第9話 宴は淑女殺しと共に
ついにこの時が来てしまったとナズナは部屋で唸っていた。
今日の仕事はもう終わりだとだいぶ前にハンネ侍従長から言い渡され、早く自室で準備してくるようにとフェデリカとパオラに急かされている。
彼女達は既に準備を終えており、あとはナズナの着替えが終わるのを今か今かと待っているのである。
目の前に広げているのは、秋に街へと出た際、ラディアスに買ってもらった服だ。
このモノトーンの衣装がナズナに似合うという事は、本人もどうにか理解はしていたのだが、いざそれを着るとなると何故か尻込みしてしまっている。
(私のような者がこんな服を着て良いものだろうか)
先程から何を今更、という同じ問いを延々と鏡の前で繰り返している。
さっさと着替えて出ていけば済むものを、何故か未練がましくも迷っているのである。
(いっそいつもの侍従服で……いや、それでは流石にラディアス様の面子を潰すことに)
そこまで考えてから漸く諦めて侍従服を脱ぎ、今までずっと仕舞っていた衣装にのろのろと着替え始める。
白い長袖の、肩から胸の上までうっすらと透けるレースのブラウスに袖を通し、肩から吊るような形をした漆黒のスカートに足を通す。
ゆったりとしたラインは、痩せ型で年の割に背の高いナズナには良く似合っている。
(それにしてもこれは、どうして透けているのか)
胸が小さいことを多少なりとも気にしている為、肩周りと首元から鎖骨まで大きく透けている事が、非常に落ち着かないのだ。
せめて深い谷間でもあれば見栄えもしようが、と思うものの、無いものねだりをしている事に気がついて首を落とした。
吹っ切るようにして頭を振って、のろのろと部屋を出る。
「遅いよナズナちゃん!ほら、帰りの馬車も待ってるんだから早く早く」
部屋の外ではこちらも着飾ったパオラが待ち構えていた。濃いめの化粧と妙に露出の多い格好が、彼女の派手好きな性格を表している。
引っ張られるようにして邸を出ると、すぐ南側で待っていた馬車に押し込まれて移動を開始する。時刻はまだ午後の4時を回ったところだが、残りの仕事はほぼ侍従長に丸投げする形になっている。
「全部侍従長にお任せしてきましたが、本当に良いのでしょうか」
ハンネ一人では仕事が出来ないという訳では無い。そもそも夕刻から人手が必要となるのは給仕ぐらいで、大した仕事は無いのだ。
「今更何言ってるの。一日二日ぐらい”あの”侍従長なら平気でしょ」
パオラが笑いながら言う。確かにその通りだった。”あの”侍従長であれば、大抵のことは片付けられるのだ。他の侍従がいるのは、彼女にも休みが必要だからという理由に過ぎない。
「ナズナちゃん遅かったねぇ。お化粧に時間かかってた?……あら?全くしてないっぽいね」
おっとりとした口調で、栗毛のフェデリカが首を傾げている。こちらもばっちりとメイクアップしている上に、気合の入った紫を基調としたドレス姿だ。
「えっ、マジで?……ほんとだ、肌が綺麗だから気が付かなかった」
何故か恨めしそうにパオラが言う。
「うーん、まぁ素でも可愛いんだからいいけど、少しぐらいしてみれば?そうだ」
フェデリカはごそごそと小さな、本当に小さな鞄を漁ると、人差し指くらいの長さの金属の棒を取り出した。
「これ、新品だけどあげる。衝動買いしちゃったけど、あんまり好きな色じゃなかったの」
言って金属のキャップをカチリと音を立てて外した。中から顔を出したのは薄い紅色のルージュ。
「これは……紅ですか?結構値段の張るものなのでは?」
「べにって。なんでそんな時代がかった言い方なの。ルージュよルージュ。ほら、塗ってあげる。馬車揺れるからじっとしててね。はい、ちょっとだけ口開けて~」
フェデリカは笑ってナズナに顔と手を近づける。
言われたとおりにナズナが軽くぽかんと口をあけると、フェデリカはすかさず唇に、慣れた調子でルージュを塗りつけた。
「はい、ちょっと唇なじませてみて」
彼女はその意味をよく理解できなかったが、唇を閉じて前後に動かしてみると、なるほど、なめらかに少し馴染むのを感じた。
「おっ、いいじゃん。それだけでも大分印象変わるよ」
「でしょー。ほら、見てみる?」
フェデリカはまた小さな鞄――最早それは小袋と言っても良いのではないかと思うサイズのそれ――から小さな折りたたみ式の手鏡を取り出すと、開いてナズナに向けた。
「あっ……本当ですね。化粧は変装の時にしかしたことが無かったのですが……」
「変装って。あっははは、ナズナちゃんそういえば忍びだったっけ。女の子の初めてのお化粧が変装って。やだ、おかしい」
パオラがツボに嵌ったのか爆笑している。
「変装ってどんな人に化けたの?やっぱり大人の女性とか?」
「はぁ……大抵は乞食ですとか。他に多いのだと修行僧でしたか」
忍びの偽装は、数が多くてそこら辺に居ても誰にも気にも止められないような存在に変装する事が多い。
「いやいや、そんな可愛い顔の乞食とか僧侶がいるわけないでしょ」
「ええ、ですから墨などを塗ってですね」
「それ化粧じゃない!化粧じゃないよ!」
物怖じしない彼女たちは、殺伐とした生き様を話すナズナにも変わりなく接している。このような性格でもないとあの邸の侍従は務まらないのだ。
「そういえば、ジュリアさんは先に向かっているんでしたっけ」
馬車の中で騒ぐのは姦しいという言葉そのままの、侍従の女三人だけだ。
男の目があればこのように馬鹿騒ぎはあまりしない。あまりしないだけでする事はある。
「ジュリアとアメデオは今日休みだったからねぇ。ニコロ君と一緒に行くって言ってたよ」
ニコロとは、今御者台に座っているフランコの息子だ。歳はナズナの2つ上で14歳。
ジュリアは通いの侍従で、こちらもどちらかと言えば大人しい性格をしている。
ニコロは時折父親の仕事を手伝って邸の馬の世話をしており、フランコが引退する事になれば仕事を引き継ぐのだろうと言われている。
ナズナも何度か会話をしたことがあるが、控えめな性格の大人しい少年だった。
「ニコロ君かあ。ちょっと若すぎるよね」
「そうねぇ、それに、職場も同じになったら流石に気まずいよねぇ」
フェデリカとパオラの二人は気の早い話をしている。ナズナがきょとんとしていると、そちらにも話が振られた。
「ナズナちゃんはどう?ニコロ君」
「どう、とは?」
フェデリカに聞かれたが、どうもこうもない。まだ数回しか会話したことがないのだ。
「ナズナちゃんとは歳近いよね、2歳差だっけ」
パオラも加わる。
「そうですね、まだ来てから日が浅いので、そんなに会話をしたことがないのですが」
「そっかー、外に出る時はずっとトリシアンナお嬢様と一緒だもんね。仲良くなれると良いね」
「そうですね」
いずれ同僚になるかもしれないのだ。仲良くしておくに越したことは無いだろうと考える。
「しっかしフェデリカ、アンタ今年も気合入ってんねー」
「パオラこそその格好はどうなのよ。色気で新人君を釣ろうって魂胆丸見えじゃないの」
二人共どうやらそれが目的のようだ。確か二人の年齢は20代前半だが、出会いの少ない職場という事で割と必死なのかもしれない。
ナズナは自分には関係の無いことだと傍観者気取りだったが、どうしても唐突に話というものは振られてしまうものだ。
「ナズナちゃんも結構狙った服装してるじゃん?胸元スケスケだしぃ」
「言われてみれば……そういうの好きそうな男性も多いし」
「えっ?いえ、これはその、街に行った時にトリシアンナお嬢様に勧められたもので」
流石にラディアスに買ってもらったとは言い出せない。
「あぁ、トリシアンナお嬢様ね。あの方、ああ見えてすっごいドレス着こなしたりしてるよねぇ。もうパオラも目じゃないぐらいの」
「なんか、噂だとあの歳でもう男性に求婚されたらしいよ。侍従長が話してるのを料理長が聞いちゃったって」
「……それは本当ですか」
ナズナは一段声を低くして聞く。二人はナズナのその行動を別の意味に受け取ったらしく、声を潜めて話を続ける。
「ホントホント。どうも話聞く限り、お相手も随分高貴な方らしくてさぁ」
「へぇー、流石はお嬢様。でも、婚約されたってお話は聞いてないけど」
「それがさ。断っちゃったんだって。お嬢様の方から」
「かぁーッ!勿体ないッ!」
嘆かわしいとばかりに天を仰ぐパオラ。
「そうでしたか」
ほっと胸を撫で下ろしたナズナに、再び二人の矛先が向かう。
「ねっ、やっぱりナズナちゃんも気になるよねぇ。年下に先越されちゃったら、あたしだったら悔しくて眠れないもん」
「でもそんな百戦錬磨のお嬢様が選んだ服でしょ?なるほどねえ。確かにナズナちゃんにぴったりだわ。とても12歳には見えないもの」
「えぇぇ……?」
確かに大人びて落ち着いた服装で、透けている部分以外は本人もそれなりに気に入っているのだが。
「お嬢様のセンスが良いのはそうですけど、多分そういう意図は無いと思いますよ」
誰が好き好んで大切な専属侍従を手放すような事をするだろうか。
「甘いッ!貴族ってのはね、侍従にも同じレベルの品格を求めるものなのよ。思えばユニティア様もそうだったわ」
遠い目をするフェデリカ。彼女は侍従の中では比較的古株なので、長女の世話もした事があるのだ。
「あはは、あの話?あれはフェデリカが悪いんじゃない。いくら侍従だって言っても、ねぇ?」
「ユニティア様と何かあったんですか?」
ナズナは初めて聞く話だ。
「それがねぇ、ナズナちゃん。フェデリカったら朝寝坊して、慌ててたものだから、うっかり侍従服じゃなくて寝間着のまま部屋から出てきちゃって」
「えぇ……?」
「違うのよナズナちゃん!髪がボサボサだったから、せめて水で整えようと思って」
「で、そこをユニティアお嬢様に見つかっちゃったってワケ。『侍従とはいえ、女性が人前でその格好だと大変ではないかしら。お手伝いして差し上げましょうか』って」
ナズナ自身はまだユニティアに会ったことはないが、トリシアンナからどのような人物かは話を聞いている。その様子を想像して、思わずぷっと吹き出してしまった。
「それからね、お嬢様に部屋に連れて行かれて、私を使ったファッションショーの始まりよ。はぁ、ユニティア様が早めに嫁いでくれて助かったわ……」
それなりに続けて弄られたのだろうとは誰でも想像が付く。
「大体、パオラだって人の事笑えないでしょ。アンドアイン様がお風呂で」
「あーっ!ダメ!その話は無し!わかった!私が悪かったから!」
その後も、ジョヴァンナが一昨年宴会で射止めた結婚相手の話であるとか、マッテオの奥さんはあのマッチョ男に似合わず可愛い小柄な人だとか、延々とそんな話で盛り上がっていた。
ナズナには今までそういった話をする相手がいなかったので、二人の下らない話はどれも面白く新鮮に聞こえるのだった。
「あっ、フェデリカさぁん、パオラさぁん、ナズナちゃぁん」
港通りの海龍亭の前で、良く見知った顔が手を振っている。
「ジュリアさん、お疲れ様でー……でかっ!?」
家族と共にこの街で暮らしている、小柄で少し控えめで大人しい、通いの侍従であるジュリア。
普段は俯きがちであまり気にしたことは無かったのだが、今日は私服なのか比較的身体のラインが出る服を着ている。
「あー、わかるわナズナちゃん」
「私達も最初はびっくりしたもん。あれは反則よねぇ」
小柄な体躯に似合わないその巨砲は、手を振るたびに巨大な振動を齎し、圧倒的すぎる威圧感をもって彼女たちを威嚇しているかのようだ。
隣にいるアメデオとニコロも、どこか所在なさげな雰囲気を醸し出している。
「三人とも、待ってたんだよぉ。遅いからすっごく心配してて」
いつもの甘ったるい声だけならば兎も角、今は視覚的にも恐ろしい破壊力がある。
「おまたせジュリア。でも、まだ時間前でしょう?」
「そうですけどぉ」
ナズナは頭がクラクラしてきた。こんな事が許されて良いのか。身長は自分と然程変わらないというのに。
「ね、ナズナちゃん。ジュリアはヤバいでしょ」
「ヤバいどころの騒ぎではありませんよ。良くこれで今まで不埒な男性の毒牙にかからなかったものです」
ジュリアは未婚の処女なのである。それは二人から聞いて知っている。
「あれであの子、大きな商家の娘だからね。意外としっかりしてんのよ」
「世の中の理不尽さを身に滲みて感じます」
こんな、こんな事があって良いのだろうか。あまりにも違いすぎる物量の差に、ナズナは我が身を呪いたくなる程であった。
「ナズナちゃぁん!やだ、その服可愛い!どこで買ったの?」
「はあ、表通りの店で……確か隣にパン屋さんがあったかと」
「あっ!あそこかぁ。ナズナちゃんいいセンスしてるねぇ。確かにあそこは可愛い服多いよねぇ。ルージュも素敵!とっても可愛いわぁ」
抱きつくジュリアに、この世の摂理として理不尽なる暴悪を擦り付けられて、虚無感に囚われるナズナ。もうその目は死者の一歩手前である。
「あっ、もう入りましょ!ジュリア、待たせて悪かったわね。ほら、アメデオとニコロ君も」
フェデリカがどうにか救いの手を差し伸べる。
「ナズナちゃん、ほら、気を確かに!わかる、わかるよー。でもナズナちゃんもこれからだから、ねっ」
こちらも別に小さくは無いが故に露出度の高い服装をしたパオラに、引きずられるようにして大きな宿屋の中へと入っていくのであった。
海龍亭は国外からの客にも利用者の多い、港通りで最も大きな宿泊施設である。
一階部分に厨房と隣接した大きなホールを3つも所持しており、宿泊者の食事は概ねそこで行われる。
貸し切って宴会や結婚式等も行えるようになっていて、宿泊客のみならずそちらでも収入を得る、比較的手堅い運営をしている宿だ。
浴場こそ無いものの、港通りには海から帰ってきた者達の為に公衆浴場が沢山あり、その中の幾つかと提携していて宿泊者、ホール利用者は無料で入浴できるようになっている。
今夜はその大きなホールをまるまる一つ分借り切って、都市警備隊とスパダ商会、そしてメディソン家使用人の合同宴会が行われる。
「おう、お前ら!こっちだこっち!」
一階のエントランスホールに入った途端、聞き覚えのある声に呼ばれた。
全員そちらに顔を向けると、背広姿のラディアスがこちらに手を振っていた。
「こんばんは。ラディアス様も参加されるのですか?」
近寄ってナズナが声をかけると、ラディアスは笑って手を振った。
「俺は警備隊とメディソン家の代表だよ。幹事みたいなもんだ。スパダ商会の代表はポートマンさん」
どうも、と、隣にいた小太りな燕尾服の男がにこやかに挨拶をする。
「会場はここな。まずはこの名簿に各自名前を記入してくれ。終わったら、もうじき始まるから中で待ってろ」
近くの台に記名表が置いてあった。リストは殆ど埋まっており、ナズナ達でほぼ全ての人数が揃ったようだ。
順番に記入し終わってから揃って会場に入る。
沢山の丸テーブルが置いてあり、それぞれの島は勤務先によって区切られているようだ。
席は着飾った男女で席がほぼ埋まっていたが、空っぽのテーブルが2つ、中央付近に見える。
近寄ってみればそれぞれの名前が書かれた紙が置いてあったので、各々が自分の席へと座る。
「時間になりましたので、そろそろ始めさせて頂きます」
拡声効果のある魔術装置を手に、先程会場の入口にいたポートマンが演台の側にやってきた。
「開始の前に、サンコスタ都市警備隊第一隊隊長のラディアス様より、ご挨拶があります」
のしのしと大きな身体を揺らしながら、その身を背広に包んだメディソン家次男が演台の上に立った。
警備隊の島より、口笛と冷やかすような歓声が上がる。
「うるせーぞお前ら。えー、なんだ。面倒くさい能書きは苦手なんで省くぞ。今日はハメ外しすぎない程度に楽しんでくれ!以上!」
それだけ言って演台の脇に避ける。
「ありがとうございます。それでは、まず今年初めて参加される方の自己紹介を行います。今から呼ばれた方は演台に上がって下さい。都市警備隊のアレッシオさん、ロベルトさん。スパダ商会のルカさん、シモーナさん、アントニオさん。メディソン家使用人のナズナさん、ニコロさん」
それぞれの島から男女が立ち上がってばらばらと演台の方へと向かう。何も聞いていなかったナズナも、慌てて立ち上がって向かった。
「あー、まぁ、自己紹介っつうか名前だけでもいいぞ。何か言いたいことがあるなら一言だけ許す。長々とはやるな。じゃあ、アレッシオ、お前からやれ」
言われて同じく背広姿の若い男が拳を掲げて自己紹介を始める。
「うっす!今年の夏に都市警備隊に入ったアレッシオっす!第三隊所属っす!好きな女性のタイプは大人しくて巨乳の方っす!血液型はαⅡ型、好きな食い物は――」
そこまで喋ったところで後ろからラディアスに頭をはたかれた。
「一言だけっつっただろうが!アホか!次!」
会場に大きな笑い声が起こる。それから順に自己紹介が続く。大抵は名前と一言だけ、皆緊張しているのか、当たり障りの無い挨拶をしている。
「今年の秋からメディソン家侍従となりました、ナズナと申します。皆様、どうぞ宜しくお願い致します」
最後になったナズナもそれに倣って、軽く頭を下げる。警備隊の島から口笛が上がった。
「よし、みんな席に戻ってくれ。そんじゃ料理と飲み物を運び込んでもらうぞ。席は決まってるけど乾杯後の移動は自由だ。飲み物と料理のお代わりは後ろのテーブルに並べてもらうから、各自好きなだけ飲んで食ってくれ」
ポートマンが会場の後ろにある扉から給仕達を招き入れた。移動式の台に載せられた料理が、それぞれのテーブルへと運ばれて行く。
席に戻る途中で、ナズナはニコロに話しかけられた。
「少し緊張しました。人前で話すのは初めてだったので。ナズナさんは堂々としていてすごいですね、慣れてるんですか?」
「まさか。私だって初めてなので緊張しましたよ」
そう答えると、ニコロは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「そうなんですね、全然そんな風には見えませんでした」
忍びは動揺をあまり表に出さないように訓練されているのだ、とは言わない。場を冷ましても何も良い事は無いだろう。
「それより、ニコロさん。私の方が年下なので、言葉遣いは普通にして下さっていいですよ」
その言葉にニコロは驚いたように声を上げた。
「えっ!?そうだったの?背も高いし落ち着いてるから、てっきり僕のほうが年下なのかと」
「はぁ……褒め言葉として受け取っておきますね」
微妙に釈然としない思いを抱えたまま席に戻ると、丁度料理と飲み物が運ばれてきた所だった。
各自に取皿と、大皿が3つ。様々な種類の魚介類とライスを炒めたもの、複雑な形をした小麦のパスタと茹でた野菜を橙色のソースで和えたサラダ、大きな塊肉に香辛料を揉み込んで良く焼いたもの。
同じテーブルの席にはフェデリカとパオラが座っているが、料理が並べてられている間も何故かそわそわと落ち着きがない。
「どうしたんですか二人共」
疑問に思ったナズナが聞くと、二人は顔を見合わせてそろって愛想笑いを浮かべた。
「えっ?いや、なんでもないよ。ねえフェデリカ」
「そ、そうね。いや、飲み物まだかなーって」
「今注がれている所じゃないですか。そんなにお腹が減ってるんですか?」
ナズナの手元にあるグラスに僅かに黄色がかった透明な液体が注がれる。給仕は順番に回っているので、落ち着いて待てば良いだけの話だ。
「いやぁ、そうだよねぇ」
やはり言動が少しおかしい。
「や!ナズナちゃん!久しぶり!」
グラスを手に持ったところで、後ろから声を掛けられた。
「おいコラ!ウェイン!まだ乾杯も終わってないのに勝手にうろつくな!」
演台からラディアスの怒号が飛ぶ。首を竦ませた警備兵は、慌てて自分の島へと戻っていった。
ナズナが密航してきた時にラディアスに捕まって、詰所で聴取を受けていた時の男だ。
「ナズナちゃん、ウェインと知り合いなの?」
フェデリカが聞いてくる。
「はぁ、この街に来た時に少しだけ面識が」
「気をつけたほうがいいよ、あいつ、結構手が早いから」
パオラに忠告された。それはナズナも初対面の時にも感じた事だ。
「確かにちょっと軽い感じがしますね。悪い人ではなさそうですが」
「まぁ、悪い人だったら警備兵にはなれないでしょうねぇ」
「悪い人ではないんだけどね」
なかなか辛辣な評価である。二人の好みのタイプではないようだ。
「よーし、みんな行き渡ったな!それじゃ、今年もおつかれさん!乾杯!」
かんぱーい、と、全てのテーブルから声が上がる。ナズナも倣ってグラスを掲げて口をつけた。
(んっ?酒ですか)
匂いから察していたが、透明な液体は葡萄の醸造酒のようだ。僅かな渋みと酸味に混じる酒精の香りと、それ以上に強い果実の香り。
ナズナは小さい頃からある程度の毒物に慣らされているが、酒精もその毒物の中に入る。
基本的に人体には毒物への完全な耐性というものは存在しないが、弱い毒に慣れておく事で対処法を経験的に身につけるのが目的の訓練だった。
(酔いはしますが、一度に分解し過ぎなければ大丈夫でしょう)
酒精のみの分解をあまり加速させると、それはそれで悪酔いの原因になると経験的に知っている。同時に悪酔い成分も分解するとなると時間がかかる。
あまり飲めないようで、隣のパオラは一口飲んで、すぐに置いている。
それとは対照的に、フェデリカは一息に全部飲み干してしまったようだ。
「あーフェデリカ。あんまり飲みすぎないようにね、また失敗するよー?」
「これぐらい大丈夫よパオラ。あ、ナズナちゃんもいける口?ちょっとボトルとってくれる?」
ナズナが瓶からフェデリカのグラスに注いでやると、また嬉しそうに口をつけた。
「パオラさん……フェデリカさんって」
「あぁー、意外でしょ。普段は割と大人しいのにねぇ」
肉を甲斐甲斐しく切り分けて取皿に配りながら、パオラが困った顔をした。
意外といえばこちらも意外に細やかな人間だ。人は見た目で判断できない。
「ありがとうございます。フェデリカさんの失敗って」
肉を受け取って、話を聞こうとした時、先程のフェインがグラスを持ったままナズナ達のテーブルにやってきた。
「いやー隊長は変に細かいんだよねぇ。あんなデカいガタイしてるくせにさー」
「フェインさん、その節はどうも」
一応挨拶はしておく。サンコスタに来た当初のナズナを知る、数少ない人間でもあるのだ。
「いやぁ、変われば変わるもんだねぇ。ナズナちゃん、すげー綺麗になってるよ」
「はぁ、ありがとうございます」
九割方はこの服のせいだろう。残りの一割は貰ったルージュのせい。
「ちょっとウェイン。うちの子に手ぇ出したらラディアス様にぶっ殺されるわよ」
パオラの言葉にも、ウェインはヘラヘラと笑っている。
「手を出すなんて、人聞き悪いなぁ。俺はそんな人間じゃないって」
暖簾に腕押しというやつである。そうこうしていると、隣の席からニコロもやってきた。
「ナズナさん。いや、年下なのにさん付けは変かな?」
「それは別にいいと思いますよ」
「そっかー、そうだよね。急に呼び方変えるのも変だし」
ニコロはもう顔が赤くなっている。あまり酒には強くないのだろう。
「何?ニコロ君までナズナちゃん目当てなの?」
全く酔った気配のしないフェデリカが脇から声をかけた。
「えっ……いや、あんまり邸で話したことがなかったので。そ、そんなつもりでは」
「あー、気にしないでニコロ君。ほら、こっちに座って一緒に食べようよ」
パオラが予備に置いてあった椅子を勧める。
「あっ、それじゃ俺も」
「アンタは立ってなさい」
パオラに冷たくされたウェインは意地でも座りたかったのか、隣の席からニコロの座っていた椅子を持ってきて、ナズナの隣に腰掛けた。
円形のテーブル自体は6人ほど座れるスペースがあるものの、一気に狭くなった気がする。
「でさ、聞いてよナズナちゃん。隊長ってば自分の事は棚にあげて、お前は人間関係がだらしなさ過ぎるとか言っちゃってさぁ」
「ニコロ君、お肉食べる?あ、パエーリアのほうがいい?お姉さんが取ってあげるから」
非常に騒々しい。斜め向かいのフェデリカは、こちらは黙々と酒を手酌で注いでは胃の中に流し込んでいる。
「あの、フェデリカさん。お酒だけではなくて、何か食べたほうがいいですよ」
あまりペースが早いと危険だ。どれだけ酒豪だとしても、何か胃に入れた方が良い。
「ありがとうナズナちゃん。優しいのはナズナちゃんだけだわ……」
「そこで俺は言ってやったのよ。隊長はどうなんですかってあばっ!」
上機嫌で喋っていたウェインは、横から叩きつけられたフェデリカの手刀でその場に崩れ落ちた。恐ろしく速い。忍びのナズナでなければ見逃していた事だろう。
「ねぇナズナちゃん、私のお嫁さんになってくれない?」
「は?大丈夫ですかフェデリカさん、まだ始まったばかりですよ?」
慌ててフェデリカの額に手をあてる。酒精の血中濃度が急激に上がっている。
仕方なくナズナは水撃系第二階位『デアルケ』を発現する。脳に回る分だけでも分解しておけば大丈夫だろう。
「ありがとうナズナちゃん。大好き。結婚して」
近寄ってきたフェデリカに抱きつかれた。
「ちょ、パオラさん、助けてください!」
「あー、始まったかー」
「なんでっ?酒精は分解したはずなのに」
「なんだろう、場酔いってやつ?」
「いやいや、なんですかそれ」
「ぐおおお!負けるかぁ!」
気絶していたフェインが起き上がってきた。フェデリカを引き剥がそうとその後ろに組み付くが、逆に腕をひねられて悲鳴をあげた。
「がぁっ!」
「やめてくださいフェデリカさん、それ以上はいけません」
放っておけば腕の骨を折りかねない。
「うっす!アレッシオっす!」
今度は何だ、とナズナが隣の席を見ると、ジュリアとアメデオが食事をしているところに、先程の新人警備兵がやってきていた。
「こんばんわぁ、新しい警備兵の方ですねぇ」
「あ、ど、どうも。アメデオと言います」
どうやら彼は挨拶回りをしているようだ。しかしそれにしても声がでかい。
「ジュリアさんっすね!自分とお付き合いしてください!」
いきなり何を言い出すのかこの筋肉は。
「えぇ~?随分唐突ですねぇ。でも、ごめんなさい、タイプじゃないのでぇ」
ストレートにカウンターを決めた。クリティカルヒットが直撃したアレッシオは大声で嘆きながら警備隊の島へと走り戻る。本当にうるさい。
「あの、ジュリアさん……流石に可哀想では」
アメデオがおろおろとしている。彼もどうにも苦労人のようだ。
「でもねぇアメデオ、普通、いきなり初対面であんな事言う?付き合い始めたら絶対自分勝手に行動する人よぉ、あれ」
「はぁ、まぁそれはそうかもしれませんが」
そこにフェデリカがずかずかと近寄っていった。
「そうよ!男なんてみんな自分勝手なんだから!特に自分から付き合って欲しいって言ってきたくせに、『そんな人だとは思わなかった』とか言って勝手に離れていく奴!」
こちらもまた何か別のスイッチが入ってしまったようだ。アメデオは対処できずに視線を右往左往させている。
救けを求めるようにナズナに視線が送られたが、無力な忍びは目を伏せて黙って首を振った。
(すみません、アメデオさん。私では彼女を止められません)
関われば再び抱きつかれるだろう。彼には悪いが囮になってもらうしかない。
「ニコロ君、ほら、食べさせてあげよっかー」
「パ、パオラさん。ちょっと近いです。当たってるし……」
「当たってるぅ?何が当たってるのかなぁ?」
こちらはこちらでかなり怪しい雰囲気だ。しかし、この場には最早彼女たちを止められる者はいない。
ナズナは早々に見切りを付けて立ち上がった。その瞬間、足元で何かを踏んづけたような気がするが、気にせずそのまま取皿とグラスを手に宴会場の後方へと退散する。
(普段は素敵な人達なのに、酒が入るとああなってしまうのか……)
後ろのテーブルで料理を堪能しながら、今まで自分がいた席の辺りを眺める。
どうやら中央には他の人達も集まってきているようで、周辺の混沌具合は輪をかけて酷くなっているようだ。
(ただ、確かにこの酒は美味い。特にこのチーズによく合う)
皿の上に並んでいるのは、チーズと様々な食材が一口ずつ、串に刺されているものだった。
後ろの追加料理は皿が無くても直接手に持って食べられるものばかりで、どうやら立って酒を飲みながら食べられるように考えられたもののようだった。
それ以外にはこれも一口サイズのパン挟みや、小さな塊の鶏肉を油で揚げて串に刺したもの、燻製肉や野菜を紙のような食材で包んだもの等が並んでいる。
邸で料理長の作るものと同じ、とまでは流石にいかないが、それでも十分に満足のいく味のものばかりだった。
「お気に召しましたか?この宿も実はスパダ商会の系列店でしてね」
近くにいた20前後の若い男に声をかけられた。歳の割に、随分と自信たっぷりで落ち着いた雰囲気の男だ。
「失礼。大変美味しそうに召し上がるものですから。セディージョと申します、ナズナさん」
「初めまして、セディージョさん。ナズナです」
先程の自己紹介を覚えていたのだろう。しかし一応は名乗っておく。
「ナズナさんはお名前からして、東方諸島の出身ですか?」
「はい。セディージョさんはサバスの方でしょうか」
西方にありそうな名前だと当たりをつける。
「正解です。元はあちらの支店で働いていたのですが、こちらに引き抜かれまして」
となれば、相当に切れる人物なのだろう。この若さで大商会の本店に異動とは。
「優秀な方なんですね」
「若さを買われただけですよ。サンコスタの皆さんについていくのに必死です」
「ご謙遜を」
ナズナがそう言うと、赤毛を後ろに撫で付けた眼鏡の優男は微笑み、近くにあった葡萄酒の瓶を持ち上げた。
「こちらはそのサバスで醸造されたものです。どうですか、お近づきの印にひとつ」
「頂きます」
断れる雰囲気ではない。注がれた酒は先程の透明なものではなく濃い赤紫色で、比較的普通の葡萄酒の色をしていた。
「東西の数奇な出会いに」
嫌味の無い気障な台詞に合わせて、ナズナもグラスを持ち上げてから口をつけた。
(意外に甘い)
分解されなかった糖分が僅かに残っているのだろう。香辛料のような香りに混じって、仄かな甘みが舌の上に残る。渋みや酸味は驚くほど少なく、非常に飲みやすい。
「どうです?わが故郷自慢の葡萄酒です」
「とても飲みやすくて美味しいですね」
酒を褒めるとセディージョは本当に嬉しそうな顔をした。
「そうでしょう?実は、私が本店に引き抜かれたのにはこの酒に縁を導かれたのもありまして」
彼の地元でこの酒を造っていたのは小さな醸造所だったそうだ。
量産が利かず、利益もあまり出せずにほそぼそとやっていた所、ある年に葡萄の凶作が起こったらしい。
「すぐにでも融資をしないとその醸造所は潰れてしまう状態でした。私はこの酒の味を知っていたので、これが飲めなくなるのはこの国にとって大いなる損失だと思ったのです」
その後、セディージョが半ば強引に支店から融資を出させて危機を乗り切らせたところ、王都に出していたこの酒がようやく日の目を見て大ヒットしたのだという。
増産体制を整えるための融資も当然のように行われ、斯くしてその醸造所は僅かな期間で、サバスを代表する一流酒造所へと変貌した。
彼がスパダ商会の本店に引き抜かれたのは、そうしたモノの本質を見抜く眼を買われたからなのだろう。
「素晴らしいお話ですね。こうしてこの美味しいお酒が飲めるのも、セディージョさんのお陰というわけです」
さり気なく回された手を、料理を取る振りをしてナズナもさり気なく回避する。
どれだけ酒を褒められた所で、下心が無いわけではないだろう。そうは問屋が卸さない。
「いや、お恥ずかしい。自分の話ばかりしてしまって。ナズナさんの故郷にはどのようなお酒が?」
躱された手をこちらもさり気なく引き寄せて瓶を掴む。
「そうですね……殆どは米を使った醸造酒ですが」
新たに注がれた葡萄酒を舐めながら思い出す。
「東方諸島でも、特に北の地方で生産が盛んですね。造られたお酒にはその土地の名前が冠される事が多いですが、珍しいものとしては――」
忍びの任務には情報収集も含まれる。その中で手に入れた幾つかの情報を流してみた。
「ほう、氷で出来た部屋の中で。流石にそれは寒い地方でないと難しいでしょうね」
赤毛の男はいつしか仕事の目になって、真剣に話を聞いている。余程酒と仕事が大好きなのだろう。
振られた話を振り返す。伸ばされた手を軽やかに躱す。まるで舞踏の様に、サディージョとナズナの掛け合いは続く。
「ナズナさんは大変博識でいらっしゃいますね。ご実家はさぞかし名のあるお家なのでは?」
「いえ、そんな事は……代々しがない宮仕えですので」
「本当ですか?サンコスタに出てこられたのも、そのご実家の縁で?」
縁といえば、縁か。ろくでもない実家のろくでもない都合に振り回されただけだが。
「そのようなものですね。ただ、今はこちらに来て良かったと思っていますよ」
「それは、ひょっとして私に出会えたから、と仰って下さいますか」
捕まった。酩酊する程には飲んでいないはずで、酒精の分解速度も上げているはずだが。
足にあまり力が入っていない。まだ頭ははっきりしている。
「自信家でいらっしゃるのですね」
肩を抱かれた腕を、相手の胸を押して外そうとするが力が入らない。
逆に相手に半ば凭れ掛かるような形になってしまっている。この状況はあまり宜しくない。
「少しお疲れのようですね。宴会の参加者は、帰るのが辛い場合にはこの宿の部屋を使って良いと言われています。少し休んでいかれませんか」
休めるのならば休みたい。しかしその場合には漏れなくこの男の愛撫付き、というわけだ。
「いえ、そのご心配には」
舌も回るし頭も回る。しかし身体がまともに動かない。
術を使って酒精を分解しようとしているが、肉体が言う事を利かない為構成が組めても発現ができず、分散してしまう。
薬などではない。ただの酒精にこれほど遅効性があり、回るとは。
「ご無理をなさらず。何、少し休めば元気になりますよ」
そのまま肩を抱かれ、会場の外へと歩き出す。歩いているというより、足が交互に出ているだけだ。まともに立っていられない。
「おいおい、流石にそりゃちょっとまずいぜ、次期番頭さん」
宴会場を出たところですぐに二人は声をかけられた。
「これは、ラディアス様。ナズナさんが少し休みたいとおっしゃるものですから」
「あぁ、確かに帰れねえ奴の為に部屋はいくつか抑えてあるよ。宴会で出会った二人が成り行きでそういう使い方しても俺は何も言わねえさ」
「はあ、それでは何故」
ラディアスはその言葉には答えずに、ナズナの顔を覗き込んだ。
「おーい、ナズナ。あぁ、意識はあるな。全くしょうがねえなあ、まだ十二歳のくせにこんなに飲んじまって」
その言葉に、セディージョがぎょっとする。
「じゅ、十二歳!?ラディアス様、う、嘘でしょう?」
「嘘なもんか。まぁ、ちっとその歳にしちゃ背は高くて大人びて見えるけどよ。あー、化粧もしてんのか。そりゃ勘違いもされるわなぁ」
セディージョは慌ててナズナの身体をラディアスに預ける。
「し、失礼しました!あまりにも話が合いすぎて、その。まさかそんなに若いとは」
「あぁ、まぁ気にすんなよ。自己紹介で歳は言わなかったしな。でも良かったな、危うくスパダ商会本店の次期番頭の座を棒に振る所だったぜ」
商会本店の重役だろうと、年端も行かぬ少女に酒を飲ませて手籠めにしたなどと知られれば即刻追放だろう。
「安心しな、別に誰かに話したりしねえから。親父さんもポートマンさんも、俺もユニ姉さんも、あんたの事を買ってるんだ。ここで辞められでもしたらお互い悲しい事になるだろ?」
この男の仕事に対する情熱と手腕は間違いなく一級品なのだ。
「あ、ありがとうございます。申し訳ありません、私も少々飲みすぎたようで。きょ、今日の所はこれで失礼致します!」
這々の体で宿を出ていったセディージョに、気をつけてな、とラディアスは声をかけた。
ラディアスの胸に凭れ掛かるようにして立っているナズナは、内股でどうにか堪らえて身体を立ったまま維持している。
「お前、酒精分解できるからって油断しすぎただろ」
そのままラディアスはナズナの膝裏に腕を回し、肩と膝を持ち上げる形でヒョイと抱き上げた。
「ほら、落ちないように俺の首に腕引っ掛けとけ。今鍵貰ってくるから」
ナズナは抱きつくような形でラディアスの首に腕を回す。指を絡ませ、力が入らなくてもずり落ちないように身体を固定した。
「すんません、取ってもらってた部屋の鍵貰えますか?少しこいつ休ませて来ますんで」
フロントにそう申し出て鍵を受け取ったラディアスは、まるで重さを感じていないかのように軽々と階段を登っていく。
「レディ・キラーを飲まされたな」
「レディ、キラー?」
「サバスのあの酒、口当たりが良くて美味かっただろ?酒が苦手な女性でもすいすい飲めちまう。けど、酒精の割合が普通の酒よりもかなり高いんだ。気付かなかっただろ」
それで、分解が間に合わなくなったのだ。
「まぁそういう酒だから、そういう通称が付いてんのさ。美味いのは間違いないから貴族の間では睡眠薬代わりとして大人気だけどな」
「迂闊でした」
「酒、あんまり飲んだことないんだろ、知らなくて当然だ」
「酒に慣れるように訓練はしていました」
「訓練と実戦は大違いってやつだな。勉強になっただろ」
「……はい」
ナズナの耳元で囁かれる言葉には、一片の反論も出来ないほどの真理が含まれていた。
「ほら、下ろすぞ」
柔らかなベッドの上に細い身体が横たえられる。
「おい、もう離していいぞ」
首の後ろに回された腕はそのままだ。
「ナズナ。おーい」
「嫌です。離しません」
ナズナには自分が何を言っているのかが理解出来ていない。
「嫌ですって。お前なあ、戻れねえじゃねえか。俺は会場にお開きの合図を出さなきゃいけねえんだよ」
「行かないでください」
その言葉に、ラディアスははあとため息をつく。
「わかった、行かねえから腕は離してくれ。このままだと俺の腰が折れちまうだろ」
「寝れば腰の心配はいりません」
「あのなあ」
意識は明瞭で呂律も回っている。動かないのは身体だけの癖に、絡んだ指先はしっかりと食いついて離さない。
仕方がない、とばかりにラディアスは潜るようにしてその腕を離した。
「あっ」
腕を外されたナズナは、素早く転がって今度はラディアスの腰にしがみついた。
「なんでそんなに俊敏に動けるんだよ。とんでもねえな忍びってやつは」
「一緒にいて下さい」
「だから、分かったって。行かねえから離してくれ」
「離しません」
ラディアスは再び回された腕を外した。しかし、今度は外したその手を握りしめる。
「わはは、これならもう掴めないだろ」
「掴めません」
行かないと言った男は、その手を握ったままベッドに腰掛けた。
そのまま何も言わずにじっとしている。
「兄が、いました」
「そうか」
「兄だと思っていたそれは、兄ではありませんでした。ラディアス様とトリシアンナ様を見て、これが兄妹なのだと思いました」
「家族の形ってのは色々だろ」
「あれは、家族ではありません」
「そうか」
再びラディアスはそう言って黙る。
薄暗い部屋に沈黙が降りる。呼吸音すら聞こえないその空間を破ったのはナズナだった。
「ラディアス様」
「なんだ」
「抱いてください」
「10年はええよ」
「そこをなんとか」
「負からん」
「1年後なら」
「ダメだ」
「2年」
「しつこいな。なんでそんなに俺に執着するんだよ」
何故だろうか、それは当人にも理解の及ばない事だった。
「男性を悦ばせる方法ならば心得ています」
「そういう意味じゃねえ」
ラディアスとて出された膳を頂くことは基本的に躊躇はない。しかし、それ以上に彼らの間にある隔たりはまだ、大きすぎる。
「お前はまだ若すぎる。結論を急ぐな。もっと大人になって、それでも気持ちが変わらなけりゃもう一度来い。今度は酒精の力を借りずにな」
返事は無かった。顔を覗き込むと、ナズナは既に眠っていた。
酒の勢いというやつだろう。明日になれば全て忘れているはずだ。
面倒くさい事になったなぁとラディアスは心の中で思いながら、ここからどうしたものかと頭を悩ませるのであった。
愚直な彼に、少女との約束を破るという選択肢は無かった。
冬の夜明けには少し早い時間、時刻にして午前5時頃に、ナズナとラディアスは同時に目を覚ました。染み付いた習性である。
「帰りましょうか」
「そうだな」
言葉少なにそれだけ言って、二人は立ち上がる。と、ナズナが少しふらついたので、ラディアスがそれを抱きとめた。
「申し訳ございません、まだ少し残っているようで」
「歩けるか?」
「問題ありません」
部屋を出ようとするナズナに、ラディアスは出口付近に掛けてあった自分の外套を被せた。
「その肩だと冬の朝は冷えるぞ。羽織っていけ」
「いえ私は……いえ、ありがとうございます」
夜勤明けらしく眠そうな顔をしたフロントに鍵を返して、まだ明け切らない冬のサンコスタを歩く。
港通りにはこの時間にも関わらず、ある程度の人通りがあった。早朝の漁に出かける者達がいるのだ。
時折ふらつくナズナをその度に支えながら、ゆっくりと警備隊の詰所へ向かって歩く。
薄暗い通りを街灯のか細い魔力光が照らし、潮騒が遠く聞こえる。
雪こそ滅多に降らないが、南国の街といってもこの時間にはひりつくような寒さがある。
石造りの街もどこか冷気を含んだように見えて、皮膚がちりちりと毛羽立つような気配を感じる。
いつもの詰所へと入り、ラディアスは夜勤の者に挨拶をしてから、愛馬である芦毛のアルフォンソを連れ出した。
「目抜き通りは人もいないし、ここから乗っていこう。頼むぞ、アルフォンソ」
答えるように嘶いた愛馬の背中に、ナズナを抱えて跨る。
ラディアスは自分の外套を羽織って俯きがちなナズナの後ろから手綱を握った。
まだ暗いため、アルフォンソはゆっくりと歩く。
カポカポという蹄の音が、石の街にただ響いている。
街を出る時、夜勤の立ち番の二人にご苦労さんとだけ声をかけて、邸へ続く坂を登り始めた。
いつものように探査術を発動したラディアスは、魔力の干渉を感じて胸元を見た。
ナズナが同じ様に探査術を発動して、紫がかった黒い瞳でこちらを見上げている。
「俺がやるって言っただろ」
「今は私が従者です」
「今日は非番だろ」
「住み込みなので」
ああ言えばこう言う。ラディアスはふっと笑って魔術を引っ込めた。
ナズナが体重を預けてくる。黒髪が首元にきて、くすぐったくてラディアスは少し身体を揺すった。
フランコはまだ寝ているので、アルフォンソは二人で厩に繋いだ。
寂しそうに啼く芦毛の馬を二人で慰めて、揃って邸へと戻る。
「ラディアス様、ありがとうございました。その……お見苦しい所を見せてしまって」
「酒のせいだろ。忘れて明日からは元通りだ」
そう言ったラディアスに、ナズナは抱きついた。
「忘れていませんからね。気持ちが変わらなければ、また、来ます」
言って背伸びをして唇を合わせる。借りた外套を投げるように被せて、自分の部屋へと走って戻っていった。
「寝てたんじゃねえのかよ」
右手の親指と中指でこめかみを揉んだ。
おかしい。
他人の感情がある程度読めるトリシアンナにとって、それは一目瞭然な変化だった。
今まで自分へと一心に向けられていた直向きな感情が、その日を境に一部が次兄へと向けられているのだ。気づかない方がおかしいだろう。
それを向けられている次兄の感情も満更ではないのが腹立たしい。なんだ、年の差を意に介さない程の変化とは。
切欠は間違いなくあの合同宴会だろう。そこで何かがあったことは間違いないのだ。
となれば、同じ宴会に参加していた者に聞き込みをして情報を集めるのが得策だろう。
トリシアンナは目の前に展開されている不可解な現象を解明すべく、使用人たちにその無邪気さを利用して事実を暴く事にするのだった。
「あっ、フェデリカ!ごきげんよう」
「トリシアンナ様、どうされました?」
フェデリカはトリシアンナがナズナの次に信頼している侍従だ。世話をしてもらっている時間も長く、聞けば大体の事は答えてくれるだろう。
「ねぇ、フェデリカ。先日の合同宴会、少し詳しくお話を聞かせて頂きたいのだけれど」
誰もを堕とす満面の笑みでお願いしたにも関わらず、フェデリカは焦燥の感情を色に出して狼狽えた。
「えっ!?あぁー、特に何も無かったですよ?私はお酒を沢山飲んでいたので」
それはいつもの事だろう、今更何を言っているのだ。
「困りました。ナズナの様子がその、あの時から少しおかしいので」
心から困っている表情と仕草を演出する。いつものフェデリカならばこれでイチコロなのだが。
「あぁ……そうなのですね。申し訳ございません、トリシアンナお嬢様。私は本当に酔っていて……そうだ、パオラなら知っているかもしれませんよ」
何故か死んだ目を返してくるフェデリカ。
「そ、そうですか、ごめんなさいフェデリカ。パオラに聞いてみますね!」
フェデリカは酒癖が非常に悪い。もしかしたら、そのせいでまた粗相をしたのかもしれない。そこに触れては余りにも可哀想だと思い、早々に退散する。
「あっ、パオラ!少しお話いいですか」
「あぁ、お嬢様。どうかなさいましたか?」
良かった、こちらは普通だ。
「先日の合同宴会でですね」
言った途端にパオラの顔色が変わる。
「み、見てません!私は何も見てませんから!何もしてません!」
そのまま一目散に逃げていってしまう。一体この年の瀬に何があったというのだ。
しかしこれで参加した侍従はナズナを除いては最後だ。あと残っているのは、アメデオと、フランコの息子のニコロだけだ。
彼らは控えめな性格であるため、そこまで情報を得られる気もしないが……それでも手がかりはそこにしかないのである。
ニコロは邸にいることが少ないので、取り敢えずアメデオを探すことにした。
「あっ、ハンネ。アメデオを見ませんでしたか?」
侍従長を見つけて声をかける。この侍従長は邸の中にある、あらゆる全ての事を把握している頼もしい存在だ。
「アメデオですか?今は南の花壇ですが……お嬢様、先日の宴会の話を聞きたいのでしたら、ご遠慮されたほうがよろしいかと」
先に釘を刺される。
「何かあったのでしょうか?」
ならばこの事情通に聞くまでである。
「フェデリカとパオラにはお話を聞きましたか?逃げた?そうですか、まぁ、そうでしょう。お嬢様にお話するような内容ではございませんので」
そこまで言われて聞かないという選択肢も無いだろう。
「ええ、はい。お嬢様の好奇心は痛い程に理解しております。聞きたいのは、ラディアス様とナズナの事でございましょう」
流石ッ!侍従長は話が分かる!
「お嬢様、男女の仲というのは他人が推し量ってはいけないものでございます」
そうきたか。
「ううん、それ以外だとフェデリカとパオラには何か問題があるような気がしましたが」
あの反応は尋常ではない。二人の男女関係だけであればトリシアンナもここまで追求したりはしないのだ。
「彼女たちにもそれ相応の羞恥心というものがございます。……聞きたいですか?お嬢様の命とあらば、話さずにはいられません。本当に聞きたいですか?」
有無を言わせぬ威圧感をかけてくる。
「え、いえ。彼女たちの恥に関わるものであれば聞きません。元々私が知りたいのはそこではないので」
「賢明なご判断でございます。であれば、わたくしからはこれ以上申し上げる事はございませんね」
結局何も分からなかった。これ以上は本人に聞くか、残ったアメデオとニコロに聞くしかない。
聞くなとは言われたが、一応はアメデオと話をしておこうと思って、南の花壇へと向かうことにする。
「あっ、アメデオ」
アメデオは一心不乱に植えてある花の世話をしていた。
繊細な彼は何をするにも一生懸命で、少し人と接するのは苦手だが、頭も良くて優秀な使用人である。
「トリシアンナお嬢様。どうかされましたか?」
ここでいきなり合同宴会の話を持ち出しては警戒されてしまうだろう。トリシアンナは慎重に話を持っていく事にする。
「お花のお世話ですか?まだ寒いのに、大変ですね」
「ええ、今から春に咲く花の準備をしておこうと思いまして。ジュゼッペさんと一緒に種を選別しているところなんですよ」
ジュゼッペは今日は休日である。彼がしているのは、その作業の延長という事なのであろう。
「いつもありがとうございます。いつも邸の周りが綺麗なのは、細かい所に気を配ってくれるアメデオ達のお陰ですね」
この天使の笑みと褒め言葉に堕ちない使用人はいないのだ。
「そんな。勿体ないお言葉です。私達はやるべき事をやっているだけで」
「謙遜しないで下さい。私はいつも感謝しているのですよ。なので、気になることがあったらいつでも言って下さいね」
「ありがとうございます、お嬢様」
ここだ。
「気になる事といえば、アメデオは少し気になりませんか?」
「はぁ、なんでしょうか」
さり気なく誘導してみる。
「この間の合同宴会から、皆なんだか少し変なのです。特にナズナが気になるのですが、何か心当たりはないでしょうか」
その言葉に、大きな反応は示さないにしてもアメデオは戸惑ったような感情を浮かべた。
「そうですね、先の合同宴会は色々ありすぎて……ナズナさんの事は、まぁ、ラディアス様に聞けばよろしいかと。それ以外の事はちょっと私の口からは」
誠実な彼に感謝する。これだけでもかなりの情報量だ。
「合同宴会にはニコロも参加していたのですよね?彼は?」
その名前を出すと、より困った感情をアメデオは示した。
「その事は彼に言わないほうがいいですよ。普段通りに接してあげて下さい」
「……そうですか、わかりました。変なことを聞いてごめんなさい」
「いえいえ、お嬢様が気になさるのも当然の事です。まぁ、その……色々ありますので」
一体彼の身に何が起こったのだろうか。それはそれで気になるが、目下のところ一番気になるのはナズナの事だ。
「ありがとうございます、アメデオ。寒いので風邪には気をつけて下さいね、それでは」
「お気遣いありがとうございます、お嬢様」
一番嘘をつけなくて誠実なアメデオへの聞き込みがこれだった。もう、あとは直接兄かナズナに聞くしか無い。
しかし、一体どこから先に聞くべきか。選択肢によっては破滅の未来が見えて仕方がないのだが。
最も身近にいるのはナズナだ。彼女はトリシアンナの専従であり、望めばすぐに駆けつける。添い寝や入浴の手伝いだってお願いすれば喜んでしてくれるだろう。
だがしかし。
(流石に、言い出し難い)
何かがあったことは事実なのだ。それは間違いない。
けれど、それを直截本人に問いただすことはあまりにも憚られる。
そう、憚られる程の反応なのだ。
具体的に言えば、『ナズナ、あなたは合同宴会の時にお兄様と寝ましたか?』と、そういう意味の事を聞かなければならないのだ。
状況証拠からどうしてもその可能性は浮かんでくる。
言葉を濁す侍従達の反応、朝帰り、そして決定的なのはナズナのラディアスに対する感情の変化そのものだ。
(聞けるわけがないじゃないですか)
そう、聞けるわけが無いのだ。
甲斐甲斐しく自分の世話をしてくれる人相手に、兄と性行為をしましたか?などと無邪気に聞ける子供がいたら、それはもう悪魔そのものだろう。
そんな事、理性も知性もあるトリシアンナにとって不可能な所業なのだ。
(間接的に……そう、間接的に)
それしかないだろう。とはいえ、状況証拠が揃ってしまえばそれはそれで衝撃的な話なのだが。
(ナズナがお義姉さんになる……)
つまりはそういう事になってしまうのだ。
嫌ではない。寧ろ望むところではあるのだが、主従関係を結んでいる関係上、どうにも許されないものではないかというむず痒い感情がどうしても先に来てしまう。
「あぁーッ!」
ベッドの上でごろごろと転がる。どうしようもないこの感情をどう処理すれば良いのか全く分からない。誰か、この答えを教えて欲しい。
「お嬢様、そろそろ夕食のお時間ですが」
ナズナが自室の扉をノックしている。
「あっ、もうそんな時間でしたか。今行きます」
朝からずっと部屋に籠もりきりなのだ。流石にナズナも異変に気付いているだろう。しかし、それはこちらとて同じことなのである。
表面上は平静を装いつつ、後ろに侍従を従えて食堂へと向かう。聞きたい。聞きたくて仕方がない。
「ナズナ」
「はい」
聞きたくて仕方がないのだ。もうこれは不可抗力の範疇だろう。
「ナズナは、好きな人とかいるのですか?」
馬鹿ッ!自分の意気地無しッ!もっとストレートに聞けッ!
「好きな……ええ、いえ」
あー!あーッ!
「そうですか」
言葉に出さなくても分かる。このトリシアンナには感情が見えるッ!この女は!恋をしているッ!
「ちなみに、どこが良いのか教えてもらっても良いですか」
こちらはお相手まで把握しているのだ。
それにしてもこの甘ったるい感情。口や鼻から何かが漏れ出そうだ。
「そうですね、……えっ?私、いるって言いました?」
何故隠す!一目瞭然ではないか!何故隠すッ!
「いや、見たら分かるじゃあないですか。まさか隠しているつもりだったのですか」
このトリシアンナに感情を伴う隠し事は通用しない。全て詳らかにするのだ。
「えっ…?そ、そんな。そんな事は」
あの兄の一体、一体どこが。
「ラディお兄様でしょう?どこが良いのですか」
言ったッ!私は言ったぞッ!もう容赦はしない。こんな、こんな可愛らしい感情をナズナが見せるなんて。鼻血が出そうです。
「お、お嬢様……どうかこの事はご内密に」
よいではないか。我々の仲ではないか。
「勿論。私とナズナ……と、ラディお兄様だけの秘密ですよ」
この言葉が欲しかったのだろう?見ろ、悦びの感情が溢れているじゃあないですか。
「ええ、その……いつも気遣って頂いて、優しい所ですとか。あと、ぶっきらぼうに見えてちゃんと見ていてくれる所とか、それと、本当に大事なところで手を差し伸べてくれる所ですとか」
あっ
あっ
しまった、自分で聞いて自分が傷ついている。
「そうですね、ラディお兄様にはそういう所がありますから」
感情と乖離したこの言葉。これはアインお兄様譲りの力だ。
どうして。自分だけのナズナだと思っていたのに、どうして。
「ふふ、少しお兄様に嫉妬していまいますよ。こんなに素敵な女性に好かれているなんて」
「そんな!私の主はずっとトリシアンナお嬢様だけです!ですからどうか、そのような事は仰らないで下さい!」
ああ、その言葉に偽りは無い。伝わってくる感情はひたむきな愛情。家族に向けるそれと全く同じだ。
しかし、ナズナがラディアスに向ける感情といえばどうだ。
それは家族を超えた別のものにしか見えない。明らかにそれ以上のものを含んだアレだ。
この能力が恨めしい。こんな、こんなに苦しいのならばこんな力など要らなかった!
「すみません、ナズナ。少し食欲がないので、自室で横になりますね。マルコには謝っておいて下さい。明日は必ず食べますと……」
階段の途中で引き返す。ナズナがおろおろとしているが、今の自分にはそれを気遣う余裕がない。
頭の中で反響するのは、ただ、どうして、という言葉のみ。
どうして。
「一体どうしたというのだ。何が起こっているのだ?」
食堂でアンドアインが眉根に皺を寄せる。
「ラディアスは何度も寝坊する、侍従達は上の空、挙句の果てにあのトリシアが食事を辞退するだと?」
間違いなくこれは天変地異の前触れに他ならない。早くしないと取り返しの付かない事になる。
「アンドアイン様。人にはこういった時期がどうしても訪れるものでございます」
侍従長のハンネが嗜める。彼女は全てを悟っているかの如く、いつも通りに泰然と構えているのだ。
「……そうか。済まない、ハンネ。ハンネが言うのであれば問題ないだろう。しかしな……こんな異常事態は今まで経験したことがないのだぞ」
若き次期当主は頭を抱える。
「ご心配はご尤もかと。けれど、これは麻疹のようなものです」
「はしか、だと」
「はい」
「つまり時間が解決するという事か」
「左様でございます」
落ち着きを取り戻した長兄は、右手で顔を拭って言った。
「ならばもう何も狼狽えまい。この家の怪物どもが揃って調子を崩したのでな、私も少し動揺してしまったのだ」
「アンドアイン様もそのお一人でしょう。あなたが落ち着きを取り戻した以上、この家に一つの心配事もございません」
大黒柱とは、泰然と構えているものだ。その自覚はアンドアイン自身がよく分かっている。
「マルコ、ナズナ以外の侍従に言って各々の部屋へと食事を届けてやれ。何を考えていようと、腹は減るのだ。お前の料理ならば喉を通るだろう」
「かしこまりました」
これで良い。アンドアインという存在に求められているものは、こういう事なのだ。
震える手でナイフとフォークを掴み、味のしない食事を楽しんでいる振りをするのだった。
部屋へと届けられた美味しそうな夕食を見て、ぼんやりとトリシアンナは考え事をしていた。
自分はまだ7歳である。専従のナズナも12歳。
一方、一番上のアンドアインは25歳、ラディアスは22歳だ。
既に結婚して双子を産んでいるユニティアは23歳、いつも行動を共にしているディアンナは20になって半年。
思えば随分と年の離れたきょうだいばかりで、それでも身近に感じていた。
ユニティアが結婚して子供が産まれた時、素直に嬉しいと思い、祝福した。
それが僅か数ヶ月一緒にいた侍従が、大きく歳の離れた兄を想っていると知っただけでどうだ。この有様は。
ナズナが自分に向けた強い感情の影響を受けすぎたというのもあるだろう。
その感情が、もっと身近だった次兄に向けられたというのも動揺に拍車をかけているのかもしれない。
せめて兄の相手が殆ど面識の無い相手だったとすれば、ここまで感情を揺さぶられる事は無かったのではないか。
自分は一体どうしたいのか。どうなって欲しいのか。
それが全然分からないのだ。
家族というものが全くわからなかった前世から、いきなり温かい場所へと放り込まれた。
その経験は本当に7年と少ししかないのだから、戸惑うのも無理は無い事だろう。
精神的には成熟していると自認していたものの、この感情の整理がつかない。
経験のない事に、人の精神とはかくも無力なものなのだろうか。
食欲も無し、知性も働かず、已むを得ず眠りという名の逃避に走るのだった。
自分は逃げた。
まっすぐに向けられる感情から逃げたのは間違い無い。
どう向き合えば良いのか分からなかったのだ。
だから、大人ぶって、大人の言葉で、その場を凌いで、逃げた。
『忘れていませんからね。気持ちが変わらなければ、また、来ます』
彼女は寝ていたはずだが、放った言葉は聞かれていた。
勿論その時は聞かせるつもりで言ったのだ。それでも、その言葉は重い。
十も年下の子供に、これだけ魂を動かされた。
女の経験はいくらでもした。それこそ、街の人々に冷やかされる程度には。
だが、それは全てこちらから向けたものだったのだ。
相手からあそこまで直線的に、真っ直ぐに、ストレートに言われた事など、無い。
果たして自分は彼女から再びその視線を向けられた時に、自分も真っ直ぐに向き合えるだろうか。正直に自分の気持ちを伝えられるだろうか。
馬鹿馬鹿しい。今までの自分であればそう笑い飛ばすだろう。
それはつまり、今までそういった感情に対して、自分が傍観者であったという事を証明している。
本当の気持ちとは、何だ。
自分はどうしたいのだ。
それが分からない。
分からない。
酒精に惑わされてと言われればそうかもしれない。
だが、間違いなくこの想いに偽りは無い。
『どこが良いのか教えてもらっても良いですか』
『ラディお兄様でしょう?どこが良いのですか』
敬愛するあの方には全てお見通しだったのだ。どこが?わからない。
言葉ではある程度伝えられたと思う。その言葉も、本心から出た偽りの無い気持ちだ。
ラディアス様。考えるだけで心が締め付けられ、同時に胸の奥が暖かくなる。
トリシアンナ様。思うだけで愛おしく、抱きしめたい程に狂おしくなる。
それは全く別の感情であり、どちらも大切でどちらも捨てられるようなものではない。
どこが?何が?そんなものは、上辺だけのものに過ぎない。
何もかもが大切で、この手から絶対に離したくないのだ。
なのに、その理由がまるでわからない。
家族というものは理解の出来ないものだった。
それが、唐突に手放したくない家族と呼べるものができてしまった。
執着心、だろうか。
けれど、相手を思うが故に、相手の選択ならば全て許してしまえる、そんな気がする。
依存心だろうか。
けれど、相手に負担を負わせることは自分が許せない。
それはなんという感情なのだろうか。わからない。
「では、行ってくる。留守をくれぐれも頼むぞ」
「いってらっしゃいませ、お兄様。同行の皆さんに宜しくお伝え下さい」
兄が冬の近況報告に出発した。
直前まで、トリシアンナはついて行ってこの邸から逃げようかと真剣に悩んでいた。
しかし、やはり王太子殿下の事を考えると迂闊に王都へと向かう事は出来ない。
いくら今、邸の中が混沌としていようとも、この家を潰すわけにはいかないのだ。
あれから、表面上は誰も何も無かったかのように振る舞っている。
心の動きが見えない者にとってはそれは平穏な日常だろうが、トリシアンナにとっては毎日が気の重くなる日々だった。
いずれ慣れる、慣れると自分に言い聞かせて、通らぬ喉に食事を詰め込む毎日。
(もういっそのこと、二人して駆け落ちでもしてくれれば楽なのですが)
その事を想像してぞっとした。
(いやいや、流石にダメでしょうそれは。そもそも逃げなきゃならない理由も無いのに)
家督を継ぐのはアンドアインだ。次男であるラディアスが誰と結ばれようが咎められる事は一切無い。
今の年の差は大きすぎるが、五年、十年と経てばそんなものは関係なくなるだろう。
というか、それ以前にトリシアンナの中に、ナズナや兄のいない生活など考えられないのだ。
(走ろう。動けば忘れられる)
いつものように運動着に着替えて邸の周囲を回る。
今日はナズナが休みの日なので、走るのは自分一人だ。
ラディアスも非番のようだが、今日はまだ表に出てきていない。
昨日は街の酒場で飲んできたようで、随分と帰りが遅かった。寝ているのだろう。
今までであればどれだけ深酒をした日でも夜明け前には起きていた兄だが、ここ最近は今日のような事が増えてきた。やはり、何か精神的な変化があったのだろう。
つらつらと考え事をしながら走っていると、一体どれだけ回ったのか忘れてしまった。
毎日限界が来るまで走っているので、別に周回数は重要なことではないのだが。
息が上がり足が動かなるまで走ってから、のろのろと邸の中へと戻り、階段へ向かう。
吹き抜けの階段を登ろうとした時、丁度ラディアスが奥の脱衣場から出てきたのを見つけた。
「お兄様、おはようございます。珍しいですね、朝風呂ですか?」
「おう、トリシア、おはよう。あぁ、まぁな。なんか昨日飲みすぎちまったみたいで」
首の後ろをボリボリと掻きながら兄は言う。
「それも珍しいですね、程々にしてくださいよ」
「あぁ、分かっちゃいるんだがな。……これから読書か?」
「いえ、素振りです。剣を取りに戻ろうかと」
日課もこなしているうちは色々と忘れられる。精神の均衡を図るためには意外と効果的だ。
「そうか。どうだ、一度打ち込みでもやってみるか」
「打ち込みですか?」
木人か何かだろうか。
「あぁ。訓練用の木剣があるから、それで俺に打ち込んでみろ」
「よろしいのですか?木剣でも当たれば痛いですよ」
「当たればな」
まぁ、当たらないだろう。
「ではお願いします。道具はどちらに?」
「持っていくから表で待ってろ、すぐに行く」
「わかりました」
そろそろ振るだけでは物足りないと思っていた所なので、渡りに舟だ。
「隙があったら打ち込んでみろ」
そう言われはしたものの、泰然と構えた兄には微塵も隙を感じられない。
「お兄様、真面目にやってください。一部の隙もなく構えられたら打ち込み稽古にならないではありませんか」
「おっ、そうか。まだ無理か。それじゃもう少し」
ほんの僅かにちらちらと筋が見えては消える。これでは埒が明かない。
雷撃系第四階位『マニピュレイション』を展開し、ゆっくりになった世界で兄の見せた脇腹へと打ち込む。途端に木剣が弾かれた。
「反応はいいが速度がまだまだだ」
勝手なことを。
立て続けに連撃を放つ。腕を狙い、空かされたそのままに逆袈裟で斬り込む。払い落とされたので脛を狙って水面斬り。下がって躱されたので突き。なんと柄元で受けられて剣が弾き飛ばされた。
打ち込む場所は見えても、斬り込んだ側から全て無効化されてしまう。
「もう一度お願いします」
「よし、来い」
精神を集中し、臍下丹田に気を落とす。呼吸のリズムを悟られないように、中程まで待って鋭い突き、と見せかけて直接相手の木剣を狙う。
がちんと音がして自分の剣が跳ね返された。もう一度。
「闇雲に打ってもダメだぞ」
そんな事は分かっている。
二度、三度と打ち込んだ次の瞬間、気を吐く。
「ナズナと寝たのですか」
僅かな動揺を作り出し、弾かれた剣の勢いそのままに兄の鎖骨へと渾身の一撃を食らわせる。
ばきりという音がして、なんとこちらの木剣は折れてしまった。
「……一体どんな身体をしているんですか」
普通の人間ならば鍛えようの無い場所で、子供の膂力といえど思い切り打ち込まれれば骨折してしまう箇所である。
「はぁ、なんか剣に憎しみと殺気が籠もってると思ったら、それかよ」
兄は叩かれた場所をさすりながら苦笑いを見せた。
「安心しろ、お前の大切な侍従には何もしてねえから。大体、俺があんな年下をどうこうする男に見えるのかよ」
「はい、見えます」
「いや、そこは否定してくれよ」
はー、と言って兄は剣を下ろした。
「まぁ、迫られたのは事実だよ。ちょっと休憩しよう。合同宴会であった事、話してやるから」
ラディアスは何も生えていない花壇の縁に座った。
トリシアンナも折れた剣を持ったまま隣に腰掛ける。
「事の発端はな、セディージョいるだろ、スパダ商会の」
「ああ、サバスのあのお酒を王都に広めた辣腕の」
「そうそう。そいつがさ、ナズナの歳を知らずにその酒を飲ませちまったのさ」
「あぁ……なんだか先が読めました」
時系列通り、順番に話す兄の内容に齟齬は無い。状況証拠とも全て一致している。
「つまり、ナズナは助けてもらったお兄様に感謝して、それが恋心に変わったと」
「酒のせいもあるだろうがな」
12歳の割に随分と精神年齢が高いと思っていたのだが、恋愛に関してはまだ少女のそれであった、という事だろう。
なまじっか男女の関係性を熟知しているだけに暴走したとも思える。
「はぁ、そういう事だったのですね。しかし安心しました。お兄様が少女性愛者でなくて」
「どこで覚えてくるんだよそんな言葉。まぁ、そういう事だ。言えなくて悪かったな」
幼い妹には言い難い事だろう。別にその点に関しては怒っても仕方がない。
「少しスッキリしました。多分お兄様に打ち込めたお陰です」
「はいはい、そりゃ良かったな。二度は通用しないけどな」
「一本は一本です。何かご褒美を下さい」
ここぞとばかりに押しておく。好機と見るや攻め入るのが定石。
「それじゃ、これから俺が非番の日には打ち込みの相手になってやるよ」
「えぇー、それご褒美なんですか?」
「サンコスタで二番目に強い剣士に稽古をつけてもらえるんだぞ、ご褒美だろ」
「相も変わらず脳筋ですねぇ。まあ、それでいいです」
さて、と伸びをして木剣を拾い、邸へと戻る。
「お風呂に入って読書でもします。お兄様もご一緒にどうですか?」
「どっちも遠慮しておく」
本当に、ナズナはこんな兄のどこが良いのやら。
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