第3話 気が遠くなる程
俺の要望は、案外あっさりと通った。だが——、
「失礼致します」
こうして、服を着たヒキガエル、妖を家に招き入れる結果となってしまった。
ヒキガエルは、一人暮らしに丁度良いと思っていた六畳一間の部屋を狭そうにかつ慎重に屈みながら移動している。
居間へ入ってから困ったように突っ立っているヒキガエルに来客用に置いてある座布団を勧めると、彼は礼を述べそこに腰を下ろした。
その時のドスンという音で下の階から苦情がこないかと肝を冷やした。
台所で冷えた麦茶を三人分用意し、俺はヒキガエルの対面、もちきちは俺達の中間に当たる机の上に腰を下ろした。
「……どうぞ、粗茶ですが」
自分が口にした台詞に違和感を覚え、むず痒くなる。
「これはご丁寧に」
ヒキガエルは、穏やかな笑みを浮かべ、麦茶をズズっと啜った。そして、「美味い」とだけ言った。
その一言でほっとし、ようやく本題に移ることにした。
この間、もちきちはヒキガエルと俺とを交互に見ていた。
「俺は、
「申し遅れました。私、皆からはヤガククと呼ばれております。普段は、ここより少し離れた所にある社で暮らしております」
「社持ち?!」
思わず声を上げてしまう。
「どうりで」
対するもちきちは、ごく当たり前のように麦茶に口をつけた。
だが、これでヤガクク様が現れると同時に降り始めた雨や彼の身なりに納得がいった。
次の瞬間、ヤガクク様に膝をつかせた時やため口をきいた時の映像が脳裏を過る。
そして、平身低頭して謝罪した。
「申し訳ありません。まさか神様だったとは露知らず」
「いやいや、神と言っても末席。元はただのカエルの妖ですよ」
妖から神様になるのも、それはそれで恐ろしい。
「それでヤガクク殿、頼みとかなんとか言っておりましたが?」
「ああ、ええと……そのことなんですけど。……俺、頼みとかそういうのは……」
祟られたらどうしよう、と思うと自然と視線が下がっていく。
恐る恐る結露がついたコップから視線をヤガクク様へ上げると、彼は分かりやすく肩を落として落ち込んでいた。
しばらくしてヤガクク様は、一度ズズっと麦茶を啜った後、カッと目を見開いた。余りの迫力に思わず驚き体を跳ねさせてしまった。
「ならば、どうか昔話だけでも聞いてくださいませんか?」
「そ、それくらいなら……」
ヤガクク様がなんだか不憫に思えて了承すると、彼はおもむろに語り始めた。
「あれは、遠い、とても遠い昔のことでした」
***
退屈だ。非常に退屈だ。
尻から伝わる石の固さと冷たさが少し不快だ。だが、姿勢を正そうとは思わない。
「おい、そこの低級。おい」
頭上からそう声が掛けられた。
声の主は、視界の中央に立つこの地味な色の着物の主だろう。その者が現れると同時に強烈な獣臭が鼻を刺した。
しかし、私は返答しない。焦点を動かさず、ただぼーっとし続けた。
数秒か数分か。しばらくしてチッと大きな舌打ちが聞こえたかと思うと、獣臭の主は視界の端へと消えていった。
「だから言っただろう?奴はいつもああなのだ」
「まったく、気味が悪い」
気味が悪いのならば、声を掛けなければいい。そんな簡単な言葉も口から出ない。
数日か数十日か、その日も普段と同じ。ただ一点を見つめ続ける。
「あ、雨」
「走るぞ」
私が居座る大木の前を人間達が走り去って行く。しばらくして、サアサアという音が聞こえ始め、そこで初めて雨が降り始めたことに気づいた。
だが、雨だからと言って特別何かをする訳ではない。
私の前を行き交う人々や妖達。それらに混じって何者かが一人、木陰に入って来た。
「雨が止むまで御一緒しても宜しいですか?」
鈴の音を思わせる澄んだ声に思わずそちらへ視線を向ける。そこに居たのは、髪から水が滴り落ちるとても美しい女性だった。そして、彼女から発される力はとても大きい。
身を包んでいるその髪とは対称的な白い着物からも彼女が高貴な存在だと見て取れた。
思わず息を飲んだのは、彼女の美しさの為か、大きすぎる力の為か分からない。
白い肌に張り付く長い髪を手櫛で整えていた女性は、突然ふっと笑う。
「ふふっ」
「ッ?!……な、何か?」
「いえ、そんなに見つめられると照れますわ」
コロコロと笑う女性を見て、私の顔は熱を帯びた。
それから彼女と多くのことを話した。それはもう沢山。だが、そんな一つ一つも全て覚えていられる程、私はこの時間に幸せを感じていた。
彼女と話していると、通り雨があっという間に感じられた。
——ああ、何故止んでしまっただろう。
雨が止み、良い天気になったにも関わらず、私の胸の内は、寂しさで埋め尽くされている。
「また、雨が降ればここに来て下さいますか?」
私のような低級が何を言っているのだと思った。だが、無意識にそう零してしまったのだ。
彼女は少し考えた後、柔らかく微笑み、意外にも私の提案に了承する。
「ええ、雨が降ったらまた。とても楽しかったです。さようなら、小さなカエルさん」
それからも女性は、約束通り雨が降ると木陰にやって来て私と他愛のない話をした。
***
例年は、憂鬱にしかならない梅雨に、私は期待で胸を高鳴らせていた。
しかし、期待を裏切るかのようにその年は空梅雨だった。
来る日も来る日も雨は降らず、彼女は来ない。
そして、遂に我慢がきかなくなった私は、彼女に会いに行こうと思った。それまで離れなかった石から尻を離し、木陰から外に出た。
太陽光が肌を刺す感覚、白一色の後に広がった視界一つ一つが新鮮だった。
何度も見た彼女の後ろ姿の幻を追うように道を歩き、やがて辿り着いたのは山だった。
人間の出入りがあるのか、山へ入る道がありそこから山へと踏み入る。
山の奥へ進む程、辺りは薄暗くなり、妖達も多くなっていく。皆、余所者である私を遠巻きから観察していた。
しばらくすると、道が終わり獣道になる。そして、更に歩き続けると、山の奥からシャランという上品な音が聞こえた。
何事かと思い固まっていると、突然袖を強く引かれ、茂みの中へ引き込まれてしまった。
「何をする?!」
私の袖を引いた何者かへ抗議と共に視線を向けた。そこには数人の妖がおり、私を茂みへ引き込んだのは、その中の大きな坊主頭の妖だった。
「馬鹿者!貴様こそ祟られてしまうぞ!」
大坊主が強く言うと、周囲に居た妖達もうんうんと同意した。
「どういう意味だ?」
「今からあの道をメグルキ様の一行が通るのだ」
「メグルキ、様?」
「メグルキ様を知らぬのか?」
「あの方は、この山の主。山に恵み与えてくださる女神様だ」
「それはそれは美しい方だ」
私がメグルキ様という妖について尋ねると、妖達は端々から彼女について語った。
妖達とやり取りしていると、次第にシャランという音がどんどん近づいて来る。
「ほおら、来られたぞ」
「カエル、貴様運が良いな」
大坊主に促され茂みから覗くと、私が先程まで立っていた場所を美しく着飾った一団が通る所だった。
その一団の中央で神輿が担がれており、その中に座していたのは——彼女だった。
化粧をしているのか普段に増して美しい。そんな彼女に私は、声を掛けれる訳もなく、妖達に倣い頭を垂れることしか出来なかった。
「……」
「余りの美しさに言葉も出ぬだろう」
どこか自慢げに語る大坊主の言葉がどこか遠くから聞こえてくるようだった。
まさか、神様だったとは思わなかった。いいや、気づいてないフリをしていたのだ。
暗く狭くなっていく視界の端に映る私の着物のなんとみすぼらしいことか。
今の私では、彼女を、メグルキ様を想う権利すらない。
ああ、なんて残酷なことだろう。
あの木陰から外へ出なければ良かったのだ。
そして、私は——、
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