第21話 サバス視察

 秋口にあった不幸で延期になっていたが、王太子による地方の視察が再開された。

 年の瀬も近づく今の時期に訪れるのは、南西方面、サバス地方だ。

 サンコスタ地方とは海沿いの街道で結ばれており、主要産業は同じく漁業。他にはこの地発祥の醸造酒があり、王都でも人気がある。

 南方との交易も行ってはいるが、サンコスタ程の規模ではなく、交易品も嗜好品が主体である。

 毛織物も盛んで、西部にある小高い台地で大規模な牧羊が行われている。

 クリストフが視察の目的としているのは、この牧羊と漁業、そして酒造所だ。

 領主の配偶者であるアデリナ夫人による報告では、人口と経済、産業は全体的に横ばいの安定した状態にあると判断できるが、ノルドヴェストの例があるために油断は出来ない。

 王都から西方に伸びる街道を通り過ぎ、西部ランタナ地方に入る直前で南に方向を変える。

 この周辺は広い草原地帯になっていて、大きな魔物は数が少ない。

 しかし、全体的に俊敏なものが多く、通り抜けるにはやはり警戒しなければならない地域だ。

 見通しはそれなりに良いものの、岩や草に擬態している魔物もいるため、常に探査術が欠かせない。

 幸いな事に騎士団はその技術に長けているものが多いので、王族がここを通る時にはあまり問題にはならないようだ。

「シャーリーン、お前はサバスに行った事があるか?」

 目の前で目を瞑っている女騎士に尋ねた。

 寝ているわけではないのは分かっている。

「いえ。初めてです。そもそも私はサンコスタを含め、南の方面には一切足を伸ばしたことがありませんでしたので」

「そうか。土地勘のあるものがいれば心強いのだが」

 騎士団は基本的にあまり外に出ない。

 王族の警護や王城の警備が主体となるので、わざわざ遠方まで足を運ぶのは、こういった視察の時ぐらいなのである。

「その点は問題ないでしょう。今回は近況報告の日からは外れていますし、領主も邸に居られます。案内は地元出身のスパダ商会の方がしてくれるそうですので、ご安心下さい」

「スパダ商会の?民間の案内者か」

 王国に冠たる大商会ではあるが、サンコスタに本店を置く、れっきとした民間の商会である。

 国営の銀行や半分公的な機関である冒険者協会とは違うのだ。

「はい。なんでも、あのレディ・キラーを大きく広めた貢献者だそうです。領主ともかなり距離が近しいようで」

「そうか。癒着には気を配らねばならんな」

 商人と貴族の癒着は基本的に当たり前のようにある。

 懇意にしている、程度ならば問題はないが、王都や王城の公共事業にねじ込んだりしてくると大問題になる。

 そこまで露骨にやる貴族は滅多にいないものの、相応に便宜を図っている様子はあちこちで見かける。

 程度の問題なので国王もクリストフも見逃しているが、線引きをどこでするかというのは悩みの種だ。

 サンコスタとて例外ではなかった。

 領主家であるメディソンはスパダ家と強く結びついており、メディソン家の長女がスパダ家の跡取りと婚姻関係を結んでいる。

 両家の間は蜜月と言われており、年ごとに行われるイベントなどでも合同で行っているものもあるという。

 今の所王国に害があるような事実は認められてはいないが、規模が規模だけに、実は『耳』の監視対象にもなっていると聞く。

 万が一醜聞でも発見されれば、トリシアンナの身にもその影響が及ぶかもしれない。

 それは絶対にクリストフの望む所ではないが、かといって王族としての立場では大目に見るなどという事は決して出来ないのだ。

 彼らの良心に委ねられている部分が多く、こちらとしては手の出しようのない範囲である。

 伸ばした思考の憂鬱さに重い息を吐く。疲れているのか。

 実際、祖父の葬儀が終わってからも何かと忙しい日々が続き、漸く今回の視察が決まってからも、直前まで忙しく動き回っていたのだ。

 王太子ですらこの忙しさなのだから、国王の苦労たるや推して知れるというものである。

 逃げるようにして王都を後にした事に少し後ろめたさを感じるものの、さりとてこれもクリストフに与えられた仕事の一つなのである。

 寒い季節、暖かい南国で過ごす事に申し訳無さを感じるものの、しっかりと仕事をすればその罪悪感もいくらかは薄れる事だろう。

 続く草原の向こうに、高い柵に囲まれた牧場が見える。

 羊ではなく、沢山の牛達がのんびりと草を喰んでいる。

「牧畜場か。羊はいないようだが」

「牛ですね。羊はもう少し高所で育てるようです。毛の生育具合に差があるとかで」

「そうか。少し休ませてもらう。着いたら起こしてくれ」

 クリストフは背もたれに身体を預けて目を閉じた。

「承知しました」

 シャーリーンは代わりに目を開けた。

 探知は前の馬車に乗っている同僚が行っているので、目視の警戒をしている。

 冬にも枯れぬ草原はどこまでも続いている。


「殿下。サバストリアに入ります」

 呼びかけられて、クリストフは意識を覚醒させた。

「……そうか、ありがとう」

 窓から覗くと、丁度黄色い壁を馬車が通り抜けようとする所だった。

 頑丈そうな壁だが、厚さはそれほどでもなく、馬車の列は程なく街に入る。

 広がる街並みは随分と色彩豊かで、様々な配色の家々が並んでいる。

 一軒あたりの敷地も広く、壁近くなのに富裕層の居住地区かと思えばそうではない。

 全体的になにもかも余裕を持って作られているのだ。

 王都でこんなことをしようものなら、住む所がなくなって一気にパンクしてしまうだろう。

 人口動態は横ばいだと聞いてはいたが、本当にこれで街を統治して行けているのだろうかと不安になる。

 建物の敷地が広い分、道も広く、移動距離も長い。

 かなりの時間を大通りの移動に費やし、海が見える町外れに佇む領主の邸に辿り着いた頃には、もう夕刻になろうかという時間になっていた。

 護衛と政務官を引き連れてシルベストレ邸に近づくと、王都でよく見た顔、アデリナ夫人が出迎えてくれた。

「王太子殿下、ようこそお越し下さいました。お疲れでしょう?お連れの皆様も、さあ、こちらへどうぞ」

 二人の侍従を連れてはいるものの、愛想の良い夫人は自ら先頭に立って邸の中を案内している。

 この人物はなんとも独特な人で、いつもニコニコとしていて手応えがない。

 かといって何もわからないお嬢さんなのかと思えばそうではなく、答えられる質問には明快に答えるし、答えにくい質問は夫に投げます、と逃げる。

 要領が良いのだ。決して頭が悪いわけではない。

 曲者揃いの貴族の中で異彩を放つ彼女は、どこにも敵を作らず、すいすいと濁流の中を泳ぎ回っている。

「アデリナ殿、葬儀への参列ありがとうございました。祖父もきっと喜んでいる事でしょう」

 遅ればせながら王都へと来てくれたことへの礼を言う。

「ファーディナンド様には、幼少の頃より大変可愛がって頂きました。誠に悲しいことですが、あの世で安らかに過ごして居られると信じております」

 この夫人はサバス前領主の娘なのだ。

 今の領主は所謂娘婿で、サバスの役所にいた優秀な下級貴族の人間を迎え入れている。

 内政に長けた人物だと聞いてはいるが、クリストフが会うのは今日が初めてだ。

 アデリナ夫人が一番奥の大きな扉を開けると、応接室と食堂を兼ねたような奇妙な広い部屋が広がっていた。

「ようこそおいで下さいました、クリストフ王太子殿下。お初にお目にかかります。サバス領主のデメトリオ・シルベストレと申します。どうぞ宜しくお願いします」

「クリストフです。お会いできて光栄です、デメトリオ殿」

 シルベストレは領主家の姓である。

 領主家に婿入りする際に、デメトリオは改名したのだ。

 改めて目の前の領主を見る。

 精悍な体つきとよく日焼けした浅黒い肌に、白い歯が映える。

 領主としての威厳を保てるギリギリの範囲まで、ゆったりとした衣服を着崩している。

 ニコニコと笑う人当たりの良い男は、街ですれ違っても領主だとは到底思えないだろう。

「今、食事の用意をさせております。お連れの方々は街の宿へ?」

「ええ。予め予約はしてあったので、滞り無く」

 先触れも出していたので、街へ入るのは非常にスムーズだった。

「そうですか。殿下とお連れの皆様方には部屋を用意してありますので案内させましょう」

 近くにいた侍従が、こちらです、と手を差し出した。

 用意された部屋は、大きな窓から海の見える広い部屋だった。

 夕焼けに照らされて輝く海が美しい。

 部屋はとても広く、城の自室よりも大きい。

 ただ、家具の類がベッドやテーブル、壁際のシェルフぐらいしか無いので、兎に角広々と感じる。

 ノルドヴェストでは宿に宿泊していたが、サンコスタの領主邸でも良い部屋が充てがわれていた。

 二階の南向きの部屋で、緑の木々の合間から青い海や白いサンコスタの街が一望できる、素晴らしい眺めだった。

 あの部屋で、もう一度彼女と一緒に愛を語らうことが出来たら。

 頭を振って妄想を振り払う。今はサバスにいるのだ。

 控えめに扉がノックされ、食事の用意が出来たと告げられた。

 気を取り直して廊下へと出る。自分の仕事を忘れてはいけない。


「明日のご予定はお決まりでしょうか」

 街を案内するのは領主家の者ではないので、彼らには知らされていない。

「はい。まずは港を見せてもらいたいと思っています。あとは、西の牧羊地と、最後に例の酒造所を見せてもらおうかと」

 すっかり視察専用の政務官になってしまったコーンウェイが答える。

 侍従のイレーヌや騎士のシャーリーンもそうだが、王太子の周辺だけは人員が変わらない。

 これは、他についてくる者は滞在中に何もすることがないので、半分休暇を兼ねているからだ。

 必然、彼らは順番に交代する。

 王太子について回る者だけは遊んでいるわけにはいかないので、結局仕事として同じ面子になってしまう。

 こちらをコロコロと変えると手間だけがかかってしまうので、申し訳ないがコーンウェイ達には休暇は別としてもらうことにしたのだ。

 その点では先のノルドヴェストに同行させたものには申し訳ないことをした。

 見るものを見たからと急に帰る事になったので、実質休暇がなくなったようなものなのだ。

 そのままでは流石に申し訳ないので、後で人事院にこっそりと彼らに有給で休暇を取らせるようにと掛け合っておいた。

「そうですか、港は良いですよ、元気が良くて。是非ゆっくりとご覧になっていって下さい。案内はセディージョさんというスパダ商会の方がしてくれます。彼はこの街の事を大変良くご存知ですので、きっとご満足して頂けることでしょう」

 セディージョというのは道中で聞いた、レディ・キラーの隆盛に貢献した人物の事だろう。

 領主がここまで信頼を寄せているのであれば、案内に問題はなさそうだ。

 料理はどれもやや甘い味付けのものが多く、美味いのは美味いのだが、少し刺激のあるものが恋しくなった。

 二つ隣りにいるシャーリーンは随分と気に入ったようで、顔を綻ばせながら食べている。

 刺激のあるもの、と言えば、サンコスタの酒場で食べたものは美味かった。

 王都では絶対に食べることの出来ない独特で魅力的な味わい。

「そういえば、こちらの地方ではオーストリカは食べられるのですか?」

 折角なので聞いてみる。もし食べられるのであれば、折角なら食べて帰りたい。

「おや、王太子殿下はオーストリカをご存知ですか。ええ、勿論。今の時期は最盛期ですので、お召し上がりになりたいのでしたら港でいくらでも」

「そうですか、それは楽しみだ」

 聞いて良かった。ここでもあの美味が楽しめる。

「そうですわ、殿下。港で食べるのもよろしいですけれど、醸造所の前にも今の時期、沢山露店が並んでおりますの。是非そちらでも召し上がって下さいな」

「おお、それは良い事を聞きました」

 アデリナ夫人の言葉に期待が膨らむ。

 醸造所の前、ということは、見学に来たものに試飲をさせるサーヴィスがあるのだろう。

 つまり、焼きオーストリカを肴に是非当醸造所のお酒をどうぞ、という、味覚に訴えかける宣伝だ。実によく出来ている。

 オーストリカは内陸部では食べられない。またここに観光にいらしてくださいね、そして美味い酒を広めて下さいね、という事だ。

 明日はまずは港に行こう。醸造所は二日目だ。


 指定された時間に邸の前に出ると、既に一人の男が直立して待っていた。

 こちらにすぐに気付くと、完璧な笑顔で真っ白な手袋を着けた手を差し出してきた。

「お会いできて光栄です、クリストフ王太子殿下。スパダ商会のセディージョと申します。本日から三日間、ご案内を仰せつかっておりますので、どうぞよろしくお願い致します」

 燃えるような赤毛をびしっと背後になでつけたメガネの優男だ。

 思っていたよりも遥かに若いが、いかにも仕事の出来そうな雰囲気を醸し出している。

「クリストフだ。よろしく頼む」

 コーンウェイとシャーリーンもそれぞれ挨拶をして、王族の馬車と、スパダ商会が用意した馬車に分乗する。

「中々仕事の出来そうな男だな。物腰に隙がない」

「そうですね。ただ、ああいう手合いに限って女にはだらしなかったりしますが」

「そうなのか?」

「勘です」

 シャーリーンは特に表情を変えることもなく淡々と言っている。

 あちらの馬車には侍従が一人乗っているが、コーンウェイも居ることであるしそう滅多なことは無いだろう。

 何かあったとしても本人が納得していればそれで良い。こちらが口を挟むことではない。

 相変わらずだだっ広い道を馬車は海沿いに進んでいく。

 そう時間も立たない内に、漁港の雰囲気に包まれだした。

「中々活気があって良いな。漁の時間はもう終わっているのだろう?」

 港に降り立って、隣りにいるセディージョに話しかける。

「よくご存知で。そうですね、今は競り落とされた魚介の出荷で騒がしい時間です。冷凍できない品は時間との戦いになりますので」

 鮮度が落ちれば味も落ちるし中たる確率も上がる。喧騒はそれを物語っている。

「これはどの街に行っても聞いているのだが、漁獲制限などはどのようにしているのだろうか」

 最初のサンコスタで目の当たりにしてから、漁業において必須とも言うべき制限について尋ねてみる。

「サバスの漁獲制限はサンコスタと共通です。距離があるとはいえ、南の海は繋がっておりますので。漁場こそ分かれておりますが、貝や海藻を除けば海洋資源は移動します。同じ制限にしなければ意味がありません」

 満点の回答だ。

「そうか、安心した。制限の方法についてもお尋ねしても良いだろうか」

「勿論です。基本的には漁船の重量を記録したもので――」

 知っていて試しに聞いてみたのだが、この男は淀みなくトリシアンナに聞いたものと同じ方法を説明した。これならこの地の漁業は問題ないだろう。

「うむ、よく考えられているな。その方法であればまず大丈夫だろう。次は市場を見せて貰えるかな」

「かしこまりました。こちらです」

 言葉にも挙動にも淀みがなく、非の打ち所が見当たらない。

 なるほど、あの酒を広めるのに貢献したと言われているだけの事はある。

 恐らくスパダ商会でもかなりの地位が約束されている事だろう。

 活気に溢れた市場を見回っていると、以前にも少し嗅いだ独特な匂いが漂ってくる。

「あれは……焼きオーストリカか」

「ご存知で。召し上がりますか?」

「ああ、二つほど頂きたい」

「お待ち下さい」

 セディージョは速やかに一番大きな店に近寄っていった。

「殿下、オーストリカとは?昨夜も仰っておいででしたが」

 コーンウェイが疑問を口にした。

「貝だ。とても大きな貝で、大きなものは一粒が大人の手ぐらいの大きさがある」

「貝ですか。初めて耳にしますな」

「海辺でしか食べられないからな。しかも季節を選ぶので、王都にいては耳にすることもないだろう」

「殿下は博識ですな」

 彼女に教わったのだ。

「お待たせしました。お連れの皆様方もどうぞ」

 気の利いたことにセディージョは大きな盆にいくつも焼きオーストリカを乗せてきた。

 ビーンズソースの焦げる香りが堪らない。

「おお、有り難い!では、早速ひとつ」

 貝殻をそのまま手に持って、独特の形状をした身を啜り込む。

 熱く焼かれた海の味が、熱とともに口いっぱいに広がった。

「うん、美味い。フライも好きだが、やはり焼いたものの方が好みだな。海の味が素晴らしい」

「殿下はオーストリカの美味さをご存知でしたか。そうでしょう?まさにこの時期にだけ食せる、海の恵みです」

 セディージョは胸を張って喜んでいる。特産品が褒められて嬉しいのだろう。

「そんなに美味いのか。どれ、私も一つ。熱っ!」

 シャーリーンは焼き立ての熱さに目を白黒とさせている。

「これは……物凄い味の濃さですな。味付けはビーンズソースと柑橘の汁だけ?まさか」

 貝殻の焼ける匂いに戸惑っていたコーンウェイも驚きの声を上げる。

「イレーヌ殿も、どうぞお一つ」

 こちらに問うように視線を向けたイレーヌに、頷く。

 外なのだ。別に何も問題はないだろう。

 恐る恐る口にしたイレーヌも気に入ったようだ。満足そうな微笑みを浮かべている。

「王都でも食べられれば良いのだがな、どうしても輸送中に味が落ちるらしい」

 悲しいことだが仕方がない。

「そうですね、凍らせると極端に味が落ちますので。ただ、あまり王都で広めないで下さいよ?観光客が押し寄せると、我々の食べる分がなくなってしまいますので」

 悪戯っぽく笑う背広の男。ジョークも口にできるらしい。

 全員で美味なる貝を満喫して、満足した一行は馬車へと戻る。

「セディージョ殿はスパダ商会だそうだが、ずっとこちらに?」

 戻る道すがら聞いてみる。

 彼の溢れる郷土愛は本物なので、この街の産まれなのは間違いないだろう。

「ええ、いえ。今は普段はサンコスタの本店に勤めております。今回は王太子殿下がいらっしゃるという事で、この街に詳しいものが良かろうと言うことで、呼び戻されました」

 優秀なのだ。出世して本店にいるという事だろう。

「それは、わざわざご足労頂いて申し訳ない」

「どんでもございません!サバスを語れと申すならばいくらでも戻ってきましょう。ここは、私の故郷なのですから」

 本当にこの街が好きなのだろう。心からの愛情が感じられる。

「良い街ですな。地元を愛する人間がいるというのは大切な事です」

 政務官が遠い目をした。彼にも故郷があるのだろう。

「次は牧羊場ですね。少し距離がありますので、ゆっくりと食休みをお取り下さい」

「ありがとう。そうさせてもらう」


「わぁ、ふわふわです」

 侍従のイレーヌが目を輝かせている。

「これは、壮観だな」

 見渡す限りの広い牧羊場に、物凄い数の羊たちが好き勝手に寛いでいる。

 あるものは草を喰み、あるものは座って眠り込み、あるものは飛んでいる虫を追いかけている。

「しかし、臭いも中々」

 シャーリーンは顔をしかめている。確かにきつい。

「獣ですからね、これだけいればどうしても糞尿の臭いはします」

 当然の事だろう。まさか羊に便所で用を足させるわけにもいかない。

「肉食獣ではないだけまだマシですな。若い頃、イエーナの群れに遭遇したことがありますが……」

 イエーナは集団で狩りをする肉食獣だ。獣のうちは人を襲うことはあまりないが、魔物化すると途端に危険となる。

「この牧羊場でもイエーナには警戒しています。連中は大食いですからね。向こうの柵のところに魔術装置があるのが見えますか?」

 セディージョが指差す方向に、小さな塔のようなものが見えた。

「あれは警報装置です。あの近くに獣が近づくと、近くの牧羊舎に警報が鳴るようになっています」

 監視の為に人を張り付けておかないといけないわけか。中々に大変な仕事である。

「ここでは年に二度、羊毛を刈っています。冬の終わりと夏の前ですね。彼らはすぐに毛が伸びるので、夏の前には刈っておかないと暑さで倒れてしまうのです」

 それは生物として致命的ではないか。自分の毛のせいで暑さで倒れるなど。

「自分の毛で……それはどうしてまた」

「品種改良の結果ですね。毛がすぐに伸びるもの同士をかけ合わせて、今のこの羊が産まれました。人の手がなくては彼らも生きていけないのです」

 羊にとっては自分勝手に思えるだろうが、彼らもそれで衣食住が保証されている。

 種の保存としてはどちらが良いのか判断はつかない。

 シャーリーンの気分が悪くなりだしたので、ここの視察は早々に引き上げた。

 運営実態も特に問題のあるところは見当たらなかった。

「大丈夫か、シャーリーン」

 珍しく青い顔をしている女騎士に話しかける。

「……問題ありません。少し気分が悪いだけです」

 とても問題無いようには見えないが、こちらとしてもどうすることもできない。

「もう今日は戻るが、どうする?夕食の時間を遅らせてもらおうか」

「いえ……私のせいでその様な事をさせるわけには参りません」

 強情なことだが、食事が進まなければ領主夫妻にも心配をかけてしまうだろう。

 後でこっそりと時間を遅らせて貰えるよう、アデリナ夫人にお願いしておこう。



 翌日、シャーリーンはすっかり元の調子を取り戻していた。

「殿下、本日は醸造所を視察されるご予定でしたね」

「ああ、そのつもりだが。何かあるのか?」

 朝食後のお茶を飲み終わり、一息ついていたところだった。

「あまり過ごされないようにお気をつけ下さい。例の酒ですので」

「ああ、分かっているよ」

 通称『レディ・キラー』。甘く飲みやすい口当たりで、女性でもどんどんと飲めてしまう。

 その割に葡萄酒としては圧倒的に酒精割合が高く、高い銘柄ではなんと二割五分を超えるものもあるのだ。

 通常であれば葡萄酒は五分から一割五分程度なので、最大で約五倍もの差がある。

 意中の女性に振舞って、酔いつぶれた所をものにする、というけしからん事に使われる事も多いため、このような俗称がつけられた。

 ただ、実際には気苦労の多い貴族の睡眠薬代わりに使われていて、飲みやすい事から王都で爆発的な人気が出たのだ。

 値段もそれほど高くなく、庶民にも比較的手の出しやすい価格となっている。

 それもこれも、今から向かうドナ・ブルワリーを支え、大きく成長させたスパダ商会の功績である。

 その一翼を担ったのが、今目の前で一晩振りに再開した男、セディージョなのだ。

「殿下はドナの酒をお飲みになったことは?」

「ああ、あるぞ。どれも飲みやすかったな。酒精割合は高かったようだが」

 普通、酒精の強い葡萄酒は飲みにくい。

「それが特徴ですね。詳しくは企業秘密なのですが、特に糖度の高い葡萄を使って、発酵途中に追加で果汁を加えるのです。そのままではただの甘い酒になってしまうのですが、水撃魔術で分解を促すことで、あのような特別な口当たりを実現しています」

 自然の発酵だけではなく、魔術による手を加えていたのか。

「なるほどな、それは思いつかなかった。その手法は昔からなのか?」

「規模は変わっていますが、製法はそのままです。これを変えることはドナの名に傷を付ける事になると、領主様や我々スパダ商会からも厳しく監視の目が注がれています。まぁ、創業者一家がドナの酒を愛しているので、滅多なことはありませんが」

 ここでは領主もきちんと見ているらしい。頻度はわからないが、少なくとも監督不行き届きという事はなさそうだ。

 領主の邸からは近い所にあるというので歩いてきたが、なるほど、これは盛況だ。

 醸造所から入ったところ、すぐ横で樽から出来立ての酒を販売している。

 そこそこ大きいカップ一杯がなんと、20カッパドだ。

 トリシアンナに教えてもらうまでは市井の金銭価値はよく分からなかったのだが、知った今では分かる。どこの酒場で飲むよりも遥かに安い。

 そしてその前には、今朝獲れたばかりであろうオーストリカの屋台。

 醸造所の前に設けられた広い庭では、既に多くの客で賑わっていた。

「まるで屋外の酒場だな。酒も安いし、この者達は地元の人間か?」

「殆どはそうですね。ですが、旅行者はかならずここに寄ります。そして虜になって、ドナの酒を宣伝してもらえる、という訳です」

「よく考えたな。この値段であればそれはもうどうしても来てみたくもなるだろう」

 いくら安く売っても、それが宣伝費になってしまうのだ。商売上手な事である。

 美味そうな貝を横目に見ながら、奥へ進む。飲み食いは視察の後だ。

 噎せ返るような葡萄酒の匂いの中、各所を視察してまわる。

 製法は昔のままだとは言うが、設備は非常に整っており、近代的だ。

 樽では耐久性がないため、発酵以外の場所ではすべて金属を使用しており、清掃記録も見せてもらったが衛生管理も問題なさそうだった。

「中々見ごたえがあった。設備も素晴らしいし、環境も良い。良く管理されている」

「ありがとうございます」

 彼は一応部外の人間だが、深くこの醸造所に関わっているのだろう。

 感謝の言葉も心よりのものだ。

「では……三人とも、お待ちかねの時間にしようか」

 さっきからシャーリーンとイレーヌはそわそわとしっ放しなのだ。入り口のあれを見てしまえば無理もない事ではあるが。

 揃って先程の広場に出てくる。シャーリーンとイレーヌにも、セディージョと一緒に纏めて酒と貝を買ってくるように申し付けた。


「何?ここでは生でも食べられるのか!?」

 話だけは聞いていた。焼いて食べるよりももっと美味いと。

「な、生は私は少し」

 イレーヌだけは尻込みしている。

「殿下、しかし殿下は……」

 セディージョは少し困っている。そうだ、中たりやすいと聞いた。

「……やむを得ん。私は諦めよう。焼いたものでも十分に美味いからな」

 ホストに迷惑をかけては仕方がない。無理に食べたことで彼らが罰せられてはあまりにも申し訳ない。

「申し訳ございません、責任問題になってしまいますので」

「わかっているさ。無理を言って済まないな」

 また別の機会にしよう。視察ではなく、個人的に……そう、旅行などで来た時にでも。

 監督者のいない時であれば大丈夫だろう。となると、もっと大人になってからだ。

 許されるのであれば彼女と来たい。そして共にこの酒と貝を。

 妄想が加速してきたので、慌ててカップに口をつけた。

「おや、これは、白か」

 通常のレディ・キラーよりも更に口当たりが軽い。

「はい。酒精の強いものばかりでは流石にまずいですからね。それも、こちらで醸造されたものですよ。同じ葡萄を使っていますので、美味しいでしょう」

「ああ、これも良いな」

 軽い飲み口に爽やかでほんのりとした甘さ。すっきりとした後味は、オーストリカにもよく合う。

「実は、普通はオーストリカは葡萄酒と一緒に食べません」

 衝撃の事実だ。こんなに合うのに?

「通常の葡萄酒では、この貝との相性は最悪なのです。普通は米か麦の醸造酒、あるいは蒸留酒が最も合うのですが、ドナの酒だけは違います。この名産に合うようにも作られた、特殊な葡萄酒なのです」

 胸を張って言うセディージョは誇らしげだ。

「セディージョ殿は本当にこの地を愛しておられるのだな」

 最初の印象を見直したらしいシャーリーンも微笑んでいる。

 各々が思い思いに貝を喰らい、酒を飲む。

 今日はもうどこかを見る予定もない。思う存分楽しんでも良いだろう。


「シャーリーン殿、いかがですか」

 セディージョが女騎士に酒を勧めた。

「ああ、済まないな。しかし、ここは酒も食べ物も美味い。また来たくなってしまいそうだ。牧羊場は少し勘弁願いたいが……」

「ははは、あそこは観光客が見るような場所ではありませんよ。今度は是非、観光でまたいらしてください。いらっしゃる時は連絡頂ければ、また私がご案内しましょう……個人的にでも」

 ご機嫌なシャーリーンは、笑顔でそれに答える。

「そうか、それは楽しみだな。おお、これは申し訳ない」

 空になったカップを新しいものと交換される。

「しかし、レディ・キラーだぞ?こんなに私に飲ませてどうしようというのか」

「お強い騎士様に不埒な真似などできませんよ。是非沢山この酒を味わって頂きたくて」

「そうか、そうだな。だがな、強く見えようとあまり勘違いされるような事をしては問題になるぞ」

「ほう、勘違い。勘違いでなければ、どうです?」

 すぐ隣の席に腰掛ける。距離が近い。

 王太子殿下や他の二人は、隣のテーブルだ。思い思いに会話を楽しんでいる。

「そうだな、我々は大人同士だから問題はないが……もし、私が実は年端も行かぬ少女だったらどうなるだろうな?」

 特に何気なく、冗談のつもりで言われたその言葉に、セディージョはびくりと反応した。

「おっ?なんだ、心当たりでもあるのか?いけない男だなぁお前は」

 気がついていないシャーリーンはぐにぐにと肩を掴んでいる。

 固まっているセディージョに、出来上がった女騎士は尚も続ける。

「見た目ではわからんと言えばな、サンコスタでそんな侍従に会ったぞ。自分と同い年ぐらいに見えたのだが、聞けば自分よりも8つも年下ではないか。まったく、あんなに年の差があってラディにちょっかいをかけようとは。ましてや指輪も貰っただと?」

「ゆ、指輪?ラディって、あの、ラディアス様ですか?」

「おう!そのラディアス様よ。あの黒髪の侍従、生意気にもラディから一本とっただとか抜かしやがって。おい、聞いているのか赤毛眼鏡!」

 警備隊のラディアスが婚約者に指輪を贈ったという話は、サンコスタの街の富裕層の間では知る人ぞ知る噂話だ。

 セディージョは酔いも醒めたとばかりに青白い顔でぶるぶると震えている。

「く、黒髪の侍従にラディアス様ですか、は、ははは……」

 背広の赤毛眼鏡はカップを煽った。まるで酔っているようには見えない。

「なんだ、強いじゃないか。ほら、もっといけ、どんどんいけ」

 言われるがままに飲み続け、酔いつぶれたセディージョは、騎士に領主の邸へと運ばれる羽目になったのだった。


 案内役が潰れてしまって二日酔いで動けない為、三日目は外に出る事もなく、領主の邸で過ごすことになった。

 クリストフがオーストリカが好きだと聞いた領主は、早速次の日から新鮮なオーストリカを様々な料理にして振舞った。

 そのため、特に外に出なくてもクリストフは十分にこの三日目に満足していたのだった。

 外にでなくとも時間とともに顔色を変える海は見飽きることがないし、時折三人を相手に話でもすれば退屈することもない。

 葬儀からこっち、ずっと忙しくしていたクリストフは、ようやく落ち着いた休暇が取れた気分になっていた。

「気分はどうだ、セディージョ殿」

「で、殿下……申し訳ございません、とんだ醜態を」

 イレーヌが看病していたが、まだ万全ではないようだ。

「いや、貴殿が悪いわけではないのだ。まったくシャーリーンめ、騎士団で飲んでいるつもりで貴殿に酒を飲ませたのだろう」

 豪傑揃いの騎士団は、揃いも揃って酒豪ばかりなのだ。

 そんな調子で一般人に飲ませればどうなるかぐらい分かりそうなものだ。

「き、騎士団……そういえば、殿下はラディアス様をご存知なのですか」

 変なことを聞く。知っているに決まっている。

「勿論だ。不世出の怪物と呼ばれた男だぞ。サンコスタでも世話になった」

 彼には悪いが、警備隊の詰所での出来事は随分と笑わせてもらった。

 遠くで見ているだけでは分からなかったが、気安い愉快な男だった。

「そうですか、そうですよね」

「なんだ、セディージョ殿も知っているのか?あぁ、サンコスタに勤めていると言っていたな」

 一般には聞き覚えが無い者もいるだろうが、サンコスタでは警備隊にいる以上は知っていてもおかしくはないだろう。ましてやスパダ商会はメディソンと蜜月状態なのだ。

「シャーリーンの横恋慕にも困ったものだ。ラディアス殿とナズナ殿を肴にしてセディージョ殿に絡むとは。セディージョ殿?セディージョ殿?」

 ナズナの名前を出した途端に気を失ったように見えた。

 手を取っているイレーヌに聞くと、眠っているだけですと言われたので仕方なく部屋に戻る事にした。


 領主邸で振る舞われた様々なオーストリカ料理に名残を惜しみながら、王都へと帰る日がやってきた。

「デメトリオ殿、アデリナ殿。大変世話になりました。セディージョ殿も、うちの騎士がご迷惑をお掛けして大変申し訳無かった。とても素晴らしい案内をありがとう」

 にこにこと笑う領主夫妻と、恐縮するスパダ商会の人間に別れを告げて馬車に乗り込んだ。報告書は問題なく仕上げられそうだ。

「シャーリーン、多少は羽目を外すのは構わないが、案内人に迷惑をかけては駄目ではないか」

「……申し訳ございません。ラディを知っていると仰るものですから、つい」

 普段は真面目なのだが、彼の話になると変に狂い出すのがこの騎士の欠点だ。

 それ以外は特に文句もないのだが。

「まあいい、次からは気を付けてくれ。他の騎士にも、街では騎士団と同じ様に騒ぐのは控えるよう言っておくように」

「承知いたしました」

 馬車は来た道を戻っていく。

 魔物も現れず、賊も出ない。平和な旅だった。

 これで彼女が隣に居てくれれば、と、いつもの考えをただ今は追い出す事もなく、ぼんやりと外の景色を眺めていた。

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