第12話 指輪

 王都から邸に帰ってきたその日の夕食の直後、トリシアンナはナズナと共に、姉のディアンナを連れて両親の部屋を訪れていた。

「暴走、ねぇ」

 ディアンナは話を聞くと、それだけ言って考え込んでいる。

 サドカンナ村からエストラルゴまでの間に、トリシアンナが突然単独で先行、周辺の魔物を鏖殺した件について、母と姉に相談している。

「兎も角、トリシア。異常が無いか診てみるわね。赤い月はもう収まったの?」

 マリアンヌが椅子に座っているトリシアンナの額に手を当てる。

「はい、恐らくは。今日も出ていませんので収まったのかと」

 体調も悪くなかった。

 母の温かい手から受け入れた構成が体内に満ちていく。

「これは。トリシア、あなた随分魔素量が増えているわ。魔力圧もすごく高い」

「やはり、そうですか」

 そうではないかとうっすら自覚はあった。しかし、体調そのものに異常は無い。

「身体がなんともないなら、これが貴女の器なんでしょうね。暴走した、というのは、急激に増えた魔素による精神の錯乱というところかしら」

 無難な診立てであり、恐らくはそれで間違いないだろう。

「魔物化」

「え?」

 唐突に口を開いたディアンナに、いや、その口から出た言葉に驚いて全員が聞き返す。

「どういう事かしら?ディアナ」

「あぁ、いや。これは単なる言い方の問題であって、別にトリシアが魔物になるとかそういうわけじゃないのよ」

 姉は慌てて修正する。

「現象の話ということでしょうか、ディアンナお嬢様」

 ナズナが勘付いて聞き直す。

「そう。急激に増加した魔素量と破壊衝動。旺盛な食欲は……まぁこれは単にトリシアの特徴だけど。以前、魔素が獣に及ぼす影響を調べてたんだけど、さっきのトリシアの話だとぴったり当てはまるよね」

 それは、増えた量が問題なのだろうか。それとも結果的に魔素量が増えるのだろうか。

「魔物化して魔素量が増えるのか、魔素量が増えた結果魔物化するのかはまだ分かってない。あるいは両方なのかも。卵と鶏、どっちの可能性もあるってこと」

「しかし、トリシアンナお嬢様は魔物だけを駆逐していましたが」

 野生の魔物は対象を選ばない。同種以外は全て餌で、邪魔をする障害物は破壊する。

「ええ、だから別にトリシアが魔物になっちゃうってわけじゃないの。人間が魔物化したって例は今までに無いし、そうなる可能性はほぼゼロだから。なんでかっていうと……これはちょっと長くて面倒くさい話になるから端折るけど、発達した脳が魔導抵抗を作り出していてそれを阻害するから、とでも言えば良いかな」

 獣には無い、言語や時間の認識といった、ヒト特有の器官。

「なんとなくわかりました、お姉様。そうですか、魔力を使った時に覚えたあの高揚感や開放感、快感は脳から分泌された物質によるものですね」

「よく分かってるじゃない。そう、急に魔素量が増えすぎて、何かのきっかけで一時的にその魔導抵抗がゆるくなっちゃったのね。つまり、人間より獣、魔物に近付いた瞬間があったってこと。快楽物質は獣も同じだからね」

 この世界では、脳の事はあまりよく分かっていない。

 外から観測される範囲の事しか知られておらず、姉のこの説はどちらかと言えば状況証拠による仮説に近いと言える。

 しかし、その見立ては恐らく間違ってはいないだろう。

「魔物の肥大化も成長ホルモンの影響でしょうね。そして魔素が肉体組成を作り変える」

「と、あたしが調べた分ではそういう仮説が成り立ちます。ってところ。まぁ魔素が増える原因ときっかけはもう対象それぞれだからパスね」

 根本的な理由は分かった。いや、原因はわからないし対処法もまだこれからなのだが。

「それでは、今後その状態にならないためにはどうすれば良いでしょうか」

 それが一番重要な事となる。何かがきっかけで突然高笑いを始めて魔物を殺し始める少女など、恐怖の対象でしかないだろう。

「そうね、魔素量が多すぎるのが問題なのだから、定期的に使うというのが基本的な対症療法かしら。あとは、赤い月の終わった少し後も気をつけたほうがいいわ」

 母の言葉を要約するとこうだ。適度に暴れなさい。

 なるほど、とナズナが頷いた。

「つまり、赤い月の後少したった旅の始まりの時期に、ずっと馬車に乗っていて動かなかったから症状が出た、という事ですか」

「難儀な話ですね。赤い月の時は動けない。その後は動かなければいけない」

 メリハリと言えば聞こえが良いが、自分の好きなペースで動けないというのは案外ストレスが溜まるものなのである。

「まぁ、慣れるわよ多分。どうせ邸にいるときは毎日鍛錬して、魔物も狩ったりするでしょ?別に使うだけでいいなら裏で上位魔術でもぶっ放せばいいのよ。私の研究にも役立つし」

「そういうものでしょうか」

「そういうものよ。あと、そうね」

 姉は思いついたように手を叩いた。

「あの剣、そろそろ使えるんじゃない?」


「あれも『バンディット』か。厄介な話だな」

 こちらは男三人が、領主の執務室で額を突き合わせていた。

「一体どうなってやがるんだ。あいつらは成功率こそ高いが滅多に動かない連中じゃなかったのかよ」

 ラディアスがボヤく。気持ちはアンドアインもヴィエリオにもよく分かる。

「情報源が増えたんだろう。構成員が増えて養わないといけなくなった、というような変化ではない」

「情報源ったってよ。そんなもん、あんなのにほいほい協力する連中なんてそういるわけねえだろ。罪状が積み重なりすぎて、捕まったら即、極刑なんだぞ」

「捕まらない自信があるのだろうな。それだけ情報源は大きい組織という事だ」

 確証は無い。推測だが、大きく外れてはいないだろう。

「『耳』のような組織が我々にもあればな。無いものねだりをしても仕方がないが」

 匹敵するのは東方諸島の忍び集団とか、南方諸島の『密林の狼』ぐらいだろう。

 王国のいち領主にしか過ぎない存在に、そんなものを育成して維持する力など無い。

「ラディ。盗掘の件はそういう事だ。カネサダ殿と共有しておいてくれ。他の隊長は兎も角、一般兵には言うなよ」

「わかってるって。言えるわけがねえよ」

 『バンディット』に街が狙われているなどという噂が巷間に流れれば、住民たちは動揺するだろう。物価にも影響が出てくるかもしれない。

「海の魔物化も含めて、暗い話題はこれぐらいです」

 次の話題も明るいとは言い切れないのだが。

「もう一つ、時期は未定ですが、恐らく今年中にクリストフ王太子殿下がこちらへ視察においでになります」

 ヴィエリオは渋い顔をした。

「トリシアに会いに、か?落ち着いたのではなかったのか」

「私が見る限り、大事にはならないでしょう。おおっぴらな求婚自体は諦めたように見えますし、トリシアも友人だと明言しています。多少……羽目をはずされても、ここでならどうにでもなるでしょう」

 王都や王城内部ならば兎も角、自分たちの領地であれば、情報を隠すことは然程難しい事ではない。

「はぁ、あのトリシアだからすぐに男が出来るだろうとは思ってたけど、まさか王太子殿下とはねえ」

「ラディ」

 息子の軽口にヴィエリオが睨む。

「滅多なことを言うな。王太子殿下はあの子の『友人』だ。我々の前でもそのような事を軽々しく口にするな」

 アンドアインは二人に呆れた。

 迂闊なことを口走った弟もそうだが、この父に至っては、可愛い末娘に男が出来たなどと絶対に認めたくないのだ。親馬鹿も過ぎれば少し見苦しい。

 恐らく、分別のついた二人はこのまま友人関係を維持する事になるだろう。

 怪しまれない程度に定期的にサンコスタを訪れ、視察という名目で街や港、海を見物されて帰る。当然その横にはトリシアンナもついて回るだろう。

 王太子殿下に他に意中の人が出来れば別だが、大人になればなるほど、その親密さは友人関係を超える可能性が高い。

 過ちだって発生する可能性がある。いや、おそらく必ずあるとアンドアインは見ている。

 表向きは友人として、それは変わらない。多少爛れた関係になろうと、表に出なければ構わないとこの若き領主は考えていた。

「トリシアの事はもういい。王太子殿下が視察を望まれるのならば、我々に否応は無い。お前はどうなのだ、アイン」

 話を振ってくるのは分かっていたので慌てる必要は無い。

「ベネディクト様にも言われました。早くしろと。とはいえ、こればかりは私の意思を尊重して下さい」

「だが、世継ぎは必要だ。養子を連れてくるにしろ、もうあまり時間は無いぞ」

 領主としての教育は、時間がかかるのだ。

 幼少期から貴族の考え方について学び、教養を蓄え、所作を覚える。

 貴族が基本的に親から子の家督継承制なのは、才の有る無しに関わらず、この時間のかかる教育を行うのに、貴族の子が最も適切だからである。

「その事ですが……私は、私の次の領主に、トリシアをと考えております」

「は?」「何?」

 ラディアスとヴィエリオが同時に声を上げる。

「正気か、アイン。あの子は女の子だぞ。女子は領主にはなれん」

「領主夫人としてなら問題ないでしょう。この場合、相手は家格さえあれば誰でも良い。なんならトリシア本人にあちこち回らせて選ばせても良いでしょう」

 形式上の領主さえ置いてしまえば、実務を夫人が執り行うのに何の問題もない。

「しかし……」

「今回の近況報告に連れて行って確信しました。あの子は間違いなく『貴族そのもの』です。人の本質を見る観察眼、難解な裏を含めた貴族同士の会話への理解度、そしてそれに対する適切な態度と対応。才能だけで言えば既に私を凌駕していると言っても良いでしょう」

 エスミオ領主達との会話で見せたあの間の取り方。自らの魅力を利用してあっという間に言葉の応酬をやめさせた。それもこちらが不利になりそうなタイミングを見計らって。

「私が伴侶を求めるとすれば、彼女のような人が居ればという事になります。しかし、それは決して望めないでしょう。あの才覚は不世出です」

 居れば問題はなかった。

 居ないのだ。そんな完璧な人間。しかも貴族の中になど。

「しかしな、アイン。私はあの子に自由に生きて欲しいのだ。お前やユニには無理を強いた。それはお前達にその才覚があり、それが貴族の責務だと思ったからだ。だが、末娘であるあの子は、あの子にだけは、この重荷を背負わせたくない」

 本心からの言葉だろう。親とはそういうものなのだ。

 アンドアインに子はいないが、自身とて一番下の妹は可愛い。出来るならば自由に生きてほしい。だが、貴族の責務は貴族全てに皆等しく降りかかるものなのだ。

「父上のお気持ちは分かりました。勿論、トリシア本人の希望を蔑ろにすることはありません。あの子が嫌だと言えば素直に引き下がり、養子を取ります。今の所はユニの所のラファエロを考えていますが」

「ユニ姉さんだって嫌がるんじゃないか」

「彼女なら理解してくれる。あれはそういう女だ」

 冷徹な考え方の出来る長女だからこそ、内心はどうあれ、協力してくれるだろう。

 トリシアンナの為だという事も考えれば、絶対に嫌とは言わないはずだ。あの長姉も、末妹の事を溺愛しているのだから。

「五年だ」

 ヴィエリオは口を開く。

「あの子にそれを告げるのは五年待て。それまでは私もお前に養子を取れとはもう言わん。ただ、伴侶探しは続けろ」

「承知しました」

 五年後となれば、アンドアインは33、トリシアンナは15だ。彼女のお相手を探すにも丁度良い頃合いだろう。

「但し、絶対に無理強いはするな。それだけは約束してくれ」

「無論です。私とてトリシアの事は大切に思っています。絶対に彼女の意思を尊重すると誓いましょう」

 養子をそこから探すとなれば、流石に少し遅いかもしれない。ラファエロに才が無かった場合、少し窮する事になる。

 だが、アンドアインはトリシアンナがこの誘いを断ることは絶対に無いと踏んでいた。

 あの子は聡い。貴族として自分の役割がそこにあると聞けば、喜んで家督を継ぐだろう。

 彼女の心が王太子殿下に向いていたとしても、躊躇なく他の男を夫として迎え入れる事も厭わない。それが貴族だからだ。

「なんかとんでもない話を聞いちまった気がするんだが、俺が聞いてても良かったんですか」

 ラディアスが戸惑っている。

「黙っていれば問題ないだろう。お前だって貴族なんだぞ、少しは自覚を持て」

「そりゃそうだけどさ。はぁ、まぁトリシアならなんでも上手くやるだろうけど」

 ”なんでも上手く出来すぎる”のだ。

 それこそ宮廷魔術師だって、騎士団だって、冒険者だってなんだって上手くやってしまうだろう。はっきり言って異常だ。

 政治的能力で父や自分に並び、あの剣を扱うようになれば、剣技ではいずれラディアスに追いつく。自らの身すら厭わぬ長期的視座はユニティアのそれで、特異な属性を扱う魔術の腕と理解力はディアンナ譲り。

 彼女こそメディソン家の全てを凝縮したような存在、メディソンオブメディソン。



「急に押しかけてすみません、ユニお姉様。今日はふたつほどお願いがあって来たのです」

 スパダ商会の裏、ユニティアとエドモンの家に、侍従のナズナと共にやってきている。

 周囲では甥のラファエロと姪のクラウディアが元気に走り回っており、珍しく休みの日なのか、エドモンがそれを追いかけている。

 目の前を通り過ぎようとしたクラウディアを捕まえて膝に乗せると、小さな姪はきゃあきゃあと騒ぎながら腕からすり抜けていった。

「そうなの。騒がしくてごめんなさいね、部屋を変える?」

「いいえ、大丈夫ですよ。そんなに込み入った話ではないので」

 逃げるラファエロがナズナの足を隠れ蓑にして、クラウディアからくるくると逃げ回っている。ふわふわとした侍従のスカートが気に入ったらしい。

 当のナズナは無表情を決め込んでいるが、歓喜の黄色と愛情の桃色が交互に出たり消えたりしている。

 このトリシアンナの専属侍従は、兎に角かわいらしいものが大好きなのだ。

 街の雑貨屋に入ればうさぎを模したマスコットにじっと魅入っており、街で散歩されている犬や窓辺で微睡んでいる猫を見るとこちらもじっと見つめて目を離さない。

 本人は元忍びという経歴のせいでそれを隠しているつもりなのだろうが、感情の視えるトリシアンナからすれば、もっと素直になれば良いのにといつも思ってしまうのである。

「ほらほら、ラファエロ、クラウディア。そんなに走り回ったらお姉様達がゆっくりとお話できないだろう。ほら、こっちに来なさい」

 疲れ果てた様子のエドモンは追う事を諦めたのか、二人が絡み合うナズナの方に手招きをした。

「ナズナ、少し二人の相手をしてあげて下さい。エドモンさん、すみませんお休みのところを押しかけて」

「いやいや、いつでも遊びに来てくれていいんだよ。二人も喜ぶからね」

 縁のない眼鏡をかけた見るからに優しそうなこの人は、次期スパダ商会当主のエドモンである。

 穏やかすぎる性格のためあまり商才には恵まれていないようだが、物腰が柔らかくて人当たりも良く、誰からも好かれる人柄の持ち主だ。

 普段は同じく穏やかながらも時に冷徹に判断を下す姉とは大変仲がよく、お互いの能力を補い合ってスパダ商会の実質を切り盛りしている。

 ナズナがスカートの下に潜り込んだラファエロを捕まえて抱き上げ、エドモンの方へと持ってきた。

 クラウディアはそれを追いかけてにこにことしながらついてきた。大変可愛らしい。

「それで、お願いって何かしら。また新しい服でも欲しくなったの?」

「い、いえ。服ではなく、工匠をご存知ないかと思いまして」

 また着せ替え人形にされては堪らない。

「工匠?街の武具店では物足りないの?」

「私のものではなく、ナズナの短剣が欲しいのです。武具店では殆ど量産品しか置いていないので」

 一番大きな王都の店にも殆どまともなものが無かったのだ。こうなればオーダーメイドで打ってもらう方がいいだろう。

「そう、そういえばナズナは元忍びだったわね。うーん、でも工匠ねぇ。サンコスタにも居るには居るんだけど、殆どの職人は錨だとか調理器具とかばっかり打ってるのよ」

 平和な街ではあまり凝った武器が必要とされない。治安が良いのは大変結構なことだとは思うが、売れないからと武具職人が居なくなるのも考えものだ。

「武器工を探しているのかい?一応、いるにはいるよ」

 両腕に双子を抱えたエドモンが戻って来た。

 隣ではナズナが盆に紅茶のカップを乗せて持ってきている。

「ここの少し北、奥まったところに昔取引してた武器工のお爺さんがいるんだ。ユニが嫁いでくる前に取引をやめちゃったから、知らないのも無理はないよ」

 大型武具店の量産品に押されて商売として成り立たなくなったという事だろう。

「今も造っておられるのですか?」

 ナズナの疑問はもっともだ。武器を打てなければ意味が無い。

「勿論だよ。うちや大きな武具店との取引はなくなったけど、個人店やオーダーメイドには対応してるからね。腕は確かだよ」

 それならば問題ないだろう。工房が動いているのならば、訪ねてみる価値はありそうだ。

「僕が紹介状を書いてあげるよ。多分邪険にはされないはずだ。あっ、こらこらラファエロ!これは君のお茶じゃないよ」

 ラファエロがトリシアンナのお茶に手を伸ばしている。火傷をしてはいけないので、すっと遠ざけた。

「ありがとうございます、エドモンさん。助かります」

「気にしないで良いよ。君たちも家族みたいなものだからね」

 家族。

 ここでも家族と言ってくれる人がいる。

「頼むわね、あなた。それで、トリシア。二件目のお話は?」

 こちらは切り出しにくい話なのだが。

「私というより、お兄様からのお願いなのですが……マルコがそろそろというお話はご存知ですよね」

「ええ、残念だけどもう歳だものね。新しい厨房の人を探していると」

「そうです。それで、ナズナから聞いたのですが、どうも海龍亭に新しい料理人が入ったと」

 実はジュリアも同じようなことを言っていたのだ。王都に出る前にちらりと聞いた。

「そうなの?あなた?」

 ラファエロに頬を引っ張られているエドモンが答える。

「あぁ、そういえばそんな報告があったかな。運営はあっちに任せているから詳しくは知らないけど」

 傘下とはいえ、独立した運営をしているのだ。詳しいことは分からなくても仕方がない。

「それでその、引き抜くつもりは全くないのですが、打診してみてはと。メディソン家の使用人の待遇で」

 より良い待遇をちらつかせて連れてくるというのを、一般的に引き抜くというのだ。

 故にこれは全く言い訳にならない。実はスパダ家に対しても物凄く失礼な事にあたる。

「ふぅん、まぁアインお兄様がそこまで言うのなら余程切迫しているのでしょう。貸しにはしておくわ。聞くだけ聞いておいてあげます」

「ごめんなさい、ユニお姉様。助かります」

 正直言ってあまりお願いしたくない事だったのだ。

 とはいえ、マルコももうかなりの歳だ。本気で後継者を見つけないと、今度はメディソン家全員が味気ない食事で過ごすことになってしまう。

「トリシアが謝る事じゃないのよ。これはこうなる前に人材を見つけられなかったお父様とお兄様が悪いのだから。はい、クラウディア、こっちよー」

 ユニティアは焼き菓子に手を伸ばしていたクラウディアを抱き上げると、慣れた調子で子供用の菓子を取り出して与えた。

 クラウディアは大喜びで薄い色の焼き菓子を頬張っている。涎が垂れているが非常にかわいらしい。

 ナズナを見るとこちらはぶるぶると震えていた。


「言われたのはこの辺りのはずですが」

 東区画のやや北東、あまり大きくない家の立ち並ぶ住宅地の合間を、ナズナと二人でうろついている。

「お嬢様、あれでは?」

 ナズナの指さした場所に、小さな工房らしき建物があった。

 周辺の家とあまり区別がつかないが、大きな煙突が突き出している。

 煙は出ていない為、今は仕事をしていないのだろう。扉を叩いて入ってみる事にした。

「御免下さい」

 ナズナが声をかけるも、店内と思しき場所には誰も居ない。

 中にはいくつかの棚があるものの、陳列されている物もなくがらんとしている。

 奥のカウンターの更に向こうに扉があり、そちらが工房に繋がっていると思われた。

「御免下さい!」

 もう一度声をあげると、奥から人の気配がして、一人の老人……というには若く見える、随分日焼けした男が出てきた。

「なんだ。見ての通り店はやってないぞ」

 寝間着とも作業着ともつかぬ簡素な衣服を纏ったその男は、こちらを見て面倒くさそうな顔をした。

「うちじゃあ儀礼用の装飾剣は造っていない。他を当たれ」

「あぁ、いえ。武器をお願いしたいのは私ではなくて、連れなのです」

 いかにも身なりの整った少女に、侍従服の女がついているのだ。それはそう思うだろう。

「あぁ?侍従が武器なんて必要なのか?」

 言われてナズナは物凄い速さで裾を捲り上げると、太ももに付けた短剣を鞘ごと取り外した。

 一瞬下着も見えてしまったが、それ以前にその動作の速さに驚愕する。

 裾の長いスカートである侍従服は、身体の線が出ないため武器を隠すには良いが、そこから取り出すには手間がかかる。

 普通、短剣であれば懐なりベルトの腰部分に隠したりするものだが。

「少々、年季が入ってきたので新調したいと思っています」

 目の前で鞘から抜き放つ。

 金属光を放つ刃渡り20センチメートル程の短剣は、良く見れば細かな傷があちこちに入っている。

 手入れはしているのだろうが、長年研いだ分、刃が少し薄くなってきている。

「随分使い込んだな。20年か?」

「10年です」

 その言葉に店主は眉をひそめた。

「わかった、打ってやる。手と、その短剣をもう少し見せてみろ」

 言われた通りにナズナは短剣を渡し、両の手の平を広げて見せる。

 暫くそれらを凝視していた店主は、徐ろに呟いた。

「斥候の手じゃねえな。お前、忍びか」

「今はお嬢様の専属侍従です」

「そうかい、侍従ってのは随分と戦うようになっちまったんだな」

「メディソン家ですので」

 その言葉に店主は一瞬黙る。

「お嬢様、先にそう言って下さい」

 トリシアンナに向かって店主はそう言った。

「武器が欲しいのは彼女ですので。私は関係ありませんよ」

 最初から権威を笠に着ては無理矢理打たせる事になってしまう。

 嫌々仕事をさせても良い物など出来やしないだろう。

「領主様のご家族の護衛の武器、となれば、適当な仕事はしませんよ。元忍び、希望はあるか」

「出来れば使用感が変わらないほうが良いです」

「刃渡りは」

「同じぐらいで」

「意匠は無骨になるぞ」

「拘る所ではありません」

 やり取りはそれで終わった。

「一週間後に来い。金はそれからで良い」

 裏に引き上げていこうとする店主に、そういえば、とトリシアンナは貰った紹介状を手渡した。

「なんでえ、坊っちゃんの紹介かよ。なんでこれを先に出さねえんだ」

「いえ、出しそびれちゃって……結果的に打ってくれるのなら良いかなと」

 どうにも話の流れで持ち出しにくかったのだ。

「まぁいいや。打つ事には変わらねえよ。やれやれ、こんな古臭い工房に坊っちゃんの紹介で、しかもメディソン家のお嬢様がやってくるとか、わけがわかんねえよ」

 じゃあ一週間後な、と、工匠の男は再び裏へと戻っていった。


「良かったですね、造ってもらえそうで」

 道すがらナズナに話しかける。

「あの方の腕はまだ分かりませんが、手を見て忍びと当てられたのには驚きました。経験は豊富そうです」

 短剣をわざわざ打ってくれなどと言ってくる客は少ないだろう。もしかしたら彼は他の忍び出身者を見たことがあるのかもしれない。 

「短剣を得物として使う人間は限られますからね。他には軽量さを重視する斥候、それ以外には盗賊ぐらいでしょうか」

 後者は職とは言い難い。犯罪者。ならず者だ。

「街の用事は、今日はこれで終わりです。どこかでお茶でも飲んで帰りましょうか」

 今日は姉が一緒ではない。昨日の昼間に出ていったきり、まだ帰っていないのだ。

 最近、姉は単独で行動する事が多くなった。

 何をしているのか聞いてみてもはぐらかされるだけで、ただ、研究が進展しそうだとのみ聞いている。どこかで珍しい遺跡でも見つけたか、もしかしたら王都にある学院に顔を出しているのかも知れない。

 あの魔術の才に溢れる姉には敵がいないため心配はしていないのだが、どこに居るか分からないというのは、トリシアンナにとってやはり少し不安である。

 せめてどこに行くのかぐらい言付けて行っても良いだろうに。

 港通りに下りて海の見えるカフェでお茶と焼き菓子を楽しんでいると、目の前を見知った顔が通った。

「ニコロ。お買い物ですか?」

 厩番のフランコの息子、ニコロが、大きな紙袋を抱えている。

 こちらに気付いた彼は立ち止まった。

「あれ、お嬢様。とナズナさん。こんにちは。ええ、父に頼まれたものを少し」

「重そうですね。時間さえ良ければ一緒に休んでいきませんか?ご馳走しますよ」

 将来的に彼はフランコの跡を継ぐ可能性が高い。今も時々父親を手伝っているのを見かけるので、お茶ぐらいは奢っても正当な報酬の範囲内だろう。

「よろしいのですか?では、お言葉に甘えて」

 まだ若い彼は特に恐縮することもなく、笑顔でテーブルにやってきた。

 空いている椅子に紙袋を置くと、トリシアンナの向かいに腰掛けた。

「随分と沢山買い込みましたね。中身は食材ですか?」

 上から柑橘が少し覗いている。

「殆どはそうですね。あとは日用雑貨品を細々と」

 彼ももう17歳だ。父の跡を継ぐのはフランコが引退してからになるだろうが、それまではどうするつもりなのだろうか。

「ニコロさんは、邸に来られていない時は普段何をされているのですか」

 ナズナがトリシアンナと同じ疑問を口に出した。

「えっ。うーん……お嬢様とナズナさんにならいいか。実は僕、冒険者として簡単な依頼をこなしたりしてるんです。父と代わるまでは少し手持ち無沙汰なので」

 これには少し驚いた。線が細くて頼りない感じの彼が、冒険者とは。

「そうなんですか、驚きました。普段はどのような依頼を?」

「あまり時間のかからないものが多いですね。討伐はあまり自信がないので、大体が作物の穫り入れの手伝いだとか、港の運搬だとか」

 なるほど、ああいった仕事も報酬は安いがあることはある。

 階梯の高い冒険者は受けたがらないので、大体が新人冒険者の仕事になっている。

「一人で活動しているのですか?パーティなどは」

 一人で冒険者家業を営むものもいるにはいるが、ごく少数だ。

 一人では受けても完遂できない依頼は多いし、一人でできるようなものは報酬が安い。

 複数人で実入りの良い依頼をこなしたほうが、結果的に手元に残る金額が多い場合が殆どなのである。

「片手間ですからね、パーティを組むと付き合いができるじゃないですか。父の手伝いもあるのでそこまでの時間は無いし。ソロの日雇い労働者って感じです」

 運ばれてきた紅茶を啜り、ははは、と笑うニコロ。

 将来的に就く仕事はもう決まっているようなものなのだ。となればその選択肢も有りだろう。

「討伐には自信がないとの事ですが、術はどの程度お使いになるのですか」

 面接官のような事を聞くナズナ。

「熱操作と水撃が少し、ってところですね。あまり自分でも戦闘には向いていないと思うので」

「そうですか。自分の力を把握されているのは良い事だと思います。冒険者の中には、無理をして大怪我をしたり命を落としたりする方もいらっしゃるそうなので」

 事実、そういった無謀な人間は後を断たない。

 特に複数人になると気が大きくなるのか、実力以上の討伐をやろうとして、全滅する。

 ニコロが一人で活動しているのは賢明な判断だろう。

「ですねぇ。まぁ、僕は馬や犬の世話をしている方が好きなので、無理はしませんよ」

 人によっては怒り出すようなナズナの言葉にもまるで気分を害した様子もなく、ニコロはお茶を飲み干した。

「さて、そろそろ行こうかな。お嬢様、ナズナさん。ご馳走様でした」

 立ち上がったニコロに釣られて二人も席を立つ。

「途中までご一緒しましょうか。ナズナ、荷物を持ってあげて下さい」

「承知しました」

 支払いのために店へと戻るトリシアンナと、席に置いてあった紙袋をひょいと持ち上げるナズナ。

「えっ?いや、流石にそれは申し訳ないですよ。それに、女性に重い荷物を持たせるなんて」

「ご心配なく。ラディアス様ほどではありませんが私も準じる程の腕力はありますので」

「えぇ……なんかすごいですね。いやいや、そういう問題ではなくて、見た目というか体裁というか」

 若い男が、侍従の格好をしているとはいえ、女性に大きな荷物を持たせて手ぶらでいるというのは、流石に体裁が悪い。

「お待たせしました。では、行きましょうか」

「いえ、お嬢様。そこまでして頂くわけには。ナズナさんも、荷物を渡して下さい」

「大丈夫ですよ、ニコロ。ナズナは力持ちなんです」

「ですからそういう問題では」

 さっさと歩き出す二人を慌てて追いかけるニコロ。

 途中から言っても無駄だと悟ったのか、少し背を丸めてついていくのだった。

「お家は市場の近くなのでしたっけ」

 フランコは住み込みだが、息子がいる以上は当然、既に結婚して家庭を持っている。

 休みの日には市場の近くの家に帰ると、何度か聞いたことがあったのだ。

「はい。市場を抜けた通りを少し歩いた所です」

 港通りを歩いていると、周囲を行き交うのは商人や海の男ばかりだ。

 トリシアンナ達の事を気にするものは一人もいない。

「丁度良いですね、ナズナ。市場で少し買い物をして行きましょう」

「承知しました。また、例のものを?」

「あればいいですねえ。無くても、お造りにできるのをいくつか見繕って下さい」

「かしこまりました」

 大きな紙袋を片手で平然と抱えながら言うナズナ。

 氷を入れた箱もこの状態で担げるというのだから、忍びというのは不思議なものだ。

「おや、お嬢様と侍従さん。お買い物ですか?」

 例の禿頭の男性の店に寄る。ここは他と比べても鮮度の良いものが多く、まずはここを見るようにしているのだ。

「こんにちは。今日は例のものは」

「あぁ、入ってますよ。最近じゃお嬢様が買って行かれるので、他で混じってたって聞いたら貰ってくるんですよ」

「本当ですか?わざわざ済みません。では、それと……ナズナ」

 周囲を見渡していたナズナが、造りに良さそうな魚を二尾、箱買いを願い出た。

「あいよ、いつもありがとうね。例のも箱に入れとくんで、気をつけて持って下さいよ」

「ありがとうございます。はい、1シルバと65カッパド」

 殆どが魚と箱の値段だ。例のものはほぼ捨て値である。もう少し値上げしてくれても良いのだが。

 店主から受け取った白い箱を、ナズナは反対側の手で軽々と肩に担ぐ。

「相変わらず力持ちだねえ。毎度、どうも!」

 連れ立って市場の中を通り抜ける。ここで大荷物を持つ侍従はもう見馴れたのか、他の店の店主や客もまるで気にしていない。

「……なんだか僕、男としての自信を無くしてしまいそうです。もう少し鍛えたほうがいいのかなぁ」

 ニコロが少し落ち込んだ様子を見せているが、この侍従と比較したら、殆どの男性が貧弱に見えるのではないだろうか。

 気にすることはない、とトリシアンナはニコロを慰めつつ、市場を奥へと抜けるのだった。


 市場の奥、数年前に兄と食事をした酒場の前を通り過ぎて、暫く歩いたところに、庭付きの小さな一軒家が立っていた。

 敷地はそこそこ広く、庭の隅にある犬小屋では、茶色いふわふわとした毛並みの犬が眠っている。

「ありがとうございます、お二人共。最後まで持たせてしまってごめんなさい」

 ナズナから紙袋を受け取ったニコロは、中身を零さない程度にお辞儀した。

「気にしないで下さい。勝手にやった事ですので。お母様に宜しくお伝え下さい」

「はい。ありがとうございます」

 二度目の礼を言って、振り返りながら彼は家の中へと入っていった。

「私達も帰りましょうか、ナズナ……ナズナ?」

「えっ、あ、はい。そうですね」

 庭で寝ている犬を見ているのだ。

「……邸でも犬か猫を飼いましょうか?多分、お父様は許可して下さると思いますが」

「いえ、わたくしはお嬢様一筋ですので」

 自分は犬や猫と同じ扱いなのか。少し傷ついた。



 ナズナの短剣が出来上がる少し前、二人はいつものように早朝から邸の前で鍛錬するべく、準備運動をしていた。

 今日は非番のラディアスが一緒である。

 彼がいるときは、走り込みと素振りの後、打ち込み稽古をするのがいつもの習慣であるが、ラディアスは少し趣向を変えてみよう、と言い出した。

「ただの打ち込みじゃそろそろ飽きてきただろ。立会いに近い形式にしよう」

 要は、ただのカカシではなくこちらも反撃するぞ。という事である。

「勝てるわけがないじゃないですか。どれだけ実力の開きがあると思っているのですか?」

 未だ正攻法ではラディアスからはまともに一本たりとも取れていないのだ。この上で打ち返してくると、あっという間に叩き伏せられるのが目に見えている。

「その辺はある程度加減して……お、馬車が来たぞ」

 フランコの操る馬車が坂を上ってくるのが見えた。今日の通いの使用人を乗せているのだ。

 いつも通りに手を上げて挨拶をし、乗っていたマッテオ達が下りてくるのを出迎える。

 最後に、見馴れない男が一人ついて出てきた。

 やや猫背気味で困ったような眉毛の男は、こちらを見て一礼すると、後ろに続いて邸の裏手へと歩いていく。

「どなたでしょうか?」

「そういえば兄貴が、料理人が面接に来ると言っていたな。マルコの後釜かな?」

「ああ、海龍亭の」

 姉に打診しておいて貰うように伝えたのは自分だ。という事は、彼が最近海龍亭に入ったという料理人か。

「そうそう。俺は全く気付かなかったんだが、合同宴会の料理が少し変わったってジュリアが言ってた」

「ジュリアさんは感覚の鋭い方ですからね。私もその時は少し変わったかなと思いましたが、言われるまでは明確に料理人が変わったとまでは気が付きませんでした」

 ナズナはその時、このラディアスがすぐ近くにいてそんな事を考える暇が無かったのだ。

「美味しかったのですか?」

 それこそが最も重要な事だろう。

「ええ、とても美味しかったですよ。食べる人の事を考えて作られた料理だなと」

「美味かったぞ。違いは良くわからないが」

 ならば問題ないのであろう。あとは、マルコがどの様に見るかというだけだ。

「面接はお父様達とマルコでするのですよね、多分」

 自分の後釜なのだから、当然そうなるだろう。

「面接はそうだろうけど、腕も見るんじゃないか。今日の昼とかでな」

「あ、確かにそうですね」

 料理の手際や材料の選び方、どのような料理を出すかまで見るだろう。

 暫く通いで作らせてみるのかもしれない。

「少しお昼ごはんが楽しみになってきました」

 未知なる美味にはいつも胸が高鳴るものだ。

「お前はいつも食事を楽しみにしているだろ。とりあえず、そろそろ走るぞ」

「ご一緒しましょう」

 仲良く三人で走り出した。

 相変わらず兄は一人ですっ飛ばしていったが。


「と、いうわけでだ。お前に大きな隙が見えたら俺も打ち返す。隙の無いように立ち回れ」

「嫌です」

 全力で拒否するトリシアンナ。当然だ。

 誰が天と地以上に開いた差で立ち合いなぞ望むというのだろうか。

「しかしお嬢様、ラディアス様のおっしゃる事も尤もです。攻撃だけでは決して強くはなれません。回避や防御も磨かねば、実戦では命取りになるでしょう」

「それは……確かにそうですが」

 サンコスタの街でも、防御用にガントレットなりバックラーを購入しようと思って探したのだが、どうにもしっくりとこなかったのだ。

 トリシアンナは時折、剣の持ち手を変える事がある。

 片方に重量が寄っていると動きがぎこちなくなってしまうのだ。

 ならば攻撃される事を前提と考えるよりも、速戦即決で一撃必殺に決めてしまえば問題ないではないか、と。魔術ならばそれが可能になるのである。

「やられるまえにやればいいかな、と思ってしまうのです」

 その言葉に、ラディアスが苦笑いを見せる。

「ディアナと長く居すぎたな。確かにあの大火力を見れば、そういう考え方に寄るのも仕方ないと言えば仕方ないが。お前はまだそこまでの領域じゃねえだろ」

「そうなんですけれど」

 一方的にやるのはいいけど、やられるのはなんだか癪なのだ。

「よし、分かった。それじゃあ、俺に一本でも入れられたらご褒美をやろうじゃないか」

「出来ないの分かってて言ってますよね?」

 100%勝てる勝負は勝負ではない。

「ナズナも同時にかかってきて良いぞ。二人ならなんとかなりそうじゃないか?」

「え?わたくしもですか?」

 確かに、敏捷性だけで言えばナズナのそれは兄を一部上回る。

「自己強化はありですか?」

「まぁ、いいだろう」

 これなら勝ち目はある。神経強化があれば兄の太刀筋さえ見えるのだ。見えるだけで避けられるわけではないが。

 ナズナに合わせてかかればどうにか出来るかも知れない。

「どうだ、俺に勝ったら首飾りでも指輪でも、なんでも好きな物を買ってやるぞ」

 その言葉に隣のナズナの感情が爆発した。

「やりましょう、お嬢様。是非ともあの思い上がった方に一撃を食らわせるのです」

「え、えぇ……まぁ、仕方がないですか」

 彼女が指輪という言葉に反応したのは疑いようもない。

 というか、欲しいならねだれば鈍感な兄は普通に買ってくれると思うのだが。

 渋々木剣を構え、雷撃系第四階位『マニピュレイション』を体内に展開する。ナズナは鞘に収まったままの短剣を取り出して、鞘の留め具をかけると握りしめた。

 取り出す時にまた下着が見えた。これは少し隠す場所を考えさせたほうが良いかもしれない。

「いつでもいいぞ。どっからでもかかってこい」

 右の半身で片手持ちの木剣を握る兄には、隙が微塵も無い。どこに打ち込んでも反撃されそうだ。

 先にナズナが動いた。神経強化の世界の中でも驚くほどの速度で兄に迫る。

 同時に自分も動く。ナズナの後ろ、兄の死角となる場所で持ち手を変え、脇構えに取る。

 目の前のナズナが兄にとって右手、つまり剣の裏側へと跳ねる。自分はそのまま直進、左下方からの逆袈裟で、直接兄の右腕を狙う。

 ナズナに対処しようとそちらに身体を開けばこちらの剣が。こちらの剣を撃ち落とそうとすればナズナが背後から斬りかかる事になる。

 間合いに入るなり切っ先を磨り上げ、鋭い一撃を見舞う。これを避けても撃ち落としても、兄には隙が出来る。

 伸び上がるような一撃を、しかしラディアスは僅かに上体ごと身体を反らして避けた。そのまま崩れた体勢で、無造作に後ろへ剣を振る。

 びしりという音がして、ナズナの放った斬撃が兄の剣で受け止められた。

 力の入らない体勢で背後からの一撃を完全に止めて弾き返すとは。反則にも程があるというものだ。

 しかし、兄の剣は後ろに返ったままだ。

 息のかかるほどにそのまま密着し、最上段から今度は袈裟懸けに斬りかかる。狙いは兄の肩口。

 この位置と体勢なら剣が降ってくる事は無い。全力で振り下ろした木剣は、しかし空を切る。直後、脇腹に激痛が走った。

「ぐえっ」

 美少女にあるまじきうめき声が自分の口から発せられる。

 骨こそ折れていないようだが、衝撃が深く内臓まで到達した。

「チッ」

 手首を掴まれて投げ飛ばされたらしきナズナが、はるか後方で華麗に着地している。

 自分の剣が何故当たらなかったのかが分からない。確かに間合いにはいたはずだ。

「中々のコンビネーションだ。流石に普段から魔物を狩っているだけの事はあるな」

 余裕の表情を見せる兄が憎たらしい。

 痛みを堪えて呼吸を整える。背後にいるナズナに目線を送る。

 目で頷いた彼女に合わせ、両側からじりじりと間合いを詰める。

「ふっ!」

 一足飛びに前後から同時に襲いかかる。兄は予想通り、こちらから見て右側、兄にとって左側へと避ける。

 そのままナズナと交差して位置を入れ替えつつ接近、兄の間合い、その目前で再度すれ違う。

 先に仕掛けるのはナズナ。低く腰だめに構えた短剣を上半身に振り抜くと見せかけ、水面蹴りを放つ。

 鋭い一撃に兄はこれを片足を上げて蹴り飛ばす。その足元に、手にした木剣で脛切りを繰り出した。

 片足では絶対に避けようがない一撃だったが、あろうことか片足でそのまま飛び上がる。崩れた体勢から身体を揺らすこともなく。どんな脚力をしているというのか。

 ナズナが勝機と見て浮いた兄の身体に組み付こうとする。反則気味だが、抑えてしまえばこちらの剣が入る。同時に脇腹を狙って剣を薙ぎ払った。

 ばしん、と音がした。自分の肩口で。

 痺れた手から木剣が落ち、地面に転がる。

 組み付こうとしていたナズナは片手で引き剥がされ、こちらに投げて寄越された。

「おぶっ!」

 長身の侍従の身体を受け止めきれずに地面に転がる。二人絡まって土埃まみれになった。

「トリシアの攻撃は直線的すぎる。次にどこを狙っているのかが丸わかりだ。ナズナはフェイントは上手いし身のこなしも良いが、闘争心が前に出すぎていてこちらも狙いが読める」

 兄はいつの間にか剣を左手に持ち替えていた。先程からの奇妙な感覚はこれだった。

「じょ、常人ではない筋力を使うというのはどうなのですか。普通の人間なら絶対に避けられないでしょう?」

「魔物にもそれを言うのか?」

 ぐうの音も出ない。しかし。

「魔物相手であれば魔術を使っても構いませんね?」

「いや、おい、待て。剣の鍛錬だろうが」

「問答無用です」

 絶対に避けられない神速の雷撃を連射する。流石の兄も『ソーンズ』の連射を避けきる事が出来ず、最初はいくつか避けたものの、その後はまともに15発ほど食らってその場に崩れ落ちた。

 普通の人間なら避けられない、耐えられないものを十発以上受けても動けるのだから、この兄は最早魔物も同然だろう。咎められる謂れは無い。はずだ。

「お嬢様……流石にそれはちょっと」

 ナズナは少し引いている。

「一本取れました。指輪を買ってもらいましょう」

「はい、そうですね」

 戦いは数。数は勝利だ。

 それにしても、自分には打ち込んでくるのにナズナには一撃も浴びせなかった。

 兄も大概分かりやすい。


 気絶した兄を部屋に運ぶようにナズナにお願いして、邸へと戻る。

 髪も服も土埃まみれだ。洗い流さねば気持ちが悪い。

 脱衣場へと向かう途中で、侍従長のハンネとすれ違った。

「あら?ハンネは今日、お休みではありませんでしたか?」

「トリシアンナお嬢様。ええ、ですが、面接の立ち会いがありますもので」

 まだ終わっていなかったのか。

「朝来られた方でしょう?まだ終わっていなかったのですか?」

「先に厨房に立たせるとマルコが。それでこの時間に」

 なるほど、人柄よりもまずは腕というのはマルコらしい話だ。

「そうですか、すみません、ハンネ。時間外の分はちゃんと出してもらって下さいね」

「お心遣い感謝致します。領主様も、大旦那様もその辺りは抜かりございませんので、ご心配めされませぬよう」

 釈迦に説法だったようだ。この侍従長がその辺りを疎かにするはずもない。

「いつもありがとうございます、ハンネ。私は汗を流しますのでこれで失礼しますね」

「はい。ごゆっくりどうぞ、お嬢様」

 マルコもそうだがこのハンネも結構な歳だ。

 かなり鍛えているようなのでまだまだ大丈夫だろうが、いずれはその座を誰かに譲らなければならなくなるだろう。

 その場合は誰だろうか。

 年齢から言えばフェデリカが一番上だ。しかし、彼女には困った悪癖がある。

 ジョヴァンナは既に結婚して家庭があるし、ジュリアも良家の子女である以上はいずれそうなるだろう。

 次はパオラだが……軽薄な彼女が侍従長というのは今ひとつイメージしにくい。それに、彼女は割とすぐに結婚しそうだ。

 となれば、ナズナか。

 雰囲気もなんだかそれっぽいし、鉄面皮な所もハンネとよく似ている。

 問題があるとすれば、彼女は少々自分に入れ込みすぎている所ではあるが。

 いや、それ以前に兄のラディアスとくっついてしまえば、彼女は貴族の仲間入りである。侍従なんかをしている場合ではない。

 その場合はもうマルコと同じく、他所から持ってくるしかないだろう。

 しかし、いずれにせよそれはもう少し先の話だ。心配しても仕方がない。それよりも今は風呂だ。

 汗と埃を流し落とし、気持ちよく昼食の時間を迎えなければならない。これは義務だ。


「これは……ガレットですか?こちらのものは、シチューとは違うようですが」

 ガレットは昼食というよりも、軽食や菓子として供されることの多い料理だ。

 小麦粉で作った生地を薄く広げて片面だけ焼いて、様々な具材を包んだものである。

 概ねジャムやバターなどで味付けをして出される事が多い。

 隣に並んでいるのは、軽く焼いたパンを添えたシチューの様にみえる。

 器に満たされたブラウンソースから、仄かに香るガーリック。よく見れば丸い物が中央に浮いている。

「皆様方、本日の昼食は新たな料理人、ヨアヒムが作りました。どうぞ、忌憚無きご意見をお聞かせ下さいませ」

 休みのはずのハンネが食堂でそう告げている。

 集まっているのは両親のヴィエリオとマリアンヌ、長兄のアンドアイン、次兄のラディアス、そしてトリシアンナである。

 これを作ったのは、朝見たあの男であろう。見た目は完全に軽食そのものといったところだが。

「では、頂くとしようか。新たな料理人の門出を祝って」

 アンドアインが水の入ったグラスを掲げた。

 皆がそれに倣った後、目の前の料理に手を付ける。

 見た目は完全にガレットである。ただ、中にあるのは卵と腸詰め。

 ナイフで切り分け、フォークで具材と一緒に口へと運ぶ。最初に香ったのは、懐かしい香り。

「これ、ソバですか!?とてもいい香りです」

 口いっぱいに広がる懐かしい香り。普段は味わえないあの清々しい芳香が鼻腔を満たす。

 しっかりと火の通った卵の優しい味と、腸詰めには肉の間にハーブと香辛料がこれでもかと詰め込まれている。

 言ってみれば香りの洪水。それを損なわない卵のふんわりとした味わいに、僅かに加えられた胡椒がぴりりと味を引き締める。

「美味いな。ただのガレットかと思いきや、初めて食べる味わいだ」

「こちらのシチューのようなものも美味しいわ。軽そうにみえて、しっかりとした味が」

 マリアンヌの言葉に我に返り、もう一つの料理に目を向ける。

 濃厚な赤茶色のソースの中に、白い卵と表面を焼かれたパン。

 パンでソースを少し掬って口に入れる。じわりと広がる味と香り。

 これは、香りから分かるガーリックだけではない。ただのソースに様々な肉と野菜を溶かし込んであるのだ。

 あまりに複雑で濃厚な味わいに脳が少し混乱する。美味い。

 卵を掬ってみれば、ぷるぷると震えるそれは半熟状態のポーチドエッグだ。

 このソースとの相性を考えるだけで涎が出てくる。

 恐る恐る口に含むと、ぷつりと溢れ出した卵の黄身が、肉と野菜の旨味を染み込ませた圧倒的で濃厚なソースと混じり合い、この世のものとは思えないほどに味蕾を刺激する。

 ソースには高価な葡萄酒が使われているようで、喉の奥を通ったあとにほんの僅かに果実の香りを残していった。

「なんですかこれ。昼食に一体どれぐらい時間とお金をかけたんですか!?」

 このソースを作るだけでも数時間は煮込まねばならないだろう。しかも相当贅沢に具材を使って。

 王都の高級な店で出しても文句は出まい。ただの昼食にしては不釣り合い過ぎる。

「最初ですので、という事で、可能な限りの物を出したそうです」

 ハンネが言う。なるほど、実力を見せるためのパフォーマンスという事か。

 毎日これだけのクォリティを持つものを出すのは流石に無理だろう。

 だが、本来はこれぐらい簡単に作れますよ、という事をアピールするには、この簡素に見えて圧倒的に重厚な料理は正しく最適だろう。

「ふむ。これだけの物を作れるというのならば、腕に問題は無いだろうな」

 ヴィエリオが頷いている。

 問題どころの話ではない。逆に、何故サンコスタにやってきたのかという疑問が湧くほどの腕前だ。

「あの、お兄様。海龍亭はこれだけの料理人を手放すのに、躊躇は無かったのですか?私ならば、もっと高額な報酬を出してでも繋ぎ止めると思うのですが」

「うむ……それがな」

 兄が言い淀んでいるところをみると、少し言い難い理由があるのかもしれない。

「言い難いのであれば後にします。今は、このお料理を楽しみたいので」

 そう、まずは御託は抜きにしておくべきだろう。

 目の前の美食を放置するほどに優先する事など、他に有りはしないのだから。

 いや、しかし優先すべき重大な問題は他にもある。

「おかわりは、できますか?」


 満腹とまではいかないが、十分に腹は満たされた。

「お兄様、お兄様。お昼ごはん、すごかったですね」

 ラディアスの部屋で、トリシアンナは目を輝かせて捲し立てる。

「あぁ、美味かったよ。細かい事はわかんねえけど、美味かった」

 何故かこの兄は不満そうである。ナズナが昼食で中座しており、居ないのが不満なのだろうか。

「どうしたんですかお兄様。ナズナならもう少しすれば帰ってきますよ」

「ナズナが出ていったのは問題じゃねえ」

 そうなのか?では何だ。

「お前なあ、剣の鍛錬で魔術で兄を叩きのめして、昼が美味かったからって忘れてるのはどうなんだ?」

 あぁ、そういえばそうだった。

「あっ、ごめんなさい、お兄様。つい力が入ってしまって……お体、大丈夫でしょうか」

「いや、気遣うの遅くねえか……?」

 そんな事は無い。きちんとアフターケアはしておいただろう。

「ナズナをつけておいたので大丈夫だと思っていたのですが」

 しゅんとした様子を見せておく。その姿に、兄は少し機嫌を戻したようだった。

「ああ、いやまぁいいよそれは。あの程度でどうにかなるような身体じゃねえし」

 正直言って化け物では?下位とはいえ雷撃術を10発以上撃ち込まれて生きている人間などいない。

「いや、そうじゃなくてナズナだよ。なんで俺とナズナを二人きりにしたんだ」

「いけませんでしたか?ナズナが何か無作法でも」

 迫ることはしそうだが、その程度だろう。まだまだ二人の関係は遠いと見ている。

「指輪を買えと一点張りだ。勝ったのだから当然だろうと。ありゃお前、勝ち敗け無しだろうよ、どう見ても」

 あぁー、なるほど、そういう事ね。完全に理解した。

「お兄様、言葉というのは一度吐いたら飲み込めないものです。お兄様が魔物相手なら死んでいた、とおっしゃるのであれば、魔物相手であれば何を使ってでも倒して良いという事になりませんか?」

 言質は取った。貴族とはそういうものだ。

「いや……剣術の鍛錬だろ?」

「剣術の鍛錬とは私は一言も申し上げておりません。お兄様が立ち合い形式にしようとおっしゃっただけで。現に我々は一本取りました」

 二度も王都で揉まれた自分が、騎士団で剣を振り回していただけの兄に言葉で負けるはずがないのだ。

「お前……恥ずかしくないのか?」

「お兄様、貴族とはそういうものです。逆に、私から見ればお兄様の負け惜しみが恥ずかしく見えますが?」

 騎士道?そんなもの、尻を拭く紙の価値にすらならない。サンコスタの浜にでも捨ててくれば良い。

「それで、お兄様はナズナに指輪を買ってあげる義務が生じています。いつにしますか?明日?そうですね、ナズナの短剣がもうすぐ出来上がるのでその時にしましょうか」

「貴族ってきたねえな」

「無論、そういうものですからね。一度夏か冬にアインお兄様とご一緒してみます?」

「絶対に断る」

 経験はしておくべきだと思うのだが。

 そこから学習できるかどうかはさて置き。


 珍しく四人でサンコスタの街を歩いている。目的は主に2つ。その後に色々と。

「いやいや、トリシアに舌戦を挑むとか馬鹿じゃないの」

 ディアンナが冷笑を浮かべている。

「うるせえよ。俺はまだ敗けたとは認めていないからな」

 意固地になっているラディアスに、トリシアンナはため息と共に告げる。

「認めなければ敗けていないというのは、敗者の弁ですよ。現実は残酷です」

 最早結果は明白なのだ。今この場にいる時点で、もうこの兄に逃げる場所など無い。

「話は聞いたけどさ、安請け合いした上に前提条件が緩すぎて、そりゃラディ兄さんが悪いよ。貴族ってそういう所を突くんだから。兄さんだって貴族でしょ」

 姉は頭が良いので、こういった駆け引きにはまず引っかからない。というか、引っかかるのはこの次兄だけなのだ。

「わかった、わかったよ。俺の敗けでいいよくそったれ。で?ナズナは指輪で良いとして、トリシア、お前は何が欲しいんだ」

「え?……そう言えば、考えていませんでした」

 ナズナが指輪と聞いて反応したからそれを主目的にしていたのだ。

 この兄にして欲しいことや買って欲しいものなど、何もない。

 欲しい物があれば自分で買うし、して欲しいことはもう殆どしてもらっている。

「お兄様には既に私がして欲しい事を全てして頂いているので。別に」

 その言葉に、兄ではなく姉が抱きついてきた。

「天然だわ~、トリシアはそういう所、可愛いよねぇ」

「お姉様、胸を押し付けないで下さい、苦しいです」

 柔らかくて苦しい。姉は大好きだが、時々こうなるのが問題でもある。

「そういうわけにもいかねえだろうが……まぁ、いいや。とりあえずナズナが先だな」

「宜しくお願いします」

 ナズナはいつもの侍従服ではなく、王都でも着ていたフォーマルな格好だ。

 これはトリシアンナが無理を言ってこの格好で来るようにと言ったのである。

「短剣を先に、ってのもアレだし、先に宝飾店に行きましょ。あたしとユニ姉さんも使ってるお店があるし、そこなら融通も効くから」

 この姉がいて良かった。長姉は育児に本業とそれは忙しいのである。

 トリシアンナは今までに行ったことのある店しか知らないので、宝飾店を知っている姉の存在はとても有り難かった。


 店は意外にも裏通りにあった。

 目抜き通りから2つほど西の裏に入った場所、服飾や靴、帽子や下着など、高級店がずらりと立ち並んでいる。

「ここ、こんな風になってたんですね」

 見るからに富裕層御用達、といった風情の通りである。

「ほら、すぐ表が都市警備隊の詰所でしょ?治安を考えたらここが一番都合良いのよ」

 なるほど、言われてみれば確かにそうである。

 であれば、ラディアス自身もこの店を知っていそうなものではあるのだが。

「高級すぎて外の人間にゃ全然知られてねえんだよ。犯罪も今まで殆ど起こった事がねえ」

 つまり、犯罪に縁のない人々しか知らない街の一角という事である。

 勿論この街に住んでいる者であれば周知の事実だろうが、なるほど、外からではこんな場所に集まっているとは思いもしないだろう。

「とにかく、入りましょ。私はここに来る理由はどっちかと言えば素材を売る方だけどね」

 姉の研究素材は、使われた後こういった高級な店に売却される事が多い。

 毛皮にしろ、宝石にしろ、魔術研究の副産物なのである。

 そもそもこの姉は、ロイヤルティの入ってくる発明品が大量にあるので、金には困っていないのだ。

 小さなベルの付いた扉を開けると、中はほぼガラス張りであった。

 宝飾品の収められている棚も、窓も全てガラス。

 ガラスというのは他の建材に比べると比較的高価な部類にあたるのだが、それを惜しげもなく壁代わりに使っている。綺麗に磨かれている為、間違えてぶつかりそうだ。

「ディアンナ様。それにラディアス様も。いらっしゃいませ」

 店員がすぐに寄ってきた。メディソン家の威光というよりは、本人たちの知名度だろう。

「御機嫌よう。今日は、兄のラディアスが指輪を贈りたい相手を連れてきたので、見繕ってあげてくれるかしら?私は妹と色々見させてもらうから、放って置いてね」

 開幕で決定的な打撃を与えるのは、先制殲滅を得意とするディアンナらしい戦略である。

「まぁ!そのような歴史的瞬間に立ち会えるとは、嬉しい限りですわ!ラディアス様、お相手のお嬢様も、どうぞこちらへ」

 店員がラディアスとナズナを連れて指輪の並ぶ方へと引っ張っていった。

「流石ですねお姉様、抜かり無い戦略です」

「当たり前でしょ。天下のメディソン博士よ」

「流石は紅蓮の魔女です!」

 二人で冗談を言い合いながら、美しく輝く宝飾を見て回るのだった。


 嵌められた。

 予兆が無かったわけではない。

 思えば自分が条件を出した時に、異様に食いついてきたのを察知しておくべきだった、

「ラディアス様もついに身を固めるおつもりになられたのですね」

 時折巡回する時に目にする女性店員が、満面の笑みでこちらを見ている。

「あぁ、まぁな。成り行きというか」

 成り行きでしかない。それ以外に言い表す言葉が無いのだ。

「運命というものですね。あぁ、素敵ですわ、憧れます」

 店員は勘違いをしている。

 剣術の鍛錬のつもりで気軽に条件を出したら、裏を突かれて魔術でボコボコにされた。

 それをして今隣でお淑やかにしている元忍びの女に指輪を買ってやる事になったのだ。

「お嬢様は、お好みのデザインなどはございますか?」

 店員がナズナに聞いている。

 トリシアンナがナズナをこの格好で来させた事を、今更ながらに理解した。

 どうみてもこの黒髪の少女は、その美貌も相俟って貴族にしか見えない。

「いいえ……ラディアス様と、一緒に決められればと」

 普段の鉄面皮を引っ込めて、何故か頬を染めている。どうみてもこれは女の顔ではないか。

「まぁ、お熱い事ですわ。では、こちらなど如何でしょう。北方産のプラティナムを使ったもので、デザインは三年前に王都のコンテストで金賞を獲得した方の――」

 見るからに婚約指輪だ。小さなリングには非常に微細な彫刻が施されており、値段も相応。

 給料の三ヶ月分です、という表現ではないが、自分のそれに近い額ではある。

 無論、払えない事は無い。

 そもそも金を使う事自体が殆どないが故に、スパダ商会に預けた貯金はかなりの額になっている。

 当然だ。

 騎士団ではその高額な報酬額でありながら使う暇も無く鍛錬に明け暮れ、サンコスタに戻ってきてからも使うのは精々酒場での飲み食いぐらい。

 身だしなみにも殆ど金を使ってこなかったので、今や貯金額は軽く王都の一等地に家を買える程度にはなっている。

「着けてみるか?」

 思考とは裏腹に勝手に声が出る。

 ナズナは、小さくはい、と言うと、差し出されたリングを指に通した。勿論左の薬指だ。

 おかしい。何故か外堀をどんどんと埋められている気がする。

「とても良くお似合いですよ。いかがでしょう?お望みでしたら、裏地にお二人のイニシャルなど刻む事も出来ますが」

 いや、それは少し待って欲しい。流石に早計ではないだろうか。将来的にはいざ知らず。

「ええ、ではお願い出来るでしょうか」

 ナズナが言ってしまった。もうだめだ、おしまいだ。

「かしこまりました。うふふ、式にはお呼び下さいね」

 店員が婚姻の儀に呼ばれる事はまず無い。社交辞令なのだが、今はそれが重い。

 現金で流石にそれほどの額を持っているはずもなく、指輪2つ分をスパダ商会止めで支払った。

 たまたま自分にも合うサイズがあったために、現物でそれを渡される。いや、おかしいだろどう考えても。

「あ、もう決まった?へぇ、良いじゃん。兄さんにしては頑張ったんじゃない?」

「わぁ、ナズナ、とても似合っていますよ、素敵です!」

 恐らくこの妹たちの差金に違いない。汚いな貴族さすがきたない。

「俺はお前たちのせいで貴族というものが嫌いになりそうだよ」

「今更じゃない?」

「今更ですね」

 くそくらえだ。


 幸せそうなナズナを引き連れて、今度は東の裏路地へと向かう。

 指輪の次は短剣だ。一体どんな花嫁なのだろうか。

 小さな工房を構えた店に入る時、兄が声を上げた。

「あれ?お前ら、ここに依頼したのか?」

 兄はこの工房を知っているようだった。

「エドモンさんの紹介で知りました。お兄様はご存知なのですか?」

 確かにこの街で唯一と言って良い程の武具工匠がいるのだ。武芸一辺倒の兄が知っていてもおかしくはない。

「知ってるも何も。騎士団に出る時に打ってもらったこの剣は、ここで造ってもらったものだぞ」

 腰に佩いている剣を叩いて言う。

「支給品なのかと思っていました。確かに業物だとは思っていましたが、ここの品だったのですね」

 この兄の持っている剣は両刃の直剣で良くあるサイズのものだが、拵えが無骨ながらも兄そのものを示すような極めて愚直な剣である。

 ひたすらに頑丈さを追求しているようでありながら、刃には閃くような鋭さを感じさせる。そんな二面性を持った剣なのだ。

「という事は、兄さんとナズナは指輪だけじゃなくて剣もお揃いってことね」

 まぁ、そうなるな。

 ナズナがぽっと頬を赤く染める。可愛いな。というかおそろいが剣じゃなくて服とかならもっと良かったな。

「御免下さい」

 以前と同じように店に入って声をかける。今度はすぐに店主が出てきた。

「おう、出来てるぜ。……って、ラディアスの旦那?お嬢さんと一緒にいらっしゃったんですか?」

 そりゃあ店主もラディアスの事は知っているだろう。

 自ら剣を打った上に戻ってきてからはこの街の有名人なのだ。

「おい、元忍び。その格好……あぁ、なるほどなぁ。そういう事かよ」

 ナズナの左手に嵌っている指輪を見て納得する店主。いや、これは偶然なのだが。

「まったくよぉ。そんな事なら隠し立てせずに言ってくれりゃあいいのに。確かに、旦那に打った時と同じ様な感じがしたんだよ。かーっ!まったく似たもの夫婦ってか?羨ましいね!」

 言って店主は鞘に納まった短剣をナズナに手渡した。

 受け取ったナズナは鞘から引き抜いて、その刃をじっくりと眺める。

 刃渡りは20センチメートルと少し。両刃のごく一般的な形状の短剣である。

 素材はありふれた鋼鉄製に見えるが、光に翳すと僅かに斑になった影の中に波打つような文様が見て取れる。

「ダマスカス……」

 特殊な合金であり、ただの鋼鉄には無い伸びやかな強靭さを誇る。

 製造には高度な技術が必要な事と、その製法は一部の秘伝とされており、今や扱えるものは僅かという代物だ。

「流石に分かるか。まぁ、そいつはサービスだ。結果的に旦那への祝儀にはなったがよ」

「これ程の物を……あの、お代はいかほどで」

 通常出回っているダマスカス製であれば、この程度の刃渡りのものであれ一本5ガルダは下らない。

「1ガルダと30シルバだ。一切負からんからな」

「いやいやいや、流石に安すぎるでしょう?」

 驚いたナズナが両手を振って否定する。

「原価からすりゃあそんなもんだよ。技術料は旦那とお前さんへのご祝儀だ」

 そう言われればナズナには断る理由が無い。用意していた現金でそのまま支払った。

「まいど。いや、それにしてもこりゃあ光栄な事だ。まさかラディアスの旦那の嫁さんに剣を打てるとはよ」

「おい!まだ別に俺たちは」

 ラディアスをディアンナとトリシアンナが取り押さえる。

「婚儀が決まったら呼びますね、少し先になるかも知れませんが」

「ありがとね、おじいちゃん。ほら、ラディ兄さん、行くわよ」

 美しい短剣を手にして夢心地のナズナと共に、工房を後にする。



 結論から言えば何故か二人に進展は一切無かった。

 あれだけ外堀を埋めたにも関わらず、次の日からの普段の態度は一切変わらなかったのである。

 メディソン邸に起こった大きな変化といえば、新たにやってきた料理人のヨアヒムが加わったことだ。

 彼の作る料理は制限がかかった状態でも素晴らしく、常に最高のクォリティとパフォーマンスをもってメディソン家の人々の舌を満足させた。

 マルコも今暫くは一緒に見ているだろうが、いずれ彼に任せるだろうことは疑いようのない事実となっていた。

 その素晴らしい朝食を終えた所で、珍しく朝早く起きてきたディアンナと、何時ものように沢山お代わりをしたトリシアンナは、食後のお茶を手に、爽やかな朝に似合わぬ下世話な話をしていた。

「なんであれで進展しないの?兄貴はひょっとしてイ◯ポなんじゃないの!?」

 あまりにも下品な言葉を吐く姉に、妹は優しくたしなめる。

「お姉様、その言葉はあまりにも下品ですよ。奥手なんだと仰って下さい」

 普段からナズナの変化を見ているトリシアンナは余裕である。

 何故なら、あの件以来の変化をつぶさに目の前で見ているからだ。

「トリシアはどう見てるのよ。あなた、私には見えないものが見えているでしょう」

 ぎくりとする。この姉は魔術学の博士である。

 トリシアンナの特殊な体質に勘付いていてもおかしくはない。

 だが、こんなしょうもない事でその事実を曝け出すわけにもいかない。

「ふふふ、お姉様。甘いですね。表面上は変わらずとも、内面は明らかに変化しています」

 実はそうなのだ。

 ナズナは貰った指輪を嵌めてはいないが、紐を通して常に首から下げて身につけている。

 明らかに『絶対に無くさないぞ』という強い意思を感じる行動である。

 ラディアスはというと、指輪は貰ったままの箱に入れて部屋の中、机の二番目の引き出しの奥に大切に仕舞ってある(フェデリカ情報)。

 その上でナズナと会った時にはちらちらと左手を見ているのを確認済みなのである。

 指輪が嵌っていないのに安心すると同時に落胆する感情が見えて、明らかにその気ありだ。

 見える感情の部分を端折って姉に報告する。もうあとひと押しだと。

「もうひと押し、か。いや、しかし、それは今はまずいわ」

「何がまずいんですか?言ってみてください」

「いや、あんたの事よ」

「は?」


 王国告示

  以下の理由により国王権限において勅令す

  地方監査の為

  クリストフ・エル・ケミストランド王太子に以下地方の直接視察監査を行うよう

  命ず

  サンコスタ地方サンコスタ及び当該地方の統治及び治安

  

「思ったより早かったですね。夏に合わせて私の水着を見に来るものだと思っていましたが」

 姉に渡された告示を手に、トリシアンナは少し驚いていた。

「あんたの事と同時にラディ兄さんとナズナの進展はまずいでしょ」

「いや、何もまずくないですが。寧ろ公開するのなら望むところではないかと」

 何の問題があるのかまるで分からない。

「あのね、王太子殿下が来るんでしょ。視察で、主にあなたに会いに」

「はぁ、まぁ。表向きは視察なので後者は非公式ですが」

「王太子殿下がやってきたその時に、領主の次男が婚約!婚姻!こうなったらどうなる?」

「そりゃあ、おめでとうございますと王太子殿下もおっしゃるでしょう」

「タイミングの問題よ。王太子殿下があなたに求婚したって事実は一部に知られてるんでしょう?」

「あっ」

 そうだ。

 王太子殿下が”たまたま”求婚した相手の領地にやってきたら”たまたま”そこで領主の家族の結構な身分違いの結婚式が行われていた。

 これは身分差のある婚姻を見せつけるために行われたと、各地の領主が判断してもおかしくはないだろう。

「ど、どうしましょうお姉様。私、こんな大事になるとは」

「落ち着きなさいトリシア。あの二人なら当分大丈夫でしょ。まぁ、工匠のおじいさんには悪いけど……少し、いや、結構先に計画を伸ばせば問題ないでしょう」

「流石ですお姉様。私ったら迂闊でした。クリスにその気がなくとも、周りがどう見るかをうっかり失念していて……」

「うん、いや、まぁいいけど。王太子殿下が少しかわいそうになってきたわ」

 季節は春になるかならずか。

 未だ日の短い時が続く。

 日の出は何処。


「早すぎる」

 ヴィエリオは呻いた。

「冬が終わってすぐにだぞ。同時期に春の近況報告が重なっているのが意図的なのは間違いないだろうが」

「落ち着いて下さいな、あなた」

 マリアンヌが狼狽える元領主を嗜める。

「近況報告の最中という事は、目が王都に向いているという事でもあるでしょう?それは決して悪い事ではないのではないかしら」

 近況報告が重なるという事は、アンドアインが王都に向かうという事だ。

 それと入れ違いに王太子殿下がやってくる。トリシアンナに会いに。

「アインがあちらに行っているという事は確かにここにとっては大変でしょうけれど、ここには、あなたも私もいるでしょう?何を狼狽える必要がありますか」

 そもそもヴィエリオは早々に家督を譲ったが、未だ執務上では現役なのは間違いないのだ。

 選択肢を間違えるとも思えない。

「そうだったな。すまない。お前はいつも私を落ち着かせてくれる」

 抱き寄せて熱いベーゼを交わす。

「対応は以前に現国王陛下がいらした時と同じで良いだろう。ただ、当時付けていた者をアインからトリシアにする事になるが」

 アルベール現国王陛下と、長男であるアンドアインは竹馬の友であり、今でも個人的に愛称で呼び合うほどの仲である。

 ただ、それは同性にのみ許された友情であり、娘の場合とは大幅に異なる。

「ナズナは必ず同行させる。出来れば向こうの供の者もだ。対外的にも王族を含む子供だけで街の視察など、危なくて仕方がないからな」

 何か問題でも起これば責任重大だ。場合によっては比喩でなく首が飛ぶ。

「例の剣のレプリカをこの春のうちに渡すべきかと思っていたが、殿下がお帰りになられてからにしよう。万が一、王族に知られでもしたら事だ」

 『真実を告げるもの』という王族にとって極めて忌まわしい剣を持ったまま、次期王位継承者と共に歩くなんて、考えただけで背筋が凍る。

「新しい料理長が見つかってほっとしたと思ったらこれか。一難去ってまた一難とはまさにこの事だな」

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