YELL

夏香

YELL

 いつ、誰が書いたのだろう。部室の壁に書かれた「目指せ、甲子園出場」の文字。 一年の入部の時からずっと見ていた。いつの間にか壁の文字はかすれ、消えかかっている。

 内山祐樹うちやまゆうきは、卒業証書を入れた筒を持ちながら、壁に書かれた甲子園の文字をボンヤリと眺めていた。

  今日は卒業式。この野球部の部室ともお別れだ。そう思うと、何もかも懐かしく思えてくる。今度この部室にやってくるのは、野球部の部員としてではなく、野球部のOBとしてだ。きっと今の気持ちとは全然違う気分なんだろうなと内山祐樹は思った。そして、ゆっくりと部室の中を見渡した。

 汗と涙が染みこんだ部室。泥だらけのユニフォームと傷だらけのグローブ。一年の時の夏の合宿、真冬の雪の中でのランニング、春の大会でのまぐれ当たりのホームラン、最後の大会での三振。どれをとっても懐かしく思えてならなかった。できることなら、もう一度一年生の時からやり直したい気持ちでいっぱいだった。

「やっぱりここにいたんだね」

 急に後ろから声を掛けられ、内山祐樹は、振り返って声の方を見た。

 部室の入り口にいたのは、制服姿の野崎朋美のざきともみだった。朋美ともみ裕樹ゆうきと同じように卒業証書の筒を持っていた。

「みんな探してたよ、ユウキ、急にいなくなっちゃうんだもん」

 朋美ともみが言った。

 なんとなく部室に来たかったんだ、と裕樹が言った。

「いろいろ思い出があるもんね、ここ」と朋美。

「お前もな」と裕樹。

 朋美はたった一人の野球部のマネージャーだ。そして彼女も今日、卒業式だった。

「目指せ甲子園か……みんな青春って感じだったね」

 朋美が壁の落書きを見ながらポツリと言った。

「甲子園なんて行けっこないのに、みんなバカだから夢中だったんだよ」

 裕樹がフフフと笑いながら言った。

「ほんと、みんな野球バカって感じだったね」朋美も笑った「でも、最後はけっこういいところまでいったんじゃない」

 あと一勝で「県内ベスト16」というところまで進んだことがあったが、やはり野球は、方々からいい選手を集められる私立高校が強く、内山たちの公立高校ではレベルの違いがはっきりと出てしまう。

「ねえ、何が一番思い出に残ってる?」

 朋美が笑顔で訊いた。裕樹は、すぐに答えられた。

「そりゃあ、やっぱり二年の時のサヨナラホームランだよ」

 内山たちの高校が、絶対勝てないだろうという私立の名門を7対8で破ったことがあった。そのサヨナラホームランを打ったのが裕樹だった。

「ああっ! あれかッ! みんな甲子園で優勝したみたいに大喜びだったね」

「おまえは?」

「アタシはやっぱり、秋の大会の大谷君のデッドボールかな」

「ああ、あれか。大変だったよな」

 大谷という選手が、相手投手からデッドボールを受け、救急車で病院に搬送されたことがあった。

「みんな病院に集まっちゃって大騒ぎだったじゃない」

 二人はその時を思い出して同時に笑った。しかし、すぐに裕樹は笑いをやめ、大真面目な顔になり、言った。

「俺、お前に言えなかったことがあるんだ」

「うん、わかってる。最後の試合の時でしょ」

 朋美もまじめな顔つきで真剣に言った。

 裕樹たち三年生の最後の県内の甲子園予選。ここで敗ければ甲子園の夢は断たれ、裕樹たち三年生は「引退」するという大事な最後の試合でのことだった。

 九回裏、ツーアウト、バッターは裕樹だった。裕樹は、バッターボックスに入る前にベンチの隅で朋美に言った。もしも、ヒットを打てたら、三年間ずっと好きだったことを真剣に告白するということを。

 しかし、結果は見逃しの三振。ゲームセット。裕樹はバッターボックスの中でガックリとヒザを落とし、その場から動けなかった。そして裕樹たちの高校野球三年間は終わり、朋美への想いも同時に消えて言った。

「いま言ったら」朋美が言った「あの時言えなかったことを……いま言っていいよ」

 裕樹は朋美の言葉に戸惑った。あの時の見逃し三振で、朋美への気持ちも胸の奥へしまいこんでしまったのだ。

「お、おれ、三振したし……そのせいで」

 試合に負けたと裕樹は言った。

「だから? だから何?」

「無理だよ、もう」

「そんなの関係ないよ」朋美が言った。そして朋美は信じられないことを裕樹に告げた。

「アタシ、あれから二人の男子にコクられたの」

「!」裕樹は朋美の言葉に唖然あぜんとした。

「サッカー部の久保君でしょ、それからバスケ部の河村君、でも、その二人とも断ったの。どしてだかわかる?」

 裕樹はあまりの驚きに黙りこくってしまった。そんなことがあったとは、ぜんぜん知らなかった。

「だから、今、言って、お願い」

「でも、あの時、三振したし……」

 裕樹は下を向いてうなだれた。あれから一年近くも経っている。いまさら言えないと思った。

「ほら」朋美はバットを裕樹に差し出した「もう一度バッターボックスに立てば。そしてホームラン打てばいいんでしょ」

「でも、ピッチャーがいないぜ」裕樹が言った。

「アタシが投げてあげるよ」朋美が笑顔で言う。

 二人は誰もいないグラウンドへ行った。そして、ピッチャーマウンドに上がった朋美は制服姿のまま大きく振りかぶり、バットを構えた裕樹に向かって白球を思い切り投げ込んだ。

 そして裕樹は、握ったバットを思い切り振り抜き、朋美の投げた球を打ち返した。その打球は、快音を響かせ、大きな放物線を描きながら青い空に消えていった。

 二人の本当の「卒業式」は、今終わった。


   THE END

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YELL 夏香 @toto7376

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