第5話  辺境貴族②

 

 その日の夜、コツコツという小さな足音が、城の地下へと続く階段に響いていた。

 そこは、ひどく薄暗い。

 石造りの古い階段はところどころが苔むしており、重く湿った空気が沈殿するようにあたりに漂っていた。

 ランタンとトレイを手に地下へとゆっくりと降りていく小柄な人影――それはミーナだった。

 ミーナは時おり階段の上を振り返り、誰もついてきていないかを確かめる。

 その表情は、何かに怯えているようにも見えた。

 階段を降りると、狭い通路が続いていた。そしてその先には、錆びついた鉄格子が並んでいた。

 そこは、ベルク城の地下牢だった。

 ミーナは一番奥の鉄格子まで行くと、暗闇に向かってそっと声をかけた。

「……お母さま、お食事を持ってまいりました」

 暗闇の中で、何かがもぞりと動いた。

 は床を這いずりながら、ミーナのもとへと寄ってくる。

 ランタンのか弱い光が、狭い牢屋を照らした。

 汚らしく伸びきった髪に、垢と皺にまみれた手。光を失った目は暗く濁っており、ぱっと見ではまるで化け物のようだが、それは確かに人間だった。

「……今日はお母さまの好きなシチューを持ってまいりました。冷めてなければいいのですが……」

 ミーナはそういって鉄格子の隙間からトレイを入れる。

 化け物のように見える人間――ミーナの母メリサはトレイに乗った食事をガツガツと手づかみで食べ始めた。

「お母さま。あわてないでください。誰も取り上げたりしませんから」

 ミーナはそういうが、メリサはまるで聞こえていないかのように食事をかきこんでいく。

 それは、ミーナにとっては見慣れた光景だった。

 ミーナは冷たい床にぺたりと座り、母の食事を見ながら、ポツポツと話していく。

「お母さま。今日はイストリム人の方とお会いしました――」

 ミーナは今日あった出来事を話している。だがメリサは聞いていない。食事以外目もくれようとしない。それでもミーナはしゃべり続ける。

「セイ様は、イストリム人なのにとても強い方でした。お母さま、私も男子に生まれていれば、あの方のように強くなれたのでしょうか……」

 返事はない。分かっていたことだ。

 もう長いこと、母とはまともな会話ができていない。

 ふと、メリサの手が止まった。

 食事を全部平らげてしまったのだ。

 メリサは残りがないことを知ると、汚れたをかきむしり暴れはじめた。

「ごめんなさい、お母さま。もうないんです。今日はこれだけを持ってくるのがやっとだったんです。次はもっと持ってきますから、どうか落ち着いてください」

 ミーナはまるで懇願するようにいった。

 メリサはしばらくトレイを叩きつけるなどして暴れていたが、そんなことをしても無駄だと悟ったようで、ボソボソと不明瞭な言葉をつぶやきながら暗闇へと引っ込んでいった。

「……ごめんなさい。お母さま。でも私が、いつか必ずここから出してあげます。だからそれまで辛抱してください」

 ミーナはそれだけをいうと、トレイを手に鉄格子から離れた。

 ミーナの表情は、悲しみに包まれていた。

 先ほど母がつぶやいた言葉を、ミーナは聞いてしまっていたのだ。

『なんで、あんただけが許されるのよ』

 母は、確かにそういっていた。



 地下からあがってきたミーナは、そっと誰にも気づかれないように自室へと戻ろうとしていた。

 だがそんなミーナを、誰かが呼び止めた。

「ヴィルヘルミナ。どこへ行っていた」

 クルスだった。

 ミーナはとっさにトレイを隠そうとするが、クルスには見えていた。

 クルスが苛立たしげに詰め寄ってくる。

「どこへ行っていたかと聞いているんだ」

「別に……どこでもありません」

「ふざけるな!」 

 クルスはミーナが隠そうとしていたトレイをはたきつけた。食器が床に落ち、静かな通路にけたたましい音を立てた。

「俺は何度もいったはずだ。あの女のところに行くことは許さんと。それを貴様、また言いつけを破ったな」

「だ、だって、お食事をあげないとお母さまが死んでしまいます」

「それは他の者がやっている。貴様がやるべき仕事ではない」

「そんな……あんな腐りかけの食べ物では、お母さまがかわいそうです」

「かわいそう……だと?」

 クルスのこめかみがピクリと動いた。

 次の瞬間、ミーナの頬を平手が打った。小柄なミーナは、それだけで倒れこんでしまう。

「貴様、あの女をかわいそうだといったのか。我がベルメール家をおとしめたあの女を、貴様は哀れんだというのか。ふざけるんじゃない!」

 クルスは激昂していた。ミーナを見下ろしまくし立てる。

「不愉快な女だ。汚らしく、卑しい女だ。貴様ら親子を見ていると反吐がでる。貴様は地下に転がるあの豚と同じだ。生きる価値のないクズだ」

 ミーナが、きっとクルスをにらみつけた。

「お母さまのことを……悪くいわないでください」

 それはあまりにも小さな反抗。

 だがクルスはそれすらも許さなかった。

「誰にものをいっている。誰が貴様のようなゴミをこの城に住まわせてやっている。誰が地下の豚を生かしてやっている。答えてみろ、ヴィルヘルミナ!」

 クルスはミーナの肩口を蹴りつけ倒すと、そのまま足で踏みにじった。

 ミーナはうめき声をあげることしかできない。

 それでもクルスがやめることはない。

 ミーナの目尻に涙がたまった。

「――何をしているんだ!」

 通路の先から、エリアスが駆けてきた。

 クルスは顔をあげた。だがその足をどけることはない。

「引っ込んでいろ、エリアス。俺はこの卑しい女に教育をしているんだ」

「教育だと。何が教育なものか。ただ妹をいたぶっているだけではないか」

 エリアスは怒っていた。

 エリアスはここ最近ミーナが怪我をしていることに気づいていた。その怪我はどれも小さなものだったが、理由を聞いてもミーナは頑としていわなかった。

 クルスが何かをしているんじゃないか。

 そう思っていた矢先の出来事だった。

「口の利き方に気をつけろ、エリアス。お前に指図されるいわれはない。これは俺とヴィルヘルミナの問題だ。関係ないお前は下がっていろ」

 クルスはそういうと、更に足に体重をかけた。

「うう……」とミーナがうめいた。

「やめろといっているんだ!」

 エリアスが突然剣を抜いた。

 これにはさすがのクルスも驚き、怒りのこもった目でエリアスをにらみつけた。

「……エリアス、貴様何の真似だ。兄であるこの俺に、剣を向けるというのか」

「妹の為なら兄であろうと斬る!」

 エリアスは本気だった。

 クルスがミーナをいたぶるのをやめないのであれば、本当に斬るつもりでいた。

「エリアス……貴様……」

 クルスの歯がギリリと鳴った。

 エリアスが本気であることは、クルスも気づいていた。

 しばらく、にらみ合いが続いた。

 エリアスは一歩も引かなかった。

 やがて折れたのは――クルスのほうだった。

 クルスはミーナから足をどけると、苛立たしげにいった。

「……このことは覚えておくぞ、エリアス」

 大きな足音を立て、クルスが去っていく。

 エリアスはすぐにミーナのそばにいった。

「大丈夫か。ミーナ」

「はい……大丈夫です。ありがとうございます。エリアス兄さま」

 ミーナはそういうが、その肩口には痣ができていた。

「ミーナ、兄上が来たらすぐに俺を呼べ。どこにいたって駆けつけてやる」

「でも、そんなことをしたらエリアス兄さまが……」

 ミーナは自分のことよりもエリアスが心配だった。

 だがエリアスは笑顔を見せ、自分の胸をトンと叩いた。

「俺なら大丈夫だ。俺は強い。兄上なんかに負けないさ」

 エリアスは、ミーナに心配させまいとしていた。

 もちろんミーナも、それを分かっていた。

「さて……これも片付けないとな」

 エリアスは床に散らばった食器を片付け始めた。食器はほとんどが割れてしまっていた。

「だ、だめです。怪我をしてしまいます」

「だからこそ、俺がやるんだろ」

 エリアスはベルクにとっての光だった。だがミーナにとっては光どころではなく、太陽のような存在だった。 

 二人は遠慮しあいながら割れた食器をトレイにのせていく。

 その時、ふと、背後から小さな物音がした。

 エリアスが振り返る。

「誰か……そこにいるのか」

 柱のかげ、暗がりで何かが動いた。

 やがて姿を見せたのはセイだった。



「君は……見ていたのか」

 エリアスが聞くと、セイは少しバツが悪そうにうなずいた。

「まあ……一部始終」

 セイは好きで覗きをしていたわけではなかった。

 城で夜を明かすことになったセイだが、クルスのこともあり、警戒をしていた。

 こんな夜更けに出歩いていたのは、いざというときのために脱出ルートを確認しておきたかったからだ。

 この周囲をひそかに見て回っていたセイは、地下を見張っているクルスに気づき、とっさに柱の物陰に隠れていた。

「……兄弟げんかにしては、ずいぶんと物騒だったな」

 セイはエリアスにいった。

 はたから見ても、先ほどのやり取りは普通ではなかった。

 エリアスはそっと目を伏せた。

「兄弟げんかか……そのような他愛もないものならよかったのだが」

「何か理由でもあるのか」

 あの男――クルスは、何というか異常であった。ミーナに対し、執念じみたものを感じる。

 セイが柱に隠れている間、クルスはずっとミーナが上がってくるのを待ち構えていたのだ。

「理由は……あるといえばある。だが俺から話していいものか……」

 エリアスはちらりとミーナを見た。

 何となくだが、エリアスはこの問題にあまり立ち入ってほしくないようだ。

(まあ……そうだろうな)

 セイは完全なる部外者だ。

 見てしまった以上何となしに聞いてみたが、実際のところ、セイもそこまで興味があるわけではなかった。

「話したくないなら、別にいいんだ。おかしなことを聞いて悪かったな」

 セイはさっさと引き上げることにした。

 城の構造はすでにおおよそ把握している。

 もうここにいる意味もない。

 彼らが抱える問題にしても、セイが聞いたところでどうにもならないだろう。

 セイは明日にはこの街を出る。そうしたら最後、二度とここに来ることはない。

 彼らと会うのも、これっきりなのだ。

 セイは二人と別れ、部屋へと戻った。

 そのまましばらくじっとしていると、控えめにドアがノックされた。

 そこには、ミーナが一人で立っていた。

「……何か用か」

「……先ほどの件です」

 何となく――予感はしていた。

 先ほど、ミーナはセイに何かを話したそうにしていた。だがセイはそれに気づきながらも、さっさと引き上げてしまったのだ。

「セイ様。少しだけ私にお時間をいただけませんか」

 ミーナはそういった。



 ミーナは人気のないテラスへとセイを連れ出した。

「ここなら、この時間は誰も来ませんので」

 テラスからは、ベルクの街を一望することができた。

 暗闇の中、ポツポツと灯る小さな明かりが見えた。

「エリアスはどうしたんだ」

「部屋に戻りました。セイ様とお話しするのであれば、私一人がいいだろうと」

 ということは、エリアスも了承済というわけだ。

「話を聞くのはかまわないが、なぜ俺に」

 セイにはそれが分からなかった。

 ミーナとは今日会っただけの関係だ。特に親しくないし、そうなる予定もない。

「それは……セイ様がイストリム人だからです」

 ミーナは、また分からないことをいった。

「セイ様は私たち兄妹を見て、何か思いませんでしたか」

「まあ……ミーナだけ似ていないと思ったな」

 クルス、エリアス、ミーナ。

 クルスとエリアスはどこか似た顔立ちをしているし、どちらの髪も鮮やかな金髪だ。

 だがミーナは二人とはまるで似ていないし、髪も栗色である。

「私たちは、母親が違うんです。私のこの髪は、母の特徴を受け継いだものです。私はクルス兄さまにいわせれば、ベルメール家の中に混ざりこんだ『異物』だそうです」

 ミーナはさびしそうに、自分の髪をそっと触る。

「ずいぶんな言い方だ」

「……そうですね。クルス兄さまは、私と母を憎んでいるんです。私たちが、ベルメール家の凋落を招いたから」

 どういうことだ?

「ベルメール家は、かつてはこの一帯を治める大貴族でした。ですが今から五年前に、ほとんどの所有地を失いました。帝国に没収されてしまったのです。残ったのはこの古いお城があるベルクだけ。理由は、先代である父が、イストリム戦争への派兵を拒否したからでした」

 ベルクは帝国領でも辺境にあたり、かつてのイストリムともまだ近い場所にある。

 そこの大貴族が戦争への参加を拒んだとなれば、帝国の逆鱗に触れてもおかしくはない。

「なぜ派兵を拒んだのだ」

「……私たちがいたからです。父は、とても優しい人でした。父には、どうしてもできなかったのです。母の生まれ故郷を攻めることが」

 セイは、そこでもう一度ミーナの髪を見た。

 鮮やかな金髪の家系に生まれたくすんだ髪の少女。

「母親は、イストリム人なのか」

 ミーナは、うなずいた。

「そうです。私はイストリム人との混血なんです」



「母は幼いころに、イストリムからの移民としてこの街にやってきました。街のはずれにある旧市街……そこで暮らしていたと聞いております。母は、とても美しい人でした。やがて母は奥様を亡くしていた父の目にとまり、この城で暮らすようになりました。そして、私が生まれたのです」

 前妻の子と後妻の子。彼らはそういう関係にあるということだ。

「私は両親に愛され、大切に育てられました。幼かったエリアス兄さまも、母によく懐いておりました。ですがクルス兄さまだけは、当時から母を毛嫌いしておりました。クルス兄さまは前の奥様のことを大変慕っており、母のことが許せなかったのです。当然、私のことも嫌っておりました」

 クルスはエリアスと比べても年が少し上に見えた。物心がついており、前の母親のことをよく覚えていたのだろう。

「それでもあの頃は、さしたる問題は起こりませんでした。父が健在だったからです。クルス兄さまは、父のことを尊敬しておりましたから。転機となったのは、先ほども申しました5年前です」

「イストリムとの戦争か」

「……はい。本国から派兵の命令がきたとき、父は悩みました。母は猛反対しており、一方でクルス兄さまは派兵すべきという意見でした。帝国貴族である以上、本国の命令に逆らってはいけないとクルス兄さまは何度もいっておりました。結果として父は、派兵を拒否しました。たとえ処罰されることになろうとも、戦争には参加しないと決めたのです。ですが、本国の怒りは想像以上でした。私たちの領地はほとんど没収され、その身分も辺境伯から子爵へと格下げとなりました」

 貴族の身分を落とすということは、相当なものだ。

「エリアスはその頃どうしていたんだ」

「当時のエリアス兄さまは、帝都に留学中でした。ですのでこの話はエリアス兄さまの知らないところで進んでおりました」

 エリアスがいたらどちら側についていたのだろうか。戦争への参加か、それとも拒否か。

「没収された領地は、ある男に与えられました。それが、ザシャ卿です。ザシャ卿は平民出身でしたが、戦争への貢献が評価されて貴族となったのです」

「……見せしめか」

「……そうです。クルス兄さまは、それに納得がいかないようでした。ザシャ卿が私たちから土地と民を奪ったのだと考え、目の敵としておりました。ザシャ卿が平民出身というのも、クルス兄さまからすれば気に入らなかったようです。クルス兄さまは、選民思想をお持ちの方ですから」

 それは、分からなくもない。

 大貴族の長兄として生まれたのだ。

 そのような考えを持つことはごく自然なことだった。

「父は、ザシャ卿に執着するクルス兄さまを何度も諫めておりました。今にして思えば、父はあの男の恐ろしさに気づいていたのだと思います。ですが、クルス兄さまは変わりませんでした。かつての領地を取り戻そうと躍起になっていたのです。そんなときに、ある出来事が起こりました。ザシャ卿の屋敷から逃げてきたイストリム人の女性が、このベルクに助けを求めてきたのです」



「その女性は、全身に深手を負っておりました。彼女は息も絶え絶えに屋敷で繰り広げられる虐殺について語りました。そして仲間の救出を父にお願いすると、そのまま息を引き取りました。父はその遺体を丁重に扱いましたが、救出については難色を示しました。ザシャ卿に手をだすべきではないと考えていたのです。一方で母は、故郷の仲間を助けたいと思っておりました。そこで、クルス兄さまに話を持ちかけたのです」

「二人の関係はあまりよくなかったのではないか」

「あの時の母は、何とかしたい一心だったのです。それほど女性から聞かされた話は恐ろしいものでした。クルス兄さまは、その話に乗ることにしました。イストリム人のためではありません。ザシャ卿を追い出す絶好の機会と考えたのです。そしてクルス兄さまは、父に内緒で挙兵の準備をはじめました」

「……ずいぶん急な話だ。本国に通報するのが先ではないか」

「クルス兄さまは、イストリム人には人権がないとお考えでした。つまり本国に通報しても意味がないと。クルス兄さまにしてみれば、大義名分さえあれば何だってよかったのです。民の救出を理由にリーディアに攻め入り、ザシャ卿を亡き者にする。それが母とクルス兄さまの立てた作戦でした。ですがそれは、直前になって失敗しました。ザシャ卿が先に本国に通報していたのです」



 ――ベルクが反乱を起こそうとしている。

「ザシャ卿はそう本国に通報しておりました。するとすぐに、ある者たちがこのベルクにやってきました。本国の調査部隊『赤い棺レッドコフィン』と呼ばれる者たちです」

「……悪名高い者たちだ。確か別名は『処刑部隊』だったか」

 セイも、その名は聞いたことがあった。

 反逆者を取り締まる組織で、調査とは名ばかりの苛烈な拷問をすることでも有名である。

「かの者たちの手で、クルス兄さまの計画は次々と暴かれていきました。クルス兄さまの狙いはあくまでザシャ卿のみで、帝国への反乱の意志などなかったのですが、かの者たちには聞き入れてもらえませんでした。この件はベルメール家による帝国への反乱と結論づけられ、私たちは捕縛され、ザシャ卿のもとへと引きずりだされました」

「……話が出来すぎているな。その者たちは、ザシャとあらかじめ繋がっていたのではないか」

「……私もそう思いました。そもそもあのイストリム人の女性も、ザシャ卿があえて逃がしたのではないかと思っております。クルス兄さまの敵意は、ザシャ卿も知っていたでしょうから。その後のことも、すべてあの男の手のひらで転がされていたのでしょう。そしてまず最初に、私たちの目の前で父が処刑されました。とても残忍な方法で」

 ミーナは目を伏せ、体を小さく震わせた。

「私は恐怖のあまり、震えていることしかできませんでした。クルス兄さまは、泣き叫んでおりました。殺すなら自分だけにしてくれと。それほど父を慕っていたのです。ですがかの者たちは聞き入れませんでした。父は生きたまま体を裂かれ、死んでいきました」

 反逆者をあえて残酷に殺すことは、見せしめもかねていつの時代も行われてきたことだ。

 だが貴族に対してもそこまでするのは、容赦がなさすぎるように思えた。

「……父の次は、クルス兄さまの番でした。クルス兄さまは、もう観念しておりました。ですがいざ処刑がはじまろうとしたとき、ザシャ卿が突然いいました。『その者は許してもよい』と――」

「……情けをかけたというのか」

(あのザシャが?)

 セイは訝しんだ。

 あの男には、そのような人の心など存在しないように思えた。

「情けとは……おそらく違うと思います。私はそのとき、ザシャ卿を見ておりました。ザシャ卿は、笑っておりました。クルス兄さまを見下し、嘲るように。あの男にとっては、すべてが暇つぶしの戯れだったのでしょう。あの男はクルス兄さまが絶望するさまをただ見たかったのです。そしてあえて生かしてやることで、さらなる屈辱を与えたのです」

 自分に歯向かったらどうなるか、それをただ見せつけてやるだけ。

 ザシャからすればクルス程度の小者など、殺すまでもなかったということだろう。

「それ以降クルス兄さまは、ザシャ卿には二度と逆らえませんでした。口では強がりをいっておりましたが、ザシャ卿に怯えきっていたのは確かです。それは、私も分かります。あの男は、人ではありませんでしたから」



「結局私たちは生かされ、このベルクへと戻ってまいりました。父の死を知った民たちは嘆き悲しみました。父の後を継いだクルス兄さまですが、その統治は困難を極めました。父が、偉大すぎたのです。鬱屈をつのらせていったクルス兄さまは、徐々に歪んでいきました。何かと口をだそうとする母を激しくなじるようになり、いつしか、すべての元凶が母にあったと考えるようになりました。確かに戦争のことも、ザシャ卿のことも、すべて母がきっかけでした。クルス兄さまは母をベルメール家に害をなす者と決めつけ、城の地下に幽閉しました。もう三年以上になりますが、今でも母は地下におります」

 セイは、先ほどのことを思い出した。

 ミーナは地下で母と会っていたのだ。

「母が地下に幽閉されると、私の置かれた状況も悪い意味で変わりました。イストリム人の血が流れる私は、母と同様差別の対象となったのです。部屋は物置にうつされ、食事も満足にもらえなくなりました。クルス兄さまは毎日のように私をなじりました。城の者は、誰も私を助けてくれませんでした。そして街へ出ても、民たちが私を避けるようになりました。城でのことが知れ渡っていたのです。今にして思えば、とても辛い日々でした。ですが私にはここ以外に居場所がありませんでした。私は、ひたすら耐え続けました。そんなときに、エリアス兄さまがこのベルクへと帰ってきました」



「帝都にいたエリアス兄さまはこのベルクの状況を知ると、荷物をまとめ帰ってきてくださりました。そして奴隷同然となっていた私をすぐに助け出してくれました。エリアス兄さまは、昔のように私を妹と呼んでくれたのです。エリアス兄さまは、父とよく似ておりました。顔だけでなく、その思慮深さも。エリアス兄さまは統治に苦戦するクルス兄さまに様々な助言をし、同時に父を失った悲しみから抜け出せない民たちに寄り添い続けました。街は、いつしか以前のような活気を取り戻していきました。エリアス兄さまは母のことも解放しようとしましたが、それだけはクルス兄さまが決して許しませんでした」

 クルスにも、譲れない一線があったのだろう。恨みの深さがよくわかる。

「……母親を連れて、この街を出ようとは思わなかったのか」

 セイは聞いた。

 ミーナがエリアスの手で救われたのは事実だが、それでもクルスからの虐待は今も続いている。民たちもそうだ。街でエリアスに歓声をあげる一方、ミーナのことは空気のように扱っている。ミーナはこの街にいても幸せになれないのではないか。

 セイはそう思ったのだ。

 ミーナは、少し驚いた顔をした。

「そのようなこと……考えたこともありませんでした。私はこのベルクで生まれ、そして育ちました。ベルメール家の一族はベルクと共に生きる。父は生前いつもそういっておりました。私は……そうですね。どんなに辛くても、やはりこの街を離れることはできないと思います。父がいたころ、私はとても幸せでした。ベルメール家の末娘として、民たちからも愛されておりました。私は……どうしてもあの頃が忘れられないのです。そして心のどこかで、まだ信じてしまっているのです。いつの日か、あの頃のようにまた愛してもらえるのではないかと……」

 ミーナは、どこか寂しげな眼差しで街を見下ろしていた。

 セイの目には、終わってしまった夢をいつまでも追い続ける少女のように見えた。

 もちろん、それをいうつもりはない。

 だから、セイはいった。

「また……昔に戻れる日が来るといいな」

 それが、セイの精一杯の優しさだった。

 その目には、あのすべてを恨むような昏い光はない。

 ミーナはそれを見て、「はい」と大きくうなずいた。

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