第22話 鯨
先王が亡くなってから初めての年が明けた。
皆、大っぴらに騒ぎはしないものの、新たな年の訪れにどこかほっとした空気が漂っている。
ある種の禊が済んだという気分が、王都にも、その他の都市にも緩やかに広がりつつあった。
サンコスタの街も例外では無く、南国の比較的暖かい冬は例年と変わらない喧騒に包まれている。
その喧騒の中、一際大きな騒ぎが漁船の集まる港で起こっていた。
「船が出せないって、どういう事ですか!?ちゃんと料金も前払いしたじゃないですか!」
喧騒の中心にいるのは、赤毛を後ろで三つ編みにして、大きな眼鏡をかけた女性だった。
「しょうがねえだろ、魔物が出たんだから。金はちゃんと返すからよ。だから暫くは無理だって」
対応しているのは日に焼けた漁師の男で、女性の剣幕に押されながらも、申し訳無さそうに諭している。
「今この時期を逃したら見られないんです!暫くってどれぐらいですか?明日は?明後日には出せるんですか!?」
「そんなにすぐには無理だって。最低一週間は見てもらわなきゃ」
「一週間!?一週間もしたら回遊しているデルフィノの群れは行っちゃうんです!次に来るのは再来年になっちゃうんですよ!?」
「そんな事言われてもよ……」
ほとほと困り果てた漁師は周囲に救けを求めるように視線を送るが、誰も目を合わせようとはしない。
集まってきた群衆も散ろうという時、可愛らしい声が上がった。
「あれ?マナセさんではありませんか?マナセ・エブシュタイン博士」
流れる金髪に驚くほど整った顔立ちの、美しい少女が一人の侍従を連れて近づいてきた。
「え?あなたは確か……ええと、メディソン博士の妹さんで……」
「トリシアンナです。お久しぶりです、マナセさん。何かあったんですか?」
助け舟が来たとばかりに、漁師はトリシアンナに泣きついた。
「お嬢様、この方、お知り合いですか?どうにかして下さいよ。魔物が出たってのに船を出せって聞かないんです」
「今、船を?マナセさん、それはちょっと無理ですよ。沖にデッドバリーナが出てるんです。小さな漁船なんて尾の一振りで粉々になってしまいますよ」
デッドバリーナは巨大な海の魔物だ。
クラーケンと並ぶ海洋の王者として君臨するその巨体は、全長にしておよそ50メートルは下らない。
東方諸島の誇る20隻からなる大艦隊でもその討伐は難しいとされている。
「そんな!せっかく今年はデルフィノの群れの回遊周期に当たっているのに、これを見過ごせっていうんですか!?貴重な海の生態事情を知る数少ない機会なんですよ!?」
今にも泣き出さんばかりに騒ぐマナセに、トリシアンナも困った顔をしている。
「うーん、デルフィノの群れですか。それは私も一度見てみたいのですけれど……せめてディアナお姉様がいれば追い払うぐらいは出来そうなのですが」
ディアンナの大火力であれば、脅かしてデッドバリーナを追い払う事ぐらいは出来るだろう。
討伐する事は無理にしても、彼女であればどうにかなりそうである。
ただ、例によってその姉はどこかへ行方を晦ましたままだ。
「ディアナさんなら出来るんですか?彼女は今どこへ?」
「残念ながら、分かりません。いつ帰ってくるかもわかりませんね。短ければ明日ですが、長ければ一週間は帰らないかもしれません」
ここ最近、ディアンナは家に戻らない時間が長くなった。
長期留守にする場合はこっそりとトリシアンナには教えてくれるものの、そうでない時も長引く時は長引くのである。
「そんなぁ、こっちも一週間だなんて……」
その場に崩れ落ちるマナセ。
「うーん……追い払うだけ、なら、もしかしたら私にも出来るかも知れませんが……」
見ていられずに、トリシアンナは思わず言ってしまった。
「ほ、本当ですか!?是非!是非!お願いします!もう頼れる人がいないんです!」
トリシアンナの短いスカートに縋り付くマナセ。
「お嬢様……あまり安請け合いはどうかと……デッドバリーナですよ?」
「うーん、まぁ、生態からしてクジラと同じなんですよね。一応私の全力を出せばびっくりさせるぐらいは出来るかもしれませんし」
その言葉にマナセが瞳を輝かせる。
「トリシアンナさん!クジラの生態をご存知なんですか!?ど、どこまで?どこまでご存知で!?」
「ちょ、ま、マナセさん!スカートを引っ張らないで下さい!脱げます!脱げますから!」
「南方でのクジラの観測は稀です!はっ!そうか!ひょっとしてデッドバリーナを観察すればクジラの生態も!?」
「だから!引っ張らないで下さい!」
トリシアンナは思わず風圧系の魔術で彼女を吹き飛ばした。
「全く……研究者というのは一度暴走すると手が付けられないんですから」
吹き飛んで転がったマナセは、目を回して大人しくなった。
「お嬢様、脱げています」
「え?あっ!もう!」
衆人環視の中、タイツ越しに下着を見られたトリシアンナは顔を赤くして急いでスカートを引っ張り上げた。
「とにかく!やるだけやってみますからマナセさんは待っていて下さい!」
転がったままの海洋生物学者は、目を回したままありがとうございますと答えた。
新年早々面倒くさい事に巻き込まれた。
姉は何も言わずに出掛けたまま帰ってこないし、魔物が出たというから港に来て聞き込みをしてみれば、巨大なクジラであるデッドバリーナだという。
これは暫く新鮮なお造りは食べられないなと歩いていたら、以前にスキアヴォーナの件で知り合った海洋生物学者が騒いでいる。
周りの人に下着を見られた挙げ句に安請け合いで追い払うとまで言ってしまった。
「はあ、どうして研究者というのは皆ああなんでしょう」
「お嬢様にもそういう面がございますよ、風呂であるとか」
「私はお風呂に入るために人のスカートを脱がしたりしませんよ……」
「タイツというのは思いの外いやらしいものですね」
一体この従者は何を見ているのか。
「流石に海上となるとナズナはお留守番ですね。海の上を走ることなんて出来ないでしょうし」
彼女は水撃系魔術を水遁と呼ぶが、仮にお伽噺に出てくるような水蜘蛛のようなものがあったとしても、巨大なデッドバリーナ相手ではどうしようもないだろう。
そもそも彼女は近接戦闘が主体である。近寄った所で潜られてしまえば手も足も出ないし、そもそも分厚い脂肪の装甲を破ることなど絶対に出来ないだろう。
「お命じになれば、命を賭してでもやってみせましょう」
「命じません。大人しく待っていて下さい」
海上を移動しようと思えば、船に乗るか空を飛ぶかである。
自分は自由に空は飛べないが、跳ねたり滞空することは出来る。
この世界に航空機がないのは残念だが、航続距離は兎も角、魔術である程度は代用できるのだ。
「それにしてもデッドバリーナ。クジラですか。クジラ狩りは何度か見たことがありますが……」
「……は?お嬢様、今、何と?」
「空耳です」
海上に出た所に鈎の付いた銛を撃ち込むだけだ。あとは数で引き上げる、という原始的な漁である。
それにしたってサイズが違いすぎる。近海に現れるようなものではなく、極地にもいないような巨大な魔物なのだ。
「やはり雷撃を使うしかありませんね。全力を出せば……」
まだ試したことは無いが、理論上は第七階位を扱えるのである。
何しろ今、手元には雷光剣カサンドラがある。
姉のタクトと同じぐらいの魔導率があるこの剣であれば、負担も軽く扱えるはずだ。
それでも、恐らく退治自体は無理だろう。大きすぎるのだ。
加えて雷撃は海洋生物に使っても、感電こそさせるがダメージが散ってしまう。
表面を電流が流れるため、巨大な魔物相手では致命傷には至らないのである。
「とりあえず、やるだけやってみます。失敗してもマナセさんが落ち込むだけですから」
「気を付けて下さい。というか、やめてほしいのですが」
「気をつけますのでやめませんよ。大丈夫です、尾の届かない距離から攻撃しますから」
いくら巨大だと言っても、遥か上空からであれば反撃は不可能だろう。
こちらはダメージを出せなくても一方的に攻撃できるのである。危険は少ないはずだ。
「お嬢様、無理をせず、危険を感じたらすぐに戻って下さい」
「言われるまでもありません。私も命が惜しいですからね」
誰も居ない波止場で二人、海に向かっている。
「それでは行ってきます。クジラの潜行時間は長いです。暫く待つことになるので時間がかかるかもしれません」
「1時間経っても戻られない場合は泳いで探しに行きます」
「真冬の海でそれはやめてください。5分待たずに死にます」
恐ろしい事を言い出すナズナに絶対にやるなと釘を刺して、風圧系魔術を発現する。
突き刺さるような冷気に晒される寒空の中、海へと飛び出していった。
(いませんね。いくら巨体とはいえ、流石にこの広い海でいつ上がってくるか分からないクジラを探すのは)
冬の海は見渡す限り、白波を立てつつも静まり返っている。
(もう少し上空に上がってみますか。あまり体温を下げるのは良くありませんが)
引き続き『サス』の反動で上昇していく。
航空機であればある程度の高さまで上がっても設備でなんとかなるが、生身では『ウォーム』で防げる冷気にも限度がある。
そもそも大気圧が大きく下がるほどにまで上がってしまえば、風圧系の魔力負担は遥かに大きくなる。
胸の話ではあるまいが、無いものをかき集めるにも限度があるのだ。
随分上空まで来た気がするが、見下ろす周辺の海に変化はない。
目撃されたのは情報からしてこの辺りだが、そもそも魔物とて生き物である。どこに移動するかなど予測もつかないのだ。
磁力系で一旦その場で待機する。
『デマグマテリアル』と『スティルネス』に、『ウォーム』の三重展開だ。
全てが下位魔術とはいえ、あまり長いこと続けるのも負担が大きい。
いざ必要となった時に全力が出せないようでは意味がない。
(40分というところでしょうか)
帰還の余力を考えるとそれが限界に近い。それまでにここで見つからなければ出直しだ。
寒風吹きすさぶ中、やる事無くじっと待っているのは結構辛い。
何か楽しいことを考えよう。
楽しいことといえばお風呂だ。この寒い中、仕事を終わらせて熱めの湯船に浸かった時の快感はひとしおだろう。
あとはごはんである。
冬場にもこのサンコスタでは美味しいものが沢山ある。そう、オーストリカである。
焼いたものや生も良いが、自分はフライかグラタンが好きだ。
さくりとした衣から溢れ出る汁は、濃い旨味をたっぷりと含んでいるのだ。
まるごと衣で閉じ込めて揚げるあの調理法は間違いなく最高のうちの一品だろう。
あとはグラタン。フライの衣の代わりに、チーズで蓋をしてじっくりと熱を通すのである。
こってりと濃厚にとろけたチーズと、その濃厚さに負けない味。もうたまらない。
しかしそのオーストリカも、デッドバリーナをどうにかしないと獲ってくることもできない。
魔物がいる関係上養殖ができないので、野生にいるものを獲ってくるしかないのだ。
目下の海に変化は無い。今日は無理か、と思われた時、白波が立った。
来たか、と思ったが違った。マナセの言っていたデルフィノの群れだ。
見た目はどうみてもイルカである。イルカも食べられる。
だが、捕まえる苦労の割にあまり美味しくないとこの地では不評であり、また滅多に近くに来ないため漁獲の対象にはなっていない。
海の獣という事で研究者にとっては観察対象になるのだろうが、漁師にとっては獲物を奪い合うライバルである。
何か異常を感じる。デルフィノの群れの下だけ、水の色が妙に濃い。
色の変わっている境界に目を凝らすと、これは影だ。異常に巨大な存在が水面下にいる。
でかい、あまりにもでかすぎる。
高度を落として近づいてみると、その異常さが際立つ。
全長にして150メートルはゆうに超えている。魔物とかそういうレベルではない。これは、海の主だ。
こんなもの、自分の全力を出しても追い払う事なんて到底できないだろう。
無理である。諦めよう。
クジラは兎も角として、デルフィノの方には興味がある。
更に高度を落としてデルフィノの群れに近づく。
低空を跳ねている自分を仲間か鳥だと思ったのか、デルフィノ達は嬉しそうに水上に跳ね上がる。
ぶつかられてはかなわないので、右に左に避けて観察する。
動きを見る限りは完全にイルカだ。違いも見られない。
水中を凄まじい速度で移動し、時折水面に頭を出しては呼吸する。
跳ねているものを観察していると、近寄ってきて水面に半分身体を出したまま泳ぎだした。まるで乗れと言っているようだ。
せっかくなのでと背中に飛び移って背びれを掴む。
つるつるとしているが乗れない事はない。爽快なスピードだ。とても水中を泳いでいる速度とは思えない。
海上の風を切って進み、徐々に沈んだかと思うと軽く水面を跳ねた。水しぶきが舞い踊る。
楽しい。結構楽しい。
航空機に乗っている時ほどの開放感は無いが、風を切る感覚というのはなかなかに爽快だ。
これが真冬でなければよかったのだが。
段々と寒くなってきた。『ウォーム』にも限界があるので、そろそろ帰るよ、と背中を叩いて空中に戻った。
デルフィノ達は挨拶をするように編隊を組んでフリッパーを見せた。こちらも上空へと跳ね上がる。と、下から巨大なものがせり上がってくる。これはちょっとまずい。
急いで高度を上げるが、間に合うかどうかはギリギリだ。巻き込まれれば叩き落されるかもしれない。
急いで磁力系による真上の高速直線運動。急速な重力に耐えて、一気に高度を上げた。
圧巻だった。
海上に浮かび上がったその巨体は、まるで小さな島のようだ。
少しくすんだ白い身体は、自身から分泌されたであろう脂のようなものでてらてらと光っている。
体表には様々な貝や海藻がびっしりと張り付いていて、そこには既に一つの生態系が生まれている事を感じさせる。
あまりにも大きすぎるクジラは、ヴォーという長い長い汽笛のような音とともに潮を吹き、再び潜航を開始した。
上空から降り注ぐ海水に濡らされながら、唖然とその姿を見守るしか無かった。
潮にびっしょりと濡れた状態で波止場に返ってくると、ナズナが準備運動をしている所だった。やめろと言ったのに。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさいませ、お嬢様。びしょ濡れですね」
「はい、濡れてしまいました。潮を吹いたので」
あの動きを見る限り、あのデルフィノの群れは主と行動を共にしているように見える。
獲る餌の種類が違うため、共生関係にあるのだろう。
「マナセさんに報告します。デルフィノの群れは、規格外のクジラとどこかに言ってしまいました」
最早あれは魔物とかいう存在ではないだろう。人の手の及ばないものだ。
「あー、もう。少し、いやかなり寒いです。早く脱いでお風呂に入りたい」
「今ここで脱いでいかれますか?」
「ナズナ、最近少し暴走気味ですね」
「そうでしょうか?」
海龍亭のロビーで待っていると、赤毛の海洋学者が鼻息荒く階段を降りてきた。
流石に濡れたまま宿の中に入るのは憚られたので、外で『ウォーム』と『ブリーズ』で乾かしてから入ってきた。少し潮臭い。
「おかえりなさい!トリシアンナさん!どうでした?デッドバリーナは倒せましたか!?」
いきなりとんでもない事を言い出す赤毛眼鏡。
「いや、倒さないですよ……脅かすだけって言ったでしょう?それに、デルフィノの群れは行ってしまいましたよ」
その言葉に両手を戦慄かせて掴みかかってくるマナセ。
「どうしてですか!なんで!デッドバリーナを倒して私にデルフィノの群れを見せてくれるって約束したじゃないですか!」
「いや!ひとっこともそんな約束してませんが!?落ち着いて、話を聞いて下さい!」
ぐいぐいと腰にしがみついてくる海洋生物学者を、再び風圧系で黙らせる。
「聞いて下さいって言っているでしょう!もう!」
再び転がったマナセは、一応はいと返事をした。
「お嬢様、同じことを何度も繰り返すのは……やはり下着を見せたいのでは?」
言われて気がついた。またスカートが膝までずり落ちている。
今度は何も言わずに黙って上げた。
「潮で濡れていたので下着は先刻よりはっきり見えました」
「報告しなくていいです!」
本当にこの侍従は。
「はあ、巨大なクジラとの共生ですか。そんな事が可能なんですかねえ」
食堂として使われている海龍亭のホールに移動し、冷えた身体を紅茶で温めながら説明している。
「ヒゲクジラは主食が海の微生物です。一方でデルフィノは魚食性ですね。巨大なクジラの体表には様々な生物が棲み着いていました。移動する島の磯のようなものでしょう」
移動しながらでもあの大きさである。付着している寄生生物や共生生物の数も尋常な数ではないだろう。
「それにしても、そんな生き物が存在するなんて。俄には信じられません」
海洋生物学者をして知らなかったという存在だ。
「海は広大ですからね。まだまだ知らない生き物も沢山いるでしょう」
「いえ、そんなに大きな存在が今まで認知されていなかった事が不思議なのです。それほどまでの大きさであれば、各地に伝説でも残っていそうなものですが」
確かにその通りだ。
人魚伝説やこの宿の名前にもなっている海龍伝説にしたって、元となった生物はいるのである。
「あまり大陸に近づかなかったのであれば、分からないかもしれませんよ。あれは上空からでないとその大きさも分かりませんし。あぁ、そうだ。南方諸島や東方諸島にはそういった話があるかもしれませんね」
海洋国家の彼らであれば、何かしら目撃している可能性は高いだろう。
「た、確かに!外国の逸話は聞いたことがありませんでした!早速調べてみます!まずは渡航申請を学閥にださないと」
すぐにでも出発しそうな勢いだ。だが、その前に聞いておく人物がここにいる。
「ナズナは何か知りませんか?東方諸島で、そういった海にいる巨大なものの話とか」
「ありますよ」
あったよ。
「な、な、なんですか!教えて下さい!すぐ教えて下さい!いますぐおっッッ!」
侍従に掴みかかったマナセは、ナズナの手刀を食らって床に沈んだ。
「私はお嬢様とは違います。簡単には脱ぎません」
この学者は奪衣婆か何かだろうか。
「動く島の話がありますね。嵐に巻き込まれて遭難した漁師が島を見つけて上陸し、助かったと思って一晩を過ごした。次の日、起きてみるといつの間にか海面が上がっており、自分の船が海岸の遥か遠くにある」
錨を下ろしていたのに流されたのかと慌てて追いかけて、船に戻った瞬間に島がずんずんと離れていった、とそういう話だ。
「結構ありそうで具体的な話ですね。スケールから本気にはされていなかったのでしょうが」
「他には船が山の上に飛ばされたとかいう大げさな話もありますね。下から吹き飛ばされたとかいう。お嬢様の潮もこれではないですか?」
「え?私の潮じゃないですけど」
「ああ、お嬢様が濡れた時の潮吹きですね」
何故自分を絡めるのか。間違ってはいないけど。
「な、なるほど……存在は確認されていなくても、伝説は残っているわけですね……」
立ち直ったマナセがテーブルに肘をついて起き上がった。
「恐らく南方にも似たような話があるでしょうね。あの巨大さからみて、相当長い年月を生きているはずです」
あの類の生物はほぼ大きさが年齢に比例する。
際限なく巨大化する獣は珍しいが、魔物にはそういった存在が非常に多い。
「大変有意義な話を聞けました。この件は簡単に纏めて学閥に報告する事にします。トリシアンナさん、ナズナさん、どうもありがとうございました!私は早速渡航の手配をしますので!それでは!」
マナセは出ていってしまった。そういえばここの支払いはまだだ。
「ひょっとして、ここ、私持ちになるんでしょうか」
「……魔物を追い払った礼も受け取っていませんね。まぁ、正式に依頼されたわけではないでしょうが」
言われてみればそうだ。死ぬ思いをして何も得られるものがなかったというのは徒労感が酷い。それどころか無駄に濡れて、お茶まで奢らされた。
今日はオーストリカを買って帰ろうと思っていたのに、クジラのせいでそれもご破算だ。
「新年早々、とんでもない厄日でした……」
「お嬢様、考え方次第です。今年はこれ以上悪い事はもう無いと思えば」
「そうですね……ありがとうございます、ナズナ」
もう帰ってお風呂に入ろう。海風に当たりすぎて寒気がしてきた。
風邪をひいた。
寒風吹きすさぶ冬の海上を飛び回り、海水を全身に被って街を歩き回ったのだ。
風邪をひかないほうがどうかしている。
その日は帰宅してすぐに風呂に入ったものの、翌朝目が覚めてみれば喉が痛い。
全身に現れる倦怠感と寒気に、喉の奥の違和感のせいで止まらない咳。
腫れて閉塞した鼻腔のせいで温度の上がった脳はまともに働かず、舌下の扁桃腺は触ってみればパンパンである。
「次の日に早速悪い事が増えました」
ベッドの中で呻きながら、透明な鼻汁を啜って涸れた声で減らず口を叩く。
アデノだかコロナだかライノだか知らないが、身体の抵抗力に打ち勝ったウィルスの存在が恨めしい。
兄のラディアスであればウィルスなどRNAごと叩き潰しそうだが、こちらはか弱き乙女なのである。そんな常識外れの事など出来ようはずもない。
「お嬢様……何か欲しいものはございますか?」
流石に心配して、いつもの無表情を保てなくなったナズナが聞いてくる。
「食欲がありまぜん。強いて言うなら健康な身体が欲じいです」
病の時は誰もが思う率直な感想だ。
「わかりました。この私の身体は健康そのものです。どうぞ、この身を」
「なんで服を脱いでるんですか。そういう冗談はやめでくだざい」
突っ込むにも体力がいるのだ。変なことをしないでほしい。
「感染せば治ると聞いたことがあります。是非わたくしめにその熱き熱を……」
「迷信に決まっでいるでしょう。もう、放って置いて下ざい」
余計に悪くなりそうだ。身体を反対側に向けて顔を背ける。
死ぬわけではないのだ。眠っていれば勝手に治る。目を閉じた。
ナズナは出ていかずにそのまま立ち尽くしている。気になって眠れない。
喉が痛くて喋るのも億劫なので、手を振って出ていくように促す。
漸く黒髪の専属侍従は部屋から出ていった。
街から遠くはなれたこの邸には、殆ど音が届かない。
聞こえるのは冬の風が窓枠を小さく叩く音だけ。
熱自体は魔術で簡単に下げられるだろうが、そんな事をしては治るものも治らない。
脳が過剰に熱くならないことだけ気をつければ良い。
魔術では、殆どの病気は治らない。
体内に入り込んだ細菌やウィルスを除去する事などできないし、細菌による毒素もほぼ解析されていない。
免疫機構による過剰な抗原反応も抑制できないし、自己破壊機能の壊れた異常な細胞を除去する事もできない。
腹が痛くなっても悪いものが出てくるのを待つしかできないし、頭痛など怖くて普通の魔術では触れることすら出来ない。
精々血液やリンパ液の循環を良くしてやるとか、熱操作で身体を温める、あるいは冷やす事ぐらいしか、魔術で病気に対抗する事はできないのだ。
この世界の死因第一位は魔物によるものだが、堂々の第二位には病気が君臨している。
先王が亡くなったのも多分病気のせいだ。
静かな部屋に、自分の喘鳴と咳の音だけが響く。
眠ろう。眠ってしまえばどうにでもなる。
とはいえ、身体の節々の痛みと寒気のせいで中々眠れない。
詰まった鼻腔も鬱陶しさに拍車をかけている。
せめて眠気を催す薬でもあれば良いのだが。
眠れずに寝返りを打つ。鼻詰まりは片方ずつ起こるので、時々寝返りを打って逆にしたくなる。
扉の方を向いた途端、部屋がノックされた。
「どうぞ」
聞こえたかどうかは分からないが、扉を開けて母、マリアンヌが入ってきた。
「具合はどう、トリシア」
「つらいです」
そうとしか言いようがない。
「そう、少し診せてね」
温かい手が額に当てられる。優しい力がゆっくりと流れ込んできた。
じわじわと体の中に温かさが広がっていく。寒気がゆっくりと引いていく気がする。
「かなり辛そうね。朝食は食べた?」
首を振る。
「そう、でもせめて水は飲まないといけないわね。ヨアヒムに言って、温かいスープでも作って貰いましょう。食べ終わったら薬を飲んで、すぐに寝なさい。眠れる成分をいれておくから」
礼を言いたいが喉が痛くて声を出しにくい為、小さく頷いた。
母が出て行ってから程なく、ナズナが盆に食事を乗せて入ってきた。
「お嬢様、これを口にするようにと奥様が」
頑張って身体を半分起こすと、膝の上に盆が乗せられた。
深めの皿に入っているのは、薄く黄色がかったとろみのあるスープ。匙がひとつだけ置かれている。
一匙掬って口に入れる。
思った以上に味が濃かった。
嗅覚が死んでいるのであまり味が感じられないはずなのに、濃厚な鶏の旨味が感じられる。
以前も食べたことのある、コリブリのリゾットと同じ作り方だろう。
鶏肉を細かくすりおろして、大量の野菜と一緒に煮込んだものだ。
仕上げに卵を溶いて入れてあり、後味にはほんのりとジンジャーの香りが残る。
強い旨味と優しい味わいが同居する、体の奥が温まるようなスープだった。
痛む喉に苦労しながらなんとか全て胃の中に入れて、一息つく。
ナズナが黙ってカップに入れた湯と、母から渡されたらしき散剤を手渡してきた。
こちらも黙って受け取り、ぬるい湯を一旦口に含んでから続けて散剤を入れ、そのまま飲み下す。
口内にのこった粉っぽさと苦味を洗い流すように、湯も全て飲み干した。
膝の上に載った盆をナズナが回収する。
そのまま出ていこうとする彼女の侍従服を掴んだ。
黒髪の侍従は、優しくその手をはずすと、盆を側のテーブルに置いた。
部屋を出る事無く、テーブルから椅子を持ってくると、ベッドの脇に座った。
手を差し出すと、両手でそっと握りしめてくる。
彼女の手のぬくもりを感じながら、シーツの中に潜り込んだ。
喉の渇きを覚えて目を覚ました。
西向きの窓を見ると、かなり日の傾いた夕刻になっているようだ。
身体を起こすと、左手に違和感があった。
見るとナズナと手を繋いだまま眠ってしまっようだ。
彼女は手を握ったまま、ベッドに身体を預けるようにして寝息を立てている。
開いた方の手で身体の様子を確かめてみると、もう殆ど症状は残っていなかった。
結んだ手をそっと外すと、ナズナが気付いて目を覚ました。
「お嬢様……具合は」
「もう大丈夫ですよ。ありがとうございます、ナズナ」
耳から聞こえる自分の声が少し変だが、すぐに戻るだろう。
こちらをじっと見ているナズナ。どうしたのかと思って見返していると、彼女の両の目から涙が盛り上がり、張力に堪らえきれずに零れ落ちた。
「良かった……こ、このまま、し、死んでしまわれるのではと……ッ!」
そのまま抱きついて胸に顔を埋めてくる。
なんだか愛おしくなって、その頭を、髪を、優しく撫でた。
「馬鹿ですね、風邪ぐらいで死ぬわけがないではないですか。ずっと見ていてくれて、ありがとうございます」
溢れる安堵の感情が伝播してくる。熱い涙のような優しい感情の色が、胸元で柔らかく広がっている。
「着替えて降りるので、もう離して下さい。お腹が空きました」
「は、はい」
身体をどけたナズナを追いかけるようにして、ベッドから降りる。
少しふらつく気はするが、もう平気だろう。
ナズナはまだじっと立っている。
「……着替えを手伝って貰えますか?」
「はい、かしこまりました」
たまにはお互いに甘えても良いだろう。
なんとなくそんな気分になった。
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