第11話  悲壮な決意


 日が、昇りはじめようとしていた。

 ミーナは一睡もせず、ただ、夜が明けるのを待っていた。

 セイは夜中の間、表の様子を確かめたり、怪我をした腕の状態を確かめたりしていたが、やはり疲労がたまっていたのだろう。

 気がつくと、刀を抱えたまま壁に寄りかかるようにして、静かな寝息を立てていた。

 外の明かりが壁の隙間から差しこみはじめた頃、ミーナは音もたてず立ち上がった。

 その手には、セイに宛てた短い手紙があった。

 これを読めば、セイはきっと理解してくれるだろう。

 ミーナの心は、すでに決まっていた。

 ミーナは、浅い眠りの中にいるセイをそっと見た。

「……セイ様。私は行きます。これ以上罪のない民が犠牲になるのを見ていることはできません。私は、きっと殺されるでしょう。ですが私が城に行けば、少しの間だけ彼らの注意を引くことができます。あなたはどうか、その間にこの街を抜け出してください」

 ミーナは、自分が足手まといになるのを分かっていた。

 そしてセイ一人ならば、生き残れる可能性があることも。

 足が、震えていた。

 心に決めたはずなのに、これから起こることへの恐怖をなかなか拭いさることができなかった。

 ミーナは、そっと目を閉じた。

「……私はヴィルヘルミナ。誇り高きベルメールの娘。エリアス兄さま、どうか臆病な私に、ほんの少しだけの勇気を……」

 ミーナは、しばらく呟き続ける。

 そして目を開けたとき、体の震えは止まっていた。

 ミーナは床に手紙を置くと、最後にセイの姿をひと目だけ見て、そのまま廃屋を出て行った。

 後ろはもう、振り返らなかった。



 朝方、失踪していたはずのミーナが突然城門の前に現れたことで、周囲は騒然となった。

 憂鬱な朝を過ごしていたクルスも、当然その対応に追われることとなった。

 ミーナは両手を縛られ、城の広間に連れていかれた。

 逃げられないよう周りを兵士たちが取り囲み、そして目の前にはクルスがいた。

「……ヴィルヘルミナ。よくここへ戻ってくる気になれたものだな」

 クルスの声は、怒りから震えていた。

「貴様の軽はずみな行動が、エリアスや民を殺したんだ。それをわかっているのか」

 ミーナは、何もいわなかった。

 ただうつむくことはせず、正面からクルスを見ていた。

 突然、クルスの平手がミーナの頬を打った。小柄なミーナはそれだけで倒れてしまう。

「何かいったらどうなんだ!」

 クルスが怒鳴った。広間中に響きわたる声だった。

「――わかっております」

 ミーナは、ゆっくりと立ち上がった。

 その口もとにはわずかに血がにじんでいた。

「だから、帰ってきました」

「なんだと……」

 ミーナは、殺されるために来たのだ。

 自分のせいで大勢が死んだ。

 その罪を償うには、こうするしかないと思っていた。

「……私は、罪深い女です。私が殺されるのは当然と思っております。ですが、民に罪はありません。彼らに被害をもたらすのは、どうかおやめください」

 それだけは、言わないといけなかった。民への犠牲だけは、何としても止めなくてはならなかった。

「貴様……俺が好き好んでやっているとでも思っているのか」

 だがミーナのその言葉は、クルスを更に激昂させた。

 再び平手が飛ぶ。

「俺は、貴様の何百倍も苦しんでいるんだぞ。貴様があのイストリム人を連れてきたからだ。貴様がエリアスを巻き込んだからだ。貴様が奴を連れて逃げたからだ。全部貴様のせいだろうが。それをよくもぬけぬけと、そんなことが言えたものだな!」

 クルスは倒れこんだミーナの胸倉をつかむと、何度も叩いた。

 周囲にいた兵士たちは、誰もクルスを止めなかった。

 誰もがクルスが正しいと思っていた。

「貴様に俺と同じ血が流れているかと思うと反吐がでる。今すぐ殺してやりたいくらいだが――それは俺の仕事じゃない」

 クルスの憎しみは相当なものだった。

 クルスに少しでも慈愛の心があれば、この場でミーナを殺してやっていただろう。

 だがクルスはそれをしなかった。

 クルスは、ミーナをあの男に渡すと決めていた。

 ――モーゼズ。

 ギイイと重苦しい音を立てて、広間の扉が開かれた。

 冷たい空気と共に、コツコツと足音が聞こえてきた。

「……私のことを、お呼びでしょうか」

 ねばりつくような声。

 見るも醜悪な容貌。

 鬼畜と呼ぶにふさわしい外道なる男。

 モーゼズが、広間に現れた。

「これはこれは……懐かしいお顔がありますね」

 モーゼズはミーナを見て、嗤った。



 モーゼズは、ゆっくりとミーナに歩み寄る。

「お久しぶりでございます、ヴィルヘルミナ様。私のことは、覚えておいででしょうか。お父上のときに何度かお会いしているのですが」

「ええ……覚えております」

 ミーナはようやくクルスから解放され、立ち上がった。

 モーゼズのことを、忘れたことはない。

 この男の存在も、この男がしたことも、全部覚えている。

「うれしいですねえ。しばらく見ないうちに、あなたもずいぶんと成長されたようだ。だんだんと母親に似てきている」

 モーゼズは張り付いたような笑顔のまま、上から下までミーナを見た。

 嫌な視線だ。

 ミーナは、それをはねのけるようにいった。

「エリアス兄さまを殺したのはあなたですね。そしてお母さまのことも」

「存じませんねえ。エリアス殿のことは尋問しましたが、手をかけてはおりません。彼が勝手に自殺したのです。母親の方は……はて、何のことでしょうか。ああでも、地下にいた汚い豚を一匹解体しました。もしかすると、それだったのでしょうか」

 モーゼズは嘲笑を浮かべていた。

 ……この男、わかっていっている。

 ミーナは、唇を強く噛みしめた。

 許せなかった。

 だがミーナでは、どうすることもできなかった。

「私からも質問ですが、ここにはお一人で来られたのでしょうか。私が探しているのはあなたではなく、一緒にいたイストリム人なのですが」

「彼は、ここにはいません。私ひとりで来ました」

「ほう、では彼は今どこに」

「それはいえません」

 ミーナは、はっきりといった。

 周囲がざわめく。クルスの顔が怒りから赤くなったが、モーゼズの手前、何もいわなかった。

「……なるほど、そういうことですか」

 モーゼズは小さくうなずくと、ミーナの顔を覗きこむように見た。

「……あなた、もしかして私のことを舐めておりますか」

 ぞっとするほどに低い声。

 モーゼズのまとう空気が変わっていた。

 その隠しきれない暴力性が、表に滲み出てくる。

「あなたをみんなの見ている前で凌辱することだってできるのですよ。あなたの尊厳を踏みにじり、女に生まれたことを後悔させることだってできるのですよ。あなたはそれを分かっていっているのですか」

 無論、それは脅しではない。

 ミーナとて、それはわかっていた。

 それでもミーナの覚悟は決まっていた。

(エリアス兄さま……どうか私に力を……)

 ミーナは心の中で呟き、そして毅然と言い放った。

「好きになさってください。何をしたところで、私は彼のことをしゃべりません」

 それは、エリアスがモーゼズにいった言葉と同じだった。

 モーゼズの顔が険しくなる。

「……あの男の真似をしているつもりですか。いいでしょう、それなら――」

 モーゼズの手が、ミーナの頬に触れた。

 その瞬間、ミーナの頬がざっくりと切れた。

 赤い血がボタボタと流れ落ちる。

 それでもミーナは微動だにしなかった。

「……気に入らない目をしていますね。覚悟はできているとでも言いたいのですか。やれやれ、私もずいぶんと舐められたものだ。いいでしょう。そんなに苦しみたいのなら、愚かな兄と同様、地獄を見せてあげますよ」

 モーゼズが、いよいよ本気になろうとしていた。

 直視に耐えない残虐なショーがはじまる。

 エリアスのように自殺できると思ったら大間違いだ。あのようなことは二度とモーゼズがさせない。

 気が狂うまで壊してやる。生きたまま腹を裂き、内臓をぐちゃぐちゃにかき回してやる。

 異常なまでの嗜虐心。

 モーゼズは自身を昂らせていく。

 その時――だった。

 ドタドタと慌ただしい音を立て、兵士が広間に飛び込んできた。

「報告します。大勢の民が城門に押し寄せてきております!」

「民が? なぜだ」

 クルスが聞いた。

「その……ヴィルヘルミナ様が城に戻ってきたことを聞きつけ、集まっているようです」

「え――」

 ここにきて、ミーナにとって予想外のことが起こっていた。

 ミーナは、すべてを捨てたつもりでここに来ていた。

 この命も、その尊厳すらも。

 だがこの時、ミーナの中にほんのわずかな希望が生まれてしまった。

 民が、助けにきてくれたと思ってしまったのだ。

 ミーナは、民を愛していた。

 城に戻ってきたのも、これ以上民が犠牲になるのを防ぐためだった。

 だが――この世とは、どこまでも残酷なものだ。

 民は、ミーナを救うために集まったのではなかった。

 彼らは、ミーナのことを愛してなんていなかったのだ。



 ミーナは両手を縛られたまま、城壁の上へと連れだされた。

 決して大きくはないベルク城だが、かつては多くの戦乱をくぐり抜けてきたこともあり、その城壁は見上げるほどに高いものだった。

 眼下の広場には、百名を超える民たちが集まっていた。

 ミーナはそこで、民たちの望みを知った。

「ヴィルヘルミナを殺せ!」

「その女がエリアス様を殺したんだ!」

「イストリム人の手先を許すな!」

 それは、無慈悲なシュプレヒコール。

 ミーナが姿を見せた途端、民たちはあらん限りの怒号を浴びせた。

 民たちは、ミーナを助けにきたのではなかった。その死を望んできたのだ。

 ミーナの小さな体に、怒りと憎しみがぶつけられていく。

 気丈だったミーナの顔が、ひび割れたように悲痛に歪んだ。

 希望なんて抱かなければ、ミーナはどんな仕打ちにも耐えられただろう。

 だがわずかに見えてしまった光が、ミーナの固い決意を鈍らせ、その心を打ち砕いてしまったのだ。

「何ということでしょうか。あなた、本当に嫌われていたんですねえ。見なさい、彼らの顔を。誰もがあなたに死んでほしいと思っている」

 モーゼズは大喜びであった。

 モーゼズはミーナの髪を掴み上げると、無理やり眼下の光景を見せつけた。

「あなたが愛したのは彼らですか。救いたかったのは彼らですか。でも残念ですねえ。彼らはあなたを愛してなんていない。心の底から憎んでいる」

 追いうちのような言葉。

 今のミーナには体を傷つけられるよりも辛かった。

 とうとう、ミーナの口からか細い声がもれた。

「……やめて……もうやめて」

 耳をふさぎたかった。だが両手を縛れているためそれもできない。

 その間にも民たちの言葉はミーナを深く傷つけていく。

 先ほどまでモーゼズは、ひどく不愉快だった。

 死を覚悟したミーナは、どれだけ傷つけても揺るがないように思えたからだ。

 だが、今はどうだ。

 そこにいるのは一人の臆病な娘だ。

 底知れぬ憎しみを前に、心を押しつぶされ震えることしかできない。

 モーゼズは、どうやってミーナを殺してやろうかと考えた。

 この娘は、ただ殺すだけではつまらない。

 より無残に、より絶望の中で殺したかった。

 そしてモーゼズは、世にも恐ろしいことを思いついた。

 モーゼズは、ミーナの耳元でささやいた。

「――決めました。あなたは、民たちに殺してもらいます」

 モーゼズはミーナの腕をつかむと、そのまま無造作に、城壁の上から突き落とした。

 ミーナは、抵抗すらできなかった。

 落ちる瞬間、モーゼズの顔が見えた。

 モーゼズは、これまでにないくらい楽しそうに笑っていた。

 ミーナの体が城壁の上から落下し――そのまま硬い地面に叩きつけられた。

「……ああ……うう……」

 ミーナは全身を激しく打ちつけながらも、まだかろうじて生きていた。

 だが何とか顔をあげたミーナの前に広がっていたのは、自分を見下ろす大勢の民の姿だった。

 城壁の上から、モーゼズが高らかにいった。

「民よ! その娘を断罪する許可を与える。煮るなり、焼くなり、そなたらの好きにするがいい。そなたらを裏切ったその娘を決して許すな。ベルクの民の怒りを、今こそ思い知らせてやるのだ!」

 その声は広場の隅々まで届いた。

 広場は、一瞬の静寂に包まれた。

 民たちは、互いの顔を見やった。

 ヴィルヘルミナを自由にしていい。どうする。

 その時、誰かが叫んだ。

「殺せ! バラバラに刻んでやるんだ!」

 ザッパスだった。

 昨夜妻子を無残に殺されたザッパスの目は、狂ったように赤く血走っていた。

 その怒りは、またたく間に民たちの間で伝播した。

「ヴィルヘルミナを殺せ!」

「囲め! 逃がすな! 俺たちの怒りをぶつけるんだ!」

 そのシュプレヒコールは、先ほどとは比べようがないほどに凄まじいものだった。

 ミーナの顔が、恐怖に染まった。



モーゼズは城壁の上から眼下を見下ろし笑っていた。

「ふはは、何という悲劇。民を愛した娘が、その民の手で惨たらしく殺される。たまりません。極上のエンターテイメントですよ」

 モーゼズの隣には、クルスがいた。

 だがクルスは見たくないとでもいうように、眼下から目をそらした。

 ミーナを憎む気持ちは今も強い。

 だがモーゼズのそれは、あまりにも悪趣味だった。

 広場では、群衆がミーナを取り囲んでいた。

「殴れ!」

「犯せ!」

「バラバラにしてやれ!」

 恐るべき集団の心理。

 民たちは狂気に取りつかれていた。

 ミーナはボロボロの体で、必死に逃げようとしていた。

「た、助けて、誰か、お願い――」

 それは死にのまれた者の、絶望の悲鳴だった。

 モーゼズはたまらない愉悦を感じながら、それを聞いていた。

「無駄なんですよねえ。暴徒と化した群衆は、もう誰にも止められません」

 民を意のままに操り、女を嬲り殺しにする。

 これ以上楽しいことがあるだろうか。

 モーゼズはまるで指揮者のように両手を振るった。

 群衆の手が、とうとうミーナに伸びた。

 その髪や服をつかみあげる。

「このクソ女ぁ! ぶっ殺してやるよ!」

 血走った目。彼らは、もはや狂人と化していた。

「やめて――やめて」

 ミーナは、泣いていた。

 だが暴徒と化した群衆は止まらない。

 終わりだった。

 あとは民たちの慰みものにされ、虫けらのように殺されるだけ。

 その時――だった。

 あたりに、奇妙な音が響きはじめた。

 それは不協和音でもいうべき不快な音で、どこからともなく響いてきていた。

「……何だ、この音は」

 民たちは手を止めて、あたりを見まわした。

 音の出どころがわからない。

 そうしている間にも、不協和音はどんどん大きくなっていく。もう、耳をつんざくほどだった。

「何か、おかしいぞ」

 不穏な空気が、あたりに流れはじめた。

 異変は、それだけでなかった。

 大地が不協和音に共鳴するように、振動をはじめたのだ。

 まるで地鳴りのような激しい揺れに、民たちは立っているのがやっとになっていた。

「ちくしょう、何だってんだ」

「誰かこの音を止めろ。頭が割れそうだ」

 民たちはパニックを起こしかけていた。

 そんな中――何者かの発する声が、広場中に響き渡った。

「神威――『雷』」

 その瞬間、空が割れた。

 曇り空にビシリと亀裂が走り、巨大な虚空が現れたのだ。

 民たちは、思わず空を見上げた。

 刹那――閃光と共に無数の稲妻が大地に降り注いだ。

 民たちは悲鳴をあげ、必死に逃げまどった。

 稲妻はまるでミーナを守るように降り注ぎ、あたり一帯を破壊し尽くした。

「……何が、起こっているのですか」

 モーゼズですら、状況を理解できていなかった。そんな光景を見るのは初めてだったのだ。

 ミーナの周囲には、砂ぼこりが舞っていた。

 激しく降り注いだ稲妻が大地を削り、砂塵を巻き上げたのだ。

 風が吹き、視界がだんだんと鮮明になっていく。

 ミーナの前には、一人の男が立っていた。

 漆黒の髪をなびかせた美しい青年――セイがそこにいた。



「遅れてすまない」

 セイは、ミーナにいった。

「セイ様……」

 ミーナはセイを見て、ボロボロと涙を流した。

 ミーナは、傷だらけだった。

 その痛々しい姿を見て、セイの中で激しい怒りがこみ上げた。

 民たちは、突如現れたセイに戸惑っていた。

 だが歓喜の声をあげる者もいた。

「――イストリム人! とうとう見つけましたよ!」

 モーゼズ。

 同時に、深紅のローブをまとった三人が広場に降り立った。

 ラギ、ガノ、グイ。

 モーゼズの忠実なる僕たち。

 セイが漆黒の刃を抜き去る。

 腕の傷はまだ完全には癒えていない。

 だが――セイは強く刀を握りしめた。

 握力はすでに戻っている。誰が相手だろうと戦うことができる。

 城壁の上から、モーゼズが叫んだ。

「手足をもぎとり、私のところに連れてきなさい!」

 それが合図となり、三人が駆けだした。

 セイは刀を構えた。

「来い――」

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