第4話 辺境貴族①
先導するエリアスに連れられ、セイの乗った馬車はベルクへと向かった。
鬱蒼とした森を抜けると、その先には豊かな平原地帯が広がっていた。
この平原地帯の先にわずかに見える大きな街がベルクである。
ベルクは失われた時代より前から続く古い街で、この辺り一帯ではザシャが治めていたリーディアに次ぐ規模をもった都市でもある。
かつては城塞都市として機能していたのか、街の周囲は高い壁で囲まれており、平原地帯からではその街の全貌を見ることができない。
街の入り口にある巨大な門をくぐると、その先には活気あふれる街並みが広がっていた。
周囲にいた民たちは、エリアスを見つけるとわっと押し寄せてきた。
「エリアス様がお戻りになったぞ!」
「見ろ、異獣の死骸だ。それも二体もいるぞ」
「さすがエリアス様だ」
セイたちの馬車に並走していたエリアスは、気まずそうな顔をした。
「……すまない。民たちが勘違いをしているようだ。異獣を倒したのは君なのに」
「別に、どっちだっていいさ」
セイは気にしていなかった。
むしろエリアスの手柄にしてくれたほうが目立たなくて済む。
民たちはその後もひっきりなしにエリアスのもとに集まると喝采を送り続けた。
「……すげえ人気なんだな」
リックが驚いたようにいった。
「……エリアス兄さまは、この街にとっての希望そのものですから」
ミーナはエリアスの横顔を見つめ、静かにいう。
「この街では、少し前に辛いことが立て続けに起こりました。街は暗く沈み、民たちからも笑顔が失われておりました。そんなときに、帝都で正騎士となっていたエリアス兄さまが帰ってきたのです。この街の状況を知り、正騎士の職を辞してまでのことでした。以来、エリアス兄さまは民たちに寄り添い続け、民たちにも少しずつですが笑顔が戻ってまいりました」
このベルクは、帝国領の中でもかなりの辺境の地である。
そこの出の者が帝都へと行き正騎士となるには、いったいどれほどの努力が必要であっただろうか。
それをあっさりと捨ててこの街に戻ってきた――エリアスは、そういう男だった。だからこそ、こんなにも慕われているのだ。
道すがら、ミーナは街のことを色々と説明してくれた。
ベルクは古都と呼ばれるだけのこともあり、街のあちこちには歴史的な建造物がいくつも点在していた。
数百年前から時を刻み続ける時計塔や、色あせたレンガ造りの宮殿跡など。
その中でも最も目立つのは、街の中心部にそびえる古い城――ベルク城であった。
ベルク城は名門ベルメール家の居城であり、決して大きくはないが、古えからの歴史を感じさせる美しい城であった。
「あそこが、兄さまたちのお城です」
ミーナが馬車から顔をのぞかせるようにして、そう教えてくれた。
リックとディーンは、感嘆の声をあげていた。
セイは、何もいわなかった。
それよりもセイが気になっていたのは、ミーナがふとした時に見せる表情やその言い方。
そしてエリアスのもとへと集まり続ける民が、ミーナをまるで見ようとしていないことであった。
もちろん、ただの気のせいかもしれない。
ただセイの目には、まるで民たちが、ミーナを無視しているかのようにうつった。
馬車が城門に到着する前に、リックとディーンは降りていった。
「まあ、俺たちは何もしてないからさ」
リックは少し恥ずかしそうにいって、セイたちに別れを告げた。
そしてセイは、一人だけ城の中へと通された。
ベルク城は古さは感じるものの、手入れがよく行き届いた城であった。
セイはその中の客室へと通されると、そこで怪我の手当てを受けた。
異獣に噛まれた左腕は、予想通り酷い状態であった。
肉がえぐれ赤い傷口がのぞくその腕を、ミーナは手慣れた様子で消毒していく。
「……少し、染みると思います」
ミーナはそういうと、傷口に薬草をすり潰した薬をねりこんだ。
目の裏に火花が飛び散った。
怪我に慣れているセイでも、思わず声が漏れた。
「……ごめんなさい。すぐに終わらせますので」
ミーナはそういうと手早く傷口を縫合し、包帯を巻いていく。動いてもずれないようしっかりとしめつけながら。
「……これで、大丈夫だと思います。しばらくは安静になさってください」
「……ずいぶんと手際がいいんだな」
セイは、少しばかり驚いていた。
普通の貴族の娘は、このようなことはできない。
ミーナは、少し困った顔をした。
「……慣れておりますので」
セイには、その言葉の意味が分からなかった。
ともかくとして――セイは腕の状態を確かめた。
ミーナが手当てをしてくれたおかげで腐り落ちるようなことはないはずだ。
だが――手にまるで力が入らない。
おそらく、どこかの筋組織を痛めているのだろう。
(……これでは刀が握れないな)
一般的な剣と違い、セイの持つ刀は刀身が長く重量がある。
片手では本来の力が出せない。
握力が戻るまでは戦闘を避けるしかなさそうだった。
治療が無事に終わると、少しだけ沈黙があった。
部屋にはセイとミーナの二人だけしかいなかった。
「……セイ様」
改まった様子で、ミーナがいった。
「きちんと、お礼をいわせてください。私を助けてくださりありがとうございました。異獣のことも、あそこでセイ様が退治していなければ更なる被害がでていたことでしょう。セイ様は、この街を救ってくださった英雄です」
そう正面から言われると、口下手なセイは上手く返せなくなってしまう。
「別に……俺がいなくてもエリアスが退治していただろう」
「そうかもしれません。ですがきっと多くの死傷者をだしていたことでしょう。エリアス兄さまを含め、この街には異獣と戦ったことのある者がおりませんから」
確かに、異獣とは滅多に出くわすものではない。
知性を持たない異獣との戦いは、人間のそれとはまるで別物だ。手練れの者であっても異獣が相手だとなすすべなく殺されることがある。
異獣は本能のままに行動し、そして極めて獰猛。
腕に覚えがある者でも、その動きに対応しきれぬ間に殺されてしまうのだ。
それでは、なぜセイは異獣をあっさりと殺すことができたのか。
答えは簡単だった。
慣れ、である。
セイはこれまで数えきれないほど異獣と戦い、そして殺してきた。それが、祖国を失ったあとのセイが歩んできた道なのである。仮にあのとき異獣が狙ったのがセイであったなら、おそらくは無傷で倒せていただろう。守ろうとしたがゆえに、怪我を負ってしまったのだ。
その時、ふいに、部屋の外から大きな物音が聞こえてきた。
続いて、エリアスの声がした。
「お待ちください、兄上。彼はまだ治療中です」
「どけ、エリアス。この城の来訪者に俺が会って何が悪い」
そしてドアが、乱暴に開け放たれた。
入ってきたのは、エリアスと同じ鮮やかな金髪の瘦せた男だった。
男はセイを見ると、唇の端を吊り上げた。
「イストリム人……なるほど、そういうことか。どうりで俺に会わせたくなかったわけだ」
「兄上、彼は恩人です。失礼なことはおやめください」
「黙れエリアス。俺に指図するな」
男はエリアスを突きとばすと、セイの前にどっかりと座った。
不遜な態度。
エリアスとどこか似た顔立ちだが、その目は冷たく、まるで見下すようにセイを見ていた。
「……イストリム人。俺が誰だか分かるか」
セイでなくても、簡単に予想がついた。
「……クルスだな。この城の主だろう」
男は顔を歪めるようにして、笑った。
「その通りだ。よくわかっているじゃないか」
「我がベルク兵団よりも先に異獣を倒した者がいるというから来てみれば、くく、まさかイストリム人とはな」
クルスは尊大な態度で足を組んだ。
この男――エリアスやミーナとは根本的な何かが違う。
セイはにわかに警戒を強めた。
「さて、イストリム人。招かれざる客よ。この城の主として、いくつかお前に質問をさせてもらおう。まず街道に現れた異獣だが、お前がたった一人で倒した。それで間違いないのだな」
「……そうだ」
セイは短くいった。その目はクルスを見据えている。どのような男か探っているのだ。
クルスは、エリアスを見た。
「エリアスよ。異獣とは人の手に余る存在だと俺は聞かされてきた。それは違うのか」
「いえ……合っております。普通の人間なら、何もできずに殺されてしまうでしょう」
「そうか。ではお前が異獣と戦っていたらどうだ。この者と同じように、たった一人で倒せたか」
「それは……」
エリアスは少し考えた。
「……一体だけなら、あるいはどうにかできていたかもしれません。ですが二体となれば無理です。きっと、無残に喰い殺されていたでしょう」
「そうか。帝都で正騎士にまでなったお前でも無理なのか」
クルスはなぜかくっくと笑った。
(この男、何を言っているのだ)
セイは眉をひそめた。
クルスの考えていることがまるで分からなかったのだ。
エリアスも同じことを思ったのか、困惑した表情をしていた。
するとクルスは、唐突にいった。
「エリアス、少し席をはずせ。俺はこの者と二人だけで話がしたい」
「しかし……それは……」
エリアスは躊躇した。そんなエリアスを、クルスはにらみつけた。
「はずせといっているんだ。これは命令だ」
「わ、わかりました……」
エリアスは渋々席をはずそうとする。だがミーナはセイのそばから離れようとしなかった。
「何の真似だ、ヴィルヘルミナ。貴様も出ていくんだ」
ヴィルヘルミナ――それが彼女の本当の名だとセイは気づいた。ミーナとは愛称だったのだ。
「わ、私は残らせてください。その……」
ミーナは、セイのことを心配していた。
クルスと二人だけにすると何があるか分からないと思ったのだ。
クルスの表情が、目に見えて変わった。
「ヴィルヘルミナ、この汚らしい売女が。そこまでして男に媚びを売りたいのか。貴様が出ていかんというのならこの俺がたたき出すぞ」
妹に対するとは思えない、あまりにもきつい言い方だった。
ミーナの顔に、怯えが走った。
「……兄上。ミーナをいじめるのはおやめください。さあ、ミーナ。兄上の言うことに従おう。こっちへ来なさい」
エリアスがミーナの手を引いて立ち上がらせた。
ミーナは怯えきっていて、声も出せなくなっていた。
二人は、そうして部屋を出ていった。
後にはセイとクルスだけが残された。
「……不愉快な女だ。どこまでも俺をいらつかせる」
クルスのミーナに対する反応は、あまりにも苛烈だった。
クルス、エリアス、そしてミーナ。
名門ベルメール家の三兄妹――その歪な関係性が、何となくセイにも見えてきた。
家長のクルスが、異常なまでの権力を持っているのだ。
クルスは気を取り直したように、セイを見た。
「……さて、イストリム人。くだらん邪魔が入ったな。話を続けようじゃないか」
「……俺はあんたと話すことなど何もないんだがな」
セイは冷めた調子でいった。
この男――クルスはどこか危険な匂いがする。
あまり関わるべきではない。
クルスも、セイの警戒心を感じ取ったようだ。
「そんな顔をするな。何もお前に危害を加えようというわけじゃない。ただ個人的に、お前と話がしたいと思っただけだ」
「個人的に……だと」
先ほどあったばかりの者と、一体何を話すというのだ。
「……ところでイストリム人よ、話は変わるが、お前はリーディアという街を知っているか。この近くにあるのだが」
「……ああ、知っている」
当然だ。セイは先日までそこにいたのだから。
「あのリーディアは、もともとは我がベルメール家の土地だった。だが五年ほど前に、ある男にかすめ盗られた。ザシャという、俺と同じ帝国貴族にあたる男だ。イストリム人、お前はザシャを知っているか」
「……名前くらいはな」
セイは小さくうなずいた。ザシャは無名の者ではない。リーディアを知っていてザシャを知らないのは無理があった。
「名前くらいか。お前たちイストリムとの戦争では英雄とすら呼ばれた男なんだがな。その英雄サマのザシャだが、つい最近何者かに殺されたらしいのだ。それは知っていたか」
「……いや、はじめて聞いた」
セイは、嘘をついた。
知らないふりをしたほうがいい、そんな予感がしたのだ。
クルスは、セイの目をじっと見ていた。
「そうか。知らなかったのか。それは意外だな。ザシャの死はこの辺りの者なら誰でも知っている。それくらい衝撃だったのだ。何せ大魔導士とすら呼ばれた戦争の英雄が、突然殺され、屋敷を焼き払われたのだからな。街を歩いていればいくらでも耳に入ってきたはずだが、本当に知らなかったのか」
「知らないな。そもそも俺はこの辺りの人間じゃない。ただの流れ者だ。あんたたち貴族のことなど興味がないし、耳に入ってこなかったのだろう」
セイは突き放すようにいった。だが、頭の中では嫌な予感がふくれあがっていた。
(……この男、なぜザシャの話ばかりをする。何かに気づいているのか)
クルスは、もう一度笑った。
先ほどよりもさらに歪んだ笑い方だった。
「……仕方がないな。それではもう一つ教えてやることにしよう。イストリム人よ、俺には独自の情報網があるんだ。それによると、事件があった少し前、リーディアに一人の男が現れたそうだ。その男は街の兵士ともめた後、どこかへと姿を消した。そして翌日になり、再び姿を現した。ザシャの屋敷のすぐ近くでだ。ザシャの屋敷が焼き払われたのは、そのすぐ後のことだ」
クルスはセイの目をじっと見ながらしゃべり続ける。
「焼け跡からは、おびただしい数の死体が発見された。そのどれもが斬り殺されていたそうだ。信じられるか、その男は、屋敷にいた兵士を全て殺し尽くしていたのだ。異常なまでに強く、恐ろしいほどの剣の使い手だ。ザシャのような戦争の英雄ですら殺してしまうほどにな」
クルスの口調は、興奮からか熱を帯びている。
この男は危険だ。これ以上喋らせるな。
セイの頭の中で警報が響く。
「しかもだ、その男は、一つの分かりやすい特徴を持っていた。黒髪の――イストリム人だったのだ。なあ、イストリム人よ。俺に教えてくれ。お前たちイストリム人は、
それが、答えだった。
クルスは、セイを見た瞬間から見抜いていたのだ。
ザシャを、殺した男であると。
だから、あの時にクルスは笑ったのだ。
無意味に思えたエリアスへの質問は、その外堀を埋めるためのものだった。
帝国において、貴族を殺害したものは処刑される。
第一印象から、クルスはどこか危険だと思っていた。
それは、間違いではなかった。
だがクルスは、一つの重大な過ちを犯していた。
それは、
「……あまり、俺を見くびらないほうがいい」
セイは、恐ろしく冷たい声でいった。
その瞬間、クルスが何をするよりも速く、セイは刀を抜き去った。
鋭い刃が、クルスに突きつけられる。
「動いたら殺す。叫んだら殺す。抵抗したら殺す」
短い言葉。いうべきことはそれだけだ。
片腕が使えなくても、この男を殺すくらいはできる。
クルスは、動じていなかった。
「……愚かだな、イストリム人。それでは自分でザシャを殺したといっているようなものだぞ」
「違うといったところで、どうせあんたは信じない」
やられる前にやる。セイはそういう生き方しかできない。
二人は、束の間にらみあった。
クルスがいった。
「……それで、俺をどうするつもりだ」
「あんたを人質にする。嫌なら殺す」
「俺を殺すだと。ザシャのようにか」
クルスは、笑っていた。
「何がおかしい」
「別に……お前があまりにも浅はかだったのでな。それで、俺を殺してその後はどうする。部屋の外にはエリアスがいるのだぞ。お前ほどではないが、奴とて帝都で正騎士にまでなった男。簡単ではあるまい。人質にしたところで同じだ。我がベルク兵団はどこまでもお前を追いかける。たとえ地の果てだってな。分かるか、俺に手を出した時点で、お前は終わりなんだよ。そもそも――」
クルスがぐいと詰め寄る。眉間に刃が触れるほどに。
「――そんな青白い顔をして、俺を人質になんてできるのか」
セイの顔は、真っ青になっていた。額には大量のあぶら汗をかいている。
体に何らかの異常が発生しているのは明らかだった。
「知っているぞ。その腕、異獣に嚙まれたんだってな。奴らの体液は人間には猛毒だと聞く。その様子では、相当回っているんじゃないか」
その通りだった。
クルスが現れたあたりから、セイの体調は急激に悪くなっていた。
実際のところ、今のセイは立っているのがやっとだった。
「お前には失望したよ、イストリム人。さっきもいったが、俺はお前に危害を加えるつもりはなかった。俺はな、お前に会ってみたいと思っていたんだ。正確には、ザシャを殺した者にだが。ザシャは長年に渡り、我がベルメール家の宿敵だった。奴は我らの領地をかすめ盗った不届き者だ。俺は奴を殺してやりたいくらい憎んでいたが、奴は狡猾で、俺に対して一切の隙を見せなかった。奴が死んだと聞かされた時、正直おどろいたよ。誰が、奴を殺すことができたのかと。だから俺は、お前と二人だけで話がしたかった。誰にも邪魔されず、すべてを闇に葬るつもりでな。理解したか、イストリム人。俺はお前を捕まえるつもりなんて、最初から無かったんだ」
クルスはしゃべり続ける。
だがセイの頭には半分も入ってこない。
異獣の毒のせいだ。
「それが実際に会ってみたお前は、どうしようもない愚か者だった。後先考えず俺に剣を向けるだと。信じられない大馬鹿だ。それでいて体に毒が回りまともに動けないなど、もはや笑い話にもならん。しょせんは、イストリム人ということだな。存在する価値のない愚図で下等な民族。お前もその他と同じで、ゴミでしかなかったということだ」
クルスの言葉には、イストリム人に対する明確な悪意があった。
「……俺たちを、馬鹿にするな」
今のセイにはそれを口にするのがやっとだった。
クルスは嘲笑う。
「口だけは一丁前だな。それで、どうするのだ。その剣で俺を殺すのか。ならやってみろ。俺は逃げたりせんぞ」
クルスは声を張り上げた。
いつものセイなら、この場で斬り捨てている。
だが今は――。
(刀が重い……動かすこともできない……)
クルスの声は、部屋の外まで聞こえていたのだろう。
ドアがノックされた。
「兄上。何かあったのですか」
「何でもない。引っ込んでいろ、エリアス」
「そうはいきません。開けます――」
そしてエリアスは、クルスに刃を向けるセイを見て驚いた。
「君は――何をしている!」
エリアスが腰の剣に手を伸ばした。だがそれをクルスが止める。
「放っておけ。こいつは何もできん」
「で、ですが……」
エリアスはそこで、セイの様子がおかしいことに気がついた。
「酷い顔色だ。異獣の毒か――」
セイは、すぐにでも介抱してやる必要があった。
だがエリアスはセイを助けることを躊躇していた。
セイはとうとう立っていられなくなり、ふらついて膝をついた。
汗がひどい。
セイの意識はすでに朦朧としていた。
「……ヴィルヘルミナ。貴様何をしている」
ミーナがセイのそばに駆け寄り、その体を支えようとしていた。
「セイ様を休ませてあげます。このままではあんまりです」
「誰の許可を得てそんなことをしている。勝手なことをするな」
「セイ様は、私を助けたが為にこうなったのです。私は、何があってもこの方を助けます」
ミーナははっきりといった。
その目には、有無を言わさぬ強い意志が宿っていた。
「さあ、セイ様。こちらです……」
ミーナがセイに肩を貸し、部屋から連れ出していく。
クルスはそんな二人の様子を、忌々しげに見ていた。
「汚らしい血を持つ者同士でみじめに助け合いか」
その言葉には、明らかに差別的な意味がこめられていた。
「……兄上。言い過ぎです。彼らを侮辱するのはおやめください」
エリアスが諭すようにいったが、クルスは意に介さなかった。
「下らん。本当のことをいって何が悪い」
ベルク城のとある一室。
熱にうなされるセイは、まどろみの中、夢を見ていた。
それは――いつかの記憶。
すべてが終わった日。
そして、すべてのはじまりの日。
(街が……燃えている)
少年のセイは、高台から焼け落ちるイストリムの街を見ている。
千年の都と謳われた美しい都市。
それが灼熱の炎に包まれていた。
(セイ様。お立ちください。奴らが追ってきます)
ある男の声がする。その声は緊迫感に包まれている。
だがセイは膝をついたまま動こうとしない。
(セイ様。何をしているのですか。早く)
(逃げて……どうするというのだ)
セイは、震える声でいった。
(俺は、すべてを失ってしまった。父も、母も、国すらも失ってしまった。俺だけが生き延びて、いったい何の意味がある)
セイの声は、嗚咽にまみれていた。
奈落よりも深い絶望。
この時のセイは、ただ死ぬことだけを望んでいた。
(……セイ様)
また別の声がした。
その声の主は、涙にくれるセイをそっと抱きしめた。
(セイ様。私がいます。私がずっとあなたのそばにいます。あなたは一人じゃありません。私があなたを守り続けます。ですから、セイ様――)
その声の主は、震えていた。
怖いのだ。
セイと同じように、この世界に絶望していたのだ。
それでもその声の主は、涙に濡れる顔で懸命に笑って見せた。
(――どうか、私と共に生きてください)
その者の胸元で、美しい宝石がきらりと光る。
二人にとって特別な、約束の宝石。
そうだ。この者を残して、セイが一人で死ぬなどあってはならないことだった。
最初の男がいった。
(セイ様。この焼け落ちる街を見てください。この光景を目に焼きつけてください。怒りです。怒りこそがあなたを強くするのです。イストリムは、まだ死んでいません。あなたが生きている限り――イストリムは生き続けるのです)
セイは言われた通り、街を見下ろした。
静かに、ただ黙って。
このとき芽生えた感情を、セイは生涯忘れることはない。
それはすべての終わりにして、はじまりの日。
奴らに復讐すると、心に誓った日。
セイは、目を覚ました。
「ここは……?」
そこは、ベルク城の一室。
月明りの差し込む小さな部屋だった。
「俺は……どうしてここに……」
セイは、倒れる前の記憶をたどった。
クルスとのやり取り。異獣の毒。
そうだ。ミーナだ。ミーナがセイをここに連れてきて、そして付きっきりで看病してくれたのだ。
ミーナは、いつの間にか部屋からいなくなっていた。
だが少し前までいたことが、部屋の様子からわかる。
セイは、ゆっくりと体を起こした。
ミーナのおかげで、体調はずいぶんとマシになっていた。
セイは、おぼろげながらもクルスとのやり取りを覚えていた。
結局のところ、クルスはセイを捕まえなかった。
奴は本当に対話を望んでいただけだったのだ。
セイは、唇をかみしめた。
「俺は……何をやっているんだ……」
ひどくみじめな気分だった。
クルスは、セイを愚かだといった。
その通りだ。
セイは焦りからクルスに刃を向けてしまった。一歩間違えれば殺されていた。
セイは、勇敢である。力もある。だが死ぬのが怖くないなんて、口が裂けてもいえない。
あれは、勇気ではなかった。考えなしの、ただの愚行でしかなかった。
セイは、自分の胸元をそっと探った。
そこには、あの美しく輝く宝石があった。
セイは、それを静かに握りしめた。
「……しっかりしろ。俺は、まだ死ぬわけにはいかないんだ」
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