第11話 赤い月

|お腹が痛い。

 お腹が痛いのだ。

 朝起きたときからお腹が痛い。ついでに身体もだるい。

 朝食の為に起きる、遥か以前に目が覚めた。

 お手洗いに行こう。出なくても、少しは楽になるはずである。

 便所で夜着を持ち上げて、下着を下ろそうとした時に気がついた。

 あぁ、ついにこの時が来てしまったのだと。

 下着にへばりついたものと、便器の底に滴ったそれを見て目眩がした。

 これは別に貧血によるものではないだろうが、場合によっては貧血も起こるだろう。これはそういうものだ。

 とりあえず、どうすればいいのかわからない。まったくわからない。生臭い。

 便所に置いてある紙で拭いてはみたものの、収まる気配はない。これは恐らく自分で制御できるものではないのだろう。

 便所の紙を重ねて下着の間に挟んで、便所を出る。落ち着け。

 頼りになるのは誰だ。姉か、母か。この場合母だろう。


「あの、お母様……少しお話が」

 執務室の扉を開けて顔を覗かせると、既に仕事をしていた両親と長兄であるアンドアインがこちらを見ている。

「どうした?トリシア。顔色が悪いな」

 兄が心配して声をかけてくるが、今は出来れば放っておいてほしい。

「トリシア?……あぁ、二人共、私が見てきます」

「何?マリアンヌ、トリシアはそれほど重症なのか!?」

 慌てた父が立ち上がる。優秀な水撃系かつ治癒術師である母が動いたので心配になったのだろう。

「違いますよ。ほら、トリシア。行きましょう」

 全てを察してくれる母の存在があまりにもありがたい。

「お母様、その……」

「言わなくても大丈夫ですよ、トリシア。あなたの部屋に行きましょうね」

 母とはこれほどまでに慈愛に満ち、頼りになる存在だったのか。


「赤い月が来たのですね?」

「はい。お母様」

 赤い月、その名の通り、赤い……赤グロい?ものが毎月訪れるものだ。

「気づいたのはいつから?下着はどうしました?」

「朝から、お腹が痛くて……ご不浄で気付きました。今は紙を下着の間に」

「そう、本当に賢いわねあなたは。少し待っていなさい」

 母はそう言うと、トリシアンナの部屋を出ていった。

 ほんの少し後にすぐ戻ってくると、小さな紙袋をトリシアンナに手渡した。

「これを、数日の間、収まるまで下着の間に挟んでおきなさい。これから毎月、あなたの部屋に届けるようにナズナに言っておきます。大丈夫?熱は無い?お腹以外に痛いところはない?」

 何もかも察している、安堵感から涙が出そうになる。

「少し身体が気だるいですが、大丈夫です。ありがとうございます、お母様。その……下着に、粗相をしてしまって……」

 母はぎゅっと肩を抱きしめてきた。

「いいのよ、トリシア。最初はみんなそうなのだから。下着の替えは言いにくいでしょうから、私が持ってくるわ。今はゆっくり休みなさい」

 ありがとうございます、お母様。母の愛とはこういうものだったのですね。

 

 だるい。うごきたくない。

「どうしたんだ!トリシア!今日は鍛錬は無しか?」

 一番うるさいのがやってきた。

「無しです。お引き取り下さい」

 毛布を被りながら素っ気なく応える。しかし、これは何故かラディアスには逆効果だったようだ。

「何?……おい、大丈夫か、トリシア。どこが痛いんだ?何か食いたいものはあるか?」

 本気で心配している兄が鬱陶しい。無意識なデリカシーのなさをここ一番で発揮するのはやめてほしい。

「お腹が痛いですが、お兄様には解決できません。お引き取り下さい。私は眠いのです」

 背中を向けて言い放つ。さっさと部屋を出ていって欲しい。

「トリシア!そんな事を言うな!お前が苦しんでいるのにこの俺があぁっ!」

 肩を揺さぶろうとするラディアスを何者かが拘束し、部屋の外へと放り出した。

「アホか、本当にバカなんだからあのクソ兄貴は。大丈夫?トリシア。痛いよね、大変だよね」

 ディアンナお姉様がやってきた。救いの女神である。

「少し痛いですが、大丈夫です。ありがとうございます、お姉様。正直助かりました」

 何故ラディアスはああも察しが悪いのであろうか。ナズナに一度言っておこうと思った。

「何か食べたいものとかある?はい、これ。温かさが続く魔術装置を持ってきたよ。お腹に抱えてると楽になるから。私が作ったの」

「あっ、ありがとうございます……本当です、少し楽になりました」

 布に包まれた石のようなものを抱えていると、じんわりと熱が広がってくる。

 心なしか痛みが和らいだように感じる。

「気にしないで。私も最初は結構キツかったから。それ使うと大分楽になるよ。市販はされてないけどね」

「売り出してもいいんじゃないですか?すごく楽ですよ、これ」

 冬に寝る時抱いても良いかもしれない。それぐらいには心地良い。

「そうねぇ、持続時間がもう少し長ければ良いんだけど。私の熱操作でも24時間が限界だし」

 この姉の限界の力で24時間……市井の魔術師だと1時間どころか10分も持たないのか。

「そうですか……でも、それならお姉様がいれば私は安心ですね。いつでも暖かくしてもらえるのですから」

 この姉さえいれば、この圧倒的に便利な魔術装置は常に適度な温かさを保ってくれるのだ。姉には悪いが、こんなに便利な代物は無い。

「あぁっ!トリシア!そんな可愛い事言わないで!辛いのがわかってるのに抱きしめたくなっちゃうから!」

 姉は感極まって部屋を出ていった。もう少しお話がしたかったのに。


 静かだ。

 部屋の外には秋雨が降り注いでいるようだが、余りにも細くささやかな雨は、音すら室内に届かせる事は出来ない。

 静寂を破るノックの音が控えめに聞こえた。

「どうぞ」

 扉を開けて入ってきたのはナズナだった。

「お嬢様、昼食をお持ちしました」

 湯気の立つ小さな鍋を携えている。

「ええ、ありがとうございます、ナズナ」

 起き上がろうとしたところを、手の仕草で抑えられた。

「最初が肝心です。お大事にして下さい。慣れればどうという事はなくなりますので」

 鍋と共に後ろ手に持っていた紙袋を、そっとサイドテーブルの上に置いた。

「奥方様に頂いた分で足りるとは思いますが、念のため。これは人によりますので」

 そのまま鍋をベッド脇に持ってくる。

「どうぞ、お口を」

 彼女の感情が溢れる歓喜の色に包まれて、黄金色に輝いている。少し怖い。

「え、ええ。ありがとうございます」

 差し出された匙に口をつける。柔らかく炊き上げられたライスの優しい味の中に、鶏肉と卵の仄かな旨味を感じる。

 暖かく喉を通ったものが、胃の腑を優しく満たす。

「美味しい。これは、ナズナが作ってくれたのですか?」

「昔、私の姉が何度か作ってくれたものです。お気に召されたようですね」

 ナズナの姉。どのような人物であったのか、聞いたことは無い。

「優しいお姉さんだったのでしょうね」

「……」

 ナズナは黙った。見えるのはあまりにも辛い悲哀の色。そういう事なのだろう。

 それ以上は何も言えなくなる。彼女の歩んできた人生は、自分に比べて遥かに重い。

 そぼ降る雨は止む気配が無い。静かに療養食を食べ終わると、ナズナは失礼しますとだけ言って部屋を退出した。

 姉の魔術装置とナズナの持ってきた食事で、痛みは大分楽になった。

 自分の姉はどちらも優しく、二人共健在だ。

 しかしナズナの姉は……。

 掛布を毛布と一緒に被ると、強く目を瞑った。

 自分に出来る事というのは、余りにも少ない。

 過ぎたことは取り返せない。時間は……戻せないのだから。


「随分と早いが、トリシアに赤い月が来たのか」

「はい」

 夫婦はその日の夜、寝室で天蓋を見ながら話している。

「やむを得まい。王都へ処女魔術の報告をする。事前に話していた通り、風圧系第三階位『ウィンドカッター』だ」

「わかっています」

 もうじきトリシアンナは10歳だが、この年齢で赤い月が来るのは、普通と比べてかなり早い。

「報告は時期的に……冬か、大分面倒くさい事になりそうだ」

「アインがいます。あの子なら大丈夫でしょう」

「それはそうだが、あまり最初から負担をかけさせたくはない」

「もう家督を?」

「次までには、そのつもりだ」

 ヴィエリオは47歳。まだまだ現役と言ってもいい。

 しかし、息子のアンドアインはもう28だ。十分に経験を積み、この家を継いでも問題ない程の貫禄と力をつけている。

 自分たちが後ろから補佐すれば大丈夫だろう。何しろ、より責任の重い国王陛下ですら、今のアンドアインよりも遥かに若い年齢からその立場を維持しておられるのだから。


 痛みと下り物は3日で引いた。

 その次の日、トリシアンナはいつもの三人で街へと出てきていた。

 念の為、フランコの操る早朝の送迎馬車に便乗させてもらって来た。あまり激しい運動をしてはまずいと思ったのだ。

 今日の目的は、ユニティアへ先日のスキアヴォーナの件を報告する事だ。

 別にディアンナ一人でも問題はなかったのだが、姉にも一応赤い月の話をしておきたかったし、大きくなってきた双子達にも顔をあわせておきたかった。

 あのぐらいの小さな子は、頻繁に会っておかないと人見知りをする事がある。

 久しぶりに出会ったのに、可愛い甥と姪に泣かれては悲しくなってしまう。

「大分間が開いてしまいましたね。済みません、お姉様」

 姉には報告を少し待ってもらっていたのだ。

 正式なスパダ商会からの依頼という形になっているので、姉は報告書を手に持っている。

「気にしないで。どうせこういう報告書は、普通の人なら二週間ぐらいは普通にかかるものだから」

 姉は僅か一日で仕上げていた。流石に普段から論文をバカスカ書いているだけはある。

「マナセさんの報告書はどうなったのでしょうか。あの方、サンコスタに滞在されているのでしょう?」

「そうね、確か海龍亭に滞在してるはずよ。あそこ、スパダ商会の系列だし」

 毎年合同宴会をしている宿屋だ。

「随分と高級な宿を提供しているのですね。あの方は、そんなにご高名な方なのですか?」

 ナズナが驚いて言う。そういえば、彼女はあそこで一晩明かしたことがあるのだった。

「そうね、少なくとも海洋生物学ではトップクラスの人じゃないかな。幾つか論文を読んだけど、どれもこれも面白い角度なのに、ちゃんとしっかりした論拠が示されてるし」

「論文って普通はそういうものなんじゃないんですか?」

 根拠薄弱で論文足り得るのだろうか。トリシアンナは疑問に思った。

「それがね、多いのよ。数だけ出して中身スッカスカのやつとか。まぁ、学閥のせいだとか研究費の捻出のために、無理矢理書いてるみたいなのがあるからしょうがないんだけど」

「学問の世界も世知辛いですねぇ」

「誰もが潤沢に資金を使えるわけじゃないからね」

 姉は発明のロイヤルティが沢山入ってくるお金持ちなのだ。

「どうされますか?そちらにも顔を出されますか?」

 ナズナが問いかけるが、ディアンナは首を振った。

「別にいいでしょ。どうせ報告書はユニ姉さんを通るんだし、出てたら見せてもらいましょ」

「そうですね、私も生物学者からの意見を見てみたいです」

 違う知見から得られるものは多い。

 三人はまっすぐスパダ商会の裏にある家を目指した。


「いらっしゃい、ディアナ、トリシア。ほら、ラファエロ、クラウディアも。挨拶しなさい」

 二人は、こんにちは、と言うと、すぐに母親の後ろに隠れてしまった。

 あまりにも可愛い。ディアンナもニコニコしているが、隣にいるナズナなどは顔を強張らせてぶるぶると細かく振動している。別に我慢しなくても良いのに。

「ふふ、こんにちは二人共。随分大きくなりましたね」

 微笑んで手を振ると、二人は僅かに顔を覗かせて、少しはにかんだ可愛い笑顔を見せた。

「ママはお姉ちゃん達と仕事のお話があるから、少しあっちでマウラと遊んでいてね」

 ユニティアがそう言うと、二人共素直に侍従の方へと走っていった。

 二人同時に歩き回れるようになると、面倒を見るのは随分と大変そうだ。

 ユニティアは側のチェストから大きな封筒を取り出すと、こっちよ、と応接室に三人を誘った。

「大雑把な話はエブシュタイン博士から聞いたわ。三人とも、ご苦労様」

 ソファに腰掛け、ローテーブルの上に封筒を乗せた。

「はい、これがこっちの報告書。概要は同じになるはずだけど、魔物化については私とトリシアの意見を取り入れてあるから。簡単に説明するね」

 ディアンナは引き上げた魚体の特徴を、魔術学の見地から説明している。

「――だから、単に海洋の環境に馴染む為だけに魔物へと変異したわけじゃなさそう」

 ユニティアは報告書をめくりながら真剣にディアンナの話に耳を傾けている。

「そう、ありがとう。良く出来てるわ。流石はメディソン博士ね」

「博士はやめてよ」

 姉が心底嫌そうに言った。

「そういえば、マナセさんも言っていましたが、お姉様って博士号を持っていたんですね」

 ただ学院を修了しただけであれば学士だ。

「そりゃこんだけ論文出してりゃね。学院や学閥に所属してなくてもそう呼ばれるの」

 個人の在野にいる研究者で博士号を持っている者は極めて少ない。姉は例外中の例外だ。

 マナセも生物学者である以上は学閥に所属しているだろう。

「この2つの報告書は、スパダ商会から商業連合を通じて、通商組合と漁業組合に周知しておくわ。あとはお父様……いえ、アインお兄様から王国へ報告してもらうわね」

「直接アイン兄さんに?」

 領主であるヴィエリオへの報告が先ではないだろうか。

「この秋に、恐らくお父様はお兄様に家督を譲るはずよ。私の見立てが間違っていなければね」

「お父様はまだお元気ですけれど」

 トリシアンナの言葉に、ユニティアは微笑む。

「元気なうちにというのもあるけれど、お兄様はもう28でしょう?現国王陛下が20で即位されたのは少し早いと思うけれど、30になる前に譲るのがいいの」

「30になる前に?何故でしょうか」

 その年齢が区切りとなっている意味が良くわからない。

「お兄様はまだ独身でしょう。養子を取る事を考えるのなら、早々に家督を譲ったほうがいいでしょう?領主の息子の状態で、跡継ぎを養子に迎える、というのは難しいから」

「あぁ、そういう事ですか」

 30を超えると、王国の法では6歳までの子供を養子に取る事ができなくなる。

 これは、平均寿命の短かった王国成立時からある法で、幼い子を養子に取ったはいいが、身体を悪くして育てられなくなることを懸念して作られたものだ。

 時代に合っていないとはいえ、まだまだ開拓地のような厳しい環境ではそのような状況にになる事もあり、そのままになっている。

「アイン兄さん、中々結婚しないもんなぁ。ちょっと選り好みしすぎじゃない?」

「領主ともなるとね、色々と考えるのよ」

 ディアンナの言葉をユニティアが窘める。

「そういうディアナお姉様はどうなんですか?」

「え?あたし?」

 突然の飛び火に驚く次姉。

「あ、あたしはほら、魔術研究が恋人だから」

「そんな事言って。そんな格好で魔物を丸焼きにして回っているから見つからないのでしょう?」

「いやいや、別に結婚とかしたくないし。大体、世の中の男ってあたしから見たら馬鹿ばっかりだもの」

 この姉が認める知性を持った男など、そもそもいるのだろうか。

「男性は容姿や賢さだけじゃないのよ」

「そりゃあエドモンさんは優しいもん。でも、私は優しいだけじゃ駄目なの」

 エドモンは姉の夫である。

「ディアナお姉様は一生独身のままのような気がします。アインお兄様より選り好みしそうで」

 どう考えても釣り合う相手がいそうにない。

「そうねぇ、私もディアナに関してはもう諦めようかしら。そうすると、次に結婚しそうなのはラディかしら」

 そう言って傍らにいるトリシアンナの専属侍従を見た。

 トリシアンナもディアンナも、つられてそちらを見る。

「……あの、何か?」

「いいえ、何も」「なんでもないわ」

 平静を装いながらも内心は激しく動揺しているナズナに、トリシアンナは口角を上げた。

 トリシアンナ以外に気付かれていないと思っているのは、当人だけなのである。

「トリシアは」

 ユニティアが言いかけて止めた。

「まだ早いかしら」

「そうでもないんじゃない?もう赤い月が出たんだし」

 ディアンナがさらりと言った。

「そうなの?おめでとうトリシア。身体は大丈夫?」

「ありがとうございます?ユニお姉様。ちょっと辛かったですがなんとか。……ところで、赤い月っておめでたいことなんですか?」

 誰にも訪れることであり、別に目出度くは無い気がする。寧ろ辛い。

「まぁ、大人になった証でもあるし……というか、随分早いわね。普通は12歳とかその辺りになるのだけれど」

「そういえばそうね。トリシアはませてるから全然違和感がなかったけど、確かに」

「ませてるって。もう少し別の言い方がありませんか」

 姉にそのように見られていたことに少しショックを受けるトリシアンナ。

「いやぁだって、ねぇ、姉さん」

「そうねぇ。というかそもそも9歳でこんな会話をしている事自体、随分ませてると思うわ」

「それはお姉様方がそういう方向に持っていくからであって」

 決してトリシアンナが悪いわけではないのである。

「話についてこられるからでしょう?まぁ、確かに私達も悪いのかもしれないわね」

「いいじゃん、別に。誰かに聞かれてるってわけでもないんだし」

「ナズナがいるでしょう。ナズナが困ってしまいますよ」

「ナズナは家族みたいなものじゃない。ねぇ?」

「は……はぁ。ありがとうございます」

 女三人寄れば姦しいとは良く言ったものだ、とナズナは呆れた。

 とはいえ、敬愛する方々に家族と呼ばれるのは意外と嬉しいものだとも思うのだった。

「あぁ、そうだ。いきなり話が変わって悪いんだけど、マナセの報告書、見せてもらってもいい?トリシアも見たいって言ってたよね」

「あっ、そうでした。お姉様達が結婚の話なんて持ち出すので、忘れるところでした」

 姉以外の学者の知見を見てみたいのだ。何か分かることがあるかもしれない。

「一応発表前だから他の人には言わないでね」

「わかってるって」「承知しています」

 ローテーブルに広げられた資料と考察を二人並んで目を通す。

 きれいな整った文字に、ところどころ図入りで丁寧に解説されている。

 その字の如く、流れるように流麗な姉の筆致とはまた違って読みやすい。

「主な変異の原因となった箇所に影響する可能性の高い物質……」

「この魚種の本来とは異なる動きに関係する魚類特有の症状……これは」

 実際に漁をする人々にとって、直接関係のある部分ではない。

 いくら原因に言及したところで、現場にいる人間は目の前の魔物に対処しなければならないのだから。

 しかし、今回の変異の原因が直接周辺の生態系に影響を与えるとなると、これは漁業というこの街の根幹をなす産業に対する危機的な状況だ。

「トリシア、心当たりある?」

「私が捕獲した地点では兆候は全く有りませんでした」

 トリシアンナが最初に淵で捕獲したスキアヴォーナは、大物ではあったものの、海で見た異形と化した魔物ではなかった。

 周辺の環境にも、特に異常を感じる部分は見当たらなかった。

「別の流域かな。アイン兄さんに聞いてみようか」

「それが良さそうですね。思ったより大きな出来事になってしまいました」

 二人の話に、ユニティアはじっと耳を傾けている。

 書類をまとめると、再び封筒に入れた。

「さっき言った事は覚えてるわね。そういう事よ」

「大変良く理解できました」

 情報が不確かな状態で広まると混乱の元だ。まずは大本から対処して、その結論を待たねばならない。

「はぁ、今日はゆっくりお茶して帰ろうと思ってたのになぁ」

「またいつでも来られるでしょう?私もお茶も、逃げたりしないわよ」

 嘆くディアンナに、姉は優しく微笑みかけた。

「トリシアも、また近いうちにおいでなさいな。採寸もしないといけませんからね」

「採寸?どうしてですか?」

「すぐにわかりますよ」

 姉はトリシアンナに対しては意味深に微笑むのだった。


「どこからその情報を手に入れた?」

「ああ、やっぱりそうだったんだ」

 執務室に一人でいたアンドアインに、ディアンナとトリシアンナは街で得た情報から、考えられる事を推測して問いかけた。

「お兄様、海棲の新たな魔物が発生していました。その件が原因となっている可能性が極めて高いと思われます」

 その言葉に兄は驚愕の表情を見せた。

「もうそんな影響が出ているのか。やはりこの件は進めるわけにはいかんな」

「お兄様が指示したのですか?」

 そう聞くと、兄はとんでもない、と頭を振った。

「盗掘だ。他所の領地からのな。気付いた頃には、もう大分掘り返された後だった」

「犯人の目星はついてるの?」

「ああ、お前達に言うわけにはいかんが、大体はな。次の報告で『お耳に』入れる」

 トリシアンナにも目星はつく。だが、大っぴらにしたところで尻尾切りで終わりだろう。そう、あの誘拐犯のように。

「お願いします、お兄様。現場に見張りは?」

「ラディアスとカネサダにだけ事情を話して、極秘に一部のものだけで巡回するように取り計らって貰っている。しかし、遠い上に人が足りていないからな」

「どの辺りなのです?」

 誰も踏み入らない地域だからこそ堂々と盗掘などという事が出来たのだろう。

「山岳地帯のかなり奥まったところだ。道も無いし魔物は出る」

「私達で時々見回ろうか?」

 姉の提案に、しかしこれも兄は拒否する。

「だめだ。お前たちが出ては余計にややこしい事になる。もう撤退したのだと思われるが、万が一盗掘犯に遭遇した場合にまずい。あくまでも公的な機関が見つけねば意味がないのだ」

 仮に盗掘しているところをディアンナやトリシアンナが取り押さえたとしよう。

 そんなところで領主の娘が一体なにをしていたのだ、と、痛くもない腹を探られ、難癖をつけられて終わりだ。どちらにせよ主犯は尻尾を切るだけなのだ。

「そうですね……早めに王国が対処してくれるのを祈るしかありませんか。お兄様、冬の報告の時には宜しくお願いします」

「あぁ、それなんだが」

 兄は少し言いにくそうに口籠った。

「トリシア。次の冬は、お前も一緒に来なさい。処女魔術のご報告に上がる」

 姉が採寸の話を持ち出したのは、こういう事だったのか。


 時が流れるのは早い。

 ナズナがこの邸で働くようになって、もう2年目が終わろうとしていた。

 仕事には大分慣れ、他の使用人達とも随分親しくなった。

 元々年齢の割に高かった身長は更に伸びて、15歳になった今では、侍従の中でも一番背の高い存在になってしまった。

 その割に他の肉付きはどうにも増えた気がしないが、背が高くなるという事は手の届く範囲が増え、より間合いが広がるという事でもある。悪い事ではない。

 守るべき人を守る、その主命を果たすためには、どこまでも強くあらねばならないのだ。

 問題はその守るべき人自身が余りにも強いという事であるのだが。

 お気に入りの珈琲を使用人の休憩室で啜っている。最初こそ飲み慣れなかったが、ラディアスに淹れるついでに一緒しているうち、段々と好きになっていったのだ。

「ナズナちゃぁん、ちょっといいですかぁ?」

 通いの侍従であるジュリアが、甘ったるい声と忌々しい巨乳を引っさげてやってきた。

「ジュリアさん。どうかされましたか?」

 ジュリアは頭も切れるし術の精度も高い。尊敬出来る先輩なのだ。胸以外は。

「ナズナちゃん、今年も出る?合同宴会」

「あぁ、もうそんな時期なんですね。ええ、出ますよ」

 最初の年こそ色々と問題は発生したものの、良い酒や上等な料理を口に出来るため、周辺の環境を無視すればとてもお得な宴会なのだ。何しろ参加費が無料だ。

 実のところ、二年目はどうするか少し迷った。

 セディージョとの件もあったため、顔を合わせると気まずいのではとか思ったり、朝帰りした事を誰かに誂われやしないかと心配していたのだ。

 しかし、実際はフェデリカやこのジュリアの言動のインパクトが強すぎたようで、誰もナズナの事は気にしていなかった。

 セディージョも特に話しかけてくるような事は無かったが、遠くにいたので会釈すると、こちらに気付いて顔を引き攣らせていた。流石に懲りたのだろう。

 当然のように二年目も大暴れしたフェデリカとパオラの事はさておき、酒も料理も最高だったので、また参加しようと思ったのである。

 そして、今回参加する理由はもう一つある。

「そう、よかったぁ。ほら、フェデリカさんが毎年荒れるでしょう?怖がって来なくなる人が結構いるかもと思ってぇ」

「可愛いじゃないですか。抱きついてくるのだけは勘弁してほしいですけど」

 ギャップが面白いと言えば面白い。それに、本人もその直後は反省しているのだ。悪気があるわけではない。

「そういえば、ニコロさんはどうして去年も参加されたんでしょう?随分とパオラさんに絡まれていたので、来なくなるかと思っていたのですが」

「あぁ、結構楽しかったらしいよぉ、ニコロ君も。お年頃だねえ」

 楽しかったのか。あれが。

「まぁ、意外な個人の趣味嗜好はさておき、楽しかったのなら良かったです。なら、今年も皆さん来られるのですね」

「そうねぇ、今の所はいつもの面子かなぁ」

 意外と言えば、苦労人のアメデオはどうして毎回参加しているのだろうか。

「しかし、アメデオさんも毎回苦労しているのに参加されていますよね。何か目的でもあるんでしょうか?」

「さぁ〜、わかんないなぁ。そういえばそうねぇ、毎年みんなに振り回されてるのにぃ。海水浴の時は楽しそうだったけどぉ」

 そういえば、あの時のアメデオは妙に活き活きとしていた。意外とこういう変な環境が肌に合うのかもしれない。

「とにかくぅ、今年も全員参加ねぇ。ラディアス様に出席表、提出しておくねぇ」

「お願いします」

 ぱたぱたと駆けていくジュリアを見送って、ナズナは残りの珈琲を飲み干した。

 時々ああいった馬鹿馬鹿しい騒ぎがあるからこの邸での生活は面白い。

 緊張感のある故郷の生活と比べて大分ぬるいので、ひょっとしたら飽きてしまうかと思っていたのだが、別の意味で緊張感を強いられる時があるのだ。

 何よりお嬢様である。

 歳を負う毎に彼女は美しく、可憐になっていく。

 最初の頃の可愛らしさをそのまま残し、どんどんと大人になっていく。

 その成長を最も近くで見ていられるのは、何物にも代えがたい幸福感があるのだ。

 あの美しい花を守る為であれば、例え悪魔に魂を売っても惜しくない。そう思わされる。



「ナズナ、トリシアー、なんかいいのあった?」

「うーん、あまり良いのは……」

「お嬢様、これなどは」

 いつかのように冒険者協会で掲示板を眺めている三人。

 例によってトリシアンナが飽きたと言い出したので、再びここで売れ残りを物色しているのだ。

「ナズナ、どれですか?あっ、これ、良さそうですね。えーと……あれ?これ、また例の開拓地からですよ?」

「なになに?あそこ、まだ困窮してるの?」

 覗き込んだ二人は依頼者を見て声を上げる。

「また討伐、しかも今度は蟻じゃなくて鹿の群れだって。アハハ。しかもこの額」

「まぁ、確かに開拓地が軌道に乗るまで数年はかかりますが……運が悪いのか場所が悪いのか」

 討伐依頼は、スタンレンネのネームドが出たというものだった。報酬額は50シルバ。

 一体誰がこんなものを受けると思って出したのだろうか。当然、一週間経っても誰も手を付けた様子はない。

「ただのスタンレンネなら兎も角、ネームドとは……50シルバじゃあ準備だけでも冒険者の方は赤字でしょうに」

「10人がかりでないと普通は無理だからねぇ、このレベルのネームドだと。どれどれ、推奨階梯、アハハッ、7以上で、しかも5名以上のパーティ推奨だって。もう階梯7自体がそんなに数いないじゃん」

 階梯7となると、地域の有力者から名指しで依頼を受けるような人達である。当然、こんな割に合わない依頼を5人も集めて受けるはずもない。

「たまたま私達が見に来て命拾いしたわね、あの村長。ひょっとして狙ってるのかしら」

「いや、お姉様。そんなはずがないでしょう。壁の時、あんなに恐縮してたのに」

 実際の所、出せる金など無いのだろう。去年の納税だって、自然の採集物でどうにかこうにか支払った様子なのだ。

 そんなところにネームドである。そんなにポコポコ生まれるものではないのに、運が悪いとしか言いようがない。

「行きますか?」

「行きましょう」

「行こう行こう」

 まぁ、そういう事になる。


 例の場所には、ディアンナが破壊、もとい切り開いた道が出来ているので、森の中を突っ切らずにそちらを通る。

 街道からの分かれ道となっている森の切れ間には、この先新規開拓地と書かれた看板が立っていた。これもディアンナの立てたものである。

 例によってトリシアンナとディアンナは飛び跳ねて、ナズナは走って移動する。

 ここ最近、トリシアンナはぴったりと張り付くタイプのアンダーウェアを着用するようになったので、白い下着は見えなくなってしまった。

 その分動きやすさを重視してスカートが短くなっているので、足の露出だけは増えているのだが。

 ナズナは残念に思いながらもその足を凝視しつつ、いつものように裾を持ち上げて走る。

 程なくして、堀と壁に囲まれた集落へと到着した。

「うーん、あんまり変わってないわねぇ」

「そうですか?畑は大分形になっていますけれど」

「作物は根菜や芋が多いですね、痩せた土地でも育つものですが……ここならいくらでも他の作物も育つでしょうに」

 土地の栄養は豊富なのだ。連作でもしない限りは問題ないはずである。

「元々住んでた土地から持ってきたのかもね。そっちの感覚でやってるんでしょ」

 それにしてもこれでは収益は上がりにくいだろう。どこでも育つものを植えた所で、安い値がつくだけなのだ。せめて何か特産品のように面白い特徴でもあれば別なのだが。

 集落の中は比較的穏やかだ。根菜類はもう収穫を待つだけなので、畑仕事に出ているものは少ない。

 掘っ立て小屋の外で、冬に備えて薪割りをしている者が目立つ。

 歩いているトリシアンナ達は目立つ格好をしているものの、道ができてからそれなりに訪れる者もいるのか、遠目から彼女たちが領主の娘であると気付くものはいない。

「着いた着いた。掘っ立て小屋は相変わらずね」

「入り口付近の私が葺き直した屋根もそのままでしたし、建物には手を加えていないようですね」

 単純に余裕がないのだろう。

「こんにちは、村長。久しぶりね」

 以前見たのと同様に、村長は小さな背を丸めて湯を啜っていた。まるで変化がない。

 びくりとしてこちらを振り向いた年嵩の村長は、驚いて声を上げた。

「お、お嬢様方!これは、ご無沙汰しております。いらっしゃると分かればもてなしの準備もしましたのに」

「いやいや、この集落の状態でもてなしも何も期待してないからね」

 困窮している土地の少ない食料で歓迎されても逆に困るだろう。

「はぁ、お恥ずかしい限りで……して、今日はどのようなご用向きで?……ま、まさか」

「そのまさかですよ、村長。スタンレンネのネームドが出たそうですね」

「いけません!危険すぎます!お嬢様方に万一の事があっては、この集落が取り潰されてしまいます!」

 そうは言うが、あの報酬で一体だれが受けるというのか、冒険者の仕事は慈善事業ではないのである。

「ほっといても鹿に踏み潰されて潰れるでしょ。普通のなら兎も角、スタンレンネの跳躍力じゃ堀は意味ないし、丸太の壁も十分ともたないわよ」

 スタンレンネは、大きな広がった角を持つ鹿の魔物である。

 馬以上に強靭な足腰を持ち、蹴りの力は板壁など一撃で粉砕する。

 突進力も尋常ではなく、硬い角をその速度でぶつけられようものなら、普通の人間は即死である。石造りの建物だって粉砕されてしまうのだ。

「で、ですが」

「ですがもよすがもないでしょ。私達なら大丈夫よ。ここの壁と堀と道を造ったのが誰だと思ってるの」

「ご安心下さい村長。トリシアンナお嬢様はわたくしがお守りしますので」

「えっ?私は?」

「ディアンナお嬢様に護衛が必要ですか?」

「いや、いらないけど。なんかこう、もう少し言い方あるじゃない?」

 姉と侍従の言い合いを無視して、トリシアンナは村長に聞く。

「ネームドを見た場所を教えてもらえますか?出来るだけ詳しく」

「はぁ……そこまで仰るのであれば……」

 村長はゆっくりと話を始めた。

 場所はここから東に、200メートルほど入った所だったという。

 木苺の群生地となっているその場所に、いつものように集落の女性三人で連れ立って出たそうだ。

 木苺の成るその場所で暫く採集していると、地鳴りのような音がしたので東の奥を見た所、物凄い勢いで木をなぎ倒す鹿の群れを見てしまったのだという。

 慌てて三人は籠を放り出して逃げ出し、集落の者に報告した。

 確認のためにある程度腕に自信のあるものたちが言われた場所を見に行くと、木々生い茂る場所だったはずのそこは無惨にも蹴散らされなぎ倒され、そこだけ森が丸裸になっていたのだ。

 その様子を見に来た男の一人が、汚い広場になってしまったその奥に居るものに気がついた。

 なぎ倒された木々の奥、更に続く木々の合間に、数頭の巨大な鹿の群れ、その中央からじっとこちらを見ている赤い目。

「大きさを聞く限りでは、ネームドに違いないという事でした。通常のスタンレンネよりもふたまわりは大きかったそうです」

 通常のスタンレンネは、大きく育っても精々そこいらにいる鹿の3倍程度の大きさだ。

 それでも遥かに大きいのだが、それよりも大きな存在となると、確かにネームドかもしれない。

「集落に被害は?」

「今の所ありません。ですが、このままでは恐ろしくて採集にも出られず……」

 まぁ、それはそうだろう。普通の人間なら、通常のスタンレンネにすら手も足も出ない。

 単体ならば兎も角、数頭の群れともなれば、追いかけられたら木々の間を走って逃げても、邪魔な木をなぎ倒しながら迫ってくるのだ。

 なによりも環境破壊が面倒くさい。折られた木は再生しないし、それが果樹であればそこからの恵みもなくなってしまう。

 ただそこにいるだけで迷惑千万である。

「まぁ、それじゃちょっと行ってやっつけてきましょうか。村長、ほんの少し、森壊しちゃうかもだけど我慢して。このまま壊され続けるよりマシでしょ?」

「え、ええ!それはもちろん」

 この姉のほんの少しの基準を、村長は知らない。

 しかしわざわざ教えても彼を不安にさせるだけなので、トリシアンナもナズナも敢えて何も言わなかった。


「どのようにしましょう」

 ナズナが作戦を聞く。

「そうね、スタンレンネなら角が欲しいし、それは残したいなぁ。毛皮も出来れば欲しいし、肉も食べられる種類だし」

「お姉様、あんまり欲張ると倒しにくくなりますよ」

「うーん、そうねぇ。ネームドだからねぇ」

 通常のスタンレンネであれば、首を斬っておしまいである、毛皮も別にそんなに硬くはない。

 しかしネームドともなればそうは簡単にいくまい。硬さも強さも段違いだし、なによりも大きい。

 大きいということは致命傷を与えにくいという事なので、当然のことながら綺麗な状態で倒すことは難しい。

 姉であれば、上位火炎系なりで一撃で吹き飛ばして終わるだろう。しかしそれでは意味がない。トリシアンナ達は報酬の50シルバも受け取れない立場なのである。

「私が足止めしましょうか」

 ナズナが名乗り出る。

「出来るならいいけど、どうやって?」

「惹きつけて避け続けます」

「策も何もあったもんじゃないわね」

 呆れる姉に、トリシアンナは言った。

「魔術での足止めもどこまで効果があるかわかりません。ナズナが出来るというのなら任せてみては?」

「あんた、最近侍従の扱いが適当になってきてない?いくらなんでも避け続けるって」

「お任せ下さい。主命とあらば必ずや」

「こっちもこっちで聞いてないし。わかったわ。その代わり、危ないと思ったら容赦なく素材無視して吹き飛ばすからね」

 それが出来るからこそのナズナの言葉だったのだろう。

「それでは、取り巻きは私が始末しますね!スタンレンネは流石にダイアーウルフよりも強くはないでしょうし」

「あぁ、そういやトリシアはダイアーウルフのネームドに会ったことあるんだっけ」

 その言葉に、ナズナが目を見開いて驚く。

「ダイアーウルフのネームドと戦って勝ったのですか!?流石はお嬢様です!」

「いやいや、倒したのはアインお兄様ですよ。まぁ、一撃だったそうですが」

 それはそれでおかしいだろうとナズナは思った。

「まぁ、倒すだけならうちの人間だったら誰でもできるよ。優しそうに見えてユニ姉さんもかなりエグい水撃系使うし」

「皆さんお強いのですね。故郷の諸侯にも見習って欲しいものです」

「そんなに強い諸侯がいたら王国と戦争になってしまいますよ……」

 ある程度の力の差があるからこそ、海という隔壁が機能しているのだ。

 海洋国家である東方諸島と、大陸国家である王国。

 騎士団や宮廷魔術師を抱え、多くの冒険者がいる王国も、海を超えられるのは少数のみだ。

 一方で東方諸島は海を超えるのは得意だったとしても、強力な大軍に待ち伏せされては勝ち目が無い。

 双方が無駄な戦力を使いたくないという前提があるからこそ、友好的な関係が保たれているのだ。

「あたしはナズナみたいな忍びがごろごろいるという事実のほうが恐ろしいかな……」

 こんなフィジカルモンスターを量産されては流石に堪らないだろう。海を渡って上陸したら即座に暗殺されそうだ。

「わたくしはまぁ、それなりに上位の忍びですので……あぁ、ここですね」

 目の前には幹の根本辺りからなぎ倒された木々の群れ。見通しは良いが、障害物が多く足場は悪い。

 ここで戦うのはかなり不利だろう。スタンレンネは強い足腰を持っているので、こうした荒れた場所を苦にしない。

「とりあえず、吹き飛ばすね」

「え、ちょ」

 ディアンナがタクトを取り出すなり、短い詠唱と共に火炎系爆裂魔術第七階位『エクスプロージョンノヴァ』を発現させる。

 オレンジ色の火球が見えたかと思うと、それが即座に収縮、白熱の光を放って拡散する。

 爆風で周囲の木々は焼かれて根こそぎ飛ばされ、広がる衝撃波で残った木々も無慈悲になぎ倒される。

「いきなり何やってるんですか!スタンレンネだって驚いて逃げるでしょう!」

「いやー、そうでもないみたいよ、ほら」

 広々と開けた空間の向こうに、巨大な鹿の群れが佇んでいる。

 一際大きなネームド個体と、それを取り巻く6体の鹿。遠目にみてもその巨大さは圧倒的だ。

 鹿たちはゆっくりと動き出すと、瞬間的に速度をあげてこちらに向けて跳ね跳んできた。


「全くもう!お姉様はこれだから!」

 トリシアンナは計画通り、周囲の取り巻きを始末しようと、風圧系第二階位『サス』を連続発動して左手に飛び退る。

 鹿の動きもかくや、という素早い動作だったが、そこに追いつく巨大な影。

「!?」

 咄嗟に電磁加速を行い、その場を離脱する。今まで居た所に、巨大な質量が着地する。

 ネームドの踏みつけた場所は大きく抉れ、小さなクレーターを形成する。巻き込まれれば人間の肉体など、木っ端微塵だ。

「成る程、賢いですね。お姉様が最大の脅威と見て、まずは我々を潰すつもりですか」

 真っ赤に輝く視線を遥か頭上から降らせる巨大な鹿。体高はおよそ4メートルはあるだろうか。ちょっとした建造物である。

 こんな巨大質量が、野生の鹿と同じ様な速さで動き回るのだから、たまったものではない。

「どこを見ている!」

 ナズナが鹿の足元に泥濘を作り、弱点と見られる細い関節を短剣で薙ぎ払う。

 鮮血が散るが、鹿はまるで意に介していない。

 邪魔な蝿を追い払うかのように、その場で立て続けに足踏みをする。

 一撃一撃が即死級の重量。泥濘に変えられた地面が飛び散り、大地に穴を穿つ。

「チッ、図体がでかい癖にちょこまかと」

 全てを衝撃の範囲から回避するナズナだが、その効果範囲内に近づけない為、攻撃がままならない。

「これならどうだ!」

 地変系第五階位『ラウンドリッパー』で、大地を無数の錐と化して突き刺す。

 幾つかの錐は貫通したように見えたものの、鹿の足の一振りで魔術は霧散する。力技で無効化された。

 ナズナが気を引いている間、トリシアンナは神経強化の中、急速に思考を巡らせていた。

 威力だけなら通用する魔術はいくつかある。しかし、先に付けた条件に当てはまるもので、自分が扱えるものは一つしかない。

(実際に使うのは初めてですが……上手くいくでしょうか)

 意識と魔素を集中し、構成を練り上げる。


「おやおや、これは予想外。なるほどね、ネームドだからね」

 ディアンナの周囲を囲む、6体の鹿。距離を離すでもなく縮めるでもなく、足踏みをしながら彼女を見据え、動き回っている。

「うーん、吹き飛ばすのは簡単だけど、まぁ、トリシアにああ言った手前それはちょっとねぇ」

 手に持った銀色のタクトを振りかざす。

「あんたたち、ステップを踏むのは得意そうね。それじゃあ、踊ってもらいましょうか?あたしの葬送曲で」

 指揮者の棒は振り下ろされた。


 高速で動く巨大な質量というのはそれだけで手に余る。

 単純に当たれば即死であるし、避けても余波の範囲内にいればダメージを受ける。

 ダメージが積み重なれば当然、動きは鈍くなり、いずれは直撃する。

 不規則に振り下ろされる4つの破壊鎚から、余波すらも見切って避け続ける。

 超人的な反射神経と圧倒的な瞬発力、無尽蔵とも思える持久力が必要とされるそれを、ナズナはひたすらやってのけている。

 術にかまけている暇は無し。ただ只管に回避し、隙があれば斬りつける。

 何も難しい事は無い。やっている事はただそれだけだ。

 単純さこそ、単純な事の極限化こそが忍びの本骨頂。

 ただ耐え、堪え、その時を待つ。

 忍ぶからこそ、忍びなのだ。

 自分が打ち倒す必要はない。この場には、自分よりも遥かに強力な火力が2つもあるのだから。


 ゆっくりと流れる時間の中、脳裏に描かれた構成を魔素によって確実に構築していく。

 指先に集まる力と、今にも破れんばかりの魔導率。

 右腕を掲げ、指先を巨大な魔物に向かって振り下ろす。

「宙を満たす乖離の物質。その刃は炎か、雷か」

 電撃系第六階位『イオニシュナイデン』によって発生した強力な電磁場が大気を一瞬にして電離、局所的にプラズマ化した刃が空間に出現する。

 振り下ろされた蒼白の刃は巨大なネームドの太い首をいとも容易く両断し、切断面を超高熱で蒸発させる。肉の焦げる匂いが周囲に立ち込めると同時に、巨体はその場にどうと崩れ落ちた。

「初めて使いましたが上手くいきました。消耗は中々大きいですが、慣れれば連発も出来そうです」

 平然と言う。

「流石です、お嬢様」

 泥濘の飛沫が飛び散った侍従服を払いながら、息一つ切らしていないナズナが近寄ってくる。

「なになに?今の魔術なに?トリシア!もっかい見せて!今の初めて見た!」

 こちらも一瞬で周囲のスタンレンネの首を切り落としたディアンナが近寄ってくる。

「いや、あんまり何もないところで使うと火事になるのでだめです」

 周囲を見回すと、割と見た目には酷い有様となっている。

 近くの木は根こそぎ吹き飛んで周囲は穴だらけだし、離れた場所にある木々も根本付近から折れている。

 そこいらにはごろごろと首を失った巨大な鹿の死体が転がっており、一番大きな死体の足元は泥濘化した穴がぼこぼこと空いている。

「派手にやりましたねぇ。八割ぐらいがお姉様のせいですが」

「上手くいったんだしいいじゃん。それよりさ、素材回収しようよ」

「お待ち下さい。ここは集落の方々に手伝ってもらいましょう」

「あぁ、それもそうね。どうせ肉も毛皮もあたしたちだけじゃ余るし、自分たちで処理させちゃいましょ」

 道理である。こちらはほぼ無償で危険な魔物を退治したのだから。

 足取りも軽く、いま来た方角へと引き返すのだった。


「こ、これをお嬢様方だけで?」

 集落の人間、女子供以外ほぼ全てを集めて現場に戻ってきた。

「すみません、村長。少し広範囲を破壊してしまいました。だいたいこの姉のせいです」

「何よ。これぐらいいいじゃない」

 広々とした空間に呆然と立ち尽くす集落の人々。このままでは埒が明かないので、仕方なくトリシアンナは声を張り上げた。

「一番大きな鹿以外の毛皮と肉は差し上げますので、皆さんで解体処理してください!切り分けたら私と姉で冷凍します!」

 言って自分は姉とナズナを引っ張っていき、ネームドの死体へとやってくる。

「見て下さいお姉様、立派な角ですよ。これだけで建材や薬剤、塗料にどれだけ使えるんでしょうか」

「毛皮も大きいし良いじゃない。ダイアーウルフに比べると美しさは劣るけど、これだけ大きいと敷物にもいいかもね」

「肉は少し多すぎるようですね。必要な分だけ貰って、あとは集落へあげてしまいましょう」

「あっ、お姉様、タクト貸して下さい。ネームドの皮は山刀ではちょっと無理だと思うので」

「えぇー、またあれやるの?嫌だなぁ」

 年頃の娘が店先で綺麗な装飾品を見つけて品定めするかのように会話する三人。

 その様子を、別の生き物でも見るような目で集落の人々は見つめていた。


 全ての鹿を解体処理し終わるだけで、あの大人数でも夕刻まで時間がかかってしまった。

 つるべ落としは容赦なく、世界を宵闇に引き込もうとしている。

「これでよし。貯蔵庫に作った地下室は、定期的に熱操作が扱える人で温度を下げて下さい。冬を越すまでは多分、毎日一食は新鮮な鹿肉が食べられますよ」

「雑魚の鹿角はあげるわ。細かく削れば解熱効果のある薬になるし、土に混ぜて焼けば硬い建材になるから。ただし、薬は熱が出たからといって簡単には使わない事。熱は身体の防護反応だから、氷で追いつかない程の時だけにしなさい」

「毛皮は鞣して敷布にすると良いでしょう。然程高級なものではありませんが、断熱効果は比較的優れています。処理は各自で行って下さい」

 利用に関してはごく一般的なものだ。これ以上注意することは何もない。

「それじゃ帰りましょ。結構荷物多くなったけど、ナズナ、大丈夫?」

「お任せ下さい。この程度、お嬢様の……いえ、なんでもありません」

「あっ、サンコスタの冒険者協会にはちゃんと依頼の取り下げをしておいてくださいね、理由は旅の人が倒してくれたからとでも言っておけばいいので」

 この集落への信用度が多少下がってしまうが、これはもう仕方がないだろう。

 他の冒険者を連れてきて今日のような処理方法が出来たとも思えない。人前では雷撃系は使いにくいのだ。

 集落の面々にお礼を言われると長引くので、それでは、といってトリシアンナ達はさっさと退散する。

 それなりの素材も入手できたし、新たな魔術の実験も出来た。集落の貯蔵食糧も増えたし、毛皮で冬も今までよりは比較的暖かく過ごせるだろう。

 やはり人助けは利点も多くて美味しい。最高である。

 冬の定期報告の道中に、街道の脇に立っている看板が書き換えられているのに気づくまでは、トリシアンナはこの結果に大満足なのだった。


「あら、トリシア。大分胸が大きくなってきたわね」

 大商会の次期会長婦人であるユニティア自ら、末妹のドレスを仕立てるための採寸を行っている。

 姉の発したその言葉に、側で待機しているナズナの感情が僅かに揺れている。

「そういえば少し……今の服で動き回ると、擦れて少し痛いです」

「上の下着はつけていないの?だめじゃない、ちゃんとつけないと」

 そもそもトリシアンナはそれを持っていないのだが。

「はあ、まだ持っていないので……」

「6歳の頃、王都に行った時に買ってもらったでしょう?それは?」

 そういえばそんな物もあった気がする。どこへやっただろうか。

「済みません、存在そのものをすっかりと忘れていました。まだ先の話だと思っていたもので」

 帰りに荷物の中につっこんでそれっきりだ。どこへ仕舞ったかすら覚えていない。

「もう、仕方ないわね。いいわ、どうせ採寸もしているのだし、この後一緒に買いに行きましょう。ナズナも必要でしょう?」

「はっ?わ、わたくしですか?」

 急に話を振られて動揺する黒髪の従者。

「そうよ。あなただって急に背が伸びたでしょう?合同宴会に着ていく服だって、入らなくなっているわよ」

「あぁ、そういえば……確かにそうです」

 昨年の時点で少し窮屈に感じていたので、今年は入らなくなっているかもしれない。

 侍従服も新たに仕立て直してもらったのだ。

 前の服も着られるには着られるだろうが、ちんちくりんでは少し情けない。

「胸だって大きくなっているでしょう?サイズは?」

「は、いえその、それは少し」

「じゃあ、店で測ってもらいましょう。ほら、行くわよ」

 目盛りの付いた紐を片付けて、善は急げとばかりに急かすユニティア。この街に、彼女に抗える者など一人としていないのだ。

 南北に走る目抜き通りから、一つ東に入った通り。

 裏通りと呼ぶには少し広すぎるそこは、大きな家々が立ち並ぶ高級住宅街となっている。

 その通りの中程、広い庭を持つ家に囲まれた、小さな店舗の中に三人はいた。

「トリシア、これなんてどうかしら」

「少し派手ではないでしょうか。それに、すぐ買い替えることになりそうなので、あまり高価なのは勿体ないです。こちらの胸を完全に覆うタイプなんかがよさそうです」

「そう?うーん、動く時にはそれでいいのかもしれないけれど、ドレスにはちょっとねぇ。せめて、王都の宴でつけるは違うのにしましょう?」

 下着を選んでいる二人を、ナズナは半ば死んだような目で見つめている。

 こういうのは普通、自分一人で選ぶものではないのか。

 店内を見渡すと、驚くべきことにここは下着の専門店のようだ、大人用から子供用、大小様々な色とりどりの下着が、所狭しと陳列されている。

 ナズナにとって下着というものは、つけてさえいれば良いという程度の認識だったので、衣服のようにこれだけの種類があることが信じられなかった。

「ナズナは普段、どんなものを着けているの?」

「いえ、ユニティア様、その……この様に派手、もとい素敵なものではなく、布を巻いているだけですので」

「は?」

 忍びには必要ないのだ。胸があまり動いては動作に差し障るし、姉も自分も、ずっと硬めの布で締め付けていただけだ。

「職業柄といいますか、東方諸島の風習と申しますか」

 その言葉に、ユニティアの目が細められる。

「そうなの、気付かなくてごめんなさいね。侍従の衣服もメディソン家の責任なのに、お父様もお兄様も一体何をしていたのかしら。何もかもハンネに任せていては、責任者として失格だわ」

「そこまでしていただくわけにも。そもそも見える場所ではないわけで」

 使用人に下着は何をつけているかなどと、領主が聞いたりすればそれはそれで問題になったりしないだろうか。

「まぁ、それは後々ゆっくりお話すれば良い事だわ。今日気がついて良かったという事にしておきましょう。ね。」

 ユニティアはナズナの両肩をがっしりと掴むと、そのままカーテンの掛けられた小さな部屋の前に誘導する。

「この子の採寸をお願いしても良いかしら」

ユニティアがそう発言すると、すっと音もなく一人の店員が現れた。どこにいたのだろう。

「では、中へどうぞ。靴はそのままで結構です」

 押し込まれるようにして狭い部屋へと店員と二人、閉じ込められた。


「お姉様、これとこれにします」

 トリシアンナが両手に二種類、携えて姉の元へと近寄ってくる。

「あら、もういいの?試着はした?」

「はい、問題ありません」

 手に下げているのは、先程言っていた運動用のものと、前で留めるタイプのシンプルなものだ。後者は肩紐の無いタイプで、肩の出ているドレスでも問題ないだろう。

「予備をもう二枚ずつ買いましょうか。好きな色はある?」

「あ、確かにそうですね。では、それぞれピンク色のと水色のものを」

 受け取ったそれを店員に手渡し、オーダーを告げる。支払は当然、商会止めだ。

「ありがとうございます、お姉様。私が買うにはこのお店のものは少し高くて」

「トリシアはお小遣いを頂いていないの?」

 ユニティアがこのぐらいの頃には、この店の下着を買うのに問題ない程度は、金を渡されていたが。

「お父様からは頂いていないですね。自分で魔物や獣を狩った素材を、街で換金しているので」

 普通の貴族の娘の行動ではない。まるで猟師や冒険者ではないか。

「お金が必要だったらお父様やお兄様に言っていいのよ?何も自分で稼がなくても」

 しかし、この言葉に妹は首を振った。

「家のお金は、領民から頂いた税金の中から支払われたものです。お仕事をなさっているお父様達は兎も角、働いていない自分が頂くわけにはまいりません。それに、少しでも魔物を狩ることで街も安全になりますし、素材を無駄にしないのは大切なことです」

 なんと出来た妹だろうか。思慮深いだけでなく慎み深い。これは正に貴族の責務、いや、この子は最早王の器ではないか。

「えらいわ、トリシア。立派な妹がいて私は誇りに思います。その心がけは、きっとあなたに良い結果として返ってくるに違いないわ」

 肩をぎゅうっと抱きしめて囁くと、妹はくすぐったそうに身を捩った。

 トリシアンナが6歳の頃、王都から帰ってきて話をした時、ユニティアは密かにこの妹の将来に向けての計画を立てていた。

 もしかしたら自立心の強いこの子には必要の無い事かもしれない。しかし、必要となる可能性が少しでもあるのならば、準備しておくに越したことはないのだ。


 買った下着を包んでもらって受け取ったトリシアンナは、改めて姉に礼を言った。

 いいのよと言う姉と並んで、何故か採寸の長引いているナズナを待つ。

「なんだか時間がかかっていますね」

「あぁ……まぁ、布らしいから……」

 暫く待っていると、店員だけが少し戸惑った様子で出てきた。

「お連れ様、中でお待ちですが、適当に選んで欲しいと言われてしまいまして……いかがいたしましょうか」

 自分でつける下着を店員に選ばせるのか。トリシアンナも流石に呆れた。

「仕方がないですね。お姉様、私達で彼女に似合いそうなものを選びましょう。すみません、サイズはわかるのですよね?」

「あっ、はい。こちらの大きさですが」

 メモのような紙に書かれた数字を見せられる。

「あら。……やっぱり布で締め付けていたのが悪かったのかしら」

「お姉様、どうかされましたか?」

「いいえ。なんでもないわ。ねえトリシア、ナズナの好みの色とかデザインは分かるかしら」

 トリシアンナは一緒に服を選んでいた時の彼女を思い出して言った。

「色は黒が好みのようですね。デザインは……派手なものよりシンプルなものが好きみたいです」

「なるほどなるほど。黒とは意外ねぇ。それじゃ、一緒にそれっぽいのを選んであげましょうか」

「はい、お姉様」


 突然降り掛かった災難に、ナズナは困惑していた。

 トリシアンナの下着の話から、何故か自分の服の話になり、一番触れられたくない胸の話にまで発展しているのだ。

 そういえば、といつだったか合同宴会に向かう馬車の中で聞いた話を思い出した。

 雑な格好をしていたフェデリカがユニティアに見つかり、着せ替え人形にされた、というアレだ。

 ぞっとして背筋が寒くなる。

 メディソン家長女の地雷は身だしなみという表面上のものにあったのだ。

 下着の見立てなどしたことがない。仕方なく採寸してくれた店員に頼み込んで選んでもらう事にした。専門店の店員ならば、そうおかしなものは選ばないだろう。我ながら賢い選択だったとナズナは思っていた。

 そう思っていた、のだが。

「ナズナ、選んできましたよ。開けてもいいですか?」

「えぇっ!?あっ、ちょっとお待ち……」

 答える間も無くカーテンが引き開けられた。

 すぐに試着して決めるつもりだったので、上半身は脱いだままだ。

 慌てて腕で胸元を覆うと、不思議そうな顔をしたトリシアンナがナズナを見ている。

「どうしました?はい、これを着けて見せて下さい」

 見せるだと。

 お嬢様に?

「そんな、お見苦しいものをお見せするわけには」

「見苦しいわけがないじゃないですか。お店の人に失礼ですよ」

「いえ、下着の事を言ったわけでは」

「いいからほら、はい」

 黒い下着を押し付けられて、カーテンが再び引かれる。

 何故か既視感がある。以前にもこういう事があったような。

 仕方なく手元にある、何故かあちこちが透けているものを胸にあてるのだった。


「次は服ですね。お姉様、ナズナは背が高いので色んな服が似合って素敵ですよ」

「まぁ、楽しみだわ。トリシアも、折角だから王都で着る服を選んでおく?」

「良いのですか?でも、支払いはメディソン家付けですよね」

「スパダ商会から請求を回しておくから大丈夫よ。気にしないで」

 経費だと言っていたので、アンドアインも文句は無いだろう。

 前回は姉の選んだ服で割とひどい目にあったので、自分で選べるのならば歓迎である。

「大商会は支払いの融通が効いて本当に便利ですね」

「手数料は取るけれどね。大きい買い物だとあまり気にならないけど」

「でも、大きい買い物だと税金がかかるので、やっぱり合計すると馬鹿にならないです」

 楽しそうに歩く姉妹について行きながら、ナズナは暗澹たる気持ちになっていた。

(お二人に見られてしまった)

 正確なサイズまで知られてしまったのである。これは絶対陰で囁かれる。

 トリシアンナの性格を考えるとそれはありえないが、ユニティアはふとした事で話の種に出しそうな気配がある。

 フェデリカの話を考えると、暫くこの事で弄られられそうでもあり、不安がこみ上げてくる。

「どうしました?ナズナ。何を気にしているのですか?」

 悲哀や不安の色を強く感じ取ったトリシアンナが、心配そうに声をかける。

「いえ、何でもありません。何か顔に出ていましたか?」

 鉄面皮自体は保っていたのだが、そんな取り繕いはトリシアンナには全く通用しない。

「無理しないで下さいね。気に障ったことがあるなら謝ります」

「そのような……トリシアンナお嬢様には何の落ち度もありません。これはわたくし自身の問題ですので」

 気にして自分の主に心配をかけては世話は無い。ナズナはどうにかそう思って立ち直った。

「トリシア、あまりしつこく聞いては駄目よ。女の子には触れてほしくない事が沢山あるものでしょう?」

「そうですね、お姉様。ごめんなさい」

 この長女は優しいのだか優しくないのだか。無意識なのか、間接的に心を抉ってくる。

「ここよ。王都にもあるのが本店だけど、支店のここで選んだ服は全て本店でも手に入るから」

 店はスパダ商会の割とすぐ近くにあった。

「こっち側にはあまり来なかったので気づきませんでしたが、大きなお店ですね」

 店舗の大きさで言えば、大通りの西側にあった武具店に近い規模だ。衣料を扱う店でここまで大きな店舗を、トリシアンナは今までに見たことがなかった。

「そうね、トリシア達は大体うちに来たら引き返すでしょう?」

 街のこちら側に来る目的が、港通りの市場かユニティアの家、それに隣接するスパダ商会本店のみだからだ。

 その東にも街は続いているのを知っていたものの、案内されなければ近寄ることも無かった。

 トリシアンナは街の東門から外に出たこともない。

「さ、入りましょう。ここも商会の系列店なのよ」

 一体この街の、いや、王都までも含めて、どれほどの施設や商店にスパダ商会の息がかかっているのだろうか。

 そこから上がってくる情報を考えると、このユニティアが異常に先を読めるカラクリも見えてこようというものだ。

 店舗は三階建てになっている。

 一階部分は比較的庶民的な、普段着や作業着を扱うフロアとなっている。

 二階部分はフォーマルな衣類が多く、スタンダードなドレスや背広、燕尾服などが並んでいる。

 ユニティアは二人を連れて迷いなく階段を上り、三階の売り場へと向かった。

「いらっしゃいませ。ユニティア様。本日はお買い物ですか?」

 三階に登ると同時に、近くに立っていた店員が声をかけてくる。

「ええ。妹と友人の服を仕立てて欲しいの」

「かしこまりました。どのようなものをお望みでしょう」

 奥へと案内しつつ、歩きながら店員は尋ねる。

「妹には王城の夜会で着るドレスを二着ほど、一着は下の階で済ませるわ。友人にも同じように。採寸は済ませてあるわ。このサイズで」

「畏まりました。お好みのデザインをお聞きしても?」

 言われてユニティアは二人を振り返った。

「どうする?トリシアは前のと同じようなのでいいかしら?」

「あのう、できればあそこまで露出が多くないもので……」

「どうしてよ。折角大きくなってきたんだから、もっと大胆なのでも良いぐらいよ?」

 あれよりも大胆とか、もうそれは痴女ではないだろうかとトリシアンナは戦慄した。

「いえ、流石にそこまでは。その、でん……あの方の事がありますので」

 立派な理由がこのトリシアンナにはある。堂々と、控えめなものをお願いしたつもりだった。

「あら、そうだったわ。折角だもの、しっかりアピールしなきゃね」

「は?え?」

 この姉は何を言っているのだ?

「この間見せてくれたあれ、あるじゃない。あれをもう少し大胆なデザインにしたの、あったわよね」

「あぁ、あれでございますか。はい。今の所、黒と赤、それぞれ基調とした2色がございますが」

「そうね、前回は赤だったし、今度はイメージを変えて黒がいいかも。ね、トリシア」

「え?ええ?」

「畏まりました。ただいま近いサイズのものをお持ちします」

 良いとも悪いとも言っていないのに勝手に話が進んでいく。姉ってこういう性格だったかなとトリシアは混乱した。

「お嬢様……実は、パオラさんからフェデリカさんに関する話を聞いた事がありまして」

 そっとナズナが耳打ちする。

「フェデリカの?こんな時に一体何の話ですか?」

 我が身に迫る危機に焦るトリシアンナは、侍従の唐突な囁きに益々混乱する。

「実は――」

 愕然とする。そのような話は初耳だ。

 この姉は、常に完璧で清楚で美しい、非の打ち所の無い淑女だと思っていたのに。

 そういえば思い当たる節はある。

 まだ幼い頃、姉は邸に帰ってくる度に、自分に新しい服を買ってきていたのだ。

 単に離れて暮らす妹に対する愛情だと思っていたのだが、まさか、まさか着せ替え遊びを楽しんでいたのか。

 王都に届けられた衣装も、今考えれば全て100%、頭の上からつま先まで、装飾品や下着までびっちりと揃えたコーディネートだったのだ。

 姉のセンスによる夜会の常識を反映したものかと思っていたのだが、実は単に彼女の趣味だったのか。

 このままでは二人共、完全に姉の着せ替え人形になってしまう。とんでもないところに来てしまった。ナズナもこれは完全にとばっちりだ。

「こちらでございます」

「あら!素敵!きっと似合うわ。さぁ、着て見せてちょうだい、トリシア」

 逃げ出す口実が全く見つからない。服を買うと聞いて喜んでついてきたのは自分自身なのである。今更嫌だと言えるはずがない。

 諾々と流されるままに次々と試着、購入と話が進み、店を出た頃には二人共疲労困憊で倒れそうな程だった。

「楽しかったわね、二人共」

「え、えぇ……」

「はい……」

 元々ユニティアの持つ、外堀を埋めてから否定を許さない口述法が発揮されると、なすすべもなく従うしかない。

 これは話を聞かないラディアスや、面倒くさい事を嫌って即座に解決しようとするディアンナとは、また違った意味で厄介な能力である。

「どうする?うちで夕食を摂ってから帰る?そうだわ、泊まっていってもいいわね、客間は空いているし」

「い、いえ、お姉様。今日はまだ邸でやるべきことが残っていまして」

「そうですね、わたくしも……その、お嬢様のお手伝いを頼まれていますので」

 これ以上はもう駄目だと、必死で二人して息を合わせて理由をひねり出す。

「そう?残念ね。またいつでも遊びに来てね」

 ユニティアも、流石にこれ以上は強引だと感じたのか引き下がった。

 スパダ商会の前まで一緒に歩き、ようやくそこで開放された。

「信じられません……完璧だと思っていたお姉様にあのような一面があったとは」

 呆然と呟くトリシアンナ。

「何故でしょうか。下着も服も全て買って頂いたのに、疲労感が」

「ナズナはまだいいじゃないですか。ドレスも大人しめのばかりで……私なんてアレですよ、アレ」

 最初に着せられて、即購入となったあの黒いドレスを思い出す。

 以前着ていた背中の大きく開いていた赤いドレス。黒いものはそこから一歩先に進んで、胸元がぱっくりと開いて臍の下まで肌が見えているのだ。

 もうこれはドレスじゃなくて、過激な水着なのではないかと突っ込みたくなるデザインである。

「その、でも良くお似合いでしたよ。お嬢様には本当にぴったりで」

「ナズナがそうやって喜んだから、お姉様も気に入って買ってしまわれたんじゃありませんか。あんなドレスを着ていったら、今度こそ本当に襲われて――」

 ぴくりとナズナが反応したので慌てて修正する。

「――今度こそおそ、遅くまで帰れなくなってしまいます」

 いや、苦しい。この良い訳も随分苦しいぞ。

「お嬢様、王都に意中の方でもいらっしゃるのですか」

「いません」

 即答する。それは嘘ではない。

「そ、そうそう、ナズナのドレスもよく似合っていましたよ。きっとラディお兄様も褒めて下さいますよ」

「……」

「……」

「帰りましょうか」

「そうですね」

 時間ももう遅い。肉体の疲れよりも遥かに重い疲労感を背負って歩いたのだった。


「わぁぁ、ナズナちゃん、すごく綺麗ですぅ」

 先に馬車の中で待っていたジュリアが、開口一番そう発した。

「今年は言われる前にちゃんとお化粧してるじゃない。えらいえらい」

「二度も言われれば流石に……しないといけないと思ってしまいますから」

 一昨年も去年も、このフェデリカに馬車の中で化粧されたのだ。流石にもう手を煩わせるわけにもいかない。

「そのドレス、シックなのに意外と大胆でいいですねぇ、今年のはどこで買ったんですかぁ?」

 ジュリアはいつもナズナの衣装が気になるようである。

「今年はユニティア様に選んで頂いて……」

 そこまで言うと、フェデリカの顔からすうっと血の気が引いた。

「フェデリカさん!大丈夫ですから!ここにはユニティア様はいらっしゃいませんよ!」

 はっと我に返ったフェデリカに、ナズナはほっと胸を撫で下ろす。

「この服を買う時、フェデリカさんの気持ちがよく分かりました。大変でしたね」

「そうなのよ!逃げたいのに逃げられなくて!分かってくれるのね!あぁ、仲間が増えたわ!」

 その横でジュリアはマイペースに聞いてくる。

「へぇー、ユニティア様もセンスいいですからねぇ。ってことは、東のでっかいあのお店ですかぁ?」

「そうですね、スパダ商会の系列店だとかで。三階の」

「三階!三階に行ったんですかぁ!いいなぁ、あそこって会員制で、なかなか入れないんですよぅ。誰かの紹介とかじゃないとぉ」

 そんな特殊な場所だったのか。

「全部特別なデザインで、気に入ったものでも言えばオーダーメイドもしてくれるんですよぉ。その分お値段はもうすごいですけどぉ」

 値段は聞いていない。少し怖くなってきた。

「いいなぁ、私も今度連れて行ってくれないかなぁ」

 恐ろしいことを仰る。

「ユニ……その、スパダ商会の若奥様と一緒なら入れてもらえると思いますが」

 フェデリカがいる事を思い出して、慌てて言い方を変える。

「もー、ただの侍従がそんなことお願い出来るわけがないじゃないですかぁ。うちの実家とスパダ商会じゃあ格が違いすぎますしぃ」

 なぜかぷりぷりと怒り出すジュリア。

「はぁ、まぁ、確かに私もトリシアンナお嬢様のついでのような形でしたし」

「ナズナちゃんって結構得する事多いよね。お嬢様方やラディアス様と一緒に行動する事も多いし」

 得なのだろうか。苦労することは多分間違いなく多いだろうが。

 勿論トリシアンナお嬢様は圧倒的に世界一可愛いのでその点は得といえば得に決まっているが。

 あの黒いドレスもとても魅力的だった。もう、肖像画を額縁に入れて部屋に飾り、一日中眺めていたいほどに。

 そうして、一緒に買ってもらった自分の服を見下ろす。

 首から下、足元までフィットする、非常にタイトなドレスで、首から足元にかけて白から黒の、絶妙なコントラストの配色となっている。

 袖は無く、肩から脇の下までは大きく開いており、太ももの辺りから大きくスリットが入れられていて、歩く度に太ももがかなりの部分まで見えてしまう。

 配色のおかげかあまり胸元に注意がいかないようになっているため、これは胸の大きさを気にしていることに配慮してくれたのだろう。

 脚が見えてしまうことも、動きやすさを重視する忍びのナズナにはぴったりのデザインだとも言える。

 あの暴走気味の着せ替えは兎も角としても、流石に細かい所まで気がつく人なのだ。

 二人の格好を見てみる。

 フェデリカは相変わらず全体的に落ち着いた格好だが、やはり毎年のように気合は入っている。

 今日は深草色の全体として見ればゆったりとしたドレスだが、腰からお尻にかけてが妙にぴっちりとしており、肉感的な魅力を全面に押し出している。

 ジュリアは……もうどんな格好でもその巨大なものにしか目がいかない。服はもうおまけではないだろうか。

 一応は薔薇色のフリルが効いた美しいドレスを着ているものの、もはや並の衣装では役者不足である。いっそもう水着とかでいいんじゃないかとさえナズナは考えている。

「あぁーナズナちゃんも視線がちょっとエッチ〜」

「男でなくとも誰でもそこに目が行くでしょう。喧嘩を売っているのですか」

「ほんとだよね。もうこれ、ある意味暴力じゃない?しばいてもいい?」

 誰が集まっても姦しくなる馬車の中なのだった。


 いつもの海龍亭の前で待っていたのは、残りの三人、パオラ、アメデオ、ニコロだった。

 パオラは既にニコロの後ろに陣取って胸を押し付けており、最初から全開のようだ。

 顔を赤くして俯いているニコロを憐れむような視線を向けているアメデオ。こちらも相変わらずといったところだろう。

 6人連れ立って中にはいると、いつもの受付の所にはポートマンしかいなかった。

「皆さん、今年もお揃いですね。こちらへご記入をお願いします」

 全員が記入し終わった後に、ナズナは聞いてみる。

「ラディアス様はどうされたのですか?」

 ポートマンは当然聞かれると思っていたのだろう。すぐに答える。

「なんでも急用が入ったとかで……カネサダ様に呼び出されて出ていかれました。皆様には宴会を楽しんでいただくようにと事付けられております」

 毎年の宴会があると分かっていて呼び出したのだ、それは本当に緊急の用事なのだろう。

 それも今日出席していないものだけでは間に合わない、ラディアスを呼ばなければならないのほどの。

「なんか不穏だねぇ」

「大丈夫でしょうか」

 皆、口々に言いながらホールへと入っていく。

「どこに行かれるというのは聞いておられませんか?」

 ポートマンに尋ねるが、わからない、との事だ。それはそうだろう。警備隊の事など知る由もない。

 この様子では、既に中にいる警備隊の面々にも知らされていないに違いない。

 彼らとてラディアスが緊急で出るほどの事だと知れば黙っていられないだろう。

 ナズナも一応は大人しくホールに入る。決められた席に一度着席すると、頃合いを見て手洗いに行くと言って席を外した。

 後ろの扉から出る瞬間、入れ違いに前の扉からポートマンが入ってくるのが見えた。

 素早く扉を閉めて、外へと駆け出す。

 ドレスの裾を翻し、筋力増強と土遁を駆使して高い建造物の上へと駆け上がる。

 高所から周辺を見渡すが、特別どこかから火の手が上がっているという事もない。

 水撃系の探査術を発動し、周辺数百メートル範囲を索敵する。近くにはいないようだ。

 ならば、と同じく水撃系第四階位『ティンパ―ニ』を発現。鼓膜に到達するあらゆる振動から周波数を分解、特定領域の一部を増幅する。

「見つけました」

 体中の撥条を使って、屋根から屋根へと凄まじい速度で飛び移る。

 冷たい月の冬空に、白い影が奔る。


 東方諸島出身の剣士、カネサダ・ソウマは不敗である。

 正確に言えば、敗ける戦いをしなかったというのが真実である。

 だが、今まで挑んだ戦に一度も敗けなかったというのは紛れもない事実である。

 勝敗というのは結果によって判断される。

 故に、剣豪カネサダは不敗とされている。

「てめぇら、この街を襲ってただで帰れるたぁ思うなよ」

 ここでの敗けは連中に一人でも逃げられる事。そういう意味で、今や不敗は破られようとしている。

 『耳』からの情報が入ったのは今日、夕刻。

 王に絶対忠誠を誓う『耳』が、王以外へと情報を齎すのは極めて稀である。

 それは、その結果によって王国、ひいては王へと害があると判断された時のみ、特定の者にのみ囁く。それが『耳』である。

 その極めて稀な事象故に、その情報は絶対である。過ちは一度たりとて無い。

 だからこそ、カネサダはそれを聞いた時に天を仰いだ。情報、遅すぎんだろ。と。

 盗賊集団がサンコスタの富裕層が住む住宅街を襲う。時は今夜。

 それだけ言い捨てて姿も見えぬ『耳』は消えた。

 よりによって今日かよ、狙ってやがったなと一瞬で確信した。

 一人ではどう考えても手が足りない。

 かといって全員呼び戻すには忍びない。

 一年に一度、ハメを外す機会を奪われては、独身男の多い警備隊の士気が下がる。

 所詮は盗賊、アイツがいりゃあなんとかなるだろと甘く見たのが失敗だった。

 所詮は盗賊、確かにそれはそうだった。

「雑魚のくせに数が多すぎんだよ」

 雑魚は群れるものだろうと言われればはいそうですねと答えるしかない。自身が選択肢を間違えただけだ。

 それにしても40人規模とは思いもしないだろう。その半分であれば、自分とアイツだけで十分だ。

 やられはしない。そんなに自分は耄碌しちゃいないし、アイツだって一人で千人力だ。形振り構わなければ一人で全滅させるだろう。しかし。

 ただの盗みを鏖殺するわけにもいかない。それは秩序を守るものとして責を問われる行為だ。

 自分もアイツもそれを理解している。が、故に、手のひらからは砂が溢れる。

 一人逃がすたび、将来への禍根が増え、現在の資産が奪われる。

 それは僅かな傷だが、出血を伴うものだ。

 出血が増えれば人は弱る。出血が増えれば人は恐れる。

 10人は斬った。無論、全て生かしてある。

 こちらに来たのは15人。なんとかこちらは全て抑えられるだろう。だが。

 アイツが20人以上、この広い街で殺さずに止めるという事はできないだろう。そんなに器用な奴じゃない。

 となると、いくらかは殺す。もしくはいくらかを逃がす。

 どちらも、自分の後継者としての経歴に小さくない傷を作る事になる。

「くそったれの『耳』が。もっと早くか、もっと正確に伝えやがれ」

 最後の一人を叩き伏せて、ラディアスの元へと奔る。間に合わないと知りながら。


「めんどくせえ!」

 大地を踏みしめて後ろへ抜けようとする賊を、纏めて吹き飛ばす。

 地変系第四階位『ドレッドグランツ』によってめくれ上がり、吹き飛んだ石畳が三人の賊を打ち付け、完全に行動不能にする。

 逃げようとする連中は、行儀よく並んでやってくるわけではない。

 探査術で見つけた順番に、出口に近いものからもぐら叩きをするしかない。

 それにしても数が多すぎる。どっからこんなに湧いてきた。

 合同宴会で受付を始めて間もなく、走ってきた伝令に呼び戻されて、背広のまま剣を握って今はこれ。総隊長殿も人使いが荒すぎる。

 とはいえ、街に入って盗みを働く連中を放置するわけにもいかない。この街の資産は、この街の住人の血液なのだ。

 逃げる敵を追いかけるのは苦手だ。元々騎士というのは向かってくる敵を跳ね除ける戦い方をするものなのだ。

 我流も含むとはいえ、徹底的に叩き込まれた騎士団のやりかたが邪魔をする。

 いっそのこと手加減無しに、全部ぶち転がしてやりたい気分にさえなってくる。

 だが、ラディアスは都市警備兵だ。

 秩序を守るものが、秩序に反する事などできようものか。

「特別ボーナス、貰わなきゃ割にあわねぇぞ!」

 また一人、抜けようとする奴を吹き飛ばす。今まで潰した、もとい止めたのは8人。一体どれだけいるのか。探査術に引っかかった連中の数を見るだけでうんざりする。

 よりにもよってこんな日に来やがって、とボヤいても仕方がない。やるべき事をやらねば、この街を守ることなどできやしない。

「逃がすかよ!」

 爆発的な加速度で、離れた場所を走り抜けようとした者を蹴り飛ばす。

 腰に強烈な一撃を受けた賊の一人は、足を変な方向に曲げて住宅の塀にぶつかって崩れ落ちた。かなり手加減したので多分死んではいない。

 突進したのが仇となった。その反対側を三人、勢いよくすり抜けられる。

 しまった。追いつけない。逃してしまう。已むを得ない。殺るか。

 上から影が降ってきた。

 白い影は雷光のような速度で逃げる賊の一人に追いつき、その足首を掻っ切る。

 男の悲鳴を置き去りにして、残った二人を投擲した短剣、そして鋭い水の槍で打ち倒す。

「……おいおい、殺しちまったのか?」

 分かっていて聞いてみる。

「分かっていて聞いていますね。生きていますよ」

「こんな所で何やってんだ。宴会は始まったばかりだろ?」

「遅刻する馬鹿な代表者を迎えに来ました。さっさと片付けましょう」

 夜会姿の女は倒れた男から、水撃系で生成した麻痺毒を塗った短剣を引き抜く。

 月を背後に輝く刃を提げた忍びは、不敵な笑みをラディアスに投げつけた。


「わりいわりい、遅くなっちまった」

 どうにか宴会の半ばには間に合ったラディアスが、既に盛り上がりが最高潮のホールへと割って入る。

「何やってたんすか隊長!遅いっすよ!」

「あれ、なんでナズナちゃんと一緒に来たんですか?」

 都市警備隊の島から声が飛ぶ。

「あっ、ナズナちゃぁん!どこいってたの!はやくこっち来て!もう、フェデリカさんがまたぁ」

「ナズナちゃん!私というものがありながらどうしてまたラディアス様と一緒なの!」

 いつもの通りに物凄く面倒くさい事になっているのはメディソン家使用人の島だ。

「アメデオさん、宜しくお願いします」

「なんでまた僕が!?」

「おい!アメデオ!お前実は隠れ巨乳好きだろ!白状しろぉ!」

 フェデリカのターゲットを移す事ができてほっとする。後日謝っておかねばならない。

 パオラは相変わらずニコロといちゃついている。年下すぎると言っていたのは何だったのか。

 流石にあの中には戻る気になれず、隣にいる背広の男を見上げる。

「貸しはいつ返していただけますか?」

「今すぐにでも返してやりてえよ」

「では、そうしてもらいましょうか」

 男を引っ張ってホールの後ろへと急ぎ足で向かう。途中で野次が飛んでくるが全て無視。

「遅れた分は飲まないと、損だと思いませんか?」

 グラスに濃紫の葡萄酒を注いで渡す。

 ラディアスはふっと笑ってそれを受け取った。

「レディ・キラーに乾杯ってか?殺さなかった女が、一丁前に殺し文句なんて言いやがって」


 ジュリアはこの海龍亭が好きだ。

 いや、この街で嫌いなものを探すとすれば、それは汗臭い港の臭いだけかもしれない。

 合同宴会の酒臭さも、これはこれで好きなのだ。だって楽しいから。

 ジュリアは可愛いものが大好きだ。

 だから、メディソン家の侍従として採用された時は小躍りして喜んだ。

 あの邸には可愛いものがそれはもう溢れているのだ。

 領主のヴィエリオ様からして可愛い。立派なお髭で威厳があるのに、マリアンヌ様に頭が上がらないところだとか、自分の子供が大好きで、特に娘にはデレデレ甘いところとか。

 ディアンナはもっと可愛い。

 同い年で学院に入ったのに、ケラケラ笑いながら全てを置き去りにしていったのだ。あんなに可愛い同級生がいるだろうか。

 正直に言えば、ディアンナを追いかけてメディソン家の募集に応じたのだ。

 あの可愛い天才を近くで見ているだけで幸せになれると思ったから。

 そう思っていたら、もっともっと可愛い子がどんどん増えた。

 トリシアンナ様にナズナちゃん。もう、二人共可愛すぎてどうにかなりそうだった。

 今、目の前で馬鹿騒ぎをしている同僚も可愛いと思う。

 酒が大好きなくせに酔って暴走するフェデリカは、我に返った後どうしようも無く後悔していて、それでもまた同じことを繰り返すのだ。これでもう可愛い。

 パオラはああ見えて年下好きだ。

 あんなに露出度の高い格好をして、いかにも男好きそうなのに年下好きって。可愛すぎる。

 そんな子に絡まれて赤くなっているニコロ君も物凄く可愛い。ずっと眺めていたい。

 アメデオは。

 アメデオは別に可愛いとは思わないけれど、近くにいるとなんだかいる場所にちゃんといる感じがして安心する。

 可愛くはないのに彼の近くは居心地が良いのだ。彼がいるから安心して暴走する可愛い人達を満喫できる。生贄にしているだけのような気がするが、気にしたことはない。

 そういえば、最近の海龍亭の料理は可愛くはないけど美味しくなった。

 一昨年までは、結構可愛い料理が多かったが、今は可愛いよりも美味しい料理が増えた。

 恐らく料理人が変わったのだろう。

 美味しいものと可愛いもの、どちらが好きかと言われれば両方好きだ。

 でも、望めるのならば美味しくて可愛いものが一番好きなのだ。

 邸で出る料理は美味しくて可愛い。なんでかっていうと、料理長が可愛いからに違いない。

 可愛いは正義。これは世界の真理なのだ。


 休憩室でジョヴァンナ、フェデリカと一緒に珈琲を飲んでいると、いつもの主ではなく、ラディアスが顔を出した。

「ナズナ、ちょっと付き合え」

「はい?承知しました」

 いつもならばこのタイミングだとナズナの主がやってきて狩りに行こうと誘うのだが。

 言われるがままに使用人の休憩室を出る。

 非番の彼が真っ昼間にわざわざ自分を呼ぶからには何か内密な話があるのかもしれない。

 もしかしたらそういう事かもしれないのだ。

「人の耳目がないところのほうがよろしいですか?」

「そうだな、その方がいい」

 やはりそうだ。

「では、ラディアス様の部屋で」

「いや、それは少しまずい」

 成る程、確かにまずい。

「では、私の部屋で」

「それも同じだろ」

 そうだろうか?まだマシのような気がするが。

「裏に行こう。外なら大丈夫だろう」

「わかりました。外でされるのですね」

 中々チャレンジャーである。

 裏口から外に出て、実験場と称される広場にやってきた。

 あまり隠れる場所がないので不適切な気がする。

「こないだの盗賊集団、あいつらの身元がわかった」

「そうですか」

 そうですか。

「なんだ、知っていたかのような口ぶりだな……まぁ察しの通り、『バンディット』だよ」

 バンディットとは、王国全土に渡って窃盗、強盗、盗掘、詐欺、誘拐、強姦を行う、要はならず者集団である。

 それだけであればどこにでもいそうだが、奴らは成功率が他のならず者集団とは一線を画している。

 成功率が違いすぎるのだ。

 計ったかのように一番襲ってほしくないタイミングで、一番被害が大きくなる商品を運んでいる時に襲われる商隊。

 監視の目を掻い潜って、いつの間にか終わらせている盗掘。

 騙しやすい標的がいると見つけるや否や、本当に尻の毛まで毟り取る詐欺。

 窃盗などは警備が一番薄くなる時期と時間を見計らって集団で襲う。これは先の事件と一致する。

「『バンディット』に土をつけたのなら、サンコスタは最も守りの硬い街という事になりますね」

「そうだな。そうだろう。まぁ、お前がイレギュラーな存在だったってのもあるだろうが」

 つまりは、情報が漏れていた、と。

 いや、漏れるというような大層な情報ではない。

 あの時期に警備隊が手薄となるというのは誰だって知っている。

 それでも犯罪数が少ないのは、カネサダがいるという事と、いざという時はラディアスが飛んでくるからなのだ。

「今更漏れても大したことの無い情報ですが、それでもやってきた、というのが気になるのですか?」

「そういう事だ。流石に俺と違ってお前は頭がいいな」

 褒められた。もっと褒めて欲しい。

「カネサダさんがそう仰ったのですね」

「そうだ。つまり、街中から情報を。特にごく最近になってから流したんだろうな」

 まぁ、そうだろう。

 合同宴会なんてのは相当前からやっているわけで、狙い目だと思うのならもっと前に実行しているだろう。

「『バンディット』の情報提供者が、最近になってサンコスタにやってきたという事ですか。しかし、最近は移民が多すぎて特定などできないでしょう」

 人口は増え続けているのだ。特定などできやしない。

「あぁ、それは分かってる。ただ、これでサンコスタは攻めにくいと奴らが考えて、それで済めばいいんだが、問題はそうじゃなかった場合だ」

「手の内が見えてきたから別の方法なり人数でやろうと?」

 情報屋に居座られるのは確かにまずい。常に身内が敵の忍びを抱えているようなものだ。

 情報が筒抜けの組織など、はりぼての虎も同然だ。

「わからん。費用に見合うならやるかもしれんが……今回俺たちが一網打尽にした事で、奴らの素性がこちらにもバレたことは分かっているだろう。暫くは大人しくしているだろうが……」

「隙は見せられませんね」

 そして、それは精神をすり減らす。

「奴らがどこまで考えているかはわからねぇ。俺たちが出来るのは、二度と手を出したくなくなるようなしっぺ返しを用意する事ぐらいだろうな」

「重罪化を?しかし」

 王都や出身地の意向を無視する事は出来ないだろう。

「そうだ。重罪化は出来ねえよ。だから、奴らの情報源を『耳』に探らせる」

「出来るわけがありません」

「出来るのさ。こないだの盗賊襲撃の情報が、『耳』からもたらされたものだからな」

 息を呑んだ。そんな事がありうるのか。

 聞く限り、『耳』とは王のためにしか動かない、特殊な諜報機関だ。

 忍びが仕える主によって狙う対象を変えるのとは違い、『耳』は唯一、王のためにしか動かないのではなかったのか。

「『バンディット』にサンコスタが襲われちゃまずいのか、または別の理由があるのかわかんねえけど、少なくとも探る理由はあるってことだ。折角使えるかもしれねえ有能な奴らなら、是非使ってどうにかしてもらおうぜ」

「では、アンドアイン様に?」

「もう話した。わかったってよ。今度の近況報告は、やることが多すぎて兄貴も大変だろうな」

 確かにそうだ。

 家督の移譲、海の魔物、お嬢様の処女魔術に今度は『バンディット』か。

 てんこ盛りすぎてアンドアインは胃潰瘍になったりしないだろうか。

「人頼みになってしまうのが気に入りませんが、確かにそれが一番効果がありそうです」

「同感だ。どうも俺は、人にやらせるのが嫌いなんだよなぁ」

「適材適所という言葉もあるでしょう」

「分かるけどよ」

「では、今ここでラディアス様が出来ることをしましょう。まずは手始めに、私を」

「なんでそうなるんだよ脳みそ桃色忍者」


「ねえフェデリカ」

「何?ジョヴァンナ」

 残された休憩室で、珈琲と一緒に焼菓子を頬張りながら二人。

「今日こそやっちゃうに賭ける?1シルバで」

「あーもう少しだけどまだ無理だろうねぇ。2シルバ」

「賭け事ですか?程々にしてくださいね」

 トリシアンナが突然顔を覗かせた。

「と、トリシアンナ様お嬢様!済みません、下世話な事を」

「下世話?下世話な話をしていたのですか?」

「あー、いえいえ違いますよお嬢様。ラディアス様がナズナちゃんを呼び出したのでー」

 ジョヴァンナと違い、フェデリカはもう慣れたものだ。

 だって、このお嬢様だってよくご存知の事なのだから。

「あぁ……まだ無理だと思いますよ。1ガルダ賭けてもいいです」

「「フォール」」


 トリシアンナにとって10回目の年が明けた。

 この国にとって、年明けという出来事はそれほど重要視されるものではない。

 東方や南方であればいざ知らず、北の国も多いこの国では、まだまだ寒さ厳しい冬の最中なのである。

 通る節目を意識はするものの、それならば一年の収穫を祝う年末の方が余程重要な意味を持つ。

 南国には珍しくちらちらと風花の舞う日、彼女たちは馬車で連れ立って邸を出発した。

 いつもの三人、ではない。

 二人と同じ馬車の中で目を瞑っているのは、長兄であるアンドアインだ。

 6人はゆうに乗れる室内には、今はその三人の他にはぎっしりと旅の荷物が積まれている。

 アンドアインにとっては年に4回のうちの最初の一回、トリシアンナにとっては4年振り、そしてナズナにとっては初めての王都行きとなる。

「エマさん達とご一緒できなくて残念でしたね」

 トリシアンナは目を瞑っている兄に話しかけた。

 眠っているわけではないのは分かっている。兄はこうやって時々瞑想を行うのだ。

「あぁ。今回は他の護衛も都合がつかなくてな。まぁ、俺もナズナもいるから大丈夫だろう」

 この兄は、最近はナズナの前でも俺と言うようになった。

 他の侍従の前ではまず”私”だが、あまりにも四六時中トリシアンナと一緒にいるので面倒くさくなったのかもしれない。

 あるいはまた、別の理由からか。

「ナズナは王都に行くのは初めてですよね。一日ぐらいは余裕があると思うので、何かしたいことや行きたい所はありますか?」

 初めての馬車旅の出発に少し緊張気味の侍従は、それでも落ち着いた声色で答えた。

「いいえ、特には。お嬢様がお好きな事をされるのが私の望みです」

 それは本心からなのだろうが、この黒髪の侍従が大好きなトリシアンナにとっては複雑な気持ちになるのだ。

「ナズナはいつもそれですね。それじゃあ、私が何か決めておきます」

 ナズナの好きそうな事を、と付けると恐縮して面倒くさくなるのでそこは黙っておく。

 同行しているこの二人は、どちらも寡黙な人間である。

 余程の事がない限りはあまり無駄話をしないタイプなのだ。

 ただ、フェデリカ達の話を聞く限りでは、ラディアスと二人きりの時や、使用人達だけの時は結構おしゃべりをするらしい。

 まだまだ、従者としての立場を強く認識しているという事だろうか。

 いずれにしても彼女から自分に向けられている強い思慕の感情は変化していない。

 もっと気安くなるのは果たしていつになるだろうか、と、トリシアンナは内心小さく嘆息を吐いた。

 フランコの操る二頭立ての馬車は、滞り無く街の北門へと到着する。

 前回もそうであったように、エンリコの馬車とフィリッポの荷馬車、そしてルチアーノが既に待機しており、こちらの馬車に向かって手を振った。

「お嬢様、お久しぶりです。4年ぶりですね」

「ルチアーノ。フィリッポとエンリコも、お久しぶりです」

 馬車から降りて彼らと抱擁を交わす。

「お嬢様は随分とお綺麗になって。奥方様やユニティア様に似てこられましたなぁ」

「そちらの侍従の方は、付き添いですかい?」

 三人に向かってナズナが一礼する。

「お初にお目にかかります。トリシアンナお嬢様の専属侍従、兼護衛をしております、ナズナ・コウヅキと申します。以後、お見知り置きを」

 エマヌエーレの代わりに一輪増えた華を、彼らも歓迎する。

 男ばかりでの旅は気楽なものの、彼らも長い道中はやはり退屈なのだ。

 大きな荷物をフィリッポの荷馬車に移し替える。中身は殆ど旅のためのもので、王都だけで必要となる衣類などは、既に宿泊施設へと送ってある。

「時間が惜しい。早速出発しよう」

 兄の号令で、馬車は北の村、サドカンナへと向けて出発した。


「そういえばお嬢様、最近、この近くに変な名前の新しい村が出来たのをご存知ですか?」

 馬車に揺られて暫く経った頃、ルチアーノが思い出したように口を開いた。

「村……ああ、あの開拓地はもう村という扱いになったのですね」

 防衛設備もしっかりしているし、今年の収穫はそこそこあったのだろう。

 住民登録が済み、納税がちゃんと行われれば、領地に属する集合体の村として認められる。

「ご存知でしたか。いやあ、なんかいつの間にか出来てて。フィリッポは知っていたようですがね」

 支援物資を届けに来たフィリッポには、あの場所で会ったことを黙っていて欲しいと言ってあったのだ。

 領主の娘たちが壁を立てて堀を掘ったなどと言いふらされては、政治的に物凄く面倒くさい事になる。

 彼はちゃんと約束を守ってくれているようだ。

「しかし、ルチアーノさん、変な名前とは?」

 ナズナが疑問に思ったのか尋ねる。

「ええ、なんか妙に長くて。えーと、なんだったかなぁ……あぁ、看板に書いてあるのでもうすぐわかりますよ」

 姉の立てた看板は確かに街道からの分かれ道に立ててある。

 しかし、単に開拓地としか書いていなかった気がするのだが、誰かが書き換えたのだろうか。

「あぁ、見えて来ましたよ。ほら、あんな立派な道がいつの間にか出来てたんですよ。道幅も広くて地面もしっかり固められてるし、どうやって作ったんですかねえ」

 姉が木を吹き飛ばして作りましたとは口が裂けても言えない。

 段々と近づいてくる看板に目を凝らした。

『この先 ディアトリズナ村』

 なんだその名前は。

 どう考えても自分たちの名前から取って無理矢理つけたとしか思えない。

「あぁ、そうそう。ディアトリズナ村だった。ね、変でしょ?なんか古代の龍みたいな響きで」

 そう言われると確かにそのように感じるが、自分達の名前が混じっているという印象はどうにも拭いきれない。

 名前の表記に被って、姉と自分とナズナの顔が並んでいるように見えて非常に居心地が悪い。

 隣を見ると、ナズナも無表情でぶるぶると震えている。気持ちは大変によく分かる。

「……収穫が落ち着いたらしいのでな、納税もあったので名乗る許可を出した」

 事情を知っているアンドアインが、重要な事実は隠して表に出ている情報を言った。

「お兄様……どうして教えてくれなかったのですか」

「教えた所でお前がどうこう出来たか?彼らの希望だ、諦めろ」

 だからといって、ここまでずっと隠しておく必要は無いではないか。

 会話の流れが理解できず、不思議そうな顔をしているルチアーノ。

 衝撃の事実に対する心の準備が出来ていなかったせいで、トリシアンナもナズナも複雑な気分を抱えたまま、その日一日を過ごすことになった。


 概ね定刻通り、エストラ地方の最南端、サドカンナ村に無事到着した。

 相も変わらずこの宿場村は、規模の割に活気がある。

 宿へと向かう道すがら、馬車とすれ違うのは多くが冒険者や商人だ。

「村と言う割には人が多いのですね」

 ナズナが呟く。

「エストラルゴとサンコスタの、唯一の中継地点ですからね。ここから北にももう一つあれば便利なのですが、魔物が多く発生する地域なので」

 それ故にこの村には冒険者が多い。依頼の多くが、ここから北の地域を抜けるための護衛だ。

「魔物が多くとも、壁さえ立ててしまえばどうにかなりませんか?その、あの開拓地のように」

 確かに防衛設備が完成すれば、どうにか維持はできるだろう。

「割に合わない、というのが表立っては王都の考え方だ。エストラ地方は王都の直轄領だからな。財務長官と地方駐在官がサインをしなければ、公的には何も出来ん」

「民間なら尚更ですね。大量に護衛を雇って、資材や物資も大量に必要になりますし。完成すれば便利なのは誰もが分かっているのですが、私財を投じてまでやろうという人はいないでしょう」

 開拓地が出来ても、そこまで儲かるわけではない。

 希望する移民達を纏めなければいけないし、生きていくためには開墾も必要となる。

 ましてや失敗でもすれば恐ろしい赤字が発生するのだ。

「わかってはいても自分からは出来ない、ですか。ならば、それこそ公的な支援が必要だと思われますが」

 ナズナの言う通りだ。社会インフラの整備はその地を治めるものの仕事なのである。

「政治的な駆け引きがあるのだ。我々にはあまり面白くない理由でな」

 馬車は厩の前で止まり、4人は連れ立って降りる。

 理由は簡単だ。

 今でも人口が増え続けているサンコスタへの移動が便利になるとなれば、益々メディソン家の力は強くなる。

 それが面白くない勢力は、王都にも他の領地にも少なくない数がいる。

 それこそ近況報告の道中で、領主やその代理が事故にでも遭えばいいのにと思う輩だっているだろう。

 毎回護衛を雇っているのは、何も魔物の襲撃だけを予測しての事ではないのだ。

「いっそ我々で、というのは……無理ですね、それも政治的に」

「ダメだな。王都の直轄地の運営方針に、地方領主ごときが首を突っ込むな、と言われて、懲戒処分だ」

 外国の政治方針に文句をつけるようなものだ。ましてや地方領主は国王の臣下なのである。

 ぞろぞろと連れ立って宿に入り、ルチアーノが宿帳に記入する。

 年に八回も同じ宿に泊まるため、部屋自体は既に予約してあるのだ。

「いつもの通り、三人は同じ部屋。若旦那様がお一人部屋で、お嬢様とナズナさんが同じ部屋です」

 それぞれルチアーノから鍵を渡される。

 部屋の大きさの都合上、フロアこそ同じ二階ではあるものの、部屋の位置はそれぞれバラバラだ。

 宿自体がそれほど大きいものでもないので、これは仕方がない。

「明日の出立は午前6時だ。寝坊しないように気をつけてくれ」

 アンドアインはそれだけ言って、一人部屋へと入っていった。

 トリシアンナ達も簡単な手荷物だけを持って、各々が部屋に分かれた。

「村の名前には驚きましたね、ナズナ。まさか私達の名前を……」

 部屋の椅子に腰掛けてから、トリシアンナは口を開いた。

「勝手にお嬢様の名を借りるとは不届き千万ですね。帰りに何か言ってやりましょうか?」

 トリシアンナは慌てて両手を振る。

「いえいえ、私は別に怒っていませんから!ナズナはどうなのかなと思って。ほら、馬車の中で震えていたでしょう?」

 このナズナは表情を取り繕うのは上手いのだが、感情を隠すのはそれほど得意ではない。

 同行している兄と比べては可哀想だが、ラディアスの件といい、表情は取り繕っていても行動でばればれなのである。

「わたくしは……いえ、その、なんでもありません」

「どうして隠すのですか?教えて下さい」

 手を握って上目遣いに覗き込む。

「くっ……いえ。お嬢様の功績が地名として残るのが、その、誇らしくて」

 耐えかねて白状した。

「えっ?そうだったのですね。ナズナが嫌でないのなら良かったです」

 馬車の中で見た感情は怒りではなかったので、ずっと測りかねていたのだ。

 なんにしても、機嫌を損ねたわけではなさそうなので良かった。

「一緒に来てくれてありがとうございます」

 今一度、改めて礼を言う。

「お嬢様をお守りするのが私の役目です。お礼などおっしゃらなくて結構です」

「それでも言いたいのです。正直言って、私と兄だけで王城へ入るのは不安だったので」

 訝しげな表情を浮かべるナズナ。

「お嬢様とアンドアイン様で、不安?お二人は、私などより余程お強いし、そういった場にもお慣れなのでは?」

「私も兄も、政治的な立場からは逃れ得ません。自分たちより立場の強いものに迫られた時、避ける方法は限られてしまうのです」

 四年前のあの時、兄がどうにか王弟殿下を振り切って来てくれなかったら、今頃自分はどうなっていただろうか。

 選び得る未来を想像し、夢にまで見て飛び起きたことが何度もある。

「例の、王太子殿下の事ですか」

 トリシアンナは頷く。

 兄は、過激な部分は伏せてナズナに話してあると言っていた。

「お嬢様はどうなのですか。その、政治的な事を抜きにして王太子殿下の事を」

 過激な部分を聞いていなければ、このように思うのも不思議ではないだろう。

 何しろ相手は王子様である。王子様が嫌いなお姫様はいない、というのは一般的な世間の認識でもある。

「お互い出会ったのがまだ6歳と9歳の頃なのですよ。そんな感情、持ち合わせているわけが無いではありませんか」

 事実は多少異なる。とはいえ、それを説明するのは全てを話さなければ難しい事だろう。

「それは、確かにそうですが。では、今お会いになればどのような感情をお持ちになりますか?」

 随分とその部分を気にしている。

「今でも恐らくは変わらないでしょう。私とクリス……王太子殿下は、友人にはなれても恋人にはなれません。ましてや、将来の国母たる王妃などにはとても」

「王太子殿下の事はお嫌いですか」

「嫌いではありませんよ。あの時の彼は、素直で真っ直ぐな人でした。周りが見えていない部分は多々ありましたが、まだ子供だったのですから当然です」

 年下の子供が、年上の子供を子供だと言うのだ。傍から見れば何を言っているんだこいつは、だろう。

「王太子殿下が大人になって、周りをしっかりと見られるようになっていて、それでも求められれば……どうなさいますか」

 答えようがない。そんな問いには答えられないのだ。

「その前提には矛盾がありますね。周りをしっかりと見ていれば、そのような事は仰られないと思います。まず、ありえないのです」

 自分の行いが国にどれほどの混乱を撒き散らすか。それが分かっていて尚、女を求めるのであれば、それは狂気である。

「そうでしょうか。狂おしいほどの想いというものは、時折全てを投げ捨てても相手を求める。それが人間です」

「私達は、人間であるまえに貴族と王族です」

 そうとしか答えられない。必要と義務に縛られた生き物なのである。

「……そうですか。大変失礼致しました。出過ぎた口を」

「いいえ。ナズナが私の事を真剣に考えていてくれて、とても嬉しいです。ありがとう」

 彼女もラディアスとの事を思い出したのだろう。

 ナズナの内に秘めたるものは、その外面に反して圧倒的に苛烈だ。

 何者をも恐れない、強く確かな意思が、巨大な柱となって彼女の中に屹立している。

 自分にはそこまで貫けるものが何もない。依っているのは貴族という立場、領主の娘というその位置だけである。

 自分の意思など、過去と現在の間で揺蕩う小舟のようなものだ。

 周囲の環境や政治的意思という大波に対して抗い得るほど、強靭なものではないのだ。


 翌朝、誰一人遅れる事もなく馬車は出立した。

 ここから先、途中で野営してからエストラルゴまでが、王都への道のりの中で最も危険な場所である。

 手綱を握るエンリコも、普段より緊張しているようだ。

「お兄様、お兄様」

「なんだ?」

 どうせ気をつけなければいけないのは野営の時だけだ。常に緊張していては、本来の力が発揮できるわけもない。

 トリシアンナには周辺広範囲の魔物を警戒できるだけの能力がある。心配するだけ無駄だ。

「王都のあの宿、ヴィクトリア・インでしたっけ。今年もあそこに泊まるのですよね」

「そうだが」

「勿論、ナズナも一緒に泊まるのですよね?」

「……そうなるな」

 護衛が近くにいないわけにはいかないだろう。当然だ。

「やりましたよ、ナズナ。あそこはご飯も美味しいし、何よりお風呂が最高です!着いたら早速一緒に入りましょう」

「お嬢様と、ふ、風呂にですか!?……あの、よろしいので?」

 あからさまに狼狽えるナズナ。

「何かいけないことがありますか?あそこは凄いですよ。いつでも二十四時間、お湯の出る蛇口があるのです。共同浴場もすごく広くて、色んな湯船があるんですよ!」

 それだけではない。

「宿には昇降機もありますし、今回は何階なのかわかりませんが、部屋からの眺めも素敵です!お食事もどれも美味しいですが、朝ごはんはなんと同じ値段で食べ放題なのです!」

 キャッキャと騒ぐ妹に、兄は呆れて口を挟んだ。

「相変わらず、お前は風呂と食事となると性格が変わるな。……うん?なるほど、ユニの衣服に対する執着と似たようなものか」

 言われてはっと気がついた。

「えっ……私、そんなに暴走していました?」

「ああ」「はい」

 自覚させられてひどく強いショックを受けた。

 姉二人と同じ様な暴走を、自分がしている?まさか、そのような事が。

「これはもうメディソンの血という他にないな。男子はそんな事がないのだが……」

「そうですね、アンドアイン様。ディアンナお嬢様も魔術や研究素材の事となると目の色が変わりますし。アンドアイン様やラディアス様にはあまりそのような所は見られませんが」

 ナズナにも言われている。

「でも、お兄様は紅茶に対して並々ならぬ拘りがあるでしょう?ラディお兄様だって鍛錬の事ばっかりです」

「いや、ラディは兎も角私はそこまでではないぞ。確かに茶は好きだが、嗜好品を嗜むというだけだ」

 本当だろうか。

「ナズナはどう思いますか?お兄様方の事を」

「はい?」

 ここは身内だけでなく第三者に聞いてみるべきだ。

「アインお兄様は、紅茶にジャムを入れようとすると怒ります。それはもう」

「いや、それは茶に対する冒涜だろう。折角の濁りのない香りに余計なものを加えるなど、生産者に対しても失礼だし何より味が変わってしまう」

「ほら」

「あぁ……そうですね」

 結局男もみんなそうではないか。というより、人には何かしらそういった譲れないものがあるのだと思う。

「ラディお兄様はもうあの調子ですから」

 鍛錬をしていないと落ち着かない、鍛錬馬鹿なのである。

 暇さえあれば動いており、そんなに鍛えてどうするのかと聞いてみれば、鍛錬に終わりはないと豪語する始末だ。

「そうでしょうか?」

「ナズナにラディお兄様に対する評価を聞いた私が馬鹿でした」

 そういえば彼女は第三者とは言い難かった。

 盲目にも程があるとは思うが、そういえばこの元忍びも同じ様な鍛錬を子供の頃からしていたのだった。

「ナズナとラディお兄様ってちょっと似ていますよね。勿論常識はナズナのほうがありますが」

「そう言われてみればそうか」

 当のナズナはラディアスに似ていると言われてちょっと喜んでいるのに少し腹が立つ。

「皆さんは本当に仲がいいですねえ」

 ルチアーノに苦笑される。仲が良いのは当然だ。家族なのだから。

 ふと、自分のその思考に気がついて驚いた。

 そう、今は仲の良い家族が当然だと思える環境に自分は居る。

 それは決して特別な事ではないが、恵まれた事でもあるのだと。自然にそう思える事が如何に幸せな事かと。


 宿屋で作ってもらった弁当を食べながら、ガタゴトと馬車に揺られる。

 何もないのは平和で良いのだが、やはり退屈だ。

 魔物でもいれば狩るのだが、生憎周辺には小物しかいない。

 いても狩りに行くというのは兄が許さないだろう。前回の旅もそうだったが、どうにも身体が鈍る。

「お兄様、退屈です」

「そうか」

 兄はそれきり黙った。

「ナズナ」

「忍耐も鍛錬の一つですよ、お嬢様」

 おかしい、自分はこんなに堪え性の無い人間だっただろうか。

 どうにも赤い月が来てからというもの、微妙に心身の変化を感じる。

 こういうのは、普通落ち着く方に作用するものではないのだろうか。

 妙に魔力が滾る気がするし、好戦的にもなった気がする。

 なんというか、むらむらするのだ。

「先に野営する場所に移動して、周辺に危険が無いか見てきます」

 制止の声を待たずして、馬車の後ろから飛び出し、前方に向けて高速で移動を開始する。

 魔力を解放する感覚が心地良い。もっと速く、もっと強く、もっと激しく。

 燃えるような身体の奥から、無尽蔵に力が湧いてくる。

 右手の奥にブラッディボアの反応を発見した。

 即座に飛びかかり、両手でその長い牙を掴むと、魔術で筋力を増幅した腕力と柔術の技でもって投げ飛ばす。

 宙空に放り出されたイノシシに向かって、全力で鎌鼬を放出する。

 斬れるというより弾け飛ぶようにしてイノシシの巨体はバラバラになった。

 血煙が飛び散り、熱い内臓が千切れて花火のように飛散する。

 力を解放したときの圧倒的な万能感と全能感。

 ぞくぞくと背中を駆け巡る快感が抑えきれない。

 なんだこれは。自分にこんな力があったのか。今なら何でも出来そうな気がする。

 磁力加速で真っ直ぐに森を突っ切る。

 高笑いを上げながら、近寄る全ての魔物を片っ端から吹き飛ばす。

 もっと強い魔物は居ないのか。手応えが無さすぎる。もっと強い魔物を、もっと強い敵を。


 我に返ると、どこか見た場所にいた。

 ここは以前、ダイアーウルフの群れに襲われた場所だ。

 先程までの滾りは嘘のように治まっていた。心の中は凪のように静まり返っている。

 かなりの速度で先行してしまったようだった。気配を探っても、アンドアイン達の馬車の存在を感知できていない。

 手持ち無沙汰を感じて、なんとなく野営の支度を始める事にした。

 近くを回って落ちている枯れ枝を拾って集める。

 焚き火の跡を軽く掘り起こしてみたが、これより前に通った旅人はもう大分前にここを通り過ぎたようだ。火種は残っていない。

 集めてきた枝を近くに放り出して、椅子として使われたであろう石の上に腰掛ける。

 ひんやりとした冬の冷たさが、今回の旅の為に用意した旅装のスカートから、下着を通して尻に伝わってきた。

 先程までのあれは一体何だったのだろうか。

 自分の行動は全て記憶にある。

 神経強化を使うまでもなく、流れる世界に舞い踊る景色、魔物、血、肉。

 死を前提としてして敵を道連れにしようとしたあの時の感覚が蘇る。

 死ぬ間際に見たあの色と景色。結果が血塗られた鮮やかな美しい色。

 今やその感覚は消え失せ、記憶だけが凪いだ身体に残っている。

 なんとなく、拾ってきた枝を焚き火の跡に放り込んで、熱操作で火を付けた。

 瞬く間に炎が上がり、爆ぜる音と共に暖かな熱を放射している。

 炎が途切れないように適当に枝を放り込んでいると、南からすごい速度で視慣れた気配が近づいてくる。ナズナだ。

 やってくる方角をぼんやりと眺める。もうじき見える。見えた。彼女の焦燥感が伝わってくる。そんなに慌てることなど何もないというのに。

「お嬢様!本気を出さないで下さい!追いつけないかと思いました」

 相当な速度を出してきたのか、ナズナは珍しく汗をかいている。

「済みません、ナズナ」

「道中の魔物、あれは、お嬢様が?」

 そうだ。手当たり次第、皆殺しにした。肉も素材も取るつもりもなく。

「はい。調子に乗ってやりすぎました」

 やり過ぎどころの話ではない。あれは、虐殺だ。

 しかも食べるためでも、生き残るためでもない。ただ、自分の力を解放したいが為に。

「遊びで殺したのです」

 力なく嗤う。

 遊びで生き物を殺した。

 漲る力に任せて。

 ただ、力を使いたいがだけの為に。

 それは獣ですらない。魔物だ。

「お嬢様……」

 ナズナが絶句する。それはそうだろう。

 トリシアンナ自身もこのような事が出来るなどとは思ってもみなかったのだ。

「一体何故、私があのような事をしたのか、自分でも理解できません。しかし、間違いなく断言できます。私は、使

 焚き火が爆ぜる。枝を追加する。炎が上がる。ただそれだけを見ていた。


 大分遅れて日が傾いた頃に、ようやく馬車は二人の場所へと到着した。

 黙って燃え尽きた焚き火を見ている二人に、アンドアインも他の三人も、何も声をかけなかった。

 野営の準備は滞り無く行われた。旅慣れた人にとっては一つのルーティンワークに過ぎないのだ。

 ずっと石に座っているトリシアンナと、その側に佇むナズナ。

 誰も、何も言わない。

 じきに御者の二人は馬車へと戻り、ルチアーノも焚き火の横で寝袋に入って寝息を立てている。

「道中のあれは、お前がやったのか」

 アンドアインがようやく声を発した。

「はい」

 トリシアンナもその返事だけを返す。

「説明できるか」

「はい」

 焚き火に薪を入れる。これはこの日の為に荷馬車に積んできたものだ。

「あの時、私は二人に話しかけました。退屈で退屈で、力が有り余っていて、どこかで発散したかったのです」

 きっかけはそれに間違いないだろう。

「移動用に風圧系の第二階位『サス』を発現したとき、今まで感じたことの無いほどの物凄い快感がありました。もっと力を使いたい、もっと力を解放したいと。その欲望に従った結果が、あれです」

 脳髄を突き抜けるような圧倒的な快感。

「全能感、万能感。自分が圧倒的な強者であるという優越感。恐ろしい程の快感でした。目に映る全ての魔物を、ただ殺したいが為に殺し、屠りたいが為に屠ったのです」

 対象が魔物だったから良い。だがこれが人に向かえばどうなっていたか。

「私は獣ですらない、魔物です。またもう一度、あのような事が……仮に、人に対して起これば」

 恐ろしい。抗い難い快感に飲まれた自分が、街の人々を次々に。

「起こりませんよ、お嬢様」

「そうだな」

 二人の言葉に反感が持ち上がる。

「そんな慰めのような保証、信じられるとお思いですか?」

 気休めに過ぎない。兄も、ナズナも、冷たい笑みを浮かべながら無慈悲な虐殺を行う自分を見てもいないのだ。

「慰めではない。お前が殺したのは、魔物だけだ」

「道中の小動物や獣には、一切手を出されていませんでした」

「……それは、私が」

 魔物の気配のみを感じられる能力があったから。

「理性があるものは魔物でも獣でもない。人だ」

 果たして理性はあったのだろうか。

「お嬢様。時折男性は獣だという表現をされるのをご存知でしょう」

「そんなものとはレベルが」

 違いすぎる。

「違いません。お嬢様が魔物を屠られたのは、欲望に従っての事でしょう。しかし、そこには明確なお嬢様の意思が働いていました。それは、獣にも、魔物にも出来ないことです」

 だから、それは、魔物とそれ以外を区別できるから。

「区別できるのならば、それは理性です」

 心を、読まれた?いや、彼女は話をそのまま続けただけだ。

「確かに、あのように素材も肉も取ることを全く考えないやり方は、今までのお前とまるで違う。だが、ただそれのみをしてお前が魔物であるという考え方は余りにも飛躍し過ぎている」

「でも」

「今の気分はどうだ」

 落ち込んではいるが、悪くはない。

 循環する魔素が行き場を求めて溢れ出ていた状態は既に落ち着いて、澱のように自分の底に溜まっているのが分かる。

「何ともありません。先程までの興奮が嘘のようです」

「であれば、暫くは問題あるまい。兆候はあっただろう。いつだ」

 何故この兄は断言できるのだろうか。

「兆候ですか?……赤い、月が始まった頃です」

 仕方なく兄には言い難い事を言う。

「なるほどな」

 何がだ。

「何がなるほどなんですか。お兄様は、赤い月がどのように身体に影響を及ぼすものか。理解されているのですか?」

 思わず反発心から言ってしまう。こんな事を言っても、兄を困らせるだけなのに。

「別に赤い月そのものを理解している必要は無いさ。ただ、お前がその兆候があった事を認識していることが理解ったのだ」

 この兄は、どこまで理性的なのだ。

「その、お嬢様。赤い月の時には、基本的に術の力は低下します。体調が悪くなる事もそうなのですが、魔素がその……一緒に出ていくからだと言われています」

「今月のはもう少し先だと思いますよ。まぁ、まだ私は安定していないのでいつになるかはわかりませんが」

 先月、先々月と、予想した日とはかなりずれて来た。

 近づいたら念のため、あれは使うようにしているので問題はないのだが。

「お嬢様は年齢に比べて、魔素蓄積量が異常だと、以前ディアンナお嬢様が仰っておられました。そして、赤い月は体内の魔素を同時に排出してしまう」

 まさか、そんな事が?

「……まさか、そんな事が?確かに危機が訪れるたびに食欲が増える、魔力量が増えるといった事は過去にも頻繁にありましたが」

「推測ですが……ディアンナ様か奥方様であればおわかりになると思いますけれど」

 今は旅の途中だ。二人に連絡を取ることは出来ない。

 そんな、使うたび、危険を感じるたびに増えるなんて。

 これでは永遠に肥大する魔素のブラックホールではないか。

「よろしい。そこまでにしよう」

 アンドアインが一旦場を仕切る。

「トリシアの肉体や魔力の状態がどうであれ、ある程度解放した今であれば暫くは暴走の心配は無い。これは確定事項だろう。そして、細かいことを調べることは今の我々には出来ない。であれば、旅を終えてから母上なり、ディアナに聞く。これで良いな」

 それしか無いし、それ以外には考えられない。

「はい。流石はお兄様です」

「流石はアンドアイン様です」

 揃って言うが、何故か兄は変な顔をしている。

「なんだかむず痒いな、そうやって無条件に言われると。兎も角、これで一旦この事を考えるのはやめよう。考えても無駄な事を考えるのは、時間も労力も無駄だ」

 全く以てその通りである、否定が出来ようはずもない。

「二人共もう寝ろ。見張りは私が引き受ける」

「では、二時間後に交代します」

 ナズナがそう言ってすぐに横になった。あっという間に寝息が聞こえる。これが忍びか。

「ありがとうございます、お兄様」

 兄は答えない。ナズナの横に転がると、急激に眠気が襲ってきた。

 意識が飛ぶ。


 ガタゴトと慣れた振動で腰が痛くなり、目が覚めた。

「おや、お嬢様。おはようございます。このタイミングは4年前と同じですね」

 ルチアーノが朝食らしいパンを手に持ったまま、こちらを見ていた。

「今回は治療の必要な方がいなくて助かりました。魔力も十分です」

「そりゃあ良かった。ま、後はどうせまた暇なんで、寝ててもいいですよ。あ、朝ごはん食べますか?」

 差し出してきた乾いたパンを受け取って齧る。唾液がきゅっと失われるのを感じる。

「……先にうがいをしてきます」

 馬車の後ろへと回った。寝起きというのはどうしてこうも喉が渇くのか。

 馬車内の後ろの辺りで、ナズナが眠っている。兄と交互に見張りをしていたのだろう。

 彼女には感謝の気持ちでいっぱいだ。うがいの後、綺麗になった唇で、そっと彼女の髪を掻き上げて額に唇を付けた。いつもありがとうございます、ナズナ。


 暴走はあの一回だけで終わった。宿に泊って移動して、宿に泊まって……あれは一体なんだったのかという疑問が湧いてくる程である。

 最後の宿場町を出発して、過去に見た王都外の町並みを見下ろす。

「故郷を思い出します」

 ナズナが聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。

「東方諸島は貧富の差が激しいと聞きましたが」

 今までその事を話題にした事は無かった。

 ナズナ本人が話したがらない事に、こちらが話を向けるわけにもいかないのだ。

「地域にもよります。本島はまだマシな方でしたが、北方などは……ここよりも極端でした」

 人というのは国家が違ってもどうにも似通ってくるらしい。

「以前にもトリシアには言ったのだが、あまり感情移入するなよ」

「心得ております。私とて忍びですから」

 いつかのトリシアンナと同じような答えを返している。

 馬車の中は沈黙のまま、例のごとく跳ね橋を渡って大きな壁の中を進む。

 兄の示したもので門番が敬礼するのも全く変わっていない。

「出るのは自由なのですね」

「ええ。それは私も以前来た時に思いました」

 嫌でも増える人口というのは良いことも悪いことも多いのだろう。

 サンコスタもその損益を我が身でもって体験している真っ最中である。

「人が増えると問題も多いですからね。そういえばナズナ、ラディお兄様と協力して『バンディット』40人を捕獲したそうですね。すごいです」

「名に聞こえた剣豪、カネサダ様もいらしたので。それに、ラディアス様は逃げるのを追いかけるのは苦手でしょうが、私の場合は寧ろ逃げる者にトドメを刺すのが主な仕事ですから」

 えっ、なにそれこわい。

「……全員殺さずに捕らえたんですよね?」

「はい、勿論。致死毒ではなくて麻痺毒を使いましたので」

 今更ながら忍びの殺伐とした生き様を垣間見せられた。華やかな王都へと入るその時に。

 噴水を左回りで通過する。二度目の今見ても、良く考えられているなあと感心してしまう。

 みんながみんな、左回りで移動すれば、移動距離が長くなる者がいるにしても、通行はとてもスムーズになる。

 サンコスタの人口が増えてきたなら、この方式を取り入れてもいいのではないかと思う程だ。

 例によってあの巨大な宿の敷地、広い厩に入っていく。

 ナズナをこっそりと見てみれば、自分が初めての時と同じ様な反応をしている。

 兄を見れば、こちらも自分と同じ様な顔をしている。まぁ、そうなるだろうと。

「お待ちしておりました、メディソン様。ご案内します」

 全く変わっていない。ヴィクトリア・インは、もう向こう100年はこの状態が変わらないのではないかと思わされる程の完璧さである。


「広いベッドはお前達だ。私はこちらの部屋」

 前と同じ部屋だ。違うのはナズナが居ること。

「どうですか、ナズナ!広いでしょう?」

「は、はぁ……あの、ここって本当に宿の部屋なんですよね?」

 その言葉にアンドアインが我慢出来ずに吹き出した。

「えっ!?何かわたくし、面白い事を言いました?」

 慌てるナズナ。とてもかわいらしい。

「ここに来た時の私と全く同じ台詞なんですよ。もう。お兄様ったら、ナズナに失礼でしょう?」

「すまんすまん、宿に着いた時からの反応がトリシアとあんまりにも同じでな」

 気持ちは分からないでもないが、そこは我慢すべきではないだろうか。

 兎も角、着いたからにはやるべき事があるのだ。

「ナズナ、ナズナ。お風呂に入りましょう?ほら、こっちです。これ」

「あの、なんでこの浴室はガラス張りなんですか?」

「見た目が良いからだそうです!中にブラインドがあるので心配ありません!」

「……コストに対しての効果があまりにも低すぎませんか」

「喜ぶ人もいるのかもしれませんよ?新婚さんとか」

「いや、新婚の方は一緒に入るのではないでしょうか」

「あら?確かにそうですね。倒錯した趣味のご夫婦ですとか」

「範囲が狭すぎませんかそれは」

 相変わらずこの宿はテンションが上がる。しかも今はナズナがいるのだ。

「兎も角、まずは入りましょう!脱衣所は無いのでここで脱ぎましょう!どうせ宿では旅装は着られないのです、さあ、今すぐ脱いで」

「お、お嬢様!ダメ、ダメです!そんな、引っ張らないで下さい!アンドアイン様が見ておられます!」

 よいではないかよいではないかと言ってナズナの服を引っ張っていると、兄はそっと奥の部屋へと入って扉を閉じた。

 まぁ、自分だけであればまだしも、ナズナがいるので仕方がない。

 アンドアインがナズナの入浴を見たとラディアスが知れば、なんかもう凄くややこしいことになりそうなので兄の選択は賢明である。

 とにかく風呂だ。まずは長旅の汗を流さなければ話にならないのだから。


 末妹は相変わらず風呂が関わると人が変わったようになる。

 いや、あれが本来のトリシアンナなのかもしれないが……普段の大人びた彼女を見ていると、そのギャップで卒倒しそうになるのだ。それが可愛いと言えば可愛いのだが。

「ナズナ、そこにブラインドの紐があるでしょう?それを引いて隠すんですよ」

「本当に意味がわかりませんね、これは」

 二人は大きな声で会話をしている。多少くぐもってはいるものの、扉を隔てたこちらの部屋の中まで丸聞こえだ。

 この部屋は一泊で4ガルダもの費用がかかる。

 2つに分けると単純に8ガルダだ。一人用の部屋は無い。

 故に、妹が二部屋に分けるのは勿体ないからと言い張った為に三人一部屋にしたのだが。

「ナズナはスラっとしていて綺麗ですねぇ。こう、お尻のラインもシュッとしていて」

「お嬢様は年相応で可愛らしいですよ。……あら?まだお毛は生えていらっしゃらないのですね」

「ナズナも生えていないですよ?ツルツルです!腋も!」

「私は忍びですので、常に魔術で生えないように処理しているもので……ほら、何か不衛生な感じがしませんか?」

「確かにそうですね。私も生えてきたらそうしようかなあ」

 やめてほしい。ここには男が一人いるのだぞ。

「ナズナは本当にスリムで素敵ですね、こことか」

「あっ、おやめ下さいお嬢様」

「胸も私より少し大きいでしょうか」

「お嬢様も、もうかなり膨らんできているような……」

「そうなんですよ。今年はブレストプレートでも買おうかなと思っていたのに」

 手元の小説を閉じてベッドに横たわる。とてもではないが頭に入ってこない。

「ひゃっ、ナズナ、そんな手付きで触らないで下さい!」

「いいえ、お嬢様。隅々まで綺麗にしないと」

「だからって、そんなところまで」

「この石鹸、すごいですね。王都の最新のものでしょうか。このぬめりが……」

「あっ……もう、ナズナったら。今度は私が洗ってあげますね」

「お、お嬢様私は結構で……あん」

「へぇー、ナズナのここはこうなっているんですねぇ。私とは少し違うような」

 勘弁してくれ。眠ることも出来ないではないか。

「ダメですお嬢様!そこに指を入れてはいけません!」

「でも、隅々まで綺麗にしないとって言ったのはナズナですよ」

「そ、それはお嬢様だから……あっ」

「ふふ、可愛いですねナズナ。ここもこんなになって」

 一体何をしているんだ。もうやめてくれ。

 ティーセットに添えられていた砂糖を齧ると水を含み、自らに水撃系第二階位『ドランク』をかけて飲み下す。

 無理矢理血中アルコール濃度を上げ、強引に眠ってしまうアンドアインだった。


「あら?お兄様は眠ってしまわれたようですね」

「長旅でお疲れだったのでしょう、無理もありません」

 風呂から上がり、例の服屋で買ってもらったうちのフォーマルな衣服に着替えた二人は、アンドアインの部屋を覗いて言った。

「夕食まではまだ間がありますし、寝かせておいてあげましょう」

「そうですね、明日以降のご心労を考えればその方がよろしいかと」

 二人は原因が自分たちにあるとは露ほども思っていない。

「ナズナはソーダを飲んだことがありますか?

「ソーダ?何ですかそれは」

「あっ、知らないのですね。サンコスタにはあまり無いですからねぇ」

 面白い材料を見つけたとばかりにトリシアンナは微笑む。

「夕食は美味しいんですけど、少ない量が順番にでてくるのでちょっと物足りないかも知れませんよ」

「問題ありません。忍びは僅かな携帯糧食で二週間は生き延びられますので」

「いやいや、今は高級なレストランのお話をしているのですよ。そんな極限状態の話をされても」

「そういえばサンコスタの街で最初にラディアス様に連れ込まれた時、パン挟みを頂きました」

「つ、連れ込まれた!?どこに!?」

「警備隊の詰所にある部屋ですが」

「何かされませんでしたか?」

「尋問はされましたね。訓練を受けた私には何程というものでもありませんでしたが」

「そんな……お兄様が年端も行かない少女にそんな事をしただなんて」

「素性を聞かれて、俺の所に来ないかと誘惑されました」

「あの筋肉だるま、子供に興味はないと言っておきながらそんな事を」

「私は喜んで承諾しました。もうこの方についていこうと」

「ラディお兄様……」

 流石にもう寝ていられなくて起きてきた。

「そこら辺にしておけ。あんな弟でも濡れ衣を着せられては流石にかわいそうだ」

 首を回すとゴキゴキと骨が鳴る。

「あっ、お兄様お目覚めですか」

「お前たちの話を聞いていると、おちおち寝ていられん。どうしてそう意味深な言葉ばかり選ぶのだ」

「意味深?」

「はて?」

 白を切る二人にうんざりとして、アンドアインは紅茶を淹れる準備をする。

 やはり金がかかっても部屋を分ければ良かった。この子達は本当に似た者同士だ。


「あの、本当に宜しいのでしょうか。私が食卓を共にしても」

「今更何を言っているのですか。旅の間はずっと一緒に食べていたでしょう?」

「いえ、それは正式な晩餐というわけではなく屋外ばかりだったので」

 黒いシンプルなフォーマルドレスに着替えたナズナは、どう見ても侍従には見えない。

 この服装と背格好であれば、傍目には兄の連れ合いかトリシアンナの姉に見えるだろう。

「同じ部屋に泊まっているのだ。逆にここで一緒に食事をしていなければ不自然だろう」

 アンドアインも平然とそう言う。

「そうですよ。折角なので一緒に楽しみましょう?ここはサンコスタではないのですから、誰も咎めたりはしませんよ」

「はぁ、いえ、そういう心配ではなくてですね」

 どうしても主従の関係を明確にしておきたいようだ。意外に忍びとは融通の利かないものである。

「それじゃあこうしましょう。命令です、ナズナ。食卓を共にしなさい」

「……かしこまりました」

 妹はこの従者の扱いを良く分かっている。しかし、この子が本当に家族となった場合、兄妹の関係性は一体どうなるのだろうかと、アンドアインは今から不安で仕方がないのだった。

 例の如くに昇降機で一階へと降り、三人揃ってレストランへと入る。

 飲み物を聞いて案内の給仕が下がったところで、漸くナズナは口を開いた。

「こんなに緊張するのは初めてです。今まで受けた任務の中にこのようなものはありませんでした……」

 受けた命令を任務と思って完遂しようとしているのだ。

「困りましたね、お兄様。まぁ、お酒でも入れば少しは緊張も解れるでしょうけれど」

 兄は自分とナズナの分、葡萄酒を頼んでいた。

「お前はダメだぞ」

「わかっていますよ。……前回は飲ませたくせに」

 トリシアンナが呟くと、ナズナがアンドアインを見る。

「飲ませた?アンドアイン様が?」

「違う。なんというかその、注文の手違いでだな」

「ご本人が酔っていたので気付かなかったそうです。見た目は全然変わらないのに」

 その言葉に、ナズナは不安そうに眉根を寄せた。

「あの、大丈夫でしょうか?もし不安であれば、酒精を分解致しますが」

「今日は大丈夫だ。心配するな。私は同じ失敗を二度も繰り返さない」

 確かに、この男はラディアスとは違って堅実で賢い。その点は心配は要らないのだが。

「また一緒にベッドで寝ますか?今度はナズナも一緒に三人で」

「またそうやって誤解を生むような事を」

「いえ……わたくしなどで宜しければ。そういった事も従者の務めであり」

 アンドアインはこめかみを押さえる。

「こんな場所でなんて話をしているんだ。ナズナ、トリシアの冗談を真に受けるな。真面目なのは良いことだが、貴族の言う事をいちいちまともに聞いていては身がもたんぞ」

「はっ?冗談でしたか。大変失礼しました」

「ナズナは面白いですねぇ」

 酒瓶を持ってやってきた給仕は、話が聞こえていたであろうに変わらぬ薄い微笑みを浮かべている。嗚呼素晴らしき哉専門職意識。

 実は、貴族がこういった高級宿泊施設で、従者や使用人と共に食事をするという事は割と良くある事なのである。

 何故か。その理由は、大抵は不倫である。

 家族の目の届かぬところで、仕事と称して利用し、こっそりと二人で逢うのである。

 こういった宿の従業員は、問い合わせが家族からあったとしてもまず答えない。

 宿泊客の個人情報は絶対に守られる。それを含めての価格設定でもあるのだ。

「まぁ、お兄様にはお相手がいないので何も問題ないでしょうが」

「何の話だ?」

「あ、声に出ていましたか、すみません」

 慌てて運ばれてきた柑橘のソーダ割りが入ったグラスを掲げた。

「良くわからんが、まあいい。今日は、トリシアの処女魔術報告を祝って」

 ここでも方便を使う。使っておいて悪い事ではないだろう。

 いくら情報が漏れないからといって、何でもあけっぴろげにするのはこれはまた違う事だ。

 ぷつぷつと泡立つ黄味がかった透明な酒に口をつけて、ナズナは驚いた。

「!?な、なんですかこれ。葡萄酒のエール?」

「いや、それ意味がわかりませんよナズナ」

 トリシアンナはケラケラと笑う。

「それは葡萄酒をソーダで割ったものだ。一部地域の特産品では発酵時に自ら発泡するものもあるらしいが、これは後から混ぜたものだな」

 ソーダ自体が酒と同程度の価格なので、割るために使うというのは非常に贅沢な使い方だ。

「そうなのですか。刺激がエールやラガーのようだったので驚きました。でも、美味しいです」

 刺激はそれほど強いものではなく、細かな泡が舌と喉を刺激する。

 割られた葡萄酒は渋みが消え失せ、爽やかな香りと風味だけを残していく。

「これは、いくらでも飲めてしまいそうですね。まさかレディ・キラーのようなものではないでしょうが」

「ナズナはあの酒を知っているのか。そうだな、そもそもソーダ自体はただの水のようなものだ。酒精も薄まっているので悪酔いはしないだろう」

 兄は3年前の事を知らないのだ。

 積極的に話すようなことでもない。

 二人があの日に朝帰りをしたことは知っているだろうが、基本的に兄弟であれ、個人の秘め事にはあまり突っ込んで聞いたりしないのが、アンドアインの方針なのである。

 そういえばナズナは今15歳だが、この兄の飲酒を許可する基準とは一体いくつからなのであろうか。

「お兄様、私が何歳になればお酒を飲むことを許していただけますか?」

 一応聞いておく。酒は別に嫌いではないのだ。飲めるものなら少しは飲みたい。

「大人になったらだ」

 曖昧すぎる。

「基準が曖昧ですね。大人と言えば私ももう大人ですよ?ほら、アレも来ましたし」

 一般的にこの国では、女子は赤い月をもって大人になったとされる。

 概ね12歳から16歳ぐらいまでの間に来るので、その辺りを節目とする事が多い。

「お前はまだ10歳だろう。若すぎる。あまり若いうちから酒精を摂ると良くないのだ」

「それはわかりますが。では、何歳からです?」

 同じ問いをもう一度繰り返してみる。

「お待たせいたしました。前菜でございます」

 間の悪い事に給仕が料理を運んできた。兄も黙っている。

 料理の説明が終わり、給仕が去っても、もう一度話を蒸し返すのも何だかしつこいかなと思って言えない。

 そんなに酒が飲みたいのかと思われるのも、乙女心としては複雑なのである。

 というか、フェデリカと同じだとは流石に思われたくない。

 隣に座っているナズナは背が高い。すらりとした身体には無駄のない筋肉がついていて、野生の獣を思わせるような身のこなしは実に格好が良い。大人にしか見えない。

 そのナズナは、前菜として出てきた美しく纏められた小さなサラダを口にして驚いている。

 トリシアンナも茹で野菜をフォークで掬って口に入れる。

 僅かな酸味と塩気が混じり合い、恐らく魚卵を使ったのであろう桃色のソースが、甘く茹でられた葉野菜と恐ろしいほどにマッチしている。物凄く美味い。

 自分の姿を見下ろしてみる。薄い薔薇色のドレスはこういった場でも違和感の無い格好であり、恐らく自分には良く似合っているだろう。

 背は歳相応に低い。女児としては平均的だろう。

 胸は膨らみ始めたとはいえ、まだまだ発展途上である。触ってみても重量感や沈み込むほどの柔らかさはない。

 フォークを握っている手の平だけは妙にゴツゴツとしている。多分背中と腹にも筋肉がついているだろう。

 なんだかアンバランスなのだ。

 見た目はどうみても子供である。なのに一部のみがやたらと鍛えられている。

 全身バランス良く鍛えていれば大人に見えるかもしれないと思ったが、やはり一番の問題は身長だろう。

「鍛えすぎた……わけではないですよね」

 食器を置いて腕を背に回してみる。肩の開いたドレスが少しずれて胸元に隙間が出来る。

「どうしました、お嬢様。背中でも痒いのですか?ほら、お召し物が」

 ナズナが慌ててドレスを直してくれる。

「どうしたら背が伸びるでしょうか」

 服の乱れを直してくれたナズナに礼を言ってから聞いてみる。

「背ですか?私は特別な事をしているわけではありませんが……」

 それは嘘だ。忍びが特別な事をしていないと、どうして平然とそんな事が言えるのか。

「小さい頃から鍛えすぎると良くないんですよね。でもナズナは背が高いです。私は割と食べる方なので栄養は足りているはずなのですが」

「はぁ……個人差としか。お嬢様も別に背は低くないと思いますが」

 同年代と比べればそうなのだろう。それはそうなのだが。

「いえ、早く大人になりたいなと思っただけです。変なことを聞いてすみません」

 ナズナだって困ってしまうだろう。何かをしてすぐに背が伸びるのなら、既にそんな方法は誰かが公表しているはずなのだ。

 メインは仔羊の肉を使った煮込み料理だった。煮込みといいつつ汁気は殆どない。

 ナイフを入れると、まるで抵抗がないかのようにすっと切れる。切れ目から良く染み込んだ茶色いソースと肉汁が溢れてくる。

「これはまた、素晴らしい味ですね」

 ナズナが感嘆の声を上げている。

 フォークに突き刺した肉を口の中に入れると、コクのある甘辛いソースと共に仔羊特有の仄かな肉の香り。噛みしめるほどの力を入れなくても、舌の上で煮込まれた肉は解けていく。

「ええ、美味しいです。以前も思いましたが、ここの料理人の腕は素晴らしいですね。……そういえば、マルコもそろそろ隠居するのでしたっけ」

 確か、結構な範囲で人を探していると父が言っていたのを思い出した。

「ああ。流石にもう歳だからな。ただ、中々彼のお眼鏡に適う人材が見つからん」

「料理長の料理、美味しいですからね。しかも様々な国の料理をご存知で」

 サバスの出身だというマルコは、ここ王都の料理店でも修行していたと聞く。

 若い頃から様々な土地を先々代――当代はアンドアインとなったのでそうなる――と一緒に旅をして覚えたのだという。

 そういえば、と、ナズナが何か思い出したかのように言った。

「海龍亭に最近新しい料理人が入ったみたいですね。合同宴会で、今までとは少し違った料理が出てきました。スパダ商会に問い合わせてみてはいかがでしょうか」

「ふむ、そうなのか?灯台下暗しだな。一度ユニに聞いておこう」

「引き抜きはまずくありませんか?」

 いくら親しいとはいえ、それは少しまずい気がする。

「聞くだけだ。別に引き抜こうとは思っていない」

 どうやら本当に人が見つからないらしい。

 あまり長くマルコを引き止めておくのも申し訳ないし、如何ともし難い。

 空になった皿が下げられ、デザートのアイスクリームが新たな皿で提供される。

 どう見てもアイスクリームだ。何度か艦の中で食べたことがある。

「これは、なんでしょうか。シャーベットではないようですが」

「アイスクリームですね、牛の乳に砂糖を混ぜて、冷やしながら撹拌して作るものです」

 カカオのソースがかけられ、ミントの葉が乗せられているそれは、以前食べたものと違い、とても上品な佇まいだ。白と黒と緑の色合いが美しい。

「よくご存知ですね。私は名前すら初めて聞きました」

「うん?トリシアはアイスクリームを食べたことがあったか?」

「はあ、食べたことは……まぁ、ないですね」

 あるのだが。

 匙で小さく削って口に入れる。ああ、やはりアイスクリームだ。

 ひんやりと舌の上で溶けていく。カカオのソースがほんのりと苦く、強烈に甘い。

 ミントの香りは牛乳の脂肪分を洗い流すかのような爽やかさ。

 艦上で食べたカチカチのアイスクリームとは段違いだ。

「驚きました。これも素晴らしく美味しいです。アンドアイン様、これは普通に売っているものなのですか?」

「いや。作るのに手間がかかるのと、常に冷やしておかなければいけないので、こうした料理店でしか提供されていない。材料はそう高価なものではないのだがな」

 冷やすのは熱操作を使えばどうにかなりそうだが、撹拌にはかなりの力が必要だと聞いたことがある。機械でも使わなければ難しいだろう。

「そうなのですか……サンコスタでも食べられればと思ったのですが」

 暖かい地方で暑い夏に食べるアイスクリームは、それはもう格別だろう。トリシアンナもつい想像してしまった。

「作り方は知っているので、邸に帰ったら一度試してみましょうか。ただ、撹拌に手間がかかるので……ディアナお姉様に道具を作ってもらいましょう。多分、できるはずです」

「本当ですか?お嬢様。楽しみです」

 ナズナは相当このアイスクリームがお気に召したようだ。

 確かに、この冷たい滑らかさと甘さはそうそう口に出来るものではないだろう。

 名残惜しそうに最後の一匙を口に入れたナズナを待って、席を立った。


 兄が部屋の風呂に入ると言うので、ナズナと二人、連れ立って共同浴場に行く事にした。

「ここの共同浴場はすごいですよ。なんと浴槽が5種類もあるのです。サウナまで設置されていて、もうやりたい放題ですよ!」

「や、やりたい放題?あの、共同浴場なのであまり走り回られるのは」

「あ、いえ。そういう意味ではありません。兎も角、早く行きましょう!」

 良い風呂には何度入っても良い。かの高名な詩人もそう、いや別に言っていないが。

 前回来た時と同じ様に、共同浴場は空いていた。

 全く人がいないわけではないが、一番大きな浴槽にちらほらといるだけだ。

 貴族というのはあまり共同浴場を好まないのだろうか。

 そもそも部屋に立派な風呂があるので、そちらを使っている人も多いのだろう。

 しかしそれだと、この施設の費用対効果は非常に悪いと言わざるを得ない。

 一体いくら維持費をかけているのだろうか。と、前回と全く同じ感想を抱いている。

「これは……なるほど、お嬢様が仰った言葉の意味がわかりました。ここまでやるのですか」

「ここまでやっているんです。もうやりたい放題でしょう?」

「ええ、やりたい放題ですね」

 二人で軽くシャワーで身体を流し、打瀬湯、薬湯、花湯と次々に移動する。

 ナズナは酒を飲んだ後なので、サウナは遠慮しておく事にした。

 最後に巨大な浴槽に二人で浸かる。

 湯の温度はやや高めだが、寒い冬の王都では丁度良い。

「何とも癖になりそうですね。これは」

「そうでしょう。私が以前滞在した時には、部屋の浴室を使ったのは一度だけでした」

 部屋の風呂も良いのだが、やはりこの広さと種類があるというのは凄い。

 姉は他のサーヴィスを受けてここに住むと駄々をこねたそうだが、トリシアンナはこの風呂があるだけで住みたいと思ってしまうのだ。駄々はこねないが。

 隣で目を瞑っているナズナの方を見る。

 彼女の胸は比較的控えめだ。姉二人や、エマヌエーレのそれと比べるととても慎ましやかである。

「やっぱり子供の頃から無理して鍛えるとこうなるんでしょうか……」

 自分もほどほどにしておかないと、一つの武器が失われてしまうかもしれない。

「何かおっしゃいましたか?」

 ナズナが目を開けた。慌ててなんでもありません、と否定して自分も目を瞑る。

 胸が小さくてもナズナはとても美しい。そう、大きさが全てではないのだ。


 王城から迎えに来た馬車に揺られながら、トリシアンナとその従者は朝食の話をしていた。

「お嬢様、今朝はどうされたのですか?あまり召し上がっておられなかったようですが」

 そうは言うが、大人が食べる程には十分な量を腹に入れていたのだが。

「ナズナ、人は学習するものなのです。国王陛下にお会いするというのに、食べすぎて膨らんだお腹ではあまりにも失礼です。コルセットも苦しいですし」

「流石です、お嬢様。そこまでお考えとは」

「いや、別にお前は今日陛下にお会いするわけじゃないぞ。まぁ、見られはするだろうが」

「そうなのですか?私はてっきり、ご報告にもついていくものかと」

 前回の報告と同じ感覚でいたのだ。それならば、もっとお腹いっぱい食べて来れば良かった。

「謁見はもう4年前に済ませただろう。今日は報告が終わり次第、お前の処女魔術をお見せするのだ。中庭で待機していなさい」

「あそこでやるのですか」

 馬車が行き来する広い中庭があった。そういえば、騎士団の競技などもあそこで行われると以前兄が言っていた気がする。

「中庭から上を見上げるとテラスが見える。そこに宮廷魔術師の面々と国王陛下がおいでになる。お前は下で魔術を見せるだけだ」

「そうですか、わかりました」

 直接挨拶しなくて良いのなら気分は楽だ。さっさと終わらせて、三人で帰りにどこかでお昼ごはんを食べて帰ろう。

「では、わたくしもお嬢様に付いていれば宜しいですか」

「そうだ。頼む。王城内とはいえ、からな」

「承知しました」

 ナズナもアンドアインの言っている事の意味は分かる。

 彼女にとっては別に大したことではない。いつも通り、トリシアンナに付いて目を光らせておくだけだ。

 広い堀に大きな跳ね橋、巨大な門を通って、いつか見た王城の中へと馬車は進んでいく。

 中庭で降りると、以前案内してくれた白ひげの政務官、モリスがやってきた。

「お久しぶりですな、トリシアンナ殿。随分とお綺麗になられました。それと、アンドアイン・デル・メディソン様。サンコスタ地方領主へのご就任、おめでとうございます。これで名実共に上級貴族でございますね」

「ありがとう、モリス。妹とこちらの従者は魔術の披露があるのでここに置いていく。案内を頼む」

「かしこまりました。トリシアンナ殿と従者の方は、そちらの長椅子でお待ち下さい。じきに準備が終わりますので」

 手を向けられたそちらには、屋根付きの木でできたベンチがあった。ナズナと並んでそこに腰掛ける。

 二人は王城の奥へと消えていく。また例の殺風景な部屋で待たされるのだろう。

「大丈夫ですか、お嬢様。寒くありませんか」

「大丈夫です。ありがとうナズナ」

 今の服装は、明るい水色を基調とした、丈の短いスカートドレスだ。

 膝上までのスカートは頼りないが、今は長いを履いているのでそれほど寒くはない。外なので防寒着であるルナティックヘアの毛皮も羽織ったままだ。

「外で待たされるとは思いませんでした。王城の方というのは意外に気が回らないものなのですね」

 ナズナが少し口を尖らせて言う。

「ここまでの間には兵士の詰所ぐらいしかありませんからね。仕方がありません。部屋にしても石造りの殺風景な部屋ばかりですよ」

「それも意外です。王城とはもっと豪華絢爛なのかと思っていました」

 それはトリシアンナも最初に思った事だ。

「宴や夜会が開かれるホールは大きくて綺麗ですよ。客を招くところと、臣下や兵を置いておくところを明確に別けているのでしょうね」

 だだっ広い中庭を見回していると、左手の奥から兵士が二人がかりで木人を持って出てきた。かなり大きい。2メートルぐらいはあるだろうか。

 二人の兵士は中庭の中央辺り、土がむき出しになっている場所に木人をしっかりと固定すると、来た場所へと戻っていった。

「あれが標的でしょうか。それにしても、攻撃魔術以外が処女魔術だった方はどうするのでしょうか?強化術なんかはぱっと見た目には分かりづらいですよね」

「そうですね。私も初めてなのでよくわかりません」

 兄に詳細を聞いた事もあるのだが、その時と人による、という事だった。

 兄の時は大きな丸太が並べられており、それを魔術で次々と両断したのだという。

 それに比べれば木人一つとは、やはり兄と違って女の子だからだろうか。

 それにしても結構な時間待たされる。防寒着があるとはいえ、ずっと屋外で座っているのだ。風はあまり通らないが、流石に少し肌寒い。

 トリシアンナは熱操作系第一階位『ウォーム』を自分たちの周囲に展開した。

 冬の寒さを完全に防ぐ事はできないが、何もしないよりはマシだ。

 少なくとも展開している間は室内と同じ程度の感覚でいられる。

「お嬢様、熱操作であればわたくしが使いますので」

「ナズナは私の護衛でしょう。有事にすぐに動けるように、魔術の使用は控えて下さい」

「……確かにその通りです。失礼しました」

 滅多な事はないとは思うのだが、方便である。

 単純に自分は複数同時展開が苦ではないが、ナズナは基本的にそれが苦手なのだ。

 この程度の魔術であれば3つ程同時に使っても大した負担にはならない。

 今日のお昼はどこで食べるのだろうか。

 以前に寄ったカフェでも問題ないが、折角ナズナもいることだし、もう少し大きなところに入っても良いかもしれない。

 食事の事を考えていると少しお腹が減ってきた。やはりもう少し食べてから来れば良かった。

「お嬢様、出てこられたようですよ」

 言われて前方上方を見上げると、確かに、現国王であるアルベール・エル・ケミストランド陛下と、その隣に兄、あとは見たことが無い人々が数人、テラスからこちらを見下ろしていた。

『君がトリシアンナ君だね。今から君が最初に発現させた処女魔術を見せてもらう。同じものを、そこの木人目掛けて撃ってくれたまえ』

 風圧系の第一階位『エコー』だろう。大気圧の差を作り出して空気振動を反射で遠くまで伝える魔術だ。

 拡声魔術を使っているのは、兄の隣にいる眼鏡をかけた若い男性。彼が宮廷魔術師の一人か。

「わかりました」

 こちらの声も『エコー』発現中は相手に届く。

 隠密性が無い為に極秘の通信には不向きだが、所謂短距離無線の平文通信だと思えば良い。

 とことこと中庭に出て、木人を見る。

 ただの木人だ。丸太に腕を付けただけ。剣術訓練用の打ち込み対象でもある。

 とっとと終わらせよう。『ウィンドカッター』だったか。

 手を翳して単発の鎌鼬を飛ばす。木人は簡単に真っ二つになった。

「おわりました」

 この程度、魔術の最先端研究者である宮廷魔術師が見ても面白くもなんともないだろう。早く終わらせてお昼ごはんを食べたい。

 『エコー』が途切れ、上は何やら会話をしているようだ。アンドアインに宮廷魔術師らしき面々が何事か問いかけている。

 先程の眼鏡の魔術師が、テラスから急にこちらへと飛び降りてきた。風圧系で着地の衝撃を緩和している。

「トリシアンナ君。今のが君の処女魔術で発現した魔術かね?」

「はい、風圧系第三階位『ウィンドカッター』です」

 それがどうしたというのか。誰がどうみても『ウィンドカッター』にしか見えないだろう。

「君は無詠唱で使っていたが、その技術は誰から教わったのかね?」

 あっ、ちょっとこれはまずかったか。大丈夫だ、問題ない。

「姉です。姉のディアンナから教わりました」

 あの天才から教わったのだ、これぐらいできる。胸を張って言えるだろう。

「なるほど……ところで、君は先程から『ウォーム』も使っているね」

 消すのを忘れていた。

「はい、それが何か」

 慌てて消したが、時既に遅し。

「魔術の同時展開は、学院を修了した者でもそうそう出来る者はいない。それもお姉さんから教わったのかね?」

「はい、そうです。姉は4つとか5つぐらい同時に使うこともありますので」

 その言葉に眼鏡は仰け反った。

「そうか。流石はメディソン博士……学院が宮廷に呼ぶのを強硬に反対した理由が今更ながらに理解ったよ」

 姉が規格外なのは周知の事実だが、実際にその妹から事実を告げられるというのもショックだったのだろう。

「良く分かった。ありがとう。今日のところはお兄さんと一緒に戻ってくれて良い。お疲れ様」

「はい、ありがとうございます」

 少し油断し過ぎたかもしれない。もう少し下手を装えば良かった。

 後悔してももう仕方がない。ナズナのところへと戻ってくる。

「流石ですお嬢様」

「いや、適当に言っていませんか?まぁ、宮廷魔術師に取られるほどではないと思いますが」

 宮廷魔術師は、単に強い魔術師というわけではない。

 彼らは極秘の魔術研究者達なのだ。

 珍しい魔術や禁術を研究し、来るべき大侵攻に備える大規模魔術の開発を行っている。

 そのため、必要な資質は研究者としてのそれが大部分を占める。

 ただ単に魔術が強い、上手いだけでは入れないのである。

 珍しい、は流石に危ない。故に雷撃ではなく、ありふれた風圧魔術としたのだ。

「お兄様が降りてくるのを待って、帰りましょう。明日は一日空きますから、王都見物です」

 あとは宴を除けば楽しいことばかりだ。

 王都でお昼ごはんを食べて、宿に戻ってあのお風呂に入って、美味しい夕食を摂ってお風呂に入って、ルームサーヴィスを注文して。

 我ながら食事と風呂しか楽しみがないのかとちょっとだけ反省した。

「少し肝を冷やしたぞ」

 馬車の中でアンドアインが声を潜めて言った。

「上ではどんな会話をされていたのです?」

 眼鏡との会話だけでは全貌が全く見えない。

「無詠唱と術の精度、それから威力に驚かれていた。普通、お前ぐらいの歳だと一撃で木人を切断するまでには至らないそうだ。……そこは私も知らなかったのだが」

 この兄も処女魔術は殺傷性の高い竜巻を撒き散らす、風圧系第四階位『テンペスタ』だったのだ。

 一般的な風圧系がどの程度の威力なのかという事を、メディソン家の人間はあまり知らない。

 基準がこのアンドアインで、更にディアンナという並外れた存在がすぐ近くで大魔術をぶっぱなしているのである。これは仕方のない事なのかもしれない。

「とはいえ、ありふれた風圧系の第三階位ということで、大きな問題はなさそうだ。宮廷に取られるという事はまず無いだろう」

 この辺りはトリシアンナの予想とも一致している。

「そうですか、安心しました。それよりお兄様、お昼ごはんはどこで食べましょうか」

 正午はとっくに過ぎてしまった。空腹で死にそうだ。

「以前の店でも良いが……実はな、庶民的な料理を食べさせる専門店が宿の近くに出来ていた。テルマエシタで食べたものを覚えているか?」

 庶民的な料理、テルマエシタ。

「ピッツァですか?いいですね!いきましょう!」

 あの料理は食べごたえがあって腹にたまる。しかも美味しい。

 やはり王都旅行はこうでなくては。



「以上が主な報告ですが、最後に。ご要望のあったサンコスタ北東部、山岳地帯の採掘についてですが」

 いつもの通り、国王陛下と財務長官、政務長官の前で近況報告を行っている。

「ああ、あれか。どうだった」

 アルベールがあまり気乗りしない声で聞く。

「結論から言えば、出ます。アルジェンティニウムも含まれています。ですが、環境の観点から採掘は控えたほうが良いでしょう。先程、漁業の段で報告致しました、海に出現した新たな魔物の発生原因として、非常に高い確率で影響していると思われます」

 ここまでは王以外に聞かせても良いだろう。

「ふむ、これか。二人の異なる専門家の知見がどちらもそれを示唆している、と」

「はい。今はまだスキアヴォーナでしか確認されておりませんが、続ければ他の魚種も魔物化する可能性が高いと」

 海に魔物が増えるということは、漁獲量がその分減るという事だ。

 海洋資源が魔物との取り合いである以上、片方が増えれば片方の取り分も減る。

「分かった。サンコスタの主要産業の一つである漁業が衰退しては元も子もないからな。金属は他の場所でも出る。この話は白紙に戻すとしよう」

「ありがとうございます。では、報告は以上です」

 公には、だが。

 部屋を出ようとするアルベールに、アンドアインは声をかける。

「ああ、陛下。お耳に入れておきたい話が」

「そうか、お前達は先に戻っていなさい」

 二人の高官を下がらせて、二人はその場へ残る。

「話を聞く前に、改めて言っておこう。アイン、領主就任おめでとう。これでお前も名実共に上級貴族だな」

 最初に形式の上で言われた事だが、これは友人としての本心からの祝福だ。

「ありがとう、アル。やることは変わらないが、責任は重くなるな。今から心配で仕方がないよ」

「お前なら大丈夫だろう。俺が国王なんかをやっているのだぞ。能力で勝るお前に出来ないはずがないさ」

 差し出された手をお互い硬く握る。十数年来の友人はお互いに、完全に二人だけしかいない所では愛称で呼び合う。

 誰かに聞かれれば問題があるので、こうした密室でしか気安い会話などできないのだ。

「それはそうとして、何だ、話とは」

「ああ、幾つかあるのだが」

 先程の採掘の件、影響が出たのは盗掘のせいだという事を告げる。

「盗掘だと……?貨幣造幣局が激怒するぞ。どこのどいつだ」

 金属の発掘には独立した機関である貨幣造幣局への報告が必要になる。

 勝手に金属を掘られるという事は、偽造通貨が出回る事に直結するからだ。

「現場に残っていたのはエスミオ製の道具だ」

「またか……」

「また?」

 唸ったアルベールに聞き返す。

「セストナードでも同様の被害があった。内容はほぼ一緒だ。威信に関わることなので公表は避けているが」

「アールステット伯の所でもか。どうにも臭いな。『耳』はなんと?」

「『バンディット』の可能性が高いと」

 アンドアインも唸った。

「また『バンディット』か。妙に活発だな」

「窃盗集団の事を聞いた時は俺もそう思った。何故奴らは急にあちこちで動き出したのか」

 圧倒的な成功率を誇る連中が活発になった、という事は。

「情報収集力が上がったと考えられる。どこか有力な後ろ盾を得たか」

 『バンディット』単体で持つ情報網に、どこか大きな組織が絡んだ可能性が高い。

 成功率を重視する連中が活発になる、という理由は、それ以外に考えられない。

「その辺りも含めて『耳』に探らせよう。しかし、今までもそうだったのだが、連中は滅多に尻尾を出さん」

 情報管理が徹底しているのだろう。アジトすら一つ所にしていないとも聞く。

「すまんが、頼む。我々で相手にするには少々厳しい。守りで精一杯だ」

「アインとラディアスでも奴らを追いかけるのは無理だろう。何か分かれば囁かせる」

「ありがとう、助かる」

「当然の事だ。礼はいらん」

 ならず者組織は国家の敵だ。これを壊滅させることは王の仕事でもある。

「ところで、お前の可愛い妹はどんな具合だ?これから処女魔術を披露するのだろう?」

 調子を変えて、アルベールは明るい話題を振った。

「あぁ、あの子もメディソンだとだけ言っておく」

「ほう、それは楽しみだ。宮廷に入れるのは可哀想だとは思うのだが」

「そこまででは無いだろう。ありふれた風圧系だからな」

「風圧系か。うちのクリストフは地変系だから相性は悪いな」

「もうあんな事は無いように頼むぞ」

 禍根は無いとばかりにアンドアインは微笑む。

「わかってるさ。あいつだってもうじき14になる。周りのことも見えてきたからな」

「妹を大変かわいがっていると聞いて安心しているよ」

「お前と同じだな。歳の離れた妹ってのは特別可愛いもんさ」

 確かにその通りなのだが、やり込められた気分になって、アンドアインは言い返した。

「うちの親父もトリシアにはぞっこんだ。お前だって既にそうなんじゃないか?」

「お見通しか。そのとおりだよ」

 二人で笑いながら、中庭に面したテラスの方へと歩いていった。


 玉座の間から南に抜けて、渡り廊下を進んだ先に、中庭に面したテラスがある。

 騎士団の競技会や演説会を行う際に、国王がそこに現れて観戦や演説をする為にある。

 良く日の当たる広い空間には、既に宮廷魔術師と思しき面々が姿を見せていた。

「国王陛下にメディソン様。もう始めさせて頂いても?」

 名乗る事すらせずに、若い眼鏡の宮廷魔術師は発言する。

 宮廷魔術師は秘匿性の特別高い組織だ。基本的には王族と一部の高官以外、名前も素性も殆ど把握していない。

 貴族の子弟も沢山いるので、家族だけはそこにいると知っている。しかし、他に誰がいるのかは全く公表されていない。

 情報漏洩を極端に恐れる為、こうした公式の場でも名乗らない事が殆どだ。

「始めてくれ。我々の都合であまり待たせるとかわいそうだ」

 国王のその言葉に眼鏡は頷く。

 全員でテラスの観戦席まで進むと、ベンチからこちらを見上げている妹と従者の姿が見えた。

『君がトリシアンナ君だね。今から君が最初に発現させた処女魔術を見せてもらう。同じものを、そこの木人目掛けて撃ってくれたまえ』

 眼鏡の男が風圧系の拡声魔術を使って下と会話している。わかりましたと答えて、妹はとことこと中庭の中央まで歩いてくる。

 すぐに手を翳し、立っている木人に向かって『ウィンドカッター』を発現させるのが見えた。無詠唱を見せたのは少しまずいかもしれない。

『おわりました』

 妹の声が反射して届いてくる。眼鏡はすぐに術を解いた。

 途端に宮廷魔術師の面々が騒ぎ出した。

「どういう事だ?あの歳で木人を、第三階位一撃で真っ二つだと?」

「無詠唱でしたね。術の精度と理解度が群を抜いています」

「彼女はまだ10歳だろう?どうやってあんなに」

 ちらちらとアンドアインの方を盗み見るようにしている。アルベールはニヤニヤと笑っている。

 メディソン家の人間が誰も彼も異常なレベルにあるのは国王自らはよく知っている。

 しかし、宮廷魔術師は基本的に外部からの情報に疎いため、有名なディアンナの事は兎も角、騎士団にいたラディアスやスパダ商会にいるユニティアの事も知らないのだ。

 審査に立ち会うのはその時期に手の空いているものだけ。

 つまり、前情報は殆ど持っていないのだ。無論、その方が先入観が無いため都合が良いというのもある。

「待って下さい。メディソン?メディソン博士の身内の方ですか?」

 眼鏡がアンドアインに問いかける。それ以外の何だというのだ。

「メディソン博士。ディアンナ・デル・メディソンは私の二番目の妹だ。下にいるトリシアンナは勿論、彼女の妹にあたる」

「なるほど……いえ、大変失礼致しました。それならば合点がいきます」

 眼鏡は他の宮廷魔術師に一言二言囁くと、テラスから飛び降りていった。

 それにしても、ディアンナの事を知っているのに彼女がサンコスタ領主の娘だと知らないというのはどうなのだ。余りにも世間知らずが過ぎるだろう。

 とてもじゃないがこんな偏屈者の集まりの中へ、可愛い大切な妹をやるなんてとんでもない事だ。絶対にあり得ない。

 いくら先入観を持たせないためとはいえ、あまりにも酷すぎる。

 戻って来た眼鏡は開口一番に言った。

「彼女は『ウォーム』を同時展開していました。姉のメディソン博士に習ったそうです」

 再び面々が騒ぎ出す。もうそれは良い。

「少し、良いかな」

 アルベールが見かねて声をかけた。

「君たちが彼女の早熟さに驚くのはよく分かる。私も目の前でこのアンドアインの魔術を見た時は度肝を抜かれたからな。だが、彼は宮廷魔術師にはなっていない。なぜかな?」

「はっ、我々の目的は、強い魔術師を勧誘する事ではなく、強い魔術を開発する事だからです」

「そうだ、クライン。その点に於いて、風圧系第三階位の使い手はどのように見える?」

 平凡だろう。風圧系や水撃系、熱操作系はありふれ過ぎている。

「失礼ですが、研究対象としてみれば、平凡です」

「よろしい。では、話はこれまでだ。アンドアイン、待たせたな。明後日の宴も楽しみにしているぞ。娘のアレクサンドリナもお披露目するので、是非来てくれ」

「勿論です、国王陛下。それでは、私はこれで失礼いたします」

 正直、アルベールが纏めてくれなければ危ない所だった。

 その場の空気で妹を取られてはかなわない。

 彼らももう少し自分たちに対して俯瞰的な目を持って欲しいものだ。


「うう、流石にもう食べられません」

 コルセットをはずして丸くなった腹を抱えて、トリシアンナはソファの上に横になっている。

「いつもの事ながら、良く食べるなお前は」

 ピッツァは持ち帰りも出来るのだ。そうと聞けば頼まずにはいられない。

 店で都合二枚を一人で平らげて、更に大きなサイズの一枚を持ち帰りで宿に持ち込んだ。

「まさかお嬢様お一人であれを全てお召し上がりになるなんて……」

 流石にナズナも絶句している。どう考えても身体に入る量ではないだろうと思っていたのだ。

「ピッツァの子供でも産むつもりか?もう夕食は入らないんじゃないか」

 食い意地の張った妹に呆れ返るアンドアイン。

「産めるなら何度でも食べられて経済的ですね。大丈夫です、少し休んでお風呂に入ればまた食べられますから」

「一体どんな消化器系をしているのだお前は」

「お嬢様の胃袋は常に魔術でも発現しているのでしょうか。少し恐ろしくなってきました」

 そうはいっても、お腹は減るし食べられるのだから仕方がない。

「しかしお嬢様、それで良く太りませんね。普段から動いているとはいえ」

「あっ、そうでした。旅の間は殆ど運動できないんでした……筋力鍛錬を……」

「やめておけ、今やったら口から出てくるだろう」

 起き上がろうとするトリシアンナを、兄は押し止める。

 自分の寝室で吐かれてはたまらない。

「しかし、運動不足なのは否めませんね。私も少し狭いところで出来る鍛錬を」

 ナズナはそう言うと、絨毯の上に仰向けになり、ぴっちりと揃えた足を自分の肩を支点として垂直に振り上げる。

 揺らぐ事なくスムーズに脚がまっすぐに伸び上がっては戻る。

「……何をしているんだ」

「これですか?龍尾返しという鍛錬法で、腹の筋肉を重点的に鍛えられます」

 見るからに負荷が大きそうだ。というより、人間がそんな動きを繰り返し出来るものなのか。

 しかし、それ以前に。

「……それは、その服でやるのは止めておいた方が良いだろう」

 脚を上げるたびに腰まで服がずり落ちて黒い下着が丸見えだ。

「え?あっ、こ、これはお見苦しいものをお見せしてしまいました!」

「いや、別に見苦しくはないが、目のやり場には困るな」

「お兄様、ラディお兄様に言っておきますね。ナズナの下着をじっと見ていたと」

「ラディにはお前がピッツァの子を妊娠して産もうとしていたと言っておくよ」


「何も王都に来てまで重いものを買い込まなくても良いんじゃないか?」

 アンドアインは二人の希望を聞いて連れては来たものの、改めて苦言を呈した。

 今、三人がいるのは王都で最も大きな武具取扱店。

 その中の防具売り場で、トリシアンナとナズナは真剣に売り物を物色していた。

「今年に入ったら買おうと思っていたのです。別にサンコスタでもいいのですが、折角ならどんなものがあるか下見をしておきたいじゃないですか」

 トリシアンナは胸部装甲を見ている。所謂ブレストプレートというやつだ。

「お前は成長期なのだから、すぐに合わなくなるぞ」

「ええ、ですから買うかどうかは少し考えます」

 胸に装着する防具という関係上、トリシアンナのような年頃の娘が買うにはかなりの熟考が必要となる。

 入らなくなるのだ。

「お嬢様の大切な胸を守るものです。半端なものではいけません」

 こちらはまた別の情熱を燃やしている。もうアンドアインが何を言っても無駄だろう。

「素材も色々ありますね、革にしても柔らかいものから硬いものまで、金属はそこまででもないですが、裏地もカスタマイズ可能、と」

 実のところブレストプレートはあまり役に立たない事も多い。

 人間の急所は非常に沢山あり、腹部と頭部に集中している。

 胸も肺を貫通されれば基本的に即死だが、もっと重要な心臓の位置はこのプレートの外にあるのだ。

「防御力を考えるのならブレストプレートではなくてアーマーにしたらどうだ」

 アーマーであれば防御できる箇所は格段に広がる。致命傷も避けられる事が多い。

「アーマーだと動きがかなり阻害されるんです。私は反射神経を強化できるので、それなら避けきれない時にプレートで受けるのが効率的かなと」

 要するに、致命傷を避ける為に受ける部分は欲しい、けれども動きが鈍くなれば受ける場所があっても意味がないという事だ。

「ガントレットではダメなのか?腕で受ければ良いだろう」

 反射神経があるのなら、小さめのバックラーやガントレットで十分だろう。

「あっ、その手もありますね。後で見てみましょう」

 見る品が増えてしまった。これは時間がかかりそうだ。

「ナズナは短剣や投擲武器が見たいと言っていましたね。プレートはもういいので、そちらに行きましょうか」

 材質や大きさなどを書き込んだ紙を懐に仕舞ってトリシアンナは言った。

「よろしいのですか?ではお願いします」

 武器の類は全て一階だ。階段の側にあった案内図を見て、短剣や投擲武器のエリアへと移動する。

「あまり多くないんですね」

 ショートソード売り場の、三分の二ほどの広さしかない。

「基本的には護身用の武器だからな。銘入りも殆ど造られない」

 多いのは贈答用の宝飾品としてのもの。あとは量産品が殆どだ。

 ナズナは量産品の棚を順番に見ている。トリシアンナにはあまり違いが良く分からない。

 僅かに存在する銘入りにも、自身が感知できるような素材を使ったものは見当たらなかった。

「うーん、これだけの規模の店でもたったこれだけですか」

 大きい店ならナズナに合うものもあるだろうと思ったのだが、期待外れだった。

「そうですね、短剣はあまり儲からない武器なので」

 まず単価が安い。使う材料は少なくてすむものの、製造工程は他の剣などと変わらない。

 良いものを作っても値段を上げにくいのだ。結果、儲からないので造らない。

 次に、使う人間が限られる。

 誰でもある程度扱える短剣は多くの人が持つだろうと思いがちだが、護身用というのなら単純に量産品で事足りてしまう。

 良いものを欲しがるのは、ナズナのような特殊な職業の者だけだ。

 これも、売れない、造られない理由の一つになってしまう。

「短剣は諦めましょうか。投擲武器はどうでしょう」

 投擲武器は、短剣の中でもより軽量で小型のもの、鉄礫などである。

 輪にした刃である円輪や、東方諸島の忍びが使う様々な形状の手裏剣などもこれにあたるが、王都では取り扱いをしていないようだ。

 投げナイフ、投擲短剣も、こちらは殆ど、というよりも全て量産品だ。

 何故か。投げる、投げると失う事が多い。高価いものは投げられない、つまり量産品である。

「手裏剣もありませんね、ナズナ」

「ええ……えっ?お嬢様、手裏剣をご存知なのですか?」

 不思議なことを言う、と、トリシアンナは首を傾げた。

「ナズナは忍びでしょう?であれば、手裏剣は扱えるのではないのですか?」

「はぁ……それは勿論。ですが、基本的に忍びしか扱わないものですので。まさかご存知だとは思いませんでした」

 何を馬鹿な。忍者といえば手裏剣、そして小太刀に撒菱ではないか。

「あぁ、そうですか。あまり忍びの事は知られていないんですね」

「それはもう。隠密集団ですので」

 意外なことだが、確かに現在進行系で活躍している隠密集団の情報があまり出回っても困るだろう。

 暗殺用の毒を塗ったナイフが市販されていては困る。

「それにしても困りましたね、ナズナの欲しい物が何一つありません」

「仕方がないです。忍びの武器は変わったものが多いので、あまり売られていないのです」

 変わったもの、変わったものか。確かにそうだ。

「私が持っているようなショートソードは一応使えるのですよね、小太刀……忍刀もあるので」

 狭いところで取り回しの効く刀の事だ。

「はあ、訓練も受けましたし、扱えるのですが、普段は短剣ばかりですね。敏捷性があるのならば、射程は短くても軽くて取り回しのより良いものが扱いやすいので」

 個人差なのだろう。確かにナズナの敏捷性には目を見張るものがある。

「それじゃあ鎖鎌や分銅も使わないですね。まぁ、そんなもの普通の武具店には売っていないですが。撒菱なんかも一種の投擲武器でしょうが、それも無いでしょうし」

 自分の知識にある武器を順番に並べてみる。どれもこれもこちらでは見かけたことのないものばかりだ。

「……お嬢様。そういった武器の使い手もいることはいますが、暗器の類ですよ。褒められた知識ではありませんね。今後は口にされないほうが宜しいでしょう」

 ナズナが低い声で唸る。

「あっ……ごめんなさい、つい。そうですよね、忍びですものね」

 あまり公開してほしくない情報だろう。闇に生きる者達の仕事の道具なのだ。

「さっきから何の話をしているんだ?聞いたことのない武器の名前ばかりだが」

 ただ付き合っているだけという感じのアンドアインがわからないと言っている。

「あぁ、お気になさらないで下さいお兄様」

 言ってもあまり良い事はないだろう。ナズナの言う通りだ。

 無いものは無いで仕方がない。となるとオーダーメイドしかないだろうが、残念ながら工匠の知り合いなどいない。サンコスタに戻ったらユニティアに聞いてみるべきか。

「残念でしたね。ところで、今ナズナの使っている短剣は」

 かなり年季の入った代物のように見えた。

「これは里で打たれた品ですが、特に特別なものではありません。量産品よりはマシですが、業物というわけでもありません」

 自分の脚を抑えて彼女は言う。

 流石に店の中で武器を抜くわけにもいかない。彼女は大抵、太ももか腰に縛り付けて隠している。

「そうですか。一度、サンコスタに戻ったらユニお姉様に相談してみましょう。お姉様なら、良い工匠をご存知かもしれません」

 それが一番だろう。半端なものを買って危険な目に遭うよりはずっといい。

「ありがとうございます、お嬢様。私の分はもう結構ですので、先程仰られていたガントレットなどは」

「そうですね。お兄様、ごめんなさい。また二階に戻ってもいいですか?」

 連れ回して退屈そうにしている兄に申し訳無さが募る。

「構わないぞ。時間はあるし、ゆっくり見るといい」

 寛容な兄にありがとうございますといって、再びトリシアンナは沢山並んだ腕防具の前でああでもないこうでもないと悩むのであった。


 一日の時間の大半を武具取扱店で消費し、他を回るのには厳しい時刻になってしまった。

 仕方がないので、ナズナがいたく気に入っていたアイスクリームを出す店を探して、そこで軽食を摂った。

 ベリーのジャムが載ったそれをあんまりにも嬉しそうに食べるので、トリシアンナも釣られて三皿も頼んでしまった。

 これは彼女の食い意地が張っているわけではなく、共感性によるものだと本人は弁解していた。


 王都に到着してから四日目の午後。夕刻まであと少しという頃合いの時間に、三人は部屋で出かける支度をしていた。

「準備は出来たか」

 アンドアインが二人の寝室に声をかけた。

「わたくしはいつでも大丈夫です」

「待って下さい、お兄様。私は少し」

 二人用の寝室の中では、トリシアンナが新しいドレスと悪戦苦闘していた。

「お嬢様、それでは見えてしまいますよ」

「仕方がないでしょう、ナズナ。こういう服なのでは?」

 やたらと布地の少ない漆黒のドレスを身につけ、トリシアンナは自分の姿を大きな鏡に映して、変な所はないかとあれこれ調べている。

 以前の背中が開いたドレスを、更に胸の間から臍の下まで、大胆に布地をなくしてしまった頭のおかしいデザインである。

 いくらなんでもこれはないだろう、と思うのだが、残ったドレスはもうこれしかないのだ。前回と同じ失敗を繰り返している。

「ほら、お嬢様。下着の上の透けた部分が見えてしまっています」

「分かっていますよ。でも、下着も同じ色で似たようなデザインなので、それも含めたものなのでは?」

 下に着用している黒い下着は、以前と同じものだ。

 半分以上が透けている、細かいレースが沢山ついた無駄に凝ったデザインのアレである。

 その上部分がドレスの切れ込みの下端から、どうしても少し覗いてしまうのである。

 採寸もしてその結果でこれなのだから、間違っているはずはない。下着もこれと指定された以上は、それも考慮した上での衣装なのであろう。

 上の下着は着けていない。

 申し訳程度に胸から腰を覆う布地の裏は硬い材質で出来ており、肌にぴったりと吸い付くようになっている。

 つまりこれ自身が上の下着と同じ役割を果たしているため、着ける必要がないのだ。

 因みにこれもまた大きな上げ底が入っていた。寄せて上げたありえない谷間がまた出来ている。

 高い踵の靴を履いて、胸元には大きな赤い宝石のネックレス。額の上には透明な宝石が沢山嵌ったティアラ。宝飾品だけで一体いくらしたのか怖くて、途中で考えるのをやめた。

 どうにかこうにか終わらせて部屋を出ると、また兄が言った。

「また盛ったのか」

 はい、また盛っています。


 それにしても歩き難い。

 馬車に乗るにもナズナの介護がなくては上がれない。情けなくて涙が出てくる。

 隣のナズナはといえば、これまたモノトーンのグラデーションを基調としたセクシーな装いである。

 胸の下半分を覆う布地が、そのままストレートなドレスになって足先までを覆っている。

 胸の上半分には何もないが、一緒に入っていた細い鎖の首飾りが時折ちらちらと輝いている。

 美しい形の鎖骨と肩がまともに露出しており、胸も大分盛られている。かなり盛られている。

「ナズナ、よく似合っていますね、綺麗です」

 弱点の克服された忍びはもう無敵だ。誰もが振り返る黒い宝石。

 よく見れば彼女には薄っすらと化粧が施されている。

「ありがとうございます。お嬢様も大変素敵ですよ。そのまま肖像画を額縁に入れて部屋に飾り、朝晩礼拝したい程です」

「なんだか変な褒め方ですね。でも、ありがとうございます」

 彼女は白と黒の服ばかりだが、恐らく他の色もとても良く似合うだろう。

 背が高くて見栄えがするので、それこそ王都で開かれるデザインコンテストのモデルにもなれるかもしれない。

 夕刻前の王都は、あちこちから夕餉の良い匂いが漂ってくる。お腹が切ない。

 このドレスを着るために、昼はあまり食べなかったのだ。

 流石にこの腹の出た衣装ではコルセットは着用できないし、宴であまり沢山食べすぎてもみっともない事になってしまうだろう。

 悲しいが、これも試練なのだ。宿に帰ったら沢山部屋に料理を届けてもらおう。

 目の前に座っている兄は少し憂鬱そうな色を醸し出している。さもありなん。

 これから待つのは魑魅魍魎が集う貴族の饗宴だ。その対応を考えれば、トリシアンナとて明るい気分にはなれそうもない。

 今回は果たして前回のような子供の魅力を使えるのだろうか。

 自分の格好を見下ろして、いや、無理だろうと否定する。

 どこにこんな痴女のような格好をした子供がいるというのか。

 馬車は無情にも王城の中へと進んでいく。

 既に中庭には篝火が焚かれ、日没前の王城を赤く照らしている。

「お待ちしておりました、メディソン様、トリシアンナ殿」

 例によってモリス氏が出迎えてくれる。以前と全く同じ道順で、あの巨大なホールへと向かう。

「トリシアンナ殿は、随分と大人になられましたな。人の成長を見るのが仕事の私も驚きました」

 歩きながら政務官が言葉を投げかける。

「ありがとうございます、モリス様。未だ至らぬ所も多く、兄や皆様方には迷惑をかけてばかりですが」

「ははは、そのお言葉が出る時点でもうご立派なレディでございましょう。……どうぞ、中へ」

「ありがとうございます」

 王城の晩餐会にも使われる巨大なホールは、以前来た時と同じだった。

 ただ、極彩色のテーブルは今回は少し落ち着いた色になっており、以前ほどのけばけばしさは感じられない。

「お飲み物をどうぞ」

 給仕の格好は相変わらずだった。王弟殿下はどうにもここは譲れないらしい。

 尻が見えそうなほど丈の短い給仕服?の彼女からグラスを各々受け取り、奥へ進む。

「お嬢様、今のは一体……」

「王弟殿下の好みだそうです。あまり触れないほうが良いでしょうね」

「……承知しました」

 ナズナの中であの面長の男の評価が定まってしまったようだ。

 既に会場には沢山の貴族がやってきており、それぞれ思い思いに会話や食事を楽しんでいる。

 以前来た時にも思ったのだが、この宴に開始の合図のようなものは無いらしい。

 勝手にやってきて勝手に話をして勝手に帰る。形式に拘る王都の貴族にしては、珍しく奔放なやり方だ。

 或いは地方領主にあわせたものなのか。

 田舎の貴族などこれで十分だろうという意識の現れかもしれない。

 これからの事を考えると、どうにも穿った見方、考え方をしてしまう。

「アンドアイン殿、いや、メディソン伯。ご就任おめでとうございます」

 最初にやってきたのは好々爺然としたアールステット伯だった。トリシアンナはほっとする。

 この老人は自分たちにとても好意的で、性格も穏やかで物腰も柔らかい。

 まるで祖父と接しているかのような安心感を与えてくれる。

「ベネディクト様。ありがとうございます。領主としては若輩なれど、今後とも宜しくお願い致します」

「何をおっしゃる。その歳で、大変立派なことです。私も息子や孫たちがもう少しアンドアイン殿のようにしっかりとしておればなぁ」

 ベネディクト・アールステットには三人の息子がいて、それぞれに孫もいる。

 だが、どの子も彼のお眼鏡に敵う資質を持った者がいなかったらしく、齢70に迫ろうかというこの歳でも現役を貫いている。

「まだお孫さん達もお若いでしょう。ベネディクト様の血を引いておられるのです、じきに頭角をお示しになりますよ」

「だと良いのだが。おお、トリシアンナ殿。本日はまた、随分とお美しい装いですな。お隣の御婦人は?」

「ご無沙汰しております、ベネディクト様。彼女は私の付き人で、ナズナと申します。私がどうしてもと我儘を言って、連れてきてしまったのです」

 ナズナは黙って頭を下げた。侍従の身では上級貴族に名乗る事は出来ない。

「そうですか。いや、アンドアイン殿、両手に花とは実に羨ましい。常ににこのような美人が近くにいれば、伴侶を探す目も自然と厳しくなってしまうでしょうな」

 早く結婚したまえ、と言っているのだ。

 厳しいように思うが、彼の言うことももっともである。

 領主となったのだから、相手を見つけて子を成し、家を存続させるのは家長の義務だ。

「これは、手厳しい。いや、探してはいるのですが……ベネディクト様には是非とも女性を見る目をご教授願いたいものです」

 兄もちくりとやり返す。

 女性を見る目があっても良い後継ができないから大変だろうな、という意味だ。

「ははは、哲学者への説諭でしたかな?何、戯れのようなものです。今後ともどうぞよしなに、では」

 賢い老人はグラスを一つ掲げると去っていった。老獪すぎて感心する。だが、兄はこのセストナード地方領主に悪い印象は持たれていない。

 彼は有能な若者を、まるで自分の後継者を見るような目で見ているのだ。

「感じの良い方ですね」

 ナズナがそっと呟いた。

「そうですね、あの方はサンコスタにとても好意的です」

 ナズナは先程の言葉の意味に気付いていない。それは仕方がないだろう。

 こうした貴族同士のやり取りは、そうでない第三者から見れば和やかで穏やかなもののように映る。しかしその言葉の裏に秘められた意味を理解できなければ、いずれは喰われる事となる。

 兄は軽く周囲を見渡し、目的の男を見つけて近寄っていった。

「ゲルハルト様、ご機嫌麗しゅう。今日はハインリヒ殿も一緒なのですね」

 最も険悪な仲である、エスミオ地方領主、ゲルハルト・フォン・エッシェンバッハとその息子、ハインリヒだ。

「おや、代理殿……いや、大変失礼。アンドアイン殿、領主ご就任おめでとうございます。これで晴れて上級貴族ですな、いや、目出度い」

 内心はどうあれ、表面上は満面の笑みだ。

「アンドアイン殿、お久しぶりです。今日は女性連れですか?羨ましいですな」

「ゲルハルト様、ハインリヒ様はお初にお目にかかります。トリシアンナ・デル・メディソンでございます。どうぞよしなに」

 丁寧にカーテシーでもって挨拶をする。敵対的な相手には先制が必要だ。

「おお、貴女がお噂の。聞いていた歳よりも、ずっとお美しいレディではありませんか」

 ハインリヒはアンドアインよりも4つほど年上だ。家督こそ譲られていないものの、既に地方の執務を執り行っており、アンドアインと似たような立場にあった。

 今はもうアンドアインの方が格自体は上だ。家督の委譲が無い限りは。

 ナズナの方にもハインリヒは目をやったが、黙って礼をしただけの彼女に察しを付けて、それ以上は何も触れなかった。

「時に、アンドアイン殿。例の採掘はお断りになったとか」

 ゲルハルトがストレートに聞いてくる。あれはエスミオの息がかかった王都貴族の差金か。

「ええ、残念ながらゲルハルト様のお所のような技術も道具も持ち合わせておらず。掘っても海を汚すだけですので」

 お前の所の道具をうちで見たぞ。

「いやいや、ご謙遜を。しかしそれならば、我々が少しでもお力になれそうですかな」

 採掘してやるからいっちょ噛ませろ。

「いえいえ、それには及びません。あまりに優れた技術で山脈を貫いてしまわないか、あまりにも畏れ多く。我々はしがない漁師ですので」

 うちの領地である山脈の裏側までお前達で掘る気か?

「わっはは、左様ですか。岩こそ掘って稼げはしますが、生憎と我々の土地には良い港がありませんのでな、羨ましい限りですよ全く」

 潮臭い田舎領主め、金になる金属の産出もできないのか。

 ここいらが潮時だろう。

「ゲルハルト様、今日は一段と素敵なお召し物ですね。エスミオダスでの流行でしょうか?」

 男の袖を軽く取り、上目遣いで微笑む。

「おお、トリシアンナ殿。やはり女性は良く見ておられるのですなぁ。こちらは王都のコンテストで銀賞となったデザイナーを呼び寄せて作らせたもので」

「まぁ、素敵です。ゲルハルト様の立派なお髭にもとても良くお似合いです。ハインリヒ様も、凛々しいお姿が一段と生えますわ」

 手のひらを組んで胸元に持ち上げ、肘で胸を寄せる。

「そ、そうかい?素敵なレディに言われると悪い気がしないな」

「今度、そのデザイナーを紹介して差し上げますよ、トリシアンナ殿。おや、あれは。失敬、それではまた、ゆっくりと」

 二人は鼻の下を伸ばして去っていった。

「……末恐ろしいな」

「それは私の台詞ですよ、お兄様」

 表情を全く変えずに囁き合う。これが出来ないとこの場で生き残るのは難しい。

 ふと、隣を見ると、ナズナがじっとゲルハルト達の去っていった方を見ている。

「どうしました?ナズナ?」

「あの、ハインリヒという方、ずっと私の方を見ていたのですが」

 上げ底に騙されたのだろう。憐れなことだ。

「ナズナは綺麗ですからね。そりゃあハインリヒ様も見惚れますよ」

「はぁ……私にはここでの作法がさっぱりで、黙っているしか無く」

「それでいいのです。知ったらお料理が美味しくなくなりますから」

 今の所ナズナの立ち居振る舞いは従者として満点だ。それ以上を望むのは傲慢すぎる。

 その後も当たり障りのないちくちくとしたやり取りをする兄と貴族に付き従い、時折愛嬌を見せて話を中断させては追い払う、という事が続いた。

 サバス地方領主の代理であるアデリナ婦人と和やかに料理の話をしていた所、中央北側にある階段から、国王陛下が下りてきた。

「あら、陛下がいらっしゃったわ。それじゃあね、トリシアンナさん。ナズナさんも。ちょっと挨拶をしてくるわ」

 穏やかな性格ではあるが他人に流される事の無いアデリナ婦人は、忙しい夫の代理として毎回近況報告に訪れている。

 あまり裏のあるやりとりはできないものの、話の内容は理解して、その上で聞いたお話は夫に放り投げるから、という感性をしている。

 暖簾のような性格の彼女にあまり厳しく当たれる者はおらず、正しく激流に身を任せその場に留まり続ける吹き流しの如くに、この場所へと適応しているのだ。

 トリシアンナとしてもこの上品な中年の女性とは話がしやすいので、ほっと一息つける憩いの場のように感じていた。

「アンドアイン様とお嬢様は行かなくてもよろしいのですか?」

 ナズナがその場にとどまっている二人に、疑問に思って尋ねる。

 当然そう思うだろう。彼らとメディソン家の関係を知らなければ。

「大丈夫ですよ、ナズナ。王族の方々は挨拶に忙しいので、私達は最後でも大丈夫です」

「放って置いても向こうから来るからな」

 聞く人が聞けば明らかに不敬とも取れる台詞に、ナズナは目を白黒させている。

「えぇ?国王陛下ですよ?こちらから挨拶に伺うのが礼儀では……」

 しかし、当の二人は共に気にせず束の間の休息を楽しんでいる。

「お兄様、相変わらずお料理は美味しいですよ」

「うむ、酒も良いものを揃えてあるな。あぁ、お前はダメだぞ」

「わかっています。でも、勧められたら仕方がないですよね?」

「少しだけだぞ。できるだけ遠慮はしなさい」

「ナズナも今のうちに食べておいたほうがいいですよ。従者と知られている人もいますので、視線があちらに向かっている見咎められない今のうちに」

「は、はぁ……」

 言われてナズナも仕方なく料理と酒を口にする。確かに上質な物ばかりだ。

 海龍亭で出てくるものよりも遥かに上のものだと断言できる。

 戸惑いながらも料理を口にしていると、挨拶を粗方終えたらしき王族一家がこちらへと向かってくるのが見えた。慌てて皿をその場に置く。

 ナズナの動体視力と気配察知能力はずば抜けており、幸いにしてその行動を誰かに見られる事も無かった。

「アンドアイン!ここにいたのか!」

 アルベール国王陛下が手を振りながら近寄ってくる。

「これはこれは、国王陛下。ご機嫌麗しゅう。挨拶は終わったのか?」

「あぁ。全く、王都の貴族などいい加減見飽きたのにいくらでも寄ってくるからな。鬱陶しくて仕方がない」

 お道化て言うアンドアインに、これまた気安く王は話しかけている。

「トリシア!来てくれたのか!」

「クリス。久しぶりですね、4年ぶりでしょうか」

 抱きつかんばかりに王太子殿下が駆け寄ってくる。そして後ろから小さくて可愛らしい存在が一生懸命ついてくる。ナズナはぶるりと震えた。

「もう来てくれないのではないかと心配していたんだ。その……」

「無かった事になっているのに気にしてはいけませんよ。折角のお目出度い場でしょう?」

 王族と親しく会話を始める二人にナズナは背筋が凍った。地方貴族が、何故このように国のてっぺんにいる人達と気軽に。

「今年も料理と酒”は”良いだろう?」

 笑う国王に。

「ああ、酒と料理”は”美味いな」

 微笑み返すアンドアイン。

「ずっと謝りたかったんだ、トリシア。僕は、君にとんでもない事を」

 何故か負い目を感じている王太子。

「あなたに悪気は無かったのでしょう?忘れろとは言いませんが、あまり気にしないで下さい」

 慈母の微笑みを見せるトリシアンナ。

 ナズナは混乱した。本当に彼らは自分の知っている存在なのかと。

「そうだ、トリシア。アンドアイン殿も。妹を紹介しなければ」

 そう言ってクリストフ王太子殿下は自分の足にしがみついていた可愛い存在を抱き上げた。

「ほら、ドリナ。アンドアイン殿とトリシアンナ殿にご挨拶しなさい」

 2、3歳ぐらいの真っ白なドレスに身を包んだ可愛らしい幼女が、泣きそうな顔をしている。

「ふふ、はじめまして、アレクサンドリナ王女殿下。ご機嫌いかがですか?」

 トリシアンナが顔を近づけて頬に振れる。柔らかい手袋の感触がくすぐったかったのか、王女は兄の手の中で身を揺すった。

「ドリナ、兄上のお友達だよ。挨拶しなさい」

 促されて、小さな王女は地面に降ろされた後、小さくお辞儀をしてすぐに兄の後ろに隠れてしまった。

 ナズナは悶絶した。

「アルベール、これはもう可愛くて仕方がないだろうな」

「ああ。余りに構いすぎるので妻に叱られてばかりだよ」

 隠れてしまった妹に、兄は困ってまた抱き上げた。

「仕方がないな、ドリナは。ちゃんと挨拶はしないとダメじゃないか」

 頬に軽く口付けをする。溺愛しているというのは本当らしい。

「父上、トリシアと少し話がしたいので、ドリナをお願いできますか」

「おお!そうか!よし来い、ドリナ。父上が抱っこしてあげよう」

 大喜びで小さな娘を抱き上げるアルベール。どう見ても親馬鹿である。

「可愛いな。丁度ユニの双子がこのぐらいだ」

「おお、そうなのか。お前も伯父さんかぁ」

「おじさんだよ。ふっ」

 和やかな会話が続いている。

「トリシア、少し二人だけで話がしたいんだが」

 トリシアンナはその言葉に頷いて、ナズナの方を見た。

「心配いりませんから、ここに居て下さい」

 他の貴族に絡まれる可能性のあるアンドアインであれば兎も角、王国ではただの平民であるナズナであれば常にトリシアンナの事を見ていられる。

 異常があればすぐに気がついて飛んでくることが出来るだろう。

「かしこまりました」

 ナズナも実は、近くで小さな王女殿下を見ていたかったのだった。


 二人で料理と酒精の弱い酒を手にとって、いつか座っていた柱の近くまでやってくる。

 二人共既に背は伸び、その段差に座るには少し足が邪魔になってしまう。

「改めて、謝罪させてほしい。トリシア。僕は君にとんでもない事をしてしまった」

 深く頭を下げる王太子。トリシアンナも、今はそれを嗜める事は敢えてしない。

「あなたがその事に気付いてくれて良かったです、クリス。お互い、まだ子供だったのですから仕方のない事です。これから良い関係を築いて行けば良いのではないですか?」

 自分は10、相手は13。もうある程度分別のつく年頃だ。

 子供の頃、戯れにした事など水に流してしまえば良い。多少度を越したものであったとしても、それは周囲の思惑に振り回された結果なのだ。

「ありがとう。君はまだ僕の事を友人と思ってくれるんだね」

 一人称が余から僕に変わっているのも、公と私を別けられるようになった証だろう。

「当たり前ではないですか。ほら、頭を上げて下さい。他の方に見られたら変な風に思われてしまいますよ」

 トリシアンナは近寄ってクリストフの肩を抱き上げた。

「そうだな。そうだ。君は前も同じことを言って僕を窘めたな」

「ふふ、今日は強引なキスは無しにして下さいね」

「気をつけるよ。でも、我慢できなくなったらどうしようか」

「あら、恐ろしい私の侍従がこちらを見ていますよ?切り刻まれては困るでしょう」

「あの黒髪の女性は君の侍従なのか、道理で、美しい人だと思った」

「そうでしょう?でも、女の前で別の女を美しいと言うのはマナー違反ですよ」

「これは。生粋の貴族令嬢には勝てないな」

 この程度の会話は当たり前のように出来るようになった。

 やはりある程度の年月を置いて良かったと、トリシアンナは心から安堵した。

「折角だし、食べて飲もう。少ない君との時間は大切にしたい」

 クリストフはグラスを掲げる。

「ええ。二人の大切な時間に」

 弱い酒精の入った酒を飲み干す。柑橘の甘く爽やかな香りが喉から鼻に抜け、仄かな酒の香りが余韻を残した。

「それにしても、トリシアは益々綺麗になった。前も可愛かったけど、今日はその、一段と……」

 視線を彷徨わせるクリストフ。それは仕方のない事だろう。

「ごめんなさい、クリス。目のやり場に困りますよね。一番上の姉がどうしてもこれを着ろって言うものですから。あ、上げ底ですよ?」

 その言葉に王太子は苦笑いをする。

「前は騙されたよ。流石にあの親書には参った。メディソン家ってアンドアイン殿もそうだけど、ユニークだよね」

「褒め言葉として受け取っておきますね。はぁ、大体、あの歳であんなにあるわけがないじゃないですか。ねえ?」

 肩を竦めるトリシアンナに、クリストフは戸惑う。

「え、いや、見たことが無いからさ。特に同年代の、その、胸は」

「あぁ、そうなのですね。でも、クリスの歳ならばもうお妃様候補として、何人か紹介されたのでは?」

 その言葉に少年は顔を曇らせる。

「あぁ、何人もね。でも、ダメだった。誰も彼も、僕を単なる王太子としか見ていない。話も全然合わないし、なんだか会話の内容も薄っぺらくて疲れるんだ」

 王都の貴族の子弟だろう。相応の教養は持ち合わせているだろうに、そこまで言われるものなのか。

「王都の貴族でしょう?賢い方だって多いでしょうに」

「ダメだよ。僕が詩の感想を聞いたって、誰かの受け売りみたいなのばっかりでさ。心から楽しんでるっていう気持ちが伝わってこないんだ。まるで、僕に合わせるように誰かから言われてるみたいで」

 それは……当然そうだろう。

 未来の王妃となれば、相応にその親の権力は強まる。誰も彼も、自分の娘にそのように対応するように仕込むに違いない。

「貴族というのは罪深く愚かなものですね」

 純粋な少年一人に勘付かれる程度の事しかできない。当然だ。同じ年頃の娘に、そんな事をさせて気が付かないわけがない。

 そしてその事に気が付かない。子供の頃の自分を忘れているのだろう。

「トリシアだって貴族じゃないか」

「私は……地方貴族ですから。あなたに対する含むものが無いだけです」

 そもそも、親が王族に近づきすぎる事を厭う立場なのだ。王都の有力貴族とは、根本から立ち位置が違う。

「それはそうだろうけど。でも、やっぱり僕は彼女たちを好きになれないよ」

 それでも、いずれは選ばなければならない時が来る。

 しかしそれを、まだ13歳の少年に言っても将来に絶望を植え付けるだけだろう。

「そのうち気の合う人も現れますよ。ほら、折角の美味しいお料理があるのですから、食べましょう?」

 お互い空になった皿を持って、近くのテーブルへと移動するのだった。


 ナズナは常に注意を払っている。

 自分の主に危害を及ぼすものがないかどうか、常時気を張っているのだ。

 王太子殿下とトリシアンナお嬢様がいかに仲の良い間柄とはいえ、間違いがあってはいけない。

 地方貴族が王族に近づくことを良しとしない存在は星の数ほどいるのである。

 近くに居る可愛らしい存在を見ていたい誘惑に抗い、ナズナは聴覚強化術を使用する。

 特定の周波数、つまり、いつも聞き慣れているトリシアンナお嬢様の声と、先程聞いた王太子殿下の声に合わせて増幅する。

 二人の会話がすぐ近くにいるかのように聞こえてきた。

『ふふ、今日は強引なキスは無しにして下さいね』

『気をつけるよ。でも、我慢できなくなったらどうしようか』

 なんだと。

 私の大切なお嬢様に、王太子殿下とはいえ、き、き、キスをしたのか?

 しかも、お嬢様も満更ではないご様子だ。おのれ、おのれ!

 カッと目を見開いて二人の方向を見据える。

『あら、恐ろしい私の侍従がこちらを見ていますよ?切り刻まれては困るでしょう』

『あの黒髪の女性は君の侍従なのか、道理で、美しい人だと思った』

『そうでしょう?でも、女の前で別の女を美しいと言うのはマナー違反ですよ』

 お嬢様、お嬢様は本気で王太子殿下の事を。

 聴覚強化を遮断して心の中でがっくりと項垂れる。

 これはお嬢様の選択だ。

 あの方がそう決めたのならば、専従である自分に否応は無い。

 ただ、愚直に仕えるのみ。それが忍びの矜持ではないか。

 辛い、苦しい。だが、仕方がない。

 目の前で愛らしい幼女を抱っこした、えびす顔の国王陛下が目に映る。

 ああ、国王陛下。その愛すべきお子様も、いつかはお嫁に行くのですよ。

 なんと、なんと残酷な現実だろうか。


 ナズナの気持ちを他所に、トリシアンナとクリストフの二人は大切な時間を大いに満喫していた。

「アレクサンドリナ殿下、とっても可愛らしいですね。ふふ、あの頃の子はあちこち動き回って大変でしょう?」

「あぁ、そうなんだよ。母上が病弱だから僕が見る事が多くてね。もう、片時も目が離せなくて」

 まだ身体のバランスが出来ていない子供が動き回ると、それはもう良く転ける。どこかにぶつかる。

「でも、侍従も沢山いるでしょう?誰かに見ていて貰えないんですか?」

 王城なのだ。子供の面倒を見る侍従など掃いて捨てるほどいるだろう。

「侍従はいるんだけど、家族以外が近づくと泣くんだ。侍従達も困っちゃってさ」

「あぁ~、人見知りですね。もう少しすれば治ると思いますけど」

 侍従が多すぎるのが問題のようだ。入れ替わり立ち代わり違う人間が現れれば、そりゃあ顔も覚えないだろう。

「私も一番上の姉の子があのぐらいですよ。もう少し上かな。忘れられないように、一生懸命何度も会いに行っています」

「そうなんだ。トリシアは色んな事に詳しいな」

 子育てに詳しい侍従も沢山いるだろうに、助言は受けられないのだろうか。王族に意見するのは差し出がましいという事なのかもしれない。

「この歳でもう私は叔母さんです。複雑な気分です」

「あはは、それじゃあその子達にはトリシアの事はお姉様と呼ばせればいいじゃないか。僕とドリナとの年齢差と同じぐらいだろう?問題ないさ」

「それは良さそうですね。この際続柄は無視しましょう。そうしましょう」

 酒も入って滑らかに舌が回る。

 分別のついた友人とのお喋りは楽しいし、料理も美味い。

 服のせいで思い切り食べられないのは残念だが、前回の宴に比べると格段に居心地は良い。

 気配を探ってみても、兄とナズナは相変わらず国王陛下と共に小さなお姫様と一緒であるし、誰かに邪魔をされる心配もなさそうだ。

 ただ、明らかにこちらに不快な感情を向けている者たちはいる。

 その殆どが王都の貴族であり、面々を見る限り、先程クリストフの言っていた『お相手』の関係者だろう。余計な心配を揉んでいるに違いない。

 トリシアンナはこの純粋な少年が少し可哀想になってきた。

 王太子として産まれたばかりに、周囲に振り回されて望まぬ相手と契らざるを得ない。

 それが王族の責務だとしても、まだ子供の彼に負わせるには余りにも酷な話だ。

 どうにかしてやりたいとは思うものの、所詮は地方領主の末娘に過ぎない自分に出来ることなど、高が知れている。

 楽しそうに演劇の内容を語る友人に相槌をうちながら、どうする事も出来ないという無力感に苛まれてしまっている。

「お嬢様、そろそろ」

 ナズナ達が近寄ってきた。もうそんな時間か。

「そうですか。クリス、名残惜しいですが私はそろそろ戻らねばなりません」

 別れの言葉に、王太子殿下は明確に悲しい色調へと変化する。

「そうか。楽しかったよ、トリシア。……また、逢いに来てくれるか?」

「宴に来るのは難しいかもしれません。今回は処女魔術のお披露目ということでしたが、次に来る理由が……ありません」

 領主代理としていつも来ていた兄とは違う。

 意味もなく毎回ついてきては、また王都の古狸どもに勘繰られてしまうだろう。

「他に何か無いのか?……宮廷魔術師になるとか」

 トリシアンナは頭を振った。

「私の資質は宮廷魔術師向きではありません。それに、宮廷魔術師になってしまえば厳しい制約が課せられます。王城にいても、気軽にあなたに会う事はできないでしょう」

 一応、宮廷魔術師の統括者は国王という事になっている。

 しかし、隠された部分の多い組織で、そのような自由が得られるとはとても思えない。

 何よりトリシアンナ自身が家族と離れる事に、耐え難い苦痛を感じることになるだろう。

「何か、何かありませんか、父上」

 妹を抱いた父に懇願する。

「難しいだろうな。彼女が男児であれば代理の見習いだという名目は一応は立つが……」

「女性ではだめなのですか?アデリナ殿は、立派にサバス領主の代理としてこちらにおいでです」

 その言葉にも国王は否定の言葉を並べる。

「アデリナ殿はデメトリオ殿の妻だ。領主の配偶者のみが女性でも特別に代理として認められている」

「じょ、女性が領主となった例は」

「一度も無い。地方領主は男性でなければならないと王国法にも記載されている」

 女性の場合、出産という大切なイベントがある。

 特に貴族であれば、家督存続のために世継ぎ候補を沢山産まなければならない。

 出産、育児と立て続けにあれば、王都に顔を出すこともろくに出来なくなってしまう。

「……会うだけであれば可能ですよ、クリストフ殿下」

 意外にもアンドアインが助け舟を出した。

「本当ですか?アンドアイン殿!どうやって」

「簡単です。トリシアが来れないのであれば、殿下自らが会いに来られれば宜しいのです。アルベール、お前も時々『視察』に来ていただろう」

「あぁ、なるほどな。その手があったか」

 王族、国王自ら行う事もあるが、各地方の統治具合を視察するという名目で、避暑や旅行を行うことがある。

 あまり同じ地方に集中しすぎるのはまずいが、それならば一応の理由付けにはなる。

「視察、そうか。そんな手が」

 クリストフの顔がぱっと明るくなる。

「トリシア、必ず近いうちに会いに行く。約束する」

「ええ、それではお待ちしていますね」

 抱擁を求めてきた王太子に応じて抱き返す。臣下への挨拶としては少しやり過ぎかもしれないが、この程度なら良いだろう。


 宿への帰りの馬車の中で、兄に声をかけた。

「意外でした。お兄様があのような案を出されるとは」

 兄に限らずではあるが、基本的にトリシアンナの家族は彼女と王太子の距離が近づく事を望んでいない。

 李下に冠を正さずという言葉の通り、痛くもない腹を探られないためには、触らぬ神に祟りなし、が地方領主の基本理念だ。

「あの王太子も随分と大人になっていた。妹君も出来た事でもあるし、あそこで自分の知っている情報を隠したなどと後で恨まれてもかなわん」

 言い訳を言わせたらこの男は一流だ。

「ありがとうございます、クリスの願いを聞いて下さって」

 トリシアンナとの距離は兎も角、未来の国王にサンコスタ領主として恩を売っておくのも悪くない選択肢だろう。

 裏には打算を。表には誠実さを。それは貴族がその世界で生き残るための手段でもある。

「それは王太子殿下だけの願いなのでしょうか」

 ナズナがぽつりと呟いた。どういう意味だろうか。

 打算という意味では確かにアンドアインにも合致する。しかし、それは別にサンコスタに来てほしいという願い、というわけではない。

 国王の願いとしても薄い。彼とて貴族達の間に余計な確執を作ってしまうのは避けたい所だろう。出来れば王太子には城で大人しくしていて欲しいはずだ。

 意味が分からず訝しげな表情をしていると、横からアンドアインが手を入れた。

「ナズナは、お前も王太子殿下の事が好きなのではないかと疑っているのだ」

「はっ?」

 思わず声が出た。

「いえ、そんな事はありませんよ。そもそも身分が違いすぎますし、王太子殿下には王都に沢山お妃様候補がいらっしゃるのです。私の出る幕など、少しも、僅かにも、これっぽっちもありませんよ?」

 ナズナには話していないが、そもそも出会いの印象が最悪なのだ。

 一体どこの誰が、自分を無理矢理犯そうとした相手を好きになるだろうか。

「それは王太子殿下側の話でしょう。わたくしが申し上げているのは、お嬢様自身のお気持ちの方です」

「いえ、ですからそれは」

 言い淀んで、意外に動揺している自分に驚く。確かにそれは建前であり、客観的な視点ではある。しかし、それ以外に答えようがないのだ。

 こういう理由で好きではありませんと伝えるのは簡単だ。しかしそれは、あの重大事件をこの侍従に漏らしてしまう事となる。それは出来ない。

「お兄様……」

「俺が言ってもナズナは納得せんだろう」

 この場で状況を一番理解しているのはこの兄なのである。

 しかし、理解しているという事と、ナズナを納得させることができるかという事とは全く別の事だ。

 この余りにも主に忠実な従者が望んでいるのは、本音であれ建前であれ、トリシアンナ自身の口から出た気持ちを表す言葉なのだ。

 YesかNoか、好きか嫌いか。至極単純、それだけだ。

 落ち着いて状況を鑑み、整理する。

 この場をはぐらかした所で、彼女の中に産まれた懸念は払拭できずにずっと残り続けるだろう。つまり、ここはトリシアンナ自身の言葉で納得させる必要がある。

 次にクリストフに対するトリシアンナの現在の感情である。嫌いか?Noである。では好きか?と聞かれれば、好ましい、と答えるだろう。

 しかしそれは一般的な恋愛感情のそれではなく、寧ろ友人関係としての気持ちに近い。

 loveではなくlikeであり、愛ではなく友情である。これに違いない。

「クリスは大切な友人ですよ。それ以上でもそれ以下でもありません」

 完璧な回答だ、これ以上は望めないだろう。兄も心の中で拍手喝采に違いない。

「嘘です」

 なぜだ。

「どうして嘘だと思うのです?」

 このナズナは一体何を知っているというのだ。

「そ、それは……ただの友人同士だというのならば、何故お二人は、その、き、キスをしたのですか」

 なんという衝撃的な言葉。予想もしなかった単語が飛び出てきたぞ。

 どこからそんなありもしない話が湧いて出てきたのか理解が出来ない。

「……ナズナは私が王太子殿下とキスをしたと言うのですね」

「そう申し上げております」

「それはどこで見たのですか。誰から聞いたのですか」

 事実と反する。事実無根である。どこからそんな話が出てきたのか問いただす必要がある。

「お、お嬢様自らが……お二人でお話されている時に」

 どういう意味だ。そんな事を言っただろうか。待てよ。

『今日は強引なキスは無しにして下さいね』

 あぁ、言った。成程確かに言った。しかしあれを聞いていたとか、この侍従の耳は一体どうなっているのだ。迂闊に内緒話も出来ないではないか。

「ナズナ。あれは冗談です」

「冗談で、『今日は』などと仰るのですか」

 しつこいな。だが確かにそうだ。

「未遂だったのですよ。迫られはしましたが実際には――」

 迫られた、という所でナズナの感情が急激に変化して爆発しそうになる。あっこれはまずい。

「こ、子供同士の遊びのようなものです!あまり重く考えてはいけません!いいですか、落ち着いて下さい。どうどう」

「私は落ち着いています、お嬢様」

 嘘をつけ。今まさに馬車を飛び出して王城へ引き返そうとしたくせに。

「兎も角!私は王太子殿下の事は良き友人だと思っているのです!お兄様、笑わないでください!」

「口は災いの元だな、トリシア。勉強になっただろう」

「必死に否定する所が怪しいです。戻ったらもう少し詳しい話を」

「しません。これでこの話は終わりです。帰ったら部屋にパン挟みを頼んで食べてお風呂に入って寝ます」

 もうこれ以上何も言わないぞとだんまりを決め込むのだった。


 親書には国王陛下、王太子殿下両名に「視察お待ちしております」とだけ書いてもらい、トリシアンナ達は王都を後にした。

「お兄様、今回のご報告、大変お疲れ様でした。疲れましたね。疲れましたよね?」

 向かいに座る兄に捲し立てる。

「わかったわかった。ちゃんと寄るから心配するな」

「ありがとうございますお兄様!愛しています!」

 尋常ではないトリシアンナの様子に、ナズナは戸惑って聞く。

「どうなさいましたかお嬢様。寄るとは、何の事でしょう?」

 ナズナは知らないのだ。この王国には温泉地があるという事を。

「温泉ですよ温泉。ナズナの故郷にもあったでしょう?大陸にもあるのです。温泉が」

「温泉ですか?こちらにもあるのですね。では、帰りに寄られると?」

「そうです!温泉に行くのです!私はもうこれを一番の楽しみにして近況報告についてきたようなものです!さあ、いざ温泉地テルマエシタへ!」

「お嬢様、まだ移動だけで3日はありますよ」

 ルチアーノの言葉も耳に入らない。

 最早トリシアンナの瞳には湯気のもうもうと立つ岩風呂しか目に入っていないのだった。


「どうして……何故私にこのような酷い仕打ちを。この世に神はいないのですか」

 王都から出発して南との分岐点、エストラルゴの宿で、トリシアンナはベッドの上で泣き崩れていた。

「この世の終わりです。いっそ世界が滅びてしまったほうがマシです」

「あの、お嬢様……お気を確かに」

 しくしくと枕に顔を埋めている主に、どう対応して良いか分からず狼狽えるナズナ。

 そこへノックの音がして、アンドアインが部屋に入ってきた。

「仕方がないだろう。タイミングが悪かったのだ。ほら、いつまでもぐずっていないで行くぞ。皆待っている」

「私を置いて皆さんだけで楽しんできて下さい……私はここでお待ちしております」

「馬鹿な事を言うな。10歳のお前を一人だけ宿に置いて行くわけにもいかないだろう。ほら、温泉地の楽しみは湯だけではないだろう?食事だってあるんだから」

 その言葉に漸くトリシアンナは起き上がる。

「そう、そうですね……そうでした。申し訳ございません、お兄様、ナズナ。お見苦しい所をお見せしてしまい……」

「お嬢様、また日を改めて一緒に参りましょう。別に報告の時だけしか来てはいけないという事ではないのでしょう?」

 ナズナの素晴らしい提案に涙を流しながら頷くトリシアンナ。

「そうですね。ありがとうございます、ナズナ。また、必ず来ましょう」

 のろのろと起き上がって宿を後にする。

 今出発すれば概ね午後の早い時間にはテルマエシタに到着する。

 楽しみにしていたのはトリシアンナだけではない。御者の二人やルチアーノ、兄のアンドアインだって楽しみにしていたはずなのだ。トリシアンナ一人が足を引っ張るわけにはいかない。

 馬車の中でナズナの膝を枕に横たわりながら、疼く下腹部の痛みを堪えるトリシアンナだった。


 4年振りの温泉街は以前と変わらず、湯気の立ち上がる川沿いの道を、のんびりとした感じで冒険者や商人の姿が行き交っている。

 馬車の後ろから遠ざかる景色を、トリシアンナはぼんやりと眺めていた。

「ナズナの故郷の温泉街はどんな感じでしたか?」

 枕元に座っている侍従に聞いてみる。

 書物を見たりナズナの話を聞いている限り、東方諸島の文化は、かつて自分のいた世界で住んでいた地とよく似ている。

 ならば温泉地の雰囲気も似ているのではないかと思ったのだ。

「温泉、を、中心とした街はありませんでしたね。街の近くに温泉が湧くだとか、近くの山の中に秘湯があるだとか。山の近くでは別にあまり珍しいものでもなかったものですから」

 ありふれていて保養地や観光地にはなっていないという事だろうか。

「そうなのですね。大陸では火山が少ないので、あまり温泉が湧かないのです。なので、こうして観光地にもなっているのですよ」

 緩やかな坂道の脇には、沢山の宿や土産物の商店が立ち並んでいる。

「山脈沿いになら湧くのかもしれませんね。サンコスタでも掘ってみればどうでしょうか」

 素晴らしい提案だ。問題は水質に影響がでないかどうかだが。

「川の近くでなければ大丈夫そうですが……そうなると取水が大変でしょうね。観光地化は難しそうです」

 温泉は出たが鉱泉で、流れ出した湯の影響でまた海に魔物が出現してはかなわない。

 湯に浸かる楽しみの為だけに、大切な産業を潰してしまっては意味がないのだ。

「そういえば、お兄様。例の発掘の件はご報告されたのですよね」

「『発掘の方』か?そうだ。漁業に影響があるなら白紙にすると陛下も仰られた。元々乗り気ではおられなかったようなのでな」

 金になる採掘の話に乗り気でない、という事は、どこぞからの押し込み要請か。

「そうですか、それならば一安心です。もう片方の件は?」

 盗掘の方だ。

「例の盗賊と同じ可能性が高いそうだ。これも調べて下さる」

「……そうですか。こちらは少し厄介ですね」

 40人規模の窃盗集団と同時期に盗掘だ。奴らのやり口にしては頻発化しすぎている。

 情報を重視するならず者集団がその活動を活発にしている、ということは、人数が増えたか、情報が増えたかのどちらかだ。

 そのどちらもが、何か大きな後ろ盾でも手に入れたであろう事を示唆している。

 領主として出来ることは、精々街の内部の治安を保つこと。

 あとは情報収集を欠かさず、何か兆候があればすぐに対処する。その程度か。

「守る側は常に不利ですね。持久戦は疲れます。早く捕まってくれれば良いのですが」

「お前は本当に察しが良いな。どうだ、私の後で領主をやってみないか」

 兄が冗談を言っている。

「前例がない上に法律で決まっているのでしょう?お兄様にしてはあまり面白くない冗談です」

 まぁ、出来ないわけではない。

 自分が結婚してその配偶者を領主に据えれば、領主夫人として相応の手腕を振るう事は可能だ。

 だが、それは兄が隠居するまで誰も後継者が見つからなかった時、最後の話になる。

 そもそも温泉旅行一つを赤い月で台無しにされただけで落ち込むような、そんな情けない領主など、一体どこの世界にいるというのだろうか。


 前回も宿泊した大きな茅葺きの宿の前で下り、靴脱場で上履きに履き替える。

 ふと見ると、ナズナも特に戸惑った様子もなく同じようにしている。やはり文化が似ているのだろう。

「ここの支配人は、案外東方諸島出身なのかもしれませんね」

 この宿だけでなく、風呂の形式や特産品の緑茶など、似通った部分はかなり多い。

 竹を頻繁に仕切りや壁として使っている所もそっくりだ。

「というより、この街全体の創設からそうなのかもしれないぞ」

「あり得ますね」

 何にしてもこの宿はなんだか懐かしくて落ち着く。

 浴槽を汚しては申し訳ないので風呂に浸かることはできないが、精々ゆっくり休ませてもらうことにしよう。

 邸であれば赤い月の時でも気にせず入浴する事はできる。寧ろ、温めるために積極的に入りたいぐらいだ。

 しかし公衆浴場でとなるとこれはマナーとしての問題だろう。

 湯から上がる時にぽたぽたとでもすれば、流石に周囲にいる客は良い気分にはならないだろう。いくらかけ流しだといっても限度があるのだ。

「私は部屋でゆっくりさせてもらいますので、ナズナは温泉に浸かってきて下さい」

 今回は流石に兄とは別の部屋だ。

 この宿は三人部屋でも個室が無いので、兄とナズナを同じ部屋に泊めるには流石に抵抗があった。なので、費用はかかるが兄は一人で二人部屋を取っている。

「いいえ。私の仕事はお嬢様の護衛です。離れるわけには参りません」

 遠慮しているのだ。こうなるとまた少々面倒になるので仕方がない。

「命令ですと言わせたいのですか?こんな温泉旅館の部屋で危ないことなどありませんよ。寧ろ浴場の方が魔物が出て危ないくらいです」

 実際に出たし。

「浴場に魔物ですか?そんな事が?」

「そうです。ですから、湯に浸かって魔物が出たら退治してきて下さい。あぁ、ここは混浴もあるので間違って入らないようにして下さいね」

「はぁ……主命とあらば」

 ナズナであれば混浴で不埒な輩に絡まれても問題なく撃退はできるだろう。

 だが、彼女の裸を有象無象の男に見られても良いかどうかは話が別だ。

「ゆっくりしてきて下さい。ここの露天風呂はとても素敵ですよ」

 入れないのは残念だが、それならばせめて専属侍従の彼女には楽しんできて欲しい。

 折角温泉地にいるのに、自分の近くに待機しているだけだなんて勿体ないではないか。

 恐縮しながら出ていったナズナを見送ると、大きなベッドにごろんと横になった。

 しかし、よりにもよってなんでこのタイミングで、という思いがもたげて来る。

 先月はもう少し遅かった。なので、旅の間は大丈夫だろうと思っていたのだ。

 勿論赤い月の為の用品は持ってきているのでその点は問題はないが、こんなに早く来るとは予想していなかったのだ。

 ナズナを見ていると、彼女は毎月大体安定して同じぐらいに来ている。

 何故か自分はといえば、早かったり遅かったり安定しない。

 最初の頃はそうだと言われても、あまりにも調整が大変すぎるではないか。そしてこの仕打ちである。

 寝返りをうつと、戸の隙間から、ガラス張りの屋外にある部屋専用の小さな露天風呂が目に入った。

 そういえば、ここなら入っても問題ないだろうか。うっかり汚しても自分で掃除すればいいし。

 そうだ、なんだ、ここにはこれがあるじゃないか。ああ素晴らしき高級温泉旅館。

 この部屋を取ってくれた兄に感謝するしかない。それでは早速。

 旅装を脱いで裸になる。上の下着を外し、下も脱ごうとしたところで、そういえば手ぬぐいが要るなと思って、入口付近の荷物を漁る。

「トリシア。夕食の時間は何時にする――」

 兄がノックと同時に入ってきた。部屋にいるので鍵はかけていなかったのだ。

「……すまん」

 言ってそのままそっと扉を閉じた。別に良いだろう、兄妹なのだから。下も履いていたし。

「時間はそちらと同じで良いですよ。以前の作法を覚えていますので、こちらはナズナと一緒に食べます」

 扉越しに兄に伝えると、そうか、と言って気配は遠ざかっていった。

 兄には悪い事をしてしまった。風呂には入らないと伝えていたので、寝ているものだと思い込んでいたのだろう。

 ともあれ、今は温泉だ。

 入れないとすっかり思い込んでいたため、嬉しい誤算に心が躍る。

 手ぬぐい代わりの布を手にガラスの戸を開けると、冬の冷たさが肌を刺す。

 慌ててかけ湯をして、即座に湯船に身体を沈めた。

「あ゛ぁ゛〜」

 思わず声が出る。これだ。

 耳元からとぷとぷと音を立てて湧き出てくる湯と、ちょろちょろと水の出ている蛇口がすぐ側にある。

 既に温度の調整はされていたらしく、少し熱めだが湯加減としては最高だ。

 体中を柔らかく刺激する湯温が心地良い。腕を持ち上げてこすってみると、特有のぬめりと仄かな温泉の匂い。

 完全に足を伸ばすほどの広さは無いものの、身を屈めて入るだけでも十分だ。

 ほうと白い息を吐いて空を見上げる。

 良く晴れた冬の空は青く抜け、綺麗で吸い込まれそうだ。

 目を閉じて全身で湯の温かさを感じ取る。湯と身体の境界が曖昧になり、溶け出してしまいそうだ。


 湯冷めしないように急いで身体を拭いて着替える。

 まだ夕方ではないが、もう夜着に着替えても良いだろう。何より旅装ではリラックスできないのだ。

 十分に温まったおかげで血行が良くなったのか、痛みも和らいでいる。やはり温泉は素晴らしい。

 そのままベッドで横になっていると、ナズナが帰ってきた。

「只今戻りました。……」

「起きていますよ」

 ベッドに横になっている主を見たのか、ナズナが黙っていたので声をかけた。

「もうお着替えになられたのですね。やはりお辛いですか」

「いいえ。部屋の風呂に入ったので大分楽になりました。よく考えたら、この宿のこの部屋には家族風呂があったのでした」

 ガラスの外を指さして言う。ナズナは今気付いたのか、驚いた顔をした。

「戸の向こうにこんなものがあったのですね。しかし、なんとも贅沢な……」

「お兄様は毎回ここを使われているようです。助かりました、ずっと温泉に入れないと思っていたので」

 この宿の二人部屋は恋人同士や夫婦で泊まることを前提に作られているらしいのだ。

 二人で湯に浸かりたいが、混浴はちょっと、という客も多いのだろう。

 以前は兄と一緒に入ることは出来なかったが、この部屋のお陰で赤い月の最中でも温泉に浸かれたのだ。感謝しか無い。

「良かったですね、お嬢様。しかし、こんなものがあるのであれば、わたくしもこちらに入りましょうか。その方が常にお側に居られますし」

「いえ、別に好きな方に入って良いのですよ。こちらは他人の目を気にする必要はありませんが、そもそも狭くて足も伸ばせないので」

 温泉施設で足が伸ばせないというのは割ときつい。

 膝裏で湯を感じられないのとか大の字になっておっぴろげできないのは結構なデメリットである。

「お嬢様のお側に居ることが、わたくしにとって最も大切な事ですので」

 大切とかそういう事ではなくて、個人の好みを聞いているのだが、彼女には通用しないようだ。

「そこまで言うのであれば好きにして良いですけれど……そうだ、ここでは夕食の主食は選べるんですよ。ナズナはパンとライス、どちらにしますか?」

 当然、彼女はライスだろう。なにせ東方諸島の出身なのだ。その主食が恋しいに違いない。

「では、パンでお願いします」

「えっ、いいんですか?ライスもあるんですよ?」

「パンでお願いします」

 意表を突かれたが、こちらに抜かりは無い。どちらを選ぼうと結果は変わらないのだ。これぞ、貴族の誘導作法。

「では、私はライスにしますね」

 相手に選ばせた気分にさせて、実質両方とも食べられる二重の策。選択肢を与えた上でその実、どちらを選んでも変わらないのだ。

「お嬢様はライスがお好みですか?では、わたくしもライスで」

 なんだこいつ。

「あの、ナズナ?私はあなたの食べたいものを聞いたのですよ?」

「お嬢様のお好きなものがわたくしの好みでございます」

 だめだこいつ、早くなんとかしないと。

「ナズナがライスを選ぶのならば私はパンにします。両方食べられたほうがお得なので」

「なるほど、そういう意図でございましたか。であれば最初から仰って頂ければ良いものを」

 はい、そうですね。確かにそうです。

「そうですね、ごめんなさい。ナズナを試すような事をしてしまいました。私はあなたの主として失格ですね」

 もう好きにして欲しい。と思って言ったのだが。

「ちょっと!なんで短剣を自分の首に当てているのですか!やめなさい!やめなさい!」

「我が主に主として失格と言わせてしまいました。これは間違いなく我が不徳。命をもって償うべきかと」

「やめてください!ナズナが死んだら私は悲しいですよ!?なんでそんなことしてるんですか!」

「はっ、失礼しました」

 こいつ、わざとやっているのか?

「あの、質問なのですけれど、お風呂で何かありました?」

「米の醸造酒を湯に浸かりながら飲めるというサーヴィスがありましたので、少し」

 いつも以上に暴走している理由はこれだった。

「湯船で飲むと血行が良くなるので、よく回ります。気をつけてくださいね」

「御意」

 もう言葉遣いも昔に戻ってる感じがするし。

「失礼します、お食事をお持ちしました」

 良かった。ナイスタイミングです宿の従業員さん。


「それでは、お代わりがお望みの場合はそちらの紐をお引き下さい」

「はい、ありがとうございます」

 にこやかに従業員を見送る。

 移動式のテーブルに乗せられているのは、どれも手で摘んで食べられるようなものばかり。

 串に刺さった魚の塩焼きに、一口サイズのパン挟み。鶏に小麦粉を付けて油で揚げた物に、以前にもあったピッツァだ。

 取り分け用のスプーンのついている鍋物は、どうやらラディッシュのみをじっくりと煮込んだもののようだ。

「お兄様がいないので、私もお酒を飲みます。自由です。素敵です」

 度数は低いがこの地方の山林檎を使った醸造酒があるのでこれにした。ナズナは米の醸造酒である。

「お嬢様、あまりお酒は過ごされないように。翌日が辛いですよ」

「大丈夫ですよ、程々にしておきますので。それよりも、ナズナは先程お風呂で飲んだのでは?」

「わたくしめは酒精を分解する術を使えますので」

 それは、酒を飲む意味があるのだろうか。その割にはその魔術を使っている様子がないのだが。

「ま、まぁいいです。ナズナと二人だけで食事をするのは初めてですね、二人の初めてを祝って」

 林檎酒を掲げる。ナズナもガラス製のお猪口を掲げた。この世界にもお猪口ってあるんだと変に感動した。

 林檎酒を一口飲んで驚いた。あまりにも美味い。

 炭酸を僅かに含んだ飲み口はエールに似た感じだが、甘い爽やかな香りがすっと鼻から抜けていく。まるで酒臭さを感じない。

 果汁を使う酒というのは沢山あるが、それにしたってこれは別格だ。爽やかさと香りの良さが段違いで、いくらでも飲めそうだ。

「ふぅ……こちらの米の醸造酒は美味いですね。故郷のものも良いものは良いのですが、値段が高くて……その点、これは聞いた値の割には辛口にてきりりとした舌触り、その反面、薫る華のような後味が堪りません」

 ナズナも小さな瓶に入った醸造酒を気に入っているようだ。

「そんなに美味しいのですか?私にも下さい。あっ、こっちの林檎酒も美味しいですよ」

「お嬢様のお勧めとあらば。おお!確かに!素晴らしい舌触りですね!」

「わっ、華やかな薫りです!これ、本当に米のお酒ですか?」

 口に含んだ時はピリリと舌を刺すような辛味を感じたものの、それは一瞬ですっと消え失せる。後に残るのは花のような甘く芳しい薫り。

 言いながら魚や鶏肉を摘む。どれもこれも酒に合う。堪らない。

「あぁっ!川魚の塩焼きとこの米のお酒の相性ときたら!」

「油を洗い流すような林檎酒の爽やかさ!鶏肉の旨味が引き立ちます!」

 じっくりと煮込まれたラディッシュは甘じょっぱく、噛みしめるとあふれる煮汁を吐き出す。これは米の酒にとても合う。

 パン挟みの具は保存食らしい魚の塩漬けや油漬け、燻製肉だが、これは林檎酒と相性抜群だ。

 少女達の宴は続く。

 止める者のいない二人は暴走し、翌日に禍根を残すまで飲み食いし続けるのであった。


「うう、あの旨さは罠でした」

 ナズナにアセトアルデヒドを分解されながら、トリシアンナは呻く。

「お嬢様の年齢であの量は流石にお辛いでしょう。もう少し、辛抱下さいませ」

 米の醸造酒は飲みやすい割に酒精の割合が高い。料理と合う上に薫りに釣られてついつい飲みすぎてしまったのだ。

 ナズナが水撃系の達人で良かったと、本気で感謝している次第である。

 結局あの後、飲みすぎた二人はそのまま仲良く抱き合ってベッドで寝たのだが、目覚めるなりトリシアンナは便所へと駆け込んで胃の内容物を吐き戻してしまった。

「もったいない……折角食べたのに……」

「その感想が出てくる事にお嬢様の力強さを感じます」

 概ね消化が進んでいたにせよ、貴族のご令嬢にはあるまじき行為である事には間違いは無い。

 大人しくナズナに額を触られながら仰向けになっていると、遠慮がちに扉がノックされた。

「……どうぞ」

 中々扉が開かないので、ナズナが返事をすると、兄がひょこりと顔を覗かせた。

「気分はどうだ、トリシア……どうした、体調が悪いのか?」

 心配そうに近寄ってくる兄に、トリシアンナの中の悪魔が囁いた。

「ええ。いえ、大丈夫ですお兄様、少し気分が悪いだけですので」

「何?そうか、まだ赤い月の影響があるのだな。無理はしなくていいぞ、どうする?今日も泊まっていくか?」

「ご予定があるのでしたら、私の事は気にしないで下さい。今日、出発なさるのですよね?」

 弱々しい声で返す。

「何を言っているのだ。体調が悪いのだろう。ナズナ、予定は一日延長する。トリシアの事を良く見ておいてくれ」

 兄は勝手に勘違いをすると宿泊の延長をするために出ていった。

 ――計画通り。

「お嬢様……」

「私は悪くないですよ、ナズナ。勝手に勘違いしたお兄様が悪いのです。さあ、今日も温泉とお酒を楽しみましょう」

 体内の宿酔物質を殆ど除去されたトリシアンナは、邪悪に微笑んだ。

 これで今日も存分に温泉を堪能できる。赤い月があろうと、ここにはそれを無視できる施設があるのだ。精々療養させてもらう事にしよう。


 赤い月の最中であるはずのトリシアンナは、何故かつやつやとした表情で帰途についている。

「ごめんなさい、お兄様。私のせいで予定が遅れてしまって」

「気にするな。どうせ領主の仕事など、溜まった書類に判を押すだけの事だ」

 有象無象の魑魅魍魎を相手取る歴戦の猛者アンドアインも、この妹に対しては、その力がどうにも働かないようである。

 エストラルゴを出て、野営の必要となる最も危険な地域を通ろうとしている。

「ナズナ。トリシアは今、戦力にならない。護衛としてはお前だけが頼りだぞ、頼む」

「……お任せ下さい」

 言うほどトリシアンナの力は減衰していない。

 赤い月が来ているにも関わらず、温泉に浸かって暴食したせいか、いつもよりも体内に魔力が漲っている状態なのだ。

 宿酔物質の分解を行っている時、ナズナはその体内に蓄積された魔素量に圧倒された。

 およそ人の持つ量ではない。

 小さな身体に一体どうやったらこれだけの量が入るのか、という程に詰め込まれている魔素量は、油断すれば構成を通じてナズナに逆流してきそうな程だったのだ。

 トリシアンナ本人が自分を魔物と称した様に、ナズナ自身も彼女のこの圧倒的な力に戦慄していた。

(我が主としてはお仕えするに申し分ない。しかし、御本人はそれに気が付いておられない)

 往きにこの場所で彼女が暴走したのもさもありなん、という程である。

 通常の人間がこの魔力圧を体内に宿していれば、今すぐ破裂して肉塊と化している事だろう。

 しかし、いくら強くとも仕える主を戦わせたとあらば忍びとしてそれは不徳の至りだ。

 手を煩わせては絶対にいけない。それがナズナの矜持でもあるのだから。

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