第15話 開拓
「お姉様、お姉様!冒険者協会に行きましょう!」
朝食を終えた後、姉の部屋に飛び込んだ。
「えぇー?何?トリシア。ちょっと昨日夜更かししてて眠いのよ」
「あぁ、困ったなぁ。今なら第六階位の雷撃系が連発できそうな気がするのになぁ」
「よし、行きましょう。休んでいる暇はないわよトリシア」
「朝食は食べてきて下さいね、お待ちしておりますので」
「分かった、すぐに終わらせてくるから」
あっという間に着替えると、ぼさぼさになった頭を適当になおして、姉は部屋を飛び出していった。ちょろい。
実際、第六階位でも、モノによっては連発が可能になっている。
第七階位は少し安定性に不安があるので、余程でない限りは試そうとも思っていない。
そもそもそんなレベルの魔術が必要になる相手というのは居ないのである。
ナズナに付いてくるように言って、邸の南側で待つ。
今日は走り込みは無しだが、すぐに動き回ることになるので問題はないだろう。
15分程で姉が髪を弄りながら出てきた。早い。
「随分朝早くから出るのね。そんなにそれ、試したいの?」
二本差しになっている剣を指差す。
「そうですね、時折抜いてはいたのですが、実際に使うのは初めてなので」
今日は初めてこの剣を振ってみる日だ。好奇心が抑えきれない。
「そうね、私も実際にそれが振るわれている所を見てみたいし。じゃ、行きましょうか」
「はい、お姉様。ナズナも」
「承知しました」
新しい服は、貴族らしく胸元にフリルをあしらえた上半身に、膝上までの短いプリーツスカートが可愛らしいデザインである。
一番の特徴は、スカートに下着のような履き物が付属しており、下着の上から履く下着、のような作りになっている。
飛び回っても下に履いている下着が見えるわけでもないので、精神的安定感が素晴らしい。更に動きやすく、生地はしっかりとしたフェロディラーニョの糸で出来ている。
フェロディラーニョとは蜘蛛の魔物の一種であり、しなやかながらも凄まじく強靭な糸を吐き出すのが特徴だ。
繊維としては肌触りがそれほど良くないものの、耐久性は素晴らしく、これを使った衣服はかなり高価な部類に入る。
つまり、遠慮なく飛び回った上で羽の様に軽い雷光剣を振り回せるという、今までとはまるで違う環境になるのだ。
風圧系を連続発動して街を目指す。
スカートが舞い上がり、下を走るナズナがこちらを見上げているが何も恥ずかしくない。
言ってみればこれは運動着のようなものだ。
見られても平気というのは実に有り難い。無敵である。
「とはいえ、良いの無いわねぇ」
「そうですねえ」
そうそう都合よく面倒くさい依頼というのがあるわけではないのだ。
流石にそんなにご都合主義的な話があれば見てみたい。
夏前のこの時期にはどちらかと言えば簡単なものが多い。
報酬が低すぎて残っているものはあるが、加えて高難度となると、相場を弁えた人間が出している以上は殆ど発生しないのである。
「この際難度は置いておいて、困っている人を助ける目的に切り替えましょう」
何事も最初から全てを満たすものを追いかけてはいけない。
程々で、ある程度目的に合うものなら良しとすべきである。
試し斬りなどいずれいくらでも機会があるが、困っている人は今困っているのだ。そちらを優先すべきだろう。
しばらくその目標に従って見ていくと、出されてから3週間放置されている依頼があった。
「ナズナ、これはどうでしょう」
討伐依頼で目標はコリブリ。一体当たりの報酬が安すぎて誰も受けていないのだ。
「コリブリですか。果樹園ですかね?にしても一体あたりこれでは」
一体で僅か1シルバである。1時間探してやっと仕留めて1シルバでは、流石に誰も受けないだろう。
これがまとまって数のいる魔物であれば収入もどうにかなりそうだが、コリブリとは群れで動く魔物ではないのである。
おまけに空を飛ぶ。その場でホバリングする上に動きが早い。
高く飛んで逃げられれば魔術を当てるのも困難になるし、高所から突撃されれば致命傷を受けることもある。
要は割に合わないのだ。報酬もなにもかもが。
「ええ……待って下さい、これ、出してるのがディアトリズナ村って……また例の集落じゃないですか」
名前が出ているので気付かなかったが、自分たちで壁や堀を作った上にスタンレンネのネームドまで退治してやった所である。
「また性懲りもなく低額報酬ですか。いくら貧しいとはいえ」
ナズナも呆れている。もはや自分たちを狙っているとしか思えない
「おっ、二人共何か見つけた?……コリブリ?今更こんなの受けてどうすんのよ」
「いや、お姉様。この村」
姉は気づいていない。
「村?ディアトリズナ村?初めて聞く名前の村ね。どこかしら」
「ディアンナお嬢様、そこは以前スタンレンネを狩りに行った例の集落です。税を収めたので名前がつきました」
以前王都に行く際に看板を見たのだ。
「ああ、あそこ。村に名前付けたのね。んん?ディア、トリ、ズナ……なにこれ。私達の名前?」
「そのようです。気付いたら付けられていて」
姉は爆笑した。
「アハハハハ!何それ?安直にも程があるでしょ!」
彼女も特に気分を害した様子は無いので、トリシアンナは安心した。
「それで、どうしましょう。このままだとまた依頼は放置されてしまいそうですが」
姉は、うーんと考えてすぐに答えを出した。
「私はパスかな。コリブリなんて今更狩っても何も旨味がないし。ありふれ過ぎてて研究素材としても下の下よ。何より、あいつら何故か私を見つけると襲いかかってくるし嫌いなのよ」
「ですが、放置してもまたあの村は困窮しそうです」
コリブリは果樹を荒らす。
魔物特有の巨体に加えて、ホバリングも出来る翼を動かす強力な胸の筋肉の維持に、大量のカロリーを必要とするのである。
必然的に、増えれば自然に成っている実も、果樹園の実も食い尽くされてしまう。
特に自然の恵みに頼る事の多いあの村では、害獣の増加は深刻な問題だろう。
「数の指定は無いんでしょ?どれぐらい居るかもわからないし、やるだけ無駄よ、無駄。折角環境を整えてあげたけど、その程度の報酬も用意できないような無能な指導者のいる村なんて滅びたほうがマシよ」
確かにその通りである。
堀や壁、道といったインフラまで整えたのにそこを放棄するのは、勿体ないと言えば勿体ないが、改善が見られないのであれば時には損切りも必要だろう。
彼らとて生活ができなくなれば他に移動するだろうし、仕方がないと言えば仕方がない。
だが、しかし。
「それでは、私が行ってきます。魔物を探すのは得意ですし、そこまで苦労するわけでもないでしょうから」
コリブリは危険といえば危険だが、強い魔物ではない。一人でも十分だろう。
「そう?あんまり甘やかすと癖になるからやめたほうがいいと思うけど。私は帰って研究に戻るわ。ナズナ、トリシアをお願いね」
姉はさっさと帰っていってしまった。
冷たいようにも思えるが、当然の選択だろう。
姉の魔術研究は、言ってみれば公益のようなものだ。
その大切な時間を小さな村一つに注ぎ込むのは頭の良い事ではない。
トリシアンナのような暇人であれば兎も角、姉は自由人だとしても忙しい身の上なのである。
「すみません、ナズナ。下らないことに付き合わせてしまって」
「何を仰いますか。お嬢様に付き従うのがわたくしの使命であり、喜びです」
いつもながら過剰な忠誠心である。もう少し我儘でも良いとは思うのだが。
姉の作った道を通って、三度あの集落へとやってくる。
「うーん、少しはマシになっているでしょうか」
畑は増えており、家も土壁の掘っ立て小屋ばかりではなく、きちんとした木材で組んだものが増えている。
作っている作物自体に変化はさほど見られず、根菜や芋が主体のようだ。
「この作物を改善しない限り、自然頼みの困窮生活は続くでしょうね」
ナズナが冷静に判断を下す。
芋ばかり作っても、腹は満たせるだろうが収入は増えまい。
一部は売れる野菜や果樹、あるいは貯蔵の効く穀物などにしていかなければ、その日暮らしになってしまうのは必然である。
道が出来てもこんなに何もない所では、行商人すら訪れないだろう。立派なインフラも豚に真珠である。
村の中をゆっくりと見回りながら歩く。
人々の生活に悲壮感は無いが、明るい雰囲気とも言い難い。
今は春で比較的安定した気候だが、夏が過ぎ、収穫の秋を迎えて冬になればどうなるかは分からない。
その日暮らしの生活では、将来が余りにも不安だろう。
「村長の所へ?」
「ええ。別に言わずとも勝手に狩ってしまえば良いのですが、現状をどうするつもりなのか聞いてみます」
あんな
もう少し一般的な常識や村の評判なども気にしてほしいものだ。
村の一番奥近くにある村長の家は、板壁の少しはマシな家になっていた。
所々土壁が見えているので、外側に補強の意味で木材を貼り付けたのだろう。
断熱性はその方が良いので、賢いと言えば賢い。
「こんにちは。村長、いらっしゃいますか」
床は底上げの板間になっていた。上に獣の皮が敷いてあり、奥には暖炉も設置されている。
大陸でも東や北東部でよく見られる造りだ。
「はい。どなたですかな……これは、お嬢様!」
奥の部屋から老人が出てきた。相も変わらずしょぼくれた風体である。
「また協会に依頼を出しておられたようなので、様子を見に来ました。村の現状はどのようになっているのですか?」
あまり最初から問い詰めても仕方がない。まずは現状を聞いてみるのが先決だろう。
「それが……今年に入ってから、魔物が森の果実を荒らし始めまして。村のものでいくらかは頑張って駆除したのですが、怪我をするものが続出してしまい。働ける者も減り、治療費も嵩んでどうにも立ちいかなくなってしまいまして……」
典型的な安物買いの銭失いだ。
依頼をケチって自分たちでどうにかしようとして、結局怪我をしてしまう。
いくら多少力や魔術に自信があろうが、所詮は民間人なのである。
コリブリが弱いとは言っても魔物は魔物。冒険者や警備兵といった専門家に任せるのが街では常識だ。
「村長。もう少しこの地方の常識を身に付けられたほうがよろしいですね。以前、困ったらサンコスタの都市警備隊に相談しろとお姉さまが仰っていたのを覚えておられますか」
警備兵は別に街の外の魔物を狩ったりはしない。だが、カネサダもラディアスも、困っている人達を見捨てるような冷血漢ではないのだ。
「覚えておりますが……街の警備隊に言っても、来てくださらないのではと」
「そうですね、彼らの仕事はサンコスタの街の治安維持です。ですが、困窮している村があるというのなら、相談には乗ってくれます。結果的に動くのが冒険者であれ、領主であれ、まずはその情報を流さないと駄目でしょう」
知らないと助けようがない。
そもそもここはサンコスタの領地内なのだ。そうそう姉の様に見捨てるわけがないのである。
「いきなり安すぎる討伐依頼を冒険者協会に出しても、冒険者の方々は慈善家ではないのでやってきませんよ。独立した機関である冒険者協会の依頼内容なんて、領主が一々把握しているとお思いですか?」
トリシアンナ達のやっている事は極めて特殊なのである。
普通は領主の家族が、冒険者協会にやってきて僻地の領民の事を根掘り葉掘り調べたりはしない。
税さえきちんと納めていれば、上手くやっているのだなと普通は思うものである。
払えなくなれば何かあったのかと人を派遣はするだろうが、そうなってからでは大抵が手遅れだろう。
サンコスタやエストラルゴのような大きな街であれば兎も角、開拓地の集落まがいの村などでは、まずは困ったことがあれば近くの大きな街に相談するものだ。
今ある開拓地から出来た村だって、大抵はそうやって生き延びている。
「申し訳ございません……我々の故郷では、皆こうしておりましたので」
「故郷?そういえば、どこから来られたのかは聞いていませんでしたね」
建築様式や作物から見て、北の方だろうか。
「はい、我々は元々、エスミオ地方の北部にある、小さな鉱山で採掘を行っておりまして」
「……エスミオですか。かなり前から困窮している地域があると聞いてはいましたが。人道支援物資は届きませんでしたか?」
毎年かなりの量がサンコスタからもエスミオへと運ばれている。それでは足りなかったのだろうか。
「人道支援物資?いえ、我々は特にそのようなものは……採掘で得た収入で食糧を買っていたのですが、値上がりが激しく、村を養っていく事ができなくなったのです」
届いていない。手違いか、それともどこぞで抜かれたか。
「そうですか。それで、この村の畑も根菜や芋ばかりなのですね」
痩せた土地でもある程度は育つ。エスミオ北部の鉱山という事は、岩場の多い痩せた土地だったのだろう。
それにしても、周辺の街に助けを求められないとは、一体エスミオはどのような統治を行っているのだろうか。
他所の領地に口を出すことは出来ないが、あまりにも非人道的ではないか。
「村長。お話は分かりました。コリブリの件は私達で何とかしますが、まずは畑で育てている作物を増やして下さい。ここはエスミオとは違って大地は肥えていますので、大抵の作物は育ちます。領主に言って農業に詳しいものを派遣しますので、それに従って開墾を続けて下さい」
染み付いた貧困意識を変えないと、どうしたってこの状態からは抜け出せないだろう。
村全体で移住してきたため、価値観が統一されて外を見られなかったに違いない。
「それと、時には街に人をやってください。今は売り物になるものは少ないかもしれませんが、やってくる徴税官と話しているだけでは何もこの地のことはわからないでしょう?
サンコスタがどの様な土地なのか、一度しっかりとその目で見てもらう必要がある。
訪れるための資金がないというのならば、別に個人的に貸してやっても良いのだ。
「ありがとうございます、何から何まで……」
「領民を飢えさせては領主の責任問題です。気にしないで下さい。今後は困ったら、以前にお伝えした都市警備隊のカネサダかラディアスに相談して下さい。我々にもそれで伝わりますので。街での滞在費がないのであれば立て替えます。」
それでは、と言って退出した。
「エスミオは、一体何をしているのでしょうか」
西側の壁へ向かいながら独りごちる。
「物資が届かなかったと……漏れがあるのでしょうか」
ナズナも困惑している。毎年毎年、かなりの量が供出されているのだ。それが届いていない。
「物資の運び込みはエスミオダスまでです。そこからは納税されている各地に送るのが常識ですが……運び込んだ後の物資の動きは、我々にはわかりませんからね」
かなり高い確率で、物資を配分している者たちによって抜かれている。
あるいはもっと上の指示かもしれない。
「『耳』が把握していないはずはないと思うのですが、調べた事が無いのでしょうか。国家事業のはずですのに」
ナズナの言う通り、国家事業の物資を横領など、重罪も重罪である。
担当者の首が飛ぶだけでは済まない。
「まあ、これ以上考えても答えはでないでしょう。私達はコリブリを狩ってしまいましょうか。今日は鳥肉が沢山食べられそうです」
コリブリの肉は食べられる。
鶏肉や鴨肉などと比べればそこまで美味しいというわけではない。
全体的に筋肉質なので、硬くて筋張っている。調理には少し工夫が必要だ。
羽毛も布団や枕などに使われることはあるが、こちらも別に大きな需要はない。
羊毛や水鳥の羽毛の方が柔らかく保温性が高いため、一段質のおちるものとして扱われる。
とはいえ、無いよりはマシだ。あの村には何もないのだ。羽毛ぐらいあげたっていいだろう。
甘やかしているだろうか。でも、素材を無駄にするよりは良いと思う。
「結構沢山いますね。放置しすぎましたか」
近くの気配を探るだけで5、6羽はいる。もう少し広げればもっと見つかるだろう。
「ナズナ、手分けして狩りましょう。私は北側、ナズナは南側をお願いします。肉と羽毛を取るので、毒はあまり使わないで下さい」
「承知しました」
ナズナはダマスカスの短剣を抜くと、一瞬にして木々の中へと消えた。
トリシアンナも近くに視えるコリブリへと走り出した。
大きな虫の羽音を思わせる振動が空気を揺らしている。
目視できる距離に、丸々と太った嘴の長い鳥が滞空している。
鮮やかな黄色い羽毛が特徴的で、大きさは胴体だけで直径1メートル程の球体サイズ。
羽の大きさまで含めれば、果実を主食とする鳥に見合わぬ、猛禽並の巨大さである。
トリシアンナは『サス』の足場を使って、木々の合間から一気に間合いを詰める。こちらに気付いた黄色い鳥が、鳥類特有の無機質な目をこちらに向けた。
こちらを敵と認識したコリブリは、すぐに羽ばたきを強めて上空へと逃げる。
追いかけて迫るトリシアンナに、突然V字で方向を変えて襲いかかってきた。
異常に発達した強靭な鳥の胸筋は、滞空だけではなく急激な方向転換も可能なのだ。
しかし、その特性を知っている人間には通用しない。
トリシアンナは僅かに身体をひねると、すれ違いざま、抜き打ちでカサンドラを縦に振り抜いた。
まるで手応えがなかった。
持っている事を忘れるほどに軽いその剣は、熱したナイフでバターを切り裂くかの如き手応えで、鳥の首と胴体を分離させた。
(これは)
抜いた途端にぞくぞくとした快感が背中から腕に走り抜ける。
凄まじい切れ味に、恐るべき魔導率。肉体と剣が一体化したかのような感覚の中、ゆっくりと巨大な鳥が落ちていく。
慌てて追いかけて尾羽根を掴み、風圧系魔術で落下にブレーキをかける。
慣性に振られた鳥の首から辺りに鮮血が飛び散った。
手にした巨大な鳥の首を見る。まるで真空で切断したかのように鋭利な切断面から、残った血がぽたぽたと垂れ落ちる。
ただ、振っただけだ。風圧系の魔術など乗せていない。
(こんなに斬れるなんて)
刃には血一滴たりとも付いていない。
鈍色の刃は、変わらずその姿を保っている。
風が吹き、木々がざわめく。
その音にトリシアンナは我に返り、持っている鳥の足を蔓で近くの枝に括り付けた。
魔物はまだ沢山いる。試し斬りには弱すぎる相手だが、少しこの剣に慣れておこうと思った。
狩りにも狩ったり、二人で合わせて17羽。うち、トリシアンナが仕留めたのは11羽だ。
「流石です、お嬢様。この鋭利な切り口、ただ一太刀にて斬り伏せる、素晴らしい腕前です」
例によって村の人手を借りて、狩ったコリブリをずらりと村の広場に並べた。
「こんなに恐ろしい剣だとは思いませんでした」
呆然と呟く。
「この間、大旦那様から賜られた剣ですか?見事な拵えですが……」
ナズナにはカサンドラの事は話していない。彼女は、この剣は贈られたレプリカの方だと思っているのだ。
「いえ、何でもありません。処理を手伝いましょう」
村人に混じってコリブリの羽を毟り始める。ナズナも怪訝そうな顔をしながらも、その作業に加わった。
余りにも軽い感覚は鍔にある魔術装置の力だ。それは良い。
驚くべきはその魔導率と切れ味である。
体中の魔素が吸い込まれるような感覚は、姉のタクトに限りなく近い。
それでいて、いくら軽い骨の鳥だとはいえ、何の抵抗も無く切り裂く圧倒的な切れ味。
骨に当たった感覚すら手の中に残っていない。
この剣は使いすぎると危険だ。絶対に感覚が狂う。
正直、いつも使っている白いショートソードでも何の問題もなかったのだ。
もう一振り、別の普通の剣が欲しい。しかし、この剣は貰ったばかりという事になっているのだ。新たに剣を買い求めては怪しまれる。
暫くは封印しておこう。鍛錬は兄から剣を借りてやるべきか。
切れ過ぎるが故に使えないという、なんとも贅沢な悩みを抱えることになったのだった。
「ヨアヒム、お願いがあるのですが」
厨房に顔を出して、少し猫背気味の新たな料理長を呼ぶ。
「お嬢様。なんでございましょう?」
少し困ったような眉毛をした男は、こちらを見ると控えめな笑顔を見せた。
「これを調理して頂けないでしょうか。私とナズナで狩ってきたものですが」
毛をむしられて内臓を抜かれ、綺麗に洗われた巨大な鳥肉を見せる。
「これは……コリブリですね。お嬢様が狩って来られたのですか」
「ええ。あまり美味しいわけではないのですが、捨てるには勿体なくて。どうにかならないでしょうか?」
肉の量こそ沢山取れるが、その殆どは強靭な筋肉である。
普通に煮たり焼いたりしただけでは、顎の鍛錬にしかならないのだ。
「ええ、お任せ下さい。夕食と明日の朝食にこれで一品、追加致しますね。楽しみにしていて下さい」
「本当ですか?ありがとうございます!」
流石は凄腕の料理人。迷うこと無く笑顔で承諾してくれた。
本人の自信以外はマルコに勝るとも劣らない実力があるのだ。期待しても良いだろう。
思わずこちらも笑顔になって礼を言ったのだった。
厨房を後にして、今度は長兄のいる執務室へと向かう。
ノックして中へ入ると、両親はおらず、兄一人が執務机に着いて書類に判を押していた。
「どうした、トリシア」
手を休めると、一度ぐるりと肩を回してこちらを見た。
「お忙しい所申し訳ありません、お兄様。以前出来たディア……新しい村についてなのですが」
なんだか名前を出すのが恥ずかしくなって言い直した。
「ああ、あの北の街道の途中にある村か。あそこがどうかしたか」
「ええ、実は――」
彼らの出自と人道支援物資が届かなかった事、農業支援の必要がある事などを話した。
「支援の事は分かった。明日の命令書で手配しておこう。しかし……物資が届かなかった、か」
兄は顎に拳を当て、額の皺を深める。
「単純な手違いも考えましたが、何年も連続となると……」
「あぁ、どの段階で起こっているのかはわからんが、意図的なものだろう」
そんなに考えなくてもすぐに結論は出る。だが、それがどのレベルで行われているか。
「物資の行き先に関しては、我々では把握出来ん。配分を行っているのはエッシェンバッハだからな。だが、現地の人間がそういった支援があるという事を知らされていないとなると」
明確な背任だ。国家事業なのである。
「また『お耳に』ですか」
「仕方がないだろうな。我々から直接言うわけにもいかん」
回りくどいが仕方がない。他領地の内情に触れるのは諸刃の剣だ。
「やりきれません。エスミオには他にもあのような人達がいるかもしれないと考えると」
「気持ちは分かる。だが、他にどうしようもない」
彼らと同じ様な立場の人は、恐らくまだいるだろう。それも少なくない数が。
故郷を捨て、あの村に居着いた人々はまだ幸せな方だ。
新たな土地を切り開こうとして魔物に蹂躙された者や、逃げるという選択肢を考えつく事も出来ず、飢えて死んだ人もいるかもしれない。
あるいは開き直って他者から奪うことを選んだ人もいるかもしれない。それでは悲劇の連鎖だ。
「報告となると、次の夏ですか。もどかしいですね。親書や通信士は……漏れてはまずいですか」
親書は直接手渡さねば意味がない。通信は秘匿性があまりに薄い。あれは緊急連絡用だ。
「親書も送ればただの手紙と変わらん。検閲されるだろうな」
そうでなければ、国王陛下には毎日わんさかと窮状が届いてしまうだろう。当然、事前に選り分けるために検閲が当たり前のように行われている。
その検閲官にエスミオの息のかかったものがいれば、握りつぶされて終わりだ。
いや、それだけならまだ良い。
国王に内政干渉を促したとして逆に告発されたり、或いは表立ってでなくても嫌がらせが酷くなる可能性は十分にある。
地方領主同士は、お互いに弱みを見せてはいけないのだ。
結局、国王と直接接触できる近況報告の時にこっそりとお『耳』に入れるしかない。
「仕方がありませんか。宜しくお願いします、お兄様。失礼します」
礼をして立ち去ろうとした時、兄がそうそう、と声をかけてきた。
「その服、よく似合っているぞ」
「ありがとうございます」
少しでも気持ちを軽くしてくれようとした兄の優しさに、少しだけ気が楽になった。
夕食時、美しいガラスの皿に盛られたサラダが一品追加されていた。
緑色の水菜に良く似た葉野菜と、軽く茹でた上で細かく刻まれたラディッシュが敷き詰められた上に、茹でられたように見える薄い色の肉がいくつも乗っている。
肉の上からは真っ赤なソースがかけられ、更にその上からは香辛料が振られている。
「おや、これは初めて見る料理だな」
疑問を口にした父ヴィエリオに、給仕を行っていたナズナが答える。
「こちらは本日、トリシアンナお嬢様が仕留めて来られたコリブリの肉のサラダでございます。ソースが少し辛くなっておりますので、気をつけてお召し上がり下さい」
いや、貴女も一緒に仕留めたでしょうと言いたかったが我慢した。
まるで自分一人が蛮族みたいではないか。
「へぇ、コリブリか。あれって顎の筋肉を鍛えるためのものじゃなかったのか」
自分より蛮族に近いラディアスが下らない冗談を言っている。
……冗談ですよね?本気で顎の筋肉を鍛えるためにコリブリを食べたとか言わないですよね?
「ほんとに狩ってきたんだ、トリシア。よくやるわねぇ」
「お姉様、行ったお陰であの村がどうして発展が遅いのか理由がわかりましたよ」
「そうなんだ。良かったじゃない、無駄足にならなくて」
「はい。やっぱり一度現地を見てみるというのは大切ですね」
エスミオにもお忍びで一度直接赴いてもいいかもしれない。
ふと、そう思いついた。
「それでは頂きましょうか。トリシアの狩りの成功に感謝して」
母マリアンヌの言葉にグラスが掲げられ、トリシアンナは早速コリブリサラダに手をのばす。
フォークで肉と野菜を持ち上げてみると、色合いがなんとも美しい。
半透明なラディッシュに、濃い緑色の葉野菜。肉の淡い茶色に真っ赤なソースと香辛料のコントラスト。
あの硬い肉がどのようになったのかを確かめるべく、口に入れた。辛い。
ソースが非常に辛い。舌を刺す唐辛子と酢の刺激が、サラダの味を際立たせている。
殆ど主張の無い茹でたラディッシュはほんのりと甘く、葉野菜はしゃくしゃくと瑞々しくて、それぞれがソースの刺激を和らげている。
肉はコリブリのものとは思えないほどに柔らかく、それでいてしっかりとした噛みごたえも残していて、噛む度に絡んだソースと混じり合って肉の仄かな旨味が感じられる。
かけられた香辛料もソースとは別の種類の辛さを持っていて、こちらも淡白な肉の旨味を引き立てている。
「美味しいです。どうやってこんなに柔らかくしたのでしょう」
ただ茹でただけではこうはならない。夕食までの短い時間で、一体どうやったのだろうか。
「肉の繊維に沿って切り分け、更に細かくナイフで切れ目を入れた上で蒸したそうです。水分を中にしっかりと残したまま熱を通すと柔らかくなるそうで」
ナズナが答える。そんなに手間をかけて作ったのか。あの短時間で。
恐らく長時間、肉を柔らかくする野菜などと一緒に煮込めばこれぐらいにはなるだろうが、そんな手段があったとは知らなかった。
「驚いたな。あのコリブリの肉がサラダに出せるほど柔らかくなるとは」
「辛いソースと香辛料の組み合わせもいいわね、この味結構好きかも」
アンドアインとディアンナの反応も上々である。良かった、肉を持って帰って。
「お代わりを下さい」
他の料理にも手を付けながら、給仕をしているナズナに頼む。
辛いソースのサラダで食欲が増す。これはいくらでも食べられそうだ。
「お嬢様……いくらなんでも食べ過ぎでは」
「言わないで下さいナズナ。反省しているのですから」
ベッドに横臥している。食べすぎた後こうすると楽なのだ。
「ヨアヒムは明日の朝にも一品増やすと言っていました。今から楽しみです」
「あれだけ食べてまだ朝食を楽しみと仰るお嬢様の神経を疑います」
「良いではないですか。美味しいものを食べらるのは幸せな事です」
「本当に、一体どこに食べたものが消えているのか不思議です」
それは自分にもわからない。体重が殊更増えるわけでもないし、尾籠な話だが下から出る量が多いわけでもない。
「不思議ですねえ。人体の神秘です」
「そういう段階は通り越しているような気がしますが……」
恐らくは殆どエネルギーになっているのだろうが、これは消化効率が良いのか悪いのか良くわからない。
「そういえば、ナズナは少食ですよね」
忍びは二、三日食べなくても我慢できるらしいが、そういう極限の話ではない。
「必要な栄養素があれば、そこまでは」
要するに無駄を省いているのだろう。彼女が陸軍で使う長距離トラックだとすれば、こちらは燃費の悪い大戦艦だ。
「無駄な肉を付けないためにはそのほうがいいのかもしれませんね。……そうだ、一応は私も食べて増えている所がありましたよ」
「それ以上仰らないで下さい」
「ごめんなさい」
今の服は仕立てて間もないので大丈夫だが、またいずれ仕立て直さないといけないかもしれない。
どこかで蜘蛛の魔物、フェロディラーニョでも見つけられたら糸を集めておきたいものだ。
「お風呂はもう少し後にします。消化に悪いので」
「今更それを気にするのですか……」
翌朝、トリシアンナは胃もたれを起こす事もなく元気にお腹を空かせて目を覚ました。
今日も街へと出かける予定なので、昨日と同じデザインの色違いの服へと着替える。
三着もあるのだ。いくらヘビーなローテーションをしたところで大丈夫。今日は柔らかな桃色のものを選ぶ。
同じ色をしたスカート付属の下履きに足を通して、下着がはみ出ていないか良く確認する。
この下履きの欠点は用を足す時にスカートごと下ろさないといけない事と、このはみ出していないか確認する手順が必要になる事だ。
いくら見せても良いものとはいえ、下着がはみ出していては全く意味がない。
尻を触ってきちんと下着が収まっている事を確認してから、部屋を出た。
食堂に行く前に兄の部屋へと足を運ぶ。すぐ北側の隣の部屋だ。
ノックをすると、すぐにどうぞと声が帰ってきた。
兄はいつも日の出と同時に起きているのである。
「お兄様、今日の命令書ですが、私が直接役所に持って行っても良いですか?」
朝の挨拶もそこそこに要件を切り出す。
「例の農業支援の件か?別に構わないが……あまり彼らに無理を言ってはダメだぞ」
「大丈夫です。村の詳細をお話ししておきたいだけですので。行政官の方々はお仕事は出来るのですけれど、どうしても詳細がわからないと本当に『お役所仕事』になりがちですから」
手配して人を送って終わり、ではないのだ。
送る人が適切かどうかの判断や、終わった後どのような報告があったのかは丸投げではなく、一度確認して欲しい。
「ああ、まぁそれはあるが。職務を超えさせない範囲で頼むぞ」
「承知しています。では、お食事にいきましょう?」
どうせ食堂で会うのであれば一緒に行ったほうが良いだろう。
「分かった、行こうか」
少し早いが兄と連れ立って部屋を出る。
「今朝も昨日のコリブリを使った料理を出してくれるって、ヨアヒムが約束してくれたのです」
「お前は昨日、あれだけ食べたのに平気なのか。底なしだな」
「一晩寝たら全部消化してしまいますよ。夜は夜、朝は朝です!」
「元気だな……」
兄は少し元気が無い。仕事で疲れているのだろう。
「お兄様、あまり無理をしてはお身体に障りますよ。今日はお休みされたほうがよろしいのでは?」
「いや、大丈夫だ。少し昨日の酒が残っているだけだからな」
珍しい。邸であまりこの兄が深酒をする事は無いのだが。
「申し訳ありません、心労のかかるようなお仕事ばかり投げてしまって」
エスミオとの事は常に気にかけているのだろう。そこに新たな問題を持ち込んでしまったのだ。
眠るために酒が過ぎるのも仕方のない事だろう。
「お前が心配するような事じゃない。単に昨日の料理が美味すぎてな、つい進んでしまっただけだ」
今の嘘はあまり上手ではない。しかし、ここは気付かないふりをした方が良いだろう。
「そうですか。蒸留酒は酒精の割合が高いので気を付けて下さいね」
父と兄が好んで飲んでいるのは、麦から製造された蒸留酒だ。
醸造酒であれば高くても1割かそこらだろうが、蒸留酒となると3割近いものもザラにある。
北方の蒸留酒の中には9割が酒精という恐ろしいものもあるらしい。
そんなものは飲み物ではないだろうと思ってしまう。
一緒に食堂に入ると、中ではフェデリカが待機していた。今日はナズナはお休みなのである。
「おはようございます、フェデリカ」
「おはようございます、アンドアイン様、トリシアンナお嬢様」
普通にしていれば楚々とした侍従の鑑である。
長い栗色の髪と少し下がり気味の目尻もあって、いかにも優しそうで大人しそうなお嬢さんに見える。
そう、酒癖の悪ささえ無ければ。
早々に食卓についたが、流石にまだ朝食の準備は出来ていないだろう。
そう思っていたら、先に陶器の器に入ったものがすぐに出された。
「フェデリカ、これは?」
「アンドアイン様が来られたら、まず先にこれをお出しするようにと言われておりまして。お嬢様もご一緒にどうぞとの事です」
目の前に置かれた陶器の器からは、ほかほかと湯気が立っている。見た目はどう見てもお粥である。なるほど。
「ふむ、これは、リゾットか?良い香りだ」
食欲をそそるチーズとジンジャーの香りが漂ってくる。しかし、この香りはどうもそれだけではないようだ。
「折角だし頂くとしようか」
「そうですね」
添えられた匙を使って中のものを掬う。チーズの中に仄かに混じるジンジャーの香り。
火傷をしないように軽く息を吹きかけて、冷ましてから口に含んだ。
「おお、これは。胃に染み渡るな」
アンドアインが声を上げたが、トリシアンナは言葉も無かった。
口に入れた瞬間に分かった。これはコリブリの肉だ。
ライスを使ったリゾットなのは間違いないが、溶けたチーズやジンジャー、塩などの調味料の他に、すり下ろしたコリブリの肉が溶け込んでいる。
出汁だとかそういうレベルではなく、あまりにも濃厚な肉の旨味。
昨日の淡白な蒸し鳥とは一線を画すような強烈かつ濃厚な肉の味わい。これはライスの料理ではない。鳥肉の料理だ。
夢中で貪る。掬う匙が止まらない。食べる側から腹が減っていく。
「なくなってしまいました」
悲しげな顔をしていると兄が笑った。
「なんて顔をしているんだ。フェデリカ、これはまだあるのか?」
「はい、コリブリの肉は沢山あったのでかなり作ったと料理長が。召し上がりますか?」
「お願いします!」
「ああ、私にももう一皿頼む」
「かしこまりました」
また朝から食べすぎてしまいそうだ。我々のコリブリの宴はこれからだ。
兄から命令書を受け取った後、先に厨房へと顔を出した。
「お嬢様?どうかされましたか?」
困ったような顔のヨアヒムに、笑顔で伝える。
「昨日と今日のコリブリのお料理、とても美味しかったです。ヨアヒムは本当にお料理が上手ですね」
その言葉に、相変わらず戸惑ったように恐縮する料理長。
「そんな。マルコさんに比べたらまだまだです。でも、喜んで頂けたようで」
「はい、ご馳走様でした、ヨアヒム。もっと自信を持っていいですよ!あんなに美味しいお料理を作れるのですから」
笑顔のまま手を振って厨房の扉を閉めた。感謝の気持ちが伝わってくれれば良いのだが。
間違いなく彼は一流の料理人だろう。もっと胸を張って欲しい。
できれば厨房から出てきて料理の説明が出来るようになってくれればもっと良いが。
ナズナがお休みなのでフェデリカを伴ってフランコの馬車が準備出来るのを待つ。
「あの、お嬢様。先程の料理ってそんなに美味しかったのですか?」
フェデリカも気になったのだろう。
「ええ、それはもう。多分、あれは宿酔の朝には効くでしょうね。お兄様が深酒をしたのを知っていたからこそ、ヨアヒムは先に出すように言ったのでしょう」
事実、あれを食べてから兄はかなり元気を取り戻したように見えた。
優しい粥の様な胃を労る料理なのに、ジンジャーと強い肉の味で活力が湧いてくるのだ。
「そ、そうですか。……あの、またコリブリをとってきて頂くというわけには」
「大丈夫ですよ、フェデリカ。さっきヨアヒムに残しておいてもらうように言いましたから。冷蔵しておけば、温め直しても味は変わらない料理のはずです」
本当にこの酒呑みは。
「……お気遣い頂きありがとうございます……」
彼女自身も自覚しているのにどうしても飲みだすと止まらないのだ。
これはもう哀しい性というやつだろう。
「フェデリカの結婚は遠そうですねぇ」
「ハァ……お嬢様に先を越されそうです……」
流石にそこまでは。どうだろうか。
フランコが厩から馬車を牽いてやってきたので、便乗させてもらう。
彼はもう存在自体がインフラだ。厩番無くしてこの邸は立ち行かないだろう。
「お嬢様、ご機嫌ですね。朝食が美味かったんですかい?」
「ええ、それはもう!フランコも後でご馳走になるといいですよ、とっても美味しかったですから」
「そりゃあ楽しみだ」
彼は馬の世話をするために、朝早く起きて先に簡単に食事を済ませている。
だが、殆どはパンとチーズ、燻製肉などの簡単なものばかりなので、きちんと手の込んだものを食べて貰いたい。
マルコの居た時から、送り迎えが終わった後に彼には軽食を提供していたらしいので、今朝のリゾットも出してもらえるだろう。
馬車は坂道をぽくぽくと下っていく。満たされた腹と春の朝の日差し。
「用事は昼までに終わるので、帰りは出入りの商人に乗せてもらいましょうか」
昼を少し過ぎた頃に、必要なものを載せた商人の馬車が邸へと向かう。
スパダ商会の系列なので、便乗しても文句は言われないだろう。
流石にフェデリカにこの坂道を走らせるのは忍びない。彼女はナズナではないのだ。
「はい。お昼はどうされますか?」
「街で簡単に食べて帰りましょう。フェデリカも一緒に」
「はぁ、あまりその、高価なお店は」
「ご馳走しますよ。エールの一杯ぐらいは大目に見ます」
「是非お供させて頂きます」
単純だ。まぁ、昼にエールやラガーの一杯ぐらいなら許容範囲だろう。
街の外で待っていた使用人たちを乗せて、馬車は帰っていった。
今日の用事はたったひとつだけなのですぐに終わる。
ラディアスの勤めている警備隊の詰め所の正面、目抜き通りの向かい側に、サンコスタの役場がある。
基本的なこの街の行政はこちらで執り行っており、領主の命令がなければ、基本的にはマニュアル通りの対応を行っている。
職員は地方の役人という扱いであり、俸給はサンコスタ地方から徴収した王都に納める税金の中から支払われている。
徴税官もここに詰めており、近くの村にはここから定期的に各地を訪れている。
言わばここは都市警備隊と並んで領主の手足となる場所なのだ。
トリシアンナ達は堂々と正面から入り、受付にいる女性の所に向かった。
「おはようございます。兄のアンドアインからの命令書を届けに来たのですが、長官をお願いできますか」
メディソン家の封蝋がされた文書を見せると、受付嬢はお辞儀をして奥へと下がっていった。暫く待つ。
ここで言う長官とは、サンコスタ地方行政長官の事だ。
王都で言うと紛らわしいので使わないが、一般的に地方の役所では長官、といえば行政長官を指す。
都市によっては司法長官や徴税長官もいるにはいるが、サンコスタでは司法官は窓際族である。仕事の殆どが都市警備隊の範囲なので、やることが少ないのだ。
徴税長官はといえば、こちらも規則に則って地方で決められた一定割合の税を徴収するだけ。
徴税官こそあちこち飛び回って忙しいが、徴税長官もまたここでは窓際族である。
一方で行政は物凄く忙しい。
人がいればいるほど仕事が増えるので、ここサンコスタでは年々増加の一途を辿っている。
地方都市の行政長官はエリートコースに乗っている場合が多く、ここでも王都から派遣された貴族がその任についている。
尤も、上級貴族ではなくて大体が能力の高い下級貴族だ。
地方領主より上位の存在を持ってきては権力の分散が起きてしまうので、そこは流石に考慮されている。
「トリシアンナお嬢様、お待たせしました。応接室へどうぞ」
先程の受付女性が奥へと誘う。トリシアンナ達は並んでその後についていった。
「拝見致します」
短髪を油でしっかりと固めた真面目そうな若い男性。エインズワース・ボールドウィン氏は目の前で封蝋を開けた。
中に認められていた兄の命令書を隅から隅まで目を通し、彼は黙って頷いた。
「確かに。拝見致しました。登録農場から何人かを派遣致しましょう。種子も提供という事ですね」
そうだ。まずやってもらう事はそれだけだ。
「はい。現地は兄の代理人として私が見て参りました。そこで、もう一つ長官にお願いしたい事がございます」
その言葉に彼は少し眉を跳ね上げる。
「お嬢様が?何でしょう」
感情の色を視る限り、あまり歓迎はされていないようだ。
当然だろう。幼い少女が偉そうにエリートに意見しようと言うのだ。
領主は上級貴族だが、後継者でもないその子弟は別にそうというわけではない。
立場としては彼の方がやや上に当たる。
「お忙しい事を承知で申し上げます。彼らはエスミオからの移住者なのです」
「エスミオから。ほう、それで」
エスミオとの関係を分かっていて聞いているのだ。
「彼らはサンコスタのやり方にあまりに不慣れです。更に言えば、一般的な都市と開拓地との関係も理解していないようでした。そこで、行政官から一人、村への定期的な派遣をお願いしたいのです」
あくまでも、こちらのやり方に馴染ませるため。エスミオという土地はとりあえず脇に置いておく、
「成る程、監視というわけですかな?」
その言葉にトリシアンナは首を振る。
「教育です。彼らは善良な民に他なりません。ただ、不慣れなだけなのです。ですので、彼らにこの地の民と同じ様に行動できるまで、知識を与えてあげて欲しいのです」
その言葉に僅かに笑うエインズワース。
「失礼ですが、お嬢様は我々の立場をご存知ですかな?」
「存じ上げています。俸給も含め、あなた方は王都の役人と言っても良いでしょう。ですが、同時にこのサンコスタを維持し、繁栄させるという役割を与えられているはずです」
「小さな村に職員という大きなリソースを割く価値があると?」
「サドカンナも、メリディオーネも最初は小さな村でした。今後あそこがそうならないという理由があるならお聞きしても?」
彼はまだ折れない。
「その村はどちらも街道の途中にあります。謂わば、投資先としては十分に価値のあるものです。ディアトリズナ村に、その役割はまず無理でしょう」
かかった。
「なるほど、街道沿い。ところで、かの村に突然街道から伸びる道が出来たことはご存知でしょうか」
唐突な問いに面食らう長官。怪訝な表情で答える。
「え、えぇ……なんでも一夜のうちに出来ていたとか。眉に唾をつけて聞いておりましたが」
「あの道を作ったのは私です」
正確に言えば姉だ。だが、ここは多少のハッタリは許されるだろう。
「……は?お嬢様が?」
「お疑いですか?なんなら今この場を更地にしても構いませんけれど。私は”メディソン”なのですよ?」
その言葉に彼の血の気が引く。目の前にいるのが一体誰なのか、今思い出したようだ。
「な、な……なるほど、左様でしたか。し、しかし、それが一体何の意味を持つと」
意外と鈍い男だ。
「街道からあの村までは、西に向けておよそ3キロメトロほど距離がありますね。その距離が一夜。まぁ正確に言えば朝の7時頃から12時にかけて作ったのですが、その時間で道など簡単に作れるのです。さて、質問です。かの村が繁栄し、その先に更に道が出来、更に北、王都へのより近い道が完成すればどうなるでしょう?」
答えは明白だろう。より早く王都へと向かう街道が出来上がる。
そしてその道中にある村は、村という規模に関わらず大いに繁栄する。
サドカンナ村やメリディオーネ村が大きな税収源となっているのは周知の事実。
その道が完成した時、その功績を讃えられるのは関わったもの、つまり、この領地の行政長官も含まれる。
「エリートコースはさぞかし心労の大きいものでしょうね。少しでも早く駆け抜けてみては?」
その言葉が止めになった。
「なんというか、お嬢様もメディソン家のお一人なんですねぇ」
「兄や姉に比べればまだまだ未熟ですよ」
行政長官に派遣を認めさせ、建物の外まで見送られた。
打算を利用するのは少し心苦しいが、まずはあの村をどうにかしなければならない。
街道の話は後でも良いだろう。別に確約したわけではない。匂わせただけだ。
上級貴族の間ではあの程度のハッタリなど当たり前だ。彼はまだ若い。
「意外に時間を食いましたね。お昼ごはんは近くの店に入りましょうか。フェデリカも、お腹が空いたでしょう」
彼女はすぐに連れ出したせいで朝食を食べていないのだ。放置しては可哀想過ぎる。
「はあ、それはもう。あっ!でしたら近くにビアホールが」
「ビアホールだと飲み放題になっちゃうでしょうが。レストランにします。へべれけで帰ったらハンネにどやされますよ」
「はい……」
目抜き通りの一つ西裏にある、庶民向けではあるが比較的お高めのレストランへと入る。
流石にドレスコードの有る場所は彼女が今は侍従服なので厳しいが、昼に開いている所であれば気にする必要は無い。
昼にはまだ早く、席はかなり空いていた。
陽気が良いのでテラス席に陣取ると、適当に注文を終わらせて一息ついた。
「ジョヴァンナが抜けると忙しそうですね、フェデリカ」
「そうなんです。一人でも抜けると、結構お仕事から追いかけられる様になってしまって」
ジョヴァンナは現在、妊娠を理由に休職中である。
給与は発生しないのだが、お目出度いことなのでお祝い金として月額の6割程度を支給している。
「それにしても、ジョヴァンナもついにお母様ですか。育児も大変そうですけれど、復帰してもらえるのでしょうか」
「どうでしょうねぇ。旦那は警備隊勤めですしお金は困らないでしょうけど、赤ん坊って手がかかりますからねえ」
仕事をしながらの育児というのはかなりきつい。どの職場でも、殆どが戻ってこれずに辞めてしまう。
「育児のために侍従を雇うって手もありますけど、侍従を続けるために侍従を雇うっていうのもなんか、アレですし」
「厳しそうですか。まぁ、仕方がないですね。お兄様も新しく募集をかけると仰っていましたし」
次の募集は、既にナズナがいるためそこまで難しい条件にはならない。
とはいえ他と比べると採用条件が厳しいというのもメディソン家侍従の特徴である。
悩ましい話をしていると、給仕が大きなジョッキを2つもってきてテーブルに置いた。
「おっ、来ました。お嬢様も飲まれるのですね」
「フェデリカだけに飲ませるというのも具合が悪いでしょう。では、午前中の任務完了を祝して」
木製のジョッキを掲げると、中に入っているよく冷えたエールを喉に流し込む。
暖かな春の陽気の中、真っ昼間から飲む酒は格別だ。
泡立つ刺激が喉を通る感覚が心地よい。
「っ、ハーッ!仕事中に飲むエールは最高ですね!」
「人聞きの悪い事を言わないで下さい。お昼休みは休憩時間です。仕事中ではありませんので」
詭弁である。だが、仕事中に従業員に酒を飲ませる雇い主というのはそれはそれで問題なので、建前は必要だ。
自分も飲むので付き合わせたという体にしておけば問題にはなるまい。
続いて運ばれてきた海鮮炒めやパエーリヤを突付きながら侍従とおしゃべりを続ける。
「フェデリカは兎も角として、ジュリアは結婚の話とか無いんでしょうか。結構良いお家ですよね」
ジュリアの家はそれなりの規模の商家だ。
主に宝飾品を扱っているらしく、彼女自身もそういった方面に詳しい。
「私は兎も角ってどういう意味ですかお嬢様。うーん、そういえば話は聞きませんね。あそこは結構放任主義らしいので」
「他に好きな人がいるとか」
「どうでしょうねぇ。あの子、可愛い物が大好きだから、そういう人が好みみたいですけど。あぁ、ニコロ君みたいな?」
フランコの息子ももう17歳だった気がする。確かに年頃といえば年頃だが。
「彼はパオラじゃないんですか?ほら、結構じゃれ合ってるのを見ますよ」
「あれは、そうですねぇ。パオラも本気なのかどうか今ひとつわからないですし」
結構な年の差もある。しかし、年の差でいえばもっと大きいのが身近にいるのだが。
「それよりもナズナちゃんですよナズナちゃん。最近どうなんです?」
彼女たちの話題の中心は、目下の所ナズナに集中している事が多い。
「危機感は持ったみたいですけどね、例の女騎士が来たじゃないですか。ただ、今の所圧倒的にこちらが有利なので、あまり進展は無しといった感じでしょうか」
咀嚼していたパエーリヤを飲み込んでから答えた。
「ああ、あの女騎士。騎士団ってみんなあんな感じなんですかねえ」
「らしいですよ。王太子殿下もうるさくてかなわないって仰ってましたし」
「うへぇ〜」
あの話は少し面白かった。思い出してくすりと笑ってしまう。
「そういえばフェデリカ、王都から来た侍従の方から、何か受け取っていませんでしたか?本のような」
割とどさっと渡されていた気がする。本は高価なのに、随分気前が良いなと思ったのだ。
「あ、アレですか。お嬢様も読みます?『源氏の君の物語』全6巻。綺麗な挿絵入りで読みやすいですよ。話もロマンチックで」
どこかで聞いたような題名だが、思い出せない。
「機会があればお借りしても良いですか?もう、みんな読んだのでしょうか」
「パオラとジュリアは読み終わってますね。ナズナちゃんはもう知ってるからいいって。東方諸島だと割とメジャーな作品らしいですよ」
そういえば初日に、ナズナがそんな話題を出していた気がする。なるほど。
「そうですか、では合間に読ませて貰いますね。イレーヌさんにはお礼を言っておかないといけませんね」
有名な話だとは言え、6冊の本となるとかなり高額になる。
印刷転写の技術の無いこの国では、魔術で複写して作るのだがこれも時間がかかる。
300ページほどの写本一つを作るのに、高度な術者が半日がかりで一冊が限度なのだ。
希少な魔術書などは、一冊で1ガルダ以上することだってザラにある。
「なんか、彼女は布教の為に常にワンセット持ち歩いてるそうですよ。すごい熱意ですよね」
「それはまた……物凄い情熱ですね」
そうとしか言いようがない。まるで宗教だ。
いつの間にか海鮮炒めもなくなっていた。そろそろ戻る時間だろう。
「そろそろ戻りましょうか。ハンネにお酒の事を聞かれたら、私との付き合いで飲みましたって言って下さい。下手に隠すと逆効果ですから」
「はい、ご馳走様でしたお嬢様」
たかだかジョッキ一杯のエールで酔う事は無い。昼に一杯だけ飲むぐらいなら許容範囲だろう。
気温の上がってきた目抜き通りを抜けて、街の北側で出入りの商人を待つ事にした。
商人の荷馬車に乗って邸に戻っては来たが、正面から入るのが面倒になって、勝手口まで乗っていた。
フェデリカが先程の本を貸してくれるというので、使用人の休憩室に近い勝手口から入ったほうが早いと思ったのだ。
馬車が到着して荷下ろしを少し手伝っていると、荷物の受け取りにヨアヒムが出てきた。
納品されたものを確認し、彼は納品書にサインをして、出入り商人に渡している。
「お嬢様、こちらです」
「ああ、はい。今行きます」
普段はあまり出入りする事の無いこの勝手口は、入るとすぐ近くに厨房や貯蔵庫がある。
使用人達が休憩に使っている部屋もこの並びにあるので、フェデリカについてそちらへ向かった。
本を受け取って部屋に戻る前に、執務室に寄って兄に報告をしておく事にする。
ノックをして執務室に入ると、両親と長兄が話をしているところだった。
「おお、丁度良かった、トリシア。話がある」
兄が直接自分に用事とは珍しい事だ。
「アイン。何も今でなくても」
「そうだ。そんなに急ぐ事は無いだろう」
こちらも珍しく両親が反対している。何の話だろうか。
「はい、何でしょう?私の報告は後でもよろしいですか?」
命令書を渡してどの様な話があったのかは報告しておく義務がある。
「うむ、実はな。トリシア。お前に一度会いたいという人がいる。二名だ」
「はぁ、私にですか?」
全く思い当たる節がない。
自分を名指しで会いたいと言う者など、あの王太子殿下ぐらいしか心当たりが無い。
「一人はエリオット・アールステット。名前から想像はつくだろうが、セストナードの領主、ベネディクト・アールステット伯の孫だ」
全く聞いたことがない。そもそもベネディクトには子や孫が多いのだ。
「もう一人はヴィリー・フォン・エッシェンバッハ」
エッシェンバッハ?エスミオの?
「あのハインリヒの一人息子だ」
察しがついた。これは。
「私はまだ10歳ですが」
「早いとは思わん。それに決めろとも言わん」
要するに地方領主の子弟同士のお見合いだ。ある時は縁戚関係を結び、より貴族同士親密に。あるいは、人質。
どちらも意味は正反対だが目的は明白だ。
ベネディクトが要求してきたのは、サンコスタとの関係性を深める為と、もう一つは自身の後継者を作るためだろう。
彼の子や孫には、どうにもぱっとしない者が多く、メディソンから優秀な嫁を連れてきて後継者に指名した夫を補佐させよう、という腹積もりだ。
一挙両得、正に老獪で聡明な彼らしい考え方である。
エスミオの方はもっと簡単だ。
要するに、お前のところの可愛い末娘を嫁がせろ、何かあったらこの子の身は保証できんぞ、というやつだ。
古の封建時代によく見られた、人質とするための婚姻。
「分かりました。お会いしましょう。日取りは?」
「トリシア。そう急がなくても良いのだぞ」
父が口を挟んだ。
「お父様、別にお受けするとは言っていません。お会いするだけです」
会って人と為りを見ておくのは意味があるだろう。受けるつもりはさらさら無い。
百歩譲ってセストナードの方はまだ良いだろう。メディソン家にも利のある事だし、あのベネディクトが自分を邪険に扱うとは考えにくい。
だが、エスミオの方は馬鹿げた話である。こちらに一分の利も無い。
これが圧倒的に力の差がある相手であれば、ご機嫌取りや服従の意味にもなろう。
だが、現状エスミオとサンコスタは同格だ。わざわざ人質を寄越す意味も無い。
「セストナードは期日の指定はしていない。ご希望の日取りで、という事だ。だが、エスミオは日を指定してきた」
なんとも傲慢な事である。
「今年の夏、近況報告に合わせてきた」
どっちだ。王都か、エスミオダスか。
「それは、私が王都へと同行するという事ですか?それとも」
「後者だ。私の留守を利用するつもりだろうな、露骨だ」
確かに露骨すぎる。
兄のアンドアインを警戒する気持ちは分かる。彼が一緒についているか居ないかで、あちらのやり易さは大幅に変わるだろう。
だが、別に兄が居ようが居まいが結論は変わらないのだ。つまり、無駄な指定と言える。
「そうですか、分かりました。では、先に指定日のあるエスミオダスへと参りましょう。帰りにセスグラシオへ寄ります」
面倒なことはさっさと終わらせるに限る。
領主が留守になるのはどこも同じなので、こちらだけが特段に不利というわけでもない。
「トリシア。ねぇ、トリシア。無理はしなくていいのよ。あなたはまだ小さいのだから」
「お母様、大丈夫です。行ってちょっとお話をするだけですから。ついでに観光もしてきますよ。お土産は何がよろしいでしょうか?」
にこやかに答えると、母は泣き崩れてしまった。
「お母様、泣かないで下さい。本当に大丈夫ですから」
母は余りにも心配性だ。申し訳無くなってくる。
「マリアンヌ、やめなさい。トリシアが困っているだろう」
父に諭されて、漸く母は泣き止んだ。
「それで、お兄様。移動はどのように手配致しましょう」
夏の報告と重なるとなると、日程によってはかなり調整が難しくなる。
「指定日自体はまともに我々の報告の日に被せてきた。よって、途中まで私と同行してもらう。エストラルゴで別れ、お前はエスミオダスへ、私は王都へと向かう事になる」
コスト削減にもなるので丁度良いだろう。しかし、問題は同行者だ。
「ナズナはこちら側ですよね。となると、お兄様の方は護衛が必要ですか?」
「可能であればそうするつもりだ。しかし、危険地帯は合流して通り過ぎる事になるので、最悪無くても問題はない。それよりも、お前の方の同行者をどうするかだが……」
兄の方は相変わらず御者の二人と従者の一人だろう。そこに冒険者の護衛がつくかどうか。
エスミオ地方の勝手がわからないので何とも言いようがない。
「エストラルゴからエスミオ地方に入って最初の宿場町まで一日、そこからエスミオダスまではおよそ半日で到着する。危険は無いと言えるが」
であれば、簡単だ。
「エストラルゴで二人用の馬車を用意してもらえますか。ナズナと二人で行きます」
「それは……助かるが……」
兄は両親の方をちらりと見た。父も母も心配性なのだ。
「お父様、この剣を振ってみました。伝説の通りだったと申し上げておきます」
二本差しているうちの片方を持ち上げて言った。
「怖いのは魔物や賊だけではないぞ」
「ええ。ですが、私はもう立派にメディソン家の一人です。お兄様から聞いておられませんか?」
その言葉に、何故か両親は息を呑んだ。
「アイン、お前」
「言っていませんよ」
何の事だろうか?
父は深く深く息を吐くと言った。
「わかった。だが、危険を感じたらすぐに逃げなさい。何をおいてもだ」
「わかりました。ご安心下さい、お父様、お母様」
そう告げると、疲れ切った様子の両親は執務室を出ていった。
あまりあの優しい両親に負担をかけることはしたくないのだが、かといってこの家に必要な事はせざるを得ない。
心苦しいがこればかりはどうしようもない。
「お前は本当に根っからの貴族だな」
不本意な評価を兄から頂いた。
「お言葉ですが、これは後天的なものです。誰が好き好んで貴族になどなりたいと思うでしょう?」
「違いない。全く同感だ」
この兄とは思考回路が非常に似通っている。故に彼の苦悩も痛い程に分かる。
「それで、報告があるのだったな」
告げられた話が強烈過ぎて、思わず忘れる所だった。
「ええ、今朝の命令書の事ですが」
命令書の通りに農業の指導者を送り込む事に加えて、定期的な視察と教育が行われることを説明した。
「あの堅物エインズワースがお前の言う事を聞いたか。どうやって脅した?」
「脅すなどと、人聞きの悪い。今後の利益を説いてご協力頂いただけですよ」
「空手形か?あまり褒められたものではないが」
「期日を指定していないだけです、空手形などではありません」
いつかはやるのだ。彼が在籍している間にとは言っていない。
「ふっ、だろうな。良くやってくれた。流石はトリシアだな」
「その言い方、恥ずかしいのでやめてくれとナズナにも言ったのですが」
「別に構わんだろう。ここには二人しかいないのだ」
そうだけど、そういう意味じゃないんです。
少しの不満を抱えても、兄に理解して貰えた事は素直に嬉しく思って退出した。
それにしてもここ最近は、何かと厄介事が発生するものだ。よりによって敵地に二人だけで飛び込む羽目になろうとは。
とはいえ、いくらエッシェンバッハだろうとそこまで強引な事は出来ないだろう。
自分が行くことは周知の事実なのだし、そこで消息が途絶えれば彼らの立場がどれほど悪くなるかなど、考えなくても分かる。
丁度あの移民たちの故郷も見てみたいと思っていたところだ。
精々悠々と観光させてもらう事にしよう。
(こ、これは……!)
寝る前に、少し読んでみるかと思って借りてきた物語を手繰る。
最初は普通に読み進めていたのだが、段々と妙な雰囲気になってくる。
(な、なんか妙に生々しいですね……)
恋多き若君の物語、なのは良いのだが、彼が成長するにつれてどんどん性的描写が生々しくなっていくのだ。
それにつれて挿絵の人物も相応に肌の露出が増えていく。
(これ、ひょっとしてエロ本なのでは……?でも、ナズナも侍従の皆も読んだって言ってるし……)
もう少し、もう少しだけと読んでいるうちに朝が来てしまった。
寝坊してまたナズナに勘違いされるまでが一連の流れである。
「あっ、トリシア!頼まれてたもの出来たよー」
昼食を終えてそろそろ狩りにでも行こうかと思っていた所、姉がいつ帰ってきていたのか、階段の上から声をかけてきた。
「頼んでいたもの……ああ!アイスクリームの!」
「そうそう、言われた通りのものだけど、ちょっと試してみてよ」
「わかりました!」
王都に行った時、ナズナがアイスクリームを大変に気に入ったので、こちらでも作れないかと思っていたのだ。
ただ、撹拌が大変だという事を知っていたので、出来ればそれを魔術装置かなにかでできないかと、姉に相談していたのだった。
ディアンナが持ってきたのは、丁度大人の肘から先ぐらいの大きさをした、棍棒のようなものだった。
棍棒と違うのは、先端部分がU字に曲げられた金属がいくつも重ねられて取り付けてある事と、持ち手のところにこの装置の核らしき宝玉が取り付けてある。
「いやー、苦労したよ。何が大変って、かき混ぜても飛び散らないような形にするのと、速度の調整が難しくて。最初の試作機なんて、外の木にあてたら木が一瞬で全部木くずになって飛び散っちゃってさ」
一体どんな武器を作ったのか、それはそれで興味はある。
「お疲れさまでした。早速試してみましょうか。いきなりアイスクリームは難しいと思うので、卵でクリームを作ってみましょう」
卵白に砂糖を入れて泡立てると、ふわふわと柔らかいクリームが出来る。
これも作るにはかなり大変なので、試験運用としては申し分ないだろう。
厨房にいるヨアヒムに声をかける。
「ヨアヒム、こんにちは。少し厨房を使わせて貰ってもいいでしょうか」
食後の珈琲を楽しんでいたヨアヒムは、こちらに気付くとその頼みを笑顔で承諾してくれた。
昼過ぎに運んでこられたばかりの新鮮な卵を割り、卵白と卵黄に分ける。
木製のボウルに卵白だけ入れて砂糖を加えると、いざとばかりに魔力を流し込んだ。
「お?おおおお?」
音を立てて回転する金属をボウルの中に入れると、物凄い勢いで卵白が撹拌されている。
程なくして角が立つほどのクリームが出来上がった。
「すごいですよお姉さま。流石は天才魔術研究者です!」
「まぁねー。これぐらい楽勝よ」
出来れば試作機も見たかったが、それは次の機会に置いておこう。
「凄いですね、お嬢様方。これは、ディアンナお嬢様がお作りになったので?」
ヨアヒムが一連の作業を見て感嘆の声をあげる。
「ええ。アイスクリームが食べたいってこの子が言うもんだから」
「ああ、なるほど。アイスクリームですか。確かに撹拌が大変ですからね」
流石は一流の料理人である。作り方も知っているのか。
「ヨアヒムはアイスクリームも作れるのですか?」
「ええ、材料があればなんとか。ただ、冷やしながら撹拌するのがなんとも大変なもので。これがあれば簡単に作れそうですね」
やったぞ、姉にこれを作ってもらって大正解だ。
「ではでは、午後のお茶の時間に作ってもらう事は出来ますか?出来れば使用人の皆にもご馳走したいのですが」
「かしこまりました。味はどうしましょう。生憎とバニラがないもので他のものしか出来ませんが」
「バニラ以外のアイスクリームですか……柑橘だとシャーベットみたいになってしまいますし、カカオは……難しいでしょうか」
「カカオなら出来ますよ。あとは紅茶とか、葡萄の蒸留酒の味なんかもできますね。干しぶどうを入れたものもあります」
どれも美味しそうだ、これは迷ってしまう。
「出来るのであれば私はカカオが良いですが、お姉さまは?」
「私?私はなんでもいいわよ。作れるようになったのなら、夏のデザートに色んな味のを作ってもらえばいいじゃない。別に今真剣に選ばなくても」
それもそうだ。これからは夏にアイスクリームが楽しめるのだ。控えめに言って最高だ。
「確かにそうですね!では、ヨアヒム。最初はカカオの味でお願いします!」
「はい、かしこまりました。出来ましたらお呼びしますので、お部屋でお待ち下さい」
「ありがとうございます!」
暫くの間、侍従達の間で今日のアイスクリームの味は何にするかで争いが発生するようになったという。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます