第13話 情欲に塗れた視察

 王族の移動は大掛かりになりがちだ。

 お付きの者は勿論の事、護衛警備の人員、先触れ、そしてそれらの人員に必要となる大量の荷物。

 さらに言えばその同行者達の宿泊場所も探さねばならないし、王族に相応しい宿など非常に限られる。

 やむなく野営が必要となれば、篝火を焚いて天幕で陣を張るという、戦もかくやという仰々しさとなる。

 費用も凄まじくかかる。

 人数分の糧食に水、燃料。宿の手配に馬匹の管理。

 大勢で移動するが故にそれはもう物凄い額が必要になる。

 逆に、その大名行列が通る街は潤う。

 大人数が宿を利用し、食事をするわけだから、その分物も売れる。

 道中で食糧や燃料を買い足す事もあるし、馬を預かるのにも金を払う。

 閑散期に訪れるのであれば、割と歓迎されるのである。王族様々だ。

 そんな大所帯をぞろぞろと引き連れて、クリストフ王太子殿下は行列の中程、外見は他と変わらないが内装がやたらと立派な馬車の中にいる。

「仰々しすぎる。まさかこんなに大人数で行くなどとは、余は予想していなかったぞ」

 クリストフは不満げに零す。

 視察というからには、供のものを少数連れてお忍びで、というのを想像していたのだ。

「御身に万が一があっては困ります。ご理解下さい」

 向かいに座っている騎士が言葉少なに応じる。

「護衛などシャーリーン、お前一人でも十分であろう。あとは御者と、侍従でも一人いれば十分だ」

「それでは万が一の対応が出来ません。私の腕を認めて頂けるのは身に余る光栄ですが、ロックエイプやダイアーウルフなどの群れが出た場合、私一人ではどうにもなりません」

 白銀の甲冑に身を包んだ女騎士は、極めて現実的な意見を述べた。

「エストラルゴ辺りで冒険者の護衛でも雇えば良かろう。何も最初から最後まで、騎士を5人も引き連れて来る必要など無いのではないか?」

 一人一人が一騎当千とされる騎士団である。

 危険度の少ない地域で、そんな猛者をずっと引き連れて移動するのは効率が悪すぎる。

「身元の不確かな冒険者を殿下の護衛にするなど、出来るとお思いですか?冒険者など、半分ならず者のようなものです」

「それは偏見ではないか。かの大侵攻での英雄、ベルトロメイ殿も元は冒険者だぞ」

 トリシアンナ達のご先祖でもある。

「極端な例です。全ての冒険者があのように気高きお方とは限りません」

「半分ならず者というのも間違いであろう」

 どちらも同じことなのだろう。人は様々だ。

 賢い王もいれば愚かな王もいる。自分たちの歴代の系譜を見れば明らかではないか。

「兎も角殿下。この人数での移動は既に動き出しております。途中で放り出す事など出来ませんのでご了承頂きたい」

 騎士というのはどいつもこいつも四角四面だ。取り付く島もない。

 このシャーリーンという騎士は、騎士団の中でも五本の指に入る程の強者だ。

 風圧系の魔術を使った高速移動に騎士特有の剛剣を乗せ、速度と重さで叩き切るという力技を得意としている。

 というよりも、騎士はみんな力技ばかりを好む。

 重量のある甲冑を身にまとっているので、ちょこまか避けるなどという事はしないのだ。

 受けて、叩き潰す。そればっかりで美しくもなんともないとクリストフは思っている。

 クリストフも一応騎士団から剣を学んではいるが、自身の素質は剣士より魔術師に近いものだと認識していた。

 僅か7歳にして発現した処女魔術は地変系第三階位『クラック』であり、一般的な人々よりも魔術の適正が圧倒的に高いのは間違いがないのだ。

 反面、どうにも剣を振る事は身体に馴染まない。

 身体を動かすのはあまり得意な方ではないし、剣術の鍛錬をするぐらいなら、魔術書や論文を読んだり、詩歌や物語を楽しむ方が好きなのである。

 詩と言えば、と、クリストフはトリシアンナの事を思い出していた。

 言葉が紡ぎ出す表現の美しさを、同じぐらいの歳で理解している者は、彼女を除いて誰もいなかった。

 時折挨拶にやってくる上級貴族の子弟の者達にも聞いてみたが、その感想はどこかの評論文で見たようなものばかりだった。

 心から楽しい、美しいと思えるものが芸術なのに、上っ面で誰かが書いた評論をそのまま述べるなど、勘違いも甚だしい。

 その点彼女は、6歳という若さで既にその芸術を心から楽しんでいるように見えた。

 輝くような笑顔で流麗な詩歌の良さを語る彼女の姿は、常にクリストフの瞼の裏に焼き付いている。

 冬に言葉を交わしたばかりだというのに、もう会いたくて仕方がない。

 会って彼女と思う存分語らいたい。

 そう思って視察に出てみれば、この大行幸である。

 はぁ、と小さくため息をついて窓の外を見る。

 代わり映えのしない街道沿いの景色は既に見飽きた。いっその事魔物でも出てくれば、騎士の戦う様を見物できるのに、とすら思ってしまうほどに退屈だった。



 今日が王太子殿下ご到着の予定日だというのに、姉はまたぞろ何処かへと雲隠れしてしまった。

 姉が自由人なのは今に始まった事ではないが、それにしても家族が王族を迎えるのに、そんな事は知ったことじゃないとばかりにふらりと出かけていくのはどうなのだろうか。

 正直な所、心細いのである。

 大抵の事を力技で解決してしまうという大雑把さはあるにせよ、ディアンナはアンドアインを除けばこの邸で最も頼りになるきょうだいなのである。

 知らない人が沢山来るというのに、それらにほぼ自分と両親だけで対応しないといけないというのは、少しばかり心労が大きいのだ。

 父も母も熟練の貴族――なんだか変な表現ではあるが――なので、まず大きな問題は起こらないとは思うが、イレギュラーというのはいつ何時起こるか分からない。

 そんな時に一人でも頼れる存在がいるかどうかというのは、安心感という点で大きな差があるのだ。

 無論、ラディアスの事もそれなりに頼りにはしているが、彼はあまりに貴族らしくない。

 騎士団で剣を振るっているだけならば良かろうが、夜会で恭しくおもてなしをするのは苦手なタイプなのだ。

 そのラディアスは今日は非番だ。

 相変わらず朝から元気よく走りまわり、鍛錬をして汗をかいていた。

 トリシアンナはとてもではないがそんな気分になれない。というより、運動用の装いで走っている最中に、早めに到着しましたとやってこられたら困る。

 ラディアスは元騎士団なので、その姿を見られても「精が出ますな」で終わりだろうが、令嬢がそんな事をしていたら驚かれてしまうだろう。殿下と一緒に政務官だってついてくるのである。

 そんなわけで朝食の後は失礼のない服装に着替え、気もそぞろに部屋で本の字を目で追いかけている。全然頭に入ってこない。

 視察団の先触れは街には知らせるだろうが、そこから離れたこの邸にまではわざわざやってこない。

 先触れの仕事は、街の人を混乱させないための通達なのだ。個人邸にまではやってこない。

 窓の外を眺めた。

 トリシアンナの部屋は二階の西側だ。南からやってくる馬車は見えない。

 見えるのは下にある厩の様子と、裏山の鬱蒼とした森の木々だけである。

 手持ち無沙汰になって、ドレッサーを開けて隠し戸からカサンドラを取り出した。

 柄を握って鞘から引き抜く。金色に輝いて視える、鈍色の剣身が顕わになった。

 ここ数年で随分背が伸びたので、少し前から問題なく抜けるようになった。

 勿論外へは持ち出していないが、時折こうやって抜いては眺めている。

 両刃のシンプルな形状、あまり美しいとは言えないその刃の色を見ていると、妙に心が落ち着いてくる。

 ある程度鍛錬も積んできたので、魔素を吸い取られて倒れる、などという事も無い。

 まだこの剣を振るったことは無いが、羽のように軽いこれを主な得物として使うようになれば、普通の剣が重くて振れなくなるかもしれない。

 普段は鞘に収めておき、必要な時だけ抜くのが主な使い方になりそうだ。

 トリシアンナは剣を再び鞘に収めて隠し戸に仕舞った。

 王族が来るというのに、忌まわしい二つ名のついた剣をいつまでも見ていてはまずいだろう。

 剣はただの剣だ。しかし、村正のように伝説がついて回れば妖剣として扱われるようにもなってしまう。

 良くも悪くも、人とは自分に理解できない事を、何かにこじつけて理由をつけなければ安心できないものなのだろう。

 準備は万端だが、もう一度使用人達と話をしておこう。漏れがあってはいけない。

 そう思ってトリシアンナは部屋の扉へと足を向けた。


 昼食が終わってもクリストフ達は邸にやってくる様子が無かった。

 通常、サドカンナ村を早朝に出発すれば到着は夕刻前になる。

 視察団は大所帯なので準備に時間がかかることも考えると、場合によっては到着が夜になるかもしれない。

 ただ、王太子殿下が泊まれるような宿があそこにあったかと言われると微妙な所だ。

 同行者達は宿に泊まりたいだろうが、無理して野営しながら押し通した場合、昼ぐらいに到着する可能性もあった。

 兄などは待ちくたびれて、外に鍛錬しに行ってしまった。裏で剣を振ってくるのだという。

 通信士の連絡はサンコスタにしか届かないため、こちらはどうにも情報が足りない。

 これはあまり良い事ではない。

 もし万が一この邸で大きな問題が発生した場合、街がそれを知る手段が殆ど無いのである。

 出入りの商人による納品や使用人たちの送り迎えの時間が唯一、街と情報が行き交うタイミングなのだ。

 もっとも、その陸の孤島のような閉鎖性のおかげで、ここであった不都合な事件は割と簡単に隠せてしまう。

 姉が大魔術の実験を行ってもあまり問題にならないのはそのお陰だ。

 問題が発生しても外には分からない……そこに王太子殿下がやってくる。

 色々な想像が頭を過るが、そんな事はあり得ないと振り払った。

 王族も貴族も腹黒い部分や後ろめたい部分は多々あるが、少なくとも領主邸は公的な場だ。

 そこで大々的にわざわざ問題を起こすようなことはしないだろう。理性というのは思いの外強いものなのである。杞憂に過ぎる。

「お見えになりましたよ」

 西側の勝手口からフランコが声をあげた。食堂で待機していたヴィエリオとマリアンヌは、トリシアンナとナズナ、ハンネを連れて玄関から出迎えに上がる。


「トリシア!」

 クリストフ王太子殿下は馬車を降りるなり、一目散にトリシアンナの所に駆けてきた。

「王太子殿下、ご機嫌麗しゅう。ふふ、少し前に会ったばかりでしょう?」

「王城は退屈なんだ。やっとの事で抜け出してきたよ」

 あまりにも気安い会話に、両親はハラハラとしている。それもそうだろう。二人の会話を知っているのはアンドアインとナズナだけなのである。

「ヴィエリオ様、お久しぶりです」

 次に騎士の女性に連れられて馬車から降りてきた政務官と思しき人は、父に向かって手をあげた。

「コーンウェイ殿!殿下に同行しておられたのは、貴方でしたか」

 父の知り合いのようだ。

 母がそっとトリシアンナに耳打ちする。

「コーンウェイ殿はモリス殿の前任です。お歳が近いので、お父様と随分と仲がよろしかったのよ」

「そうだったのですか。国王陛下の采配ですね。有り難いことです」

 滞在中、少しでもこちらが気を抜けるようにとわざわざ手配して下さったのだろう。

 続いて若い侍従が一人降りてくる。彼女がクリストフの世話係といった所だろう。

「クリストフ王太子殿下、皆様方も。長旅お疲れ様でした。お部屋を用意してありますが、まずは食堂でご休憩なされては如何でしょうか」

 ハンネが恭しく礼をしながら言った。客を招いた場合、侍従長が旅館の女将のような立場になる。

「ありがとう。そうさせて貰おう。コーンウェイ、シャーリーン」

「「はっ」」

 政務官と女騎士の二人はクリストフについて、両親の案内を受けながら邸の中へと入る。

「侍従の方はこちらに。ご案内致します」

 こちらはナズナが二階の南側にある客間へと案内する。

 事前に聞いていた通り、王太子殿下の部屋、政務官の部屋、そして騎士と侍従の部屋の3つの部屋が準備されている。

 メディソン邸には多くの来賓がある為、客間は比較的余裕をもって空けてある。

 しかし、流石に視察についてきた全てを泊める事は出来ないので、最低限の護衛と政務官、そのお供だけがこちらへとやってくる。

 残りの者達はサンコスタの宿だ。あちらは道中の宿場町と違って、それなりに質の良い宿も沢山あるので、彼らも南国でゆっくりと羽を伸ばせるだろう。

 視察というのは建前で、彼らにとってはある意味仕事をしながらの休暇のようなものでもあるのだ。

「コーンウェイ殿、明日のご予定は如何に?」

 ジョヴァンナとジュリアがお茶を給仕している間に、父が政務官殿に伺いを立てる。

「朝食を頂いた後、サンコスタの街の視察です。港と市場を周り、スパダ商会に挨拶をして、その後、都市警備隊の詰所を見学して戻ってこようかと」

 鉄板だろう。サンコスタで主に見る所といえばそれぐらいだ。

 父はその答えに頷いて言った。

「では、明日は末娘のトリシアンナと、専属侍従のナズナにご案内させましょう。娘はまだ10歳ですが、貴族として十分に躾けてあります。侍従のナズナは護衛も兼ねておりますので、ご安心下さい」

 その言葉に、シャーリーンと言ったか、女騎士が手を挙げた。

「失礼、ヴィエリオ様。護衛であれば騎士である私めがおります。その点のご心配は無用かと。それに、護衛というのであれば、貴殿には相応の実力を持ったご子息がおられるのでは?」

 あぁ、そうか。この人は騎士なのだ。ならば兄の事も知っているだろう。

「ラディアスですか。いえ、あれを出すには少し……王太子殿下にご無礼があってはと思いまして」

 割とストレートにうちの息子は躾けがなっていなくて済みませんと言った。

 正しい評価ではあるが脳筋の兄が少しかわいそうだ。

「騎士団では私も何度かご一緒しました。礼儀という点では問題ないかと」

 いやにこの騎士は食いついてくる。一応騎士も貴族扱いとはいえ、上級貴族である元領主に対して少し無礼かもしれない。

「シャーリーン様、兄のご同行が望みとあらば、私から兄に言っておきましょう。お父様、護衛が多い分には問題ないでしょう?」

 一人増えるぐらいはなんてことはない。決まったルートを回るだけの社会見学会なのだ。

「トリシアンナ殿、意見を聞き入れてくださり感謝致します」

 律儀に深々と頭を下げた。杓子定規ではあるが、悪い人ではないようだ。

「お父様、ラディお兄様には私からよく言っておきますので大丈夫です。ご安心下さい」

「そうか、すまないなトリシア」

 父の負担はできるだけ減らすに限る。

 この人が心労で倒れてしまえば、領主であるアンドアインの居ない今、執務を執り行える人がいないのだ。

 配膳されたカップをゆっくりと傾ける。

 国王陛下は随分と気を配って人員を配置されたようだ。

 コーンウェイ政務官は父の旧い知り合いで、シャーリーン騎士は兄と少なからず面識がある。

 これならば、彼らの滞在中にいらぬ気を揉む心配も少ないだろう。

 流石は若干20にして王となっただけの事はある。

 紅茶がカップの底に揺蕩う程になった頃、食堂に二人の侍従が戻ってきた。

「お部屋の準備は整っておりますので、いつでもお戻りになられて結構です」

 ナズナと王都から来た侍従が腰を折る。

「そうか、余も少し疲れた。夕刻までまだ間があるので、暫く部屋で休ませてもらおう。トリシア、案内してもらえるか」

「かしこまりました、殿下」

 部屋で少し話をしたいという事だろう。ナズナと一緒に先導する形で食堂を出ようとする。

「トリシアンナ殿」

 シャーリーンが近寄ってきた。

「ラディ……アス殿は、本日はお仕事で?」

「いいえ、邸にいますよ。今は少し、鍛錬をしてくるといって出ていきましたが」

 ナズナがこちらを見ている。無表情に見えるが若干不穏な空気を漂わせている。

 少し怖くなったので慌ててエントランスロビーへと出る。階段へ案内しようとしたところ、裏口からその兄が戻ってくるのが見えた。

「あれ?シャーリーンじゃねえか。なんだ、殿下についてきた騎士ってのはお前か」

 あっ、なんか面倒くさくなりそうな雰囲気が。

 兄は王太子殿下が近くにいるというのに、汗を拭きながら近寄ってきた。

「ラディ!お前、さっさと逃げやがって!約束を果たしてもらっていないぞ!」

 急に騎士の口調が変わる。おいおい、王太子殿下の御前だぞ。

「約束?なんだそりゃ?お前と何か約束したっけ?」

 これは、大切な約束を忘れている男の台詞だ。

「ふざけるな!私がお前に勝ったら結婚してくれると言っただろう!勝ち逃げして許されると思っているのか!」

 まずい、非常にまずい。先程からナズナの気配が段々と赤黒く変化していっている。

「あぁ?そんな約束したっけ?まぁどっちにしてもお前じゃ俺に勝てねえだろ。御前競技会でボッコボコにされたの忘れたのか?」

「あぁ、あの試合か。ラディアス殿、余も見ていたぞ!素晴らしい強さだった、騎士とはかくも強いものなのかと、幼心に震えたものだ」

「あぁ、殿下も見ておられましたね。ありがとうございます」

 あっ、クリスまで絡んできた。ここでその台詞はまずいですよ。

 当のシャーリーンは顔を真っ赤にしてぶるぶると震えている。仕えるべき王……の予定の王太子に、敗けた試合を見られていたのだ。かけられる称賛の言葉は勝者である目の前の男。

「納得できん!ラディ!もう一度勝負しろ!今すぐにだ!」

 腰の剣に手をかけるシャーリーン。そこに、侍従がすっと間に挟まった。

「ここで剣を抜かれるという事は、我が主の家族に害意有りとみなします。そのお手をお離し下さい」

 怒気を漲らせてナズナが無表情で立ちふさがる。恐い。物凄く恐い。

「どけ!侍従如きが騎士の戦いに口を挟むな!」

「ラディアス様はもう騎士ではございません、貴女こそ、騎士としてあるべき行為ではないのではないでしょうか」

 これには流石にシャーリーンも返す言葉がない。貴族の邸で剣を抜くなど、とんでもない話だ。

「預けておく。逃げるなよ、ラディ」

「あー、まぁやりたいってんなら別にいいけどよ」

 全くこの場を理解していないこの兄。

「ラディアス様、後で少々お話が」

 こちらはこちらで物凄く怒っている。それはそうだろう。これは兄が悪い。

「……ご案内しますね」

 仕方なくトリシアンナは階段へと案内する。本来これはナズナの仕事なのだが。


「全く、お兄様ときたら」

 客間でクリストフと二人になり、漸く息を吐いた。

「あはは、面白い兄上だね。でもあの強さは凄かったよ。僕も見ていたけど、他の騎士達とは別格だった。トリシアのお兄さんだったんだね」

「あの兄は剣と力の強さだけは飛び抜けているんです。私も魔術無しでは一本しか取れたことがありません」

 その一本も割と姑息な手段である。まぁ魔術さえあればどうにかなるのだが。

「トリシアはあの人と鍛錬しているのかい?あの人から一本?すごいな、騎士団でもやっていけるんじゃないか」

「まぐれですよ。普通にやったんじゃ絶対に勝てません」

 部屋がノックされた。失礼しますと言ってナズナが入ってくる。

「夕食まで間がありますので、軽い菓子などお持ちしました。紅茶と緑茶、珈琲がございますが如何なさいますか?」

 お目付け役だろう。まぁ、ナズナなら何も問題はない。

「私は珈琲を頂きます。クリスはどうしますか?」

「トリシアと同じでいいよ」

 ナズナはかしこまりましたと言って用意してあった紙の濾し器に、瓶から粉を盛った。

 前日に挽いて密封してあったものだ。香ばしい香りが広がる。

「良い香りだ。王都でも珈琲は出されるが、こんなに強い香りのものではなかったな」

「珈琲は放っておくと香りが逃げていきますからね。ここは南方から輸入した豆を直前に挽いて使っているので、香りがちゃんと残るのです」

「流石は交易が盛んな港街だな。これを知っただけでもここに来た甲斐があったよ」

 熱操作で沸かされた湯を粉の上からゆっくりと回しかける。ふわりと漂う珈琲の香りが部屋に充満した。

「どうぞ。熱いのでお気をつけて。お好みでミルクと砂糖をどうぞ」

 皿に並んでいるのは新しい料理人であるヨアヒムが焼いたマフィンだ。

 こんもりと盛り上がった茶色い山が食欲をそそる。

 トリシアンナはミルクを少し入れて珈琲に口をつけた。相変わらず素晴らしい香りだ。

 クリストフは何も入れずに口をつけ、少し眉をしかめている。

「ふふ、クリス。無理をせずにミルクと砂糖を入れて下さい。ここには格好を気にする人なんていませんから」

「参ったな。トリシアにはお見通しか」

 笑ってクリストフは素直にミルクと砂糖を入れてかき混ぜた。

「お菓子も美味しいですよ。最近うちに来た、凄腕の料理人が作ったのです」

 マフィンを齧ると軽い口当たりにほんのりとした優しい甘さが広がる。

 王都の店で出したとしてもまるで違和感のない一品だ。

「本当だ。王都で食べるのと殆ど変わらない、いや、それより美味しいかもしれないな」

「料理人に伝えておきますね、きっと喜ぶと思います」

 穏やかな時間が過ぎていく。

 二人はとめどない会話をしている。

 詩人アリエステスの最新作、王都で今上演されている演劇、王女アレクサンドリナの話。

 二人に共通の話題には事欠く事が無い。身分も大きく違い、住んでいる場所も遠く離れているというのに、ずっと近くで生きているかのように。


 傍でずっと見ているナズナは思った。

 身分とは一体何なのかと。

 産まれたその時から、ナズナは忍びだった。

 厳しい鍛錬に耐え、自らを鍛え上げ、主に尽くすことが至上と教えられた。

 今の主に尽くすことは確かに至上の喜びである。しかし、それ以外にも執着するものは沢山増えた。

 忍びとして見ればそれは間違っていると言われるだろう。

 しかし、それは間違いではないと主自身が明確に主張している。

 この邸に来てからナズナの価値観は大きく変わった。

 その原因は、この目の前で、この国の王位継承者である王太子殿下と楽しそうに笑っている、地方領主の末娘であるトリシアンナ様その人なのだ。


「失礼します。ご夕食の準備が整いましたので、食堂へお越しください」

 扉の外からハンネの声が聞こえた。もうそんな時間か。

「もうそんな時間か。トリシアと話していると時間を忘れてしまうな」

「そうですね、私も少し驚きました」

 クリストフとの会話は楽しい。娯楽を娯楽としてきちんと昇華している人間というのは、この世界には中々いない。

 身近な家族はそれぞれに執着するものはあるのだが、娯楽として昇華しているかというと疑問に感じるのだ。楽しんでいると言うより、生活の一環になっているという感じか。

 トリシアンナは風呂が好きだ。食事も好きだ。

 それに拘りはあるけれど、気持ちが良いし美味しいから好きなのだ。

 そこに作法がこうでなくてはいけないだとか、原材料がこうだからこれは邪道だとか、そういった評価は邪魔なものでしかない。

 あぁいや、風呂場を汚すのはマナー違反なのでそこは気をつけないといけないが。

 ともあれ、気持ちよくて美味しくて楽しいものが娯楽である。そこにあまりにもルールを持ち込みすぎると、それは娯楽として楽しめなくなってしまう。

 クリストフは、演劇は演劇として、詩歌は詩歌として、物語は物語として純粋に楽しんでいる。

 本来、それらはそういうものなのだ。そこにあれこれと御託を述べるのは無粋というものだろう。

 楽しいものは楽しい。面白いものは面白い。それでいいではないかというのを、彼は本質的に理解しているのだ。

 食堂へと歩く間にも絶え間なく楽しい会話は続くし、それは楽しいから娯楽でもある。

 貴族の会話で裏を読んで慇懃に返すような、そんなやり取りは楽しくない。出来れば御免蒙りたい。

 彼との会話は、純粋に楽しい。


「突撃魚のカルパッチョでございます」

 ヨアヒムが並べられた前菜の説明をする。

「生の魚は、初めて食べるな」

「だ、大丈夫なのでしょうか」

 出された料理にやや尻込みしているコーンウェイ政務官。

「こちらの魚は今朝獲れた新鮮なものを即座に冷凍してあったものです。お腹を壊す心配はございませんのでご安心下さい」

 何故か申し訳無さそうな感情を抱えたままヨアヒムは説明する。そんなに卑屈にならなくても、ヨアヒムの料理はいつも美味しいのだが。

「うむ、美味い。突撃魚は油漬けも良いが、やはり生が一番美味いな」

 父が大喜びで食べている。お造りを食べさせてからというもの、この父は生魚を妙に気に入ってしまった、余程舌に合ったのだろう。

 トリシアンナもフォークでソースの掛かった赤身を持ち上げて口へと運ぶ。

 少し酸味のあるソースに、濃い味の赤身の突撃魚の味わいが実にマッチして美味しい。

 赤身は古くなると鉄っぽい味がしてくるものだが、この突撃魚にはそのような臭いは一切しない。処理も適切だったのだろう。

「おぉ……これは、初めて食べる味だな」

 クリストフも頬を綻ばせている。

 席には上座にクリストフ、左右にならんで序列順に座っている。トリシアンナは末席だ。

 少し斜めの目の前に座っているのは騎士のシャーリーン。

 彼女は恐る恐る生の魚を口にしては、目を白黒させている。

 感情を見る限り不味いとは思っていないようだ。生という理性と美味いという感情に振り回されている。面白い。

 隣の兄を見ると、相変わらず生の魚には手をつけていない。王太子殿下でも食べているというのに、食わず嫌いにも程があるだろう。

「お兄様、食べないなら下さい」

 そっと囁くと、兄は黙って皿を交換してくれた。

 折角料理人が丹精込めて作ってくれた料理に手を付けないなんて、無粋どころか失礼にあたるだろう。私はその処理をしているだけだ。

 新鮮な赤身の魚肉が舌の上で蕩ける。これを食べずに捨てるだなんて、ああ、勿体ない。

 ふと見ると、向かいに座っているシャーリーンがこちらを見ていた。

(何か御用でしょうか?)

 にっこりと笑って首を傾げると、ふいと視線を逸らされた。

 感情は敵意も害意もないが、なんとも複雑な感情だ。懐疑に近いだろうか?

 兄から食事を奪った不埒な妹に見えているのかもしれない。それならそれで問題はないのだが。

 その後もマルコ監修のヨアヒムの料理は続き、どれもが皆、王族でも満足のいくものだったようだ。

 食後のお茶が終わって部屋を出る時に、クリストフがヨアヒムを捕まえて感謝の言葉を伝えていた。

 彼は相変わらず恐縮していた。もう少し自信を持ったほうが良い。こんなに美味しい料理を作れるのだから。


「トリシア、君の部屋にお邪魔してもいいかな」

 食堂を出るとクリストフに声をかけられた。

「ええ、勿論良いですよ。こちらです」

 ナズナが黙ってついてくる。まぁ、それはそうだろう。

 階段を登り、西側の北から二番目の部屋へと入る。長女であるユニティアが使っていたそのまんまの部屋だ。

「思っていたよりも凄く大人っぽい部屋だね。あと、本が多い」

「元々ここは上の姉の部屋だったんです。今はスパダ商会に嫁いでいますが」

 自分はベッドに腰掛け、クリストフは興味深そうに部屋を見回している。

「まだ一日目だけど、今日は楽しかったよ。トリシアと会話していると、時間を忘れてしまう」

「私もそうですよ。明日は街に行くのですよね?王都に比べるとそんなに広いわけではないですが」

 サンコスタの街の規模は、王都から見れば十分の一程度でしかないだろう。

 その気になれば一日でぐるりと回ってしまえる。

「街は広さが全てではないよ。住民がどれぐらい幸福に暮らしているかが見られればいいんだ」

 言ってクリストフはトリシアンナの隣に腰掛けた。

「僕は、近況報告でのサンコスタしか知らない。それだけを見れば十分に活気に溢れた良い街なんだなと想像は出来るよ。だから、それを明日は僕の目で確かめてみたい」

 肩を寄せて膝に手を置いてくる。

「そうですね、是非、見て行って下さい。きっと気に入ると思いますよ」

 横を向いて微笑んだ瞬間、唇に柔らかいものを感じた。

「それじゃ、おやすみトリシア。また明日」

 クリストフは笑顔で部屋を出ていった。

「ナズナ」

 不穏な気配を感じて止めた。

「お嬢様、」

「ナズナ、見なかった事にしなさい」

「……」

「王太子殿下です。無礼な真似はしないように」

「御意に」

 はぁ、と息を吐く。

 たかが口付け一つでここまで感情を昂らせるというのも困りものだ。

 そっと自分の唇に手を当てる。

「お風呂に入ります」

 逃げるように部屋を出た。

 感情を昂らせる?たかが口付け一つで?

 ならば、この心拍数の上昇は一体どう説明すれば良いのだ。


 一体どうなっているのだ、この王都からの視察の連中というものは。

 特にあのシャーリーンとかいう騎士の女。

 勝ったら結婚だと約束した?何を巫山戯た事を。

 まぁ、あの人に勝てるわけもないだろうから空手形そのものなのだろうが、それに気付いておらず、浅はかにも再戦を申し込もうなどとは。

 ラディアス様もラディアス様だ。その様に将来を決めかねないような約束を軽薄に承諾してしまうとは、余りにも浅薄に過ぎるではないか。

 明日の街の視察では、不埒な事をしないかどうかしっかりと見張っている必要があるだろう。忍びである自分にとってはわけもないことだ。

 しかし、それに加えて王太子殿下である。

 王都での会話から親密さは重々承知していたつもりだったが、まさか今日、目の前で、つい先程……お、お嬢様に口付けを……ッ!

 思い出すだけで頭の中が真っ赤になる。私の大切なお嬢様に。

 お嬢様はああ仰られたが、何故か満更でもない、どころではなく、顔を赤く染めて逃げるように風呂場へと走って行かれたのだ。

 どういう事だ。友人ではなかったのか?御本人がそう仰られたというのに。

 あぁ、やはり男女の関係というのは簡単なものではないのだ。

 簡単に友人と割り切れるのであれば、世の中に不貞などはここまで蔓延らないであろう。

 護らなければならない。あの、無垢で純粋なお嬢様を。例えこの命が尽きようとも。


「ええと、シャーリーンさん、ナズナ?もう少しお兄様から離れないと、歩きにくいですよ?」

 馬車から降りるなり、二人は両側から兄の両腕をひったくるようにして抱え込んだのだ。

「あはは、ラディアス殿、両手に花ですね」

「若いというのは良いものですな」

 クリストフとコーンウェイは、こちらはこちらで楽しんでいるようだが、当人の妹としては出来れば勘弁してほしい。

「騎士というのは敗けた後もしつこく付き纏うのですね。程度が知れようというものです」

「黙れ、侍従の分際で。騎士同士、貴族同士の会話に口を挟むな」

 嗚呼素晴らしき嫉妬空間。もう逃げ出したい。

 というかなんでこの兄はこんなにモテるのだろうか。

 どう考えてもこんな脳筋馬鹿にそのような魅力は無いように思うのだが。

「シャーリーンさんは、兄のどこがお好きなのですか?」

 もういっそぶちまけちまえ。

「強さです」

 身も蓋も無い。

「ふん、男を強さだけでしか見られないとは。隠れた優しさと包容力も知らないくせに」

 人格が変わったかのようなナズナ。本人を目の前にして、それを言って良いのだろうか。

 まぁ、鈍感な兄の事なので大丈夫ではあろうが。

「お、お前がラディの何を知っていると言うんだ!」

「フッ、何を、だと?一夜を共にし、既に指輪も贈られた者にそれを聞くのか?」

 あっ、言っちゃった。しかも重要な部分を大分端折って誤解を招く言い方で。

「な、な、な、何だと!おい!ラディ!今のは本当か!」

 ぎりぎりと関節を極めて腕を締め上げるシャーリーン。

「いででで!いやいや!まぁ嘘じゃないけど!ナズナ、もう少し言い方をな?」

「ふん、ラディアス様。このようなゴリラ女に優しくしてやる必要はありませんよ」

 いや、ナズナがそれを言うのか。あなたも十分にその。

「あの言葉は嘘だったのか!ラディ!御前競技会の前夜、熱く固く抱き合って誓ったじゃないか!」

 おいおい、兄は一体何をしたというのだ。

「あ?ああ、そういやそんな事もあったっけか」

 多分これは二人で力比べをしていたとかそういう事なのだろう。

「ラディアス様?詳しくお聞かせ願えますか?」

 鬼神の握力で腕を握りつぶそうとするナズナ。やめてください、そんなんでも私の兄なんです。

「いでででで!やめろナズナ!お前の握力は知ってるから!痛い!痛いって!」

「もう嫌です。普通にクリスを案内するだけのはずだったのに、何故このような事に……」

 兄さえしゃしゃり出て来なければ全てつつがなく終わっていたはずなのだ。

 どうしてこのような事に。

「ラディアス殿はモテるなぁ。まぁ、あれだけ強ければそうなるだろうけど。僕ももう少し鍛えたほうがいいのかな」

「クリスはそのままで良いと思いますよ……ああなりたいですか?」

「あはは、いや、確かにあれは勘弁願いたいな」

 二人の鬼に両側から挟まれている兄の目は死んでいる。自業自得だろう。

「もうあれは放っておきましょう。クリス、コーンウェイ殿、イレーヌさん。行きましょう。港はこちらです」

 目抜き通りを足早に進む。もう兄とあの二人は置いていこう。その方がきっと楽しい時間が過ごせるはずだ。


 階段を降りて港通りに出た後は、ゆっくりと東に向かって歩く。

「今歩いているのが交易船が主に着くところです。あそこに泊まっているのが東方諸島の船、その向こうにあるのが南方諸島からのですね」

 船のデザインだけで一目瞭然に違う。

 東方の船は艦橋や船室といった場所に独特の屋根が設置されているし、南方の船には船首に巨大な女神像が据えられている。

 既に昼前ではあるが、交易船は時間を問わず出入りする為、港で働く者達は忙しなく働いている。

「へぇ、大きいな。王都の舟と言えばレーヌ川に浮かべる運搬用のものしかないので、ここまで大きなものは初めて見た」

「皆さん元気に働いておられますな。疲れた様子の方は一人も見られません」

 それぞれが三人ともに、興味深そうに海側を眺めている。

 クリスについてきた侍従のイレーヌは控えめで大人しい人で、あまり喋らない。

 邸の侍従には居ないタイプだが、普通侍従というのはこういう人が標準だろう。

 暫く歩くと、次は漁船の着く場所になる。

 時間的にもう出ている船は無いので、ここは閑散としていた。

「ここは漁に出る漁船の場所です。漁は朝の日の明けないぐらいの時間から出て昼前にはもう戻ってくるので、今は船のメンテナンスや漁具の手入れをしている人しかいませんね」

「すごい数だな、これが一度に出ていくのかい?」

「きちんと決まりを守って漁業を運営されているのですな」

「ええ、船ごとに獲って良い魚の重量が決まっていて、魚種によっても細かく別けられています。なので、高く売れる大きい魚しか獲ってこないのが通例になっていますね。そうしないと、海洋資源は海の魔物との取り合いですので、すぐに枯渇してしまうんです」

「漁獲高が安定しているのはそういった理由からですか」

「どうやって獲ってきた量を計るんだい?隠して降ろされたらわからないのでは」

「出ていく時と帰ってくる時の船の重量を、水撃系の魔術を使って喫水線で記録しています。ちなみに、不定期に立ち入り検査があるので、船の重さを誤魔化していた場合は即、漁業免許の取り消しです」

「随分と厳しいんだな。でも、それぐらいしないと産業が守れないという事か」

 元々サンコスタは漁港だった為、特に漁獲量の変化には極めて敏感だ。

 いくら交易や農業、畜産業が発達してきていても、この街の根幹を成しているのは漁業である事に間違いはない。

 その日その日の天候の機嫌はあれども、特別何か植えたり食べさせたりしなくても一定量の食糧が得られるのである。

 仮に気候の変化で農業が立ち行かなくなったとしても、最低限、この街を食べさせていくためのセーフティネットでもあるのだ。

「漁業はこの街の地盤となっている産業ですからね。なので、今から向かう魚市場も、他の農産品などの市場と比べてかなり大きなものとなっています」

 港通りの東側、トリシアンナ達も良く訪れる市場が目の前に広がっている。

「広いな。これ、全部露店かい?」

 クリストフが感心して周囲を見渡している。

 後ろを振り返ったが、ラディアス達はついてきていない。全く仕方のない人達だ。

「魚の数だけ店があると言われる程です。何か夕食に食べたい魚や貝があれば買って帰りましょうか?」

 とはいえ、荷物持ちがはるか後方だ。追いつくまでは運べないし、見学している間に鮮度が落ちても良くないか。

「今、荷物が増えるのは良くないかもしれませんな。シャーリーンもおりませんし」

 コーンウェイも後ろを振り返った。彼女も騎士というからにはかなりの力持ちなのだろう。

「では、帰りに寄れたらという事にしましょうか。一通り、見て回りますか?」

「そうだね、そうしよう」

 4人で連れ立って歩く。

「おっ、お嬢様じゃありませんか。今日はいつもと違った方を連れてんですね。あの力持ちの侍従さんは?」

「こんにちは。今日はこちらの方々の案内ですので……すみません、お買い物は帰りに寄れたらという事で」

 いつもの禿頭の店主に挨拶する。

 コーンウェイは帽子を少し持ち上げ、イレーヌは丁寧にお辞儀をした。

「ありゃ、そうかい。いつものアレ、あるけど、どうする?取っとくかい?」

「そうですね、少し後から兄といつもの侍従が来ますので持たせて下さい」

 彼らはもう案内の役に立たない。精々荷物でも持って来てもらえばいいだろう。

 店主に手を振って再び市場を進む。クリストフが隣に並んで、不思議そうに聞いてきた。

「トリシア、アレってなんだい?ここで良く買うもの?」

 言って良いものかどうか。

「そうですね、魚ではないのですが、食材です。あまり見た目が良くないのでいつも売れ残るのですが、私は好きなので良く買って帰ります」

 あまりストレートに言うのは刺激が強すぎるだろうと判断した。

「そうなのか。確かに海には色んな生き物がいるものなぁ」

 一応は納得してくれたようでほっとした。

 市場を抜けて、あまり綺麗ではないが栄えている地域を歩く。

 この間寄ったフランコの家の前を通り過ぎると、相変わらずふわふわの犬は眠っていた。

「スパダ商会に行きましょうか。この先が大通りになりますので――」

 悲鳴が聞こえた。

 大通りの一つ手前から男が飛び出してきた。そのまま目の前を横切って反対側の路地へと飛び込んでいく。

 咄嗟に神経強化をかけて目を凝らす。男が抱えているのは身なりに似合わない女物の鞄。

「クリス、少し待っていて下さい」

 強化状態のまま路地へ向かって駆け出す。

 路地に入ると同時に風圧系魔術を連続発動。推進力を産む足場にして、建物と建物の間を跳ねる。

 すぐに逃げる男を補足。頭上を追い越した上で、男の前に立ち塞がった。

「盗ったものを置いていきなさい」

 鞘のまま剣帯から外した得物を相手に向ける。

 痩せぎすの男は一瞬怯んだが、目の間にいるのが年端も行かぬ少女だとわかると、すぐに突進してきた。

「どけ!」

「どくわけがないでしょう」

 脇を走り抜けようとした男が通り過ぎる瞬間、思い切り背後から男の背中に剣を打ち付ける。

 男の走る速度によって威力が減衰しているにも関わらず、鈍い音がして男は顔面から地面に突っ伏した。

 伊達に毎日素振りや打ち込みをしているわけでは無いのである。

 丸腰の男など剣の一本もあれば一人や二人は簡単に無力化できる。

 トリシアンナは呼吸困難で呻いている男から、奪われたと思しき女性用の鞄を取り返した。

「大人しく渡せばそのまま行かせようと思いましたが、気が変わりました。警備隊に突き出します」

 動けない男から上着を剥ぎ取ると、捕縛縄代わりにして後ろ手に縛る。

 足も同様にして、余り触りたくは無かったのだが、脱がした臭う靴下で縛った。後で手を洗わなければ。

 歩いて戻ってくると、鞄の持ち主らしき女性がクリストフ達の前で蹲っていた。

 靴が脱げて足を捻ったのか、侍従のイレーヌが治療の魔術を使っているところだった。

「これは貴女の鞄ですよね、どうぞ。取り返してきました」

 こちらを見上げて驚く20代前後と見られる女性に、そのまま続ける。

「盗人はそこの路地の中で動けないようにしてあるので、もうじきお兄……ラディアス都市警備隊第一隊隊長が来ますから、申し訳ないのですけれど、一緒に行って説明して下さい。多分、すぐに帰れます」

 そう言っているうちに、背後からうるさい三人が漸く追いついてきた。

「離れろ、侍従の分際で」

「騎士が護衛を放り出して良いのですか」

 まだやっていたのか。

「おい、トリシア。助けてくれ……何があった?」

 流石に街の治安維持を行う者だけあって察しが良い。

「多分ひったくりですね。犯人はそっちの路地に転がしてあります」

「あー、しょうがねえな。非番だけど放っておくわけにもいかねえし。お嬢さん、立てますか?」

 ラディアスは両腕を掴んでいる二人を振り外し、足の治療を受けていた女性に手を差し伸べた。

「はい、あの、警備隊の方、ですか?」

「そうですよ。ちょっと犯人を連れて行きますんで、詰所まで一緒に来てもらっても良いですか?」

 ラディアスはこちらをちらりと見たが、今は王太子殿下の案内中だ。身内ならばいつでも話は聞けるだろう。どうせ後で詰所にも寄るのだ。

「ではお兄様、後はお願いします。我々は案内を続けますので。ナズナ、いい加減にして下さい。殿下の御前ですよ」

「シャーリーン、君がラディアス殿にご執心なのはわかったが、まさか騎士の職務を放棄するわけではあるまいな」

「は……失礼致しましたお嬢様」

「申し訳ございません、殿下」

 どうにも兄はこういったタイプに好かれるらしい。

 どうにか歩けるようになった女性を連れて、ラディアスは路地へと入っていった。

「ちょっとした邪魔が入りましたが行きましょうか。スパダ商会本店はこちらです」

 大通りに出れば商会はすぐそこだ。流石にもう面倒事は起こらないだろう。

「トリシア、さっき跳ねていったのは風圧系の魔術かい?」

 クリストフが横に並んで聞いてきた。

「ええ。風圧系第二階位『サス』ですね。移動に便利なので良く使います」

「そうなのか。随分と連発していたようだけど、疲れないのかい?」

「あの程度でしたら大丈夫ですね、所詮は第二階位ですから。あぁ……でも、あまりあの移動をしている時はまじまじと見ないで貰えると」

「あぁ、うん、ごめん」

 足元に超高圧を作り出す関係上、どうしても着ているものが舞い上がってしまうのだ。

 ナズナから最初にそれを指摘されるまでは全く気にしていなかったのだが、流石に彼女や姉以外に見られると恥ずかしい。

「もう少しスマートな移動用魔術があればいいんですけどね」

 直進ならばあるにはあるが、移動距離の割に消耗は大きいし、細かい方向転換が難しい。

 それに、磁力系は存在自体が殆ど知られていないので、人前で使うには抵抗がある。

「移動用かぁ。地変系でも多分出来るといえば出来るだろうけど、消耗が激しそうだな」

「あぁ、姉はそれで移動していますね。効率化すればそんなに消耗しないのだとかで」

 普通、第四階位を長距離の移動用にしようなどとは誰も思わないだろう。

「そうなのか、凄いな……僕も考えた事はあったけど、流石に無理だろうと諦めていたよ」

「普通は無理ですよ。姉がおかしいんです」

 それに侍従服のまま走ってついてくるナズナもよくよく考えたらおかしいと言えるか。

 そもそも街中ではそんな高速移動はまず必要とならない。先程のは例外だが、犯罪者を追いかけるのは警備隊や司法官の仕事だろう。

 普段から自分やクリストフが走り回る必要など無いのだ。

 全て歩いて行ける距離にある。目の前にある巨大な建物にも。

「ほう、ここがスパダ商会の本店ですな。王都の支店も大きいですが、ここはそれ以上ありますな」

 政務官といえどもあまり地方に出てくる事は無い。

 彼らの仕事は主に王都の貴族との折衝なのである。

 中に入ると、待ち受けていた当主とその息子、そしてその夫人が出迎えた。

 建物の中、中庭、そして裏の帳場までも、淀みなく説明して回る。

 商会としても健全な運営をアピールする絶好のチャンスと見たのだろう。普段はトリシアンナ達も入る事の出来ない所まで見ることが出来た。

「いやはや、流石は大陸一の大商会ですな。ここまで管理を徹底しているとは」

「王城でも見習うべき所が多いですね。騎士団も経費の扱いは実にぞんざいですので」

 政務官だけでなく騎士も感心している。騎士団といえど、全く書類仕事をしないわけでもないのだろう。

 兄ですら警備隊での仕事では普通に書類の作成を行っている。

「先ほどの中庭の扱いは王城と似ているな。もう少し芝を植えるなど、整備してみようか」

 王太子殿下は通り道の中庭に興味を惹かれたようだった。

 確かに王城には日当たりの良い広い中庭がある。だが、競技会場や馬の通り道になっているためか、下は殆どがむき出しの地面だった。

 そのまま一行は昼食を摂るべく、ユニティア一人に案内されて、大通りにある近くのレストランへと移動した。

「トリシア、調子はどう?」

 隣に座った姉が小声で話しかけてきた。

 体調は別に悪くない。赤い月も今月はまだだ。

「悪くないですが、どうしました?お姉様」

「そういう事じゃないのよ。ほら、王太子殿下の事」

 王太子殿下も本日のご機嫌は大変麗しい。

「ええ、王太子殿下も楽しんでおられますよ」

「もう、トリシアったら。冬にお会いしてまたすぐに訪ねて来られたでしょう?」

「あぁ……」

 姉はこう言いたいのだ。その後、王太子殿下との仲は如何ですか、進展しましたか、と。

「お姉様、いくら外に嫁いだからといって貴族間抗争を煽るような事は」

 メディソン家が没落すればこの街にも多大な影響があるのだ。まさかこの聡明な姉が理解していないとも思えないのだが。

「大丈夫よ。例えそんな事になったとしても、私が他を黙らせるから。ねえ、王太子殿下、可愛らしいお方じゃない」

 恐ろしい事をさらりと言ってのける。本当にそんな事が可能なのか。

 確かに財界に広く伸ばした手をもつスパダ商会であれば、王の権威と組んで様々な事ができそうだが……。

「私と殿下は友人です。お姉様の期待するような事は何もありませんよ」

「そうなの?私にはそうは見えないけど」

 どう見えるのだろうか。

 当のクリストフは料理の内容を政務官と一緒に給仕に質問しているところだ。

 見つめているトリシアンナに気がつくと、彼はこちらに優しく微笑みかけた。

「気付いていないわけではないでしょう?」

「だとしても、建前はあります」

 何も無駄に波風を立てる必要は無い。今まで通りで問題ないはずだ。

「まぁいいわ。でもね、安心してトリシア。仮に殿下と貴女が関係になったとしても、私がどうにかしてあげるから。貴女は自分の気持ちに素直に生きていいのよ」

 自分の気持ちは変わらない、と言おうとしたが、信じて貰えそうにないので止めておいた。

「ありがとうございます、お姉様」

 この姉は頼りになるのだ。恐ろしい事ではあるが、貴族を黙らせると言ったのであれば、それは実際に出来るのだろう。

 あまりそれが必要になる状況というのは想像したくはないが、万が一の時に保険があるというのは非常に有り難い事だ。

 軽くはあったが相応に豪勢な昼食を終えて外に出る。

 次の目的地は詰所になるので、姉の案内はここまでだ。

「頑張ってね、応援してるから」

 姉はそうトリシアンナに囁くと、一行に丁寧に挨拶をしてその場で見送った。

「お嬢様、ユニティア様は全てお見通しの様ですね」

 地獄耳だ。少し離れた場所に立っていたのに聞こえていたのか。

 ナズナのその言葉には答えず、少し肩を竦めて見せる。

「それでは、都市警備隊の詰所にご案内します。お二人とも、今度は兄を巡って悶着を起こさないでくださいね」

 騎士と侍従に予め釘を刺しておくのを忘れない。血の気の多いこの二人であれば、詰所の中庭で決闘するとでも言いだしかねないのだ。

 大通りを西に向かってぞろぞろと歩く。

 公的な訪問とはいえ、移動自体はお忍びだ。

 貴族のような二人の男女の子供に、侍従が二人、役人のような男が一人。更には後ろから白銀に輝く甲冑を身に纏った女騎士がついてきている。

 はっきり言って異様に映るだろうが、街行く通行人はまるで気にも止めない。

 前方から大きめの馬車が道を通ってくる。

 道の中央ではなくややこちらに寄っているのは、一行の後ろからも馬車が来ているからだろう。

 振り向くと案の定、こちらもそこそこに大きな馬車がやってきていた。

 仕方なく、道の端に避ける。既視感を覚えた。

 路地裏が見えている。ここは。

 咄嗟に気配を探る。見る間に周辺に様々な色が満ちる。

 自分たちを害しよう、という気配は見当たらない。ほっとして身体の力を抜いた。

 そこで、肩を掴まれた。

「どうしたんだい、トリシア。顔色が悪いよ」

 思わず飲んだ息を吐き出した。

「……クリス。いえ、少しここで昔、嫌なことがあったものですから」

 彼にも原因の一端があるとは言えない。そもそも、彼はその事自体を知らない。

「嫌なこと?……そうか、さっさと離れよう。ほら、馬車は行ってしまったよ」

「ええ、ごめんなさい」

 ずっと忘れていたが、平気だと思っていても意外と心の傷として残り続けているものだ。

 頭を振って嫌な感覚を振り払うと再び歩き出す。


 詰所ではカネサダとラディアスが揃って待っていた。

 カネサダは制服姿だが、ラディアスは元々非番であるため、先程と同じ格好のままだ。

「クリストフ王太子殿下、ようこそいらっしゃいました。警備隊総隊長のカネサダ・ソウマと申します。本日はわたくしがここのご案内を仰せつかります」

 カネサダが慇懃に礼をする。横のラディアスは軽く礼をしたものの、その態度は先程とあまり変わらない。

「カネサダ……おお、あの剣豪カネサダ殿ですか。まさかサンコスタにいらっしゃったとは」

 コーンウェイが驚いて握手を求める。

「何?カネサダ殿だと?本物か。まさかラディが彼の下についていたとは」

「シャーリーン、コーンウェイも。彼を知っているのか?」

 クリストフは彼の事を知らないようだ。

「知っているも何も。東方にその人ありとうたわれた大剣豪です。確か、かなり昔に仕えていらしたお家が取り潰しになったとかで、大陸に来られたとは聞いていましたが……」

「騎士団では知らぬ者はおりません。たった一人でスミロドスの大群から主君を守りきり、挙句の果てに全滅させたと……武家のみならず、騎士としても尊敬すべきお方です」

 そんなとんでもない経歴があったのか。知らなかった。

「何、昔の話でございます。今はこれこの通り、南国で悠々自適の生活をしておりますので」

 そんな事はない。この間だって、40人からの盗賊集団をたった三人で全て捕縛したのだ。

 隣に立っている兄も相当だが、この壮年の男もそれ以上の使い手なのである。

「お、お会いできて光栄です。その、後でサインなど頂いても?」

 署名なんてもらってどうするつもりなのだろうか。騎士の思考は良く分からない。

「ははは、サインなら毎日報告書にしたためておりますな。結構ですよ、帰りにお渡ししましょう」

 シャーリーンはしきりにありがとうございますと繰り返している。

 まぁ、良い土産が出来たのならここに寄った甲斐もあったというものだろう。

 彼の案内で詰所の中をぐるりと一周する。

 入り口の脇に応接室とその向かいに待機所。

 正面から入って左右に伸びる廊下に、各部隊の部屋が並んでいる。

 目の前には広々とした中庭。中庭に入ってすぐ脇には噴水のように水の出ている場所がある。

 中庭の隅では、待機中の兵が4人程、剣の鍛錬を行っている。

「騎士団ほどではありませんが、中々の練度です」

 シャーリーンが頷いている。流石に王国最強の集団と比べるのは酷だろう。

 中庭をぐるりと囲む廊下は正方形を描いており、正面の突き当りに総隊長室、右手の大きな部屋は会議室で、左にはいくつか仮眠室があった。

 総隊長室の両脇には各隊長の部屋があり、ラディアスの部屋は総隊長室に向かって右隣にあった。

 シャーリーンとナズナが見たがったので、渋々ラディアスはその部屋へと一行を招き入れた。

 殆ど何もない。

 デスクが一台、椅子が一つ。

 脇に大きなソファが一つあるものの、壁の書類棚を除けば本当に何もない。

「なんというか、殺風景な部屋ですね、お兄様」

「仕事をする部屋だぞ。殺風景なのは当然だ」

 そういえば王城で通された部屋も、こういった感じだった気がする。

「普通ですね」

 シャーリーンが言う。騎士の部屋というのはみんなこうなのか。

「もう少し彩りがあっても良いかとは思いますが」

 ナズナはこちらと似たような感想だ。いや、これが普通だろう。

 邸のラディアスの部屋には何度か入った事があるが、そちらは別に変わった事はない。

 強いて言えば鍛錬用の道具が多いなとは思ったが、貴族の部屋らしく調度品もきちんと整っているのだが。

 書類棚をなんとなく眺めていると、一つだけ色の違う背表紙があるのを見つけた。

 不思議に思って引っ張り出して開いてみる。

「これ……」

 女性の裸体が描かれた書籍。男性向けの、巷で俗にエロ本と呼ばれているものだ。

「仕事中にこんなものを……」

「どうかなさいましたか?お嬢様。うん?これは……」

 ナズナがやってきてトリシアンナの手元に目を落とす。

「ふむ、ラディアス様はこういった体位がお好みなのですか。しかし皆胸が……」

「どうしたのだ、トリシアンナ殿。……あぁ、これは。騎士団の休憩所にも置いてあったな、基本は男所帯なものだから誰かが持ち込んだのだろうが」

 シャーリーンもやってきてなんでもないという風に言った。

 三人で呆れながらページをめくる。

「おい、トリシア。勝手に書類棚を漁るな……って、おい!何見てんだ!」

 不審に思って近寄ってきたラディアスが大声をあげる。

「何をというのはこちらの台詞ですよ、お兄様。仕事中にこのようなものを」

 別に見るなとは言わないが、職場に置いてあって良いものではないだろう。

「違う!それは、休憩室に持ち込んだ奴が居たから一時的に押収しているだけだ!」

 兄は慌てて引ったくって書類棚に戻した。

「別に隠す必要もないだろう、ラディ。騎士団では堂々と休憩室に置いてあったぞ」

「隠してるわけじゃねえ!保管してるだけだ!」

「こんなものに頼らなくとも、お望みとあらばこのわたくしが」

「俺のじゃねえって言ってんだろうが!」

 あぁ、また滅茶苦茶に。

「あぁ?なんだ?おい、ラディ。またなんかやらかしたのか」

 いつもの口調に戻ってカネサダが近寄ってきた。

「おやっさん、聞いてくれ。休憩室にあった本の持ち主をしらねえか?」

「あぁ?そんなもん、誰でも自由に持ち込んでるんだしわかんねえよ」

 騎士団と同じくここも男所帯なのだ。確かにそれがあっても不思議ではない。不思議ではないが。

「どうしてわざわざ回収してきたのですか?お兄様。そのまま置いておいて、問題があるのなら朝礼なりなんなりで問いただせば良いではないですか」

 問題があるのならばそうするのが道理だろう。何も回収して仕舞っておく必要は無い。

「問題のある本をそのままにしておけねえだろ!一旦保管しておいただけだ!」

 しかし、と、トリシアンナは疑問に思った。

「お兄様、昨日も今日も非番ですよね。という事は、その本は2日前には既にここにあったという事になります」

「だ、だったらどうなんだ?」

「仮に一昨日見つけられたのだとすれば、カネサダ様や他の隊長に言付けるなどして引き継ぐものではないでしょうか。二日の休みの最中、問題のあるとするものを放置するわけにもいかないでしょう?」

「そ、それは……そこまで重要性の高い事では無かったからで」

 言い訳じみてきたラディアスの言葉に、一行は可哀想なものを見る目を注ぐ。

「ラディアス殿、良いではないですか。男たるもの、そういうものに興味があって当然です」

 王太子殿下に慰められている。

 そういえばこの王太子殿下も割とこういうのは好きそうだ。

「あのなぁ、ラディ……それ、寄越せ。休憩室に戻しておいてやるから。別に休憩中に何しようが自由だし、そういうのも禁止にゃしてねえしよ」

 カネサダが助け舟になっていないフォローを始めた。

「そうだぞ、ラディ。女もいる騎士団でも別に禁止はされていなかっただろう。ここは男所帯なのだろう?何の問題がある」

 男らしいフォローを入れるシャーリーン。それはそれで女性としてどうなのだろうか。

「カネサダ様、戻す前に一度それを拝見してよろしいでしょうか。ラディアス様の好みを把握しておくのも侍従の務めですので」

 侍従にそんな務めなど無い。

「やめてくださいナズナ。一応本人が自分のものではないと否定しているのですから」

 収拾がつかなくなってきた。変なものを見つけてしまった自分の責任とはいえ、流石に兄が哀れになってきた。

「いやはや、騎士団で古今無双と謳われたラディアス殿も、その辺りはやはり男ですなぁ」

 コーンウェイまでもが感想を漏らしている。

 ただ一人、クリストフの侍従であるイレーヌだけが顔を真っ赤にして下を向いて黙っている。いや、これが普通の女性の反応ではないだろうか?

 自分の事はとりあえず棚上げしておいて、トリシアンナは一番まともな人間を見て安心した。

「俺のじゃねえって言ってんだろうが!人の話を聞け!」

 詰所に響く兄の叫びは誰にも聞き入れられなかった。


「あはは、いや、面白かったよ。あんなに笑ったのは久しぶりだ」

 帰りの馬車に分乗して、二人きりとなった車内でクリストフはまだ少し笑っている。

 王族用の基本二人乗りのものなのだが、シャーリーンがラディアスと一緒の馬車に乗るというので、仕方なく交代したのである。

「王太子殿下のお役に立てて、きっと元騎士の兄も喜んでおりますわ」

 少し冗談めかして言う。

 クリストフが楽しめたのならまぁ、良かったのだろう。

 ついてきた騎士のシャーリーンも、カネサダに書いてもらった署名を家宝にすると言って喜んでいるし、今まで回った中で一番評判が良かった。

 見どころである他の施設よりも評判が良いのは少し情けない気もするが。

「そういえば、クリスもああいった本を見るのですか?」

 うっかりと聞いてしまった。

 芸術に興味を持っている彼であれば、所謂裸婦画というものも見慣れているだろうとそう思ったのだ。

「え?うーん、言い難い事を聞くなぁ」

「あ、いえ。昔、アリエステスの詩について話をしていたじゃないですか。あの頃からそういうのに興味があったのかなと」

 演劇についても描写こそ無いものの、不貞を描いた作品は沢山ある。

 芸術において人の赤裸々な性描写というのは、切っては切れない縁があるのだ。

「そういえばそうだね。まぁ、当時は完全に理解していたとは言い難いけど……興味は、まぁあったかな。その……ごめん」

「気にしないで下さい。そういう意味で言ったのではないので」

 クリストフのやらかした”あの事件”も、確かに性的興味から引き起こされたものだ。

 しかし、今更そんな事をトリシアンナも気にしてはいない。

「滞在は三日間の予定なのですよね?街の主要な施設は今日で見て回りましたし、明日からはどこを見て回る予定ですか?」

 着いてきた者達にとっても休暇のようなものなのだ。王太子も羽を伸ばしたって構わないだろう。

「そうだね、一応予定では農場と浜を見る事になっているよ」

「というと、西ですね。農場は広いので、移動は馬車になりそうです。浜はまだ泳ぐには早い季節なので、誰も居ないでしょうからゆっくりと見て回れますよ」

 とはいえ、この季節の浜辺に見るものは殆ど何もない。

 釣りでもするのなら別だが、まさか王太子殿下が釣り竿を持って虫を針につけるなどという事はしないだろう。

「海水浴か。夏に来ても良かったな」

「夏の浜は人が沢山いるので、護衛の方が大変になりそうです。生憎と貴族用の専用の浜辺というものは無いので……」

 南方諸島では無人島を王族が持っており、誰も近寄らせずに使用していると聞く。

 生憎ここは一繋ぎの浜なので区切る事が出来ず、どこにいっても海水浴客は犇めいているのだ。

「それも面白そうだ。トリシアは海で泳いだことがあるのかい?」

「ええ。そう言えば昨年、きょうだいと使用人達を引き連れて遊びに行きました。人は多かったですが、楽しかったですよ」

 おかしな問題が露呈はしたが、それでも使用人達のいつもとは違った一面が見られて楽しかった。一番衝撃的だったのはジュリアの事だが。

 視線を下に落とすと、まだまだ発展途上のそれがあった。

「そうか、いいなあ。僕は今日まで海を見たことがなかったんだ。今日初めて、港でまともに見た」

 王都に大河は流れていても、内陸の都市だ。外に視察に出なければ、話では聞いていて知っていたとしても、本当の海は知らないままだっただろう。

「それなら、来年は夏に来れば良いではないですか。勿論、他の方に怪しまれないように今年は沢山あちこちに視察をして」

 毎年のようにサンコスタばかりに足を伸ばしていれば、いくら休養地だとはいっても勘ぐるものは必ず出てくるだろう。

「そうだね、そうしよう。幸い、僕も14歳になったばかりだ。次期王位継承者として各地を視察する、という名目は十分に立つからね」

 クリストフは春の産まれだ。14歳という事は、一旦大人と認められる年齢ではある。

 そういえば、求婚の件は14歳まで待てと国王陛下が言っていた。あれはどうなったのだろうか。

 分別のつくようになったクリストフが、まさかそのまま自分の意見を押し通したという事は無いだろうが。

 聞いてみたくなったが、少し怖い。

 ここで気持ちは変わっていないと言われでもしたら、相当にややこしい事になる。

「しかしなぁ、今回みたいな大行列は出来れば遠慮したいんだが」

「王太子殿下ですからねぇ。どうしても人数は多くなってしまいますよ」

 仕方の無い事だろう。護衛も先触れもどうしても必要なのだ。

「多すぎるというのも金の無駄だろう。使われているのは税金で、滞在中は他の者は全くやることがないのだし」

「そうですね。それは少し勿体ない気がしますけれど。ただ、行く先々でお金を落とすのは悪い事ではないですよ。税金が地方に還ってくるわけですから」

「なるほどな、そういう考え方もあるのか」

 クリストフは少し罪悪感を薄れさせたようだった。

 無論、放漫財政は過ぎれば良いものではない。

 しかし、理由と意味のある政治的行為であれば、地方に税を還元するのに問題はないだろう。

 今回の視察にしたって、漁業がどのように管理されているかという事を知ったし、大商会の管理体制に学ぶところもあっただろう、街の生活や治安も確認する事が出来たはずだ。

 これは、将来多くの地方を纏める王にとって、必ずや必要な経験となるだろう。

 明日の農地や浜の視察にしても、作物や果樹がどのように栽培されているのか、浜とはどのようなものか等、学べる事も沢山あるはずだ。

「トリシアは色んなものの見方が出来るんだな。いっそ僕よりも王に向いていそうだ」

 そんな事は無い。芯のない人間が王になってしまえば、それは悲劇の始まりだ。

「私は父や兄に囲まれて育ったので、少しばかり制度に詳しいだけです。王だなんて畏れ多いですよ」

「そうかな。でも、君みたいな人が側に居てくれたら」

 そこでクリストフは言葉を切った。

 暫しの間沈黙が降りる。

「僕は14歳になったけど、君との事は父に言っていない」

「はい」

 恐らくはそうだろうと思っていた。彼は賢い。

 感情に任せて行動する時期は終わったのだ。

「だけど」

 顔を近づけてきた。トリシアンナは拒まない。

 王族の乗る馬車は振動が少ない。

 手を添えなくても、唇が離れる事が無い程に。

 御者台からは中を窺い知る事は出来ず、音も殆ど外に漏れない。

 一瞬とも、永遠とも思える時間が過ぎ、徐々に車の速度は落ちていく。

 クリストフは漸く顔を離して、そのまま目の前の少女を見つめた。

「ここに居るときだけは、許してくれないか」

「はい」

 嫌な気分にはならない。

 恐らくこうなるだろうとは思っていた。

 そしてお互いの立場を考えれば、これが限界だろうとも。


「騎士が自分の職務を放り出して良いのですか」

「侍従こそ、あの子の専属だろう。何故ここに残った」

「お嬢様が二人用だと仰られたので、仕方なく。これは職務放棄ではありません」

「減らず口を」

 サンコスタから邸に戻るフランコの馬車の中、再び戦争が勃発していた。

「いい加減にしとけ、お前ら。なんでそう顔合わすたびに喧嘩をおっぱじめるんだよ」

 その理由が自らにあるはずなのに、まるで理解していないラディアス。

「ラディアス殿は本当におモテになりますな。しかし、まだご結婚されていないとは思いませんでした」

 火に油を注ぐコーンウェイ。案の定、再び炎が燃え上がる。

「私との約束を覚えていたのだろう?ラディ。やっぱりお前は私との約束を守ろうとしてくれているのだな」

「いや、約束って。お前結局一度も俺に勝ってねえだろうが」

「だから!勝つ日が来るまで待っていてくれたのだろう!さあ、今すぐここで再戦といこうじゃないか!」

 騎士というのは大体において猪突猛進である。

 彼女もまた例外ではない。

「また巫山戯た事を。ラディアス様は既に私に指輪を下さいました。これはもう婚約したも同然という事です」

「いや、おい。あれはお前が買えと言ったから買ってやったんだろうが」

「勝負に勝ったのです。この点でもそこの騎士とは違います」

 勝ち誇るナズナ。いつもの無表情は引っ込めて、頬に冷笑を浮かべている。

「勝ったってお前ありゃあ……」

「なんだと!?ラディ、お前、こんな侍従如きに敗けたのか!貴様、騎士を辞めて弛んだな!?よし、私がもう一度鍛え直してやる!」

「ラディアス様は変わらず鍛錬を続けていらっしゃいます。わたくしが勝ったのは純粋に、力で上回ったからに他なりません」

 力といえば力だ。主にトリシアンナの知力と魔力でだが。

「そんなわけがあるか!ラディはな、騎士団で唯一騎士団長に膝をつかせたのだぞ!言わば、王国騎士団最強の騎士なのだ!そのような人間が、ただの侍従如きに敗けるはずがない!」

「侍従如き、侍従如きと、騎士殿は随分と見た目で判断なさるのですね。わたくしはただの侍従ではありません。誇り高き忍びの家系、コウヅキの者です」

「忍びだと!?あの暗殺や諜報を生業とする、あの汚い忍びだと?何故そのような者が高貴なる貴族の邸にいる!」

 あまり自身が公開したくない情報のはずであるのに、売り言葉に買い言葉でナズナは身の上を明かしてしまった。

「ほう、お嬢さんはコウヅキ家の方でしたか。道理で」

 コーンウェイもコウヅキの事を知っている。諜報活動には常に気を使う政務官故に、他国の情報にも敏いのである。

「わたくしはラディアス様に見初められてメディソン家で働いています。つまり、これはもう源氏の君の計画。間違いなくこの私こそがラディアス様に相応しいと言えるでしょう」

「いや、そりゃお前がみっこ……」

 言おうとしてナズナに笑顔で睨まれ、その先を言い淀むラディアス。

「あっ、源氏の君の物語ですか?私、あの物語大好きなんです。複雑な人間関係と爛れた世界、悩ましい恋の行方が素敵なんですよねぇ」

 ついにイレーヌまで参戦してしまった。最早手がつけられない。

「汚い忍びめ!汚いな、さすがきたない!この私と勝負しろ!お前がラディに勝ったというのなら、そのお前を私が倒せば私がラディに勝った事になる!」

「どういう理屈だよ……」

「ナズナさんが紫の姫ですか?確かに、黒髪で瞳もちょっと紫がかってて綺麗です!あぁ、素敵だわ」

「良いのですか?騎士が侍従に敗けたとあっては、その職を解かれるやもしれませんが」

「敗けるわけがない!貴様の喉首、今すぐここでたたっ斬ってやる!」

「あぁ、一人の殿方を巡って二人の姫が争う……なんて退廃的なんでしょう」

 この狂奏曲には誰もピリオドを打つ事が出来ない。

 渦中の源氏の君は絶望的な気分となって、馬車が早く邸に到着してくれとだけ祈るのであった。



「おい、休憩所においてあった俺の本しらねえか?」

 一人の警備兵が、休憩していたもう一人に話しかけた。

「あぁ、あれお前のだったのか。一昨日、ラディアス隊長が、没収する、持ってきたやつは俺のところに来いって言って持っていったぞ」

「マジかよ。あの人、軽薄そうに見えて妙に固いところあるんだよな。騎士団上がりのせいかな。でも、あの人今日は非番だろ?」

「総隊長に言えばいいんじゃねえか?多分引き継いでるだろ」

「げぇー、そっちもこええな。まぁ、でもダメとは言われてないしなぁ」

「大丈夫だろ、普通に返してくれるだろうし。っていうかお前、みんな居るのにそんなもん持ってくんなよな」

「いいじゃねえか別に。お前も好きだろ?」

「いや、嫌いじゃないけどよ、流石に詰所の休憩室では不味くねえ?」

「見るだけならいいだろ別に。はぁ、ちょっと総隊長室に行ってくるわ」

「気をつけてな、生きて帰ってこいよ」

「縁起でもない事言うなよ」

 彼は普通に本を返してもらい、以後、休憩室にはエロ本が置かれるようになった。


 夕食も朝と同じ様に食堂で振る舞われる。

 人数分の席が用意されていたが、ディアンナは帰って来ず、ラディアスも自室で食べると言って引きこもってしまった。

 歯噛みするシャーリーンに、ナズナは何故か勝ち誇ったような冷笑を浮かべている。

「あの、ナズナ。何かあったのですか?」

「いいえ、何も。思い上がった猪の鼻っ柱を叩き折っただけです」

「……程々にしてくださいね、一応、騎士も下級とはいえ貴族扱いですので」

「承知しております」

 本当に大丈夫だろうか。

 上座に目をやると、主賓であるクリストフがこちらを見ていた。

 先程までの事を思い出して、少し心拍数が上昇するのを感じた。

「王太子殿下、サンコスタの街はいかがでしたか」

 ヴィエリオが配膳を待つ間に話題を振る。

「良く統治されていた。産業にも統制が効いていて、街の様子も明るい。とても良い統治をしているようだな、ヴィエリオ殿」

「お褒め頂き光栄です。今後も息子と共に努めて参ります」

 手塩にかけて育てた街を褒められて悪い気がしようはずがない。父は上機嫌で言った。

「本日の料理もマルコ料理長とヨアヒム副料理長が腕によりをかけて作りました。ご堪能下さい」

 ハンネとパオラが料理を運んできた。王太子殿下から先に、順番に配膳を済ませる。

「それでは、順調な視察とメディソン家のより一層の繁栄を願って」

 クリストフが無難な口上を述べて、食事が始まった。


 休憩室で、ナズナとパオラは夕食を口にしていた。

「ナズナちゃん、視察、なんかあったの?」

「なんか、とは」

 抽象的に過ぎる問いに、答えかねてナズナは聞き直した。

 何かあったかと言われれば、色々あった。

「いや、あの騎士の人、ずっとナズナちゃんを睨んでたじゃん。王太子殿下ももう滅茶苦茶あっつい視線をトリシアンナお嬢様に向けてるしさ」

 どちらも答えることは出来るが、おしゃべりなパオラに言うと即日、使用人たちに情報が広まってしまう。

「あの騎士の方は、どうにも勘違いをしていらっしゃるようでしたので。少し指摘して差し上げたら、ああなりました」

 そう、間違いを正確に指摘しただけだ。自分の立場に少しだけ脚色を加えて。

「えぇー、なんかそんなレベルじゃなかったでしょ。まぁ、それはいいとして、王太子殿下の方は?もう、なんか完全にお嬢様に参ってる感じだったじゃん」

「それは」

 言って良いものだろうか。いや、ダメだろう。絶対にダメだ。

「私には判りかねますね。元々あの方はお嬢様にご好意を持っておられるようなので」

「えっ、マジで?次期国王陛下だよね?お嬢様がお妃様になるってこと?」

「いや、それは立場上無いかと……」

 いくら政治に疎いナズナとて、それぐらいは分かる。

 王国の国母たるものは、基本的に王都の有力貴族から出されるものだ。

 地方貴族がしゃしゃり出てしまっては混乱が生じるだろう。

「そっかぁ、無いかぁ。でも、そうなったらサンコスタも色々便宜図ってもらえそうじゃない?」

「それを恐れる人達に色々と嫌がらせはされるでしょうね」

「あぁー、わかるわ。既得権益ってやつでしょ」

「まあ、そんなものです」

 王都の貴族にとっての既得権益といえばその通りだ。だが、それより面倒くさいのは他の地方貴族の嫉妬だろうとナズナは思う。

「でもさ、殿下とお嬢様のお気持ちはどうなの?そこが一番大切なところじゃん」

「そうですね」

 今のところ、殿下はお嬢様にメロメロである。もう、ゾッコンである。

 お嬢様もそんな殿下を憎からず思っておられることは、先の口付けで分かった。

「ナズナちゃんはどう思う?脈アリとかナシとか」

 ストレートに聞いてくれる。答えられるわけがないのに。

 いや、でもこれは自分の感想なのだ。客観的意見ではない。

「私が見た限りでは、もう相思相愛かと。口惜しいですが仕方が有りません」

 どう見ても、どう考えてもその様にしか見えない。

 ああ、あの可愛らしいお嬢様が男を知ってしまうなんて。

「えっ、ナズナちゃんから見てもそうなの?あぁーこりゃあイケナイ香りがするわ。許されない恋、燃え上がる想い。その先に産まれる退廃的な関係……」

 そういえば先程もあちらの従者のイレーヌがそんな事を言っていたような気がする。

 ラディアス様との退廃的な関係か。

「思うのですが、こっそりとヤってしまえばばれないのでは?」

 部屋に忍び込んで、無理矢理襲ってしまえば既成事実は作れるだろう。

 如何に堅物の元騎士とは言え、置かれた据え膳を食わぬという事は……いや、あった。

「ナズナちゃん、意外と過激な事言うね。まぁ、そうねぇ。ここは陸の孤島みたいなもんだし、外に漏れなきゃバレはしないし」

「そうなると、どうやって忍び込むかですね」

 正面からは無理だろう。部屋には鍵もかかる。開いていたとしてもあの腕力で放り出されるのが落ちだ。

「そうねぇ……何かしら口実を付けて、合法的に二人きりになるのが順当な作戦かな」

 成る程、配膳や清掃、何かしら理由を付けて二人きりになれば良いと。

 流石はパオラ先輩である。

「となると……侍従も寝静まった誰も来ない時間帯に行うのが良いでしょうか」

「そりゃあそうでしょ。行為中に邪魔が入ったら台無しじゃない」

「そうですよね」

 先程から大変美味しい料理を口にしているというのにあまり味わっていない。

 考え事をしながらの食事というのはあまり身体に良くないのだが。

「ふー、ごちそうさま。今日は残業だったし、もう帰るね。ナズナちゃん、頑張ってね」

「ありがとうございます、パオラさん」

 応援と受け取ったナズナは、長期的で周到な策を巡らせるのだった。


 あてがわれた客間で、侍従のイレーヌと騎士のシャーリーンはあまり噛み合わない会話をしていた。

「おかしいだろう。先に出会ったのは私なのに」

「そうですねぇ、でも、殿方の想いというのは時に後から燃え上がるものなのですよ」

 二人共、全く違う話題を同じ話題のつもりで話しているのだ。

「大体、勝ったと。勝てるわけがないだろうが、あいつに」

「恋とは勝ち負けではないのですよ、シャーリーン様。より強い想いを射止めたほうが結ばれるのです」

「それは、結ばれた方が勝ちという事か?」

「いいえ、違います。例え表向きには結ばれずとも、身体でつなぎとめた想いは消えることが無いのです」

「身体で……そうか、確かに私とラディはお互いの肉体をぶつけ合った仲だ」

「例え許されぬ恋であったとしても……お互いに刻まれた身体の相性というものは忘れ難いものなのです」

「そうだな。ありがとう、イレーヌ。侍従のお前に言うのもなんだが、あの侍従よりは私のほうが身体で語り合った仲というのは間違いが無いのだからな」

「そうです、そして、許されぬお互いの恋情は燃え上がり……いつしか離れられなくなってしまうのです」

「そう……そうだ!そうに決まっている!」

「おわかりですか、シャーリーン様」

「ああ、完全に理解した、イレーヌ」

 脳筋と恋愛脳の噛み合わない会話は、何故か結論を出してしまうのであった。


 風呂から上がったトリシアンナは夜着に着替え、そろそろ寝ようかという所だった。

 今日は忙しくてあまり本を読めていなかったので、せめて一章だけでもと思って立ち上がり、机に積み上がっている魔術書を一冊、手に取った。

「トリシア、ちょっといいかな」

 心臓が跳ねる。

「ええ、どうぞ、クリス」

 こんな時間にやってくるということは、つまりそういう事だろう。

 動揺は表に出さず、手に持った本をそのままに王太子殿下を迎え入れる。

「どうしたのですか。本を少し読んでからもう寝ようと思っていたのですけれど」

 風呂に入ったばかりなので身体は綺麗にしてある。臭いは無いはずだ。

「済まない。非常識だとわかっていたのだが」

 後ろ手に扉を閉めた。

「明日の予定について、少し話がしたくて」

「明日ですか?農場と、浜という事でしたが」

 立ち話もおかしいだろうと、いつも姉妹でお茶会に使うテーブルと椅子へと誘う。

「そうなんだ。思ったのだけれど、浜というのは何か見る所があるのかな」

「そうですね……」

 確かに、この時期の浜というのは見た所で何もない。

 精々近くにある塩害防止の網を見る程度だろう。

「塩害防止の網ぐらいですね。あとは、釣りをされるのであれば、浜からであればキスという非常に美味しいお魚が……」

 キス。

「キス?初めて聞くな。その」

「さ、魚の名前です!砂地に生息している底生の魚で、見た目は少々不格好ですけれど、小麦粉を水で溶いた衣を付けて油で揚げると大変に美味しい魚で」

 思わず早口になってしまう。落ち着け。

「そ、そうなのか。僕はてっきり、いや、その、ごめん」

「い、いえ。お気になさらず」

 嫌な沈黙が場を支配する。

 間違いなくこの殿下は目的を持ってこの部屋にやってきた。

 そしてそれをこの自分も理解しているだろうとわかっている。

「トリシア、僕はもう、14歳だ」

「はい」

 答えようがない。いや、流石にまだ早いだろうと。

「君が処女魔術の発現を報告しに来た時、これは運命だと思ったんだ」

 話題の持ち出し方が芝居がかっている。流石に芸術を好まれるというだけはある。

 というか、処女、処女だ。処女魔術なのだ。

「殿下、私はまだ10歳です」

 年齢差としては3歳だが、秋の産まれと春の産まれでは、春の時点では一年の差がある。

「何歳ならば大丈夫なのだ?」

「そ、それは……」

 医学的には単純な年齢とは言えない。ただ、歴史を紐解く限り、早婚の時代であったとしても12歳では早すぎるという記録があった。

「私も、14歳になれば、でしょうか。最低限、そのぐらいにはならないと」

「そうか」

 諦めてくれただろうか。

「でも、実際にしなければ問題ないのだろう」

 いやいや、ちょっと待て。

「それは、その……入れなければという事でしょうか」

 そんな事、思春期の青少年が我慢出来る事なのか?絶対、成り行きで行くところまで行ってしまうだろうに。

「……あからさまに言えば、そうだ。僕はもう、この想いを我慢出来そうに無い」

 良いですよとは流石に言えるわけがない。どう考えても擦るだけ、先っちょだけ、外に出すから、ごめんなさい。となるのは明白だろう。いや、そもそも入るのかは分からないが。

「あまり、成り行きで致されるのは……その、私もクリスの事は嫌いではないですけれど」

「成り行きなものか!僕が一体どんな想いを抱えてここに来たと思うんだ」

 いや、それは重々理解しております。その上で申し上げているのですが。

「わかりました。でも、私は夜着を脱ぎません。それで宜しければ」

 あー、なんで言っちゃうんだ。そんなもの、すぐに反故にされるに決まっているだろうに。

「トリシア……」

 手を掴まれ、ベッドに連れて行かれる。姉譲りのこの巨大なベッドが今は少し憎らしい。

 縁に押し倒されて、そのまま唇を押し付けられる。

 あまりにも強引で荒々しい行為に、背筋がぞくりとする。

 クリストフの手が夜着をまさぐる。服越しに薄い胸と鍛錬で締まった尻を撫で回される。

「んぅ……クリス、もっと優しく……」

 一体何を言っているのだ自分は。ここはもうやめさせるべきだろう。

「ごめん、トリシア。君が欲しくて欲しくて、仕方がないんだ」

 背筋を走る電撃がより強くなる。これは、淫魔術などではない。現実なのだ。

 服越しにも彼の股間が屹立しているのを感じる。身体が密着しているのだ、当然のように分かる。

 未だ自分は己の秘部を弄ったことが無い。

 どうなっているか見てみた事はあるものの、全く発達していないそこは、とてもではないがこの彼のものを受け入れられるとは思えない。

 夜着が肩から外される。薄い生地のそれの奥、透けた下着の上から、荒々しく両手で揉みしだかれる。

「い、痛いです、クリス。そんなに強くしないで」

「ああ、トリシア。僕はずっとこうしたかったんだ。下着、はずすよ」

 良いとは言っていないが、抵抗しない時点で良いと言ったようなものだ。

 外し方が分からなかったのか、そのまま下にずり下ろされた。自分の薄い膨らみが顕わになる。

 感情の色で彼の興奮が高まるのが視えた。圧倒的な性欲。これは、止まらない。

「綺麗だ……まるで芸術作品のようだ」

 どんな芸術作品だというのか。

 されるがままに上半身を滅茶苦茶にされる。

 唇から首、鎖骨から乳房、そしてその先端へとクリストフの唇が嵐の様に移動する。

 あらゆる所に強く吸い付かれ、跡が残ってしまいそうだ。

「クリス……んっ」

 せめてこれ以上は、と思い、彼の頭を抱きかかえる。丁度突起を吸われたところだったので、そのまま押し付ける形になってしまった。

「あぁ、トリシア。もう、我慢できないよ」

 胸に吸い付きながら、ごそごそと下半身を動かしている。いや、ダメって言ったじゃん。

「ダメです、クリス。これ以上は」

 流石にまずい、どのような形であれ、その時点でもうアウトである。

 身を捩って逃げようとするものの、身体はあまり反応しない。

「失礼します、起きていらっしゃいますか、お嬢様?」

 扉がノックされた。

 慌ててクリストフが飛び離れる。

「え、ええ。何かしら、ナズナ」

 うっかりとどうぞと言ってしまわないよう、扉越しに会話する。

「おやすみかと思いますが、クリストフ王太子殿下はいらっしゃっていませんか?部屋におられないと、イレーヌ様が」

 助かった。

「ええ、いらっしゃいますよ。明日の予定の話をしていたのです。もう、お帰りになりますので」

「……そうですか。では、ここでお待ちしていますね」

 完全にバレてるだろうこれは。

 クリストフを見ると、流石に萎えてしまったのかズボンを引き上げている。いつの間に脱いだんだお前は。

 自分もずらされた下着を上げて、夜着を肩にかける。

「クリス、今日はこの辺りで」

「……ごめん、トリシア」

 謝るぐらいなら最初からするな。とはいえ、滾る青少年の性欲は抑えが利かないものだろう。

 ましてやすぐ近くに想い人がいれば。

「おやすみなさい、クリス。良い夢を」

「おやすみ、トリシア。……良い、夢を」

 彼は出ていった。入れ違いにナズナが入ってくる。

「お嬢様」

「なんですか、ナズナ」

 妙な間があった。

「あの、間が悪かったでしょうか」

「いいえ、そんな事はありませんよ」

 実際の所、助かった。あのままいけばなし崩しに許していた所だろう。

 流石に初体験が10歳というのは少々笑えない。

 立ち尽くす侍従に声をかける。

「あの、何か御用でしょうか?」

「あっ、いいえ。失礼しました。おやすみなさいませ」

「おやすみなさい、ナズナ」

 ありがとう。そしておやすみなさい。

 少し湿った下着が気持ち悪く感じたものの、面倒なのでそのまま寝ることにした。


 クリストフの寝起きは少し悪かった。

 あの後、悶々とした思いを抱えたままあまり眠れなかったのだ。

 白い身体を思い出して、結局自分でどうにか慰めたものの、あまりの情けなさに虚脱感が全身を覆っている。

 自制の利かなかった自分にもそうだが、あそこでおめおめと逃げ帰った自分にも腹立たしい。

 どっちに転んでも同じだったのだが、彼女に恥をかかせてしまった事により強い自己嫌悪を感じていた。

「殿下、そろそろ朝食のお時間です」

 イレーヌの声が聞こえる。もういっその事、彼女で済ませてしまってもいいかなどという不埒な考えを起こす脳を叩きつけて、飛び起きる。

「わかった、すぐに行く」

 行く前に便所にいって、昨夜のものを始末してからにしなければならない。

 他所の邸宅でそのような行為など、ばれた日には恥ずかしくて表を歩けないだろう。

 姿見の前で、着替えた自分の顔を見る。

 寝不足のせいか覇気がない。こんな顔では、益々彼女に嫌われてしまうだろう。

 扉をあけて一階に降り、便所へと入る。忌々しい朝の生理現象は、あんな事があったというのに今日も元気に屹立している。

 気をつけて用を足し、昨夜の残骸である紙も同時に捨てる。

 幸いにもここは山の中にも関わらず、水洗が機能している。流石は地方領主といったところだろう。

 昨夜の記憶を全て水に流し、ある程度すっきりしたところで、表を歩いていた侍従に顔を洗う場所を尋ねる。

 浴場の前にある脱衣場を使って欲しいということなので、案内されて中にあった陶器の前で顔を洗った。

 春の朝の冷たい水で顔を洗い流すと、少しはマシな顔になった。これなら問題は無いだろう。

 意気揚々と振り返った時、浴場の扉が空いて裸の彼女が姿を現した。

「えっ……く、クリス!?どうしてここに!?」

 全部台無しではないか。なんで朝風呂なんかに入っているのだ。

「あ、ご、ごめんトリシア!顔を洗いたいといったら、侍従の人がここでって」

 目を離そうとおもうのだが、吸い付いたように視線が外せない。

 局部と胸を両手で覆った彼女の姿から、目が離せない。

「あの、クリス。出て行ってくれませんか?着替えられません」

 はっと我に返って必死で謝った。

「ご、ごめん!わざとじゃないんだ!ごめん、本当にごめん!」

 逃げるようにして脱衣場を飛び出した。

 もう、顔を洗った後の清々しさなど全て飛んでいってしまった。

 どうして僕はこうなんだ。自己嫌悪が募る。死んでしまいたい。


 今日は朝食を終えた後、少し休憩してから今日の視察に同行する予定だ。

 昨夜の事を思い出す度に顔が火照るような気がするが、鍛え抜かれた貴族にとって、この程度表面を取り繕う障害にもならない。

 そう思っていたのだが。

 なんでよりにもよって気分転換に風呂に入った後に、目の前にいるのだ。

 どの侍従に聞いたのか知らないが、自分が入っている事を知らなかったのか。

 昨夜はなんとか死守したものの、今朝は下も見られてしまったかもしれない。

 思春期の青少年にはあまりにも刺激が強すぎるだろう。もう、今日の視察中は彼の脳には自分の裸体がずっと居残り続けるのではないか。

 一体どんな神の采配だ。許されざる淫靡な秘神の行いか。

 風呂に入ってさっぱりしたと思ったのに、全て台無しではないか。

 折角の美味しいはずの朝食も、彼の視線が気になって気になってロクに味もしなかった。おかわりはしたが。

 部屋でもう一度身だしなみを整えて、ナズナと共に外へ出る。

 政務官と騎士、侍従は既に外にいたが、肝心のクリストフはまだいなかった。逆にほっとした。

「お嬢様、どうかしましたか?朝食もあまり進まれなかったようですが」

「えっ?いや、おかわりはしましたけど」

 なんで分かるんだこの侍従。

「いえ、その。なんとなく」

 忍びの勘か女の勘か。どちらにせよ油断のできない侍従ではある。

 少しだけ遅れてクリストフが出てきた。なんだか疲れた顔をしている。

「では、参りましょうか。今日は西の農場と浜を見るので、フランコ、申し訳ないですけれど、送り迎えが終わったらまた街の門まで来て貰えますか」

「はい、かしこまりました」

 一往復分の時間は待たねばならないが、仕方がない。

 歩いて見て回れるほど農場は狭くないし、浜だってかなりの範囲にずっと続いているのだ。

 今日はラディアスが居ないためか、シャーリーンも我儘を言わずに王族の馬車へと乗り込んだ。

 女騎士は王太子と同じ場所で二人きりだ。あの狭い空間で。

 いちいち蘇ってくる記憶を脳内で振り払って、乗り慣れた馬車へと乗り込む。

 誰も特に何も言わない。動いた日、次の朝の調子というのはだいたいこんなものだ。

 街の北門、警備兵が二人立っている前で、フランコが戻ってくるのを待っている。

 暖かくなり始めた頃とはいえ、じっとしているとまだ少し肌寒さを感じる。

 かといって上に何か羽織るのはどこか負けた気がするので、『ウォーム』を発現して暖をとっている。

 案の定ナズナが自分でやると言ってきたのだが、そもそも彼女は今、第三階位の探査術を使っているのだ。ディアンナやトリシアンナならば兎も角、出来る訳がない。

「トリシアンナ殿は実に器用ですな」

 政務官のコーンウェイが顔を綻ばせた。

 彼もそこそこの歳なので、夏もまだ遠い春の寒さは堪えるのだろう。

「ホストとしてお客様をお持て成ししなければなりませんので、この程度は」

 恐らくコーンウェイもイレーヌも、このぐらいの熱操作程度なら使えるだろう。

 しかし今は彼らはサンコスタへとやってきた王都のお客様なのである。

 今日回る予定の農場について話をしていると、坂の上から待ち望んだ馬車がやってきた。

 暖房器具などは付いていないが、吹きっ晒しの外よりは幾分かマシだ。

 『ウォーム』で温めた空気は逃げにくいし、それなりに過ごしやすい。

「お嬢様、西よりのダニエル農場からで良いのですね?」

「ええ、お願いします」

 フランコが確認してきたダニエル農場は、農業地帯の西より、他よりも広い耕地を所持している場所で、かなり手広く農作物を育てている農場だ。

 主に小麦、トマト、オリーブを中心として、果樹として柑橘や葡萄棚も持っている。

 所謂総合農家というやつで、働いている従業員も非常に多い。

 単体の作地面積で言えば他に広い場所も沢山あるのだが、視察対象としては多様性のある農地の方が適しているだろう。

 馬車の外、街道沿いには長閑な雰囲気の農地が広がっている。

 まだ朝早い時間にも関わらず、多くの人達が畑の手入れを行っている。

「広い農業地帯ですね、一体どこまで続いているのでしょうか」

 侍従のイレーヌが感想を口にした。

「サバス地方との境界となる、メリディオーネ村まではずっとこうですね。村から向こうの農地は、シルベストレ様の領地です」

 この広大な農地で行われている農業も、サンコスタの胃袋を満たすための重要な産業の一つである。

 主食となる小麦や黍は勿論、各種の野菜や芋、柑橘に葡萄、そして衣料品用の綿花も含まれる。

 比較的気候の安定している大陸の南岸付近は、安定して作物が収穫しやすく、大陸有数の農業地帯となっているのである。

 ここから少しずつ北に向けて農地や集落を広げていっているのだが、北の森にはまだまだ魔物が多く棲息しており、思うようには進んでいない。

 それでも年々広がっている事は事実で、他領地や他国への輸出や人道支援用の食糧など、王国にも外国にとっても重要な地域である。

 この地も最初からこうではなかった。

 海に近いため、南風にのって塩害が多発していたのである。

 塩害防止用の魔術装置である金属網が発明された事で、一気に農地が広がったのだ。

「ダニエル農場まではまだ少し時間がかかりますので、ゆっくりしておいて下さい」

 目的地はどちらかと言えばメリディオーネ村に近い場所にある。

 朝早く出たとしても、到着は昼前にはなるだろう。

 昼食を食べる場所が無いので、今日はマルコとヨアヒムにお願いして弁当を作ってもらってある。

 王太子殿下には申し訳ないが、農地には当然ながらレストランなど無いのだ。

 農作業を行っている人々も、みんな弁当を持ってきている。農地の視察ということで、現地のやり方に倣ってもらう事にした。

「ようこそ、お越しくださいました、王太子殿下」

 ダニエル農場の責任者が笑顔で出迎えた。

 一行は彼について歩き、まずは小麦の作付けを行っているエリアへと移動する。

「広いな……穂の上に網がかかっているようだが」

 尤も作地面積の広い小麦畑は、一面に青々と生長した穂で満たされていた。

 その上全てを覆うようにして、目の細かな網がかかっている。

「これは鳥よけです。ここまで大きくなってくると、鳥が実をついばみに来るので」

 やってくる多くは小鳥だが、中には魔物もいる。

 小麦は栄養価も高いので、それを知っている獣や魔物も寄って来るのだ。

「まだ春だが、そんなに早く収穫できるものなのか?王都近くの農場では、秋に収穫をすると聞いたことがあるが」

「この地は温かいので、秋から冬に種まきをして夏前には収穫できます。畑の空いた時期にはトマトを植えております」

 もうこの時期になると麦踏みも終わり、収穫を待つだけとなる。

 一番手のかからない時期かと思いきや、やってくるのは鳥や魔物、というわけだ。基本的に農地に休みというものはない。

「鳥はある程度網で防げますが、魔物はそうはいきません。ですので、定期的に冒険者協会に討伐の依頼をお願いしています」

 農地近辺の定数駆除というのが主にそれに当たる。

 ブラッディボアやルナティックヘア、コリブリなどといった害獣指定の魔物を、一定期間のうちに指定された数を駆除する事で依頼の完了となる。

 あまり難しいものではない上に、狩った魔物の素材などは持ち帰っても良いので、中堅程度までの冒険者には比較的人気のある依頼内容だ。

 小麦とトマトの耕作地を抜け、果樹である柑橘や葡萄の場所へと向かう。

 どちらも現在は生長時期になっているので、作業をしている人はあまりいない。

 時期柄のせいで特別に見る所も無く、農場責任者の話を聞くだけで終わった。

「いや、大変勉強になったよ。王都近隣の農地とは大分やり方が違うんだな」

 馬車のある所まで戻ってきて、クリストフは随分と感心していた。

「気候が違いますからね。育てている品種も違えば収穫時期も違います。その地にはその地に合ったやりかたがありますので」

「肥料の種類などは、正直専門的すぎてわからなかったよ。まるで学者の話を聞いているみたいだった」

 農業もきちんとした理論に基づいて行われているのだ。知識なくして植物を育てる事などできない。

「そろそろお昼にしましょうか。お弁当を持ってきていますので、海側を見ながら頂きましょう」

 ナズナが手際よく折りたたみのテーブルと椅子を展開する。またたく間に海を望む街道のテラス席が出来上がった。

「屋外で食事をするのは久しぶりだ。というより、殆ど王城から出ていないんだけどね」

「たまには良いものですよ。外で食べるとまた違った味がします」

 クリストフとトリシアンナは丸いテーブルに並んで座った。外では上座も下座も無い。

 全員揃って厨房の二人が作ってくれたパン挟みや芋のフライなどを摘む。

 侍従の二人も、別のテーブルを立てて一緒に昼食の時間を過ごしている。

「トリシアの所にはいい料理人がいるんだね。王城や王都のレストランにも引けを取らないんじゃないかな」

「最近新しい人が来てくれたんです。とってもお料理が上手なんですよ。少し自信がなさそうなのだけは問題なのですけれど」

 少し猫背のヨアヒムは、性格の大人しい優しい人で、非常に料理の腕が良い。

 大人しすぎる性格のせいか、常に恐縮しているようで、どうにも自分に自信が無いように見えるのだ。

 海龍亭が簡単に手放したのは、シェフとしてお客に堂々と説明できなければ未来はない、と考えての事だったのかも知れない。

 個人邸であれば別にそのような事は必要ないし、苦手であれば侍従長などに説明を任せる事もできる。それは別に欠点ではないのだ。

「自信か、難しいねそれは。持てと言われて持てるようなものじゃないからさ」

 それはそうなのだ。自信というのは継続する成功体験があって初めて生まれるものなのである。

 成功という認識のない成功を繰り返していても自信は生まれない。

 トリシアンナは、もっと沢山ヨアヒムの事を褒めてあげようと心に決めた。

 持ってきた弁当を粗方食べ尽くして、ナズナとイレーヌが淹れてくれた紅茶を前に、次の相談を始める。

「次は浜の視察という事ですけれど」

 浜と言っても、浜だ。浜でしかない。

 南に目をやると、網の向こうに海が見えている。

 馬車でほんの少し移動すれば、すぐにそこは浜だ。

「ええと、正直あまり見るべきところもないのですけれど、どうしましょう?防塩網でも見ますか?」

 防塩網とは、特殊ではあるが安価な素材で作られた金属の網に、一定範囲で塩分を吸着する魔術装置を取り付けたものだ。

 定期的に魔術でメンテナンスをするだけで海から飛んでくる塩を防いでくれるものだが、別に見ても面白いものではない。

 専用のメンテナンス作業をする人は、一月に一度、順番に網を回るだけなので、当然のことながら今は網にも誰もいない。

 浜も時期外れであり、街の近くであればいざしらず、こんな遠くまで砂浜を見に来る人など皆無だ。

「網もだけど、波打ち際も一度見るだけは見てみたいな。コーンウェイも、それで良いか?」

「勿論ですとも。お供しましょう」

 テーブルとティーセットを片付けて、一行は馬車に戻る。王都の御者とフランコに、できるだけ浜に近づくようにお願いした。

 馬は砂浜に入れない。入っても別に大きな問題は無いが、蹄鉄の間に細かい砂が入り込みやすい上に、柔らかい砂場に足が沈むので、馬自体が嫌がる事が多いのだ。

 防風林を抜けて土が砂地に変わり、浜に入るかどうかの所で馬車は止まった。

「おお、これが防塩網か」

「ずうっと続いておりますな」

 三段の列をなして、お互いがあまり重ならないように少しずつずれた黒い金網が、浜の手前に沿ってずっと続いている。

 高さは3、4メートルはあるだろうか。

 稀に嵐で倒れたりする事はあるものの、頑丈な柱にくくりつけてあるため、滅多なことでは損傷しない。

「流石にこれだけ並ぶと壮観だな」

「この大きさの物が並んでいるというだけでも、随分と見応えがありますな」

 意外にも王都から来た四人はこの網を気に入ったようだ。

 シャーリーンやイレーヌも、黒い金網をぽかんとして見つめている。

 サンコスタやサバスに住む者には見飽きたものなのだが、外から来た人にとっては違うのだろう。

 意外と観光資源になるものなのかもしれない。いや、見たらもうそれで終わりだが。

 次は砂浜である。トリシアンナは靴と靴下を脱ぎ、裸足になった。

「な、何をしているんだい?トリシア」

 いきなり脱ぎだした事に驚いたのか、クリストフが声を上げた。

「何って。砂浜に入るのですから靴を脱がないと。ブーツの方は大丈夫ですが、革靴の方は脱いだほうがよろしいですよ。靴下も」

 別にそのまま入っても構わないが、すぐに後悔する事になる。

「しかし、危なくないかい?裸足で地面を歩くなんて」

 確かに、観光客の捨てたゴミや硬い貝殻で足を怪我する事もあるのだが。

「時々は怪我する事もあるので、サンダルでもあれば一番良いのですけれど、持ってきていませんし……ほら、気持ち良いですよ。」

 目の細かい砂が、踏みしめた足を撫でる。

 サラサラと乾いた砂に足の裏が沈む感覚は結構心地の良いものだ。

「そうなのか……初めて知ったよ」

 クリストフも倣って靴と靴下を脱ぐ。

 靴の中に脱いだ靴下を入れ、侍従のイレーヌに預けた。彼女は砂浜に入らないようだ。

 同じ侍従のナズナはというと砂浜には入らず、網のすぐ近くで待機している。

 浜に特別危険は無いという事だろう。辺りに人の気配はない。

「ううむ……しかし、裸足は抵抗がありますな。まずは靴のまま入ってみましょう」

「私はブーツなので平気そうです」

 コーンウェイは革靴のまま、シャーリーンは甲冑付属のブーツを履いているのでこちらもそのまま砂浜に入ってくる。

「むっ、これは……鍛錬に良さそうだぞ!」

 甲冑の重さで沈む足に、王国の騎士は歓声を上げる。

「おお!この抵抗感!走るのにこれほどの力が必要とは!」

 喜んで浜を走り出した。

 騎士というのは頭の上からつま先まで筋肉で出来ているのだろうか。

「コーンウェイ、大丈夫か?」

 ざふざふと砂を踏みしめて歩いてくるコーンウェイに、クリストフが声を掛ける。

「え、ええ、問題はなさそう、ですが」

 いや、問題無いわけがないだろう。

 砂まみれになった革靴は、踏みしめる度に半分ほど砂に埋まっている。

 靴の隙間には既に細かい砂が大量に入り込んでいるはずだ。

「コーンウェイ殿、邸に戻る前に馬車で良く砂を落として下さいね。さもないと王都まで砂浜の砂をお土産に持ち帰ることになりますよ」

 靴に入り込んだ砂は、水洗いでもしない限り完全に落とすのは難しい。

 そのまま邸に上がればこぼれた砂が絨毯の間に入り込むし、放置すればその名の通りお土産だ。野球場の記念ではないのだから、あまり有り難くはないだろう。

「あはは、人の言うことを聞かないからだよ、コーンウェイ。しかし、これは中々気持ちが良いな。よし、波打ち際まで行こう、トリシア!」

「あ、待って下さい」

 走り出したクリストフを慌てて追いかける。危険は無いとは言え、流石に一人にするのはまずい。

「ま、待ってくだされ!」

 砂に足を取られながら、置き去りにされたかわいそうな政務官は四苦八苦しながら追いかけようとする。

 しかしそれでは裸足で駆け出す子供には絶対に追いつけないのだ。


 波打ち際で、クリストフは目の前に広がる広大な海に圧倒されていた。

 港で見るものとは全く雰囲気の違う海。

 港からだと、目の前には沢山の船が浮かんでいたし、沖合には防波堤もあったので、あまり遠くまで見渡すことは出来なかった。そもそもサンコスタは湾だったのだ。

 砂浜から見る景色はまるで違う。

 次々に打ち寄せる波に洗われる白い砂浜。深い青緑の水面は白波をあちこちに見せながら、ずっと遠くまで、水平線の向こうまで続いている。

 目の前を遮るものは何もない。

 抜けるように晴れた青い空と、水平線の境界。

 青の混じり合うその広大で美しい景色に見惚れてしまう。

「クリス、急に走ると危ないですよ」

 追いついてきたトリシアンナが隣に並んだ。

「ごめん、トリシア」

 言いながら、目の前の光景から目が離せない。

 吸い込まれるような2つの青さに魅了される。

「綺麗でしょう?海には色んな顔があるんですよ」

「ああ、そうだね」

 今は昼間だが、夕刻や夜にはまた別の美しさがあるのだろう。

 出来ればそれも見てみたい。

「ほら、ちょっと早いけど水も冷たくて気持ちが良いです」

 トリシアンナが、足首まで寄せる波の中に立った。

 白いドレスの裾を持ち上げ、白く美しい脚が露わになる。

 踝を洗う白い波が、目の前の少女をどこか幻想的に見せている。

「綺麗だ」

「そうでしょう?」

 自分に向けて言われたのだと気が付かず、トリシアンナは無邪気に波と遊ぶ。

 砂浜に来て良かった。

 あの黒い網にも圧倒されたが、この海の広大さ、空の美しさ。そして目の前にはもう一つの美が踊っている。

 来年の夏にも絶対に来よう。その時は、この景色も、目の前の少女も、また違った色を見せてくれるはずだから。


「ぬぅぅ……やはりトリシアンナ殿の言う通りにしておけば良かった」

 馬車の中で、叩いても叩いても出てくる靴の砂に、コーンウェイは辟易していた。

「地元の人の言うことには従ったほうが良い、その事が良く分かったな、コーンウェイ殿」

 思う存分、足腰を鍛える鍛錬を楽しんだシャーリーンは上機嫌で言う。

「全く、その通りですな。いや、この教訓も視察の良い結果としましょうぞ」

「転んでもただでは起きないな、流石は政務官だ」

 メディソン家の馬車には、侍従二人と政務官、騎士の4人が乗っている。

 トリシアンナの足が濡れたので、砂が足につかないようにと抱きかかえてきた王太子が、こちらに乗せると言って王家の馬車に連れて行ったのだ。

「大丈夫でしょうか……」

 メディソン家の侍従であるナズナが心配そうに後ろをついてくる馬車に目をやっている。

「問題ないだろう。周囲が森であれば兎も角、農地に面したこの街道沿いであれば魔物や賊の接近もすぐに分かる。交代で探査術を使えば良い」

 このシャーリーンも風圧系の補助術はお手の物だ。というより、騎士は皆、火力は武器に任せて術は補助として使っている者ばかりなのである。

 ラディアスのように攻撃手段として用いる事の出来るものもいるにはいるが、たたっ斬った方が早い、と考える者が殆どだ。

「そちらの問題はそうでしょうが……いえ。そうですね」

 気の強い侍従にしては随分と心配性な事だ、とシャーリーンは思った。

「余程お前は主の事を大切に思っているのだな」

「無論です」

 その気持ちは彼女も分からないでもない。

 そもそも騎士団は王家に仕えるものなのだ。身を捧げることに衒いはまるで無い。

「信頼も忠誠心の一つだぞ」

「それは勿論そうなのですが」

 煮えきらない侍従が少し可愛いと思ってしまった。ラディアスの事は別としても、忠誠心の強い従者は嫌いではない。

 ふっと笑うと探査術を交代して展開した。


 二人きりになった時点でこうなるとは予測していた。

 クリストフの行動は段々大胆になっていく。

 浜辺で裸足になり、波間で遊んだ。そのせいで足が濡れてしまったのだが、そのままだと砂が足につくからと、クリストフが自分を横抱きに抱えて戻ってきたのだ。

 どうやらそれなりに鍛えてはいるらしく、割と男らしいところもあるではないかと見直していたのだが、そのまま王族用の馬車に連れ込まれた。

 理由としては甚だ無理がある。別に靴下を履くのはフランコの馬車でも全く問題がないのだが。

 しかし王太子がそうと言ったからには他の人間に逆らう術も無く、昨日と同じ様に二人きりで密室の中である。

 案の定、馬車が動き出すと同時にクリストフは身体を寄せてきて、キスの嵐である。

「んぅ……クリス、あんまり強引にしないでください。気付かれてしまいますよ」

 あんなやり方でナズナが気付かないはずがないのだ。

 鈍感な騎士は兎も角、コーンウェイやイレーヌも薄々勘付いているだろう。

「大丈夫だよ、トリシア。御者は絶対に後ろを覗かないようになっているんだ」

「そうではなく、んっ!」

 どれだけ餓えていたのかという獣の如く食いついてくる。唇だろうと首だろうと見境無しだ。

「ごめん、トリシア。我慢が出来ないんだ。砂浜で君の白い脚が見えて、もう」

 脚とはいえ肌を晒したのは迂闊だった。思春期の青少年が、ほんの僅かな切欠で欲望を滾らせてしまうのは当然の事だ。

「だからって、こんなに無理矢理……」

 クリストフの手が身体をまさぐる。唇を押し付けたまま、服の上から胸を、腹を、背中を、尻を、太ももを撫で回される。

 口腔内に押し入ってきた彼の舌をなすがままに受け入れる。

 荒い呼吸がお互いの顔に熱く降り注ぎ、情欲を滾らせていく。

 いつの間にか上半身がはだけられていた。

 露わになった胸元に手が伸び、下着の上から薄い胸を揉みしだかれる。

「ちょっと、クリス……ダメです、こんな所で」

「ここしかないじゃないか。邸では常に人の目があるんだから」

「そうですけど、ッ!」

 下着越しに敏感な突起を抓られて言葉が止まる。

 そのままクリストフは胸に、下着の隙間に手を滑り込ませてきた。

 直接愛撫される肌の感覚に、ぞくぞくと痺れるような快感が走る。

「ちょ、もう、ダメですって……昨日の夜、約束したでしょう?」

「入れなければいいんだろう?君が良くなる分には問題が無いじゃないか」

 そうは言っても、絶対この後なし崩しにするつもりだろう。

 浜から今度は邸に戻るまでノンストップだ。その長い時間の間、彼が触るだけで満足するとはとても思えない。

 案の定、胸を触っていた彼の手はそろそろと下腹部に降りてくる。

「クリスッ!もうっ、いい加減にして下さい!」

 肩を掴んで引き剥がそうとするが、力があまり入らない。

「トリシア……頼む、もう我慢が」

「ダメって……言ってる……でしょうが!」

 伸ばされた手が、臍の下、下着の隙間から伸びようとしたその瞬間、『ソーンズ』を最小限に補正して彼の背中に走らせる。

 青白い光が足元に出たかと思うと、びくん、と痙攣し、クリストフは白目を剥いて背後に倒れた。

「ハァ……ハァ……この、どんだけ溜まってるんですか……相手ならいくらでもいるでしょうに」

 やってしまった。

 王族専用の馬車の中、王族、しかも王位継承者に攻撃魔術を使い、気絶させた。

 ばれれば間違いなく自分は極刑だ。だが、問題ない。

 本人が言っていたのだ。御者は絶対に馬車の中を見ないと。

 バレない犯罪は犯罪ではない。黙っていれば良いのだ。

 クリストフは美少年とは思えぬ面を晒して白目を剥き、口を半開きにして仰向けに倒れている。

 そっと口元に顔を寄せてみると、きちんと息はしている。

 脈もとってみたが正常だ。問題ない。

 そっと目をと口を閉じさせて座り心地の良い椅子に寝かせる。

「ふぅぅ」

 乱された衣服を整えて、深く息を吐く。

 視察は明日もある。もう一日、これに耐えなければならない。

 別に嫌ではないのだ。彼自身は見目麗しい紅顔の美少年ではあるし、優しくて、何より自分の事を好意的に想ってているのが視えるのだから。

 ただ、あまりにも性欲が強すぎる。

 英雄色を好むとは言うが、この歳でこれなのだ。将来が恐ろしい。

 王族が子孫を残すための資質としては非常に優秀だろう。だが、子孫を残すための相手は自分では無いのだ。

 そもそもまだ自分は子を成せるような身体をしていない。

 あまりにも性急すぎるのである。

 これがもう少し大人であれば、避妊魔術を使える事でもあるし、ただの遊びとして終わらせる事も出来るだろう。

 だが、今無理をして壊れてしまえば元も子もない。

 何よりそうなってしまえば家族が我を忘れてしまう。そうなったらもうおしまいだ。

 比類なき力を持つ兄姉達を思い出してぞくりとする。

 彼ら彼女らを怒らせて、この国が五体満足でいられるとは思えない。

 折角優しい世界に産まれ直したのだ。どうせなら、幸せな世界を築いて生きたい。

 暢気に気絶しているクリストフの頬にそっと口付けをして、自分も到着まで少し横になることにした。


「ん?あれ?眠ってしまったのか」

「おはようございます、クリス」

 逆行性健忘が起こる事は予測済みである。

「あれ、僕、どうしたんだっけ。ええと、確か浜で、トリシアの脚が」

「もう、クリスったら。行為の最中で寝るなんて、女性に失礼だとは思わないんですか?」

 流れで釘を刺す為に敢えて言っておく。また夜這いでもされてはかなわない。

「え?……ご、ごめん、トリシア」

「余程疲れていたんでしょうね、すぐに眠ってしまいましたよ」

 この次の彼の台詞はこうだ、夜にでも続きを、と。

「ごめん、この埋め合わせは夜にでも」

「私も疲れたので、夜はお風呂に入ったらすぐに寝ます」

「え?そ、それじゃあ一緒に」

 出来ると思っているのか?

「無理でしょう。昨日だってイレーヌさんが探しておられたではないですか。今日は大人しくしておいて下さい」

 敢えて逃げ道を残すことで納得させるのは大切な事だ。

「で、でも……それじゃ、夜中にこっそりと」

「ナズナはコウヅキの忍びです。夜中に不審な動きがあればすぐに気付きますよ」

 その言葉に王太子の顔が青ざめる。

「こ、コウヅキの忍び!?あの、東方諸島の『耳』とも言われる!?」

 王族の間ではそんな扱いだったのか。

「そうです。彼女の目を誤魔化すのは大変ですよ。場合によっては知らないうちにクリスの大切なあそこが切り落とされてしまうかも……」

 最大限に脅す。まぁ、実際彼女であればやりそうではあるが。

「そ、そういえば昨日もあんなタイミングで声をかけられたし……ひょっとして、バレているのか?」

 多分それはない。そうなったら王太子殿下は今この場にいないだろう。

「大丈夫です、クリス。彼女は私の侍従ですから。私が言わない限りはクリスに酷いことをしないでしょう。でも……」

「わかった!わかったから!今日は何もしない!」

 少し薬が効きすぎたようだが、一応は納得してくれたようで良かった。

「そうですね、それが良いと思います。夕食は何でしょう?楽しみですね」

 後一日。

 しかしこれが毎年のように続くのか。少し気が遠くなってきた。


 馬車から降りて邸に入ろうとすると、すっとナズナが近寄ってきた。

「お嬢様、何事もありませんでしたか?」

「ええ、大丈夫ですよ、ナズナ。私の実力は知っているでしょう?」

 妖艶に微笑む。

「流石です、お嬢様」

「その台詞、ちょっと恥ずかしいので出来れば控えて貰えませんか?」

「お嬢様もアンドアイン様やディアンナ様に良く仰られておいでですが……」

 あれ?そういえばそうだっけ。

「……今後は私も控えましょう。ともあれ、無事に今日の任務は終了ですよ、お疲れ様でした、ナズナ」

「勿体無きお言葉」

 どうにも時折この元忍びは時代がかった台詞回しをする事がある。

 故郷の癖なのだろうが、美しい女性が侍従服に身を包んでそう言うと、なんだか退廃的な雰囲気が漂ってくる。

「お父様に先に報告をしてきます。皆様をご案内、お願いしますね」

「承知しました」

 ナズナは一分の隙も無く、ホストを希望の場所に案内している。

 クリストフだけは名残惜しそうにこちらを見ていたが、ナズナに促されるとびくりと震えて彼女に従った。いや、コウヅキ家すごいな。

 執務室にノックをして入ると、父と母がこちらを見てほっとした顔をした。

「おかえりなさい、トリシア。視察は問題なかったかしら?」

 母は優しすぎる程に優しい。

「はい、滞り無く。皆様、地方の差における農業と、防塩網の大きさ、浜の美しさに喜ばれておいででした」

 それは本当だ。ただ、絨毯を掃除機で吸っておくように侍従達には言っておかねばならないが。

「そうか、ありがとう、トリシア。まだ小さいお前に案内を任せてしまって済まないな」

 こちらもひたすらに優しい父が慈愛の目を注いでくる。

「いいえ、お父様。客人をおもてなしするのはメディソン家の娘としての務めです。お兄様のようにはいきませんが、私にできる限りの事はさせて頂きます」

 これは必要であり義務だ。そして、もう隠居したも同然の両親に背負わせてはいけない。

 愛し、慈しみ育ててくれたこの両親には、これから恩返しをしていかなければいけない。

「ありがとう、トリシア。さ、夕食の準備がもう出来ているぞ。今日は二人の合作らしいからな、期待していいぞ」

「本当ですか?楽しみです!」

 あの二人の合作とあらば、それはもう想像を超える美味だろう。

 あぁ、この世界には幸せが満ちている。


「あぁぁ……あぁぁ~」

 目の前に繰り広げられた光景を見て、トリシアンナは思わず感嘆の声を上げた。

 立食形式である。

 いつもの食堂が様相を変え、長いテーブルが部屋の隅に押し込められており、その上に色とりどりの料理が並べられている。

 王都の宿で、朝食を摂った時と同じ形式である。

 好きなものを好きなだけ、思うがままに皿に取り、食べられる。

 まさか、実家で、しかも夕食でそのような形式が体験できるなどとは。

「おっ、立食形式とは。思い切ったなぁ。誰の発案だ?」

 帰ってきたラディアスも驚きの声を上げている。

「ヨアヒムの提案です。海龍亭で後ろのテーブルが大変評判の良かったというのを聞いていたそうで。あと、トリシアンナお嬢様もこの形式がお好きだとの事ですので」

 ハンネが答える。その通りだ。兄から聞いたのだろうか。

「おぅ、そうか。確かにこの形式だと気兼ねなく食事できるからな。そうだ、侍従の皆も一緒にどうだ」

 素晴らしい提案だ。身分に囚われぬこの兄らしい発想である。

「そうですね。給仕はほどほどにして。多少は無礼講でも良いのではないでしょうか」

 ここは乗っておくべきだろう。食事はみんなで楽しむものだ。

「そうだね、僕も賛成だ。他に誰の目があるわけでもないし」

 クリストフも同意する。この場の許可が降りたも同然だ。

「よし、それじゃあ。皆、今日の仕事、おつかれぃ!」

 兄がグラスを掲げた。いや、職場の飲み会ではないだろうに。

 しかし誰もそれを咎めるものはいない。お硬めの両親ですら苦笑いをしているだけだ。

 和やかな立食パーティーが始まった。


「ラディアス様、ご配慮頂き有難うございます」

 ナズナが酒を手にすっと近寄ってくる。

「おう、ナズナも。今日もトリシアについてくれてありがとうな。大変だっただろ」

「いえ……それほどには」

 そっと肩を寄せて近づく。

 そこへがしゃんがちゃんと甲冑を鳴らしてやってくる女騎士シャーリーン。

「ラディ!立食形式なら飲み比べだな!勝ったら私と結婚しろ!」

「あぁ?なんでそうなるんだよ。アホかお前は」

「そうです。全く、無作法な騎士殿ですね」

 再び戦争が勃発した。

「負けたほうが勝ったほうの言う事を聞く。それが正しいやり方だろう。何の問題がある?」

「会食の場でそのような事を持ち出す事がおかしいと申し上げています」

「私達は騎士だ。騎士のやり方でやる」

「ここは貴族の邸です。騎士のやり方で進めたいのであれば、王城の中庭でお願いします」

「なんだと?いいだろう、お前、王城まで来い」

「お断り致します」

「逃げるのか」

「自分より弱い相手から逃げる必要がございません」

「あぁ?ここで試してみるか?」

「吠え面をかかせて差し上げましょうか?」

 一体どうしてこうなるんだ。ラディアスは頭を抱えた。

 この二人がいる限り安息の地は無い。


 いきなり無礼講と言われて、住み込みの侍従であるフェデリカは戸惑っていた。

 メディソン家の家族と食卓を共にしたことは一度も無い。

 無論、合同宴会などで警備隊長としての立場のラディアスと共にしたことはあるが。

 皿を手にした状態で戸惑っていると、同じ様に挙動不審な侍従姿を見つけた。王都から来たというイレーヌという侍従である。

「あ、あの。唐突で困りますよね。侍従としてはどうしたらいいのかとか」

 そっと近づいて話しかけると、救いの神が来たとばかりに彼女も頷く。

「そうなんです!王太子殿下についてくるというだけでもう畏れ多かったのに……貴族の皆様方と一緒にお食事だなんて」

 わかる、わかるわー。

 この子は同類であると確信して、フェデリカは話を続けることにした。

「折角ですし、侍従同士ご一緒しませんか?お酒も色々と沢山用意してあるみたいですし」

 先程から気になって仕方がなかったのである。

 しかし、領主様の前だ。いつものようにハメを外すわけにはいかない。

 でも、ちょっとだけ。ちょっとだけなら。

「そうですね、私もお酒は大好きなんです」

 意外や意外。大人しそうな見た目に反して。

「そうなんですね!これ、こちらのお酒はいいですよ。東方諸島からの輸入品なんですけど、口当たりが良くてフルーティで」

「本当ですか?……あっ、おいしい!フェデリカさん、これすごく美味しいです!」

「イレーヌさん、私達お友達になれそうですよ!」

 もう怖いものは何もない。この場での同胞が出来たのだ。

「ところでフェデリカさん、恋物語に興味はお有りですか?」

 大好物だ。特に身近なものであればもういくらでも酒が飲める。

「勿論、大好きですよ。何か、良い物をご存知で?」

「東方諸島から伝わってきた物語なんですけどぉ」

 こうしてまた一人、お互いの同胞が増えるのであった。


「全く。ラディは本当にいつになっても変わらんな」

「ええ。でも、それがあの子の良い所でしょう?」

 夫婦は少し落ち着いた雰囲気で食事を楽しんでいる。

「ヴィエリオ様、いつも仲がよろしくて結構ですな」

 コーンウェイが酒の入ったグラスを掲げながら近づいてきた。

「コーンウェイ殿。いや、お恥ずかしい。いつも尻に敷かれてばかりで」

「あなた。コーンウェイ様になんてことを」

 気の知れた政務官はそのやり取りに心から笑う。

「はっはっは、お変わりありませんな。お二人が揃って王城に来られた時の事を思い出します。あの時も確か、ヴィエリオ様が宿で無作法をしたとかでマリアンヌ様が」

「そうなんですのよ、コーンウェイ様。この人ったらお食事の時に」

「おい、もうその話は良いだろう。いつの事なんだ」

 昔話に花を咲かせる三人。

 他よりは大分静かにその場の空気は流れていく。


 案の定、酒に狂い出したフェデリカと争い出した騎士と忍びの二人を見て、ため息を吐いた。

 人が入り混じればまず間違いなくこうなるだろうなという展開である。

 兄のアンドアインが見れば、予想出来ることだと鼻で笑った事だろう。

 二人の合作だという料理はどれも素晴らしい。

 無国籍というのだろうか。方向性に統一性が無い割に、妙に味の組み合わせが絶妙に合っている。

 特にこの、一口大の鶏肉に小麦の衣を付けて揚げたものだ。

 一見するといつもどおり、スパイシーな味がするのだろうなと口に入れてみれば、驚いたことにまろやかなチーズの味と香り。

 驚いた以上にこの味覚の整合性はどうだ。脳が混乱しながらもこれは美味いものだと本能的に訴えてくる。

 今までにこんな組み合わせの料理は食べたことが無い。というか、どれもこれもそうだ。

 一見して小麦で作った麺類かなと口にしてみれば、小麦のそれとは全く違うつるつるとコシのある歯ざわりに、旨味がぎっしりと詰まった酸味のあるソース。

 とろみのある黍のスープだろうと思って口にしてみれば、今度は甘い豆の香り漂う極上の濃厚な味わい。

 どれもこれも予想外で混乱する。混乱しながらもうまいうまいとどんどん食べてしまう。

「相変わらずよく食べるね、トリシア」

 手に東方諸島の酒を入れたグラスを持って、クリストフが近寄ってきた。

「クリスも食べてみて下さい。これ、今まで食べたことのない驚く味ですよ」

「本当かい?……!?えっ、なんだこれ。でも、確かに美味いな」

「そうでしょう?意表を突くというのはこの事でしょうか。驚きです」

 ここまで別々の味覚を組み合わせて尚、料理として完成されているというのは恐るべき腕前である。驚嘆に値する。

「こんな料理、流石に食べたことがないな……一体どういう経歴の人達なんだ」

「マルコはあらゆる場所を回って勉強したそうで、ヨアヒムも色んな場所のレストランで修行したそうですよ」

 到底一箇所で得られる知見ではないだろう。組み合わせた発想も相当なものだ。

「そうか、是非王城にも欲しい……いや、引き抜くつもりはないよ。思っただけだから」

 海龍亭から引き抜いたメディソンが言える立場ではないだろうが、彼らを引き抜かれては大いに困る。

「ふふ、では、ここに来た時の楽しみが増えましたね。王城でも食べられないお料理がここでは食べられるわけでしょう?」

「そうか、そうだね。よし、絶対に来年も来ないとな」

「そのためには、各地の視察も頑張って下さいね」

 クリストフはそれを聞いて肩を落とす。

「それなんだよなぁ。僕は寒いのは苦手なんだ。北方の領地は辛いよ」

「北方には北方の美味しいものがあると思いますよ。そうだ、キビヤックって知っていますか?」

「え?いや、知らないけど」

 美味い料理があれば酒も進む。

 トリシアンナはあまり大っぴらには飲めないが、こっそりとクリストフと二人で人目を盗んでは、フェデリカお勧めのお酒を拝借するのであった。


「ふぅぅ」

 食事の後、すぐに風呂に入るのは推奨されない。

 血管が拡張することで、消化器系への血流が減るからだ、と言われている。

 言われているが、そんな事は割とどうでもいい事だ。

 全身を包むこの快楽に勝てるものはない。

 美食も良いが風呂はもっと良い。

 全身にリラックスを促し、精神安定効果もばっちりだ。風呂さえあれば過酷な戦場でも戦い抜く事ができるだろう。多分。いや、やっぱりもう戦場は経験したくないな。

 酒精の少し回った頭で天井を見上げる。

 白い石造りの浴室は、一般の家庭には無いものだ。

 領主だからこそ許される特権と言っても良い。

 豊富な湯も、わざわざ使用人たちが沸かしてくれたものだ。ありがたくて涙が出る。

 王太子殿下の視察も明日で一応は終わりだ。

 友人と離れるのは寂しくもあるが、居れば色々と気を揉む必要があるのも事実である。

 こういうのはたまにあるから良いのであって、ずっと一緒だと疲れてしまうだろう。

 湯船から湯を掬って顔を拭う。温泉にはかなわないが、湯に浸かれるというのは大変な贅沢で、気持ちが良い。

 あとは部屋に戻って軽く本を読んで、ベッドに潜り込めば朝まで目が覚める事はないだろう。実に健康的な事だ。

 後少し浸かってから出ようかな、と思った時、浴室の扉が開いて誰かが入ってきた。

 自分が使う事は事前に教えていたので、入ってくる人はいないと思っていたのだが誰だろうか。

 母か、兄か。その辺りだろう。

 母であれば全く問題ないし、ラディアスにしてもアンドアインと違ってその辺りに全く頓着がない。別に問題は無いのだ。

 湯気に囲まれた浴室で、酒精でぼやけた頭でぼーっとそれを見ていると、声をかけられた。

「トリシア」

 おい、ちょっと待て。何故クリスがここにいる?

「く、クリス?どうして?」

 自分が入ると言っておいたのに、何故。

「侍従の人に聞いたんだ。トリシアが入っているから、入るならお早めにどうぞって」

 ハンネやナズナがそんな事を絶対に言うはずがない。とすれば。

 あのサケグルイかッ!夕食で随分飲んでいたが、ここにきて致命的なやらかしを!

「ど、どうぞって……こんな所、人に知られたらとんでもない事になりますよ?」

「知っているよ。でも、ここなら大丈夫だろう?誰も言わなければいいんだ」

 その通りだ。確かに言わなければ何も問題はない。ただ、こちらの肉体にはかなりの問題があるように思われる。

 もうクリスは完全にそのつもりだろう。覚悟を決めている事がその言葉からも伺い知れる。

 だが、待って欲しい、昨夜、きちんと約束をしたではないか。

「あなたは、約束を破るような人ではありませんよね?」

 王たるもの、決められた事を破ってはいけない。王族にとっての責務であり義務である。

「うん、そのつもりだよ」

 そうか、そのつもりか。

 果てしなく頼りない言葉だ。そのつもり。そんなつもりじゃなかった。

 王太子が湯船に入ってくる。そろそろとこちらへと近寄ってくる。

 まさかここで、温泉の時のように雷撃術をぶっ放すわけにもいかない。

 気づくまで待っていられる密室の馬車であれば兎も角、浴室である。犯人は明白だ。

 隣に寄ってきたクリスがそっと肩をぶつけてきた。裸の身体が触れ合っている。

「湯船はいいな。王城だと蒸し風呂が多いから」

「そうなんですね。蒸し風呂もいいですけれど、やっぱり湯に浸かりたいですよね」

 何故自分は自宅の風呂で王太子と一緒に並んで浸かっているのだ。まずいだろう。はっきり言って世界の危機だ。

「今日見た海はとても綺麗だった。青が混じり合って、どこまでも広がっていて」

 それに異論は無い。海は綺麗だ。そこに人が争う要素さえなければ。

「海と空が、どこで交わっているのか全くわからなかった。遠く霞んで見えないんだ」

「水平線は……天気が良くても、気温によっては温度差で揺らぐことが多くて」

 恐らくそういう事が聞きたいのではないのだろう。

「温度差で揺らぐ、か。ねえ、トリシア。僕らの境界線も、この湯の温度で揺らぐことがないのかな」

 何故そうなる。どうしてこじつける。言葉の選び方の上手さだけここで詩人にならないで欲しい。

「揺らいだとしても、まだ私が人の手の及ばない空にある事は事実でしょう?」

「僕は、その未知の事実をこそ確認したい」

 そんな、希望にあふれる研究者みたいなことを言っているが、要は君の未成熟なあそこに自分のあれをつっこみたいというそういう意味ですよね。

「未知は未知であるからこそ、美しいものでもあるのです。まだ、その時ではありません」

 頼むから諦めて下さい。王族ならこの意味もわかるでしょう。

「だが、ぼくはその好奇心を抑えきれない」

 隣からいきなり正面に向かってこちらの目を見つめてくる。

 下に目をやると、湯に霞んだ屹立したご立派なものが。

 いや、いやいやいや。

 まだ14歳だろう。なんでそんなに?なんでそんなに太くて長いんですか?

 入るわけがないだろう。常識的に考えて。

 一般的な自分のモノの大きさを確認したことがあるのか。そしてそれが女性に適した大きさであると考えたことは?

「あの、クリス……その、どう考えても、それは私には入りません。壊れます。死にます」

「試してみないと」

「試さなくてもわかるでしょう!?ほら!見てくださいよ!こんなところに入ると思いますか!?」

 あっ、しまった、勢いで見せてしまった。

「慣らしていけば」

「いやいやいや、そういう問題じゃないでしょう。物理的に無理です。第一、それで私が子供を産めない体になったらどうするんですか!責任は取れるんですか?」

 これは果たして14歳と10歳のする会話の内容だろうか。甚だ疑問である。

「それは……でも……」

 自分の局部を見た彼の局部はまた大きくなった気がする。こんな状況で興奮するな。

 事実を見せつけてもより興奮するとか、一体どうすればいいのだ。

 どうすればこの彼の猛り狂ったものを鎮めることができると……。

「わかりました、クリス。入れてあげることは出来ませんが、あなたのそれを鎮める事はできます。よね?」

「……え?」

 簡単なことだ。要は出すものを出してしまえば満足するのだろう。

 別に自分が命の危険を犯してまでしなくても。

「その……一度すっきりすれば良いのでしょう?ここでなくても」

 その言葉にびくりと反応する彼の陰茎。敏感すぎる。

「でも、どうやって?」

「あなたは、我慢できなくなった時どうしていますか?」

 言って後ろに回って密着する。彼の背中に胸を押し当てた瞬間、またぴくりと反応した。

「トリシア……いいのかい?」

「無理矢理されるよりはマシです。浴槽を汚してはいけないので……縁に。腰掛けてください」

 どうしてこうなった。しかし、こうするしか方法はない。

 自分が風呂に入ると伝えてある以上、侍従達や家族は基本的に近づかない。

 まさか裏切り者が身内にいるとは思わなかった。

「動かないで下さい」

 浴槽の縁に、外向きに座ったクリスの後ろから抱きついて、腕を回して彼の一物を掴む。

 触った瞬間、また一回り大きくなった気がした。

「と、トリシア……胸が」

「今更気にしないで下さい。というか、興奮したなら早く出して下さいね」

 言ってゆっくりと両手でしごきはじめる。

 彼のモノを握った手が燃えるように熱い。

 左手で先端を撫で回すようにして、右手で竿を強めに掴んで前後させる。

 彼の荒い息がより激しくなる。と、すぐにクリスは呻いた。

「え?」

 撫で回していた左手の中に、勢いよく熱いものが叩きつけられる。

 びゅっ、びゅっと数回、激しく精を吐き出した後に止まった。

「ご、ごめん」

「え、いや、別にいいですけど。……すごい量ですね、こんなに溜めていたんですか」

 べったりと手に張り付いたそれは強い粘り気があり、小さな手のひらに収まりきれずに浴室の床に垂れ落ちた。

「そんな事は……だって昨日も」

 昨日も?

「まぁ、でもこれで……え?」

 収まっていない。

「あの、クリス?その、まだこんなに固いんですけれど」

「それは……トリシアが胸を押し付けているから」

 人のせいにしてはいけない。興奮しているのはクリスなのだ。

「仕方がないですね。一度やると言った以上は最後までしてあげます」

「あっ、そんな、すぐには……」

 構わず再びしごきはじめる。

 赤く充血した先端は先走りと精液があふれて混じり合い、ぐちゅぐちゅと卑猥な水音がしてとんでもない事になっている。

「仕方のない人ですね。一度出したのにもうこんなにして」

 少し面白くなってきた。もう自分の両手は粘液でべたべたになっていて、まるで泥遊びでもしているかのようだ。

 先端をこねくり回し、激しく竿をしごく。先程よりも強く、速く。

「ほら、出して下さい。気持ち良いでしょう?出して、出して」

 さっきよりも少し長い時間、彼は耐えていたが。

「あ、うっ!トリシア!」

 再び彼の先端から、勢いよく白濁が飛び出した。

 びゅうっ、びゅうっと、心なしか先程よりも長い気さえする。

「んっ……また凄い量です。こんなもの、私の中に出そうとしたんですか?一発で妊娠しちゃうじゃないですか。責任も取れないくせに」

 尋常な量ではない。人間ではなくて獣ではないだろうか。

 もしかして、王族というのはそういう風に進化しているのではないかとすら思ってしまう。

「はぁ……と、トリシア。なんか人格変わってない?」

「そんな事はありませんよ。……排水溝、大丈夫でしょうか。まぁ、詰まっても怒られるのは私ではないですしいいですが」

 王太子殿下が怒られる事もないだろう。身分の差は絶対だ。

「収まりましたね。それにしても凄い臭いです」

 噎せ返るような、独特な臭いが漂っている。暫く手から取れないかもしれない。

「ごめん……」

「構いませんよ。その、私のせいでそうなった部分も少しはあるでしょうし」

 掬った湯で両手を丁寧に洗い流し、再び湯に浸かる。外に出ていたせいで冷えてしまったのだ。

 一緒に浸かろうとするクリスを両手で押し留め、粘液に塗れた股間を指差す。

「ちゃんと洗ってから入って下さい」

「……はい」

 結局その後、温まっている間にまた屹立したものを見せる彼に、もう知らないとばかりに逃げ出すように風呂場を後にした。

 あのまま続けていたらいくら時間があっても足りなかっただろう。歳が歳だとはいえ、いくらなんでも絶倫すぎる。

 部屋に戻ってベッドに潜り込んでから、とんでもないことをしてしまったと自己嫌悪に陥ったのはまた別の話だ。



「フェデリカ。お休みの所すみません。起きていますか?入りますよ」

 ノックして声を掛けると同時に扉を開ける。鍵はかかっていなかった。

 突然の闖入者に、今日は休みのはずだったフェデリカは、何故か侍従服のままベッドの上で半身を起こしていた。

 恐らく昨日は酔っ払って、部屋に戻るなりそのまますぐに寝てしまったのだろう。

 長い栗色の髪はぼさぼさで、若干顔が浮腫んでいるように見える。

 後ろ手に扉を閉めると、そっと鍵をかけた。

「お、お嬢様?おはようございます。その、私、今日はお休みで」

「知っています」

 でなければハンネが昨夜の深酒を途中でやめさせたことだろう。侍従長の苦労が偲ばれる。

「一つだけお聞きますね。昨日の夜、私がお風呂に入っている事を王太子殿下に教えて、焚き付けましたか?」

 その言葉に、寝ぼけ面からさっと血の気が引く。

「ああ、その顔で答えなくてもわかりました。そうですか、やはりフェデリカでしたか。困りましたね」

 酒を飲むなとは言わない。多少過ぎるのも問題ないだろう。だが。

「フェデリカ。あなたは私の貞操観念をどのように捉えているのでしょうか?」

 まさかこの自分の事を、とんでもない淫売だとでも思っているのだろうか。

「いえ、あの、質問は一つでは?」

「答えて下さい」

 有無は言わせない。言い訳も聞きたくない。

「いえ、そのう……その方がお嬢様も喜ばれるのではと思って、つい」

「私が王太子殿下と共に入浴するのを喜ぶと、そう思ったのですね」

 何故そう思う。どうしてそう思う?どう考えても国家反逆罪に等しい行為ではないか。

「そうですか。良かれと思ってしてくれたのですね。ありがとうございます」

 全然有り難くないが。

「フェデリカ。少し考えてみて下さい。私が王太子殿下と入浴していて、もしもそこで間違いでもあったらどうなりますか?」

「ええと、それは……お嬢様が未来の王妃様に」

「なるわけがないでしょう」

 ぴしゃりと撥ね付ける。

「地方領主の末娘など、間違っても王太子殿下の正妃になどなれません。もし万が一、殿下が無理矢理にでも私を娶った場合」

 貴族でない人間にはわからないのかも知れない。

「そうなったが最後、王都の有力貴族と地方領主全てを巻き込んだ陰謀戦の始まりです」

 未だ、今ひとつ彼女は理解できていないように見える。

「ええと、それでは正妃ではなく妾ですとか」

「同じ事です。他の貴族は、メディソン家の事を、娘を利用して王太子に近づこうとする不埒な存在として認識するようになるでしょう。というか、そもそも」

 この侍従は大きな勘違いをしているのだ。

「私ってそんなに男を欲しがるような、そんないやらしい女に見えるのでしょうか。まだ10歳ですよ?子供なんですよ?どうしてそんな」

 言っていて悲しくなってきた。いくらなんでも酷すぎるだろう。

 こんな子供が、本当にそんな行為を望んでいると思っているのだろうか。

 意図せずに両目からぽろぽろと涙が溢れてしまう。

 拭っても拭っても、後から後から湧いてくる。

 喉の奥が熱くなってそれ以上言葉を続けられない。嗚咽しか出てこない。

「お嬢様、お嬢様!ごめんなさい!私、決してそんなつもりでは」

 頭を抱かれたが、それでも嗚咽は止まりそうもない。

「ごめんなさい、お嬢様。私、てっきりお嬢様は殿下の事がお好きなのだと勘違いして……お風呂の事も、まさかそんな事になるなんて。殿下もまだ14歳だと聞いたものですから」

 14歳といえば一番盛る時期なのだが、彼女はそうは思っていなかったらしい。

 単に子供同士、浴室で仲良くなればと思って軽い気持ちで教えてしまったのだろう。

「そ、そう、でしたか。よかった、よか……たです」

 一度始まった嗚咽は簡単には止める事ができない。

 だが、フェデリカは決して自分のことを陥れようとしたのではない事が良く分かった。

 小さな頃からずっと近くにいたのだ。その彼女を、疑ってしまった自分の愚かさにも悲しさがこみ上げてくる。

 勘違いされていたにしても、まだ自分は彼女に愛されているのだ。

 ただそれが嬉しくて、また涙が止まらなくなった。


 発作はどうにか収まり、勘違いしたことをフェデリカに詫びて部屋を出た。

 涙は止まったが、泣きはらした後の顔のままでは他の者を心配させてしまう。

 見せられる顔でないために厨房で水を貰うことはできないので、脱衣場の陶器で顔を洗った。

 鏡を見ると随分酷い顔が映っている。

 目の周りは真っ赤で、赤みは頬まで達している。皮膚が薄いせいで赤くなりやすいのかもしれない。

 赤子の時を除けば、こんなに泣いたことは一度も無かった。

 それ故に家族や使用人達からは実際の年齢よりも大人に見られることも多い。

 会話の内容も大人である彼らと殆ど同じであるし、思えばあまり子供らしい仕草というのもしたことがなかった。無論、目的があってその振りをする事は多々あったのだが。

 顔は洗ったものの、このままで朝食の場に出るのはまずいだろう。体調が悪いということにして辞退しておこう。

 自分の能力を最大限に活用して、帰り道に人がいないのを見計らって脱衣場を出た。

 部屋に戻ってベッドに潜り込む。一時間もすればもとに戻るだろう。

 お腹は減ったが仕方がない。ナズナに言って運んできてもらえば良い。

 そういえば、今日の視察はどうするのか聞いていなかった。

 見るべき場所は大体見ただろうし、視察最終日の今日は、一日目的もなくゆっくりするのかもしれない。

 案内役を放棄するつもりもないので、収まったら顔をだそう。

 そこで、部屋の扉がノックされた。

「お嬢様?朝食の準備は整っておりますが」

 普段はいの一番に食堂にいる自分が来ないのは、流石におかしいと思ったのだろう。

 ナズナの声と感情はかなり心配そうだ。

「ごめんなさい、少し具合が悪いので、私の分は持ってきてもらえますか。近くのテーブルに置いておいてくれれば良いので」

 扉越しに伝える。

「かしこまりました」

 ナズナの気配は去っていった。

 彼女に今の顔を見せてしまえば、一体誰が原因だと怒り狂うのは目に見えている。

 面倒くさい事になっては困るので、彼女が食事を持ってきた時はシーツを被っていよう。

 少し手持ち無沙汰なので気配を探ってみる。

 ほぼ全ての人は食堂と厨房に集まっており、既に朝食は始まっているようだ。

 ただ一人、ナズナだけが食堂と厨房を出入りしている。ハンネと両親に報告した上で、食事を厨房で受け取っているのだろう。

 仮病を使っているみたいで少しだけ罪悪感がもたげて来る。仕方がないといえば仕方がないのだが。

 ナズナが階段を上がってきた。扉をノックされたので、どうぞとだけ言ってシーツを被る。

「失礼します……お嬢様、具合はいかがでしょうか」

「大丈夫ですよ。少し休めば治りますから」

 シーツの中で返事をする。朝食の良い香りが布を通してまで漂ってきた。

「赤い月でしょうか?」

「いえ、違います。少し怠いだけですので」

 ナズナが近寄ってくる。

「熱を診ましょう。額を触らせて下さい」

「熱はないので結構ですよ、ナズナ。ありがとうございます」

 大丈夫だから早く出ていってほしい。

「お嬢様。昨夜、何かあったのですか?」

 昨夜?昨夜。ああ、あった。とんでもない事があった。

「な、何もありませんよ!?」

 声が裏返ってしまった。まずい。自分ともあろう者がこんな事で動揺するなんて。

 案の定、ナズナの感情が不穏なものへと変わる。

「誰ですか?」

 端的にそれだけ聞いてくる。鎌をかけているのだ。

「誰って、何の事ですか?昨夜は、お風呂から上がったらすぐに寝ましたが」

「……お湯加減はいかがでしたか」

 段々聞く事を狭めてきている。なんて汚い忍びだ。

「大変結構なお湯加減でしたよ。あ、あぁ、もしかしたら湯冷めしてしまったのかもしれません」

「そういえば、今朝の浴室掃除はわたくしでしたが」

 なんだと。

「か、髪でも詰まっていましたでしょうか。済みません、長くて」

「いいえ。詰まっていませんでした」

 これ以上はまずい、うっかり口を滑らせでもしようものなら大変な事になる。

 もう答えないぞ。私は疲れたので眠る。

「お嬢様、正直に仰って下さい。昨夜、浴室で何がありました」

「……」

 答えられない。答えられるわけがないのだ。

「まさかとは思いますが、赤い月でなくとも、そこが痛かったりするのではありませんか」

 いやいやいや、どうしてそうストレートに直球でまっすぐ聞いてくるのだ。

「痛くはないです」

「嘘でしょう」

「嘘じゃありません!」

 思わずシーツを跳ね除けて反論する。

「……お嬢様、そのお顔……そうか、やはりあの王太子か。よくも、私の大切なお嬢様を」

「か、勘違いしています!ナズナは今大変な勘違いをしていますよ!?」

「ご安心下さい。ここで起こったことは全て事故です。お嬢様は何もご心配なさらなくて結構ですので」

「違います!この顔はフェデリカに」

 すっとナズナの目が細められる。

「そう、そうですか。フェデリカさんが。へえ、そうですか」

 ふらふらとした足取りで部屋を出ていこうとする。

「待って下さい!話します!話しますから!フェデリカに酷いことをしないで下さい!」

 どうしてこうなってしまうのだ。これだから勘の鋭すぎる忍びは。


「それで、フェデリカに申し訳なく思って泣いていたのです」

 大分話を脚色して小さくして説明した。

 要は、こんな感じだ。

 お風呂に入っていたら殿下が入ってきた。驚いて聞けば、自分が入っている事をフェデリカに教えてもらったのだと言う。

 裸を見られたので恥ずかしくなってすぐに戻って寝たが、どうしてフェデリカがそんな事をしたのか気になって、朝問いただした。

 フェデリカは自分と王太子殿下の事をまだ子供だったと思っていたので、悪気は無かった。そして自分はそのフェデリカを疑ってしまったことを恥じて泣いていたのだと。

「そうですか、よく分かりました。ですが、浴室では本当に何もなかったのですか?」

「すぐに逃げ出したので、何もありません」

 そこだけはきっちりと否定しておかなければならない。

 しかし、ナズナは少し不満そうだ。

「そうですか……しかし、ではあの排水溝のものは」

 もうそれは王太子殿下が自分でやったことにして貰えればいいだろう。

 余計なことを言うとまた勘繰られてしまうので黙っておくが。

「もう、よろしいですか?顔を見られるのが恥ずかしいから黙っていたのに」

「はい、疑って申し訳ございません、お嬢様。しかし」

 しかし?

「お嬢様の裸をあの王太子が見たのは事実なのですね」

 そうきたか。別にいいじゃないですか裸ぐらい、減るものでもなし。

「え、ええ……でも、一瞬でしたし」

「なるほど、それで。合点がいきました。全く、他所の邸であんなことをするなんて」

 すみません、クリス。でも元はと言えばクリスが悪いんですよ。

 性欲の導くままに浴室に入ってくるなんて。

「……誰にも言わないで下さいね」

「言うつもりはありません。言った所で私が責められるだけでしょうから」

 流石にそれは分かっているようだ。

「しかし、大旦那様とアンドアイン様にはご報告をした方が」

「絶対に言わないで下さい」

「……承知しました」

 これ以上話をややこしくしないで欲しい。


 食堂に彼女は現れなかった。

 近くにいたこの邸の侍従長に聞くと、少し体調が悪いのだという。

 ひょっとして、昨夜のことが尾を引いているのだろうか。

 成り行きだったとはいえ、彼女には大変なことをさせてしまった。

 普通のあのぐらいの年頃の娘なら、泣いて嫌がりそうな事だ。

 表面上は平静を保っていたように見えたが、やはり実は堪えていたのかも知れない。

 言われるがまま、されるがままにしてしまったが、よくよく考えれば自分が彼女を襲おうとしたため、身を護るために必死でしたことなのは間違いないだろう。

 改めて自己嫌悪が募る。今度こそ、本当に彼女に嫌われてしまったかもしれない。

 謝らなければならない。そして、二度とあのような事はしないと誓わなければ。

 食事を終えて、待機していた彼女の専属侍従に声をかけた。彼女の様子は大丈夫かと。

「問題ありません」

 冷たくそれだけ言い渡された。どうみても、怒っている。

 彼女はあの事をこの侍従に話してしまったのだろうか。だとすれば……。

「昨夜の事を謝りたいと、彼女に伝えてくれないか。心から謝罪したいと」

「お嬢様は気にしておられませんので、結構です」

 にべもなく撥ね付けられた。これは相当怒っているのだろう。

 実際、この侍従が自分を見る目は刃のように冷ややかだ。当然だろう。

 いくらこの国の王太子だとはいえ、自分の主にあんな事をさせたのだ。

 例えこの場で殺されたって文句は言えない。

 それ以上は何も言えず、すごすごと食堂を後にした。

 彼女に嫌われた。

 圧倒的な絶望感が全身を支配する。もう、生きていても意味がない。死のう。

 ふらふらと階段を上がり、あてがわれている客間に向かう。

 ここで死んではメディソン家の人々に迷惑がかかる。死ぬのは城に戻ってからだ。

 力なく廊下を進み、扉のノブに手をかけた。

「クリス、どうしました?」

 彼女が扉をあけてこちらを見ていた。どうして自分に声を?

「トリシア……済まない。僕はまた、君に酷いことを……償う方法が思い浮かばない」

 きっと今、ひどい顔をしているのだ。優しい彼女は心配して近寄ってくる。

 やめてくれ。わざわざ嫌っている僕に優しい事をしないでくれ。

「何を言っているのですか。私はもう気にしてはいませんよ。食堂に行かなかったのは、本当に少し体調が悪かっただけです。昨日の事は関係ありません」

 本当に、そうなのか?

「本当に、そうなのかい?僕はてっきり、君に嫌われたのかと」

「あのですね、クリス。今更という言葉をご存知ですか」

 今更、そう、今更だ。4年前のあの事に比べれば、確かに今更ではある。

 若気の至りでは済まされない行いだった。

「あの程度の事ぐらいで嫌ったりはしませんよ。そんなに落ち込まないで下さい。ほら、今日も視察に行くのでしょう?王太子殿下がそんな顔をしていては、何事かと思われてしまいますよ?」

 確かにそうだ。自分の役割を忘れてはいけない。

「ありがとう、トリシア。僕はまた、自分を見失う所だった」

 その言葉に安心したのか、彼女は天使のような笑顔を見せた。

「準備が出来たら呼んで下さいね。それでは、私は部屋にいますので」

 あんなに素晴らしい人が他にこの世にいるだろうか。

 初めに与えてしまった印象はどうであれ、彼女に出会えたことは、僕自身の人生で最高の幸運に違いない。


 誰も彼も、自分が食事を一度欠席しただけでどうしてこうも大騒ぎするのだろうか。

 ナズナに続いてクリストフだ。

 恐ろしいほどの、それこそ死を思わせる絶望の気配を感じて表に顔を出してみれば、そこには案の定、既に死者の顔をした王太子殿下だ。

 大方自分が出てこない原因を、昨夜の己の行動のせいだと勘違いして、自己嫌悪に陥っているのだろうと話しかけてみれば案の定だった。

 無論、朝食に出られなかったのは元々はそれが原因であるものの、別にその行為自体はもう済んだことで、正直どうでも良いのだ。

 それよりもこれが原因で部屋で首でも吊られてはかなわない。責を諮われてメディソン家が滅んでしまう。

 どうにかこうにか宥めて部屋に戻った。全く、朝から大騒ぎだ。

 部屋着からお気に入りの白い服へと着替え、出かける支度をする。

 数年前に王都で来ていたものが気に入ったので、少し前に仕立て直してもらったのだが、もう胸が窮屈になってきた気がする。

 慌ててブレストプレートなどを買わなくて良かった。武具は結構高価いのである。

 仕立て直そうとしても金属はそうもいかない。やはり、もう少し大きくなるまで待ったほうが良さそうだ。

「お嬢様、いらっしゃいますか」

「どうぞ」

 ナズナがやってきた。そろそろ出かけるのだろうか。

「コーンウェイ様とシャーリーン様がお待ちです。あとはお二人の準備が出来次第出発するとの事です」

「分かりました。では、行きましょうか」

 こちらの準備は万端だ。どこに行くにせよ、今日はそこまでの波乱は無いだろう。

 昨日までが色々とありすぎたのだ。最終日ぐらいは素直に終わって欲しい。

 エントランスホールに二人で降りると、政務官と騎士が並んで待っていた。

「おはようございます、トリシアンナ殿。具合はもうよろしいのかな?」

「おはようございます、コーンウェイ殿、シャーリーン殿。ええ、もうすっかり」

「朝食は食べましたか?きちんと食べないと大きくなれませんよ!」

 元気一杯のシャーリーンはいつもの通りだ。彼女も女性にしては随分背が高い。ナズナもそうだが、羨ましい限りである。

 そうこうしているうちに、階段からイレーヌを連れてクリストフも下りてくる。

 感情の色を視る限りはもう大丈夫のようだ。

「おはよう、皆。コーンウェイ、今日の予定はどうするのだ?余は何も聞いていないのだが」

 視察する本人が聞いていないとは、また行き当りばったりなものだなと怪訝に思った。

「これは地方視察の定例なのだそうですが、最終日は視察主、つまり王太子殿下の気の赴くままにするという事になっております」

 つまりは自由時間という事だろうか。

「なるほど、事前に二日間だけ決まっていたのはそういう事か。ふむ」

 クリストフは少し考えてから、口を開いた。

「それは、余が単独行動をしても構わぬという事か?」

「いえ、それは少し……最低限でも護衛はつけていただかねばなりませんが」

「護衛か」

 また少し考えている。

「その護衛とは、騎士でなければならぬのか?」

「はぁ……特に規定はありませんが、騎士である事が望ましいとだけは」

「望ましい、という事だな。では、余は単独行動をする。護衛にはトリシアンナ・デル・メディソンをつける。他の者は好きにして良い」

 またこの王子様は。

「トリシアンナ殿を護衛に?し、しかし貴族のご令嬢ですぞ。護衛などとは」

「殿下。流石に無理がお有りです。護衛ならばこのシャーリーンをお連れ下さい」

 尤もな話だ。王族が自分より年下の女の子を護衛につけるなど、聞いたことがない。

 確かに自分はある程度戦闘もこなすことができるが、騎士と比べればどうしても心許ないだろう。

「二人共、一日目で盗人を捕らえた時の彼女を見ただろう。加えて言えば、彼女はあのラディアス殿から一本取ったことがあるというではないか」

 ここでその話を持ち出してきたか。まさか説得材料に使われるとは思わなかった。

 意外に、というと大変失礼だが、この王太子は頭が回る。

 伊達に毎日本を読み耽っているわけではない、という事か。

「し、しかし。まぐれでの一本など、数に入れるのは……」

「では聞くが、シャーリーンはまぐれでも彼から一本取れたことがあるのか?」

「それは……」

 これはひどい。一度も勝てなかった想い人を引き合いに出されてはどうしようもないだろう。

「では決まりだな。トリシア、行こう」

「え、えぇ……あの、ナズナは?」

「護衛は一人で十分だ」

 全く懲りない王太子殿下だ。もう何があっても知らないぞ。

 諦めの境地に達して、仕方なくついていく。まぁ、悪意のある人間や魔物ならば自分がすぐに気付く。危なくなったら彼を抱えてでも逃げればいいだろう。

 それにしても、どうしてこの人はこんなに自分に執着するのだろうか。


 二人で出かけると言っても、近くにあるのはサンコスタの街しかない。

 また何もない浜で遊ぶというわけにもいかないだろうし、近隣の村に行くには遠すぎる。

 自分だけであれば魔術による移動で日帰りも可能だが、流石に王太子殿下を連れては無理だ。

 結局は王族用の馬車に二人で乗って、街へと降りる事になった。

「また無理矢理連れ出してごめん。今日が最後だからさ」

「クリスは謝ってばかりですね。いいですよ別に。それに、来年も来るのでしょう?」

「もちろんそのつもりだよ。来年は是非、浜で海水浴でもしてみたいな」

「楽しいですよ。露店も沢山出ていて、普段食べられないような珍しいものも売っています」

「トリシアは本当に風呂と食事が好きだなぁ」

「ライフワークなので」

 揺れの少ない馬車の中で他愛もない話に花を咲かせる。

 気のおけない友人との語らいは、それ自体が大切な宝物だ。

 クリストフ王太子殿下も、きっとその様に感じている事だろう。


「何をしてるのですか、騎士。追いかけますよ」

「何?し、しかし殿下はついてくるなと」

 取り残されて立ち尽くしているシャーリーンに、ナズナは近寄って声をかけた。

「単独行動をする、と仰っただけです。たまたま自分たちの行き先が重なる分には問題ないでしょう」

「なるほど……確かに、彼女がいくら強かろうと、一人で護衛を任せるのは不安だ。よし、行くぞ忍び」

「侍従です。お間違い無きよう」

 二人はそれぞれが肉体強化を掛けると、走って馬車を追いかけ始めた。

「ふむ、私達はどうすれば良いのやら」

「休暇と思ってお邸でゆっくりさせてもらえば良いのではないでしょうか、コーンウェイ様」

「そうだな、折角だから旧友との親交を温め直しておくとしようか。イレーヌもここの侍従と仲良くなったのだろう?一緒にお茶でもしてくれば良い」

「そうさせていただきます」

 二人は二人でなんだかんだとこの視察を楽しんでいる。


「へえ、ここが冒険者協会か」

 クリストフに、普段はどんな所を見ているのかと聞かれたトリシアンナは、とりあえずこの場所を挙げた。

 一日目に回っていない場所で他に行く所といえば、素材の換金用の毛皮店だとか、宝飾店、女性用の衣料を扱っている店や小物を扱っている雑貨店になってしまう。

 男性であるクリストフがそんな所をみて面白いと思うわけがないので、消去法でここへと訪れたのである。

「王都にも大きな冒険者協会があると聞きましたが、クリスはそこを見たことがないのですか?」

「ああ。そもそも冒険者自体が王族と殆ど繋がりがないものだからね。護衛は騎士団から出すし、必要なものがあれば役人や使用人が手に入れてくるから」

 当然だろう。最強の武装集団を抱える王城が、下々にお願いをすることなど何もないのである。

「確かにそうですね。私達は王都に移動する時の護衛を冒険者の方にお願いすることもありますが、城にはシャーリーンさんみたいな方が一杯いらっしゃいますからね」

 ラディアスは別格にしても、それと互角か優位にやり合う騎士団長がいる。

 シャーリーンにしても相当の実力者であることは、あの重たい甲冑を着て平然と砂浜を走り回っていた事を見ても明らかだ。

「入ってみますか?柄の悪い方も居ますが、結構面白いですよ」

「入ろう入ろう。どんな風になっているのか見てみたい」

 二人で仲良く手を繋いで、むさ苦しい男どもひしめく中へと入っていった。

「へえ、まるで酒場みたいだね。テーブルが沢山あるよ。奥のカウンターで注文するのかな」

 クリストフは物珍しそうにきょろきょろと見回している。

「奥のカウンターは登録してある冒険者が依頼の受付をするところですね。お酒なんかの注文は、あっちの小さなバーカウンターです」

 部屋の隅でガタイの良いバーテンダーがグラスを拭いている。

「僕らでも注文できるのかな?」

「できるでしょうけど、今はやめておいたほうが良いですね。子供が二人だとどうしても目立ってしまいますから」

「それもそうか」

 トリシアンナはクリストフを連れて、例の壁のような掲示板の前にやってくる。

「すごいな、冒険者への依頼ってこんなに沢山あるのか」

 最初に自分が姉と一緒に来た時と同じ様な反応をしている。懐かしくなってつい笑ってしまった。

「依頼はこれだけじゃなくて、冒険者登録してある人はさっきのカウンターで独自に受けられるのもあるそうですよ」

「へぇー、まだあるのか。困っている人ってこんなに沢山いるんだなぁ」

 その反応までトリシアンナと全く同じだ。

 二人で仲良く依頼の内容を眺めては会話の種にしている。

「討伐や護衛だけじゃなくて雑用みたいなのもあるんだね」

「人が足りない所って結構ありますからね。常に人を雇うとずっと賃金を払わなければいけないので、忙しい時期だけ募集するみたいです」

 農地の収穫作業などが良い例だろう。駆け出しの冒険者にはありがたい収入源にもなっている。

 あれこれ話をしながら壁を眺めていると、不意に後ろから声を掛けられた。

「なんだなんだ?子供が女連れで依頼の物色か?」

「全く、駆け出しのくせに生意気なんだよ」

 どこかで聞いたことのある声だ。

「ほら、女連れのガキは帰れ帰れ。熟練冒険者様のお通りだぞ」

 振り返ってみると、逆毛とポニーテールの男二人。

「あら。ケヴィンさんとロバートさんではありませんか。御機嫌よう。階梯は3から上がりましたか?」

 振り返ったトリシアンナの顔を見て、二人は青くなった。

「く、くそつよ大食い貴族!?なんでここに!?」

 失礼なケヴィンの言葉に唇を尖らせながら言い返す。

「私はサンコスタの産まれなのです。ここにいてはいけませんか?別に見ているだけなら自由でしょう?またお姉様……紅蓮の魔女を呼びますよ」

 その言葉に震え上がった二人は、ごめんなさいと叫びながら協会を飛び出していった。

「全く、相変わらず失礼な方たちです」

「知り合いかい?」

 知り合いと言えば知り合いだ。何故か行く先々で出会うが、すぐに逃げていく。

「以前、テルマエシタで知り合ったのです。確か夏にも浜で見かけましたが、すぐに逃げて行かれるので。そういえば最初に会った時以外はあまり話をしていませんね」

「へぇ、なんだか無礼な人達だね。まぁ、冒険者には色んな人がいるって聞いてたから驚かないけど」

「クリスはあまり関わらないほうが良いかもしれません」

 再び壁に向き直ったが、先程の騒動で人目を引いたのか、また二人知り合いがやってきた。

「トリシア!久しぶりじゃない。最近見なかったけど、元気にしてた?」

「エマさん、ジョルジュさん。済みません、冬は兄について行っていましたので」

「そうなんだ。また温泉入ってきた?」

「はい!ちょっと赤い……その、あれが来てしまったので楽しみは半減しましたが」

「あぁ、トリシアにももう来たのねぇ」

 久しぶりの彼女と抱擁を交わす。

「冬には行けなくてすみませんでした、お嬢様。どうにも立て込んでいまして」

 ジョルジュが申し訳無さそうに言う。

「仕方がありませんよ。冒険者の皆さんにもご都合があるでしょうし」

 親しげに二人と話していると、クリストフが戸惑っているのに気がついた。

「あっ、ごめんなさいクリス。こちらは王都への護衛で良くお世話になっている冒険者のご夫婦です」

「そうなんですか。こんにちは、初めまして。トリシアの……友人のクリスと申します」

「初めまして。ジョルジュです。お嬢様のご友人という事は、高貴な方ですね」

 ジョルジュが握手を交わす。高貴といえば高貴だ。もう、てっぺんにいるぐらい。

「エマヌエーレよ。お会い出来て光栄です、クリスさん」

 エマもそれなりの礼儀をもって挨拶をしている。

 その直後、ぐいと引き寄せられて耳元で囁かれた。

「ちょっと、トリシア。彼が前言ってたお相手?あなたのを吸ったとかいう」

 なんで覚えているのか。いや、そりゃあ覚えているだろう。

 そんなインパクトのある話題なんてそうそうないのだろうし。

「ああ、いえ。まぁ、そうなんですけれど、それにはちょっと誤解がありまして」

「いいじゃない!可愛いし育ちも良さそうだし、お買い得物件じゃないのよ」

 そんなレベルではない。寧ろ買えないものなのだ。

「いえ、ちょっとその、彼は……」

「今日はデート?サンコスタにまで来てくれたんだ」

「はぁ、まぁ……今はうちに滞在していまして」

 言って、しまったと思った。

「トリシアの家に泊まってるってこと?もうそんな仲に……って、今、サンコスタの領主の邸に?……く、クリスってまさか」

 気付かれた。この段階の冒険者ともなれば、様々な方面から情報が入ってくるのだ。

「ジョ、ジョルジュ!ちょっと!」

 親しげにクリストフと会話していた夫を強引に引き寄せる。完全にバレてしまった。

 夫に耳打ちしているエマヌエーレを見て、少し寂しい気分になる。

 迂闊に口を滑らせたせいで気安く話せなくなってしまった。

「気付かれちゃったみたいだね。まぁ、しょうがないけど」

 クリストフも残念そうだ。今まで彼はこのような経験を幾度もしてきたのだろう。

「ごめんね、トリシア。すぐに気付かなくって」

 エマが申し訳無さそうに謝ってきた。

 寧ろ隠していたのだ。気付かせてしまったのはこちらの落ち度であるのだが。

「済みません、隠しておくつもりだったのですが」

「いえ、お忍びなんでしょう?私達は静かにしておくわね。……それにしても、トリシア」

 頬をむにぃと両手で挟まれた。小声で囁かれる。

「あの頃に既に王太子殿下をモノにしてたってこと?恐ろしい子ね、あなた。悪女になるっていう見立ては間違ってなかったわ」

「えぇぇ……それは違いますよエマさん、彼は」

「彼、彼だって。あーもう。お幸せにとしか言えないわ。それじゃ、またね。貴女の幸せを祈ってるから」

 二人は非常に丁寧にお辞儀をして去っていった。中々この世界の理不尽さというのは、一般的には理解されないものだ。

「やっぱり冒険者にも色んな人がいるんだね。礼儀を弁えている人だってちゃんといるじゃないか」

「……そうですね」

 果たしてそれは幸福な事なのだろうか。

「そろそろ行きましょうか、クリス。余っている依頼があれば一緒にやってみようかとも思ったのですが、今は人が余っているみたいですし」

 春はそこまで冒険者が忙しい時期というわけではないようだ。

 どれもこれも、待っていればすぐに人の付きそうなものばかりだった。

「そうだね。目新しいものも見れたし、楽しかったよ。ありがとう、トリシア」

 クリストフが楽しめたのであれば良かったのか、と思いつつ、次にどこへ行こうかと頭を悩ませるのだった。


「はぁ、はぁ……暫く見ないと思っていたのに、なんでここにいるんだよクソッ!」

「紅蓮の魔女の身内とは思わなかったな。恐ろしい……依頼を求めてまたここに来たのが間違いだった」

 ケヴィンとロバートの二人は、命からがらサンコスタ冒険者協会から逃げ出して来た。

「しかし、踏んだり蹴ったりだな。サドカンナでもロクな依頼がなかったからこっちに来たのに」

「あぁ……ここなら割の良いのが沢山あると思ったんだが……ん?おい、ケヴィン、あれ」

「あんだよ……おっ」

 協会の入り口を出たこちらを熱い視線で見つめている二人の女性がいる。

 二人共なかなかの美人だ。一人は何故か侍従服に身を包んでいるが、もう一人は眩いばかりの甲冑を纏っている。かなり高位の冒険者だろう。

 凛々しい顔をした二人はどうみてもこちらを凝視しているように見える。つまり、脈アリだ。

「なんだよ、良い事もあるじゃねえか」

「あぁ……早速誘おうぜ」

 二人は自信を取り戻し、向かいの建物でこちらを見ていた二人に近づいていった。


「今の所問題はなさそうですね。まぁ、お嬢様がいるので当然ですが」

 二人の入っていった冒険者協会の入り口を見張りながら、騎士と元忍びは小さな声で会話をしていた。

「このような猥雑な場所に入られるとは。殿下にも困ったものだな」

 眉間に皺を寄せるシャーリーンは、元々貴族の出なのである。

 すぐに騎士団に入った身ともなれば、冒険者協会になど入ったこともなければ近寄ることも無かった。

「おや、あれはエマヌエーレ様にジョルジュ様」

 トリシアンナの大切な知り合いが協会から出てきた。

 何故かエマヌエーレがジョルジュを叱っているようだが、あの二人は大体あのようなものなので、今更目を引くようなものではない。

「知り合いか?中々強そうだが。一度手合わせしてみたいな」

「脳筋もほどほどになさいませ」

 あの二人が同時であれば、この騎士とも割と良い勝負をするかもしれない。

 しかし、今二人にとって重要なのは王太子殿下とメディソン家の末子なのである。

 只管出入り口を凝視する。

 エマヌエーレ達が出てくる前から入り口にとどまっていた二人が、何故かこちらの視線に気づいた。

「なんだ?あの二人は。見るからに弱そうだが」

「気にする程の存在ではないでしょう。放置しましょう」

 二人は気にせず見張りを続けている。

 男たちは何故か笑顔でこちらに近づいてきた。

「やあ、素敵なお嬢様方。我々に何か御用でしょうか?」

「宜しければお茶でもご一緒しましょうか」

 何を勘違いしたのか、男二人はナズナ達に近寄って来た。

「失せろ。雑魚に用などない」

「今は忙しいもので。申し訳ありませんがお引取りくださいませ」

 鼻にもかけない。

「そんなぁ、さっきから僕らの事を見ていたじゃありませんか」

 ポニーテールの男が馴れ馴れしくナズナに触れた。

「俺等、結構強いんですよ。お姉さん、階梯いくつですか?」

 白銀の甲冑を冒険者と勘違いしたのか、逆毛がシャーリーンに話しかける。

「別にあなた方の事を見ていたわけではありません」

「私は冒険者ではない」

 鬱陶しい二人に、侍従と騎士の怒りが増す。だが、その感情に二人は気が付かない。

「またまた、そんな。いい店を知ってるんですよ、どうですか?」

「その鎧いいっすね!この街で買ったんですか?教えてほしいなぁ」

 そこまで言った所で、二人の身体は宙に舞った。

 常人には見えない速度で背後の建物の裏側まで吹き飛ばされて、二人同時に意識を途絶えさせた。

「なんなんだ、あいつら」

「さぁ?あっ、お嬢様方が出てきました。追いましょう」

 仲睦まじい空気を醸し出している二人は、港通りの方へと歩いていく。

 彼らの安全を守るために、二人のストーカーも後を追いかけるのだった。


「クリスは珍しいものが見たいのですよね?」

 トリシアンナの悪戯心が疼く。

「そうだね。出来れば王都では絶対に見ることの出来ないようなものがあれば」

「それなら、とっておきのものがありますよ!お昼ごはんに見せてあげます!」

 クリストフの手を取って、冒険者協会を後にする。

 手を取られた王太子は、その事実だけで顔をだらしなく綻ばせていた。

 時刻は昼を少し回ったところ。二人は港通りの市場へとやってきていた。

「市場かい?初日にも来たけれど」

 再度の訪問に、クリストフは怪訝な表情を見せている、

「市場には沢山の食材があるのです。今日はそれをお見せしますね」

 邪悪に笑ったトリシアンナは、いつもの禿頭の親父の所へとやってきた。

「おじさん、いつものはありますか?それと、何か珍しいものがあれば欲しいのですけれど」

「おや、お嬢様。ええ、アレはとってありますよ。珍しいものですか……あぁ、そういやメルーサがありますよ。あと、この時期には珍しいオーストリカも」

「いいですね!メルーサにオーストリカ、それとアレも、全部包んで下さいますか?オーストリカはどれほど?」

「大きいのが4つですね。食いごたえ、ありますよ」

「わあ、楽しみです。おいくらでしょうか?」

 トリシアンナは大喜びで、クリストフには分からない海産物の名前を連呼している。

「ねえ、トリシア。メルーサにオーストリカって、何?それに、アレって、以前言ってたものかい?」

「クリス。お楽しみは食べる時に取っておきましょう。大丈夫、どれもとっても美味しいものですから!」

「そ、そう?楽しみにしているね」

 姿の見えないものをトリシアンナは紙袋に入れてもらうと、代金の4シルバを払った。

 大きなオーストリカはこの時期には珍しいので、比較的値の張るものなのだ。

 受け取った紙袋を大事に抱えて、市場の奥へとずんずんと進んでいく。

「この先の通りに、持ち込んだ海産物を料理してくれるお店があるのです。そこへ行きましょう!」

 何もかもが王太子であるクリストフには初めてのものだ。

 視察以上に新しい体験を求めて、二人は庶民の街を進んでいく。


「ここです!」

 けばけばしい看板を掲げている、地下の店の前でトリシアンナは立ち止まった。

「ここは……酒場かい?今は昼間だけど」

「昼間は定食屋として開けているんです。まぁ、知らない人が多いのであまり流行ってはいませんが」

 ベルのついた扉を開いて、薄暗い店内へと入り込む。

「いらっしゃーい。あら?トリシアンナちゃん?久しぶりねぇ」

「こんにちは、モニカさん。持ち込みでお願いしたいのですけれど」

「はいはい、任せて。アレ以外なら何でもできるわよ。……そちらの彼は?」

 妖艶なドレスに身を包んだ女性が二人を迎える。

「あ、あの」

「彼は私の友人でクリスと言います。珍しいものを食べたいというものですから」

 トリシアンナが機先を制してモニカに告げる。

「そう?アレを食べたいって、相当変わってるわね。まぁいいわ、厨房使う?」

「はい、宜しくお願いします」

 昼にアレを食べたい時は、トリシアンナはいつもこの店を使っていた。

 基本的にあまり広めたい事ではないし、兄も利用するこの店は何故か居心地が良いというのもある。ただ、店番の彼女の格好だけが問題ではあるのだが。

「クリス、買ってきたものをお見せします、こちらへ」

 調理台もあるパントリーの前のカウンターへと、クリストフを誘う。

 紙袋の中からざらりとそれらを調理台へと出して見せた。

「うっ……こ、これは……」

 名状し難き存在が目の前に並んでいる。

 一つは、顎が大きく細長い身体をした醜い魚。深海魚なのか、瞳が凄まじく大きい。

 4つ並んでいるのは貝のようではあるが、固く閉ざされたその表は真っ黒でゴツゴツしている。迂闊に触れば手が切れてしまいそうだ。何より大人の手のひらよりも大きい。

 最後に残ったそれは……。

「これは、く、クラーケンではないか?トリシア……」

「はい、クラーケンの子供です。とっても美味しいですよ!」

 見るも悍ましい10本足の悪魔。その形をただ縮小されただけのものが、焦点の合わぬ不気味な瞳をぎょろぎょろとさせている。

 クリストフは思わず後ろ向きに仰け反った。

「こ、これらは食べられるものなのかい?」

「もちろんです。でなければ持ってきませんよ」

 言ってトリシアンナは手早く調理の準備に移る。

「モニカさん、メルーサはフライでお願いします。オーストリカも半分はそれで。残りの半分は直火でお願いしますね」

「はいはーい。お任せあれ」

 モニカと呼ばれた店主らしき女性は、受け取った魚と貝を手に厨房へと向かっていく。

 その後姿に、クリストフはまた驚いた。

「クリス。あまり見ないように」

「……はい」

 大きく開いた背中は尻が半分まで見えるほどに露出していた。

 男の性として惹きつけられたクリストフはしかし、最愛のトリシアンナに釘を刺されて背筋を伸ばす。

「お尻よりも、こちらを見て下さい」

 言われてクリストフは、トリシアンナの胸に目をやる。

「そっちじゃありません!こちらです!」

 トリシアンナの胸とは違う、まな板の上には例のクラーケンが蠢いている。

 生きたまま連れて来られたのか、魔物は恨めしそうにこちらを見ているような気がする。

 トリシアンナは躊躇なくその脚が生えている所の付け根にナイフを突き刺した。

「うっ!」

 クリストフは思わず目を逸らす。

「ちゃんと見てください、クリス。生き物を殺すとはこういう事です」

 真っ白になったクラーケンの子供を手際よく捌いていくトリシアンナ。

 流れるような動きにクリストフは思わず魅了されていた。

「トリシアは、魔物を狩っているって言ったね」

「そうですよ。狩ったら、素材を取るために解体します。食べるためにも」

 クリストフは、今まで口にしてきたものが生き物の死骸であることは知っていた。

 しかし、それが今まで生きていたものだという事を認識した事は一度もなかった。

「街と農場の視察だけでは分からなかった。そうか」

 自分たちは生き物を殺してその死骸を喰らって生きている。

 農場で見た植物だって、突き詰めれば生きている存在なのだ。

 そういった犠牲の上に我々は成り立っている。

「出来ました。私もよく食べる、クラーケンの子供の造りです。お腹を壊したりはしませんので安心して下さい」

 虫の確認はきちんとしてあるし、鮮度も良好だ。

「はーい、お待たせしましたぁ。メルーサのフライとオーストリカのフライ2つ。あとは焼きオーストリカが2つね」

「ありがとうございます、モニカさん。クリス、テーブルに移動しましょう」

 カウンター近くのテーブルに座り、目の前に料理が並べられる。

 先程の見た目からは想像出来ない、茶色い衣を纏ったメルーサのフライ。

 オーストリカは2つが同じ様な衣に包まれて揚げられており、のこりの2つは殻が開いてそのままの状態で火が通っている。

 そして、トリシアンナの捌いたクラーケン。

「王都ではオーストリカは食べられませんよね。冷凍すると味が落ちますし、鮮度が命なので。鮮度が落ちたものを食べると危ないです。すごくお腹が痛くなってしまうので」

「あ、あぁ……見たことも口にしたこともないな」

 目の前に並んだ元異形の存在を見て、クリストフは若干引き気味になっている。

「こっちの美味しそうな香りを立てているのがあの気持ち悪い魚のメルーサです。まずはこちらが抵抗がないと思うので、食べてみて下さい。柑橘のソースか、ビーンズソースが合いますよ」

「そ、そうだな。うん、見た目は凄く美味しそうだ。」

 きつね色になったフライは元の形状を全く留めておらず、食べるには抵抗がない。

 クリストフは添えられていたソースを付けると、恐る恐る口に運んだ。

「これは……美味いな」

 さくりとした揚げ物特有の歯ごたえ。中の魚肉はまるで臭みを感じさせない白身で、ほろほろと口の中で解けていく。

 噛みしめるとぎゅっと濃い旨味を吐き出して、元の姿からは想像も出来ないような上品な味わいだ。

 勧められた柑橘のソースにも、東方のビーンズソースにも良く合い、それぞれの特色ある酸味や塩味と絶妙に絡み合って見事なハーモニーを奏でている。

「メルーサとはこんなに美味しいものなのか……見た目では判断出来ぬものだな」

 二人でメルーサのフライを食べ尽くして息を吐く。

「そうでしょう?そして、見た目で判断できないというのは残りの2つも同じです」

 残ったうち、貝が二種類、魔物が一種類。

 クリストフは先程のメルーサのフライに似た形の、オーストリカのフライに手を出した。

「っ、熱ッ!」

 噛み切った瞬間に、中に含まれていた熱が口の中を焼く。

「ふふ、急いで食べると火傷しますよ。でも、美味しいでしょう?」

 噛みしめると溢れ出す旨味の汁。他の貝では絶対に味わえないような濃厚な旨味。

 衣と油で閉じ込められて熱されたそれが、口に入れるとその力を開放して暴走する。

「こんなに味が濃いものなのか!?ソースも何もつけていないのに」

 濃縮された旨味が一気にほとばしる快感が堪らない。

「冬にはもう少し沢山出回るので、冬にこちらに来た時は沢山食べられますよ。ただ、あんまり沢山食べると運が悪いと中たります」

「ああ、これは沢山食べたくなるだろうな……中っても後悔しないぐらいには」

「焼いただけの方も食べますか?見た目は少々気持ち悪いですが」

 皿の上に、貝殻を開いた状態のままのものが乗せられている。

 焼いた後にビーンズソースを垂らしたのか、香ばしい香りが食欲をそそる。

 しかし、その形状は……。

「な、なんというかその……いや」

 男性の睾丸に似ている、とは流石にクリストフも口には出せなかった。

「見た目は気持ち悪いですよね。でも、美味しいですよ!」

 トリシアンナが殻ごと持ってつるりとそれを飲み込む様を見て、クリストフはうっと唸って俯向きになった。

「なんですか、クリス。これは別にあなたのアレではないですよ?」

 分かっていて言っているのだ。

「トリシア……僕の知っている君はもう少し慎み深い人だったように思う」

「幻想というのは儚いものですねえ」

 まるで気にした様子はない。

 クリストフも恐る恐るそれを口に含んで咀嚼した。

 先程よりも圧倒的に濃い海の味。

 濃厚すぎてむせ返りそうだ。

「こ、これは……いや、癖は強いが癖になりそう、というなんとも」

 僅かに垂らされたビーンズソースの焦げた香りと、あまりにも濃厚過ぎる海の味が混然となって脳が混乱する。圧倒的な味の海。

「あっはは、最初にそれ食べた人はみんなそう言うねぇ。美味しいでしょ?で、冬に来たら次からそればっかり注文するのよ」

 ここでも売れ筋の商品なのだ。それほどまでに海辺の街でのオーストリカは美味い。

「生でも実は食べられます。ですが、もっと美味しいんですけれど中たる確率も上がるので、海で働く人しかあまり食べません」

「これよりもっと美味しいのかい!?中たるのは怖いけど、一度食べてみたいな……」

 しかし、王太子に中たりそうなものを食べさせて腹を壊せば、それはそれで大問題になってしまう。

「クリスは我慢しないといけませんね。周りの人がてんやわんやになってしまうので」

「そうだね……残念だ」

 流石に周りを巻き込んでしまっては申し訳が立たないと、クリストフは肩を落とす。

「でも、大丈夫です。生で食べても大丈夫な食材は海に沢山ありますので。私のお勧めがこれです。クラーケンの子供の造り」

 真っ白に透き通った美しい短冊形のもの。見るからに生である。

「こ、これ……さっきのクラーケンだよね」

「そうです。クリスも見ていたでしょう。」

 流れるようにこの形状へと切り刻むその過程を、確かにクリストフも見ていた。

「本当に大丈夫なのかい?食べたというのは聞いたことがないのだけど」

「私は食べました。というか、手に入れば毎回食べています。生だけではなく、火で炙って塩を振っただけでも美味しいし、先程のもののようにフライにしても良いです。ビーンズソースでじっくり煮込めば味が染み込んで柔らかな食感が楽しめますし、野菜と一緒に煮込めばその旨味が溶け出して、野菜も素晴らしく美味しくなるのです」

 早口でその素晴らしさを説明するトリシアンナ。しかし、モノはクラーケンなのだ。

「うん、トリシアがそこまで言うのなら食べてみようかな」

「どうぞ。ビーンズソースと、少量のホースラディッシュと一緒に食べてみて下さい」

 言われたとおりに細かく刻まれたホースラディッシュを乗せ、ビーンズソースを少し付けて口に運んだ。

「!?」

 コリコリとした歯ごたえを押し切って噛みしめると、じわりと溶け出してくる甘み。

 ビーンズソースの独特な香気と塩気、そして後から来るホースラディッシュのツンと来る辛味。

「なんだこれは。初めて食べる味だぞ」

「そりゃあ、全部が全部初めてでしょう?特にクラーケンの子供は」

 塩気に合う、染み出してくる甘さを感じているうちに口の中から消えてしまう。

 次から次へと食べたくなってしまう。

「気に入ってくれたようで良かったです」

 夢中で食べるクリストフに、自らの空腹も忘れてトリシアンナは微笑むのだった。


「おい侍従。お前の主人は殿下を酒場に連れ込んだぞ」

 白銀の騎士は市場の中で売っていたホタテの串焼きを頬張りながら言った。

「あそこは昼間は定食屋です。人聞きの悪い事を言わないで下さい」

 市場で買い物をした二人は、それを食べるために店へ持ち込んだのだろう。

「今のところ大きな問題はなさそうですね。しかし逢瀬はまだこれからです。間違いが起こらないように見守っていなければ」

 時間はまだ昼を回って少し経った程度だ。

 普段であれば沢山昼食を摂ったナズナの主は、紅茶か珈琲を片手に焼菓子などを貪っている時間帯である。

「市場では何を買っていたのだ?あまり殿下に変なものを食べさせられても困るぞ」

「変なものといえば変なものです。ただ、食べても問題はありません」

「何?具体的にその変なものとは何だ」

 先程から騎士がうるさい。

「イカです。お嬢様は時々そう仰られていました」

「イカ?なんだそりゃ?」

 ホタテを飲み込んで串を折り、近くにあった屑入れに捨てる。

「海に棲む魔物の子供です。10本足の」

 騎士は固まった。

「クラーケンの子供だと?そんなもの、食べて大丈夫なのか?

「私も最初はそう思いました。しかし、お嬢様は大変美味しそうにそれを召し上がられます」

「美味いのか……」

 彼女に影響されてか、姉のディアンナや父親のヴィエリオまでもが時々所望する事がある。

「私も一度食べましたが、中々の美味でした。ただ、殆ど海で捨てているらしく、普通は滅多に売っているものではありません」

「そうなのか。一度食べてみたいものだ」

 意外とこの騎士はそこまでの忌避感は無いらしい。元騎士のラディアスなどは絶対に口にしようとはしないが。

「それより従者、お前は昼を食べなくて大丈夫なのか?」

「忍びは二、三日食べなくても問題ありませんので」

「そんなんだから胸がそんなんなんじゃないのか?」

 ナズナは騎士の手首を取って捻るようにして投げた。

「何だ?やるのか?面白い」

 受け身を取って転がり、すぐさま立ち上がった騎士が腰に手をやる。

「今のは謂れなき誹謗中傷への抗議です」

「一応気にしてたのか。その……済まなかった」

「……謝らないで下さい。惨めになるので」

 甲冑のサイズを見る限り、この女騎士にはそこそこの大きさがあるように見受けられる。

 ナズナは感情を押し殺して酒場の出入口を再び見つめた。

 感情を殺す事には慣れている。


「驚いたよ、世の中には色んな食べ物があるんだな。どれも城では口にしたこと無いものばかりだった」

 金を払って店を出た後、二日前にも歩いた道を往きながら二人は会話している。

「そういうものばかりを選びましたからね。王族に供するとなるとどうしても無難なものになりがちですから」

 変わったものを食べさせて中たりでもしたら事だろう。調理した者の首が飛んでしまう。

「これからどうしようか」

「姉の所に行こうかとも思ったのですが……最近は忙しいようなので、いきなり押し掛けると困るでしょうし。どうしましょうか」

 トリシアンナの大きな目的は達成されてしまったので他にやる事は特に無い。

 姉の所も、突然王太子殿下がお越しになっては大騒ぎになるだろう。

 大商会は忙しいのである。

 可能であればもっとしっかりとお昼ごはんを食べたかったのだが、クリストフは満足しているようなので、自分だけ食事をするのも具合が悪い。

「こういう時、市井の男女とは一体どのようにするものなんだろうか」

「さぁ……そうですね、一緒にお買い物をしたり、お茶したりとかでしょうか」

 トリシアンナも初めての事なのであまり勝手が分からない。

 クリストフ以外に、身近に年の近い男性などいないのだ。

「それでは、どこかでお茶でもしながらゆっくりと考えよう。トリシアも、あれでは少し食べ足りないんじゃないか?」

「気づいていたんですか」

 よく食べる子だと思われてはいただろうが、気にしてくれているとは思わなかった。

「そりゃあね。いつもは僕の倍ぐらい食べるじゃないか」

 クリストフも育ち盛り故、良く食べる方だ。だが、その彼が驚く程の量をこの娘は食べるのである。

「あまり言わないで下さい。少し恥ずかしいです」

 あまり面と向かって言われれると、流石に恥ずかしい。

 食い意地の張った人間だと思われてしまうのはどうにも座りが悪い。

「どうしてだい?いいじゃないか、健康的で。別に太るわけでもないんだし」

「はぁ、それはそうなんですが」

 悪気が全くないので怒る気にもなれない。

「それじゃ、どこかに入ろうか。トリシア、いい店を知らないかい?」

「それでは、大通りをもう少し行った先に良い店がありますよ。二階がガラス張りになっていて、窓際の席から港が良く見えるんです」

「それじゃあそこにしようか」

 自然と二人は手を繋いで大通りを歩く。

 傍から見れば仲の良い兄妹にも見えるかもしれない。

 まさかこの国の王太子が、街中を領主の娘と二人きりで歩いているなど、考えもしないのだから。


 ナズナとシャーリーンが自分たちを尾行している事には、大分早い時間から気づいていた。

 正確に言えば街に入った瞬間からである。

 悪意を持った人間がいてはいけないと思い、気配を探ってみれば視慣れた色。

 大体、白銀の騎士と侍従などという目立つ組み合わせは尾行に向いていないのだ。

 兎に角目立つ。通行人が振り返るぐらいには奇妙な組み合わせなのだ。

 というかあの騎士は、何故街中でも邸の中でも甲冑を身に纏っているのだろうか。

 あんなにずっと着たきりでは、中が臭くなってしまうのではないかと無駄な心配までしてしまう。

 二階の窓際の席で大通りを眺めてみれば、案の定、道の向こう側に入り口を見張る二人の姿がある。

 尾行対象に気付かれた上、丸見えな姿を見られているのに気付かないというのは、間抜けな事この上ない。

「あれ?シャーリーンとナズナさん?二人で何してるんだろう」

「ああ、クリス。二人は私達が心配で付いて来ていたのです。街の入口からずっと」

「ええっ?そうなの?全然気が付かなかったよ」

 まぁ、後ろを振り向いたりしなければ気付かないのは気付かないだろう。

「大丈夫なのにな。随分と心配性な事だ」

「クリス、あなたは王太子でしょう?当然ではないですか」

 この王太子の感覚も少しおかしい。自分が最重要警護対象だと認識していないのだ。

「ひょっとして、普段からあまり城の外に出ないのですか?」

 王城の中であれば危険は少ない。それに慣れてしまっているのかもしれない。

「そうだね、出る事の方が稀だよ。観劇の時とか、式典の時ぐらいかな」

 どちらも気付かなかったのだろうが、周囲をがっちりと騎士団が固めていた事だろう。王都は治安の良い場所ばかりではない。

「気を付けて下さいよ。王都もサンコスタも、良い人ばかりというわけではないのですから」

「トリシアも父上や母上と同じ様な事を言うんだな」

「ふふ、多分、みんなそう言うと思いますよ」

 少なくとも今この場であれば大丈夫だろう。

 自分の特殊な能力で危険は早めに察知できるし、いざとなれば騎士と忍びがすぐ側にいるのだ。

 運ばれてきた三段重ねのパンケーキを堪能しながら、次はどこに行こうかと楽しい相談を続けるのだった。


 散々悩んだ挙げ句、最後は武具店に入る事にした。

 王太子自身がこのような所に入る機会は絶対にないであろうし、騎士団や宮廷魔術師以外がどのような装備を使っているのかを知るのも良いだろうと思ったのである。

「あら?お兄様。お仕事ですか?」

「おう、殿下にトリシア。なんだ、今日はこんな所でデートか?」

 入ってすぐのカウンターの所で、ラディアスが武具の発注をしているところだった。

「他は粗方周りましたからね。お兄様は警備隊の装備を?」

「ああ。この春からまた人が増えたからな。新人だからって中古を渡すわけにもいかんだろ」

「人が増えると忙しくなって大変ですね。……ああ、今、表から出ないほうが良いですよ。あの二人が入口を見張っていますので」

 あの二人、と聞いてラディアスは眉間に皺を寄せた。

「なんで見張ってるんだよ……意味がわかんねえぞ」

「私達を警護してるんだと思いますよ。街の入口からずっと付いて来ているんです」

「そうなのか。参ったな、まだこれから戻って報告書を書かなきゃなんねえのに」

 二人にラディアスを会わせると、また面倒なことが起こりそうな気がする。

「裏口は無いんですか?」

 店員に聞くと、あるにはあるが従業員専用なのでラディアスでも通せないという。

 融通が利かないものだとは思うが、決まっていることで店員を責めても仕方がない。

「仕方がないよトリシア。僕たちは先に出よう。そうすれば二人は付いてくるだろう?」

 残念だがその方法しか無いようだ。

「すみません、クリス。兄のせいで」

「俺のせいなのか!?」

 煮えきらない兄のせいである事に間違いは無いだろう。

 已むを得ず入ったばかりの店を後にした。気配を探ってみれば、きちんと二人は付いて来ているようだ

「今日はもう戻るしかないか。武具店が見られなかったのは残念だけど、次の機会にするよ」

「そうですか、わかりました。そうですよね、今日を限りというわけではないのですから」

 既に街の入口で待っていた王家専用の馬車に乗り込む。

 ひょっとしてこの御者は、お昼を食べてからすぐにここに来たのだろうか。

 意外に大変な仕事なのだなと、トリシアンナは少し感心した。

 そして、その忠実な御者の座る後ろで不埒な行為に及んでしまったことも少し反省した。

「そういえばあの二人はどうやって邸まで帰るんだろう?」

 そこは疑問に思う所だろうか?

「どうやってって、多分走って。往きもそうだったでしょうね」

「ええっ!?この長い坂道を走って?」

 あれ?確か自分も昔はこうだったような。

 兄に走らされたことがトラウマとなって蘇る。

「……そうですよね、普通はそう思いますよね。ラディお兄様もナズナも、馬が無いときは普通に走って移動しているので感覚が麻痺していました」

 慣れとは恐ろしいものだ。非常識がいつの間にか当たり前になってしまっている。

「騎士であるシャーリーンやラディアス殿はわかるけど、ナズナさんもなのか。あんなに綺麗な人が。人は見た目によらないものだなぁ」

「騎士ですか……クリス、騎士ってみんなああなんですか?何かある度に鍛錬鍛錬って」

 最早依存症ではないだろうか。

「あぁ……みんなああだよ。暑苦しくてかなわない。今回は護衛が5人もついてきたけど、仕方なく一番マシそうなシャーリーンを近くに置いたんだ。けど、あれだからね」

「あれが5人……」

 あの兄のような存在が王城には百人近くいることにぞっとした。地獄ではないだろうか。

 そういえば、港を見て回っている時に甲冑姿で走っている人が居た気がする。あれか。

 単に伝令で走っているのかなと思っていたのだが、鍛錬だったに違いない。

「なんというか、大変そうですね」

「大変さ。僕も一応剣が使えるようにと騎士団に手ほどきを受けるんだけど、うるさいのなんの。『そう!そこです!殿下!いいですよ!キレてますよ!』って、僕が素振りをしている間ずうっと横で叫び続けるんだよ、信じられるかい?」

 地獄絵図だ。しかし想像すると思わず笑ってしまう。

「ふふふ……なんですかそれ。声援ですか?ふふ、おかしい」

「トリシアも一度やってみてくれないか。あの鬱陶しさは体験した者にしかわからないから」

「うちにはラディお兄様がいるので遠慮しておきますね。ふふっ……まだ兄のほうが静かだった事には驚きです」

 後でその兄に騎士団の様子を聞いてみても面白いかもしれない。楽しみが一つ増えた。

「しかし、今日で最後か。なんだかあっという間だったよ」

「三日間だけなのに色々ありましたね」

 人に言えないような事が沢山増えた。だが、楽しかったのは事実だ。

 明日になればクリストフは王都へと帰り、自分はいつもの日常へと戻るだろう。

 入れ違いでアンドアインも帰ってくるだろうし、サンコスタも夏までは落ち着いた雰囲気を取り戻すに違いない。

 季節は巡り、皆は歳を取る。時間は全ての者に公平に流れている。

 それはある意味平等に見えて、酷く残酷な事でもあるだろう。

 クリストフは王となる道を進み続けるしかないし、自分はそこに並ぶことはない。

 王道という道に、自由という言葉は一切無い。故に王道と言われるのだ。

 馬車の窓から射す陽の光に照らされた横顔を眺める。

 整った顔立ちがどこか寂しそうに見えるのは、トリシアンナの勘違いではないだろう。


「それじゃあ、また来るよ、トリシア」

「ええ、お待ちしています」

 翌朝、別れの時が来る。

 固く抱擁を交わし、名残惜しそうに手が離される。

「ラディ。次来る時まで首を洗って待っていろ。必ずお前と結婚してやるからな」

「まだ言ってんのかよ。はよ帰れ」

 あんまりにもあんまりな言い方をするラディアス。

「侍従も、次こそは決着をつけてやる」

「もう勝負はついていますから。わたくしの勝ちです」

 いつの間にかこの二人も変な意味で仲良くなっていた。

「お世話になりました、ヴィエリオ様。マリアンヌ様」

「またいつでもいらして下さいね、コーンウェイ殿」

 久方振りの再開だったのはこちらも同じだ。

 彼が来てくれたお陰で、二人の心労も大分軽減された事だろう。

 侍従のイレーヌも、他の侍従達との別れを惜しんでいるように見える。

 何やら書籍を手渡しているようだが、餞別という事だろうか。

 王族用の馬車と、街の前まで送り出すのはフランコの馬車。

 それぞれに分乗して彼らは王都への帰途についた。

「はぁ、疲れました。王族の相手というのは何とも大変なものですね」

「お疲れ様、トリシア。王太子殿下も楽しんで頂けたようだし、良く頑張ってくれたわね」

 母が労いの言葉をかける。

「そうだな。正直な所、随分とお前には助けられた。良くやってくれた。何かご褒美を用意せねばならんな」

 父も重荷から開放され、ほっとした様子でトリシアンナを慰撫した。

「本当ですか?いえ、貴族の娘として責務を果たしただけですので……」

 ご褒美に心を動かされるが、大変だったのは使用人含めた家族全員だ。自分だけ甘えるわけにはいかない。

「遠慮はしなくて良いぞ。欲しい物があるなら追々考えておきなさい。さあ、もう邸へ戻ろう。皆も良く頑張ってくれたな」

 ヴィエリオが使用人たちにも感謝の言葉を述べると、まだ肌寒い山沿いの風吹く外から暖かい邸の中へと戻るのであった。


「ご視察、如何でしたか」

 馬車の向かいに座る騎士が聞いてくる。

「得るものの多い視察であった。今後、各地も定期的に見回るとしよう。ただ、あまりぞろぞろと連れて歩くのは勘弁してほしいものだが」

「往きにも申し上げましたがそれは――」

「分かっている。それも必要な事だと彼女に諭された。感情的には許容し難いが、我慢する事にしよう」

 最も多くの知見を得られたのは彼女からだ。行く場所、見る場所、行動全てを経験して、今までとは違った物の見方が出来るようになった気がする。

「成長されましたね」

「ああ、そのように思う」

 今であれば反発する事なく受け入れられる。

 三日間、実に充実した日々だった。

 目を閉じれば彼女の眩い笑顔が脳裏に思い浮かぶ。

 舞うように歩き、案内する彼女。

 波打ち際で無邪気にはしゃぐ彼女。

 料理を幸せそうに口に運ぶ彼女。

 そして浴室で――

「っ!」

「どうされました?殿下」

「い、いや、何でもない」

 暫くはあの時の事を思い出して夜に眠れなくなりそうだ。

 心の隅々まで、彼女に支配されてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る