第14話 雷光剣
王太子が帰途についてから三日後、入れ違いにアンドアインが帰ってきた。
「どうでしたか、視察は」
執務室で、ヴィエリオと二人でお互いの報告を行っている。
「滞り無く終わった。トリシアが本当に良く王太子殿下を見ていてくれてな。上機嫌でお帰りになった」
「そうですか。まぁ、あの子であれば間違いは無いでしょう」
別の間違いは発生するかもしれないが、それは物の数には入らない。
「王都も変わらずです。ただ、先王のお身体がどうにも思わしくないようで」
「そうか……病を得られてから随分と経つからな。早めに譲位されているので体制に心配は無かろうが」
現国王は非常に手堅い政治を行っている。王国の地盤が揺らぐ事は無いだろう。
「トリシアは、今、何を?」
直接彼女にも話を聞いておかねばならない。
どのような事があったかを把握しておくのは領主の責務である。
「暫く出かけていたディアナが戻ってきたので、今は二人で食堂にいるだろう」
「そうですか。ディアナは、殿下がご滞在中の三日間何を?」
「わからん。ずっと外出していた。全くふらふらとあの子は……」
ディアンナは最近、長く留守にする事が増えた。
心配する必要は無いだろうが、一応は年頃の娘なのだから気を付けては貰いたいものだ。
「その事も含めて少し聞いておきましょう。まぁ、口を割るとは思ってはいませんが」
直接聞いても多分答えないだろう。トリシアンナには話しているかもしれないので、そちらから聞き出せば良い。
「そうだ。トリシアには今回の事で、何か褒美を与えようと思っている。お前から何が良いのか聞き出してくれないか。同時にあの剣も与えようと思うのでな」
この父は本当に末娘に甘い。だが、彼女が一番の功労者である事は間違いないだろう。
「わかりました。褒美という事であれば不自然にはならないでしょう。良いタイミングだと思います」
「頼むぞ。私から聞いても遠慮して答えてくれんのだ」
いつも甘くするから本人が遠慮するのではないだろうか。
それを言ったとしても父の態度が変わるわけでもないので、黙って了承の意思を示した。
「お姉様、一体どこに行っていらしたのですか。大変だったのですよ」
食後のお茶を前にして、食堂で姉を問い詰めている。
「いやぁ、ちょっとねえ。研究が捗ったものだからつい夢中になっちゃって。あとは、ちょっと周辺のお掃除をね」
「そうですか……まぁお姉様が無事であれば良いのですけれど。長く留守にする時は仰ってください。不安になるではないですか」
「ごめんごめん、次からはそうするから。ほら、ぎゅーっと」
抱きついて誤魔化そうとしてくる姉。苦しい。
どうにか振りほどくと、そのまま姉は先日までの事を聞いてきた。
「それより、こっちはどうだったの?面白かった?」
「面白いというより、大変でした。ラディお兄様を巡って騎士とナズナの対立が」
「ええっ!?そんな面白い事が!?くっそー、戻ってくれば良かった!ね、ね、詳しく聞かせてよ」
人の苦労を笑い話のように。まぁ、傍から見ていれば面白い余興なのかもしれないが。
「はぁ、ここでは何ですのでお姉様の部屋に行きませんか。ナズナは地獄耳ですので」
「聞こえております、お嬢様」
部屋の隅に立っているナズナが呟いた。ほら。
「あぁ、ええと、ナズナを貶めるような事は言いませんので安心して下さい」
逃げるようにして食堂から二人で退散した。
この姉の部屋に入ったのは久し振りだ。
大体が姉の方から妹の部屋へとやってくるのが通例となっているため、滅多に2つ隣のこの部屋には立ち入ることが無いのである。
「お姉様、ありがとうございます」
開口一番に感謝の言葉を伝えておく。
「んー?ああ、別に大したことじゃないから気にしないで」
王太子殿下ご一行が出発してから三日経って帰ってきた。
同時に兄のアンドアインも同じ日に帰ってきた。
周辺のお掃除、というのはつまり、不穏分子の駆除という事だろう。
「出る時に仰って頂ければ良いのに」
「それだと邸もそれ前提の動きになるでしょ。勘付かれちゃったら意味がないし。一人ぐらいふらふらしてるのが居たほうが、カモフラージュになって動きやすいのよ」
確かにそれはその通りなのだが。
「でしたら私にだけ一言お願いできませんか。私だけであれば、邸の動きに変化は見られないでしょうし」
意思決定はアンドアインかヴィエリオだ。駒であるトリシアンナが知っていても影響はないだろう。
「わかったわかった。次からはそうするね」
「お願いします。それで、どれぐらいいました?」
メディソンの失脚を狙うのであれば、サンコスタの領内で問題を起こさせるだろう。
街に殆どそういった動きが見られなかった以上、街道の近くという事になるが。
「2~30ってところかしら。結構大掛かりだったわね」
「騎士が5人もいますからね。『バンディット』ですか?」
「いや、アレじゃなかった。というかあいつらは騎士が出張ってるところには絶対に近づかない」
騎士が出てくるという事は王族という事になる。得られる利益の割にリスクが大きすぎるという事だろう。
「殆どがどこかで雇われた工作員だったわ。身元を証明するものも一切無し。まあ当然だけど」
「そんなヘマをする連中なら王族の馬車を襲おうなんて思いませんからね」
万が一失敗して、身元から自分たちの所に紐がつけば逆効果で自分たちの首が飛ぶ。比喩ではなく実際にだ。
王族に手を出すという事は、国家反逆罪で、漏れなく極刑確定だ。
「王族がダメなら兄さんを襲おうと思ってたみたいだけどね。まぁ私がやらなくてもアイン兄さんなら確実に返り討ちだけど」
長兄は強い。
普段は滅多に剣を抜く事は無いが、一旦戦いとなるとラディアスでもまず勝てない。
騎士団に呼ばれなかったのは、若いうちから早々に後継者として育てられたからだ。
「ま、こっちは大したことは無かったわよ。雑魚ばっかりだし。それよりさ、騎士とナズナの争いって何?すんごく面白そうな臭いがプンプンするんだけど」
「はぁ……いえ、構図としては単純なのです。女騎士が騎士団時代のラディお兄様に、勝ったら結婚しろと一方的に迫っていたようで」
簡単に経緯を説明する。大雑把に何があったかも教えた。
「へぇー、あのゴリラに求婚ねえ。しっかし、ナズナといいその女騎士といい、なんでアレがそんなにモテるのかさっぱりわかんないわ」
同感である。
「傾向としてなんですけれど、どうも脳筋は脳筋同士惹かれ合うみたいですね。ナズナもほら、そういう所があるじゃないですか」
これは本人には絶対に聞かせられない。
「あぁ、確かに。成る程ねぇ、あたしだったら絶対に嫌だけど、同類には魅力的に見えるのかな。まぁ、強いのは強いから」
ナズナの場合はそれに加えて諸々の理由もあるので一概には言えないが、あのデリカシーの無さを気にしないというのが絶対条件ではあるだろう。
「まぁでも、聞く限りじゃナズナには勝てないでしょうね。距離もあるだろうし、そもそもラディ兄さんに勝つっていう条件は絶対に満たせないから」
「そうですね。指輪があるというのも強力なアドバンテージです。何だかんだ言ってお兄様もナズナの事を気にかけていますし」
兄がナズナと揃いの指輪を買った時、この姉は狂喜乱舞したのだ。
まるで弄り甲斐のある玩具を見つけたという反応そのものだった。
「さっさとくっつけばいいのに。いつまでうだうだやってんだろ」
「どうにも押されると引くタイプなんですよ、お兄様は」
姉妹で好き勝手言い放題である。しかしそれが楽しい。
「ま、ラディ兄さんはそのうち決着がつくでしょ。問題はあなたよ、トリシア」
「は?私ですか?」
意味がわからない。どうしてこちらに矛先が向くのか。
「三日間、殿下と何も無かった?無かったわけがないわよねぇ。求婚までされた相手と一つ屋根の下にいるんだし。最終日は二人でデートしたんでしょ?どこまでやったの?」
どきりと心臓が跳ねる。まずい。この姉に知られてしまえば一生弄られる。
「な、何かあるわけがないじゃないですか。あったとしたら大戦争の始まりですよ。恐ろしい」
実際にはあったのだ。だが、言うわけにはいかない。
「嘘ね。私の勘が言っているわ。何かあったと。最後までは行かずとも、その手前までは行ったんでしょう?」
「だ、だからそんな事があれば大騒ぎに」
「大騒ぎにならないように、うちに泊めてるんでしょうが」
その通りである。情報統制されてしまえば何があっても滅多なことでは漏れない。
「でも、お付きの侍従や騎士だっていますし、そんな気付かれないようには」
「部屋の中までは付いてこないでしょう?プライベートな空間だと浴室とかも。あとは、王族専用の馬車なんかも狙い目ね」
鋭い。この姉はひょっとして見ていたのではないだろうか。
「ほらほら、白状しなさい。大丈夫よ、お姉ちゃんは誰かに言ったりしないから。こっそりと教えて頂戴?」
黙秘するしかない。しかし、ある程度満足させないとこの姉はずっとこの質問を続けるだろう。小出しにするか?しかし、ボロが出てしまえば賢い姉は即座にそこを突いてくるだろう。出来るか、この綱渡りが。
「すまん、ディアナ。トリシアはここにいるか?」
部屋の扉がノックされ、アンドアインの声が聞こえた。救いの神だ。
「はい、お兄様。何でしょうか?」
「少し話があるのだが、俺の部屋に来てくれ。すぐに終わる」
助かった、この場はとりあえずこれで切り抜けられる。
「すみません、お姉様。お兄様がお呼びですので」
流石に現当主の言葉には応じるしか無い。ディアナは渋々いってらっしゃい、と言った。
長兄の部屋に入るのは、姉の部屋よりももっと久しぶりだ。
そもそも用事があれば常に執務室にいるのでそちらに行くし、この兄がこの部屋にいるのは寝る時ぐらいなのである。
殆ど飾り気のない部屋で、何もかもきっちりと整理整頓されている。
兄の几帳面さが伺える部屋だ。
「すまないな、二人で楽しい会話をしている所を遮って」
「いえ、大丈夫です。寧ろ助かりました」
「?そうか。それなら良いが」
兄は少し怪訝そうにしたが、気にせず要件を切り出した。
「聞きたい事は二つ、伝える事が一つ。まずは一つ目を聞く」
簡潔で明瞭な前置き。
「王太子殿下とはどこまでいった」
「……は?」
どうしてこの兄が、先程の姉と同じことを聞いてくる?
まさかこの兄にして下世話な興味を持ったという事はあるまい。これは、政治的な意味があるのか?
「少し言い方を変えよう。トリシア。王太子殿下は、お前にどこまでの事をした?言い難いだろうが、これは俺が知っておかねばならない事だ」
どうしよう。正直に言いたくない。けれどこれは貴族の責務でもある。
「わ、私はまだ処女です。王太子殿下からはその、求められましたが……」
具体的に言うのは憚られる。だが、どこまで細かいことを兄が知ろうとしているのかが分からない。
「そうか。殿下はお前に一本たりとも指を触れていないか?」
質問の仕方を変えてきた。これは嘘をつけない。
「いいえ。少なくとも、一歩手前までは」
鉄面皮の裏で、感情が揺れている。だが、この兄はそれを爆発させることは無い。
「そうか、ならば良い。言い難いことを聞いて済まなかった。ただ――」
ただ、何だ。
「お前が自分で納得して受け入れたなら、それはそれで問題ない。意に反してとなれば俺も少し思う所はあるが、基本的にここで起きたことは外に漏れない。分かるだろう」
「……良く存じております」
つまりはあれだ、お互い合意の上であれば、隠しておくから好きなようにして下さい、という事だ。
ユニティアとはまた違った、別次元の恐ろしさを感じる。
彼女は表沙汰になっても逆らうものは踏み潰すと言った。
この兄は、何があっても表沙汰には絶対にしないからお前の好きにしろと言った。
それは方向性こそ違えど、言っている事は全く同じだ。
お前の好きにして良いのだぞ、と。
「一つ目の聞きたいことはこれで終わりだ。もう一つと、言いたいことはほぼ同じだ」
一番最初に聞き難い事を持ってくるのは会話をする上での戦術だ。後のゆるい質問には口が軽くなる。
「お前の今回の働き……まぁ、王太子殿下が満足して帰られたので、その働きに感謝して何か希望があれば聞こうという話だ。それと同時に、例の剣をお前に渡す」
例の剣のレプリカを、だ。
「それは。きちんと殿下をお送り出来たのは、私だけではなく邸全員のお陰です。私だけにそのような報酬は……」
その言葉に、兄は口元を綻ばせた。
「そう言うだろうと思っていた。無論、使用人達にも報酬は用意してある。一日でも関わった者には1ガルダか、若しくはそれ相応のものを希望に応じて渡す。ナズナとハンネ、マルコとヨアヒム、フランコに関しては上乗せを考えている」
本当にこの兄は全体を良く見ている。そしてここまで言われては断れないだろう。
「お兄様は本当に交渉上手ですね。そこまで言われれば希望を言わないわけにはいかないではないですか」
「お前が当主だったとしても同じことをするだろう?貴族とはそういうものだ」
「確かに」
自分でもそうするだろう。働きに応じて報酬を渡すのは絶対だ。これを違えると人心は徐々に離れていく。
「それでは……最近、動きやすい服が欲しいと思うようになりました。持っている服がその、ドレスのような物ばかりですので。できればもっと、活動に適した服があればなと。できれば同じものを二着か三着ほど」
街で起こった盗人捕縛の時に思ったのだが、自分の移動手段はどうしても下着を丸出しにしてしまうものなのだ。
肌に張り付くようなものもあるにはあるが、日常的に着るには抵抗がある。
人の居ない山の中であれば問題も無いだろうが、突発的に街中でああいった事が起こると、どうしても気になってしまう。もう、子供時代はそろそろ終わるのだ。
だったら、見えない服か見せても問題ない服が欲しい。頑丈で可愛ければ尚良い。
「なるほど、魔物狩りも出来て外面も配慮できるものが欲しいという事か」
さっすが!お兄様は話がわかる!
「はい。注文が多くて申し訳無いのですが」
「問題ないだろう。冒険者が使う衣料品店がある。防具ではないが、オーダーメイドも受け付けているのでそこに行くと良い。仕立て直しもしているので、気に入ったのなら使い続ける事も出来るだろう」
何でも知っているなこの兄は。即座に回答が出てくる所が神がかっている。
「本当ですか?それなら嬉しいです」
「店の場所は教えておこう。好きな時に行って、俺の名前で付けておけ。三着で良いのだな?」
兄はそう言って机の上にあった紙を一枚破ると、そこにサラサラと住所を書きつけた。
「ありがとうございます、お兄様」
「正当な報酬だ。遠慮する事はない」
紙を手渡される時、兄からは優しい色がした。
話が終わって部屋に戻ろうとすると、そうは問屋が卸さなかった。
「お帰り、トリシア。何の話だったの?」
姉のディアンナが、一緒に部屋の中へと入ってきた。まだ諦めていなかったのか。
「お姉様と同じことを聞かれました。政治的に意味のある事なので教えろと」
兄の威光を使ってみる。頼む、これで引いてくれ。
「なるほど、政治的に……これはあたしも知っておく必要があるわね」
「お姉様は自由人でしょう。その必要はありません」
負けるな私、ここで流されてはいけない。
「そう、そうね。それじゃあ質問を変えようか。アイン兄さんには何て答えたの?勿論、男性である兄さんには赤裸々に話したってことはないでしょ?それでいいのよ」
どうしても助平な話がしたいのかあんたは。
「はぁ、まぁ。私はまだ処女ですと」
これでいいだろう。完了。終了。
「それだけ?」
「それだけです」
「嘘ね」
「なぜそう思います?」
「兄さんはこう聞いたはずよ『本当に殿下はお前に指一本たりとも触れていないのか?』って」
こ、こいつ、エスパーか!?
「顔色が変わったわね。分かりやすくて可愛いわ」
姉の能力を甘く見ていた。まさかこんな特殊な魔術を使えるなんて。
「魔術じゃないわよ?いわゆる洞察力ってやつ」
嘘だ。絶対に嘘だ。この姉はどこかの古代遺跡で特殊な脳に作用する魔術を見つけてきたのだ。最近帰りが遅いのはそれに違いない。
「そもそも脳に作用する魔術ってのは、直接相手の魔導耐性を破らなきゃいけないでしょ?そんなもの使ったらすぐに勘付かれちゃうじゃない」
「お姉様が時々本当に恐ろしく感じられます」
「だったら素直に白状なさいな」
もう、この姉はどうしても納得の行く答えが聞けないと諦めないだろう。
「求められて一歩手前までは行きました。お兄様にはそう答えました」
はあ、どうしてこんな事に。
「一歩手前……ってどこまで?先っちょだけとか?」
「いや、もういいじゃないですか。なんでそこに拘るんですか。変態ですか」
頭が痛い。もう勘弁して欲しい。
「ねぇねぇトリシアぁ~、お願い、何があったのか詳しく教えてよぉ~」
「知りません。もうお風呂に入って寝ます」
「あっ、じゃあ久し振りに一緒に入ろう?ね?」
「好きにして下さい……」
どこまでも付き纏う姉に黙秘を貫き、只管に辟易した夜だった。
昼間の座り続けの執務が終わり、国王であるアルベールは一息ついたところだった。
玉座の間の隣りにある執務室には、未だ処理するべき書類が山のように積み重なっている。
今日はもうこのぐらいにしておこう、と思って席を立った。と、同時に扉がノックされた。
「入れ」
入ってきたのは政務官の一人、コーンウェイだった。
「時間ギリギリに申し訳ありません、陛下。クリストフ殿下による此度の視察報告書が上がりましたので、お渡しに参りました」
例のサンコスタへの視察だ。優先度は低い。
「そうか。受け取っておく。お前も同行ご苦労だった」
コーンウェイは一礼してすぐに下がった。この報告書は、寝る前に軽く読む程度で良いだろう。
そもそも息子を視察にやったのは、どうしてもあのアンドアインの妹に会いたいというから許可したのだ。視察の内容にはそれほど期待していない。
確かにあの子はとんでもない美少女だ。それに加えて聡明であり、如才もない。
あのアンドアインが手放しで褒めているのだから、政治的手腕も相当なものなのだろう。
仮にあの子が王都の有力貴族の娘であったのなら、最優先で息子に充てがっただろう。
だが、悲しい事に彼女は地方貴族の末娘だ。
どう足掻いても息子の相手としては身分的に難しい。
能力は申し分ない。見た目も完璧。なのに運命とは残酷なものだ。
渡された書類を持ったまま自室へと戻る。
もう今日は風呂に入る気力も無い。明朝に汗を流せば問題はなかろう。
枕元の魔力光に照らして、息子の報告書に目をやる。
「ん?これは」
元々息子のクリストフには文才がある。
親馬鹿というわけではなく、幼い頃から詩や物語に親しんだせいか、こうした文書を書かせると、要点を纏めてきっちりと仕上げてくるのだ。
王として必要な能力は、前線で戦う勇敢な戦士としてではなく、治世を滞り無く行える文官気質なのである。
だが、それにしても。
「随分と詳細だな。産業に対する私見まで。しかも、的を射ている」
挙句の果てに地域の環境や起こり得る変化の可能性にまで言及して、更には新たな未開発資源の活用にまで触れている。
「何か、あったな。やはりあの子か」
息子は帰ってきた後、どこか大人びた雰囲気を醸し出すようになった。
男になったのか、それとも彼女から何か薫陶を受けたのかは分からない。
だが、少なくともこの視察というイベントはクリストフに大変な進化を齎したことに違いは無い。
「思わぬ儲けものだ。継続してみるか」
王として一段成長して帰ってきたのだ。他の地域を見させても問題はあるまい。
地方貴族のやり方をつぶさに見てくるのも勉強になるだろう。かかる費用など、この国の将来の事を考えれば安いものだ。
ついにこの日がやってきた。
忌まわしき雷光剣カサンドラを、表立って身につける時が。
ある夕食の席、食事が始まる前にヴィエリオが演説を打った。
「先日の王太子殿下による地方視察、皆のお陰で無事、何事も無く終わらせる事ができた。関わってくれた皆には既に心ばかりの礼をしたが、最大の功労者であるトリシアンナには、特別な報酬を与えようと思う。ナズナ、これへ」
「はっ」
ナズナが恭しく掲げているのは、一着の衣服と豪奢な鞘に収まった一振りの剣。
衣服は複数あるうちの一着だが、剣の鞘と柄の拵えは、トリシアンナの自室にしまってあるカサンドラと瓜二つだ。
「トリシア、ありがとう。お前の功に報いてこれを授ける。大事にしなさい」
「ありがとうございます、お父様」
茶番ではあるが、大切な事だ。
これで、自分の手には動きやすい服とカサンドラ。
入れ替えたレプリカにはそのまま扉の奥で眠ってもらう事にする。
「そして、マルコ。長い間仕えてくれてありがとう。我らの食を支えてくれたお前には感謝の念が絶えない。どうか、隠居後も健やかに過ごして欲しい。暇があれば、ぜひこちらに遊びに来てくれ」
「ありがとうございます、大旦那様」
マルコはもう泣いている。それもそうだろう。50年近くこの邸にいたのだ。
「ヨアヒム、君の実力は十分だ。彼の後を継いで立派に仕事をして欲しい」
「勿体ないお言葉です。精一杯、努めさせて頂きます」
いつものように自信なさげにヨアヒムが受ける。
「さあ、では歓送別を合わせた宴だ。無礼講といこうではないか」
以前も行われた立食形式だ。
侍従も料理長も、最低限の給仕はするが、あとは食べて飲むだけ。
ここに、新たなるメディソン家の歴史が刻まれた。
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