第10話 水辺の戯れと陰謀の蠢動

 冬は過ぎ去り、短い春がやってくる。

 暖かくなってくると、メディソン家には頻繁に各地からの客が訪れる。

 大抵は王都の貴族だったり、地方領主とその家族だったり、果ては南方諸島、東方諸島の諸侯だったりする。

 何故そんなにここに集まるのか、といえば、単純に遊びに来るのである。家族で。

 地方視察という名目で、公費を使って遊び放題である。どの世界においても、安定した国家の政治家とは大体そんなものだ。

 まぁ、サンコスタには王都ほど贅沢な宿泊施設も無いし、メディソン家に滞在している間の費用はメディソン家持ちである。そこまで贅沢三昧に浪費できるわけではない。

 春には旬の魚介類が出回るし、買い物に回れば海外からの輸入品も安く手に入る。

 夏ともなれば街から少し離れた白い砂浜で海水浴だ。見事にバカンスである。

 そんなわけで、意外とこの季節は接待に忙しい時期でもある。侍従の繁忙期だ。

 一つ、王都では目出度い出来事があった。

 国王陛下と王妃の間に、新たな子が産まれたのである。女の子だ。

 一番目の子であるクリストフ王太子殿下とは10歳も離れているが、それ故か殿下はこの新しい姫君を大変可愛がっていると聞く。

 トリシアンナに向けられた執着心も、これで少しは和らぐだろう、と、事情を知る周辺の一同はほっとしているところだ。

 そうした目出度い空気もあってか、今年は一段と訪問者が多い。

 王都の貴族は入れ替わり立ち替わり一週間ごとに挨拶に訪れ、引きも切らない状態である。

 その度にトリシアンナは挨拶に引っ張り出されては愛想を振りまく日々を送っているのだ。鍛錬や狩りをする時間が極端に減っている。

「疲れました。それにしてもこの時期は、まるで禁猟期間のようです」

「お疲れ様でした、お嬢様。今日の方を最後に暫くは訪問者も落ち着くでしょうし、ゆっくりされて下さい」

 ナズナがすっかり慣れた手付きで珈琲を淹れてくれる。立ち上る香りが堪らない。

「ナズナもお疲れ様でした。給仕にベッドメイクに部屋の掃除と、仕事も多かったでしょう」

「わたくしの仕事は大したことはありませんよ、ただの作業ですから。お嬢様のように気を使う事も余りありませんし」

 ただの掃除ならばそうだろうが。

「給仕は気を使いませんか?王都の方は色々……まぁ、色々と」

「そうですね、わたくしはそうでもないのですが、ジュリアさんやパオラさんが」

 家族連れでない場合のほうが実は給仕は大変だ。

 家族を置いて男が供のものだけを連れてやってくる場合、往々にしてハメを外す。

 街の盛り場をうろついたり、連れてきた侍従と不倫を働く程度ならばまだ可愛いもので、中にはメディソン家の侍従に夜の世話をさせろと言ってくる者さえいる。

 無論、そういったお願いは丁重に脅しつけて遠慮してもらうのだが、こういった手合いは給仕の際に色々と手を出してくるので面倒くさい。

 表立っては言えないのを良い事に、すれ違い様に尻を触ったりは当然の如く、ある貴族などは家族が寝静まった後、侍従の入浴を覗こうとした事もあった。

「ナズナは触らせたりはしないでしょうけれど、あの二人は大変そうですね。……目立ちますし」

 もしこれが原因で侍従が機嫌を損ねて辞められでもしたら、貴重な人材の損失となってしまう。

 それ故にトリシアンナは、そういった客が滞在中にはできるだけ彼女たちの周りにいるようにしているのだ。

 可愛らしい幼女が近くにいれば、余程の者でも目の前では不埒な行動を起こしにくい。

 しかしこの手も、トリシアンナが成長してしまえばいずれ使えなくなってしまうだろう。

 抑止のつもりが逆に被害に遭う可能性もあるのだ。

「王国の貴族とはもう少し紳士的だと思っていたのですが、何というか」

「抑圧されている分を発散しているのでしょう。こちらとしてはたまったものではないですが」

 それに比べれば外国からの客は大人しいものだ。

 別の国に来ているという不安からか、大抵は街でも大人しくしているし、こちらの持て成しを大変気に入ってくれる場合が殆どだ。

 王国と諸国との力の差というのもあるのだろうが、借りてきた猫のようで侍従達にも大変評判が良い。

「ナズナが来る前の話ですが、東方諸島の本島から将軍様が来られたことがありますよ」

「えっ……?」

「こちらの食べ物が大変お気に召したようで、帰りに沢山柑橘の果汁と小麦を買って帰られました」

 まだトリシアンナが4歳程度の頃だったが、当時で40かそこらの、がっしりとした体格の立派な口髭をたくわえた男性だった。

 トリシアンナが挨拶するといかつい顔を緩ませて、大変可愛がってもらったものだ。

「そうですか、将軍様が」

「どうしました?」

 哀愁とも悲哀とも望郷とも苦痛とも取れる、複雑な色を滲ませている。

「いえ、そのように偉い方もこちらにおいでになるのですね、驚きました」

 ナズナにとってはあまりしたくない話のようだ。この話はここで終わりにしておく。

「それより、ずっと接待で身体が鈍ってしまいそうです。久しぶりに裏山で狩りをしたいのですが」

「はい、お供致します」

「ええ。お願いします……ところで、お姉様は?ここの所あまり姿を見ないのですが」

 神出鬼没な姉は基本的に引きこもりがちだが、時折ふらっとどこかへ消えてしまうことがある。

 二、三日すれば大体は戻ってくるのだが、どこに行っていたのか聞いても、殆どの場合曖昧にはぐらかされるだけなのだ。

「さぁ……この間は学院に顔を出してくると仰って一人で出て行かれましたが、今どちらにおられるかは、ちょっと」

 一人で王都まで行って帰ってくる事が出来るというのは凄いが、良く考えたらアンドアインやラディアスだってやろうと思えば可能だろう。

 長兄は立場上供を連れているだけで、馬さえいれば普通に一人で行って帰ってこられるだけの実力はある。

 次兄に至ってはそれこそ休まず走ってでも往復しそうだ。

「ディアナお姉様は本当に自由人ですね。まぁ、ナズナがいるなら大丈夫でしょう。これを飲み終わったら行きましょうか」

「承知いたしました」

 ナズナは随分と物腰が柔らかくなった。侍従として落ち着いてきたというのもあるのだろうが、以前のように食い気味にトリシアンナに迫ることが少なくなったのだ。

 まぁ、半分程度はラディアスの影響もあるのだろうが。

 ナズナが食器を片付けている間に、部屋の隅に立てかけてある剣を持って裏口から表に出た。

(さて、暫く振りですので、大物がいるでしょうか)

 トリシアンナはまず今の位置から周辺を探ってみる。今日は姉がいないので、あまり大きな獲物は持って帰れるか微妙なところだ。

 ナズナは力もあるのだが、流石にクマやイノシシを持ち帰るには厳しいだろう。

 ざっと見た感じ、魔物はそれほど増えているようには感じない。

 いつものルナティックヘア、ラタトスクやフォーダーツァーンなどの小型の魔物はちらほらと存在しているが、少し大きめのものも見当たらない。

 宙空に目をやると、通常の鳥たちに混じってファットビークやコリブリもいるが、こちらは肉もあまり美味くない上に羽毛も使い道があまり無い。要はまずいのだ。

 農園や住人に被害が出るほど増えれば駆除しなければならないが、今のところそこまで狩る必要性は感じない。

「お待たせしました、お嬢様」

 裏口の扉からナズナが姿を現した。畳んでも大きな麻袋を小脇に抱えている。

「どうも今日はあまり良い獲物はいないようですよ、ナズナ。どうしましょうか」

「日を改めますか?」

「うーん、それでも良いのですが……そうだ、何か食べたいものなんか、無いですか」

 別に金に換えなくても良いのだ。運動がてらに狩って、肉なんかを消費するだけでも。

「食べたいものですか?そうですね……強いて言えば魚が恋しいですけれど」

「魚ですか」

 盲点だった。山なので陸生の魔物しか考えていなかったが、良く考えれば大きな川や淵にも魔物は棲み着いている事がある。

 川魚や蟹といった種類であれば、魔物でも食べられるだろう。

「西にある川を少し遡って探してみましょうか。私は水中の探査は苦手ですが、大きな淵でもあればその都度探れば良いでしょうし」

「淵を?ですが、見つけたとしてどのように……釣りでもしますか?」

「その必要は無いでしょう。一応考えはあるので、行きましょうか」

「かしこまりました」

 川沿いに進むというのは初めての試みだ。ナズナには少し走りにくい地形かもしれないので、あまり速く移動するとまずいかもしれない。ゆっくり行く事にしよう。


 ポンポンと跳ねるようにして渓流の岩場を進む。

 後ろを見れば、ナズナはいつものように裾を上げて普通に付いてきている。

 肉体強化の魔術だけで、良くもまぁあそこまで軽快に跳び回れるものだと感心してしまう。この世界の忍びはみんなああなのだろうか。

 10キロメートル程遡ったところに、大きな滝があった。

 裏山は山岳地帯らしく、川の落差も流れも速かったが、やはり滝もそれなりの大きさだ。

 滝の下には当然、淵。

 水は美しく透き通っているが、十分な深さのあるそこは底まで見通すことが出来ない。

「私が調べましょう」

 ナズナが水面に手をかざした。

 水撃系第二階位『インフレッションエコー』のアクティヴソナーで淵の中を探る。

「いませんね。通常の魚影ばかりです」

「そうですか、残念です。もう一つ先を見て、いなければ適当に川魚でも獲って帰りましょうか」

「承知しました」

 あまり遠くまで移動すると、夕食の時間までに帰れなくなる。

 いつもと違う移動方法なので、あまり距離を稼げないのだ。

 滝の上に飛び上がって、上流を見る。次の滝がどこになるかは分からないので、ある程度進んで無いと分かれば引き返すしか無いだろう。

 ナズナが岩の上を飛び跳ねて登ってくるのを待って、トリシアンナは再び移動を開始した。


 更に数キロは移動しただろうか。帰りの時間をそろそろ考えようかという時に、先程よりも大きな滝が目の前に見えた。

 淵の縁に到着して見上げると、落差は150メートルほどもあるだろうか。

 水量も凄まじく、周辺にはもうもうと水煙が立ち込めており、落ちる水の轟音で通常の会話すらままならない。

 トリシアンナは追いついてきたナズナの手をそっと握った。

『音が凄くて会話が出来ないので、直接伝達を使いましょう』

『おほおおおおおっ!?おっお嬢様の手、おて手が手が手が』

『ちょ、ちょっとナズナ!?聞こえてますよ』

 表情は殆ど変わっていないのに、感情の色と伝達の会話が暴走している。随分と器用な事だが、やはりナズナはナズナだった。

『し、失礼しました!早速探ります!今すぐ探ります!お任せ下さい!』

 すごい気合の入り様だが、大丈夫だろうか。

 再び水撃系の探査術で淵の中を探るナズナ。先程より大分深くて広いので、やはり少し時間がかかるようだ。

『いますね。大きさは……済みません、詳細にはわかりませんが、3メトロ以上はあるでしょうか。ただの川魚の大きさではありません』

『わかりました、ありがとうございます』

 それだけ分かれば十分だ。

『ナズナ、少し下がっていて下さい。危ないので』

『は?はぁ……何を』

 手を離すと、名残惜しそうにしながら忍びの侍従は下がる。

 彼女が十分に離れたのを見て、トリシアンナは淵に向かって手を翳した。

「雷霆よ。宵闇を切り裂く一条の蛇よ」

 放出された魔力が構成によって発現する。

 何も無い宙空から、大気を切り裂く轟音と共に白い稲光が奔る。

 瀑布すらかき消す落雷そのものの爆音が、周囲の飛沫を震わせる。

 一瞬にして水面に着弾した雷撃の余波で、プラズマ化したイオンが周囲に浮遊して放電し、散っていく。

 数秒待つと、巨大な細長い魚体が一つと、無数の川魚が白い腹を見せて浮かんできた。

 後ろで固まっていたナズナを手招きして呼び寄せ、再び手を握る。

『回収したいのでさざ波の魔術を』

『なんですかお嬢様今のは!ら、雷遁!?そんな、使い手が殆ど居ないはずなのに!』

『あー、後で説明するので、とりあえず、魚、集めましょう?」

 トリシアンナも『ブリーズ』で気絶している魚達を引き寄せると、まだ生きているものだけ残して袋に回収した。

 魔物らしき魚はそのままでは袋にはいらないので、一旦滝の音が聞こえない場所まで引っ張って来る。

「頭と内臓を外して持って帰りましょう。半分にぶつ切りにすればなんとか袋には入りそうです」

「お嬢様!さっきの魔術は――」

 よくよく考えたらナズナは知らないのを忘れていた。うっかりしたといえばうっかりしていたのだが、まぁ、この忠誠心があれば誰かに漏らしたりはしないだろう。

「雷撃系の第四階位『フラッシュサーペント』です。元々私は雷撃系が得意なので」

 エラに山刀を入れて、力を込めて締める。大きすぎて結構大変だ。出来ればナズナにも手伝って欲しいのだが。

「初めて聞きましたよそんな術!お、お嬢様は一体」

「処女魔術が第五階位の雷撃系だったのです。これを知っているのは私の家族だけですので、内緒にしておいて下さいね。ナズナに見せたのは、ナズナは家族も同然だと思っているからなので」

 ただうっかりしていただけなのだが、家族のように思っている事は本当だ。

 魚の首から腹に刃を通す。大きすぎてしかも硬い。山刀でも一苦労だ。

「家族……はい。お嬢様。決して他言致しません。例え拷問にかけられようと、絶対に口は割りません。忍びとはそういう訓練も受けておりますので」

「いやいや、こんな事で拷問にかけられるような事は無いと思いますよ。それより、少し手伝って下さい。この魚、皮が結構硬くて」

「あっ、はい!ただ今!」

 どうにか頭と内臓を外し、尻尾に縄を括り付けて淵で血抜きをする。

 大分軽くなったので、身を半分の所で切って、ようやく袋に収めた。

「かなり重いですけど、大丈夫ですか?」

 人の大きさほどもありそうな麻袋をナズナが担いでいる。

 軽量化は済ませたとはいえ、それでも重さは相当なものだろう。

「問題ありません!この程度、お嬢様から頂いた愛に比べれば!」

「……私の愛って重いんでしょうか」

「羽のように軽いです!」

「いや、それもどうなのでしょうか」

 まぁ、いつものナズナに戻って何よりである。帰りは少しペースを落として戻ろう。


「おや、お嬢様。こいつはまた珍しい魚を獲ってきましたね」

「マルコはこの魚を知っているのですか?」

 例によって厨房に持ち込んで、マルコに見せたらこの反応だった。

「これはスキアヴォーナですね、レーヌ川の下流には生息してるみたいですが……近くの川にこんなでっけえ奴がいるとは思いませんでした」

 これは魔物ではなくて普通の魚なのだろうか。

「その、スキアヴォーナというのは普通の魚なんですか?魔物ではなくて?」

「魔物?うーんそうですねぇ。魔物といやあ魔物ですかね、ここまで大きくなるってのも珍しいし。そもそもあんまり獲れない魚なんで、普通のスキアヴォーナがどれぐらいの大きさなのかってのは良くわかってないんですよ」

 なるほど、クラーケンとイカ、ブラッディボアとイノシシの違いみたいなものだろう。

 漁獲の少ない魚は、どこからが魔物でどこからが魚なのかわからないのだ。

 魔物になると大抵特殊な力を持っていたりするのだが、水揚げされてしまえば死んでいる事も多い。違いといえば体表や食性なんかだが、検体が少ない以上その比較もできないのだろう。

「ともあれ、食べられる魚で良かったです。これはどうやって食べるのが良いのでしょう?」

「普通にソテーなんかが一般的ですね。淡白だけど骨離れが良くて、結構美味い魚ですよ」

「本当ですか?夕食に出せますか?」

「ええ、ええ。沢山焼いてお出ししましょうね。一緒に獲って来られたのも塩焼きにしますんで、沢山召し上がって下さい」

「ありがとうございます!マルコ!」

 これだけの量があれば、家族全員だけでなく使用人達もみんなで食べられるだろう。

 ナズナには少し重い物を運ばせてしまったが、獲ってきて本当に良かった。

 後ろに控えているその侍従を振り返り、満面の笑みをプレゼントしたのだった。



「ふー、暑いですね、ナズナ」

 いつもの日課を終えて、側にいる専属侍従に話しかける。

「もう夏ですね。流石にわたくしも、この侍従服では暑いです」

 殆ど肌を露出しない侍従服は、通気性こそそこそこあるものの、やはり暑いのだろう。

 この季節はほぼ全員が、何かの作業の後には熱操作系で涼を取っているのを見かける。

 毎日外で仕事をしているフランコやジュゼッペなどは、袖のないシャツ一枚で作業をしている姿もよく見かける。

 流石にあそこまで脱いでしまうのは侍従にとって問題があるだろうが、夏用のものも用意してあげたほうが良いのではないだろうか。

 トリシアンナも下着以外は袖の無いワンピースの一枚だが、それでもこの暑さである。

「あまり暑い場所に長時間いると身体に毒ですので、今日はもうお部屋にお戻りになられたほうが」

「そうですね、お風呂で汗を流して、冷たいものでも頂きましょうか」

 こう暑いと水風呂にでも入りたくなる。欲を言えば泳ぎたいところだが、浴槽は広いとは言え流石にそこまでは出来ない。

「泳ぎ……ナズナは泳ぎは得意ですか?」

 忍びなのだし当然泳げるだろう。特に、彼女は水遁が得意だと言っているのだ。

「はい、勿論ですよ。任務で3日間も湖沼に潜んでいた事もありますので」

「どんな任務ですか。あ、いえ、別に聞きたいわけじゃなくて」

 水の中に潜むのは泳ぎとは少し違う気もするが、まぁ溺れないという事は得意なのだろう。であれば。

「海水浴に行きませんか?できれば行ける人、全て誘って」


 サンコスタの街から南西側の海岸には、かなりの範囲で白い砂浜が続いている。

 休息地としても名高いサンコスタでは当然、そこを海水浴場として広く開放している。

 海に入るのに特別な決まりは無いが、釣りや海辺の採集を行うには専用の権利を購入しなければならない。

 海洋資源は魔物との取り合いであるため、漁獲には厳しい制限が設けられているのだ。

 遊びでも貝などを獲ってこようものなら、厳しい額の罰金が課せられる。

 その反面、遊泳には制限が殆どかかっていない。

 どこから海に入ろうが、どこまで泳ごうが自由である。

 その分海難事故も結構な数発生しているが、それは完全に自己責任とされている。

 海は危ない。それは周知されているのだが、他所からバカンスにやってきた者達はどうしてもその辺りの理解が足りていない部分が見受けられる。

 一応公費で水撃系の使える見張りを数百メートル置きにおいているが、誰がどこから入ったかなどいちいち見ていられないのだ。

 ともあれ、波打ち際や浅い部分で遊ぶ分には全く問題は無い。

 大半の人々は、暑い夏を潮辛い水で洗い流して楽しんでいる。


「おおー、砂浜です!海ですよお姉様!」

「トリシア―、走るとこけるわよー」

 風圧系の魔術を発現して物凄い速度で駆けていくトリシアンナを、砂浜なのにまるで足を沈めずに歩いているディアンナが追いかける。

「私達までお誘い頂き、ありがとうございます。アンドアイン様」

 清楚な白いオフショルダーワンピースに麦わら帽子姿で、栗毛の侍従、フェデリカが礼を言う。

「皆を誘おうと言い出したのはトリシアだ。礼なら彼女に言ってやってくれ。ユニや父上達も来られれば良かったのだがな」

 いつもとは大分印象の違う、ハーフパンツに水色の半袖シャツのアンドアインが答えた。

 両親は執務で手が離せず、ユニティアもまだ小さい双子を連れてくるのは厳しかったため、仕方なく諦めたのだ。

「まぁ、仕方ないさ。海は近いんだし、また別の機会に来りゃいい」

 これでもかと鋼の筋肉に包まれた肉体美を見せつけるラディアスも、既に水着姿だ。

 隣には漆黒の水着に身を包んだ、スラリとした肢体のナズナがいる。

「パオラさんも来たいって泣き叫んでましたよぉ。お休みが合わなくて残念でしたねぇ」

 迫力満点のボディを、セパレートタイプの水着に隠すつもりも無く披露するジュリア。歩く度に揺れる物が当然の如く揺れ、周囲を圧倒している。

 青い水着のひょろりとしたアメデオは、その後ろを、できるだけ彼女の方を見ないようにして付いてきている。

「そういやアメデオ、ジュゼッペとマッテオはどうしたんだ?確か今日、休みだったろ?」

 ラディアスが聞くと、アメデオはそちらに視線を向けて控えめに答える。

「二人共、海は毎日見てて見飽きたからいい、だそうです」

「なんだよそりゃあ勿体ねえ。見るのは海だけじゃないってのによ、なあアメデオ」

「えぇ……?やめてくださいよラディアス様」

「ラディアス様」

 後ろからナズナが物凄い握力で腕を掴む。

「何をご覧になるのですか?」

「あぁ、いや、その。け、結構握力あるなお前」

「一日中縄にぶら下がって暗殺対象を待ち続けた事がありますので。それで?何をご覧に?」

 笑顔でギリギリと締め付ける。

「いや、そりゃ……う、海の中に決まってるだろ。サンコスタの海は綺麗だぞ!ほら、いくらでも泳いでいられるっつうか」

「ほう、そうですか。では、遠泳か潜水で勝負でもしましょうか?」

 不敵に笑うナズナ。

「何だ?俺に勝つつもりか?手加減はできねえぞ」

「こうみえて忍びでは随一の水使いです。いくらラディアス様といえど、水の中では私に勝てません」

「面白え。望む所だ。勝ったら相手の言う事を一つ聞く。どうだ?」

「乗りました。吠え面をかかせて差し上げます」

 二人は睨み合いながら砂浜を早足で海へと向かっていく。

「あっ、おい!あんまり沖へ出ると危険だぞ!……まぁ、あの二人なら問題ないか」

「仲良しさんですねぇ」

 ジュリアが暢気に呟いている。

「はぁ、もう。アンドアイン様、どこに陣を置きますか?お嬢様方ももう大分遠くですが」

「そうだな、トリシア達の向かっていった方に行こう。済まないな、アメデオ」

「お気になさらないでください。これが私の役目ですので」

 パラソルとシートを担いで、4人は揃って移動する。

「結構沢山出店もありますね。あっ、ホタテ焼きもある!……アンドアイン様、ちょっと買ってきていいですか?」

 フェデリカがそわそわとし出した。

「……構わないが、酒はほどほどにしておけよ。また粗相をしても俺は助けないぞ」

「うっ……だ、大丈夫です。多分」

 許可を出されたフェデリカは、ホタテ焼きの看板が出ているテントの方へと走っていった。看板には当然の事ながら、良く合う冷えたエールの文字も見える。

「なんというか、我が家には個性的な者が多いな」

「そうですねぇ、アンドアイン様ぁ」

 お前も十分個性的だよ、という目でアンドアインは甘い声の侍従を見やった。目のやり場に大変困る。

「結構人多いですね。ああ、あの辺りが比較的広いですよ」

 人出も結構あるが、そもそもサンコスタの砂浜はそれ以上に広大だ。いくらでもスペースはある。

 持ってきた広いシートを広げ、大きなパラソルを二本立てる。

 飛ばされないようにそれぞれを固定して一息ついたところで、フェデリカが両腕にホタテ焼きと凍ったエールの瓶を、大量に抱えてやってきた。

 真夏の浜は人を開放的にするというが、アメデオは早くもこの行楽についてきたことを後悔し始めていた。


 トリシアンナは、この世界で初めて見る砂浜の海岸線に見惚れていた。

「砂浜です。海です」

 かつての故郷にも海はあった。浜辺にも行ったことがある。

 だが、寂れた寒村では夏に水着で遊ぶ余裕など、これっぽっちも無かった。

 トリシアンナは改めて自分の格好を眺める。

 フリルのついた可愛らしい、白いワンピースの水着。少し膨らみ始めた胸元には小さなピンク色のリボン。

 紛うことなき女児用水着である。しかも割とお高めの。

「ちょっとー、待ってよトリシア」

 姉が走ってこちらに近寄ってくる。真っ赤なビキニの派手な水着。走るたびにぶるんぶるんと大きめの胸が揺れている。

「お姉様の水着、派手ですよね。普段の服もやたらとぴっちりした短いスカートだし、何か拘りとかあるんですか?」

 この姉は基本的に引きこもりのはずなのに、何故か常に目立つ服装をしているのだ。

「布地は少ないほうが魔素の取り込みが早いのよ」

「そうなんですか、知りませんでした」

「いや、嘘だけど」

「感心した私の心を返してください」

 全くこの姉は。魔術に絡めて言われると嘘だと見抜けないではないか。

「まぁ、出るとこ出てれば見せてもいいでしょって気分にならない?ああ、まだ早いか」

「はぁ、そういうものですか?……そういえば、ジュリアさんには驚きました」

 彼女はどちらかといえば控えめで、普段の侍従服の上からでは全く気が付かなかったのだ。

「あぁ、トリシアは初めて見るんだっけ。いや、あれは反則よねぇ」

「反則というか、最早暴力ではないですか」

 あんなモノをぶらさげて、良く普通に生活できるものだ。信じられない。

「あの娘、結構いい所のお嬢さんでね?意外としっかりしてるのよ。うちに来たのも半ば縁故採用みたいなところがあったんだけどさ」

「はあ」

 彼女は確かに芯がしっかりしているとは思っていた。感情の揺れが非常に少ないのだ。

 しかし、感情は揺れずとも胸は揺れる。いや、揺れるというレベルではないだろう。

「魔術の才能もあるし、実は私、学院で彼女に会ったこともあるのよ」

「えっ?それは初耳ですね」

 確かに、良家の子女で魔術の才能があれば学院に入る事は珍しくもない。しかし、姉と同時期に学んでいたとは。

「同い年なんだけどね、入った時はお互い子供だったんだけど、ほら、あたしって特殊じゃない」

「特殊という単語で済ませて良いものかどうかはわかりませんが、そうですね」

 そのまま課程を殆どすっとばして修了したのだ。ジュリアはさぞかし驚いた事だろう。

「そんで、戻ってきて暫くしたら彼女が入ってきたのよ。最初は気付かなかったけど、声かけられてそういえばって思い出して、びっくりしちゃった」

「胸に?」

「ええ、勿論それにも」

 同窓生だったのは驚きの情報だ。縁というのは面白いものである。

「ジュリアさんの得意な属性は何なんですか?」

 姉は火炎と熱操作である。雷撃が得意な自分はさておき、ジュリアが攻撃系の魔術を使っている所は見たことがない。

「あの娘は地変と水撃、あと熱操作ね」

「分散型ですか?珍しいですね」

 特化しているのではなく、様々な属性を同程度に使える者は、数が少ないがいることはいる。トリシアンナにしたって雷撃だけではなく、風圧や水撃も使えるのだ。

「まぁ、うちじゃ珍しくはないけど珍しいわよね。学院でも成績優秀で修了したし、間違いなくエリートの類よ」

 人は見た目によらないものだ。メディソン家が異常なだけで、彼女も市井にいれば間違いなくトップクラスの術者なのだろう。道が違えば宮廷魔術師になっていた可能性もある。

「水撃といえば、お姉様は水撃系が苦手ですよね」

「そうねぇ、下位のは一応使えるけど、どうも原理が分かりにくくて」

「そうですか、水中で呼吸とかできないかなと思ったんですけれど」

 水中呼吸が出来れば、海の中を散歩出来たりするだろう。漁業権を買えば、漁だって出来るかも知れない。

「あぁー、それ、すんごい高等魔術らしいわよ、あるにはあるけど」

「あるんですか!?」

 夢が広がる。

「いや、あるんだけど、消耗も激しいから結局長時間は潜れないっていうオチがついてくるけどね。そうね、お母様とかユニ姉さんなら使えるんじゃない?」

 使える人間が身近にいたのか。しかし、長時間使えないなら本末転倒だ。

「そうですか。長時間泳ごうと思うと、結局はナズナやラディお兄様みたいに身体を鍛えるしかないわけですね」

「まぁ、そうねぇ。あの二人はなんていうかちょっとおかしいけど」

 おかしい人間が他人をおかしいというこのおかしさ。

「そういえばあの二人、今日も来てたけど、どこにいるのかしら」

「ちょっと待って下さい、探してみます」

 二人の気配を探る。近くにはいない。範囲を広げる。いた。

「……なんかすごい沖の方で物凄いスピードで泳いでますけど」

「そう、仲良いわね」

 そういうレベルの話なのだろうか。

「そういやさ、トリシア」

「はい、なんでしょう?」

 波打ち際にいたヒトデをつついてみる。かたくなってしまった。

「あの二人、なんで急にあんなに仲良くなったの?」

 そういえばこの姉には話していなかった。

「仲が良さそうに見えますか?」

 敢えて聞いてみる。

「そりゃあもう。ナズナがつついてる感じはするけど、兄さんの方も満更ではないって感じでさ」

「よく見てますねぇ」

「いや、誰でも気づくでしょ」

 その通りだ。ぐうの音も出ない。

「去年の合同宴会の頃からですね。そこでラディアスお兄様がナズナを格好良く助けて、ナズナが恋しちゃった♪という感じでしょうか」

「大雑把ねえ」

 大分端折ってはいる。

「まぁ、ラディ兄さんはあの性格だし、ナズナもアレでしょ。相当苦労するわよ」

「そうですねぇ、苦労しますねぇ」

「なにそれ、お年寄りみたいに」

 あははと二人は笑って沖にいる二人の方を見た。

「年の差って大変ですね、お姉様」

「身分の差も大変よ、トリシア」

 何の事だろうか。ラディアスとナズナに、そこまで身分は関係ないと思うのだが。

 そこから暫く波打ち際で二人は海水浴を楽しむのであった。

 正確には海水を利用した魔術の開発をしていたのだが。


「フッ、遠泳は俺の勝ちだな」

 勝ち誇るラディアスに、ナズナは歯噛みしていた。

「卑怯ですよラディアス様。急に目標を反対側の島にするなんて」

「泳いだ距離は同じだ。であれば、俺の勝ちは揺るがない」

 僅かな差で到達速度に負けたナズナ。最初の目標へは自分が先に到達するはずだったのだ。

「いいでしょう。ここはあなたの勝ちです。それでは次は潜水です」

「おう、完膚なきまでに叩きのめしてやる。いちにのさんで潜るぞ」

「いきますよ、いち、にの」

 さん、と二人で海中に潜る。

 澄み切った海中は透明度が高く、周囲を色とりどりの魚が泳いでいる。

 呼吸を止めた二人は水中で見つめ合い、我慢比べを開始した。


 15分程経過した頃、まだ二人は平然と水の中にいる。

 美しく神秘的な空間。周りは広大なのに、何故か閉じ込められたような錯覚。

 音の聞こえない世界。見つめ合う二人。

 ナズナはそっとラディアスの手を取り、そのまま自分の胸に押し当てた。

「ぶはッ!」

「フッ、潜水は私の勝ちのようですね」

「汚えぞ!あんな手を使うとか、恥を知れ恥を!」

「何とでも言ってください。平静を乱したラディアス様の負けです」

 勝ち誇ったように嗤うナズナ。

「まだだ、もう一勝負!」

「そうですね、まだ勝負はついていません。次は何にしますか?」

 二人は視線を交わしながら砂浜へと上がってきた。

「おーい、二人共、そろそろ休憩したらどうだ!」

 アンドアインがシートに寝そべった状態で二人に手を振っている。

 隣ではフェデリカが瓶のエールを直接呷っている。その様子をおろおろと、ホタテ焼きを手にして見守っているアメデオ。

「食べ比べだな」

「飲み比べでしょう」

 二人はずんずんとパラソルへと近づいていった。


「何をやっているんだあの二人は」

 アンドアインは呆れて口が塞がらない。

「どう見てもバカップルですよねぇ~」

 水の中から突然出てきたと思えば、ラディアスはナズナの胸を鷲掴みにしていた。

 そのあと何やらぎゃあぎゃあ言い合いをしていたものの、仲良くお互いを見つめ合いながら上がってきたのだ。誰が見てもバカップルだろう。

「おーい、二人共、そろそろ休憩したらどうだ!」

 あんな様子を衆人環視の中晒すのは忍びない。あれでも自分の弟なのだ。

 こちらに気付いた二人は、これまた仲良く歩調を揃えてこちらに向かってきた。

「やれやれ、いくら浜辺だからといって……もう少し他人の目を気にしたらどうなのだ」

「本当ですよねぇ」

「ほんとですよね!」

 片方は胸を揺らしながら、片方は酒瓶を片手に同意してくる。

 自覚のまるで無い二人にこちらも頭が痛くなってくる。

「兄貴!」

「アメデオさん」

 陣地に到達した二人は同時に声を発した。

「お?おお?」

「ひっ!な、なんですか?」

 ラディアスとナズナの二人は、アンドアインとアメデオに顔を近づけると、それぞれ各々に発言した。

「食い物をありったけ買ってこよう。手伝ってくれ」

「フェデリカさんが飲んでるお酒、まだ売ってますよね?根こそぎ買って来ましょう」

 二人に引きずられて、アンドアインとアメデオはそれぞれ別の方向へと運ばれていった。

「がーんばってねぇ~」

「気をつけてくださいねぇ」

 酒瓶を抱えたフェデリカと、ホタテ焼きをちまちまとつついているジュリアがそれを見送った。


「相変わらず良く飲むねぇ、フェデリカさぁん」

 独特の甘ったるい声でジュリアが囁く。

「ジュリアは相変わらず胸が大きいね。もう、行く先々で声かけられるんじゃない?」

「そうねぇ、服装にもよるのかなぁ」

 ジュリアとディアンナは同い年だ。フェデリカは2つ年上で22歳。まだまだこれから、と本人は思っている。

 海水浴に行こうと誘われた時、真っ先に考えたのは所謂ナンパである。

 浜辺で一人、清楚な格好をしていれば素敵なお嬢さんがいる、と、いくらでも声をかけられるはずなのだ。

 自慢ではないがフェデリカは自分の容姿に自信がある。

 綺麗な母親譲りの栗色の髪は、サラサラとして流れるように美しい。

 顔立ちも平均よりは整っているはずだし、身だしなみにも気をつけている。化粧品だって最新のものを常にチェックしているのだ。

 なのに。

 この暴力である。

 隣に座っている暴力の塊とも言うべき2つの山を見て呆れる。一体何を食べたらこんなに育つのか。

 それだけではない。先程ラディアス様と仲良く連れ添ってきた(フェデリカにはそのように見えた)ナズナだ。

 初めて見た時は、少し大人びて見えるがまだ幼い子だなと思っていたら、トリシアンナお嬢様の選んだ、妙に決まった格好で合同宴会に出てきた。

 要らないルージュを押し付けてみれば、これまた悔しいぐらいに良く似合う。

 肌も綺麗で、若さというものの凶悪さを身をもって体験してしまったのである。

 あろうことかちょっといいなと思っていたラディアス様は、いつの間にか彼女と仲良くなっていて、先程など、自分より遥かに小さな彼女の胸を揉みしだいていたのである。ありえない。

 だが、女は胸のデカさではないとわかったのは僥倖だった。

 若さではナズナに負ける。デカさではジュリアに負ける。だが、自分には。

「えーと、私には何があるんだっけ?まぁいいや」

 酒は人生の友である。とは、誰が言ったのか全く覚えていないが、兎に角酒は良い。

 酒さえあれば嫌なことは忘れられるし、何よりも美味い。

 このエールも良い。夏の浜辺でキンッキンに冷えたエールの瓶を呷ると、もう他には何もいらない。捨ててしまおうとさえ思えてくるのだ。

 ジュリアの持っている皿から一つ、ホタテ焼きを横取りすると、ほぐれた身からジューシィな海の味が溢れ出す。そこを良く冷えたエールで口の中を洗い流すともう堪らない。

 最高だ。ビバ、酒。酒こそ我が友、我が戦友。美しい夏の浜辺に乾杯だ。

「お姉さんたち、二人だけ?」

 若い男だ。若い男が声をかけてきた。


「はぁ、いえ、別に二人だけではないんですけどぉ」

 ジュリアが答えると、逆毛の男とポニーテールの男は揃って声を発した。

「こんな綺麗なお姉さん達を放っておくなんて、ロクな男じゃないっしょ?」

「俺たちと一緒に遊びませんか?こう見えて俺たち、冒険者で」

 口々にまくし立てる二人。ジュリアは二人を冷静に値踏みした。

「はぁ、冒険者さんですかぁ。見た所、階梯2か3ってところですかねぇ?お呼びではないですねぇ」

 ぐさりと急所を突き刺す。

「そ、そう?なんでわかるのかな?」

「いやいや、そんな事ないっすよ?俺たち熟練の冒険者で」

 言い訳をする二人に、目の据わったフェデリカが口を挟む。

「この冒険者がクソ忙しい真夏に、ビーチで女をナンパしてるんでしょ?そりゃあ階梯だってそれなりでしょうよ」

「そうですねぇ。あと、魔素の量がとっても少ないです。私達の半分ぐらいかなぁ」

 ジュリアは高度な探査系を複数同時に操る補助魔術のスペシャリストだ。特に、対象の力を計るのは彼女の十八番でもある。

「え?マジ?そんな事わかるの?」

「バカ!でまかせだって!ねぇねぇ、お姉さん達、この際階梯はどうでもいいじゃないっすか。暇してるんでしょ?どう?俺等と一緒に」

「ただいまー。あれ?兄さん達は?」

「ただいま戻りました。あら?あなた方は、確か……ああ、ケヴィンさんとロバートさん!」

 戻ってきた二人を見て、自称冒険者の二人はぎょっとした。

「げぇっ!クソつよ大食い貴族!」

「ひっ!紅蓮の魔女!?」

 そう叫ぶと、二人はごめんなさいと叫びながら一目散に逃げていった。

「あら?どうしてまた逃げるんでしょう」

「失礼ねぇ、美しい私の顔を見て逃げるなんて」

 疑問を浮かべているトリシアンナと憤慨するディアンナを見て、座っていた二人は爆笑する。

「何?知り合いなんですかお嬢様方。あっははは!どんな確率よそれ!あはははは!」

「ふふっ、見ましたかあの顔!私の半分ぐらいの魔素量、お嬢様方と比べたらもう大海とグラスの水滴なのに!ふふっ!うふふふふふふ!」

 止まらない二人に困惑する二人。

「あの、そんなに笑ってはかわいそうですよ。彼らも冒険者として一生懸命やっているのですから……」

「人をいきなり紅蓮の魔女呼ばわりは流石に失礼よねぇ」

 空はこんなに青く澄み切って、海はたゆたう美しさを湛えているのに。

 何故かここには混沌とした笑いが止まらないのだ。


「引っ張らないでくださいよ、ナズナさん!腕が!腕がちぎれます!」

「心配しないで下さい。力加減は分かっています」

「比喩的表現ですから!目的はわかりました!わかりましたから!一旦離して下さい!」

 その言葉に、漸くナズナはアメデオを解放した。

「すみません、アメデオさん。つい熱くなってしまいまして」

 深く謝罪するナズナには流石に強く出られない。

「はあ、いいですよもう。それで、ラディアス様と飲み比べをしたいと」

「はい」

 まるで意味がわからない。どうすればそのような展開になるのだ。

 常識人であるアメデオは、常にあの邸にいる人々に疑問を持っていた。

 発想が突飛すぎるのだ。お腹が減ったのでイノシシを狩りにいきましょうとか、喉が乾いたから雨を降らせましょうとか、なんかもうそういうレベルの人達なのである。

「話はわかりました。では、効率よく酒を買える場所にいきましょう」

「フェデリカさんの買っていたところではダメなのですか?」

 それでは非効率的すぎるのだ。

「いいですか、ホタテ焼きの屋台は、ホタテ焼きがメインです。当然それに合うエールは置いていますが、それだけです。ナズナさんの仰る飲み比べという主旨を考えれば、エールという酒精の割合が低い酒では非常に効率が悪いです」

「はぁ……確かに」

 アメデオは指を立てて、教え子にするように諭す。

「まず、飲み比べという事。そして我々の出せる費用が限られている事、その点を考慮した上で出せる結論は2つあります」

「2つですか?」

「そう、2つです」

 街道沿いの酒場を指さして言う。

「一つはあの酒場。あそこは水着でも入れるようになっていて、様々な酒を置いています。値段は相応ですが、酒精割合の高い酒も多いので、それを選択すれば費用は抑えられます。そしてもう一つ」

 沢山並ぶ屋台のうち、南方出張と書かれた看板の店を指差す。

「あの店の酒は恐らく、南方諸島の蒸留酒を扱っています。私は飲んだことがありませんが、極めて強い酒で、値段はかなり手頃です。この地に出店しているのは恐らく、南方諸島からの観光客がこの時期、かなり多く来ている事からでしょう。南方諸島はこの季節、物凄い熱波に襲われるため、金のある諸侯は避暑地としてサンコスタに来ることが多いのです」

「えっ、そ、そうなのですか?すごいですね、アメデオさん」

「何も凄くありません。当たり前の事です」

 そう言うと、今度はアメデオがその屋台へと向かった。

「済みません。蒸留酒を両手の指と同じ数下さい」

 屋台の店主は驚いて、10本の瓶を並べた。

「30シルバです」

「おや。30シルバ?おかしいですね、この酒の仕入れ値は精々一本20カッパドです。仕方がないですね、ナズナさん。あちらの店に行きましょう。確かあちらは一本1シルバでしたよ」

 アメデオは訪れたことのない屋台を指し示している。

「ま、待ってくれ。悪かったよ。25シルバだ」

 その言葉に、アメデオは深くため息をつく。

「10本で25シルバ?困りましたねぇ。まさか数字を理解しない方がお店を任されているとは」

 その言葉に店主は青くなって頭を下げる。

「わかった!わかりましたよ!全く、浜辺でこんな事言う人、あんたが初めてだよ!ほら、20シルバでいいよ」

「そうですよね、観光地ですもんね。多少は色をつけてもしょうがないですよ。はい、20シルバ。これでも高いといえば高いですが、浜辺価格ですから」

「そうだよ、旦那。まったく、かなわねえな」

 首尾よく極めて酒精割合の高い酒を、僅かに高いながらも適正価格で手に入れたアメデオ。

「……アメデオさん、わたくしはあなたの実力を見誤っていたようです」

「やめてくださいよ……僕はあなた方についていくだけで大変なんですから。頼むから大人しくしていてください」

「善処します」

 瓶を抱えて二人は元来た道を戻る。


「で、ラディアス。今度はナズナと何を約束したんだ」

「負けたほうが勝った方の言う事をなんでも聞くと」

 アンドアインはこめかみを抑えた。

「どうしてお前はそう無鉄砲なのだ。その条件に、彼女がお前と結婚したいと言ってきたらどうするつもりだったのだ?」

「俺は負けません」

 だめだ、この弟は。

「確率と効率を考えろ。お前が勝ったら何を願うつもりだったんだ」

「えっ?……あぁ、考えてなかった」

「お前はいつもそれだな」

 勝利を確信して疑わない。負けた時の事を考えない。

 それは余りにも危うい、賭け事じみた幼稚な発想だ。

「いいか、俺はお前の実力は信頼している。だが、そのやり方には全く信用が置けない」

「難しい事言わないでくれよ」

「簡単に説明しよう。お前は、ナズナと結ばれたいか?」

「え?いや、それは流石に早すぎるっていうか」

 自覚しているのか、こいつは。

「時期尚早と受け取った。では、仮にナズナが先に言った条件を提示した場合のお前に対する評価値は10とする」

「え?評価値?」

 無視する。

「お前がナズナに求める条件を今決めよう。さあ、決めろ。決断の遅延は自軍に甚大な被害を齎すぞ。騎士団でも習っただろう」

「え?あ、はい。えーと、それじゃ、ナズナに一回飯をおごってもらう」

 こいつは本当に。

「お前の出した条件のナズナに対する評価値は、お前に対する評価値の0.1パーセントにも満たない。論外だ」

「え?全然わかんないんだけど?」

「いいか、ラディ。お前の人生で、ナズナに飯をおごってくれと言ったら、大体何回ぐらいOKしてもらえる?」

「えーと、あいつは優しいし、そりゃもう、多分いくらでも」

「では、ナズナがお前と結婚したいと言ったとする。お前は彼女と何回結婚できる?」

「そんなの、離婚でもしない限りは一回しかできないに……あ」

「つまりそういう事だ」

 この明確な条件の差に、何故この豪傑は気が付かないのか。

「お前は自分が優位な立場にいることで、自分が求める条件を極端に下げすぎている。それでは到底フェアと言えないだろう。彼女が求める条件に見合う条件に変えるか、100%負けない勝負にしろ。貴族の戦い方とは、基本的にこういうものだ」

 子供でも分かることだ。恐らくユニティアやトリシアンナであれば、何も言わずに感覚的に理解していた事だろう。

「では結論だ。お前は恐らく、彼女に彼女が求めるものと同等以上の条件は提示できない。であれば、残る選択肢は一つだ」


「それではぁ~、ナズナちゃん対ラディアス様のぉ、新婚初夜を賭けた戦いをはじめまぁす!パチパチパチー」

 え?これ、そういう勝負なんですか?

「待て、ジュリア。流石にそれは聞きとがめたぞ。許容できん」

 アンドアインが慌てて止める。それはそうだろう。

「私は一向に構いませんが」

「いやいや、ナズナ。自分に有利な条件だからって強引に認めないで下さい」

 トリシアンナも必死で止める。いくらなんでも、いくらなんでもだろう。浜辺の戯れにしても重すぎる。

「いいぞー!もっとやれ!」

「ちょっと、フェデリカさん!やめてくださおぼっ」

 恐ろしく速い手刀がアメデオに振り下ろされた。見逃した者はこの場に一人も居ない。

「あぁーアメデオ、なんて無惨な姿にぃ」

「いや、大体ジュリアのせいだよね」

 まさか姉が注意する側に回るとは、このトリシアンナの目をもってしても予測できなかった。

 すっかり出来上がったフェデリカに近づく事の出来る者はもういない。

 今も尚、買い貯めたエールの瓶を次々に空にしているのだ。

「外野はどうでもいいです。私はただ、ラディアス様を叩きのめすのみ」

「結構な自信じゃあねえか。果たしていつまでその態度でいられるかな?」

 あれ?今日って確か、海水浴をみんなで楽しもう!っていう主旨だった気がするのですが。

「あのう、ナズナ、ラディお兄様。どうしてもそれはしないといけないことなのですか?」

 水着の胸をナズナに擦り付けて、その上で上目遣いにラディアスを潤んだ瞳で見つめる。

「あぁ……と、トリシアンナお嬢様!その、その尊い行動をおやめください!私には引いてはならぬ場というものがあるのです!」

「そ、そうだぞ!いくらトリシアの……くっ!トリシアの頼みだとしてもここは譲れない!」

 ダメでした。

「はいはーい、それでは第一試合~、食べ比べ~」

 ジュリアが開始を宣言すると、アンドアインが後方に積み上げていた箱を目の前にどんと置いた。

「勝負は簡単、これを可能な限り腹に入れ、その数を競う」

 箱に入っていたのは、可愛らしいトリシアンナの姿を模した饅頭だった。

「トリシアンナ饅頭。トリシアが産まれた時に、密かに父上が造らせたものだ。金髪に丸い顔、つぶらな瞳。本来はこれを売り出す手はずだったのだが……私が阻止した。売れるわけがないからな。では開始」

 えっ?なにそれ?初耳なんですけど?

「あぁっ!なんと残酷な!この私がお嬢様を食べられるはずがないではないですか!」

 うなだれるナズナ。いや、ただの饅頭ですが。

 一方のラディアスは、一つトリシアンナ饅頭を口に入れて言った。

「うん、あんまりうまくねえな。売り出さなくて正解だわ」

「えっ、なんか私、ひどく傷つくんですけど」

 どうして自分に飛び火するのだろう。意味がわからない。

「はぁ~い、勝者、ラディアス様ぁ~」

 もうどうしていいのか全然分からない。

「あの、アインお兄様。この在庫、どうなるんです?」

「消費期限が来たら捨てる」

「……」

 この後、無理矢理にでも兄と父に食べさせる事が決定された。

「次ぃ~、飲み比べ~」

 ジュリアの言葉に、アメデオがすっと起き上がって、背後に置いてあった瓶を並べた。回復が異常に速い。ひょっとして気絶した振りをしていたのでは。

「こちらも勝負は簡単です。この瓶を5本ずつお渡しします。これを先に飲み干した方が勝ち。ダウンか吐き出した時点で負けです」

 早飲みと飲み比べ、両方の条件を足したという事だろう。しかし、5本とは。

「舐められたもんだ。俺が酒瓶5本程度、飲み干せないとでも思うのか?」

 不敵に笑うラディアス。

「ふっ、その言葉は実際に飲んでから言うべきですね」

 こちらも妖艶な笑みを浮かべるナズナ。

「それではぁ~すたーとぉぅ」

 開始と同時に栓を開け、一息に口に入れるラディアス。

「ぶぼぁっ!」

 吐き出した。

「はい、ラディアス様、アウトー」

 ラディアスが吐き出した時点でナズナの勝ちが決定した。

「な、なんだこれ!どういう酒なんだ!」

 その言葉に、アメデオが額に手をやって喋りだす。なんだその動き。

「説明しましょう。この酒は、南方諸島で造られている蒸留酒で、棘のある変わった植物を原料としたものです。その中でも特に、他の材料を混ぜずに純粋に作り出した酒、それがこのアガベと呼ばれる酒です。その口当たりは鋭く、正しく凶悪な味わい!南方諸島出身の方の中には、これを飲まずして夜は訪れないとおっしゃる方も多数おられます。特別に濃縮されたこの品の酒精割合は脅威の55パーセント!これでも北方のスピリッタ等には勝てませんが、独特の飲み口から、これこそ最強の酒と豪語する評論家もおられる程の品でございます」

 淀みなくこの説明を出来るアメデオは一体何者なのか。

「甘いですね、ラディアス様。この程度の酒も知らずに一度に口に含むとは。レディ・キラーでもご馳走しましょうか?」

「こ、こいつ……!自分の失敗を逆手に取ってくるとは!」

「あら、これアガベっていうの?結構いけるわね」

 横からフェデリカが瓶をひったくってそのままぐびぐびと飲み始める。

 これ、どう収拾つければいいんでしょうか。

 只管強い酒を飲み続けるフェデリカ。

 大笑いをしているジュリア。

 何故か同じポーズで固まっているアメデオ。

 項垂れているラディアスと、勝ち誇ったような顔をしているナズナ。結果は引き分けのはずだが。

 傍観者の振りをしているアンドアインに、トリシアンナは言った。

「アインお兄様、この饅頭についてお父様とお話が。帰ったらすぐにでも」

 楽しい海水浴は一旦これで閉幕となった。



「首尾はどうだ」

「中々見つかりませんね」

 執務室に訪れたアンドアインと、現領主でありメディソン家当主であるヴィエリオが話をしている。

「条件が厳しすぎるのではないか?」

「それはありますが、マルコ自身がそう望んでいますので」

 幾人かの履歴を記した紙を見ながら、ヴィエリオが言う。

「彼には安心して勇退してほしいのは確かなのだが、流石にそろそろ厳しいだろう」

「そうですね。ですが、そのために彼自身が認めない限りはなんとも」

 先代の頃から厨房を任されているマルコ料理長は、もう70代の後半だ。

 まだまだ足腰もしっかりしているとは言え、肉体の衰えは急激にやってくる。

 泥棒を捕らえてから縄を作り始めても遅いのだ。

「研修の期間も必要だし、どうにか早めに見つけないといかんな」

「そうですね。探す範囲を広げてみましょうか。他領でも市井のものなら引き抜きにはあたらないでしょう」

「そうしてくれ。それと、例の王都からの要請だが」

 ヴィエリオが取り出した一枚の封書を開く。

「北東の山岳地帯ですか。一応は調査してみますが……」

「鉱脈があったとしても迂闊には掘れんな。街の水源でもあるし、何より海に影響が出ては事だ」

 封書には国王のサインと共に、サンコスタ北東の山岳地帯に鉱脈がないか調べろという主旨の命令が書かれている。

「掘れば出るとは思います。エスミオ側で出ているものが、こちらでは出ないという理屈もないでしょう」

「急がなくても良いとは思うのだが、調査だけは早急にしておこう。掘る掘らないはその後だ」

「わかりました」



 部屋でアフタヌーンティーを楽しんでいたトリシアンナの下へ、ノックと同時に姉のディアンナがやってきた。

「トリシア、ちょっと街に行かない?」

「今からですか。構いませんけれど、何か用事でも?」

 姉は頷く。

「こないだトリシアとナズナででっかい魚捕まえてきたって聞いたんだけど」

「スキアヴォーナの事ですか?ええ、確かに」

「そう、そのスキアヴォーナがね、海にいるらしいの」

「海に?あれは淡水魚では無かったのですか」

 汽水域に生息する魚もいるが、マルコ料理長の話では、基本的に大きな川にいるものだという事だったが。

「レーヌ川の話だったら、下流は一部汽水域になるから可能性はあるのよね」

「はあ、なるほど。で、それが何故街に行く理由に?」

 話の流れがよく見えない。

「なんか最近、近海で良く水揚げされるようになったんだって。もしかしたら生態系に変化があったのかもってユニ姉さんに聞いて、ちょっと調べてみようと思うの」

「はあ」

 姉は魔術の研究者だが、海洋の生態系にも興味があるのだろうか。

「実はユニ姉さんの依頼なのよ。スキアヴォーナ自体はまぁ、食べられる魚だし市場価値もあるんだけど、急に増えるってことは何か原因があるわけじゃない?その原因が、もしかしたら水に関係する魔物だったり、もしくはスキアヴォーナ自体が魔物の可能性もあるって」

「なるほど、調査依頼ですか。海洋生物学者の範疇だと思いますが」

「そっちにも同時に頼んでるらしいけど、魔物化だった場合は学者じゃ辛いから」

 ただの生物学者に、魔素の研究を噛ませるのは難しいという事か。

「そうですか。あぁ、お姉様は水撃系が苦手でしたね」

「そうなのよ。トリシアとナズナは結構使える方でしょ?ユニ姉さんはこちらに依頼してくるぐらい忙しいし、双子もいるからね」

「わかりました。お手伝いします。ナズナも宜しいですか?」

「お嬢様が向かわれる所であれば、私はどこへでも」

 三人は早速支度を整えると街へと向かった。

「話は通ってるから港に行こ。船が待ってるから」

 街に着くなり、ディアンナは開口一番そう言った。

「船?海上に出るのですか?」

「そう。まずは実物を取ってくる。魔物化の傾向があるか調べるのが私達の仕事だからね」

 ナズナが不思議そうに聞く。

「市場に出回っているものではいけないのですか?」

 水揚げされた食用魚は市場に行く。であれば、そちらでもサンプルは取れるはずだ。

「市場にあるのは大体死んでるから。引き上げた直後のを見ないと判別できないのよ」

「そういうものですか」

 餅は餅屋である。専門家がそう言うのならそうなのだろう。

 二人は先導するディアンナについて、港の波止場へと向かう。

 大きな船の並ぶ区画を通り過ぎ、着いたのは近海漁業を行っている漁船の並ぶエリアだった。

「えーと、確かこの辺……あぁ、あった。ヴェンデルサ号。すいません!スパダ商会の依頼で来たディアンナですけどー!」

 この時間なのに出港の準備をしている漁船に向かって、ディアンナは大声で叫ぶ。

「おぅ!あんたがディアンナさんかい!ちょっと待ってくれよ!」

 船上で網を巻いていた一人の男がこちらも大声で怒鳴り返す。

「カルロ!はしけ外したらタラップ出してやってくれ!」

 男が船尾に向かって叫ぶと、ブリッジの向こう側からあいよー、という声が聞こえた。

 先程の声の主であるカルロという若い男が持ってきた、板状の階段を渡って漁船に乗り移る。

 港の中でも船は揺れるため、トリシアンナは狭い板を渡る時に少し緊張した。

「悪いわね、キャプテン。こんな時間に船を出させて」

 網を巻き終わったこの船の船長らしき男にディアンナが詫びる。

「気にしねぇでくれ。漁以外で金が入るんで、こっちはありがてぇんだ」

「そう?助かるわ」

 話をしている姉から目を外して、トリシアンナは漁船を見渡した。

 全長で凡そ15メートル程だろうか。船首と船尾に、それぞれ網を取り付ける装置が設置されている。

 先程船長が巻いていた網は底曳き用と見え、今装置に取り付けられているのは敷網だ。

 目的の魚はスキアヴォーナだが、敷網で掬えるのだろうか。

「済みません、カルロさん、でしたっけ。この船では普段どんな漁をしていらっしゃるのですか?」

 近くを通りがかった若い男に聞いてみる。

「普段っすか?そうっすね、大体が底曳きか、巻き網っすね。ええ、今付けてあるのとは違う奴っす」

 という事は、わざわざ敷網に付け替えたという事だ。そんなに鈍い魚なのだろうか。

 底曳き網漁とは、その名の通り、網を海底に落として引きずるようにすくい上げる方法の漁だ。座布団などの底生の魚や、カニなどの甲殻類を捕るのに適している。

 巻き網漁は、一定の範囲にぐるりと網を設置し、輪を狭めて魚を捕る方法だ。

 広範囲を一度に漁獲できるため、トロールを除けば単独操業での漁では恐らく最も漁獲量が多い。

 一方敷網漁は、沈めた網をそのまますくい上げるだけの原始的な漁法であり、素早く動き回る魚、例えば突撃魚やソードフィッシュなんかを獲るのには適していない。

 スキアヴォーナは細長い魚体なので、素早く動くものだと思っていたのだが。

「すみません、キャプテン」

 姉に近付いて確認してみる。

「おう、なんだいお嬢ちゃん。っていうかお嬢ちゃんも調査の人かい?」

「ええ、そうです。少しお聞きしたいのですが、敷網で捕まるぐらいスキアヴォーナの動きは鈍いのですか?」

 眉をひとつあげて、船長は答える。

「良く知ってるね、お嬢ちゃん。そうさ、うちでアレが最初にかかったのは巻き網だっんだが、港に戻ってきたら敷網で捕まえたって奴らがわんさかいてよ。あの魚体でか?って俺も最初は信じられなかったんだが」

 なるほど、複数の漁船で捕獲したのであれば間違いはないだろう。

 もしかしたら海水域では動きが鈍いのかもしれない。

「そうですか、ありがとうございます。お姉様、今回は調査漁業の許可を貰っているのですよね?」

「そうよー、この船の漁獲重量制限外だから、スキアヴォーナはいくら獲ってきても大丈夫」

 漁獲制限は船のサイズごとにかけられる。

 まだスキアヴォーナは暫定数値が割り当てられているが、魚種によって一定の重さまでしか獲ることはできないのだ。

 その分、高い値がつく大きな魚だけを残して、あとは海に戻す事が漁の基本だ。そうしないと雑魚ばかりとって制限にかかってしまうと、漁師はまともな収入を得られないのである。

 この敷網であれば、他に余計な魚がかかってしまう事も少ないだろう。良く考えてあるのだ。

「トリシアンナお嬢様は漁業にもお詳しいのですね」

 ナズナが感心したように言う。

「ええ、サンコスタの主要産業ですからね。興味があったもので、少し」

 以前の世界では、漁獲制限などという言葉はほとんど無かった。

 獲れるだけ獲って大漁だ、不漁だとそれだけだったのである。

 大漁であれば魚の値段は下がり、不漁ならば上がる。

 資源の保護なんてものは微塵も考えられていなかった。故に、この世界での漁業を知った時に大きな興味が湧いたのだ。 

「準備は出来たけど、もう行くかい?」

「ええ。動力は私がやるから、速度の指示をお願い」

「いいのかい?助かるよ」

 船長とディアンナは、船室兼操舵室へと入っていった。

 この世界の船は、魔術装置によって推進力を得ているものが殆どだ。

 外洋では帆を張ることもあるが、基本的に近海での漁に使う漁船では、ほぼ全てが魔術装置のスクリュー推進である。

 船が大きくなればなるほど動力装置にかかる人員が増えるため、人件費が高騰する。

 魔術を扱えなくては船も動かせないのである。

「よーし!出すぞー!抜錨!」

「あいさー!」

 カルロがリールで錨を上げてタラップを外し、桟橋を蹴る。

 僅かな反動で船は緩やかに向きを変えて、ゆっくりと沖にある防波堤の横へと向かっていく。

「こういった船にのるのは久しぶりです」

 すぐ隣で海風に綺麗な黒髪を靡かせながら、ナズナが呟く。

「そうですか。私は初めてです」

 この世界では。

「そうなのですか?随分と慣れていらっしゃるように見えましたが」

「知識があればある程度は予測がつきますからね」

 珍しい食べ物も、剣の持ち方も、それで説明は出来る。

「流石ですね、お嬢様。私などは、自分が経験したものしか知りません」

「経験も知識ですよ、ナズナ。その経験という知識が、今のナズナを形造っているんです」

 船は徐々に速度を上げていく。すれ違う船も無く、海の飛沫を乗せた海風が頬に当たる。

「今の私、ですか。お嬢様は時々、私よりもずっと年上に見えることがあります。それも、知識という経験のなせる業なのでしょうね」

 トリシアンナは答えなかった。知識という経験が先か、経験という知識が先か。

 8年という歳月は、以前の世界で過ごした年月の半分程度に過ぎない。

 以前の世界の経験も、確かに今のトリシアンナという人間の中に生きている。

 しかし、この世界で得た経験は、以前のそれよりも遥かに濃密だ。

 最早以前の世界の記憶は、遠い昔の、色の無いモノクロームとして記憶の底にへばりついているものでしかなくなっている。

 自分はもうトリシアンナという存在であるし、それ以外の何者であるとも思えない。

 微かな振動と大きな揺れに乗って潮風を浴びていると、なんだか無性にそんな当たり前の、どうにもならない事を考えてしまう。

 船は外洋に出て、途端に波が高くなった。船の揺れが大きくなる。

 船首の水の切り具合を見る限り、相当な速度が出ているようだ。

 トリシアンナはブリッジの脇にある手すりにしがみついている。なにかに捕まっていないと放り出されそうだ。

 ふと隣を見ると、ナズナは何かに捕まることも足を踏ん張る事もなく、平然とその場に立っている。一体どんな訓練をすればこんな芸当ができるのだろうか。

 こちらの視線に気付いたのか、細身の侍従はこちらをみてにこりと微笑んだ。

 なんだか彼女は、最初に出会った頃よりも随分と綺麗になっている気がする。

 船は徐々に速度を落として行き、やがてスクリュー音が聞こえなくなり停止した。

「投錨!」

「あいさー!」

 キャプテンの声に、船尾にいたカルロが錨を海中に放り込む。金属のワイヤーを巻いたリールが、ガラガラと大きな音を立てる。

「キャプテン、この辺?」

「ああ、この辺りだな」

 二人はブリッジから出てきて話をしている。

「ナズナ、トリシア、お願い」

「わかりました」

「承知いたしました」

 二人で水面に手をかざし、意識を集中する。

 同時に船の両舷方向の海中へそれぞれ探査術を展開。魚影を探る。

「ナズナ、海にいるスキアヴォーナは淵にいたものよりも小さいかもしれません。大きさより、形に注意してください!」

 反対側にいる侍従に怒鳴る。

「か、形ですか!?難しいことをおっしゃいますね!しかし、主の命とあらば!」

 探査術だとそうなのかもしれない。トリシアンナは、自分の能力を第二階位『インフレッションエコー』に乗せている。

 魚影に混じって魔物がいれば、これですぐにわかる。

 感じられる海中は、随分豊かだ。

 あちこちに見える魚影は濃く、どれも活き活きと動いている。お刺身が食べたくなってきた。

 いくつか細長い魚影が見える。これがスキアヴォーナだろう。だが、魔物の反応ではない。

「お姉様、スキアヴォーナは確かにあちこちにいますね。大きさは私達が淵で捕まえてきたものの半分以下ですが。魔物のような気配は感じません」

「そう、うーん、魔物化の心配は無いってことでいいのかしら。ナズナのほうは――」

 右舷から声が上がる。

「お嬢様!いました!淵にいたものよりも巨大です!」

「本当ですか!」

 慌てて駆け寄る。

「ナズナ、少し代わって下さい」

 場所を譲ってもらい、再びピンを打つ。いる。でかい。5メートル以上はあるだろうか。銀色に光るこれは魔物の反応だ。

「右舷2時15分、距離300、深さ15です!」

「そ、そこまで分かるのか?わかった、カルロ!聞いたな!抜錨!」

「あいさー!」

 ブリッジに伝言で指示を出しながら、少しずつ魔物に近付いていく。

 動きは鈍い。やはり海中ではあまり素早く動けないのか。

「ここです!船首の前方に静止しています!深さは変わらず!」

 網が射出投下され、その深さに達すると巻き上げが始まる。かかったかと思われた時、船が大きく揺れた。

「ひ、引っ張られてるぞ!すげえ力だ!」

 動きは鈍いが、力は魔物のそれだ。網がぴんと張り、強引に引き剥がそうとしているのが感じられる。

「力はありますが、船を曳航するほどではありません!お姉様!逆転!」

「わかった!」

 姉がブリッジに飛び込んで、魔術装置でスクリューを逆回転させる。

 バックの推力がかかり、徐々に網にかかった獲物を弱らせていく。

 巻き上がる網の速度が増し、ワイヤーがギリギリと悲鳴を上げる。水面から、化け物が姿を現した。

 反動と共に銀色に光る巨大な魚体が甲板へと投げ出される。びちびちと跳ね回るそれは、まるで小さな竜のようだ。

「こ、こいつぁ……」

 徐々に動きを大人しくするスキアヴォーナに、船長が絶句する。

 甲板の半分を埋め尽くすほどの魚体。銀色に輝く鱗が一部、船に接触して剥がれて飛び散っている。

「魔物化しています。見た目はスキアヴォーナですが、魚体と目が異常に肥大しています。形状にも変化が見られますね。背びれが大きくなり、色が変色してやや赤みがかっています。まるでドラゴンのような……」

「げっ、何これ!?」

 姉が船室から出てきた。

「ご覧の通りです、お姉様。私達が以前獲ってきたものは、ただ成長した個体だったみたいですね」

 形状がまるで違う。見た目こそ似ているが、明らかに正常な魚のそれではない。

「さっさと戻って調べましょうか。私も初めて見るし、これは歴史的な発見だわ」

「マジかよ。えらいもん見ちまったぜ」

「ひえーっ、夢に出てきそう」

 船長とカルロが頬を引き攣らせたままブリッジと船尾に向かう。

 船は来た海路を引き返し、港へと向かう。巨大な化け物を乗せて。


 港に戻ると、すぐさま巨大魚用のフックと台車が用意され、市場の競り場へと運ばれる。

 この時間に競りは行われておらず、広い空間が確保できるためだ。

 青い防水シートの上に横たえられた魚体を見に、噂を聞きつけた市場の関係者や漁師が集まってくる。

「うわ、なんだこれ」

「こえー、目ぇでかっ!」

「スキアヴォーナに似てるけど、別モンだなありゃあ」

「誰が捕まえてきたんだ?」

「ヴェンデルサ号だってよ。モンテロのおっさんの船だな」

 騒々しい人々を掻き分けて、女性が一人割り込んで出てきた。

「すいません!ちょっと通して下さい!調査の人間です!」

 鮮やかな赤毛を三つ編みにして、大きなメガネをかけた人が、新たな海の魔物の前にまろび出てくる。姉より少し年上ぐらいだろうか。

「ふー、おおっ!初めて見る個体ですね。見た目はスキアヴォーナの亜種のようですが……あっ、まずは記録しないと!」

 背中に背負っていた大きな背嚢から、巻き尺を取り出して大きさを記録している。

「全長7.67メトロ……既存の海棲生物だと鮫よりも大きいですね。重さは聞いていた所によると――」

 近くに立っているトリシアンナ達には目もくれない。

「あー、調査中悪いんだけど、あなた、ひょっとして海洋生物学者の方かしら?」

 ディアンナがその場に耐えかねて声をかける。

「はっ?あっ!はい!わたくし、海洋生物学者のマナセ・エブシュタインと申します!……あの、失礼ですがあなたは?」

「マナセ・エブシュタイン?底生生物の進化に関する論文を出していた、エブシュタイン博士?驚いたわ、こんなに若い人だったなんて」

 姉はこの人をご存知のようだ。

「はい。あぁ、あの論文をご覧になったのですね」

「ディアンナ・デル・メディソンよ。依頼主は同じだと思うけれど、海棲生物の魔物化について調査を依頼された魔術研究者。お会いできて光栄だわ、エブシュタイン博士」

 その言葉に、赤毛メガネは仰け反った。

「め、メディソン!?あの、魔術研究の最先端におられるというメディソン博士でいらっしゃいますか!?」

「あー、多分そのメディソンかな」

 仰け反った赤毛メガネは頭をぶるぶると震わせて、ディアンナの手を物凄い勢いで握って上下に振った。

「おおおお!お会いできて光栄ですメディソン博士!まさかこのような場所で世界的な天才にお会いできるとは!あなたの論文、沢山読みました!圧倒的に高度で精密、かつ実践的な研究!あなたこそ全ての研究者の誇りです!魔術学院で開かれている講演は学院関係者しか入れないので、ご尊顔を拝謁したのは初めてです!こ、こんなお若い、しかもお美しい方であったとは!」

 興奮のあまり我を失っているように見える。大丈夫だろうか。

「あー、そうね。学院ももう少し外部の研究者に公開すればいいのに。あなたみたいに優秀な在野の研究者とも、もっと話をしてみたいと思っていたのよ」

 この姉は軽薄そうに見えて、実のところ本当に優秀な学者でもあるのだ。探究心に溢れた同胞に、敬意を払うことを惜しまない。

「も、勿体ないお言葉です。メディソン博士のようなトップクラスの著名人にお会い出来るとは……ああ、この依頼を受けて本当に良かった……」

「とりあえず、研究対象がそこに転がってるわけだし、先に仕事をしましょうか」

 尤もな話だ。寧ろそれが目的だったのだ。

 置いてけぼりにされたトリシアンナとナズナは、ただ立ち尽くしているだけだ。

 赤毛の三つ編みメガネは改めて目の前の怪物を観察している。

「ふむふむ、概観はスキアヴォーナですね。差異はその巨大さ、背びれおよび腹びれの巨大化及び変色、と。鱗の形状もスキアヴォーナ準拠の巨大化と見て良いでしょうか」

 生物学者らしく、見た目で分かる明確な差異を指摘していく。

「鰭で言えば、胸鰭にも変化が見られますね。スキアヴォーナの胸鰭は鋭利な三角形をしていました。この魔物化した個体は、丸く、魚体の割合にして大きく変化しています。河川から海洋へと移動した関係上、適応したものかと思われますが」

 トリシアンナは彼女が見落としている部分を指摘する。一度魔物でない個体を解体したので、違いが一目瞭然なのだ。

「おおっ!そうですね!確かにその通りです。汽水域に生息するスキアヴォーナにもこの変化は見られませんでした。これは海洋に適応したものと見ても……って、え?あの、どちら様でしょうか?」

 ずっと近くにいたのに今まで気付かなかったのだろうか。

「エブシュタイン博士、この子は私の妹よ。この個体を的確に探し当ててた功労者の一人」

「おお!メディソン博士に研究者の助手たる妹君がいらっしゃったのですね!なるほど、ご指摘も的確で考察も適切でいらっしゃる。将来有望な研究者ですね!」

「うーん、メディソン博士っての、やめにしない?ディアナでいいわ、マナセ。この子はトリシアンナ。トリシアでいいわよ」

「承知しました、ディアナさん。可愛い妹さんですねぇ」

「でしょ?もう可愛すぎて自慢でねぇ」

「あの、お姉様。とりあえず調査の続きをですね」

 その言葉に二人とも目つきが変わる。専門家というのは割合に扱いやすいものだ。

「特別に差異があると見られるのはこの眼球ですね。既存のスキアヴォーナとは圧倒的な差があります」

「そうね、魔素の集中具合を見てもこの眼球が一番の変化と見ても良い」

「まるで深海魚のようですね。ドラゴンフィッシュのような……」

「そう!そうですよトリシアさん!この眼球、ドラゴンフィッシュに似ています!この適応は一体どこから来たのでしょうか。採取されたのは15メトロと聞きましたが?」

「深さはそれで間違いないわね。となれば、光を集める為に巨大化したのではないと考えられるけれど……」

「過程だったのかもしれませんよ。淡水から汽水、海水に至るその過程で、何か急速に進化する必要があったのかもしれません」

「なるほど……一考に値しますね。塩分濃度のみで考えるのは早計かもしれません」

「競合相手はどうかしら。海水域に達した時点で、淡水にいた頃の捕食者とはまるで変わった生態系に移動したのよ」

「ありえますね、お姉様。海洋にはスキアヴォーナよりも巨大な捕食者が沢山います。魔物化の一つの原因としては考えられます」

「素晴らしい仮説ですね。しかし検証にはまだ足りない、必要な情報が沢山ありますが……」

 ナズナには全く理解ができなかった。

 ディアンナもトリシアンナも、このマナセとかいう学者と全く同じレベルで話をしている。

 ナズナだけがまるで、これっぽっちも、さっぱりと理解できずに佇んでいるのだ。

 展開される聞いたこともないような生き物の名前だとか、ただ切り落とすだけの鰭にそんな違いがあったのだとか、挙句の果てに目の大きさなんてどうせ食べないのにどうでもいいではないですか、と言いたくなるのを黙って見ている。

 トリシアンナは経験も知識だと言った。しかし目の前で繰り広げられているこの知的考察は、経験ではどうにも補うことのできないエリートのみに許された領域ではないだろうか。

 ナズナは少し悲しくなり、自分と同じレベルであるラディアスを思い出してほっとした。

 全てが彼のようであればいいのに。いや、そうなると世界がバカになってしまうのでそれは問題があると思い直した。

「ナズナ。ナズナ」

 可愛らしい天使の顔が黒髪の侍従を覗き込んでいる。

「済みません、退屈させてしまって。調査は終わりましたので戻りましょうか」

「はい、お嬢様」

 上の空であった事などおくびにも出さず、ナズナは返事をする。

 トリシアンナには隠すまでもなくばれているのだが。


「得られた情報は多かったですが、肝心な所は分からず仕舞いでしたね、お姉様」

「そうねぇ」

 スキアヴォーナの魔物化としての存在は確認された。

 名称はいずれ決定されるだろうが、その提案として発見者のトリシアンナの名前をつけられようとした時には全力で拒否した。

 目玉の大きな深海魚じみた怪魚に、トリシアドラゴンフィッシュなんて名付けられようものならば、恥ずかしくて街を歩くことも出来ない。

 調査の依頼自体は一応完了したのだが、そもそもの原因がまるで分かっていないのだ。

「どうして淡水魚が競合相手の多い海洋へと移動したのか。魔物化の原因は何か」

「原因となる河川の方を探るしかないですね」

 とはいえ、トリシアンナ達がスキアヴォーナの巨大個体を捕獲した時点では、何らその変化を感じることはできなかったのだ。

「ここ最近の変化ねぇ。そもそも、北東部の山岳地帯に踏み入るような人間なんていないのに」

 人間でなければ、魔物だろうか?

「そういえばお兄様が、北東部に鉱山調査隊を派遣すると仰っていましたが」

「派遣は来月でしょ?関係は無いんじゃないかなぁ」

「いえ、それ以前に何かあれば、という話でして」

 まぁ、あまり関係は無いだろう。先遣隊が直近だったにしても生物が変化する時期としてはズレすぎている。

「お腹減ったわ。今日は魚以外が食べたい気分」

「あっ、それじゃあ、この間獲って来たルナティックヘアの冷凍肉をシチューにしてもらいましょう!」

「いいわね、賛成。マルコにお願いしておかきゃ」


「父上、調査結果です」

「ああ、……」

 執務室に沈黙が降りる。

「掘り返した痕跡があったのか」

「かなり、大規模に」

「目星は?」

「エスミオの道具が」

「やはりか」

 ヴィエリオもアンドアインも黙る。

「王国には鉱脈はあったと報告する。但し、下流に多大な影響がある為に採掘はしないと」

「それが賢明な判断でしょう。わかりました」

「警備をつけろ。これ以上好き勝手されては敵わん」

「できるだけ厳重にします。全く、あの銭ゲバどもめが」

「段々形振り構わなくなってきたな。警戒はしておけ、特に、お前が王都に出向く時にはだ」

「承知しています。寧ろ、道中であれば証拠も残さず返り討ちにしてやりますよ」

「逸るな。相手は我らと同じだぞ」

「心得ていますよ」

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