粒子は運悪く波に呑み込まれ、その音は打ち消されてしまう。空から光をたんと受けた真珠は荒ぶる波の中、ぷかぷかと呑気に浮いている。蟹は丸々とした月を映す水面から姿を表した。白く泡立つ波が蟹の甲羅を容赦なく打ちつける。やっと陸に辿り着いたと思うと、すぐに横歩きで砂浜に足跡を残していく。まるで何処かで糸が絡まり狂ったミシンがそれでも決して進むのを止めないように。








 あくびをする。そして講義室の窓から差し込む優しい光を霞む視界でぼんやりと見つめた。もう一度瞬きをするといつの間にか講義は終わっていたようで皆が帰る支度をしている。どうやら瞬きのつもりが長すぎたようだ。重い体を

起こして教材を片付け始める。

「今日の講義長引きすぎじゃね? バイト遅れるの確定なんだけど」

 ほぼ同じ講義を受講している友人は携帯を見ながらそう不満気に呟いたあとに、自身の長く先になるにつれて青い色が濃くなっている爪をこちらに見せて、これよくない? と共感を求めて

きた。

「いいと思う、いい青色だね」

 そう咄嗟に笑顔で答えると、求めている返事でなかったためかふーんそれでね、とまた別の話題を共有し始める。その話題も笑顔をつくって頷きながらまた少し心がちくりと痛んだ。

どうしてうまくできないのだろう。

 

 友達は多くなかった。うまく相手を気持ち良くするような返答ができないからだというのは重々承知している。流行り物にはめっぽう疎く、好きな音楽は誰も知らないようなコアなバンドの音楽ばかり。今の学生の流行りは韓国の音楽、または愛を謳う大衆受けのバンド。私にはそういう類のものは安っぽく見えた。そこでは愛もLOVEも片手で渡せるほど小さく量産されていた。

 というかまず愛ってなんだろう。


 高校二年生の青春真っ盛りで蝉がうるさく鳴いていたあの夏、私でもいいと言ってくれる同級生の男子がいた。好意をもたれたのも、伝えられたのも初めてだった。付き合いを承諾し、一緒に定番のデートスポットに足を運んだし、

クリスマスも共に過ごした。しかし彼の誠実さ、優しさは私を苦しめた。自分が相手に対して同じ熱量で返せないことが申し訳なかった。それが相手に伝わったのか好きな子ができたと別れを告げられたのがクリスマス前日だ。丁寧にラッピングされたマフラーはお父さんへのプレゼントに早変わりした。皮肉なものだ。数少ない友達は慰めてくれたが、しかし彼がいなくなったことがそこまで悲しくないことが、自分が異常であるかのように思わせた。

 側からみれば普通の高校生活を送ってきたと思われるだろう。


「あんたはほんとにかわいくない」


 何気なく言われた母親の言葉に返す言葉がなかった。暗に愛想をよくしろということなのかもしれないがその言葉で自分を曲げることも嫌だと思ったが、それを言葉に出すのも癪だった。

 そのような出来事だけが理由とは言えないかも知れないが、私をひん曲がった性格になったことに少なからず影響を与えているだろう。


 しかし大学に入り、同じ文学部でそんな私を救い出してくれる存在に出会った。それが恭子だ。私は入学して間も無くなかなか大学に馴染めずにいた。私はそれでもいいと見栄を張って一人で講義を受けていた。そんなある日、声をかけてくれたのが恭子だった。

「ねぇ君、もっとこっちの方が黒板見やすいんじゃない?」

「……わたしですか?」

 入学して早一ヶ月、話しかけられたことがなかった私は驚きで呆然としながら答えた。彼女はふっと微笑んで、当たり前だと言った。そして他に誰がいるのよと付け足した。その微笑みにドギマギしてしまった。綺麗な人だと思っ

た。清楚な綺麗さではなく、自信に溢れた立ち振る舞いも相まってどこか妖艶な独自の美しさがあった。

 

 最初は話しかけられるだけで緊張してうまく喋ることが出来なかった。しかし彼女は私の言葉足らずを一つ一つその言葉がさもとても大事なものかのように紐どいて、自分が想像していた考えをさらに深く、新しい気づきをくれた。


 彼女は私を肯定してくれた。


 加えて運良く、人気の松村教授から学ぶことができ、松村教授が顧問の文学同好会にも入ることが出来た。毎日忙しくもやり甲斐のある、幸せといっても良いくらいの生活だった。恭子は私とは違い、社交的な性格、今時の若者のようなスタイルを兼ね備え、光に当たるとオレンジ色にトーンアップしたその茶髪は彼女の性格にぴったりであった。そんな彼女と仲良くなれたのは何かの縁だろうか。恭子とは気が合い、お互いに読書をしたりする沈黙も怖くなかった。一緒に居ると、自分が少しいいものになれた気がした。


 人気者で容姿端麗な恭子と、冴えなく容姿も凡庸な私。


 そんな性格も容姿も、何もかも真逆な私達を繋いでいたのは文学部という学科のみだった。 

 私達はしょっちゅう確かめるように何度もあなたと出会えて良かったと言って、口づけをした。恭子は頬を蒸気させて少し照れながら微笑み返した。そんな些細な仕草の全てが堪らなく愛しく、彼女といる時間だけは私を甘く溶かしてくれた。


 しかし、それは突然告げられた。

「かんぱーい!」

 華の金曜日の夜のネオン街は昼間とは見違えるほど騒がしい。通り過ぎてゆくどの店からもお馴染みの歓声が聞こえてくる。昼間は己を律して動く黒い人間が、空が黒くなったのを良い事にその中に閉じ込めていた欲を貪り、慰め合

うのだ。そんな民衆を横目で流すと、それと同時に瞳を刺す点滅する蛍光看板に目が眩む。


「大丈夫?」

 恭子が目の前で手を振った。

「こういうキラキラしているところとは無縁で……胃もたれしちゃいそう」

「ははは。胃もたれ? まあ、わからなくもないけど」

 恭子の横顔がネオンに照らされる。その色はピンク、ミドリ、キイロ。派手な色味とその弾む声音とは対照的に彼女の横顔はそこはかとなく沈んで見えた。

「疲れちゃった?」

 覗き込むようにして小さな声で聴くと

「平気よ」

と彼女ははにかんだ。疲れてないわけでは無いようだ。


 昼間の日差しがない分夜風は冷たく、Vネックのニットを着ていた私は露出した首元の肌が少しピリッと痛くなった。息を吐けば生温い水蒸気が少し曇って漂う。もう冬は近いのではないか。


 大学の同好会四年の先輩が出不精の私を心配したのか、最後の打ち上げくらい来いよなと呼ばれて来たが、こういうのは性に合わない。お酒は好きだが下戸なのだ。どちらかというと周りに囃されて飲むよりも自分のペースでゆっく

り時間をかけて自分を甘やかすのが好きだ。しかし慣れない風に当たって、普段とは違うことをする楽しさとか、アルコールが入って理性が数パーセント飛んだこととかで思いの外羽目を外してしまった。

 笑い声の中心にいるのはいつも松村教授だ。相変わらず人気者だなあと思いながらグイッとハイボールを流し込むとお腹の底が心地よい熱を持った。


――誘ったくせに誰も話しかけないなんて。


 積極的に和に入らない自分が悪いのだが、遠巻きにエネルギーの満ち溢れるあの取り巻きを見ていると素直に入れない自分のこの性格が少しばかり嫌になる。


――もっと呑んで割り勘料を高くしてやろうかしら。


 そうして飲めるはずもないハイボールを四杯頼んだ。ちびちびと呑んでいるとざわめきの中に誰かの泣きじゃくる声がすることに気がついた。横目で見ると松村教授は今年卒業する四年生に寂しいよぉと涙を流していた。

 少しギョッとしながら目の前のジョッキに目を移して、グッと熱い塊を喉に通す。


 恭子もかなり飲んでいるんじゃないかと彼女の酒癖を暗に心配した。


――まあ人のことを言えないけど。


 しかしそろそろ引き時なのは確かだ。

「そろそろ私帰ります」

 幹部で人当たりの良さそうな大柄の田沼君に声をひそめながらそう伝えるとだいぶ酔った様子で、気をつけて帰ってねと力なく手を振られる。その田沼君にお辞儀をしてから大体このくらいだろうという割り勘代を机に置いた頃には

だいぶ酔いも冷めてきてこの時間だとバスないなと考えられるくらいには理性を取り戻していた。靴を履き始めた頃に後ろから大声が聞こえる。


「あーーー! 私も帰ろっかな!」


 やれやれと後ろを振り返ると恭子と目が合う。彼女はショートの猫っ毛を軽くかき上げて、くしゃっと顔をくずしてみせた。これだから憎めない。

 恭子が叫ぶと皆が一斉に落胆の声を漏らす。恭子はそれを上手くなだめながらこちらにやってきた。それに合わせて私も店を出る。


あくまで彼女に追いつかせるためにゆっくりと。


 恭子は名残惜しそうに皆に手を振りながら私のすぐ後ろまで来ると両肩を強めに叩き、とても愉快そうに言った。

「飲み直さない?」

「本気で言ってる? これはかなり酔ってるわ」

 肩に体重をかけられ退かそうと考えたが、それで重心を崩されて道中で転ばれたらたまらないため肩にかけられた体重を受け入れ、やんわり拒絶の意を示す。

「まぁなんたってあなたが頼んだハイボールのうち三杯は私が飲んだから」

 鼻が高そうに言う彼女に私はえっと申し訳なさと驚き混じりの声が出た。


「だから少しくらい付き合ってよ」

 

 間髪入れないこの発言に私はぐうの音も出ず、彼女の手を退かしながら二度頷いた。

 その時の彼女の顔をもう少し見ておけばよかったと私は今更ながら後悔しているーーその声音の翳りも、肩にかけられた体重も。


 空を見上げると半月というにはいくらか丸みを帯びた月がはっきりと輪郭を持っている。少し湿気の多いぼやけた空に滲み映った。すると視界の端っこにちらっと何か動くものが見え、視線で追いかけるとコウモリが電線の間を通り

抜けてそのままネオンの隙間へと姿を眩ました。

「手持ちのお金どのくらいある?」

 恭子の言葉でふと我に帰る。彼女はこちらの方を覗き込むようにして聞いた。

 飲み屋に詳しい彼女はきっと私の残金に合わせてお店を見繕ってくれるのかもしれない。はてさて残金はいくらだろうか。

 財布を覗くと、そこには白銅の小判のような数字がトレンドマークの分厚い硬貨がたった一人で鎮座している。

 その硬貨の図々しさと今までバイトをしてこなかった己を改めて恨めしく思う。

しかし大学生の身分でハシゴはなかなかお財布が痛いものである。結局私達はコンビニで缶ビールを買い、近くの小さな公園のベンチで飲み直すことになった。


 日は超えてないものの周りが住宅街ということもあり、あたりは驚くほど閑散としている。

プシュッと缶を開ける音さえよく響く。

 お互い何を言うでもなく無言でビールを喉に流し込んだ。

 居心地の良いような、悪いような、何か言いたいような、言いたくないような。月から差し込む光の膜が微かに揺れるのを感じた。

 

 隣で缶ビール片手に伸びをする恭子。艶のある革でできたサンダルを今にも放りだしそうだ。それを眺めながら缶ビールを一層強く握った。

「変なこと聞いてもいい?」

恭子は伸びの格好のまま空を見つめながら自信なさげに呟いた。

「全然構わないわ」

 物珍しい恭子の態度に少々の不安を感じる。


「この世に変わらないものってあるのかしら」 

 

 想像していた斜め上の抽象的な質問に少し肩の荷が下りたような気がした。

「急に何よ、でも酔った頭で大層な議論ができるとは思わないでよ」

 少しおちゃらけて言うと。

「いいのよ、あなたの意見を聞きたいだけ」

 私は少し考えた。

「そうね、変わらないものって私ん家の包丁の切れ具合とかかな」

 恭子は笑った、目は笑っていなかったが。

「例えば今この一瞬の気持ちを忘れたくないとして、それでもずっと覚えている事って無理じゃない。記憶は当てになるのかしら? 」

「……そんなこと考えたことなかった」


 夜風が吹いて、ちらちら公園の銀杏の葉が落ちる。それをぼんやりと見つめる恭子の横顔を見て、今この瞬間もこの記憶が少しずつ霞んで見えなくなるのならこのまま時が止まればいいのにと思った。


「変わらないことって不幸?」


 私は何も言わなかった。恭子も何も言わなかった。とうに終電は逃していた。そのまま二人とも無言で割と近い私の家まで歩いた。




 その朝、瞳を開くと朝日が優しく差し込んでいた。カーテンの優しい舞踏に心が洗われる。そして目線を上げると愛しい人が先に起きていて、私を見つめていた。

 それを寝ぼけ眼でぼんやり見つめ返すとアパートの隣の部屋からおんぎゃあと勢いよく泣く声が聞こえて来た。

「お隣、赤ちゃんがいるのね」

 恭子が首をこてんと傾げると、無造作に跳ねた茶髪も一緒に揺れた。

「最近引っ越してきたのよ。一度会ったときに奥さんに泣き声のこと謝られたけど別にいくら大きくても気にならないのよね」

 その時のことを思い出しながら今の元気な泣き声を聞いていると、自然と口角が上がってしまう。

「子供、好きなのね」

 恭子は依然私を見つめ続けている。

「うん好きよ、自分の子供ってきっと愛しいのよね。伝わってくるもの。隣の奥さんとか」

 そう言い切るとまた眠気が、霧が立ちこめるように私を覆い始めた。

 再び枕に耳をこすりつけて優雅な二度寝の支度を始めようとすると、彼女は私の頭が置いてある枕を少し控えめに押した。振り向くとすぐそこに彼女の顔はあり、漏らした吐息からはお酒の匂いがした。

「ちょっとお酒くさい」

 布団に再度潜り込みながらそう言うと

「あなたが頼んだ分を忘れたとは言わせないわよ」

 と言って恭子は頭を押さえた。まだ痛むのだろうか。そう言われると私は頭が上がらない。いや恭子は私の残りを呑む前からだいぶ酔っていたかもしれないけれど。


「恭子、ありがとね。愛してる」

 話に終止符を打たせるために、本心でも愛しているのは勿論だが自分に都合の悪い話を今、こんな幸せな朝にしてしまうのは勿体無い。

 しかし軽く言った言葉なのに返事が返ってこない。怒らせてしまっただろうか。焦る一方、言葉を取り消すことをプライドが許さない。

 少し布団の中でもぞっと動き、沈黙を埋めるがあまり効果はない。上目遣いに覗くと、鮮やかな虹彩の中に翳りを含む瞳と交差した。湿りを含む寝起きの瞳がすっと冴える。


 すると彼女は、静かに、抑揚のない、けれどしっかりと確かにこう言ったのだ。


「ねえ、私達のこの関係は何なのかしら」


 私はその見慣れない彼女の真剣な眼差しを受けて、思わず息を呑む。急に胸の中の不安がムクムクと膨らんで支配した。彼女の瞳には不安げな情けない顔をした私がいた。


「私は、あなたを大切だと思っているわ」

 ここでまた、愛していると言ったら負けなような、ある意味恭子が私にこの関係に終止符を打たせようとしているような気がした。だから言えなかった。

「私はあなたが思っているような人ではないわ。あなたはもっと私だけじゃなくて、他の人も見るべきなの。私もそろそろ結婚しないと行き遅れちゃうしね。私とあなたの為でもあるの。あなたなら優しい家庭が築けるわ。だからーー」

彼女はその言葉を易々と口にした。頭を殴られたようにショックでその次に怒りが込み上がり、裏切られたとも思った。私はあなたを愛してはいけないのか、恭子は今までどのような気持ちで愛を交わしていたのか。

もう、沸騰し続ける頭は何にも受け付けない。


「私を、見捨てるのね」


絞り出すようにいった言葉は自分自身もよく分からないまま空中に浮かんだ。その粒子は少し震えている。

 初めて気持ちを深くまで共感できた恭子をどれだけ私が大切に想っているのか、彼女はきっと知らないのだ。だから、そんなことが言えるのだ。


「あなたの駄目なところも、何もかも全て、私は受け入れた上で愛したの。私の気持ちはあなたには届かなかったのね」

 今だって恭子を失うことが怖くてどうにかなってしまいそうだ。

「違うわ、そういうことじゃなくてーー」

「違わないでしょ! 何も違わないの。あなたが私を捨てて、独りにすること以外に、こんなのなんだっていうよ」


 恭子がそんな私を見て、驚いたのか、経緯やら弁解やら忙しく口を動かしているが、ショックで頭がぐわんぐわんとし耳の中で言葉がループする。聞こえるはずのない重低音が鉛のように重くのし掛かる。何か言おうと思っても、恭子の甲高いヒステリックな声が耳の中で雑音と掻き回されてそんな意思は消え失せてしまう。今まではっきりとしていた声の波長の糸が急に自己を持ったように暴れ出して絡まり出し、少しずつその音が抽象的にしか聞こえなくなってきた。耳に徐々に水を流し込まれているような心地だった。刺すように痛いのに、鈍くも感じられる。それは少しずつ、しかし確実に私の耳を覆った。

そして最後の一雫落とすともうそこには何も無かった。死んだように呼吸音も無い。


 私から音が消えた。

 

 その異変に自分自身が気づき、呆然としていると、恭子は何やら私が話を聞いていないと思ったのか、私にくわっと目を見開き、指を指して何かを叫んだ。頬に何か生温かいものがつく。触れてみると明らかにそれは水滴であっ

た。指で擦るとすぐにそれは消えた。彼女は唾を飛ばしてしまうほどに怒ったらしい。彼女の、揺れ動いて、彷徨う瞳は動くたびに溜め込む光を多くした。その度に胸が締め付けられる思いになり、呼吸が浅く、早くなっていた。彼女の光が大きくなる程、私の頭はガンガンと打ちつけられる痛みと締め付けられるような収縮は激しさを増した。しかし彼女の瞳から目を逸らすことは出来なかった。彼女の虹彩はとても綺麗で、一秒でも逸らすなんて勿体無い。

 

 しかし、ついに光が溢れた時、彼女は意思疎通が取れない私を本当に捨てていった。


 それが理解できたとき、私はひたすら泣いた。いや、泣いているだけではない。顔のあらゆる開口部からねっとりとした液体が伝る。柔らかな空気で包まれていた家の中が急にがらんとした。別の場所に飛ばされたのではと疑う程家の中は孤独で埋め尽くされている。非孤独が少なすぎて必然的に孤独が覆うことになったのだろう、僅か一瞬でだ。さっきまで恭子が居たベッドで、さっきまで恭子が居たこの空気を少しでも感じていたかった。恭子のオレンジを思い起こさせる香りを嗅いでいると、いつの間にか瞳から雫がこぼれ落ちて止まらなくなっていた。止まらない雫は頬を伝って黙って布団に染みを作る。

 私の涙は濁っていた。

 涙は一切の光も受け容れなかった。


自分自身の嗚咽も肌を掻きむしる音も、痛みを感じなければ分からない。私はひたすらに困惑し、そして帰らない愛しい人を想って瞳から自分の声を落とし、また掻きむしる痛みから自分の声を感じつづけた。

 しかし本当の私の声はどこか空白になっており、自分がほんとうに声を発しているのかさえ分からなくなっていた。

 私はこの世の何よりも惨めだ。そして醜い。

 しかし、このまま飲まず食わずでは死んでしまうと体はしっかり理解していた。

何か口に入れないと。

立ち上がり、おぼつかない足取りでキッチンへ向かい冷蔵庫を開く。するとほぼ何も入っていなくがらんとした中から冷気の生臭い匂いだけが鼻を刺した。脇の扉のポケット部分を確認すると数日前の缶ビールが一本置かれており、思わず体が固まる。どちらの物かも分からない缶ビール。手に取り、少し振ると気の抜けたよどんだ振動が手の中でこだました。そのまま冷蔵庫に戻す。

そしてやはり外に出て何か食べなくてはならないと数日ぶりに外出することを決意した。

あぁ、無性にあのサンドイッチが食べたい。

 そう思ってしまえば行動は早く、財布を白いトートバッグに放り込むと顔を洗い、乾燥し傷んだ髪の毛を一つくくりにし、グレーのロングワンピースをすっぽりとかぶると数分前とは見違えるほどにはましに見えた気がした。


 意を決して玄関の扉を開ける。外気は思ったよりも冷たくこの数日で随分冷え込んだようだ。体感温度だけではなくすれ違う人々も薄手のニットやブルゾンを着始め、制服の上からパーカーをかぶり着崩す学生も見受けられた。歩くたびに落ち葉を踏むくしゃりとした感覚も余計秋らしさを私に感じさせた。


 私が無性に食べたくなったサンドイッチがある喫茶店は家から道なり住宅街の坂を登った先のこぢんまりした老舗店だ。二日酔いした朝や課題が行き詰まった時など気分転換したいときはよくその店に気が済むまで居座っていた。

 

 重い扉を開けて店内に入ると、ウェイトレスの女性がやってきて何やら笑顔で問いかけた。こうなると思い事前にスマホに

『耳が聞こえません』

 と打った画面を見せるとその女性は勢いよく頭を下げて指を一本指して首をかしげる。それに頷くとこちらへどうぞとキッチンに面したカウンターへと案内された。


 届いたタマゴサンドイッチは卵焼きのような具から湯気がでており、それだけで喉がゴクッと鳴る。実際に食べてみると卵の優しい甘さと薄切りにされたしっとりとした食パンが弱った胃にじんわりと染みたのだった。

 会計を済ませて外に出ると、急に坂の下の方から上に向かって強い風が巻き上げた。グレーのスカートはチューリップの花びらのように勢いよく膨れ上がり、少ししてためらいを見せながらしぼんだ。大きくその風を吸い込むとほの

かに潮の匂いがする。少し辛い海の匂いは私を海に誘うのに十分すぎるほどだ。


 来た道を戻って坂を下りきり、しばらく線路沿いを歩く。海の目の前には三階建ての大きな民宿が立ちはだかっていた。長年海を遮っているためか壁は一面色あせている。そんな民宿を抜け、目の前が開けた。


 視界に夕日が二つ映った。思わずオレンジ色が眩しくて目を細める。海特有の匂いが潮風と共に運ばれる。少し離れたところでウミネコがバタバタと羽を広げてなにやら海を突っついている。


 その様子が面白かったので近くの階段から砂浜に降りて駆け寄る。何を突っついているのか覗こうとした瞬間気配を悟られたのか、その羽を一気に大きく目の前で開くとそのまま少し離れたテトラポットに止まった。


 そのまま目の前に広がる海を見た。波はすぐそこにある。茜色に染められた波は温かそうで思わず指先を波の中にいれてしまった。波は私が掬った瞬間無色透明の濁りのある液体に変化する。ぱっと手を離すと私の冷たい指先だけが

残る。無気力に腕を下ろすと指先からポタポタと雫が落ちた。


 私は急に寂しくなった。波の音のない海はどこまでも自分を飲み込んでしまいそうな底なしの空間のようにも思われた。今は飲み込んでほしいような気もしたが、やはり寂しいし、冷たい温度を思い出してまだ冷えの残る指先から心

の真ん中まで一直線に恐怖が走った。


 二、三歩下がって砂浜に腰を下ろす。先ほどのウミネコのいるテトラポットにもう一匹のウミネコが現れる。お互いの羽をつつき合う姿は人のように仲睦まじい。夫婦だろうか。


 


 私は目を閉じた。記憶の中の彼女を一つ一つ思い起こしていく。

 初めて会ったとき、学食を一人で食べていたらちょっかいを出されたとき

 好きな作家さんの本を読んで目を輝かせているとき、眠たそうに目をこすっているとき

 大喧嘩をして鼻を曲げているとき、笑ったときに八重歯がちらりと覗くときーー

 思い返すとどの季節を巡っても恭子がいない時はなかったように錯覚する。

 どの記憶も結局あなたの笑顔で終わるの。私の記憶は随分と都合がいいのね。

 そう心の中で呟くと閉じていたはずの瞳からぽたぽたと涙が溢れてしまう。

私ってほんと、馬鹿だなぁ。

 涙は拭わなかった。

 目の前に広がる海は相変わらず不自然なくらいに穏やかで、見える水平線の先まですらずっと果てしなく感じる。

 あの晩、恭子は私に問うた。変わらないものはあるのか、そして変わらないことは不幸なのかと。あの時私は何も言えなかったけど、今なら言える気がする。しっかりとした確信を持って。


――もし、あなたが私のことがほんとうに好きじゃなくなっても、新しく誰かと付き合って私との日々も塗り替えられて忘れてしまったとしても。

『あなたと過ごした時間は変えられないの』

 誰に言うでもなく、ただ際限なく広い海を見つめば、自分の存在の小ささに思わず籠もっていた息が漏れ出す。ずっと握りつぶされたように苦しく、他の感情の入り込む隙間の無かった心に夜風が通り抜けていった。


 彼女との日々を美しく昇華することでゆとりを作ろうとする自分。しかし変わらないことを止めてしまったら、私には何が残るのだろうか。


そう考えたときだった。


 霧がかかり始めた数日前の記憶が、湿った空気、お酒と爽やかな香水の匂いが鮮やかに、迫り来る波と共に私を叩いた。


そうだ、恭子は泣いていた。


 海の塩辛い匂いが生ぬるい雫を思い起こさせたのだろうか。恭子の泣いている姿が脳裏に焼き付いたかのようだ。すると身に覚えの無いその続きの記憶がゆっくりと脳を浸していった。

 

 彼女は、瞳に溜めた雫を手で拭い取り、私の目をしっかりと見つめて言う。

『わたしで、ごめん』

 

 突如視界の焦点は海の遙か遠くへと飛び越え、自分の見据える世界と自身の肉体を結ぶ線がピンと張られた。そしてほぼ同時に意識は現実に戻され、やはり目の前には無感情な海だけが緩やかに波を作っている。


 既に日は沈み、辺りは月明かりだけが波を照らし、そして私を照らしていた。紺色の洞々とした空は澄み切った涼しい空気のおかげでぐんと高く見える。

 そんな洗練された静寂は突然打ち切られた砂浜に緩く打ちつけられた波からなにかが勢いよく飛び出した。そしてうまく着地してすぐ砂浜を歩き出す。手のひらよりも小さなそれはオレンジと濃い赤の濃淡が鮮やかな小さな蟹だった。


 蟹は不安定な足取りで砂紋をいくつも渡り、砂浜の中へと歩みを進める。そしてなぜか私の目の前に来たところでピタッと横歩きをやめて、右のはさみを持ち上げてなにもない空中を切った。その瞬間、何かがプツンと切れる音が

し、次の瞬間、うるさいくらいに大きく、波が打ち寄せ、そして泡が生まれ、細かく弾ける音がした。


「あ……」


 声を出してみるとしっかり音が出ていて、その声音からも困惑が伝わる。

その蟹はまた横歩きを始めると湿った砂をひっかくような音を出しながら真珠の粒が打ち上げられる瞬間を見計らって海の中へと静かに帰って行った。

それを見送って、しばらく私は目を閉じて、波の音に、どこか遠くから聞こえる人々の重なる笑い声に、車のタイヤの滑る音に、空高くに吸収されていく生きる音に耳を澄ませた。


 空を見上げると、まんまるで真白の月と視線が交差する。変わっていくこと、背負うべき十字架の重さすら忘れてしまうのか。唇を噛む。しばらくの間、私は目映い光から目を逸らせずにいた。





 小さく波の音が聞こえた。そんな気がした。今日、同じような丸い月が空に浮かんでいるからだろうか。無機質でゴツゴツとしたアスファルトに月は映っていない。そんな当たり前なことを不思議に思い、そして少し思い出した。懐

かしく口角が上がってしまいそうになるのを必死に抑える。


「何ニヤニヤしてんの」


 隣には怪訝そうにこちらを覗き込む娘がいた。頬に手を当てようとして、自身の薬指の光に視界が揺れる。

 それにしても娘は私に似ていない。中学に入り少しトゲついた言葉も出てくるが、しっかりした物言いと芯のある性格は夫に似たのだろう。


「ねぇ、どっち似って言われる?」

 お父さん、と間髪入れずに言う娘に、はははと笑いながら頭を撫でる。


「なんか今日変だよ、お母さん。てか早くしないと書店閉まっちゃうじゃん」

 そう付け足すように言って無慈悲にも走り出す娘を無いに等しい体力で追いかけた。

 書店は十時閉店、今は九時四十五分。店内にはほとんど人は見受けられなかった。レジの若そうな店員が欠伸を小さく漏らしている。

 入り口から少し入ったところでなにやら立ち読みを始めた娘に後ろからおーいと声を掛ける。

 反応はなかった。

 変なとこだけ似ちゃうんだから、とあきれ半分もう一度声を掛けると

「これめっちゃ好きかも、買っちゃだめ?」

 そう本を差し出しながら言っている様子からして彼女には買ってもらう以外の選択肢はないのだろう。

「しょうがないな……」

漫画だったら買ってないよ、としれっとコミックコーナーへ歩みを進める娘に釘を刺す。

そして手渡された本を見て落ちどころのない記憶と感情が溢れ出す。口をぎゅっと結んでこれ以上溢れないようにと思いつつも心臓がうるさい位に拍動しているのを感じる。


「結婚してなかったのね」


 その小説は某大学教授が書いた純愛ラブストーリーと書いてあり、五年前に出版されたというその小説はそこそこの売り上げを伸ばしているようだった。

 思わず表紙に見入っていると、会計なさいますか? とレジの店員がためらいと怪訝を含んだ口調で問い、もうすぐ閉まるのでと付け足すように言った。

「買います」

 振り返って、咄嗟に作った笑顔でそう返した。

「あの……もう一冊頂けますか」

 きっと娘は読み終わったら貸してくれるだろうが、どうしても自分のための一冊が欲しかった。

「お好きなんですか? 松村恭子」

 ドキリとした質問に一瞬固まる。少し伏し目に会計をする店員の手元を見ながら言う。

「読んだことはないのですが……」

 題名に惹かれてしまってと弱々しく呟く。聞こえているかどうかも怪しい。

「分かります! 僕前に読んだんですけど内容もとてもいいですよ」

 先ほどとは打って変わって目を輝かせながら話す青年に思わず笑みがこぼれる。

 自分のことのように賛辞を噛み締めた。充分すぎる熱量が渦巻く胸がさらに締め付けられる。

 あなたの祈りが大勢の琴線に触れて評価されたように、きっと私も同じように心を掴まれてしまうんでしょうね。

 そんなことを考えながらいると、思わず題名が口からなぞられた。

 とても自然に。

 しっくりとくる輪郭を持って。



『天使がおちる夜に』


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