ヤガクク様からの依頼

第2話 服着たヒキガエル

 大学入学を機に、俺は四国の田舎から四国の他県の田舎へと引っ越した。一人暮らしは、まだ慣れない。


 そして、今日は大学で最初の講義。確か、生理学Ⅰだったか。


「吉郎様、早く早く!!」


 耳元で男の裏声のような腹立つ声が、俺を更に焦らせる。


「うるさい!これでも全速力だ!」


 いくら大学と下宿先が近いからといって講義開始十分前に家を出るのは、攻めすぎた。酷く後悔するが、もう遅い。


「何故寝坊したのにトイレ掃除などするのですか?!」


「やらないと一日落ち着かないんだよ!」


 だから、高熱があろうが寝坊しようがやる。

 いくら文句を言われようとも性分というやつなのだから仕方ない。自分でも悪癖だと自覚している。


 袈裟を着た白い小鳥の姿の妖もちきちは、「まったく」とため息を吐くと俺の肩から飛び降りる。


「こんな時に何やって——」


 俺が、もちきちへの小言を最後まで言い切ることはなかった。

 文字に起こすならドロンッという音が聞こえた瞬間、巨大な白い猛禽が、鋭利な爪を持つ足で俺の肩を掴んでいた。そして、その後大きな羽音と共に俺は宙へ浮く。


「おい、何やってんだ?!」


「暴れたら落っこちますよ。これなら一瞬です」


 低く威厳ある声でもちきちに諭され、俺はじっとする。

 こうなっている原因は、俺にある。俺は、大人しくもちきちに運ばれることにする。


「……せめて、人がいない所で降ろしてくれよ」


 もちきちは、俺の要求を聞いてくれ、大学校舎の裏手、人気がない所に降ろしてくれた。

 元の餅のような小鳥に戻ったもちきちを再び肩へ乗せ、俺は早速教室へと向かった。



***


 講義に間に合ったはいいが、広い教室は既に生徒で溢れかえっており、空席は前一列にしか残っていなかった。

 込み上げる吐き気を抑え込み、極力他の生徒と目が合わないように下を見つつ、隅の方の席に着いた。

 そこで一つため息を吐く。


「間に合ってよかったですね」


「ああ、助かった」


 リュックから教科書やノートなどを取り出しながらもちきちとヒソヒソ小声で話していると、ギチギチという音が、俺に近い方の教室入り口から微かに聞こえてきた。

 これは、ゴムタイヤと床との間で生じる独特な音だ。車椅子か。


 そんなことを一人考えている間にその音は、俺に接近していた。

 心做しか、先程までザワザワとしていた教室内が静かになった気もする。


「隣座ってもいいか?」


 突然、頭上から掛けられた声に、俺はビクリと跳ねた。

 顔を上げると、車椅子に腰掛けたうねった栗色の髪の女性が、こちらを見ていた。歳は、俺と同じだろう。目が合うと彼女は、「構いませんか?」と申し訳なさそうに俺へ笑いかけた。


「あ、えっと」


 困って更に視線を上げると、女性の背後に俺や彼女と同年代のアッシュグレーに染めた長髪を一つに纏めた男性が立っていた。彼が、車椅子を押して来たらしい。


 それにしても、二人共眩しいと感じる程美しい顔立ちをしている。なるほど、皆が静かになる訳だ、と一人納得する。


「オホンッ」


 わざとらしい咳払いが、肩から聞こえてきて、俺の硬直が解けた。


「あ、ああ、どうぞ」


「おお、ありがとう」


 男性は、俺の右側の一つ挟んだ隣の椅子を除け、女性と車椅子をその椅子があった場所へと移動させた。その後、彼自身は俺の隣の席に着席した。


 数分後に始まった講義は、初めてということもあり、これから学ぶ内容を大まかに説明するという簡単な物で、思わず数回右隣へとよそ見をしてしまった。


 そして、件の男性は、終始俺と言うよりかは特に肩、もちきちが乗っている辺りを凝視していた。また、その奥の女性は、真面目にふむふむ言いながらノートを取っていた。


「なあ、あんた。この後暇?」


 男性は、講義が終わり、講師が出ていった途端そう声を掛けてきた。


 かくいう俺は——、


「え、なんで?」


 突然声を掛けられたことに戸惑い、無愛想な返事をしてしまった。

 やった後に後悔する。ただでさえ不機嫌に見られやすい顔だというのに。

 しかし、彼らは変わらぬ様子で口を開く。


「あー、いや昼飯でもどうかなって。せっかくできた縁だし」


「そうですね、是非」


 ああ、なんて良い人達なのだろう、と感動を覚えた。しかし——、


「すみません。この後、用事があるので」


 女性が、不思議そうに自身の背後へ視線を向けたことで、無意識にそこを見ていたことに気がついた。

 おかしな所を見ていたことや誘いを断ったことに気まずさを覚え、俺はリュックを抱きかかえ席から立った。


「そうか……。じゃ、また今度」


「またお誘いします」


 彼らを不快にさせていないことを祈りつつ、俺は教室を後にした。


「良かったのですか?」


 それまで黙っていたもちきちが口を開いたのは、大学の校舎を出てからしばらく経ってからだ。周囲に人が居なくなるのタイミングを見計らっていたらしい。


「何がだ?」


「誘いを断ったことです」


「……あぁ」


 良くはない。ただ、俺にも事情がある。


「でも、の傍に長時間は……」


「……アレですか。それもそうですな」


 アレとは、女性に恐らく憑いていた獣妖らしきもののことだ。

 らしき、と言うのは、俺にアレの全貌が視えなかったからだ。

 視えたのは、その紺色で巨大な尻尾だけだ。ただ——、


「アレには極力関わりたくない」


「まあ、かなり大物ではありますね」


 もちきちの一言で余計関わりたくなくなった。せっかく友人ができる絶好の機会だったのに。


 重い足取りで家を目指していると、俺の心境のように雨まで降り始めた。


「あー、傘持ってないよ」


「おや、唐突ですな。……この雨——」


「もし、そこの人」


 もちきちが、何か言おうとしていた所で左側から声が掛けられた。

 今日は、よく声を掛けられる日だな、なんて考えて左側を向き、そこで気がつく。俺が歩いているのは、人二人がギリギリ通れる幅しかない歩道。その左側には、少し幅が広い川が流れていたはずだ。


 つまり、左から声を掛けられいるこの現状は、おかしい。


「やはり私が視えているようだ。これは珍しい。それに力も強そうだ」


 視線の先には、記憶通り少し幅が広い川が流れていて、水面下で怪しく輝く二つの光が俺を見据えていた。


 何故、普段掛けているサングラスを今日に限って、なんて後悔する。

 ああ、寝坊したからだった。


 逃げる暇もなく、川から飛び出してきたソイツは、それはそれは大きかった。

 体長二メートル程で恰幅の良い、若草色の狩衣に身を包んだヒキガエルが、俺を見下ろした。


「これはまた大物ですなぁ……」


「どうか、私の頼みを聞いて頂きたい」


 ヒキガエルの妖が、膝を着くと同時に雨の勢いが増した。


「と、とりあえず、家に帰っていい?」


 俺は、水が滴る前髪をかき上げ、早く帰りたい旨を伝えるので精一杯だった。

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