倒立する聖家族

日音善き奈

第1話

蟹座のせいか、安心できるところへいきたいという思いが強くある。


三十前後の頃、それは優しい笑い方をする、隣の席の先輩に恋をした。

雰囲気が好きとでも言うのだろうか。

彼のそばを通るとふわりとあたたかい、いい匂いに包まれた。


告白とも言えないような見苦しいやり方で思いを伝えたけど気持ちは届かず、それでも吹っ切ることができなくて苦しかった。

隣から漂ってくる芳香に気が狂いそうだった。


その頃からだ。私が占いにハマったのは。

「何も言っていないのに、すらすらと過去を当てられました!」

「恋愛相談で行きました。私の彼氏知ってるのかな?と思うぐらいピタリとあたってました」

インターネットの掲示板を見ると刺激的なレビューがずらりと並ぶ。

評判の高い占い師は三十分で一万円することもある。

私は貯金を切り崩しながら足繁く占い師のもとに通った。


占いとは不思議なもので、七割あたってなくても残りの三割あたっていればその三割が印象に残る。

七割の占い師がその恋はダメだと言っても、残りの三割がイケると言えば脈があるように思えてしまうのだ。


実際のところは明らかに、彼は私を鬱陶しがっていた。

なのにどんなにジャブを打っても、むしろジャブじゃなく単なる嫌がらせになっても、彼はいつも困ったような眠たげな目であいまいなことを言うのだ。


いっそひと思いに、この思いを殺してくれたらいいのに。


終わりのない占い地獄。

嫌がられるとわかっててバレンタインのチョコを贈ったり、お弁当をつくったり、ジョークにもならないような寒いからかいの言葉をぶつけたのは、決定打となる一言がほしかったんだと思う。


結局、貯金とともにこの恋は終わった。

もともと身が入っていなかった仕事を退職し、実家に戻った。


実家に戻ってからはアルバイトをしたりしなかったりで十年が経ち、不惑を迎えた。

アルバイトは数ヶ月で辞めてしまうこともしばしばで、両親は心配していたと思う。

占いにお金を払うのはやめたけど、ネットの掲示板を覗くのはやめられない。

長いこと恋してないけど、同年代で未婚の女性が多くて水が合うのだ。

占いを好むのは女性ばかりと思われているが、意外なことに男性でも会社の経営者や政治家などが使うという。

国家や会社の運命は、ひとの力ではどうにもならない。

ほとんどギャンブルに近いのにうまくいけば英雄、失敗すれば先見の明のなかった愚か者。

自分の力でどうにもならないものに向き合うとき、人は占いを頼るのかもしれない。


だとすれば私にとって、いや、ここにいる人たちみんなにとって人生は自分の力ではどうにもならないものなのかもしれない。

いつもちょっとしたことで諍い合う住民がとても心細そうに、哀れっぽく思えた。


この頃に見た夢で、妙に印象に残っているのがある。

抜けるような青空の下、私は助けを求めて彷徨っていた。

誰かの声が聞こえる。

モンゴルの合唱のような、アワー、アワーという男性の声が何重にも重なって響く。


枯れ草を踏みながら歩いていると真っ白に塗られた古い小屋が見えた。

ブラインドの隙間を覗くと、茶色い肌の外国人が座っていた。

見た瞬間がっかりした。

その人がヨボヨボのお年寄りだったからだ。

「あ、おじいさんか……」

そう思った自分に恥ずかしくなる。

自分が求めてた助けって、つまり、そういうことか。

彼の唇は震えながらお経のような言葉を唱え続けており、私のことは目に入らないようだった。

私は途方に暮れながら、その小屋をあとにした。


私が望むような助けは来ないし、そうじゃない誰かがいたとしても声のかけ方がわからず通り過ぎるだけ。


夢は自分の人生を象徴しているように思えた。


いつものように掲示板を見ていたら、気になる書き込みが目に入った。


「デイム・ダスクの占い無料やってるね。前たまたま当選して占ってもらったけどよかった」


私は無料という言葉に弱い。

評判が良さそうだったのでキャンペーンを見つけ出して、適当に情報を入れて応募した。

しばらくしてスパムみたいな当選メールが届き、そのとき初めてデイム・ダスクのウェブサイトをちゃんと見た。

光りに包まれた薔薇の庭に立つ、赤いカーディガンを羽織った品の良い老婦人。

この女性がデイム・ダスクらしい。

私は自分の半生を簡単にしたためて彼女に送った。

一週間ほどして、お決まりのありがちな励ましと優しい言葉が散りばめられた返信が届いた。


もっと具体的な言葉がほしかった。

何月何日何をすれば幸せになれます、というような。


ところで、このことでメーリングリストに登録されてしまったようで毎月メールマガジンが届くようになった。

メールマガジンは団体名で届くので、デイム・ダスクの名しか覚えていなかった私はスパムだと思っていた。


何かのきっかけで

かは忘れたが、このメールを読むようになった。

英語だけど文章がきれいで引き込まれるのだ。



そう、デイム・ダスクの書き出しはいつもこんな風に始まる。


愛していた人に裏切られたとき、私は手紙を書こうとする。

『誤解ですよ。そういう意味ではなかったんです。私は今も変わらず、あなたを愛しています。』

そんな返信がきっと来ると信じて。私が想像で口を借り語らせているのは、一体誰なのだろう。私が執着しているのは、私が身勝手に作り上げた想像上の相手。解き放ってあげなくてはならない。


十年前の私がこのコラムを読んでいたら、何か変わっただろうか。多分何も変わらない。先輩と私は席が隣で、いつもその香りに悩まされていたのだ。でも泣いたと思う。想像とのギャップを埋めきることができずに苦しんでいる人がここにもいた、と。


あるいはこんな日もある。


苦しい時、このつらさを誰かにわかってもらいたいと強く願う。隣人に哀れみを乞うのはもちろん、弱い相手には横暴に振る舞うこともある。最も弱いところにいて、誰にも当たったりなぐさめてもらえない人の苦しみは、自分の中に残って、自分を毒する。それは、重力のように圧倒的にのしかかる。どうして、そこから解き放たれるだろうか。重力のようなものから、どうして、解き放たれるだろうか。


バイト先のコールセンターのことを思い出した。難しいケースでどうしてもお支払いに納得してもらえなかったが、上司は対応を替わってくれなかったばかりか、耳元で相手をコケにすることを私に言わせたのだ。彼女は激怒の上ガチャ切りし、私はトイレにこもって泣いた。上司たちはやってやったぜとばかりに大笑いしていた。

悪質なクレーマーなどではなく、相互の食い違いで余分な料金が発生してしまっただけなのに。上司が傷つけたかったのは客ではなく、おどおどしていつも誰かが助けてくれるのを待っている、身を守るすべのない私だった。

デイム・ダスクは続ける。

私自身、自分より弱いものに苦しみを背負ってもらおうとするところがある。相手を尊重しきれていないのだ。たとえ地獄にいたとしても私は本当に美しいものを汚そうとはしないだろう。それなら、なぜ、周りの人に苦しみを背負わそうとするのか。たとえばほんのひととき、幸福になれるかもしれないひとりの人の人生のそのひとときをなぜ破壊するのか。


自分に魔法をかけてみる。たとえばこたつのように温かいと宣伝されている靴下を履いて、本当にこたつに入っているのを想像する。これは靴下メーカーの人が購入者を思ってかけた魔法。誰かの願った幸せの結晶で、私はその愛を受け取る。この世界が祈りで満たされたものに感じ、バイトに行くのがほんの少し楽になった。


思いもかけぬ募集があったのは春先のことだ。ベルファストに新しくロッジを作るので、協力者を募集しているという。年齢制限はなく、条件は現地で仕事をすること。パートタイマーでもフルタイムでもよく、主婦になってもいいし、なんなら物乞いでもいいらしい。

自分に直接誘っているような気がした。家族や仕事のある「普通の人」ではきっと行けないだろう。コールセンターのバイトも退職したばかりで、文字通り無敵の人だった。なんにもないからどこにでも行ける。気楽な気持ちで応募した。


内定が来たのは応募のことなどすっかり忘れた半年後。家にいることの体裁が悪く、そろそろ次のバイト探そうか迷っていた頃だった。気は進まないが求人を見ればやる気が起きる。長く続かないのは承知の上、一瞬の気の迷いに乗じて応募する。入社してすぐ嫌になるけど辞めたいと言えず倒れるまでは続ける。このパターンがもう何年も続いていた。

それにしても、なぜ私が選ばれたのだろう。見どころがあったのか、それとも単に応募者が少なかったのか。何か重大なことを決めるとき、私はいつも天啓(おつげ)を探す。メールの文面が私を名指ししているように見えるとか、先週見たテレビにベルファストが映っていたとか。妙なクセだと思うが、やめられない。神に凝視されていると信じることでここまで生きてきた。


案内のメールを見ると、来月にオリエンテーションがあるから出席するようにとのことで、ずいぶん急だ。長いこと待たせる割にこちらの準備を待ってはくれない。迷いながらもとりあえず航空券の値段だけ確認することにした。早朝は九万代からあるが次の時間は十六万円もする。起きられるだろうか。前日に空港近くのホテルで泊まるか。でも慣れないホテルに泊まって迷わないか心配だ。

やめてしまおうか

トラブルに遭ってとんでもない出費があるかもしれない。そもそも仕事を見つけなくてはならないという条件がハードルが高い。物乞いも仕事にカウントしてくれるとのことで気軽に考えていたが、それすらできないように思えた。

それでも、と思い直す。

ここで暮らすのはもう手詰まりに思える。これまで一体いくつのバイトを経験してきたのだろう。最近は求人情報を見ても、一瞬の気の迷いですら湧かなくなっていた。


JAL厦門経由ダブリン行き301便、新天地へ。

空港のガラス張りのラウンジは、行き交う人々で賑わっていた。天井から床まで続く広々とした窓はアイルランドの灰色の空を写し、アエル・リンガスの大型機が静かに滑走路に佇んでいる。入り口付近でキョロキョロと周りを見回している女の子がいた。もしかしたらと声をかけると、彼女も行き先は同じだった。

 ジヒュンという名の、20代ぐらいの細くて小さな女の子。しぐさや表情から日本人かと思ったが、韓国人らしい。たどたどしくも日本語が喋れるので、甘えてそれでやり取りさせてもらった。

「大学院生で、海洋学を勉強しています」

私の質問にジヒュンは答えた。就職活動も終わり、時間があるので参加したという。ノルウェーに恋人がいるそうだ。

持ってる人はなんでも持ってるな。前途洋々たる彼女を見て思わず嘆息した。

出発ロビーの前でバスが待っていて、ベルファスト・ロッジまで運んでくれるらしい。彼女についていくかたちでバスに乗ることができた。

考えてみれば私は三十で仕事を辞めてから、体調を優先して無理のない生活を送っていた。とはいえバイトでも無理はあって、就業中はそれなりにつらい。入社して数ヶ月もすると半病人のようになってしまい、つらいだけでキャリアも実績も積めない状態だった。

ジヒュンは無理をする。自分を追い込んで勉強する。見返りとして学歴ややりがいのある就職先、自分への自信を得るのだ。

今からでもこんな風になれるだろうか。ジヒュンの隣に座りながらぼんやりと考える。

無理して生きたいわけじゃないけど、親には心配をかけている。特に今みたいにバイトもしてないと家の中もぴりぴりする。英語もさほどできないのにアイルランドに来たのは、実家の居心地に耐えられなかったのもある。

ゴミみたいだな、と我が身を思った。

会社に入れば同僚は困って持て余すけど、親や親戚は一安心。会社を辞めるとゴミが戻ってきて今度は親・親戚が私を持て余す。腰を落ち着ける場所も見つからず流浪の旅を続ける。次こそは自分のホームと呼べるものがほしい、と。

バスは丘陵地帯を横切るアスファルトの道を走っていく。ゆるやかに広がる茶色い枯れ草と鈍い緑の植え込みが続く道を三時間ほど揺られ、ベルファスト・ロッジに到着した。ロッジは大きめの図書館ぐらいで、白い外壁と窓のみのシンプルな建物だった。

エントランスにはホテルにあるような受付デスクと座席エリアがあり、先に着いた会員たちが談笑している。女性のほうが多い。みんなデニムなどボディコンシャスな格好で、スカートは私だけだった。締め付けが苦手なのと丈を間違えそうでスカートばかり履いていたが、どこかでパンツを調達しなくてはならない。

数少ない男性は、お腹の突き出た白人の高齢男性や虫みたいに黒尽くめの小柄な人など、どこか寂しそうな人が多かった。人のことは言えまい。私だって似たようなものだろう。レセプトを済まし自分の部屋に向かおうとすると、奥の壁に額縁に入った、ターバンを巻いた老人の絵が目に入った。

夢で見た人だ。

古い小屋でブツブツとお経を唱えていた老人。夢ではもっと小汚かったが、面長の顔や垂れた目はそっくりだった。

ジャッラル、アル、ディン、ムハンマド、ルーミー。詩人、神秘主義者。額縁の下に10行ほどの解説が載っており、一番最後にアイルランドとのつながりが書かれていたが、英語力が足りないのかよく理解できなかった。

ロビーを見回す。誰もこの絵に関心を示す人はいない。自分から話しかける勇気もないので通り過ぎた。


柔らかな晩夏の日差しが窓から差し込んでいる。かなり使い込まれた様子で、グリーンの下地に花柄の壁紙は消えかけているほどに色褪せていた。窓からは夕日に輝く葉っぱの緑が見え、光と影のコントラストが美しい。壁に沿って置かれた木製の卓上には筆記用具、その手前に籐の椅子。ベッドは二つで、あとからもう一人来るらしい。トランクを開けて着替えをハンガーに通していると、バタバタと階段を登る音がした。

二十代もしくは三十に差し掛かったぐらいか。黒髪を後ろでまとめた褐色の女性。こちらがぺこりと頭を下げるとニヤッと笑ってハァイと言った。

「もう仕事決まってる?」

「いいえ。飲食店で働いてたから、同じのを探そうと思ってる」

なんの不安も感じていなそうに笑う。これまで元気に働いてきた実績があって、これからも働ける自信もあるのだろう。


翻って我が身は。少し落ち込みながら片付けを続けた。


時計を見るともう少しで四時半。ノートとペンだけ持ってリビングスペースに向かう。大きな楕円形の木製テーブルを中心に黒いレザーのアームチェアが部屋のあちこちに並べられていた。できるだけすみっこに腰掛け、オリエンテーションが始まるのを待った。

現れたのはふっくらした頬の黒髭の男性でジェイクと名乗った。

「レーブングラス兄弟教会へようこそ。お会いできて幸せです。この組織はイギリスのレーブングラスで発足しましたが、今回が初めての海外ロッジです。これはとても野心的な試みで、成功のため皆さんの力を必要としています。この祝福された地で一緒に素晴らしいチームを作っていきましょう。それでは会の規則と案内について上から順に読み上げていきますので、認識していきましょう」

おかっぱ頭の金髪の女性がそれぞれの席にプリントを配っていく。ミーティングの時間や近隣のスーパーの案内、バス停の場所など、十分ほど話し

「それではデイム・ダスクからあいさつを」

と言うと、隣りにいる緋色のカーディガンを着た高齢の女性を指した。

「お会いできて幸せです、皆さん」

デイム・ダスクははにかみながら続ける。

「皆さんと一緒に働けることをとても楽しみにしていました。ようこそRBチャーチへ。私は郊外の古き良きキリスト教家庭で育ち、八十四年間ずっと神とともに歩んできました。最近はリバプールで行き場のない妊婦の居住型支援をしています。これは八年続けており、私のライフワークとなっています。今回皆さんとともに成し遂げたい、特別なミッションがあります。それはここでの生活を記録し、互いに話したり聞いたりしてほしいのです。ここでは誰もが兄弟姉妹です。お互いに思いやりを持ち、誠実であってください。おそらく私にとって生涯最後の、そして最大のミッションになるでしょう。皆さんにはすぐに意味がわかると思いますが、ここは本当に、素晴らしいところです」


翌日、お昼すぎに寮を出た。ドライヤーと、冬が来る前に電気毛布がほしい。こまごまとした日用品も揃えたかった。トランスリンクUKの黄色い大型バスに乗ると、最寄りのバス停からベルファストまで四十分弱で着いた。香水とかジュエリーとか本屋とかカフェとかおしゃれなお店は多いけど、実用的なお店がないと思った。百均がないのは不便だ。でも考えてみたら、日本でも百均とスーパーぐらいにしか行ってなかった。それで買えなければほとんどネットショッピングだ。日本と違うのは百均のあるなしかぐらい?結局家電量販店は見つからず、カフェで甘ったるいスイーツとコーヒーを頼んで休んで帰った。

求人探しもしたかったが、日本のような広告を見かけない。これもネットで探したほうがいいのかもしれない。今度探そうと思ってるうちに時間は過ぎていき、ミーティングのある曜日が来てしまった。

マルシアという同室の女の子に聞くと、彼女もまだ仕事を見つけてないというので少し安心した。

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倒立する聖家族 日音善き奈 @kaeruko_inonaka

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