第8話 専属侍従
「お姉様!ジョヴァンナ!見つけました!この反応はブラッディボアです!先に行きますね!」
トリシアンナは風圧系第二階位『サス』を使って、踏みつける足元に高気圧のスプリングを次々と発動し、あっという間に二人の視界から消え失せた。
「あっ、待ってよートリシア!全くもう、索敵範囲広がりすぎじゃない?」
ディアンナも地変系第四階位『ランドトランス』によって地面を変形させて、その反動で追いかける。
「お、お待ち下さいお嬢様方!くっ、満たされし血よ!その流れに祝福を!」
置いていかれた侍従のジョヴァンナは、自らに水撃系第二階位『アンプラッド』を発動して必死に走る。増幅された血流量によって一生懸命走るものの、魔術によって急速に加速された者たちには全然追いつかない。
「いた!今日の晩ごはんです!はっ!」
木々の中を飛び回っていたトリシアンナは、中空から下に視える巨大なイノシシ、ブラッディボア――通常のイノシシよりも倍以上の大きさを誇る魔物――に向かって飛びかかる。
引き抜いた白磁のショートソードに風圧系の魔術を載せて、体の回転と共にそれを振り抜いた。
反応する間も無く首を吹き飛ばされたブラッディボア。遅れてその胴体がどう、と地面に倒れ込み、吹き出した赤黒い鮮血が落葉を濡らす。
「やりました!今日は是非とも、この肉で作ってもらいたい料理があったんですよねぇ」
姉にタクトを借りると嫌な顔をされる事が多かった為、仕方なくトリシアンナは街で買ってきた山刀を持ってきていた。
「中々の大物です。これは暫く美味しいお肉が食べられそうですね」
腹を裂き、内臓をバラして骨に沿って食べられる肉を部位ごとに分解する。今や慣れた手順でしかない。
鼻歌交じりに解体しながら、思いついたように吹き飛んだ頭の方を見る。
「あっ、牙も結構育ってますね。これも持っていこう」
とりあえずは肉の解体と冷凍を粛々とこなし、持参した大きな袋に詰めていく。
「いやあ、魔術ってほんと便利ですね。解体から冷凍まで、現場で出来るなんて最高です!」
元気に処理を終えて、ついでに大きな牙を2つ、『エアソー』で切り落として小脇に抱えた。
「いやいや、いくらなんでも流石に手慣れすぎでしょ。どんだけ適応してんのよ……」
追いついてきた姉が呆れたように呟いている。
「これだけ狩ればそりゃあ慣れますよ。ほら、お姉様!今日はボア肉料理をマルコにお願いしましょう!実は前から試してもらいたい料理があってですね」
「お待ちください~、お嬢様~」
侍従のジョヴァンナが息を切らせて走ってきた。どうやら普通に走ってきたらしい。
「ジョヴァンナ!見てください!大物ですよ!今日はボア肉の料理にしてもらうので、ジョヴァンナも食べてくださいね!」
息も絶え絶えに走ってきた住み込みの侍従、ジョヴァンナは、膝に手をあてて大きく喘鳴している。
「お、お嬢様方。もう少し、移動を手加減して頂けると、ですね」
そういえば彼女は街で良い男性を見つけて、そろそろ結婚しようかと言っていたのだ。あまり無理をさせては気の毒だろうと、物凄く申し訳ない気持ちになってしまった。
「あっ……ごめんなさい、ジョヴァンナ。今日はどうしてもブラッディボアが欲しくて。でも、大丈夫です。今日はこれで終わりにしましょう。さあ、帰ってマルコにお願いしなくては!」
肉と牙を入れた袋を担いで、残った巨大な毛皮を指さして姉に言う。
「それじゃあ、お姉様。ボアの毛皮は質とかどうでもいいんで、お姉様が運んでください。帰りましょう!凱旋です!」
「はいはい。ジョヴァンナ、大丈夫?なんなら一緒に転がっていく?」
恐ろしい提案をするディアンナに、侍従は首を振ってとんでもない、と言って立ち上がった。
どうにか歩いてついてくる侍従に、ディアンナは不憫になって声をかけた。
「あの子、最近ワイルドさに磨きがかかってきたわね。付き添いが厳しいなら断っても良いのよ?ぶっちゃけ、アレについていけるの私ぐらいだから」
「……少し考えさせてください」
ジョヴァンナは侍従という職にしては極めて稀な魔術の才能を持った人材であり、並の人間よりは遥かに適応能力の高い人間である。だが、しかし。
「やめないでね?ジョヴァンナみたいな人なんてそうそう見つからないんだし。嫌なら他の人に代わってもらうから。お願い」
「……大旦那様にお話して頂いてもよろしいですか?」
当然の申し出に、ディアンナも断ることは出来ずに頷くしか無かった。
一年経ち、サンコスタも大きくは変わらないものの、徐々に成長を続けている。
一方で成長極めて著しい領主の娘は、周りを振り回す力も相応に成長していた。
「あなた、最近のトリシアの事なんですけれど」
遅い朝食後の食堂で母、マリアンヌが言葉を発した。
当人であるトリシアンナは早々に食事を済ませ、部屋に戻って読書をしている時間だ。残っているのはその他の家族と、周囲にはジョヴァンナを除く住み込みの侍従のみ。
「どうした?トリシアは毎日元気にしているようだが」
この父は末娘が元気であればそれで良い、という感覚なのだ。
「元気過ぎるのです。毎日毎日裏山を駆け回って……昨日なんて、ブラッディボアを仕留めたと笑顔で私に報告してきて、大きな袋いっぱいの肉を」
「おお、そうか。昨日出たボア肉はトリシアの仕留めてきたものだったのだな。いやあ、あれはなかなか……」
「感心している場合ではありません!」
マリアンヌの言葉に、食後のお茶を飲んでいた全員がびくりと肩を竦ませる。
「まだ7歳になったばかりだというのに、嬉々として野山を駆け回るなんて。おまけに仕留めてきたボアの肉を調理法までマルコに指示して……」
「おっ!昨夜のあの料理はトリシアが考えたものなのか!いやあ、美味かったな!薄切りにしてビーンズソースとジンジャーに漬け込むだけで、あんなに柔らかくて美味い焼肉が出来るとは」
夕食に出てきたボア肉の薄切りを思い出してラディアスが声をあげた。
「ラディ。少し黙っていなさい。料理の話はどうでもいいのです。問題は、あの子が活動的過ぎることなの」
マリアンヌが憂いを込めて俯く。
「あの子が才能にあふれている事は理解しています。けれども、貴族の子女たるものが野山を駆け回って魔物を狩り、あまつさえ現地で解体処理までしてしまうというのはどうなのでしょう」
「魔物狩りなら私もしてるけど……」
口を挟んだディアンナにじろりと視線を向ける母。
「年齢が違いすぎるでしょう。あの子は7歳になったばかりなのですよ?なのに、剣を振り回して裏山を走り回り……最早ついていけないという侍従の苦情もあるのです」
「あっ!あー……」
昨日のジョヴァンナの言葉を思い出して、ディアンナは言葉に詰まる。
「確かに、このまま安全管理の為とはいえ今の侍従をあの子に付けておくのは厳しいかもしれないな」
アンドアインが呟く。彼自身、妹の実力をつぶさに見ているが故の感想なのだ。
「トリシアには誰か、専従の者を付ける必要があるかもしれないな。とはいえ」
当主ヴィエリオも渋い顔をしている。
「あの子についていける者を雇うとなると……冒険者であれば階梯5は必要になるだろうな。その上で貴族の侍従としての教育を施し、専従させるとなると……」
貴族に付き従う者の教育にはある程度の時間がかかる。更に、その上で実力があるとなれば、冒険者と言えどもわざわざここに来るという人材など、早々見つかるものではない。
「悩ましいな。とりあえず、あの子が裏山に出たいと言った時の付き添いは、通いの者にも回すとしよう……」
住み込みであるフェデリカとジョヴァンナの二人では流石にもう限界がある。侍従長のハンネであれば問題なくついていけるであろうが、邸の采配を疎かにするわけにもいかない。
今更になって『誰かを付ける』といったトリシアンナへの制約が、こちら側への制約へと変わる事となるとは、誰一人思わなかったのだ。
早々、都合良い人材が手に入る訳でもない。領主は要望と報酬を纏めたものをサンコスタの冒険者協会に出すべく、頭の中を整理するのであった。
サンコスタ都市警備隊第一隊長である、ラディアス・デル・メディソンの日常は変わらない。
早朝に愛馬であるアルフォンソに乗って街に出ると、彼を詰所の厩に預けて、当番の者たちを連れて巡回に出る。
港通りまで出て、東西の問題を解決しつつ街壁までの道を辿り、治安の悪い場所に睨みを効かせながら戻る。一旦休憩して、再び東西の大通りを巡ってから戻り、昼休みだ。
ある程度のルーティンワークになっているとはいえ、人の多く騒がしいサンコスタの街は毎日違った問題を次々に吐き出す。それに対処するのが、都市警備隊の仕事の一つでもあるのだ。
昼食を終えたあとに午後の港を巡回していたラディアスとその一行は、一つの小さな案件にぶち当たった。
「誰か!そいつを止めてくれ!密航者だ!」
スパダ商会の船だ。その貨物部から人の合間を縫って、素早く駆け抜けてくる小さな影が一人。
周囲の人間は通り抜けたそれに反応こそするものの、気付いた時にはその姿が視界から消えている。明らかになにがしかの訓練を受けたものの動きだ。
「旦那、あれって」
「おお、速いな」
右に左に、その身を躱しながら凄まじいスピードでこちらへと向かってくる。こちらも抜けるつもりだろう。
「ま、そう慌てんな」
左右にフェイントを放って自分の脇を抜けようとしたその黒装束の首根っこを、事もなげに捕まえる。
圧倒的な速さこそ目を引くものがあるが、ラディアスにとっては簡単に読めるものであって、捕獲には何も問題は無い。
「離せッ!」
ひっ捕らえて初めに聞こえたのは少女の声。
息を切らせながら追いついてきた男は、割と見知った東方諸島への貿易を主としているスパダ商会所属の船員だった。
「はぁっ!はぁっ!……ラディアスの旦那、すんません。そいつ、どうも貨物に潜んでいたようで」
「おう、密航か。この子はこっちで預かるからお前さんは戻っていいよ。姉貴には言っておくから」
「助かります。いや、ラディアスの旦那で助かりましたよ」
海の男は一礼してすぐに戻っていった。まだ仕事が残っているのだろう。
「離せッ!離せと言っているだろう!」
襟首を掴まれたまま少女は喚き散らしている。とはいえ、自分の力を振り払う程ではない。
「落ち着けよ、お嬢ちゃん。密航ってな一応は犯罪だって分かってんだろ?どうするかはさて置き、詰所まで来てくれるかな」
言っても黒装束の子は離せ離せと暴れたままである。しょうがねえなあ、と、そのまま小脇に抱えたまま詰所へと戻る事にした。
この状況に何か覚えがあるなと思ったら、暴れる妹を抱えてスパダ商会へ行った時の事だった。
「ええと、それじゃあ名前を聞かせてくれるかな」
詰所の入口脇、応接室となっている部屋の中で、見た目から割と女の子にモテる、優男の部下のウェインが少女に聞く。
女性に対する尋問にはまずこの男を使うようにしていた。顔が良いというのは実に便利なことだ。比較的スムーズに話が進むことも多い。
とはいえ、彼自身がその後のことはあまり考えていないので後始末は割と大変なのだが。
黒装束の少女は黙っている。密航であれば身元を明かしたくないのは当然だろう。
「東方諸島の子かな。別に名前を聞いたからって本国に問い合わせたりしないから、教えてくれ。それは約束する」
密航者というのは基本的に経歴に傷のある者たちばかりだ。自ずとその身分を明かすことで、重犯罪者であれば本国に戻されたり協定によって引き渡されたりしてしまう。
しかしながらサンコスタはその土地柄上、領主は外国民に対する処分をかなりの部分王国から認められている。直轄組織となる警備隊にも、当然その権限はある。場合によっては逃亡犯罪者を匿うことだって出来てしまう。
「……ナズナ。ナズナ・コウヅキ」
「コウヅキ、だと」
立会をしていただけのはずの総隊長が声を上げる。
「お前さん、コウヅキ家の忍びなのか?なんで密航なんて」
「おやっさん、知ってるんすか?」
「知ってるも何も、東方諸島じゃ名のある忍びの家系だぞ。歴代の諸侯に護衛を派遣してる、由緒ある家のはずだが……まさか抜け忍か?」
その問いに少女は首を振る。
「抜けたわけではない。けれど、あちらにいたら殺される」
随分とまぁ物騒な話だ。
「わかんねえな。よりによってコウヅキ家の娘さんが殺されるって?」
「待ちなよ、おやっさん」
少女が思い詰めて密航までするのだ。相応の理由があるのに間違いは無いのだろう。
「ここにはあんたをどうこうするような奴はいない。密航してきた理由だけ話してくれないか?仮にあんたが東方諸島で何してようが、こっちは別の国だ。どうとでも隠し通せるからさ」
交易があるとはいえ、王国と東方諸島は別の国家だ。逃れてきた者に重犯罪者以外での引き渡し条約など無い。
「確かに、私はコウヅキ家の者だ。家督は……兄が継ぐことになっていた」
俯きながら少女は訥々と語りだす。その内容とはこうだ。
代々東方諸島の各諸侯に護衛、兼側仕えを排出してきたコウヅキ家の隠れ里では、数年に一度、次の家督を決める実戦試合が行われる。
後継者候補の数人から十数人が山林を舞台に、生き残りの戦いを行うのだという。
無論、判定の者があちこちで見ているために命を取るまでには滅多に至らないが、事故で亡くなる者も稀に出るという、相当に過酷な生存試合らしい。
彼女はコウヅキ家の次女であり、下に妹が一人、上に姉が一人と兄が三人いると言う。
そのうち次期後継者候補と言われているのが長男のキリカゼだった。
判定では、キリカゼが他の弟妹達を全て打ち倒し、最後まで残ったのが、このナズナという事になっている。
「本当は、3日間かけてキリカゼ以外の兄は私が倒した。最後に残った兄と対峙したのは山頂付近の開けた場所だった。私は水遁が得意で、キリカゼは土遁が得意だ。単に相性の問題でもあったのだろう」
1時間にも渡る死闘の末、勝ったのはナズナだった。しかし、ここでも判定の者達は、キリカゼの勝利と現当主に伝えたのだ。
「私は不服だったが、どうせキリカゼが後を継ぐ事は最初から決まっていた事だ。黙っていれば良いと思っていた。だが」
身の回りで異変が多発した。急な落石、食事に毒。忍びである以上、勘付いたナズナはどうにかそれらを回避し続けたが、しかし、ある任務の最中に里の忍びに集団で襲いかかられ、流石にこれには勝てずに命からがら、身一つでサンコスタへの貿易船に忍び込んだのだという。
「私が黙っていたとしても、連中は不安だったのだろう。いつか試合の事を持ち出される前に始末しようという腹積もりだったのだろうな」
「コウヅキでも跡目争いかよ。全く、どこの世界も人間って奴ぁ変わらねえな」
少女に似つかわしくない、壮絶な話にカネサダは唸った。
「まいったなぁ。それじゃナズナちゃん、本国に返すわけにはいかないですよね」
話を聞いていたウェインも天を仰いで言った。
語り終わったナズナは、項垂れていた頭を更に低く下げて唐突に言った。
「恥を忍んでお願いする。この街で、どこか働き口を紹介してくれないか。ただ生活出来るだけの金が稼げれば、なんでも良い。何でもする」
「働くっつっても、12歳じゃねえ……身元をあかせない子供を雇いたいってとこがどんだけあるか……」
ウェインは困ったように顎を掻いている。
「なあ、ナズナ。お前さん、港で動きを見たが、結構な鍛錬を積んできたんだろうな」
「え?ああ。それは忍びだからな、当然だ」
ラディアスの唐突な質問に、戸惑いながら答える黒髪の少女。
「そんで、コウヅキ家ってのは護衛兼側仕えを諸侯に排出してると」
「そうだが、何か?」
ラディアスはにんまりと笑って言った。
「なんでもするって言ったよな。じゃあ、俺の家で働いてみないか」
「っ……そ、それは」
急に下を向いたナズナ。その仕草にラディアスが首を捻っていると、カネサダが横からげんこつを食らわせた。
「馬鹿野郎!そんな言い方じゃ誤解するに決まってんだろうが!相変わらずアホだなお前は」
「えぇ?どういう意味っすかおやっさん」
「説明が足りねえって言ってんだよ!ちゃんと説明しやがれ!」
「え、ああ。そうっすね。でもなんで殴ったんですか」
「全くお前って奴は……」
もう一度拳を握りしめたカネサダから逃れるべく、慌てて詳しい話を始めるラディアス。
「あぁ、つまりだな。俺の実家はこの辺一帯の領主なんだよ。んで、丁度一人、住み込みの侍従が通いになりそうで、人が足りてないんだ。要は、うちで住み込みの侍従として働いてみないかって事だよ」
特に複雑な話ではない。渡りに船というやつだ。
「あ、そ、そういう意味か。良いのか?私は今ほぼ無一文で、泊まる所の代金も払えないのだが」
「問題ないぞ。給金は住み込みも通いも同じだが、住み込みの者はいつでも邸にいる関係上仕事が少し多くてな。それもあるから別に宿泊費なんざ取っちゃいない。侍従の服も支給だし、食事も三食出す。どうだ」
「そ、それならば是非頼む。いや、宜しくお願いします」
「交渉成立だな。よし、それじゃあ俺の仕事が終わるまでここで待っていてくれ。邸は街の外、少し離れた所にあるから、帰る時に一緒に行こう」
「承知しました」
ウェインとカネサダに、じゃあ、そういう事だから、と応接室を後にする。近くを歩いていた警備兵の一人に、応接室に簡単な食事と飲み物を持っていくように言付けると、待っていた警らの第一隊と連れ立って、再び巡回警備に出て行くのであった。
幸運だった。
命からがら逃げ出して海を渡り、見知らぬ街で物凄い力の警備兵に捕まった時はどうなる事かと思ったが、まさかその警備兵がこの地方の領主の子だったとは。
住み込みの仕事という事は、少なくとも雨風を心配する必要が無いという事だ。
里で任務をこなしている時は、野宿など日常茶飯事だった。それと比べれば雨露を凌げるだけでも天国のようなものだ。
侍従というのは側仕えのようなものだという。見つかったら殺されるような、殺伐とした今までの生活とは違う。
座り心地の良い椅子でじっと待っていると、部屋の扉が叩かれ、一人の男が軽食と飲み物を持って入ってきた。
食べた後は横になっていても良いから、と、その男は一方的に告げると出ていった。
彼も警備兵なのだろうが、それにしてもこの街は随分と豊かなものだと感じる。
目の前に並んでいるのは、あまり食べる機会の無かったパン。間に魚の酢漬けや燻製した肉、卵を茹でて潰したもの等が挟んである。
今まで住んでいた所でこれだけの物を食べようと思えば、それなりの金を払わなければいけないのだが、無償で提供するとは、ここが警備兵の詰め所というのは俄には信じられない。
今座っている椅子や机にしたって随分と高級な品に見えるし、そういえば連れられてきた街中も、住人達の表情を含めて随分明るい雰囲気だった。
統治が良いのだろう。
自分のいた国でも、諸侯の政策によって地域の空気というのは全然違う。
里があった通称本島と呼ばれている地域はまだマシなほうだが、一度任務で北部地域に訪れた時には、そこに住む住民達の貧しさに随分驚いたものだった。
置いていかれた軽食を、折角だからと口に入れる。
小麦で作られた柔らかなパンと、塩気と酸味の強い魚がよく合う。
燻製肉は一度焼かれたのか、少し焦げた部分がカリカリしていて香ばしい。
潰した茹で卵にはほんの少し香辛料が混ぜ込んであり、優しい卵の味に心地良い刺激を追加している。
船旅で口にしたものといえば携帯している固形糧食だけだったので、きちんと調理されたこの食事は、涙が出そうなほどに有り難かった。
皿の上を全て綺麗に平らげて、隣に添えてあった柑橘の果汁も飲み干した。
満腹になった安堵感から、強い眠気を感じる。
先程の男は横になっても良いと言っていた。遠慮なくお言葉に甘えさせてもらおう。少なくともここにいる間は、追っ手に怯える必要もない。
柔らかく押し返してくる長椅子に横になると、暫く振りに揺れない場所での眠りへと落ちていった。
部屋がノックされ、がちゃりと扉が開かれる。
ナズナは反射的に飛び起きて構えると、腰の後ろに手を回し、短剣……は、無かった。
「お、いい反応だな。ほれ、お前さんの得物」
扉を開けて現れたラディアスは、驚くでもなく、鞘に収まった一振りの短剣を投げて寄越した。
「ラディアス殿、これは失礼を」
短剣を受け取って腰の後ろに差すと、頭を下げて非礼を詫びた。
「多分それ、習性なんだろ。身についたものはそうそう消えるもんじゃないからな。俺も未だに夜明けと同時に目が覚める癖がついちまってるし」
巨漢の男はそう言うとわははと笑った。
「仕事終わったから帰ろうぜ。戻って皆に紹介しないとな」
踵を返したラディアスに、ナズナは慌ててその後を追いかける。全く動じないお方だ。
厩から一頭の芦毛を連れてきたラディアスに並んで歩く。街の北側を出るまでに、彼は随分と色んな人々から声をかけられていた。
「街の民から、随分と信頼されているようですね」
歩きながら話しかけてみた。
「お?そうか?まぁ、俺はこの街じゃ割と有名人だからなぁ。そうでなくても毎日歩き周ってるし、顔見知りも自然と多くなるさ」
「私の国では、警備兵は民達に恐れられていました。少しでも無礼なことをすれば、すぐに牢に入れられてしまうので」
治安自体は悪くなかった。だがそれは、単純に警備兵が恐ろしかったからだ。ここの様に気軽に挨拶をするなど以ての外だった。
「なるほどなぁ。まぁ、恐怖も犯罪抑止にはなるだろうが……あんまり抑圧すると反動が来るからなぁ」
そうだろうか。反旗を翻す気骨など、殆どの民には無いものだろう。
「それ以前に、俺はこの明るくて楽しい雰囲気の街が好きなんだよ。だから住民と一緒に楽しく仕事して、それで治安が守れりゃより良いだろ。勿論、盗みや喧嘩はどうしても発生するからその時はとっ捕まえるけどよ」
「そうですか。そうですね」
理想だとは思うが、実際にそれが出来ている以上、この街では彼のやり方が正解なのだろう。
門の外に立っている警備兵にラディアスは、夜勤おつかれさんと声をかけて、牽いていた馬の額を撫でる。
「アルフォンソ、悪いけど二人乗っけてくれな」
言ってからナズナの両脇に手を入れると、ひょいと軽々と持ち上げ、馬の背に乗せた。
自分は軽い方だとはいえ、上半身の力だけでもとんでもない剛力だ。
ラディアスはそのまま鐙に足をかけてナズナの後ろに跨ると、手綱を軽くしごいて馬を促した。
芦毛のアルフォンソは両耳を一つくるりと動かすと、ゆっくりと歩き出した。
踏み固められた土の道の上を、静かな蹄の音を響かせて登る。軽く上下に揺さぶられながらナズナは周囲に気を配っていた。
水遁第三階位『ミストファインダー』を展開し、近づく魔物がいないかを探る。
「……?」
地表付近に何か干渉するものがあり、訝しく思って探ってみる。どうやら術同士が干渉しあっているようだ。出どころは……
「えっ」
「おっ」
後ろからだった。
「なんだ、ナズナも探査術を展開していたのか。わはは、常在戦場ってやつか?」
「ラディアス殿、こういった事は従者の仕事なのでは?」
「まだ正式には違うだろ?船旅で疲れてるだろうから、ここは俺に任せとけ」
後ろから頭を撫でられた。どうにも子供扱いされているようで座りが悪い。
しかし、今後世話になるのはこちら側なのだ。無理に命令を無視するのはあまり良い事ではないだろう。
「承知しました」
短く返事をして前を向いた。
「邸にいるのは、俺の両親、兄貴と、妹が二人だ。もうひとり姉がいるが、そっちは街の商会に嫁いでいてな。たまに帰ってくるが、基本的に邸にいる家族は俺を含めてその6人だけだ。ナズナには、下の妹、トリシアンナの専従になってもらおうと思っている」
「妹君ですか。おいくつで?」
「7つになったばかりでな、元気が良すぎて周りが振り回されているんだ」
「左様ですか。元気なのは良い事です」
領主の娘という事はつまり、この国の貴族の子である。ならば、元気が良いと言っても精々の所、邸を走り回るとかその程度だろう。
自分にも3つ年下の妹がいたが、その時分は良く走り回っていたのを覚えている。
「専従とは、具体的に何をすればよろしいのでしょうか」
基本的に側仕えは、一人にずっとついて回るものだ。それと似たようなものだろうか。
「そうだな、基本的には外出時に一緒について回るのが主な仕事になるだろうな。後は、本人が呼んだ時に色々と手伝ってやってくれるとありがたい。それ以外は他の侍従とやることは同じだな」
「なるほど、寝所まで一緒にするわけではないのですね」
忍びの護衛は常に主人の近くに控えておくものだ。時には求められるまま、主に身体を差し出したりすることもあるが、女の子であればその心配も無いだろう。
「あー、まぁ、あの子が一緒に寝てくれとでも言い出せば別だが、それはないだろうな」
「7つなのですよね?お母上とは?」
「5つの頃から自分の部屋で一人で寝てるよ。なんていうか、精神の年齢が高いんだ」
「はぁ……賢いという事でしょうか」
「賢い賢い。そりゃあもう俺なんか話にならないぐらいだよ」
「えっ?」
見た所ラディアスは20前後ぐらいの年齢に見える。それよりも7つの子が賢い?
ナズナは少し混乱してきた。割の良さそうな仕事と見て飛びついたが、本当に大丈夫だろうか。
元気で賢い。それだけ見れば結構なお子ではないか、とは思うのだが……。
「ほら、ついたぞ。ここがサンコスタ地方領主メディソン伯邸だ」
ラディアスは手綱を持ったままナズナを片腕で抱き上げて、そのまま地面に降り立った。一体どういう鍛え方をすればこうなるのか。
「ラディアス様、お帰りなさいませ。そちらのお嬢さんは?」
蹄の音を聞いたのか、一人の男が近寄ってきた。
「ああ、フランコ。ただいま。トリシアの専属侍従を連れてきたぞ」
「おやまあ、なんと。歳も近そうだし、トリシアンナお嬢様もお喜びになるでしょうな。フランコです、よろしく」
「ナズナ・コウヅキです。宜しくお願い申し上げます」
人の良さそうな男はラディアスから手綱を受け取ると、アルフォンソを連れて邸の西側へと歩いていった。
「フランコはこの邸で厩番をしてくれている。勿論それ以外の仕事も色々できるけどな」
馬がいるのだから当然馬の面倒を見る人間もいるだろう。とはいえ、流石に貴族の邸なのだなと改めて感心した。
ラディアスは大きな木製の扉を片手だけで開け、ナズナを中へと誘う。
広いロビーに圧倒されていると、丁度階段を小さな子が降りてきた所だった。
「ラディお兄様、お帰りなさい。そちらの方は?」
歳の割に随分と言葉遣いがしっかりとしている。これが話にあったトリシアンナという子だろうか。
「トリシア、お前の専従になってもらう予定のナズナだ。仲良くしろよ」
女の子は顔をぱっと綻ばせて、ナズナに近寄ってくる。
(……か、可愛い……!)
流れるようにサラサラとした金髪、小さな顔に収まった大きな瞳がキラキラとこちらを見つめている。
身につけている白い服は如何にも貴族のお嬢様然とした、上品で質の良さを伺わせるもので、人形のように整った顔立ちの彼女に余りにも良く似合っている。
とても同じ人間とは思えない。
それに比べてこちらは、ボサボサの黒髪を適当に後ろで結んだだけな上に、忍びの黒装束そのまんまの格好である。
あまりの落差に、恥ずかしくて穴に入りたくなってきた。
「よ、宜しくお願い申し上げます。ナズナ・コウヅキと申します」
どうにか挨拶をすると、彼女――トリシアンナはこちらの手を取ってにっこりと微笑んだ。
「宜しくお願いしますね、ナズナ。トリシアンナ・デル・メディソンです。歳の近いお友達が出来て嬉しいです!」
天使だろうか。
何故か鍛えあげられた戦士のような手のタコこそ気になるが、全てを破壊するような可愛らしさの前に頭がくらくらする。
「トリシア、悪いがちょっとハンネを呼んできてくれないか」
「わかりました!」
少女は身を翻すと、その身に見合わぬ敏捷さで奥へと駆けていった。白い服と長い金髪がひらひらと舞って眩しい。
「……きちんとお仕えできるか、今から不安になってきました」
「お?そうか?流石によく見てるなぁ」
何故かラディアスは感心している。意味がよくわからない。
「お呼びですか、ラディアス様……おや、その子は」
だいぶ年かさの侍従が、トリシアンナの消えていった方から現れた。
「新しい侍従だ。実力は俺が確認した。まずは身支度を手伝ってやってくれ」
「ナズナ・コウヅキと申します」
「コウヅキ?……いえ、失礼。侍従長をしているハンネです、宜しく。まずは浴室で身体を清めて、それから服をお渡しします。こちらへ」
コウヅキの名を知っているのだろうか。少し不安に思ったが、大人しく後ろについていく。連れて来られたのは広い脱衣場だった。
「こちらで髪と身体を洗ってきて下さい。石鹸はどれでも自由に、髪用の洗剤は名前の書いていないものを」
手ぬぐいを渡されて困惑した。
「こちらは領主様のご家族が使われる浴室では?私が使っても?」
ハンネはにっこりと微笑んで言った。
「浴室はここに一つしかありませんからね。私ども住み込みの使用人も使わせて頂いています。勿論、皆様のご利用の後にですが。今日はあとご使用になられていないのはラディアス様だけですので、大丈夫ですよ」
「は、はぁ、それではお言葉に甘えて」
本当に良いのだろうかと訝りながらも広い浴室に入り、髪と身体を念入りに洗う。船旅の汚れが一度に落ちていくようで、出る頃には随分とさっぱりした気分になった。
脱衣場に出ると、足元に先程のハンネが着ていたものと同じ様な服が畳まれて置かれていた。下着も靴下もある。
(下着も指定されているのかな)
何にしても着替えの心配をしなくても良いのは助かる。着の身着のままだったので、黒装束と下着しか身につけていなかったのだ。
(あれ?そういえば短剣……)
着替え終わって廊下に出ると、ハンネが待ち構えていた。
「返しておきます。ただし、基本的に邸の中では抜かないように」
「えっ……いつの間に」
渡された短剣に驚く。黒装束を脱いだ時点では既に無かったようなので、気付かないうちに取り上げられていたのか。
まだ12とはいえ忍びの訓練を受けたものから気付かれずに武器を取り上げるなど、並の技術ではない。この侍従長は、一体何者なのだろうか。
「こちらへ。領主様と奥様、アンドアイン様にご紹介します」
ハンネはさっさと行ってしまう。慌てて後を追いかけた。今日は後を追いかけてばかりだ。
「ハンネです」
「どうぞ」
ノックした扉を開けて中へと入る。魔力照明の照らす執務室の中に、三人の人間がいた。
「ほう、その子か」
「はい。ナズナ」
慌てて前に出てナズナ・コウヅキですと挨拶をする。
「あら、可愛らしい。いくつ?」
上品な御婦人が微笑んで問いかける。
「12です、奥様」
「まぁ。トリシアとは5つ違いね。仲良くしてあげてね」
「は、はい」
少し戸惑いながらも返事をすると、脇に居た若い男性がハンネに声をかけた。どことなく顔立ちがラディアスに似ている。
「ラディが連れてきたと聞いたが、コウヅキとか」
「ええ、間違いないようです」
不安がぶり返す。ひょっとして実家に連絡されたりなどしないだろうか。
思っていたよりもこの地方にはコウヅキの名前が知られているらしい。代々続く名家とはいえ、護衛にしか過ぎない忍びの家系が何故。
「ああ、心配しなくても良い。君の実家に連絡したりはしないからな。折角手に入れられそうな有能な人材を手放すつもりは無いよ」
心を見透かしたように、若い男性が表情を和らげて言った。この人が侍従長の言っていたアンドアインという人だろう。
なんにしてもほっとした。一番の懸念が、実家に引き渡される事だったからだ。
「さて、実務的な話をしよう」
机に座った壮年の紳士が口を開いた。紛う事無くこの方が領主様だろう。
「第一に給金だが、月に一度、最初の日に5ガルダ払う。今日は丁度月の半ばなので、まずは半額渡すつもりだ。侍従服は支給、洗っても落ちないぐらい汚れたり破れたりしたら言ってくれ。休みは週6日のうち2日。他の者との兼ね合いもあるので、ハンネと相談して前月の半ばまでには決めてもらう」
休みがある?しかも6日のうち2日も?いや、それ以前に月に5ガルダと?12歳の自分に?前払いで?意味がわからない。
故郷の国と通貨こそ違うが、金貨や銀貨の価値はほぼ同じだ。1ガルダもあれば一月の間、特に苦もなく生活できるほどの金額なのだが。
余りの待遇に混乱している中、領主は話を続けている。
「食事は3食。我々の食事の合間に控室か自室でとってくれていい。風呂も同じく、我々が使っていない時は自由だ。部屋についてだが……」
今、自室と言ったのか。側仕えにわざわざ個室を?
「今、一人住み込みから通いに変えようとしている者がいてな。その者の荷物を運び出すまでは、暫く客間の一つを使っていて欲しい。まずは、ここまでで何か聞きたいことはあるかね」
聞きたいことだらけである。
聞きたいことだらけなのではあるが。
「いいえ、ございません」
勝手に口が喋った。
「そうか、では、仕事の内容についてだが……聞いているかもしれないが、君には末娘の、トリシアンナの専属侍従になってもらいたい」
あの天使のような子の。
「普段の仕事はハンネや他の侍従、使用人に教わって欲しいが、やることは基本的に家事の延長のようなものだ。炊事の補助、給仕、洗濯、清掃、それからまぁ、諸々の雑事だな」
その点は全く問題は無いだろう。忍びは基本的になんでも一人で出来なければならない。多少その範囲が広くなったところでどうという事はない。
「問題は、トリシアンナの付き添いなのだが」
「喜んで任務を全う致しましょう。是非にでも。宜しくお願い致します」
深く頭を下げて即答する。天国に天使がいて一緒に過ごす事が出来るなど、拒否する必要性を全く感じない。
「そ、そうか。快く承諾してくれて助かる。あの子は少し活発でね、苦労をかけることになるとは思うが……」
「何の苦労がありましょう。このナズナ、命を掛けて皆様方にお仕えする所存でございます」
思わず跪きそうになったが流石にそれは我慢した。ここは故郷ではないのである。
高額な報酬、衣料の支給、寝床に食事までついてきて天使のお世話である。ああ、密航してきて本当に良かった。思わず涙が出そうになった。
心なしか領主様も奥様も、アンドアイン様もほっとしているように見えた。
翌日から早速、侍従長と他の侍従についてまわって邸内の仕事を教わる。
まずは給仕。座っている方に皿を出す位置から料理ごとの向きに至るまで、意外と細かく決められている事に驚いた。しかし、これは単に覚えてしまえば良い事でどうという事は無い。
提供の順番なども至極当然の事で、改めて教わるほどの事でもなかった。
料理長に指示されて行う調理の補助も、短剣の扱いに慣れた自分にとっては容易い事だ。
少し量の多い洗い物とて、手元で水を豊富に使えるという恵まれた環境の前では苦になろうはずもない。
洗濯と清掃は、量と広さがあるため少し大変だ。
洗濯物には貴族の衣料品らしく繊細なものが多く、洗い方や使える洗剤の種類などを細かく覚える必要がある。
清掃もただの掃き掃除や拭き掃除だけならば兎も角、階段の手すりを磨いたり窓枠の細かい部分の清掃と、これも覚えることが多い。
一通りの仕事を終えて、昼食後に使用人の控室で休憩していると、先程一緒に掃除をしていた通いの侍従、パオラが焼き菓子を持って入ってきた。
「お疲れ様、ナズナちゃん。いや、仕事覚えるの早いねぇ」
「パオラさん。お疲れ様です。いえ、大抵の事は一人でやっていたもので……その延長のようなものですね」
「そっかぁ、その歳でねぇ、偉い偉い。戦力が増えてありがたいよ」
侍従の仕事も戦力と呼ぶのだろうか。そういえば、このパオラ先輩も術の扱いに長けているようだが。
「思ったんですが、ここの人たちってみんなある程度の使い手ですよね」
素直に疑問をぶつけてみると、軽い感じの侍従は笑いながら答えてきた。
「そうだねえ。周りがほら、森というか山じゃない。魔物も結構出るし、ある程度自分で身を守れないと危なくてしょうがないのよ。まぁ、最近はお嬢様方が頻繁に駆除してるからそうでもないけどね」
お嬢様方が?ラディアス様やアンドアイン様ではなく?
「なるほど、そうだったのですね。侍従長が得体の知れない強さなので、何か特別な意味でもあるのかと」
「あぁー、なんかあの人、先代の頃から戦場を一緒に駆け回ったらしくてさ、もう歴戦のつわものって感じ?」
とうが立っているとは思っていたが、やはり相当の経験を積んだ猛者だったようである。
若輩者の自分から武器を取り上げるなど、赤子の手をひねるようなものなのだろう。
「道理で……あっ、ありがとうございます」
パオラが勧めてきた焼き菓子を一つ口に入れる。さくりとした軽い口当たりの後、じわりと干し葡萄の甘さが口いっぱいに広がった。
「美味しいですね、これ」
「あっ、わかるぅ?今街で評判のお菓子屋さんのでさ、知り合いがそこに勤めてて、売り物にならないのを一杯もらってきたのよ」
「えっ?これが売り物にならない?」
確かによく見ると多少欠けていたり割れていたりはするが。
「でしょー?ちょっとぐらい割れてても問題ないと思うんだけどさ。まぁ、でもそのお陰でこうやって食べられるんだけど」
通いであるパオラはサンコスタの街の情報に敏いらしく、話を聞いているだけで面白い。
次々と口から飛び出す服の流行の話やお菓子、はては誰それの恋愛話など、会話の内容が尽きる様子がない。
「それでね、ナズナちゃんも一緒にどうかなって」
「はあ、警備隊との合同宴会ですか」
聞けばここの使用人やスパダ商会の職員と、更には都市警備隊の人々と共に、年末近くに宴会を催すらしい。
年忘れの宴というのは故郷にもあったが、それと同じようなものなのだろう。
参加するのがどこも領主様縁の組織や商会なので、コスト削減のために一緒にするという事だろうか。理には適っている。
「ご挨拶も兼ねて私も参加したほうが宜しいでしょうか」
長くここで働くのであれば、関係者に顔をある程度売っておく必要もあるだろう。ある種の儀式のようなものと思えば良い。
「そんなに堅苦しく考えないでいいってば。既婚者以外はみんな出てくるし、ただ楽しめばいいんだから」
「はあ、それでは宜しくお願いします」
何故既婚者以外なのかは良くわからない。この国では仕事仲間よりも家族と過ごす方を大事にする、という事なのだろうか。
「おっけー。じゃあ参加に丸しとくね。これでうちからはフェデリカ、ジュリア、あたし、ナズナちゃんとアメデオに、フランコの息子さんのニコロ君の6人ね」
家族も参加して良いのか。法則性が良くわからない。
「パオラ、ちょっとナズナちゃん借りていい?」
休憩室に同じ住み込みの侍従、フェデリカが顔を出した。
「あっ、はい只今。パオラさん、焼き菓子ご馳走様でした」
立ち上がってフェデリカの下へ向かう。
「あいよー。ナズナちゃん、年末楽しみにしてるからねぇ」
椅子の背から仰け反ってこちらに手をふるパオラ。ナズナも軽く手を振り返してから休憩室を出た。
「ごめんなさいね、休憩中に。ディアンナお嬢様が街にお出かけされたので、今のうちにお掃除を済ませておこうと思って」
「そうですか、承知しました」
そういえばディアンナお嬢様には、まだ一度も顔を合わせたことがなかった。
同じ邸に数日いるのに、どうもそのお嬢様は活動時間が不規則らしく、自分が働いている時間には食堂ですら見かけなかったのだ。
「フェデリカさん、ディアンナお嬢様とは、どの様なお方なのでしょうか」
横を歩くおっとりとした感じの先輩に問うてみる。
「そうねえ、一言で言えば天才、かしら。王都の魔術学院を最年少記録で修了して、在籍中に物凄い発見とか発明を沢山されて……今は自室と邸の裏で魔術の研究をされているわ」
「そんなにすごい方なんですか」
そんな大記録を打ち立てた人など、国中の誰もが知る有名人ではないだろうか。
「まぁ普段は眠そうで結構時間にだらしない方だけどね。見た目はこうスラッとしてて出るとこ出てて……トリシアンナお嬢様とは違うタイプの綺麗な方ね」
「出る所」
自分の貧相な身体を眺めて微妙な気持ちになる。
「ラディアス様と同じ様に気さくな方だから、ナズナちゃんもすぐに仲良くなれるわよ。ほら、ここがディアンナお嬢様のお部屋」
二階の西側、一番南側の日当たりの良い部屋だ。北隣がラディアス様、東隣には客間がいくつか並んでいる。
ジョヴァンナの持ち物が片付くまで、ナズナはここから東に3つ目の客間を借りている。ディアンナお嬢様は意外とすぐ近くにいたのだ。
フェデリカは一応ノックして、失礼します、と言って部屋に入った。
研究者の部屋だというから雑多なものが多いのかと思ったら、特にそうではないようだった。
流石に机の上には書きかけの論文や書籍が大量に乗っているが、床やベッドの周りも綺麗に片付いている。掃除は机以外とベッドメイクだけなので、割とすぐに終わりそうだ。
窓と窓枠を固く絞った布で丁寧に拭く。テーブルや椅子は専用の布に変えて磨く。
フェデリカは持ってきたシーツを少し乱れたものと交換し、ぴっちりと張り替えている。干した掛け布と毛布を交換して、枕を窓辺に持っていって軽く埃を落とした。
拭き掃除の終わったナズナは、風の魔術装置を組み込んだ掃除機と呼ばれるもので、絨毯の塵を吸う。
この掃除機というものは故郷には無かったもので、魔術を多少なりとも扱えるものであれば、簡単に狭い所の塵を吸って纏めて捨てられる。実に便利な道具だ。
箒では絨毯の掃除はできないし、一々洗って干してとなると家具の移動も必要となるため、大変な作業になってしまう。
あっという間に作業が終わり、道具を持って部屋を出る。
「ありがとう、ナズナちゃん。早く終わって助かったわ。ディアンナお嬢様はいつお戻りになるかわかりにくいから、出来る時にさっとやってしまわないといけないのよ」
「街に出られているのですよね?そんなにすぐには帰って来られないと思うのですが」
馬に乗ってもそれなりの時間がかかった。ディアンナお嬢様がどのような移動手段でお出かけになったのかは分からないが、一時間で戻る、などという事は無いだろう。
「いやあ、そうでもないのよ。用事を済ませたらすぐに戻ってこられる事もあるし。この間なんて出掛けられたと思ったら一時間もしないうちにお戻りになって」
「早馬でも使っているのですか?」
尋常な速さではあるまい。自分が全速力で駆ければ可能だろうが、貴族のお嬢様がそんな事をするはずもないだろうし。
「魔術でね、こう、地面を動かしてその反動で跳んで行かれるのよ」
「……は?」
どういう事だ。確かに土遁の中には一時的に大地の形状を変動させる『ランドトランス』というものがあるが、一度使う度にかなりの魔力を消費するため、そんな事をすれば一瞬で力尽きてしまうだろう。そう告げると、フェデリカは。
「だからね、天才なのよ。ご本人が仰るには、なんでも構成を最大効率化すればそんなに消耗しないとかどうとかで……詳しく聞いたんだけど半分も分からなかったわ」
「えぇ……それって人間なのですか?」
最早魔物の類ではないだろうか。
「私から見たらラディアス様もアンドアイン様も似たようなものに見えるわよ。方向性が違うだけで」
「そういうものですか。……王国の貴族とは、とんでもない方ばかりなんですね」
「いや、ここが特殊なだけだからね」
アンドアイン様の事は良く分からないが、確かにラディアス様のあの剛力と動きには驚いた。
今まで全力の自分をあんなに簡単に止められたのは初めてだったし、馬の乗り降りを片手片足でやっているような動作には、人体の構造とは一体何なのかという疑問まで湧いてくる。
「特殊といえば、トリシアンナお嬢様も特殊ですよね」
あれほどまでに美しく愛らしい存在を見たことがない。傾国とは正しくこの事ではないだろうか。
「あぁ、ナズナちゃん。あなたが来てくれて本当に助かったわ。私もジョヴァンナももう限界で……お嬢様の事、頼むわね」
「お任せ下さい!常に側にいて必ずお守り致します!」
あの可愛らしさである。常に近くにいれば当然の如く参ってしまうのは想像に難くない。お召し替えやご入浴の補佐などしようものなら、尊さが溢れすぎて死んでしまうのではないだろうか。
だが、これは重大な任務なのだ。命に代えてでもあの尊き存在を守らねばならぬ。
ともすればにやけそうになる顔を必死で引き締めて、掃除道具を手に勇ましく戻るのであった。
「ただいまー。って、流石に皆寝てるかぁ」
ディアンナが帰宅したのは夜半も過ぎた頃だった。入り口の扉に鍵がかかっていない――というか鍵自体がついていない――のは街なら物騒だとは思うものの、ここに至ってはそんな心配をする必要もない。
家族以外の侵入者があれば必ず誰かが気付くし、そもそもこの怪物邸に侵入しようと考える愚かな賊など近隣にはいない。
遅くなったのは、街の近くでイヴィルアイを見たという話を、冒険者協会で耳にしたからだった。
ディアンナは街に行った時、部外者でありながら冒険者協会に入り込む事が多い。
そこには多様な依頼の情報が溢れており、中には並の冒険者では討伐が困難な魔物の情報が公開されていたりもするのだ。
得てしてそういった強い魔物の素材は、貴重な研究材料となったり、高額で取引されていたりするものが多い。
誰も倒せないのならば自分が頂いても問題はなかろう。魔物の脅威も払拭されるし、ウィンウィンの関係なのだ、と勝手に決めつけて、冒険者に混じって掲示板を眺めているのだ。
自分はこの街では顔が知られているため、中には気付いている者もいるだろうが、冒険者の邪魔をしたことは一度もないので、恐らくは見逃されているのだろうと推測している。
今日は、不確かだが東の山岳地帯でイヴィルアイを見たという話を耳にした。
正式な依頼として出されていたわけではないので、これは倒してしまっても横取りにはなるまい、ということで、数時間程探し回っていたのだ。
イヴィルアイとは、額に魔眼を宿した大山羊の魔物である。
ヤギのくせに知能が高く、中位から上位の魔術を使いこなし、おまけに額の魔眼から常に有害な構成を撒き散らしているため、近づくだけで瘴気にあてられて体力が削がれるというおまけつきだ。
ただ、こいつの角や骨は薬剤や建材の混ぜものとして非常に優秀な上、上手く魔眼を持ち帰れば瘴気に関する様々な研究が進むこと間違いなしである。
意気揚々と東の山を飛び回ったのだが、見つかったのは少し大きなヤギの群れがいただけで、残念ながらこの情報はガセだったらしい。
仕方なく街に戻って開いていた酒場で適当に夕食を済ませ、戻ってくればこの時間になっていた、というわけだ。
呼べば住み込みの侍従が誰か起きて来るだろうが、わざわざ起こしてしまうのも忍びない。風呂に入ってさっさと寝る事にしよう。
一階の北側にある脱衣所に入ると、明かりがついている。誰かが入っているのだろうか。引き返そうとした時、浴室の扉が開き、黒髪の少女が出てきた。
「はっ?え、あ、も、申し訳ございません!」
少女は慌てて前を両腕で隠し、きょろきょろと自分の脱いだ服を探している。
「あー、いや、謝るのはこっちの方じゃないかな。出てるから、落ち着いて服着て、ね?」
そう言って脱衣所を出て後ろ手に扉を閉める。
初めて見る顔だった。しかし、妹から話は聞いている。
「し、失礼致しました。ディアンナお嬢様、でございますよね?お初にお目にかかります」
濡れた髪も乾かさないままに少女は出てきて激しくお辞儀をした。水しぶきが少しこちらに跳んできた。
「落ち着いて。髪、乾かしてからにしましょ」
言って風圧系第一階位『ブリーズ』に熱操作系第一階位『ウォーム』を乗せて彼女の背後に発現する。優しい熱風がまたたく間に濡れた髪の水分を吹き飛ばした。
「へっ?あ、ありがとうございます。あっ、私、ナズナ・コウヅキと申します!先日からお世話になっている者で――」
「あー、トリシアから聞いてるよ。東方の忍びの里出身だって?すごいね。あと、そんなに慌てなくてもいいから。この時間に帰ってきた私が悪いんだし」
聞いていたよりも大分落ち着きがなさそうに見える。何か怖がらせるような事でもしただろうか。
「いえその、お見苦しいものをお見せしてしまい……」
あぁ、その事だった。
「ごめんごめん、こんな時間に誰か入ってるなんて思わなかったからさ。それに、その……まだ成長の余地はあると思うよ?」
「はぁ……そうでしょうか」
こちらを見て微妙に悲しそうな顔をしている。忍びでもこういう事にコンプレックスを感じるものなのか。ちょっと可愛いと思ってしまった。
「そうそう。私も大きくなり始めたのはあなたぐらいの歳頃だったから。これからよ、これから。そんじゃ、私も入らせて貰うねー」
脇から脱衣所へと入り、にこりと微笑んで手を振った。
ナズナは再び深くお辞儀をし、脱衣所の扉が閉まるまで腰を折っていた。
(真面目そうな子だなぁ。トリシアとは馬が合いそう)
自分と一緒にいればこのいい加減さに疲れてしまうだろうが、妹とであれば上手くやれそうだ。何故かしら、どこか似た空気も纏っている。
きつく締め付けるような服をぞんざいに脱ぎ捨て、ある意味面白そうな子が来た、とにたりと笑うのであった。
誰かについてまわる研修のような日々はあっという間に終わった。
ジョヴァンナも新居への引っ越しが終わったため、彼女の使っていた一階の部屋がナズナに割り当てられた。
改めて家族に紹介され、正式にトリシアンナお嬢様の専属侍従として認められたのだ。
「宜しくお願いしますね、ナズナ」
相も変わらず天使の笑顔で手を握られ、卒倒しそうになる。
「精一杯務めさせて頂きます」
昂る感情は表に出さず、任務遂行の時の顔を作った。
無邪気な天使が食事を摂っている様を夢心地で見守っていると、先に食事を終えたアンドアイン様にちょっと、と廊下に呼び出された。
「ナズナ。今日からトリシアについてもらう事となるが、簡単に彼女の毎日のルーティンを伝えておく。驚かないように」
何を驚く事があるだろうか。
「あの子は毎朝、朝食後に邸の周りを鍛錬の為に走る。今であれば凡そ10周といったところか。そこはわざわざ一緒に走らなくても良い。邸の南側で見守っていてやってほしい」
「走破訓練ですね。私も毎日やっていました」
体力作りには必要な事だ。貴族の子女でありながら自らの鍛錬を怠らない。すばらしい姿勢である。
「う、うむ。そしてその後、真剣での素振りを行っている。これも怪我をしないように見守るだけで良い」
「自ら剣を持つ気概、高貴なる者の責務ですね。感服致します」
指揮官先頭という言葉が故郷にはある。上に立つものが剣も振るえないようでは、下につくものの士気も下がってしまうだろう。
「そ、そうだな。で、その後は一度風呂に入って」
「ご一緒するのですか!?」
思わず食い気味になってしまった。これはまずい。
「いや、あの子はもう一人で入れるのでその心配はいらない。そして、昼までは部屋で読書をしているようなので、この時間は普段の仕事に戻ってくれて良い。それか、優先的に休憩時間を与えるようにハンネに言ってあるので、休んでいてくれても良い」
「見守るだけで特に疲れるような事はなさそうですが?」
走っているのを見るだけ、剣を振るのを見るだけだ。できればご入浴のお手伝いもしたかったところであるが、それも無し。
「疲れるのはその後だ。昼食後、あの子はディアナと一緒に魔術の鍛錬を始める。裏の広場で試し撃ち程度で終わる事もあるが……」
ここでアンドアイン様は少し言い淀んだ。
「その後、大抵は裏山に入って魔物狩りをしている。あまり強力な魔物は出ないが、これに付いて行って護衛をして欲しいのだ」
「承知しました。自ら魔物を狩って出るとは、なんと崇高な理念をお持ちの方でありましょうか」
「そうか?うーん、見方によってはそう見えるのか。……まぁ、彼女たちは魔物を狩って、素材や肉を取ってくる。時には街に出かけてそれを売ったりもしているようなので、それにも同行してくれ。街は比較的安全だが、危険が無いわけではないからな」
「委細承知しました。このナズナ、命に代えてもトリシアンナお嬢様をお守り致しましょう」
一緒にディアンナお嬢様もいるようだが、正直な所あの方には護衛など必要無いだろう。
同時に別々の術を行使されたのにも度肝を抜かれたが、聞けば扱いの難しい火遁の第七階位までお使いになるという話だ。最早護衛の必要なお人ではない。
「いや、出来れば命に代えなければならないような事態になることだけは避けて欲しいのだが。まぁ、気概として受け取っておく。では、宜しく頼んだぞ」
「お任せ下さい」
鼻息荒く返事をする。護衛。正にコウヅキの忍びたる者の本分ではないか。
食堂に戻ると、トリシアンナお嬢様がお代わりを所望しておられるところだった。食べる姿も上品で美しい。笑顔で料理を口に運ぶ様に、料理長のマルコ殿もニコニコとしておられる。尊すぎて頭がどうにかなりそうだ。
食事の後、アンドアイン様の仰った通りに着替えたお嬢様は邸の外にお出でになり、準備運動をされている。
通いの者を乗せた馬車がやってきて、出てきた同僚に挨拶をしている。
こちらもおはようございますと声をかけていると、準備運動を終えたトリシアンナお嬢様が声をかけてきた。
「ナズナ。ナズナは鍛錬などはしないのですか?」
鈴が鳴るかの如く美しい声色。
「私ですか?故郷では毎日しておりましたが……」
「では、ご一緒にどうです?毎日一人で走るのは少し寂しくて……ラディお兄様がお休みの時は一緒に走るのですけれど、お兄様は足が早すぎてついていけないのです」
あの体格差と鍛え方を見ればそれも当然だろう。ならばここは自分がどうにかして差し上げなければ。
「承知しました。この格好では少し走り辛いですが……忍びというものはどのような格好でも動けるものです。ご一緒しましょう」
実に容易い事だ。10周程度という事だったので、いつも走っていた距離の半分にも満たない距離だろう。この侍従服でも全く問題はない。
「本当ですか!嬉しいです!」
ああ、もう死んでもいい。
二人揃って走り出す。歩幅が違うので普段よりもゆっくり走っているが、それでもこの歳の子にしてはかなり早いペースだ。普段から鍛えているというのは本当なのだろう。
秋口の気持ちの良い風を受けながら、少し動きにくい侍従服の裾を持ち上げて走る。
軽い走破訓練といえ、鍛錬をするのはおよそ半月振りである。やはり身体を動かすのは気持ちが良い。
隣を見れば美の化身が一生懸命足を動かしている。見ているだけで疲れが吹き飛んでしまう。
11周を走り終え、息を切らしているお嬢様の汗を手ぬぐいで拭う。ありがとう、と見せられた笑顔にまた心臓を撃ち抜かれる。
「流石ですね、ナズナ。息一つ切らしていないなんて……」
「何を仰います。そのお歳で、この距離を走れる方などそうそうおりませんよ。私は単に小さい頃から厳しい鍛錬を重ねていただけですので」
そう言うと、トリシアンナお嬢様は何故かこちらを見て、なるほど本当だったんだ、と呟いている。
「どうかなさいましたか?」
「あっ、いえ。なんでもありません。次は素振りをしますね」
一旦邸に取って返したお嬢様は、見事な黒い鞘の忍刀を手に出てきた。
「それは……忍刀でございますか?」
「しのびがたな……ああ、忍者刀、小太刀ですね。なるほど、言われてみれば同じ様な長さと形状ですね」
スラリと抜き放たれた刃は白磁に輝き、反りの小さな片刃の直刀だった。
「見事な業物です。銘入りですね」
「ええ、ハイデルベルグの工らしいです。良く分かりませんが、北方の魔物の素材を使ったとかで」
「ほう……お嬢様は刀を見る目も肥えていらっしゃるのですね」
お嬢様はそんなことありませんよ、と少し照れたあと、素振りの鍛錬を始める。
使っている刀こそ忍びのそれと似通っているが、振りや構えを見る限り、武家のそれに近いように感じられる。かといって同じかといえば様々な違いが見て取れた。
構えであるが、これは武家がよく使う一刀流の型に近い。
振りは上段からの振り下ろしこそそれに似ているものの、袈裟、逆袈裟は刀の返し方が微妙に異なる。これは片刃のものではなく両刃の剣のものだろう。
それにしても、刀を振る姿も凛々しく美しい。飛び散る珠の汗が、天空に散りばめられた星の宝玉のようだ。
引き結ばれた口元、少し息が上がってきたのか上気した頬。何もかもが絵の中から飛び出てきたのかという錯覚をさせる。
じっと見惚れていると、視線に気付いたのかお嬢様が手を止めて、こちらを向いた。
「あの、ナズナから見てどこかおかしい所などはありませんか?」
「ありません!完璧な美しさです!」
「へっ?そ、そうですか?いや、じっと見ているので何か気になる所でもあるのかと」
そういう意味だったのか。
「は、いえ。気になると言えば、お嬢様の太刀筋は随分と変わった組み合わせだなと」
その言葉に、大きな目を更に大きくしてお嬢様は言う。
「分かるのですか?お兄様は何も仰らないのですが」
「悪い癖というわけではないので、個性だと見られているのかもしれませんね。お嬢様の太刀筋は、東方の剣術と騎士団の剣術、両方を混ぜたもののように見えます」
「そこまで分かるのですか……ナズナはすごいんですね、尊敬します」
「勿体ないお言葉です」
今日だけでもう何度死んだかわからない。召されてしまう。
再び素振りを再開した姿を眺めながら、幸せな時間を過ごす。もう時間が止まってしまえば良いのに。
残念ながらそうはいかず、素振りを終えたお嬢様は汗を拭って刀を鞘に仕舞った。
「素振りは大切だとは思うのですけれど、こればかりというのは……ナズナは普段、どのような剣の鍛錬をしていたのですか?」
「剣の鍛錬ですか?一応はしましたが、主な得物は短剣ですので……そうですね、一人で行うものであれば、林の中の木々に紐を付けた枝を沢山くくりつけて、風遁で予測のつかない方向へ動かし、向かってくるものを次々と撃ち落とす、とか。ありふれた事しかしていませんが」
「おお、なんだかそれっぽいですね。対集団の訓練でしょうか」
「それもありますが、瞬間的な判断力を養うのが主な目的ですね」
所詮は動く木の枝なので、それもすぐに慣れてしまう。初期の初期にやるだけのものだ。
「実戦に勝る訓練はありません。次点で自分より強い者との手合わせでしょうか。死地にあればあるほど、刃の鋭さは増します」
今更ではあるが、最後の生存試合はかなり自分の力を増したように思う。ひりつく空気、渇く身体、喉に届くかどうかの刃。
結果はどうあれ、あのキリカゼとの死闘は少なくとも自分の身体になにがしかの痕跡を残したように思う。
「なんだか殺伐としていますね。それが正解なのはわかりますが」
天使は何故か悲しそうな瞳でこちらを見ている。
「得たものが何であれ、私は今のナズナに苦しい思いをさせたくありません。いくら強くなっても、大切な人がいなくなっては意味がないでしょう?」
「……今の私にとって、最も大切な人はトリシアンナお嬢様、あなた様です」
あぁ言ってしまった。
出会ってそんなに経っていないのにこんな重い言葉、絶対に引かれる。
なのにこの人は。
「本当ですか?では、ずっと一緒に居てくださいね。約束です」
ああ、もう。なんかもうあっ、もうどうでもいい感じがする。ああー、ダメですこれ絶対ダメなやつです。
「何があろうと、お嬢様の側にお仕えします。この身がどうなろうと、いえ、そうではなく。例え粉々になろうとも、貴方様をお守り致します」
「ありがとうございます、ナズナ。あれっ?鼻血が……大変、紙を」
「ご心配無く。この程度、気合で止めてみせます。フッ!」
毛細血管の止血など容易いことだ。水遁第一階位『プラテレット』であっという間に止めて見せる。
「あ、わざわざ魔術まで使って……その、あ、ありがとうございます?」
「お心のままに」
あぁ、心から仕える事の出来る主君を頂くとはこのような快感であったのか。
忍びで本当に良かった。このお方と出会えて本当に良かった。
一通り午前中の鍛錬を終えたトリシアンナお嬢様を浴室からお部屋へお見送りして、普段の仕事へと戻ってくる。ハンネ侍従長がいたので今必要な仕事を尋ねてみた。
「トリシアンナお嬢様は入浴の後、お部屋に戻られました。何か残っている仕事はありますか?」
その経験を皺と刻んだ、熟練の侍従長は少し驚いたように答える。
「いいえ。ナズナ、あなた、お嬢様と一緒に走ってきたのですか?」
流石に多少動いた痕跡は見逃されなかった。熟練の戦士というのは間違いないようだ。
「はい。ですが、ほんの邸の周囲を11周した程度です。疲労は全くありません」
「そう。まさか一緒に走る侍従がいようとは……特に今の所、人手は必要ありませんので、休憩室で待機していなさい。昼食は早めに済ますように。お嬢様は昼食後、すぐに出られる場合が多いので」
「承知致しました」
何も無いというのであれば仕方がない。休憩室にはパオラ先輩の持ってきた焼き菓子がまだあるはずである。厨房で湯でも貰って、ゆっくりと休ませてもらおう。
休憩室にはジョヴァンナ先輩がいた。こちらに気づくと笑顔で駆け寄ってくる。
「ナズナちゃん!ありがとう!あなたのお陰で開放されたわ!」
開放とはどういう事だろうか。住み込みが苦痛だったのだろうか?こんなに快適な生活なのに。
「あ、いえ。ジョヴァンナさん。新生活は順調ですか?」
まだ一日しか経っていないのだが。
「ええ、そりゃあもう。新居はスパダ商会が手配してくれたし、ダンナも詰所の近くだから通勤が楽だってすごい喜んでて」
「そういえば、ジョヴァンナさんの旦那様は都市警備隊の方なんですよね」
大恩あるラディアス様の職場だ。
「そうよ。一昨年の合同宴会で出会ったの。もうね、この人しかいないってビビっときてね?ずっと付き合ってたんだけど、ようやく家を立てて引っ越す目処がついて……」
今年もやるというあれか。そういう出会いもあるのだろう。
「それよりもなによりも!ナズナちゃん、あなたが来てくれたから引っ越せたのよ!ありがとう!」
「は?私がですか?」
全く関連性が見えない。
「そうよ。ほら、私って住み込みだったじゃない?そうするとどうしてもお嬢様方の……まぁ、主にトリシアンナお嬢様に付いてないといけないじゃない。代わりが見つかるまで我慢してくれってアンドアイン様に言われてて、あなたが来てくれてようやくなのよ」
そういう経緯があったのか。だが、こちらとしてもあの神がかったような主君に出会えて幸せの絶頂なのである。
「そうですか。それは職務冥利に尽きますね。ジョヴァンナさん、お幸せに。そして今後とも宜しくお願いします」
これこそお互い勝者の関係だろう。噛み合った運命に乾杯だ。
「ええ、ありがとう。でも、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫って、何がですか?」
心配されるような事は何一つ無い。
「ほら、その。トリシアンナお嬢様ってすごく活発じゃない?ついていくのが大変じゃないかなって」
なんだ、そんな事か。
「問題ありませんよ。あの年頃の子は皆あのようなものです。午後から魔物狩りに出られるそうですが、私の居た所ではその程度、遊びのようなものでしたから」
「そ、そうなのね……忍びってすごいわ。でも、助かるわ。お嬢様をお願いね。あの方すごく可愛らしいでしょう?だから、無茶しないかだけは本当に心配で」
その気持ちは痛い程によく分かる。あの美しく嫋やかなる存在が、何者かに害される事など絶対に許されない。故に、障害は完全に排除する。
「お任せ下さい。あの美しき花は、誰にも穢させませんので」
そう、誰にも。
「ありがとう。私は通いになったけど、これからもよろしくね」
「宜しくお願いします、ジョヴァンナさん」
この邸にいる方々はみんな物腰が丁寧で優しい。誰一人として自分に敵意を持つ者などいない。本当にそれだけでも天国にいる心地だ。
改めてトリシアンナお嬢様だけでなく、この邸の人々全てを必ず守ると誓った時であった。
「お姉様!少し間が空きましたが今日も行きましょう!」
「そうね、この前はイヴィルアイがいあるって情報があったのに空振りだったし」
「イヴィルアイですか?それは残念ですね」
「ほんとにねぇ。魔眼が手に入れば止まってた瘴気の研究も進んだのに」
「私も瘴気については今ひとつ良く分からないので、残念です。でも、またそのうち機会がありますよ!」
お嬢様二人が食事を終えた後、裏山について来て見ればずっとこんな会話をしている。
この国の貴族にとって魔物の討伐とはライフワークなのだろうか。であれば、それはとても素晴らしい事である。故郷の諸侯にも見習って欲しいものだ。
「では、少し探りますね」
術を発動した様子は無い。トリシアンナお嬢様の眼球が僅かに動いているのを見ると、気配を探っているというのは分かるが。
「うーん、あまり大きな魔物はいませんね。ボアもこの間狩った肉が残っていますし……あっ!キラービーの巣が出来ていますね。蜂蜜が手に入りそうですよ!」
「おっ、キラービーの巣かぁ。蛹が生態研究のいい素材になるんだよね。よし、行こう」
「はい!」
言うなりお嬢様方は術を発動した。
トリシアンナお嬢様は風遁、ディアンナお嬢様は土遁……これが噂に聞く『ランドトランス』の連続発動か。とても真似はできそうにない。
一瞬にして視界から消えようとする二人に追いつくべく、自らも自己強化を発動する。
水遁第四階位『フルバディ』によって、筋力強化と血流、体温の調整を同時に行う。
隠密活動においては持続的な肉体調整は必須である。自らの身体を熟知する忍びにおいては、瞬間的に高めるのも、持続的に維持するのも容易い事だ。
足裏から大臀筋に至るまで、全ての筋肉と筋を強化し、血流を増加。同時に疲労物質の分解も促進して駆ける。
瞬く間にお二人に追いつく。目の前に、中空を飛び回っているが故にちらちらと下着をひらめかせるお二人の姿。目の毒だ。
それにしても随分と遠い。これだけの距離を探査したというのであれば、トリシアンナお嬢様は凄まじい遠距離探査の才能をお持ちなのではないだろうか、素敵です。
「ありました!前方北北西550メトロ!」
目を凝らせばなるほど、大きな斑の巨大な蜂の巣が見える。忍びの自分ですらどうにか確認できる程の距離だ。改めてその才に感服する。
近寄る敵に気付いたのか、一体一体が大人の手のひらほども大きさのある蜂が、集団でこちらを向いている。トリシアンナお嬢様は先制で風圧系による風で吹き飛ばすおつもりだ。ならば。
「はっ!」
お嬢様が放ったのは巣を壊さないように蜂どもを吹き飛ばす『ブリーズ』。恐らくそこに追撃するつもりなのだろうが、奴らの羽は割と強靭である。そのままでは巣にも影響が出るであろう。
「お任せ下さい」
水遁第二階位『ヴェイパーウェイヴ』で、蜂どもの周囲の湿度を極端に上げる。
重くなった羽に、働き蜂の動きは急激に鈍くなる。そこへトリシアンナお嬢様の火遁が炸裂した。
火遁第二階位『フレイムアロー』の火炎放射によって、外に出ていた哀れな働き蜂どもは黒焦げになって地面へと墜落した。
多少湿度が上がろうとも、強力な火炎放射の前には意味を成さない。
「第二波、来ます」
キラービーの働き蜂は一つの巣において30から50。先に倒したのはおよそ15体なので、まだまだいる計算だ。集餌に出ているものを除外しても、第二波、第三派までは間違いなくいるだろう。
「あー、巣を壊すのもったいないから。ここは私がやるわ。其は永久の眠り。時すら止める永遠の沈黙」
地面を跳ねて来たディアンナお嬢様が熱操作術を行う。
第五階位『アブソリュートクリスタル』によって零下270度にまで急激に冷凍された巨大な蜂の巣が、支えとなっていた枝から離れて、落葉の中にぼとりと落ちた。割れなかったのは何か土遁を使ったのだろうか。
当然、中にいるであろう蜂も蜂の子も、女王蜂すら即死である。
「流石ですねお姉様。凍らせれば保存も効くので、蜂蜜もいつでも楽しめそうです」
「いや、先にローヤルゼリー取らせてね」
まるで狩りに慣れた熟練の狩人の行動である。二人共、袋を取り出していそいそと巣を解体し始めていた。
「はぁー、大きな巣ですね。沢山蜂蜜がありそうです」
近寄ってみればその巨大さは圧倒的だ。
キラービーは夏から秋にかけて巣を肥大化させるが、ここまで大きいのは滅多に見ない。
邸の小さな部屋の半分ぐらいの大きさはあるだろうか。
「ナズナも慣れていますね。先程の援護、助かりました。キラービーの生態も把握しているのですね、すごいです!」
褒め言葉に身悶えながらも体裁を繕う。
「子供の頃、良くおやつ代わりに狩りましたから。でも、これだけ大きいのは初めてです」
「そうねぇ、多分、他の競合を私達が狩ったから大きくなったのかも」
「お姉様、帰ってパンケーキをマルコに焼いて貰いましょう」
「ちょっと待って。先に蛹と幼虫を」
子供の頃、妹と競って蜂の巣を採ったのを思い出して少し微笑ましくなった。
「にしても、驚いたわ。トリシアと私に走って追いついてくるなんて」
ディアンナお嬢様が蜂の巣を解体しながら言う。
「そうですね、流石は忍びです。しかも、私の意図を理解して援護までしてくれるなんて」
「勿体なきお言葉でございます」
この程度は造作もない事なのだ。それでも、お嬢様方のお役に立てたことに喜びが込み上げて来る。
解体を手伝いながら、手に入れた素材の行方を想像して楽しくなった。
トリシアンナお嬢様はパンケーキを焼いてもらうと言っていた。ならば、余った分はきっと自分にも回ってくるであろう。
甘い蜂蜜をたっぷりとかけたこの国の菓子を想像して、思わず頬が綻んでしまうのだった。
料理人であるマルコがこの邸にやってきて、もう50年はとうに過ぎた。
先代の頃から料理人として仕え、途中、邸を大きく建て直したのにも立ち会った。
料理人として独立して間もない頃、各地で修行中に先代と出会ったのが縁だった。
マルコはここから南西の土地、サバス地方の産まれである。
地元のレストランで修行し、独立の許可を貰ったのが18の頃。王都へと旅立ち、そこのとある宿泊施設で修行を兼ねて働いている時に、先代と出会ったのである。
人手が少なく、厨房とホールを行ったり来たりしていると、料理に難癖をつけられたのだ。
曰く、魚の鮮度が悪すぎる。これでは折角の料理も台無しであろうと。
売り言葉に買い言葉で、それなら鮮度の良い魚が手に入る場所へ連れて行けと言ったが最後、サンコスタまではるばる連れてこられたのだ。
今思えば、若くて才能のある料理人を探して声をかけたのではないかと考えているのだが、その真相を聞く事も無く、先代はあの世へと旅立ってしまった。
そのままメディソン家で厨房を任されて早56年。当時若造だった自分は、既に老境と言える年齢になっていた。
当代の主、ヴィエリオ様ももう四十と四つ。産まれた頃から見守ってきたが、彼ももうそろそろ隠居して息子のアンドアイン様に家督を譲ろうと考えておられる所である。
そうなれば、自分は先代、当代、次代と三代に渡って料理人として仕えたことになる。
そこまで長い間メディソン家に仕えたのは、自分を除けば侍従長のハンネぐらいだろう。
彼女も若い頃からこの家に奉仕し、自分と同じくらいに歳を重ねている。
住み込みで働いていたせいか、お互い浮いた話も無く、各々独り身でここまできてしまった。
当然子もおらず、引退後ははてどうしようかと思案にくれているところなのだ。
金は使い道が無いため、無駄に沢山貯まっている。これで街に小さな家でも買って、日がな釣りでもしながら過ごそうかと朧げながら考えている。
ただ、後釜が見つからねばその老後も安心して過ごすことが出来ない。
元気よく、また良く食べるあのお嬢様には、もっと美味いものを沢山食べてほしいのだ。
この家の子達の食を支えてきたのはほぼ自分である。
なればこそ、半端な者を後釜に据える事だけは絶対に避けたいと思っている。
「マルコ!マルコ!」
丁度、考えていたそのお嬢様が厨房の扉を叩いて顔を覗かせた。
「トリシアンナお嬢様、どうしましたかな?またボアでも捕まえてきましたか?」
この娘は他の子達と違って、野山で捕まえてきた獣や魔物を、きちんと処理して食材として持ち込んでくる。
驚いたことにその処理は全て完璧で、それこそ狩人が獲ってきたものとまるで大差ないのである。
生き物を殺し、無駄なく食らうという物事の本質を、誰よりも理解している賢い子だ。
「今日はキラービーの巣を採ってきました!沢山蜂蜜が取れるので、パンケーキを焼いて下さい!」
「おお、そうですか。それでは腕によりをかけて焼きましょうかの。蜂蜜の分離はこちらで?」
「いいえ、外で魔術を使ってやります。蜂蜜を受ける壺を貰えますか?」
「はいはい、お待ち下さい」
入り口近くの収納から大きめの壺を取り出して渡す。この子にはまだ大きすぎるのか、持ち上げると姿が殆ど隠れてしまって見えない。
「大丈夫ですかな?表まで私が持っていきましょうか」
「大丈夫です!鍛えてますから!」
元気よく答えて表に歩いていった。
少し身体を反らして壺を抱えて歩く後ろ姿が、なんとも微笑ましい。
さて、こちらはパンケーキを焼かねばならない。
あの子は大変によく食べる。それに、最近来た新しい侍従の子にも振る舞うだろう。
他の使用人達の分も残しておかねばならないし、これはまた、沢山焼く事になりそうだ。
大きなフライパンを3つも用意して、鼻歌混じりに準備を始めるのだった。
狩りを終えてお茶の時間も過ぎ、お嬢様方は部屋へ戻られるというので、邸内の拭き掃除をしていた。
二階の廊下で窓枠を拭いていると、アンドアイン様が近寄って来られた。
「ナズナ。少し良いか」
「はい、何でしょう?」
常に落ち着いた物腰のこの男性は、普段は寡黙であまり直接会話をすることは無い。
用がある時は短く、要点だけを纏めて的確に仰られる。
「今日もあの子達は裏山に出ていたようだが、どうだった」
「どう、とは?」
この方にしては珍しく抽象的な物言いだ。
「うむ、上手くやっていけそうか?ついていくのが大変だとか、そういった事は」
「特に問題はありません。確かに他の方ではついていくのが少し大変でしょうけれども、特に疲れてもいませんし……あっ、お嬢様方は素晴らしい術の腕前ですね。私も精進しなければとは思いました」
その言葉に満足したのか、次期当主は大きく頷いた。
「そうか、それは良かった。今後とも宜しく頼む。あの子が無茶をしようとしたら、止めてやってくれ」
「承知いたしました」
肩の荷が下りたのか、軽い足取りで階段を下りていった。ジョヴァンナさんもそうだったが、元気が良すぎるというのはこの事だったのだろう。
自分にとっては子供が飛び回るのは特に違和感のある事でもないので、ある意味これは天職なのかもしれない。ここに来て本当に良かった。
上機嫌で窓枠を綺麗にしていく。パンケーキも美味しかったし、食事も毎日三食欠かさず、立派なものが食べられる。幸福の絶頂とは正にこの事だろうか。
「ナズナ、いますか?」
遅い昼食を摂った後、休憩室で茶を飲んでいると、トリシアンナお嬢様が扉からひょいと顔を覗かせた。今日もお可愛らしい。
「はい、何か御用でしょうか」
茶を飲む手を止めて立ち上がる。また狩りだろうか。
「あっ、お茶を飲んでからでいいですよ。座っていて下さい。今日は街に出ようと思っているのです。付いてきていただけますか?」
「あっ、はい!今すぐ!」
紅茶を一気に喉の奥へと流し込む。お嬢様と街へお出かけだと?急いで支度をしなければ。
「そ、そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
お嬢様の大切な時間を無駄にするわけにはいかない。すぐに身支度を整えて……といっても、持っている服はこれと黒装束しか無いのだ。
短剣は太ももに縛り付けてあるので常に携帯しているし、準備らしい準備は無いのだ。
「今すぐにでも出られます。準備がお済みでしたら参りましょう」
「そうですか、ではお願いできますか」
「喜んで」
街へお嬢様と一緒に……考えただけで胸が高鳴る。
カップを軽く水で濯いで、自分の棚に片付ける。準備万端だ。
移動は馬車かと思いきや、馬車が使えるのは朝と夕の、通いの者たちに便乗する時だけのようだ。
ラディアス様のアルフォンソは警備隊の詰め所だし、領主としての公用でもないのに馬車を出させるわけにもいかない。
結局はいつも裏山で飛び回っているかの如く、魔術を使って一人は空中を跳ねて、一人は裾を持ち上げて走って移動したのだった。
「いつも思うのですけれど、その格好で良く走れますね」
北門で警備の者に挨拶をして中に入ると、お嬢様がそう仰る。
「はあ、確かに少し走りにくいですね。とはいえ、服はこれしか持っていませんので……」
着替えもあるにはあるが、三着全てが侍従服だ。全く同じ。あとは例の黒装束。
従者としてはフォーマルなものなので、お嬢様について街に出るのもこれで問題ないはずである。
「しかし、それを仰るのであればトリシアンナお嬢様。あまり人前では先程の術での移動は控えたほうが宜しいかと」
「えっ?何故ですか?」
「その……下を走っていると丸見えなので……」
あっと気付いて小さな頬を染める。可愛い。抱きしめたい。
このお嬢様は、動きやすさと通気性を重視してかスカートを好まれる。
人の居ない山林であれば問題ないが、人の居る所では気をつけてもらわねばならないだろう。
どこの馬の骨とも知れぬ輩に、美しいおみ足と純白の下着を見せるわけにはいかない。仮に見た奴がいれば自分がひっそりと始末してやろう。
「ところでお嬢様、本日はどういったご要件で?」
見た所大した荷物も持っておられず、何か素材を売ろうというわけでも無いようだが。
「今日はですね、スパダ商会でナズナの口座を作ろうと思っているのです」
「わたくしの、ですか?」
「はい。ナズナはお給金を現金で貰っているでしょう?それだと、常に身につけておかないといけないので邪魔でしょうから。ある程度はそれで良いかもしれませんが、商会の口座に振込みで貰ったほうが安全だし、身軽です」
確かに、今も頂いたお金は持ち歩いている。革袋に入れて懐に収めているものの、使い道がないので貯まる一方だ。
それにしても、自分のような侍従の為にそこまで気を配っていただけるなんて……感激が行き過ぎて跪いて崇めてしまいそうになる。
「ご配慮、大変ありがとうございます。ですが、大商会の口座となると保証人が必要となるのでは?お嬢様では、その、年齢的に無理があるでしょうし」
「ええ。ですから、警備隊にいる兄の巡回についていって、そのついでに作ってしまいましょう。ああ見えて兄は高給取りなので、保証人としても問題ないはずです」
「それは……ご迷惑ではないでしょうか」
ラディアス様にも仕事があるだろう。そのような事に手間をかけさせるのも申し訳無い気がする。
「大丈夫ですよ、そもそもナズナを連れてきたのは兄ではないですか。ならば、名実共に保証人というわけです。仕事の一環と見ることもできるでしょう」
詭弁に聞こえるが、一応は一つの筋ではある。本当にこのお方は賢い。
「そうですか、では、お言葉に甘えさせて頂きます」
二人揃って目抜き通りを南に進む。
以前、小脇に抱えられて連れてこられた建物の中に入っていった。
「おっ、来たな二人共。どうする?ちょっと休憩してから出るか?」
入ったところで待ち構えていたラディアス様には、既に話が通っていたらしい。
「私は大丈夫ですよ。ナズナは?」
「問題ありません」
ここまで来る程度の事であれば、運動にもならない。
「そうか、んじゃ行くか」
そのまま外に出ようとするので、疑問に思って問いかける。
「他の警備隊の方は一緒に行かなくて宜しいのでしょうか。確か、巡回は三名で行っておられたと記憶しておりますが」
自分が捕まった時、この制服の者たちは目の前の人を含めて三名いた。
どの国でもそうだと思うのだが、不測の事態が発生した時に一人だけでは対応する事ができない可能性が高い。
よって、最低でも二名、多ければ五名程度の集団で巡回するというのが警備兵の常識ではないか。
「あんまりこの服着て連れ立ってたら、またトリシアに余計な噂が立つからなぁ。何、いざとなりゃお前たちも手伝ってくれるんだろ?それなら問題は無いさ」
「余計な……噂?」
「お兄様、それは」
トリシアンナお嬢様が止めようとするが、聞いてしまった以上見過ごすわけにはいかない。
目で問いかけると、ラディアス様は渋々口を開いた。
「去年の今頃だったか。ディアナとトリシアが二人で街を歩いていた時、誘拐されそうになったんだよ。勿論、この子がな。で、そいつらをひっ捕らえて詰め所まで連行してたら、領主の末娘が暴漢に乱暴されたなんて噂が立っちまってな。まぁ、住人に悪気は無いんだが……正確な情報を広めるのに結構苦労した」
この方を誘拐しようとしたと。
「その犯人は?」
「処刑された」
「えっ」
何故かお嬢様が驚いた声をあげた。被害にあったご本人に知らされていなかったのか?
「処刑って。未遂ですよね?私はてっきり、王都で勾留されているものかと」
「ああ。先日詰め所に王都から通達が回ってきてな。ご丁寧に担当地方領主と司法長官のサイン入りで処刑しました、だとよ。俺だって信じられなかったさ」
「それは、意外な事なのですか?」
貴族に手を出したのだ。相応の罰のように思えるが。
「こっちの国じゃ意外な事だ。極刑ってのは、最低限殺人、若しくは更生の余地無しと見られた再犯罪者、あるいは国家反逆罪にのみ適用される。地方領主の娘とはいえ、誘拐の未遂で実行犯全ての首を刎ねるなんて聞いたことがない」
「余罪もあったとか」
捕まえてみて、ぼろぼろ出てきたというのならば更生の余地無し、となるのではないだろうか。
「まぁ、余罪はあっただろうよ。それでも精々が盗みや詐欺程度のもんだろ。極刑には足りなすぎる」
この国はどうにも犯罪者に甘いようだ。故郷であればそのような者、即刻縛り首だろう。
況してや……況してや、この無垢なる女神を攫おうなどと、神が赦そうともこの自分が絶対に赦さない。
先程からお嬢様は黙ったままだ。何かを考え込んでいるようにも見える。
「犯人がいなくなったのであれば、私の立場としては良かったと申し上げます。今後、その様な事が絶対に起きぬよう、私も目を光らせておきますので」
その様な不埒者、もし現れようものなら、目の前で膾切りにしてくれる。
「そうか、ありがとうな、ナズナ。頼りにしてるぜ」
「お任せ下さい」
如何にラディアス様が強かろうと、その場にいなければ何も出来ない。自分が確りとお嬢様をお守りせねば。
あまり平和な街に似つかわしくない会話をしながら大通りを東に歩く。程なく、巨大な商会の建物が見えてきた。
「大きいですね。故郷にもスパダ商会の出張所はありましたが、ここまでの規模ではありませんでした」
「まぁ、本店だからな。ほれ、トリシア。今日は嫌がる要素無いだろ」
「いつの話をしているのですか。大体あれはお兄様が悪いのではないですか」
少し拗ねたように見えるお嬢様もまた大変可愛らしい。そのままの姿を瞳の奥に焼き付けておきたい。
建物の中に入ると、広々とした空間の中に沢山の人々が静かに働いていた。
奥の台で手続きをして、言われるがままに書類に記入し、指を押す。
特に何か手間取ることも無く、あっという間に証紙を貰って表に出た。
「随分と簡単に作れるのですね。身元の確認も無しに……」
「身元なら確認されただろ、うちで働いてる侍従ですって言えばそれで十分だ」
「ここでも信用があるのですね。助かりました。……ただ、コウヅキの名を書いてしまったのですが、これが原因で実家に居場所がばれたりしないでしょうか」
商会は自分の国にも出張している。
「大丈夫ですよ、ナズナ。商会は、本人と記載された保証人以外には絶対に情報を見せませんから。安心して下さい」
「そうですか、お嬢様が仰るなら大丈夫ですね」
軽くなった革袋を胸元から取り出してみる。中には出来たばかりの大商会の証紙と銀貨が20枚ばかり。
「邸じゃ現金を使うことはないだろうし、街に用がある時にここで引き出して使えばいい。商会止めで支払うんでもなけりゃ、手数料も取られないしな」
言われてみればそうである。もっと早く思いつくべきだったか。
しかし、簡単に口座が作れたのもこのお二人のおかげなのであるから、思いついた所で結局は頼ることになっていただろう。
「ありがとうございます、お二人共。何かお礼をいたしたいのですが……」
「いや、礼を言われるような事じゃない。なんていうか、あれだ。福利厚生みたいなもんだ」
「フクリコウセイ?」
「働いている人に対する雇い主のサーヴィスの事です。気持ちよく働いて貰うために必要な事ですからね」
そんな考え方があるのか。従者は主に全てを捧げて尽くすのが当たり前だと思っていた。
「この街が明るい理由が分かった気がします」
恵まれた環境で働けるのなら、労働意欲も湧いてこよう。豊かで余裕があるからこそできるのだろうが、一方的に搾取するよりは余程健全だ。
「折角だから街を見て回ろうぜ。行きたい所はあるか?」
ラディアス様がこちらに向かって言う。自分に向けた言葉だろうか?お嬢様にだろうか。
「私は最近出来たというお菓子屋さんを見てみたいです。パオラがくれた焼き菓子が美味しかったもので……ナズナは見てみたい所はありますか?」
「い、いえ、私は」
自分の好みにお嬢様やラディアス様を引っ張り回すのは恐れ多い気がするのだ。
「遠慮しなくてもいいですよ。デートなんですから。行きたい所に行きましょう?」
「はっ……で、では、港の市場を拝見したいです。島国の育ち故、新鮮な魚には目がなく」
お嬢様からデートだと言われた。
デートだと言われたのだ。
「おう、それじゃその菓子屋から行くか。魚はあんまり長いこと持ち歩くのもアレだからな。しかしデートか、両手に花だな」
「お兄様、まさかとは思いますがナズナに手を出したりはしていないでしょうね」
「あのなぁ……」
兄妹仲も非常によろしくて、見ているだけで心が癒されていく。両手に花というのはこちらの台詞だと、お二人に伝えたかった。
件の菓子屋は北側の通り、住宅の立ち並ぶ区画の中に出来ていた。
こぢんまりとした店だが、店の中には数名の客がいるのが見て取れる。開店したばかりだという話だが、それなりに繁盛しているようだ。
三人が三人とも、以前パオラの持ってきた干し葡萄を挟み込んだ焼き菓子を買って出た。ラディアス様などは一人で5袋も買っている。
「ラディアス様は、そういう甘いお菓子もお好きなのですか?」
意外に思って、失礼かとは思ったが聞いてみた。
「あぁ、別に特別好きってわけじゃないんだが、俺は珈琲が好きでな。仕事中にも良く飲むから、こういうのが結構合うんだよ。あと、こういうのは詰所に置いとけば休憩中に他の奴も摘んで食えるだろ」
なるほど、部下思いの優しい方でもあるのだ。
「珈琲は私も好きですが、アインお兄様やお父様があまり好まれないんですよね。なので邸には置いていないのです」
「そうでしたか。それでは、珈琲も買って帰りましょうか?私はあまり飲み慣れませんが、好きな方がいらっしゃるのに邸に無いというのも良くないでしょう」
こういった嗜好品は定期的に買い付けている為、侍従長やアンドアイン様に言えばその中に入れてくれるだろう。しかし、ラディアス様はなぜかそういった事に口出しするのは控えているようなのである。
「そうか?それはありがたいな。どうも、珈琲とか酒とかは兄貴に頼みづらくてなぁ」
「別に頼んでも良いではありませんか。お兄様だってあの邸の家族でしょう?」
「それはまぁそうなんだが、この辺りの感覚はやっぱりわかんねえか」
「わかりませんねぇ」
そういえばラディアス様が邸でお酒を嗜まれている所を見たことがなかった。
「ラディアス様はお酒は嗜まれないのですか?」
「ん?いや、普通に飲むぞ。邸ではあんまり飲まないがな」
これも好みの酒を置いていないという事だろうか。
「それではお好みのお酒なども……」
「いやいや、流石に荷物が増えすぎだろ。あと、俺は飲む時は街で飲んでるからいいんだ。気を使わないでくれ」
「そうですね、お尻を見ながら飲んでいるんですよね」
「……尻ですか?お望みとあらば」
「いや待て、トリシア。ナズナが誤解しただろうが。ナズナも、こんな話真面目に聞かなくていいから」
慌てて否定するラディアス様。しかし尻を肴に酒を飲むとは、変わった風習もあるものだ。自分の貧相な尻で良ければいくらでもお見せするのだが。
「お尻と言えば……ナズナは他の服が必要になったりしないのですか?」
何故尻の話から服に?と思ったが、お嬢様には何か深遠なる思考回路がお有りなのだろう。
「侍従服があれば事足りますので。あまり激しい動きには向きませんが、咄嗟の時は尚更、着替えている余裕などありませんから」
逆にこの服装での動きに慣れておくべきだろう。太ももに隠してある短剣を取り出す所作などは、もっと迅速に出来るはずだ。
「いや、そういう事ではなくてですね」
「あぁ、そうだな。個人的に街に出る時の服ぐらいはあってもいいかもなぁ」
その言葉に、お嬢様は自分の兄を珍しい物でもみるような目で見た。
「えっ、なんですか、お兄様が女性の服装に理解を……?はっ、まさかやはりナズナを」
「あのなぁ。ナズナ、今年の合同宴会に出るんだろ?流石にそこに侍従服で来たらまずいだろ」
そうなのだろうか。
「あぁ……ナズナはあれに出席するのですか。大丈夫ですか?お兄様」
「俺も出るから大丈夫だよ」
「逆にそれが心配です」
「どういう意味だ」
何か問題でもあるのだろうか。首を傾げていると、ラディアス様が先導して歩き出した。
「市場と珈琲より先に服屋に行こう。言えば邸に届けてくれるから、荷物にはならないはずだ」
「そうですね、そうしましょうか」
お嬢様もついて歩き出す。服など必要ないと思うのだが、ついていくしか無いだろう。宴会にも作法があるのかもしれない。戻ったら同僚の誰かを捕まえて聞いてみようと思った。
連れてこられた服屋は、東西の大通りに面した、周囲と比べれば小さな店だった。
お二人共慣れているのか、ガラス張りの扉を開けて中へと入る。慌ててその後ろに続いた。
「ラディアス様にトリシアンナお嬢様、いらっしゃいませ」
店の奥にいた店主は顔見知りなのか、わざわざ出てきて二人に挨拶をした。
「やあ、店主。先の件では世話になったな」
「その節はありがとうございました、大変助かりました」
「そんな、とんでもございません!あの後領主様からも感謝の言葉を頂きまして、我々のした事は当たり前の事ですのに恐縮です」
どうやらこの店にはお二人共何がしかの恩があるようだ。こちらも黙っているのは気まずいので、黙礼をしておく。
「それで、本日はお嬢様の衣装を?」
「いや、今日は連れの服を見に来たんだ。海龍亭の大広間でやる宴会に出るから、適当なのを見繕ってほしい」
ラディアス様はこちらを示して言う。待ってほしい。そんなに装いに厳しい場所なのか。
「左様ですか。侍従の方ですか?どういったものがお好みでしょう」
好みと言われても良くわからない。黒装束か侍従服しか着たことがないのだ。
「はぁ、好みと言われましても……好みの色は黒ですが」
「なるほど、落ち着いた上品な物がお好みですな。少々お待ち下さい」
店主は店の中を動き回り、品を見繕っているようだ。しかし……この店の服は。
近くの衣装掛けにかかっている服の値札をいくつか見て、顔には出さずに驚く。一着30だとか50シルバの服ばかりだ。これは、流石に……。
「あのう、お嬢様」
腰を屈めて耳元で囁く。いいにおいがする。
「その、ここの服は私には勿体ないのではないかと……手持ちも足りませんし」
その言葉に、お嬢様はくるりと振り返って言った。顔が近い。神々しい。
「大丈夫ですよ、ここはお兄様が払ってくれますから。これも福利厚生だと思って下さい」
「えぇ……?流石にそれはやりすぎでは」
高価な服など、仕事に何の関係もない。あまり甘やかされても逆に困ってしまう。
「いいのですよ。寧ろ、侍従にまともな服も用意できない職場なのかと思われても困りますし。大丈夫です、お兄様はあれで毎月9ガルダとか貰ってるんですから。ここの衣服代など屁みたいなものです」
お嬢様に似つかわしくない例えを出されたが、確かにそれだけ貰っているなら余裕はあるだろう。しかし、雇い主の家族に金を出させるのは。
「ん?どうした?あぁ、その顔は見たことがあるな。トリシアも以前、武具店で同じ様な顔をしていたぞ」
ラディアス様がこちらの内緒話に気がついた。
「あの時はお兄様がどれだけ稼いでいるかなんて知らなかったのです。今は大いに甘えさせてもらいます」
「手加減はしてくれよ」
「あのう、もう少し安いお店でも――」
「お待たせしました、こちらなどいかがでしょう」
店主が女性の従業員を一人引き連れて、両手に服を下げてやってきた。
「わぁ、素敵ですね。ナズナ、試着してみてはいかがですか」
「え、いえその」
「試着ですね、こちらへどうぞ」
押し切られる形で大きな鏡のある個室へ服と一緒に放り込まれる。もう、こうなってしまったら着ないわけにはいかないだろう。
仕方なく侍従服を脱いで、真新しい衣服に袖を通す。
白と黒を貴重とした長袖の一繋ぎの服で、腰から下は比較的ゆったりとしたスカート状になっている。腰の下に金属の型が入っているようで、ふわりと浮いた感触がなんだか落ち着かない。
背中のファスナーを上げて鏡を見ると、黒髪の貴族の娘がこちらを見返していた。
「わぁ、素敵です!」
「良くお似合いですよ。白と黒が髪色にも良く合っています」
お嬢様と従業員両方に褒められる。悪い気はしない。
「次はこちらをお試しになりますか?」
「ナズナ、こっちも着てみて下さい!」
押し切られるまま、次々と着せ替え人形になってしまうのだった。
「それでは、採寸も終わりましたので、手直しをしてお屋敷にお届けしますね。二日ほどでお届けできると思いますのでお待ち下さい。毎度、ありがとうございました」
結局、65シルバもする高価な服を一揃い、ラディアス様に買って頂いた。勿体なくて着れる気がしない。
「ナズナはスラッとしてて格好いいので、色んな服が似合いますね。私も早く背が伸びないかなぁ」
「お嬢様は今のままでも十分すぎるほどに素敵ですよ」
これ以上何を望まれるというのだろうか。
しかし、成長したトリシアンナお嬢様の姿を想像すると、これはこれで尊いと思えてしまうのがすごい。
「済みません、ラディアス様。連れ回した挙げ句に服の代金まで出して頂いて」
この恩にどうやって報いれば良いのか、想像もつかない。
「気にすんな。侍従もある意味家族みたいなもんだからな。その代わり、トリシアの事をしっかり見ててくれよ」
「無論です」
駄目だと言われても見続けるだろう。寧ろ穴が空くほど凝視したい。
輸入品を扱う雑貨店で珈琲豆と淹れる為の器具諸々を購入し、こちらもメディソン家に送って貰った。
自分が払うと言ったのだが、俺が飲むのだと言い張るラディアス様に強引に押し切られ、結局今まで、貰った給金を殆ど使うことが出来なかった。
「ナズナ。ナズナの国では、魚を生で食べることがありますか?」
港に隣接する市場に向かう途中、お嬢様が突然仰った。
「ありますよ。造りですね。私も好きです」
「やっぱり!ほら、お兄様。私だけじゃなかったでしょう?」
お嬢様は造りが好きなのか。しかし、気をつけないと割と中たりやすい食べ方なのだが。
「造りで食べるのは海の魚だけですね、川魚は中たりやすいので危険です。あと、新鮮なものでないとこれもまた中たります」
「そうですね、海沿いの街の特権です。あとは、獲ってすぐにしっかり冷凍しておけば大丈夫ですよ」
「そうなのですね。確かに蟲は冷凍すれば死にますし、すぐに凍らせれば鮮度も保てそうです」
獲ったばかりの魚にも、内臓に蟲が巣食っている事が殆どだ。魚が死んで暫く放置すると、内臓にいた蟲が身の方にまでやってきてしまう。そのため、新鮮な魚はすぐに内臓を取り除くのが造りの重要な手順でもある。
「虫?そういや以前も言っていたが、虫って、虫の事だよな?」
「はい、虫です」
「蟲ですね」
白くて細長い、小さい蟲が居る。それを生きたまま身体の中にいれると、中たる。
大抵は暫く吐いたりすれば収まってくるが、人によっては運が悪ければ死ぬ事だってある。
「蟲は大抵内臓にいますが、時々身にもいますので……よく見て取り除くか、お嬢様の言っていたように殺してしまうのがいいですね。火を通すか、凍らせて暫くすれば大丈夫です」
一番安全なのは焼くか煮るか蒸すか揚げるかしてしまえば良い。そうすれば、毒魚以外は概ね安全に食べられる。
「そりゃ分かるけどよ、そこまでして生で食いたいものなのか?」
文化が違うのだ、当然の疑問であろう。
「別に拘る必要は無いですよ。私の国でも煮魚や焼き魚にするのが一般的ですので。ただ、造りには造りでしか味わえないものも存在しますので」
脂ののった旬の魚を造りにして食べると、それはもう得も言われぬ幸福感がある。青魚などは痛みやすいが、その分、新鮮な物を造りにすると極上の美味でもあるのだ。
「そうなのか……トリシアの言っていた事は一応は正しかったんだな」
「一応はとはどういう事ですか。きちんとした手順を踏んだ料理なのですよ」
その通りである。ただ生で食らっているわけではなく、処理の仕方から切り分け方に至るまで、きちんと考えられたれっきとした料理なのだ。
「お嬢様、宜しければ市場で新鮮なものがあれば、私が造りにしてさしあげましょうか」
何気なく言ったのだが、お嬢様は瞳を輝かせて食いついてきた。
「本当ですか!是非!お願いします!あぁ、楽しみだなぁ!あっ、ビーンズソースとホースラディッシュも買って帰らないと!」
とてもかわいい。ああかわいい。それ以上の語彙が浮かんでこない。
「随分と造りの食べ方にお詳しいのですね。そうですね、山葵はこちらではホースラディッシュというのでしたか」
「はい、そう!ワサビです!輸入品の中に無いのが残念ですが……」
「香りが微妙に違いますからね。ただ、あまり違いはありませんので問題ないでしょう」
山葵は渓流で育てるが、ホースラディッシュは山に生えているらしい。微妙に香りは違うものの、摩り下ろせば似たような風味と辛味がある。
「トリシアの好みはなんか東方諸島寄りなものが多いな。てことは、ナズナの故郷でもクラーケンの子供を食べるのか?」
「えっ?あれって食べられるんですか?」
その言葉に、何故かトリシアンナお嬢様がひどく悲しい顔をされた。何か粗相をしてしまったのだろうか。
「お、お嬢様。どうされました?何か私に至らぬところでも」
いけない。こんな悲しい顔をされては自分も苦しくなってしまう。
「いいえ、ナズナ。あなたのせいではないのです。全ては世界が悪いのです。そう、世界が」
「お気を確かに、お嬢様。そうですか、世界。世界が悪いのであれば、この私めが世界を破壊して差し上げましょう。手始めにこの街を」
「おいおい、この街の警備兵がここにいるんだぞ。物騒な事を言うな」
落ち込んだお嬢様を宥め賺して、どうにかご機嫌を戻された頃に、市場へと辿り着いた。
サンコスタの市場は活気に満ちている。故郷の市も賑やかではあったが、流石にこの規模には敵わない。
「おっ、ラディアスの旦那!今度は小さい彼女連れですかい?同じ年頃に相手にされなくなったからって、子供に手ぇだすなんて警備兵としてどうなんですかねぇ?」
気安い冗談を飛ばしてきたのは、頭の綺麗に禿げ上がった中年の男性だった。
「うるせえよ。また下らねえ冗談飛ばしやがって。ほれ、ナズナ。良さそうなもんがあるかどうか見てみな」
「はい、ラディアス様」
侍従の格好をしているのに彼女も何もあったものではないだろう。身分が違いすぎる。
冗談というのは冗談と分かるから通じるものなので、その点に関してはこの男性の言葉は分かりやすく、嫌悪感も無い。
並んでいる魚を見る限り、どれも新鮮で問題はなさそうだ。ただ、今朝獲れたものであるにせよ、造りにするなら青魚は避けたほうが良いだろう。お嬢様に供するのだ。万が一もあっては困る。
「こちらの、座布団と笠松魚……パインフィッシュを頂きたい。出来れば箱ごと、氷もつけて」
「あいよ!お嬢ちゃん、目が肥えてるね。今残ってる中で一番いい奴だ」
座布団は底生の平たい魚で、上品な味わいの白身魚だ。造りにしても濃縮された旨味を持つその繊細な味は、お嬢様にぴったりだろう。
笠松魚は比較的種類の多い魚ではあるが、この赤いものは故郷では特にめでたいものとして人気がある。焼いても煮ても美味いが、造りにするとプリプリとした食感が独特で、これもお嬢様に供するのであれば相応しい魚だろう。
少し値は上がるが、箱ごと買い取る事で鮮度も保てる。
「おじさん、今日はその……アレは入ってないですか?」
トリシアンナお嬢様が、店主に話しかけている。
「アレ?あー、アレか……残念ながら今日はウチには無いなぁ。あ、そういや3ブロック先のところが混じってたって言って騒いでたな。行ってみちゃどうだい?」
「本当ですか!ありがとうございます!」
お嬢様には何か目的の魚でもあるのだろうか。かなりの魚種が揃っているここに無いという事は、かなり珍しいものなのだろう。
箱ごと魚を受け取って代金を払う。ずしりと重いが、この程度であれば担いで走るのに何の問題もない。何よりお嬢様の所望する造りの為なのだ。そう思えば羽のように軽く感じる。
「お兄様、ナズナ。ちょっとここで待っていてください。欲しい物があるので買ってきますね」
言うなりお嬢様は奥へと早足で向かって行かれた。一緒に行けば良いだろうと思うが、もしかしたら荷物を抱えている自分に配慮してくださったのかもしれない。ありがたい。頬ずりしたい。
「お待たせしました!では、そろそろ戻りましょうか」
お嬢様は胸に大きな紙袋を抱えている。中には魚が入っているようだが。
「お嬢様、そちらのものもこの箱に入れますか?そのように抱えておられては動きにくいでしょう」
「うーん……そうですね、鮮度を考えればその方が良いかもしれません」
そう言って、自分の持つ箱の中に紙袋ごと入れた。中身を出したほうが冷えるのにとは思ったが、特にそこに疑問は持たずに蓋をする。
「では、戻りますか。お二人共、本日はありがとうございました」
「おう、それじゃ俺は一旦詰所に戻るからな。急ぎじゃなけりゃフランコの馬車を待って乗って帰ってもいいぞ」
夕刻は近いが微妙なところだ。走って帰ったほうが早いかもしれない。
街の北門に向かって歩きながら、お嬢様の横顔を眺める。
傾きかけた西日が照らすそのお姿は神々しく、最早美の化身と言っても過言ではない。ずっと見ていても見飽きることは無いだろう。
自分の視線に気付いたのか、こちらを見て笑顔を投げて下さる。もう死んでもいい。
北門に着いた頃合いは、やはり馬車を待つには早すぎたようだ。ここはいつも通りに走って移動した方が良いだろう。
「お嬢様、どうされますか?待つよりは移動したほうが早いと思われますが。」
「えっ……そうですね。……や、やっぱり荷物が多いので、フランコを待ちましょうか」
確かに買い物をしたので荷物はあるのだが。
「この程度でしたら問題ありませんが。いえ、お嬢様がそうおっしゃるのでしたら」
何かお考えがあるのかもしれないのだ。自分如きが軽々に意見すべきではないだろう。
氷と鮮魚の入った箱を持ち直しながら待つ。待っている間お嬢様を見ていられると思えば、それもまた悪くない。出来れば魚は早めに捌きたいが、きちんと処理さえすれば大丈夫だろう。
秋風吹くその場でじっと待っていると、坂の上からフランコさんの操る馬車がやってくるのが見えた。
馬車が止まって降りて来たのは侍従のジョヴァンナさん、ジュリアさん、庭師のジュゼッペさんとアメデオさんだった。
お疲れ様です、と挨拶をして、入れ替わりに馬車に乗り込む。
お嬢様に聞けば、普段は朝一番に迎えの馬車に乗って、帰りは送りに便乗するのが楽なのだという。休日に街に出る場合には覚えておいたほうが良いかもしれない。
侍従服の裾を上げて走るのも別に苦ではないが、買っていただいた服を着ては流石に走るのに抵抗がある。
馬車に揺られながら、料理長のマルコさんは厨房を貸してくれるだろうかと、あまり意味のない心配をして過ごした。
厨房を少し借りたいと申し出ると、マルコ料理長は快く承諾してくれた。
既に夕餉の支度は終わっていたようで、主として使いたい流しや調理台は綺麗に片付けられていた。
竈には大きな鍋が乗っているが、火は使わない為関係ない。
持ち込んだ氷箱から、まずは座布団を取り出して調理台の俎板に乗せる。
丸々と太った座布団は大きく、非常に食い出がありそうだ。
横たえた座布団の表面に尻尾からナイフを当て、ウロコを削いで剥がしていく。
裏面も同様にして綺麗に外し、エラの隙間から刃を入れて、首を落とす。
内臓をすべて引き出して水洗いし、表の身を中央から両断するように切れ込みを入れる。
尻尾にも切れ目を入れた後、両側の背びれから刃を入れて骨から身を離すと、綺麗に分けられた4つのサクが完成する。所謂五枚下ろしという形だ。
サクの中から背鰭に近い薄い部分を切り取る。この部分はエンガワと呼ばれる部位で、取れる量が少ない割に食感が良いので珍重されている部分だ。
身とエンガワから皮を引いて剥がし、薄くそぎ切りにしていく。虫はいないようだ。
立派な座布団なので一枚一枚が大きく、折り曲げるようにして花のように輪を描いて、白磁の皿に盛り付けた。
「へぇ、若いのに大したもんだなぁ」
マルコ料理長が感心して眺めている。
「こちらでは造りにする事があまり無いのですね。故郷では、私ぐらいの歳になればみんな魚は捌けます」
海辺に住んでいれば、庶民は嫌が応にも魚の扱いを覚えるのだ。
魚は豊富に獲れるが、作物や肉はそこまで口に入らない。殆どが売り物としてしまうか、税として召し上げられてしまうからだ。
「そうさなぁ。こっちじゃ船乗りや市場の人間ならできるだろうが、あとは料理人でもなけりゃこんなに手早くは捌けんよ」
「船乗りの方なら造りも知っているかもしれませんね、陸に出回らないだけで」
船上では調理器具も多くないだろうし、魚を生で食べられる事は知っているだろう。
そのまま次の笠松魚を捌こうと蓋を開けた時、トリシアンナお嬢様が厨房の入り口に顔を見せた。
「あの、私も調理台を使わせてもらってもいいですか?」
「お嬢様もですかい?そりゃ構いませんが、何をされるので?」
「私が買ってきたものは、恐らくナズナでも捌けないと思うので」
心外である。およそ食べられる魚はほぼ全て捌いた経験があるのだ。その自分に出来ない魚があるなど。
お嬢様に悪気は無いのだろうが、こうした事は下々の者に――
笠松魚の入っていた箱から、例の紙袋を取り出した。僅かに覗くその吸盤のついた触手。
「……市場で話していたのは本当だったのですね、まさかクラーケンの子供が売られているとは」
隣の調理台に乗せられたのは紛うことなき海の悪魔、恐るべき魔物のクラーケン……の、子供だった。
「大半は海上で捨てられるそうですが、時々避けきれていないのが混じるそうなんです。殆ど捨て値で売られているので、勿体ないと思って買ってきました」
「それは……そうでしょう。精々魔物の研究材料に使うぐらいしか思いつきません。お嬢様、中っては事ですのでそれは……」
得体の知れない物を大切な主君に食べさせるなど以ての外だ。毒でもあればどうするというのか。
「大丈夫ですよ。時々虫がいる事はありますが、毒は無い種類です。マルコ、ナイフを貸して頂けますか」
自分の忠告にも耳を傾けず、かわいらしい手で受け取った調理用のナイフを使い、まだ蠢いているそれに止めを刺す。
随分と慣れた手付きで解体し、蟲の確認まで済ませて、見る間に平たいサクの状態にしてしまった。
「今日は足も生で食べようかな。吸盤はしっかり落とさないといけませんが」
どうにもトリシアンナお嬢様は以前にも食べたことのあるような口ぶりだ。手慣れた捌き方を見てもそれは一目瞭然なのだが……。
またたく間に透き通った白い身が皿の上に綺麗に並ぶ。これだけ見ればあの醜悪な姿の魔物だとは思えない、美しい造りに見える。
はっと我に返る。そうだ、笠松魚がまだ残っていたのだった。
慌てて自分の作業に戻る。身の美しさと言えばこちらの笠松魚の方が上なのだ。
「ふむ、今日は大皿の料理があるな……随分綺麗だが、これは生かね?」
珍しくご家族が同時に食事の時間に集まって来られた。大抵はラディアス様かディアンナ様が欠けているものだが。
「ヴィエリオ様、そちらは東方諸島では比較的一般的な料理で、造りというものです。ナズナとトリシアンナお嬢様両名にて調理されたものです。生ですがお腹を壊すという事もありませんので、こちらのビーンズソースとホースラディッシュを付けてお召し上がり下さい」
マルコ料理長が造りの説明をする。流石に名うての料理人だけあって、食べ方も知っているのだ。今までは単に生の魚介類を提供するのに抵抗があった、というだけの話だろう。
普通に他の料理もあるので、追加で出して好みで食べる分には問題ないという事だ。
「ほう、トリシアが。魚を生で食べるのは初めてだが、一つ試してみようか」
「ち、父上。その、細長くて白いのだけはやめたほうが良いですよ」
事情を知っているラディアス様が横槍を入れる。
「そうか?とりあえずこの桃色の魚を頂くとしようか」
領主様自身で取り分け用のトングで笠松魚を2、3切れ摘んで、自分とマリアンヌ様の取皿にそれぞれ取られる。アンドアイン様も倣って、薄い身の座布団の方を取られた。
「ホースラディッシュは辛いので、つけるなら少量にしておいた方がいいですよ、お父様、お兄様。私はこれを頂きますね」
トリシアンナお嬢様は自ら捌いたクラーケンを取られる。本当に召し上がるのか。
「へー、そういうのがあるってのは知ってたけど、食べるのは初めてね。私もこの綺麗なピンクのにしよっと」
笠松魚は人気だ。ディアンナお嬢様もやはりこの美しさがお気に召したようだ。
ラディアス様だけが手を伸ばさず、いつものシチューを口に入れている。
「ほう、これは中々美味だな。生の魚とは、こんなにも甘さを感じるものなのか」
「ええ、こちらのは歯ごたえがあり旨味も強いです。生の魚は生臭いものだと思っていましたが、これには全くそのような臭いもありませんね」
「とっても美味しいわ。これなら時々食べてみたいかも」
「ほんとだ。甘くて歯ごたえがあって、この塩気のあるビーンズソースともよく合う。へぇ、確かにこれなら料理って言ってもいいわ」
反応は上場だ。良い物を選んできてよかった。
トリシアンナお嬢様は、一人だけクラーケンを黙々と召し上がっている、表情に喜びという喜びが溢れていて吸い込まれそうだ。
……クラーケンとは、そんなに美味しいものなのだろうか。
「トリシアが食べてるのって、それは何の魚なの?それも白くて透き通ってて綺麗ね」
「お姉様。これは以前、ユニお姉様と話をしていたときに話題にしたものですよ」
「あ、あぁ。アレね。へー、見た目は宝石みたいに綺麗なのにねぇ」
ディアンナお嬢様もアレの正体をご存知のようだ。
「アレ?アレとは何だ?」
アンドアイン様が反応する。あまり聞かれないほうが宜しいかと。
「兄貴、知らないほうがいいぞ。世の中には知らないほうが幸せなことが沢山あるんだ」
ラディアス様の忠告も虚しく、ディアンナお嬢様は答えてしまわれた。
「アインお兄様、これはクラーケンの子供です。お造りにするととても甘くて歯ごたえがあって美味しいですが、煮ても焼いても味の出る素晴らしい食材ですよ」
その言葉に場が凍りつく。ああ、言わんこっちゃない。
「ふむ、そうか。アレは皆、捨てていると思ったが、食せるものだったのだな。どれ、私も一ついただこう」
「ち、父上!?」
ラディアス様が驚くなか、ヴィエリオ様が細切りの造りをソースにつけて口へと運ばれる。
「おお、本当だ。これは、先程の魚とはまた違った旨さがあるな。何よりこのねっとりと絡みつくような舌触りと、弾力のある歯ごたえが素晴らしい」
ディアンナ様も興味を持ったのか手を伸ばす。
「どれどれ?あっ、ほんとだ!すごく甘い!アレってこんなに美味しいものだったんだ。足も食べてみよ」
「お姉様、そんなに一度に……」
元々好奇心の強い方なので抵抗は少なかったのだろう。自分の取り分が無くなると思って慌てているトリシアンナお嬢様が可愛い。
「私は……遠慮しておこうかしら」
「うむ、私も少し」
マリアンヌ様とアンドアイン様はやはり抵抗感があるのか、手を伸ばそうとはしない。
うまいうまいと喜んで食べている三人を奇異な目で眺めている。
またたく間に綺麗になった皿を前に、家族は各々の個性的な表情を浮かべている。
「造りというものは中々良いものだな。ナズナ、トリシア、ありがとう」
「我が身には過分なお言葉、痛み入ります」
深く頭を下げる。喜んで頂けたなら何よりだ。
「今まで生の魚を食べるという事は無かったが、マルコ、このような料理は他にもあるのか?」
アンドアイン様が料理長に聞く。
「ええ、ございますよ。サラダに和えたり、柑橘やオイルのソースをかけたものであったり。今までは皆様抵抗あると思ってお出ししていませんでしたが、良い魚が手に入れば考えてみましょうか?」
「そうだな、それも美味そうだ。是非頼む」
「承知しました」
お一人を除いては満足されたようだが、その事がどうしても気にかかる。
食後のお茶が終わり、各々が席を立たれた時、頃合いを見計らって厨房から外へ出た。
「ラディアス様」
部屋に戻ろうとされている方に声をかける。
「ん?おお、ナズナか。どうした?」
「ラディアス様は造りがお気に召されなかったようで……余計なことをしてしまいました。申し訳ございません」
後先考えずに行動して、お一人に居心地の悪い思いをさせてしまった。
余りに軽率な自らの行いに、謝罪でも消えない後悔の念が湧き上がっている。
「何言ってるんだ。他の皆は喜んでただろ?俺のはただの食わず嫌いなんだ、そんな事、一々気にしなくてもいいぞ」
「しかし」
ラディアス様は私の頭にぽん、と手を置いて続ける。
「俺の家族を喜ばせようと思って、市場で身銭切ってまでいい魚を選んでくれたんだろ?俺がそんな良い子を恨むような人間だと思ってんのか?」
「いいえ、そのような」
「それじゃあさ、今日買った珈琲が届いたら俺のために淹れてくれよ。今までうちでは飲めなかったからさ」
優しさが沁みる。
「承知しました。あの、ありがとうございます」
ラディアス様は、それじゃおやすみ、と言い残して階段を上って行かれた。
あの方の為に、是が非でも最高の珈琲を用意しなければ。
一つの問題は、今まで珈琲など一度も淹れたことが無い事だが。
心地良い季節はすぐに過ぎ去り、どんどんと日は短くなる。
つるべ落としとは日の動きのみにあらず、季節の移ろいも秋から冬への移行は足早にやってくるものだ。
日々、鍛錬と狩りを繰り返すトリシアンナお嬢様は、ある日の午後、私とディアンナお嬢様の前で小さな不満を口にされた。
「手応えがありません」
毎日魔物の駆除に精を出されたおかげか、大型のものは全く見かけなくなった。まばらに見られるルナティックヘアはこの時期、そこそこうろついているものの、それ以外の魔物は影も形もない。
「そうねえ、ちょっとマンネリ化してきてるかもね。こんな頻度で裏山の狩りをしたことなんてなかったから」
「絶滅しかけているのでしょうか」
それはないだろう。
「ないない。魔物はいくらでも湧いてくるからね。ただ、発生頻度よりも上回る速度で駆除しちゃってるってだけ」
はっきり言ってこのお二人の狩猟ペースは尋常ではない。出かければ即座に一体は見つけ出し、すぐさま瞬殺、その場で解体処理である。
時間が余れば次の獲物、という具合だ。
大きいものから優先して狩っているとはいえ、これでは魔物も枯渇しようというものだ。
「どうにかなりませんか、お姉様」
「いやいや、流石の私も魔物を発生させることはできないからね?……そうねぇ、それじゃあ、街の冒険者協会を覗いてみましょうか」
「冒険者協会、ですか?」
サンコスタの街、東西の大通りに面した西寄りの場所に、冒険者協会のサンコスタ支部がある。ただ、基本的に冒険者登録した者や、依頼の為に訪れる人々の為の施設なのだが。
「ディアンナお嬢様は、冒険者登録をしておられるのですか?」
現役の研究者が冒険者を兼業しているというのは聞いたことがない。
「してないよ。でも、出入りは自由だし。たまーに耳寄り情報もあるからねぇ、ガセも多いけど」
「いいんですか?それって、冒険者の方々の獲物を横取りする事になるのでは」
トリシアンナお嬢様の懸念も尤もだ。この地を治める領主の娘がそんな事をしては、余計な波風が立ってしまう。
「だからね、誰も挑まないようなヤバいやつとか、情報が不確かで誰も受けてないものとかなら平気でしょ。それか、報酬が安すぎて誰も受けてくれないようなのをこっそりと処理したりとか」
売れ残りの処理、という事か。
「なるほど、確かに高額の報酬が用意できない方の依頼は残りがちです。冒険者も慈善事業ではありませんので」
「それならばまぁ、……いいんでしょうか?」
「いいのいいの。困ってる領民を助けるのも領主の務めでしょ?領主代行サーヴィスよ」
「また勝手な……でも、確かに困っている方がいらっしゃるなら、力になってあげたいですね」
トリシアンナお嬢様は実にお優しい。もはや女神。世界の光である。しかも可愛い。
「決まりね、そんじゃ行きましょうか」
お二人は最近ようやく慣れ始めた珈琲を飲み干して立ち上がる。専従の自分も勿論一緒だ。
飲み終えたお二人の食器を片付け、いつもの様に邸の南へと向かった。
サンコスタにある冒険者支部は、故郷にあったものよりも数倍大きい。
常に開きっぱなしの扉を潜って中に入ると、広々としたロビーに沢山のテーブルと椅子が置いてある。
冒険者の休憩所にもなっているので、軽食や飲み物、少量の酒なども提供されていて、大声で会話している者たちも多く、実に賑やかだ。
ただ、あまりトリシアンナお嬢様には似つかわしくない場所である。柄の悪い者も多く、身なりの良いお二人に近づく者には、十分に注意を払わなければならない。
「ナズナ。あんまりそのように殺気を撒き散らしていては目立ってしまいますよ」
「はっ、申し訳ございません」
確かに、目立ってしまえば余計にちょっかいをかけられやすいだろう。流石はお嬢様。
「ほら、あれが一般掲示板。カウンターでの相談は登録してないと出来ないから、あそこにあるのを見ましょ」
掲示板というよりも、壁だ。壁一面に同じ様式で書かれた依頼書がびっしりと張り出されている。
「あたしはあっちから見てくるね、出来るだけ日が経ってて、依頼料が安くて、難易度の高いものを探して。目安は階梯5以上、6とか7ぐらいまでが目安かな」
言ってディアンナお嬢様は壁の反対側へと向かわれた。こちらも目の前にある依頼書の群れに目をやってみる。
「沢山ありますね、こんなに困っている方が多いのですね」
最も多いのは魔物の討伐だろうか。一定数の駆除を要求するものが多く、依頼料も概ね相場通りのものが多い。
脇からやってきた三人組が、わいわい言いながら一つの依頼書を毟り取ってカウンターへ持って行った。確かあれは、西の果樹園から出されていたブラッディボアの定数駆除の依頼だ。
見回してみると次に多いのは護衛。大抵はこの街からエストラルゴかサバスへの道中依頼だ。
護衛は流石に冒険者登録をしていないのに行うわけにはいかない。間違いなく数日の同行になる事もあるし、これは除外だろう。
あとは魔物の生息数調査、失せ物探し、依頼品の納品に、珍しいものでは船舶への貨物の積み込みというものもある。忙しい時に人手が欲しいのだろう。
「あっ、ナズナ、これはどうでしょうか」
お嬢様が指さしたのは、討伐依頼の一つ。依頼受付日が三週間前で、内容はクリムゾンメイルの巣の殲滅。依頼料は……30シルバ。これでは誰も受ける気にはならないだろう。
目安は階梯6となっている。当然だろう。
クリムゾンメイルとは、その名の通り全身が真っ赤な蟻の魔物である。
通常の蟻の生態と同じく、女王蟻を中心とした社会性を持ち、集団で狩りを行う。
一番の問題はその装甲の硬さと大きさである。小さい働き蟻でも大型犬ほどの大きさをしており、兵隊蟻になると仔牛程度のサイズまで成長する。
頑丈な殻に覆われた体表は、並の剣では刃を通さない。弱点は関節だが、昆虫特有の素早さで動き回るため、狙って攻撃するのはかなり困難となる。
そんなものが集団で60から100、大きな巣では200匹以上も集まっているのだ。危険極まりない。
家畜や人的被害もさることながら、その蟻は行動の目印として酸を吐く為、植物にも甚大な被害を及ぼす、迷惑千万な魔物である。
「この依頼料では流石に誰も受けないでしょうね。場所は北西部の農地開拓場。なるほど、なけなしの資金で農地開拓を始めたけれど、蟻の出現で思うように進まなくなった、という事でしょうか」
二人でそんな事を話していると、後ろから男女の二人組に声をかけられた。
「お嬢ちゃん達、それ受けるの?やめときなさい。……って、あら?トリシア?」
「エマさん!ジョルジュさんも」
お嬢様のお知り合いのようだ。
「久しぶり!元気だった?一年ぶりくらいかしら」
「はい、前の冬以来ですね。お陰様で。お二人は依頼を受けに?」
「ええ、そうよ。この時期は意外と忙しくてね。そちらのお嬢さんは?」
どことなく色気の漂う、若い冒険者の二人だ。お嬢様とはどのようなご関係なのだろうか。
「お初にお目にかかります。この秋よりトリシアンナお嬢様の専属侍従を務めております、ナズナ・コウヅキと申します、お見知りおきを」
随分と親しい間柄のようなので、丁寧に挨拶をしておく。
「エマヌエーレよ。こっちは旦那のジョルジュ。トリシア、というかメディソンの若旦那に王都までの護衛として雇われたことがあってね」
「左様ですか。お二人の護衛、感謝申し上げます」
お二人の護衛という事は、それはもう相当に腕の立つ冒険者なのだろう。
「それよりお嬢様、お嬢様はいつから冒険者に?」
分かっていて聞いているのだろう。ジョルジュの口元に嫌味のない笑みが浮かんでいる。
「いえ、その。誰も受けないような依頼があれば、お力になれればと思って」
少しばつが悪そうにもじもじとするお嬢様。可愛すぎて体中の穴という穴から何かが吹き出しそうだ。
「そうですか、まぁ、誰も受けないようなものなら問題ないですが……いくらお嬢様でも、お二人でクリムゾンメイルは厳しくないですか」
「ああ、いえ、二人ではないのです」
「トリシア―、何かいいのあった?」
丁度ディアンナお嬢様が戻ってこられた。
「あっ、お姉様。今こちらの依頼を――」
「「ぐ、紅蓮の魔女!?」」
二人が声を上げると、周囲がざわついた。こちらに視線が集まる。
「何よ、藪から棒に。はいはい、そうですよ。紅蓮の魔女様ですよー」
紅蓮の魔女とは何だろうか?首をひねっていると、お嬢様が裾を引っ張って口を寄せてきた。屈んで耳を傾ける。あぁ、お嬢様の吐息が耳に。
(ディアナお姉様にはあまり嬉しくない呼び名がつけられているんです、有名なので)
言われてなるほど、と思った。
ディアンナお嬢様は時々街にやってきては近隣に出没する高位の魔物を狩っていると聞く。格好も赤を主体とした目を引くものなので、ここから自然とそう呼ばれるようになったのだろう。
「それよりトリシア、何見てたの?ふんふん、なるほど、良さそうじゃない。クリムゾンメイルは久々だからこれにしよっか」
「エマさん、ジョルジュさん。紅蓮の魔女は私のお姉様です。なので、心配なさらなくても大丈夫ですよ」
「えっ、お姉さん!?あぁ……道理で。メディソン家でトリシアのお姉さんって聞けばなんか、納得できるわ」
「あぁ、確かに」
一応領主の娘なのではあるし、街では有名だと思っていたのだが。
そもそも魔術学院のタイトルホルダーであり、種々の驚異的な発明をされた方だろう。
「冒険者協会では領主の娘というより、紅蓮の魔女として知られてるんですね、お姉様」
「はぁー、もういいわよ。普段から出不精だし、街で寄るのは服飾店かここか姉さんの所だけだし」
ならば必然、という事だろう。ラディアス様が街中に知られているのとは、やや違う知名度の広まり方のようだ。
「それより、行きましょ。そこの二人、冒険者でしょ?夕方までにはその売れ残りの依頼を始末しておくから、依頼料受け取っておきなさい」
「えっ?何故あたしたちが?」
ディアンナ様ははぁとため息をつくと答えた。
「私達は登録してないの。依頼者には同行者としてあんたたちの名前出しておくから、報酬だけ受け取って完了にしておきなさい。正規ルートで完遂したなら依頼の取り消しもする必要ないでしょ」
「いや、それは駄目だ」
旦那の方、ジョルジュが厳しい顔をして言った。
「何もせずに手柄だけ受け取るわけにはいかない。俺たちにも冒険者の矜持ってものがあってね。いくら紅蓮の……領主様のお嬢様でも、それは聞けない話だ」
「そう、真面目ね。まぁいいわ。それじゃ、始末したら依頼を取り消してもらうように依頼者に言っておくから」
それが無難な落とし所だろう。ただ、取り消しとすると冒険者協会の依頼者に対する評判が落ちてしまいそうだが。
「いいえ。それなら私達も一緒に行くわ」
「は?いやいや、30シルバよ?あんたたち、少なく見積もっても階梯6はあるでしょ。時間に対する割に合わなすぎるでしょ」
身につけている装備や物腰を見ればそれは分かる。更に、ディアンナお嬢様は知らされていないが、アンドアイン様とトリシアンナお嬢様の護衛を務めた方々なのだ。それぐらいの実力は間違いなくあるだろう。
「いいんだよ、別に。それに、お嬢様には大きな恩があるからな。少しでもお手伝いが出来るなら、依頼料なんてどうだっていい」
「ふーん、そう。なら勝手にすればいいけど。あたしもトリシアもナズナも、結構飛ばすから遅れないで付いてきてね」
言ってスタスタと出口に歩いていかれた。態度がやや硬いのは、いきなり紅蓮の魔女呼ばわりされたからだろう。
「それじゃ、依頼受けてくるね、トリシア。ちょっと外で待ってて」
二人は三週間の間放置されていた紙を剥がすと、カウンターの方へと歩いていった。
「お二人が一緒なら心強いですね。思ったよりも早く終わりそうです」
お嬢様と自然に手を繋いで出口まで歩く。手のひらは少し硬いが、歓喜のあまり昇天しそうだ。
街の西側の門を出ると、長閑な田園風景が広がっている。
遠く南には塩害を防ぐための大きな金属網が張り巡らされており、その向こうには海岸線が見えている。
街道に沿って畑や牧草地帯が広がっており、そこここに管理用らしき小さな建物も見える。
「北西の農地開拓場という事ですが、どのくらいの距離でしょう」
トリシアンナお嬢様が呟く。
「距離にすれば北北西30キロメトロってとこかしら。そう遠くないわね」
「そうですね、直進すれば片道4、50分というところでしょうか」
今は荷物も何も持っていないので、飛ばしても問題ないだろう。
「え、森の中を真っ直ぐ突っ切るの?」
エマヌエーレが驚く。まぁ、障害物はあるだろうから完全に直進とはいかないが。
「勿論木々や岩は避けながら通りますよ。では、参りましょうか」
「お先〜」
「お先に失礼します!」
いつものようにお嬢様方は常識外れな移動を開始する。自分も水遁第四階位『フルバディ』をかけながら言う。
「上を見ずに私に付いてきて下さいませ。いいですか、絶対に上を見ないように」
念には念を入れて忠告してから、自分も駆け出す。下半身が増幅された筋力と血流でもって、爆発的な推進力を得る。
「あっ、ちょ」
「まってー」
二人も慌てて強化術をかけて追いかけてくる。速さは問題ないようだ。前を向いて少し速度を上げると、前方上空に飛び回るお二人の姿が見えた。相変わらず下着が丸見えだ。
見失っては大変だ、と自分に言い訳して、特にトリシアンナお嬢様のおみ足を凝視する。
視線を上に向けていても障害物を避ける事などわけもない事だ。視界に入ってさえいれば全て回避できる。
数十分間の幸せな追跡の時間を堪能した。
「この辺りですね、お姉様」
地面に降り立ったお二人の足元で急停止し、術を解く。もう少し見ていたかった。
「なるほどねぇ、こりゃあ依頼報酬が出せないのもわかるわ」
一応は農地の体を保っているが、周囲には未だ掘り起こされたばかりの木の根や丸太が転がっている。
木の杭を打って獣避けの柵も作ってあるようだが、この程度では魔物の侵入も阻めないだろう。
ゆっくりと見回しながら歩いて行くと、掘っ立て小屋がいくつか立っているのが見えたのでそちらへ向かう。
「済みません!どなたかいらっしゃいますか!」
トリシアンナお嬢様が声を張り上げる。僅かに人の気配がして、手前の小屋から男が一人出てきた。
「責任者に会わせてくれるかしら?街の依頼を見て来たのだけれど」
戸惑う様子を見せた男はしかし、こちらへどうぞ、と集落の奥へと誘った。
「農地の整備は進んでいないようね」
ディアンナお嬢様が男に声をかける。
「ええ、お恥ずかしい話です。見切り発車をしてはみたものの、思った以上に魔物も獣も多くて……食い扶持すら稼ぐのも厳しい有様で」
「開始する時に護衛の冒険者を募集しなかったの?」
開拓地ではまず、護衛を沢山雇って防衛設備が完成するまでの守りとする事が多い。
具体的に言えば集落を囲む壁だ。
土壁であれ、丸太であれ、石を組んだ石垣であれ、防護壁の無い集落など、魔物にとっては格好の餌でしかない。
「ええ、風の噂でここの北の森に住むダイアーウルフのネームドが退治されたと聞きまして……それで、腕に自身のある者たちもいたので移住してきたのですが」
確かにダイアーウルフは『集落殺し』の異名を取る危険な魔物だ。だが、魔物はそいつらだけではないのだ。
多少腕に自身があろうが、冒険者ですらない農民が、有象無象の魔物と対峙するには力不足に過ぎるだろう。
「ふぅん、大変ね」
ディアンナお嬢様はああ言っているが、内心では相当呆れているだろう。見切り発車という段階の話ではない。無謀や自殺とも言える挑戦だ。
トリシアンナお嬢様ですら何も言わずに前を向いて歩いている。掛ける言葉も無いのだろう。
「こちらです」
他と対して変わらない大きさの、突き当りの掘っ立て小屋に入る。
「村長、依頼を受けて来られた冒険者の方々です」
それはまだ到着していない。
「なんと、あの金額で受けて下さる方が!……あぁ、良く来てくださいました」
年かさの男は失礼にも落胆を隠そうともしない。当然だろう。
若い女が一人に女の子が二人。しかも片方は少女というより幼女に近い。
冒険者協会でも受ける者がいないため、仕方なく寄越したのだろう、と見たのだ。
「あー、まぁ私達だけじゃなくてあと二人来るけどね。そっちは熟練の階梯6?だから安心して。で、クリムゾンメイルはどの方角から?」
面倒くさい事を嫌うディアンナお嬢様らしく、一々食って掛かったりはしない。賢明な判断である。
「はぁ、後詰がいらっしゃるのですね、安心しました。村を北西に出ればわかりますが、連中のマーキングの跡があります。以前はもっと遠くにあったのですが、段々と近寄ってきており……今やもうすぐそこまで」
脅威が迫っているというのに逃げずに留まっているのは、意地があるのか未だに投資を回収したいと思っているのか。あるいは両方か。
「失礼ですが村長、損切りはお考えにならなかったのですか?」
思わず口を差し挟む。壁すら未だ無い状態では、最早初期投資の回収は不可能だろう。
「撤退も考えました。しかし、我々にはもう行く場所が無いのです。お渡しする報酬が、最早最後の蓄えなのです」
進退窮まれり、という事か。
「ま、そっちの都合はもうどうでもいいわ。とりあえず蟻どもを倒してきましょ」
それ以外にあるまい。ここはディアンナお嬢様の言う事が正しいだろう。
「はぁ、あの……それで、お嬢さん方は本当に冒険者、なのでしょうか?」
まぁ、普通はそう思うだろう。
ディアンナお嬢様は辛うじて魔術師として見られるだろうが、トリシアンナお嬢様はいつもの白いひらひらな格好で、自分もまたいつもの侍従服だ。
一見すれば魔術師に貴族の子供とその侍従が付いてきているだけにしか見えない。
「はぁ、その。厳密に言えば冒険者ではないのですが。えーと……あっ!あと5分ぐらいで冒険者の二人が来ます。私達はその、先遣隊のようなもので」
流石のお嬢様にしても言い訳が苦しい。こんな貴族然とした冒険者の先遣隊などいるはずもない。でもお嬢様は可愛い。
「結構早かったわね。流石に階梯6?ってところかしら。まぁ、これぐらいないと護衛は務まらないでしょうけども」
これ以上は面倒なことになるのであまり誤解を生むような発言は控えていただきたいと思うのですが。
そもそもお嬢様方は規格外過ぎるのだ。自分は兎も角、市井の者にあの速度で付いてこられるものなど限られすぎているだろう。
トリシアンナお嬢様の下着に見とれて後ろを放置してしまった自分も悪いが、それはそれである。
「まずは目前の脅威を片付けましょうか。この集落の話はそれからです」
トリシアンナお嬢様には何か考えがあるのか、立ち上がって掘っ立て小屋を出ていかれた。慌てて追いかける。
「いやいや、お嬢さん方、速すぎだろ。侍従の人も超人かよ……」
「ごめんごめん、トリシア!遅くなっちゃった!」
この速度で追いついてこられるのは相当な選良と言っても良い。見失っても仕方がない速さで移動していたのに迷わず付いてこられるとは、間違いなくこの方々は優秀な冒険者なのだろう。
「お待ちしていました、ジョルジュさん、エマさん。蟻は北西だそうですので、早速駆逐してしまいましょう!」
いや、休憩時間ぐらい与えても良いのではないでしょうか。
しかし二人は特に疲れた様子も無くついていくので感心してしまった。
冒険者というのは意外にタフだ。伊達に普段から魔物と戦っているわけではないのだろう。自分もまだまだ、鍛えてお嬢様のお役に立たねばなるまい。
白いふとももを思い出して新たに心を戒めた。
「あっ、見てください!山林檎がいっぱい成っていますよ」
「お嬢様、こちらには山芋が自生しています。これは自然薯ですね」
「あら、天然の葡萄ね、これ。へぇー、粒ちっさ!でもお酒にするには良さそう」
蟻酸の痕跡を辿る傍ら、途中には余りにも豊富な自然の恵みが溢れていた。
「こりゃあ、蟻が近寄ってきた理由はこれですね」
ジョルジュがしたり顔で頷いている。
「そうですね、この恵みに引き寄せられた獣を、蟻が狙っているのでしょう。妙に方向性もありながら遅い浸出速度もこれで理解できます」
流石ですお嬢様。なるほど、そういう理屈ですか。
「流石ですお嬢様、……いますね」
声に出そうとしたその時、遠くに蠢く影を発見する。
「そうですね、ナズナ。ええと、手前に4、奥の北東側に7、北西に5ですね。どうしましょう、お姉様?」
こんな距離で探査術も使わずに正確な数を把握するとは。流石ですお嬢様。
「そうね。出来ればある程度の素材は確保したい所だけど、私は女王蟻以外には興味ないし」
「それじゃ、俺たちで先制して引き寄せるか。蟻の数は予め減らせるに越したことないだろ」
ジョルジュの提案は尤もなものだ。蟻は数が多い。引き寄せてまずは女王蟻の護衛を減らすのが先決だろう。
「うん、じゃ、それでいきましょ。兄さんの護衛を担った力、見せてもらうわ」
「任せてください!」
言うなりジョルジュとエマヌエーレは真正面から突貫した。
「吠えろッ!」
ジョルジュは巨大な大剣を抜き放ち、熱操作系第四階位『ヒートエンチャント』を武器に付与する。
「穿け!」
エマヌエーレは水撃系第三階位『アクアリータイド』で、蟻どもの足元を泥流で押し流す。弱い足元を取られた赤い蟻がその場に倒れ伏し、硬直。
すかさず振るわれた大剣の一撃によって、次々と消し炭に変えられていく。
「ヒューッ♪、結構やるじゃん。流石は階梯6?ってとこかな。術の理解度もまずまず」
「お姉様、あのお二人は強いですよ。多分もうじき階梯7には上がるでしょうね」
余裕で眺める二人は既にもうそれ以上だろう。
しかし、流石に冒険者の二人は強い。術の精度もさる事ながら、圧倒的に息の合った連携がその力を数段上に引き上げている。
長年二人で培ったものなのであろう。ずっと一人で戦っていた自分には到底真似のできないものだ。
無論、ある程度ならば一緒にいる相手に合わせることは出来る。しかしそれは、自分の全力を相手の全力に合わせたものではないのだ。
今、トリシアンナお嬢様やディアンナお嬢様が全力を発揮されれば、間違いなく自分は傍観者になってしまう。魔力の総量がケタ違いなのだ。
なればこそ、今一度自らの得意な分野において特化すべきだと、二人の戦闘を見ていると思える。
連携は一流に一流を合わせてこそ、超一流となるのだ。
「終わったぜ。まぁ、所詮は蟻だからな」
表に出ていたクリムゾンメイル16体は、たった二人で完全に殲滅された。
「流石です、お二人共!かっこよかったですよ!」
お嬢様、あなたはとても可愛らしいです。
「トリシアに言われると嬉しいわ。でも、お姉さんならもっと早く終わったでしょう?」
「いえ、お姉様がやると多分、面倒くさくなって周辺全部吹き飛ばしてしまうので。それは困ります」
お嬢様の姉評価、正確で素晴らしいです。
「間違ってはいないけどなんだか馬鹿にされた気がするわ」
「ディアンナお嬢様、褒め言葉ですよ」
そっとフォローしておく。火力が高いのは悪い事ではない。
「ありがとうナズナ。あなたは良い子ね」
褒められた。ディアンナ様も素敵です。
とはいえ、蟻はこれで全てではない。巣穴を探して女王蟻をどうにかしないと、いつまでも終わらない消耗戦になってしまうだろう。
蟻の生産速度がどのようなものかは分からないが、巣穴を見つけてどうにかする、までが依頼の完了段階だ。
「みなさん、巣はこっちです。うぅん、地下の深さはそうでもないですが、結構面倒くさそうですよ。一度戻りますか?」
謎の技術で蟻の巣まで把握されている。普通、土遁の上位術でも無い限りは蟻の巣の形状など把握できそうもないのだが。
「戻る方が面倒でしょ。さっさと終わらせて女王蟻の素材を持ち帰りましょ?ふふ、クリムゾンメイルの女王はローヤルゼリーを凄い量貯め込んでるからね。蛹とか幼虫はこの間のキラービーで十分見たからいいわ」
やはりこの方は魔物を素材としてしか見ていない。
「まぁ、そうね。魔物の巣は速攻で潰すに限るわ」
「違いない」
冒険者の二人も同意見のようだ。
「わかりました。ただ、中は迷路みたいに入り組んでいるので……」
蟻は小部屋を次々と作るようにして巣穴を広げていく。
その過程で枝分かれを産み、結局は蟻にしかわからない迷宮になることもしばしばある。
「ふふふ、熟練冒険者を甘く見ないでね、これ、なーんだ」
エマヌエーレが小瓶に入った光り輝く粉のようなものを取り出す。
「えっ、それ、ひょっとしてヴァンパイアバタフライの鱗粉?どうやって手に入れたの?」
「ヴァンパイアバタフライ?」
聞いたことが無い。ディアンナお嬢様は知っているようだが。
「古代遺跡の調査をしてる時に見つけました。あまりにも貴重すぎて値段がつかないのでどうしようかと思っていましたが、使える時に使うのが冒険者ですので」
ジョルジュが答えたが、どうにも良く分からない。
「この依頼の報酬、30シルバよ?分かってる?その一瓶、私なら50ガルダ出しても欲しいんだけど」
流石にこの評価額にはたまげた。こんなに小さな瓶一つに50ガルダ?
「そのご提案は魅力的ですが、冒険者の矜持には代えられませんね。さあ、行きましょう」
「あっ、はい。入り口はこちらですが……」
小高く盛り上がった土の山に、地下へと続く穴が見える。
入り口は狭いが、奥には十分な広さがあるようには見える。が。
「ひろげとこ」
言うなりディアンナお嬢様は土遁第四階位『ランドトランス』を発動、瞬く間に入り口が広間のように開放されてしまった。
「お姉様、いつも思うのですが、大雑把ですよね」
「楽でしょ?ほら、いこいこ」
最早驚くにも値しない。この姉妹は規格外に過ぎるのだ。そしてトリシアンナお嬢様は可愛い。
内部に入ると、入り口の狭さに反して、人が三人はすれ違える程の幅のある洞穴になっていた。
ディアンナお嬢様が熱操作系第一階位『フェリン』、トリシアンナお嬢様が光子系第一階位『ビジブル』で、それぞれ灯りとなる光体を発現。
燐光と可視光の照らす中、進むとすぐに三叉の分かれ道になっている。
「はいはい、ここで一振り~」
エマヌエーレが瓶の中身を零すと、光の粒が足元に残る。
「ほぁ~、初めて見ました。これがヴァンパイアバタフライの鱗粉ですか。これ、半永久的に残るんですよね?」
トリシアンナお嬢様もこの物質をご存知のようだった。半永久的?
「そうね。付与した魔力構成をほぼ無限にその場に留める、希少な粉よ。……はぁーっ!なんでこんな蟻の巣にこんな貴重な研究材料を!これは人類にとって大いなる損失だわ!」
嘆き悲しむディアンナお嬢様の姿を見る限り、やはりこの物質は相当に貴重なものらしい。彼女のような優秀な研究者に渡したほうが良いとは自分も思うのだが……。
「冒険者は使えるものを迷わず使う。そうしないと、生き残れないからな」
ジョルジュの言う、それも真理ではあるのだが。
「今は大陸最強の魔術師が一緒にいるのよ!痕跡なんてどうにでもなるでしょうに!」
「まぁまぁ、お姉様」
どうにも彼らとは相容れない価値観らしい。自分には良く分からないので何とも言えない。
嘆く姉を宥めるお嬢様も可愛いと思いながら進む。道中、枝分かれがあるたびにそのような光景が繰り返され、されどトリシアンナお嬢様の誘導が適切であったためか、全く引き返すこと無く目的らしき場所へとたどり着けた。
「みなさん、ここ、奥50メトロに女王蟻がいます。兵隊が……18ですね、それ以外は全て幼虫と蛹です」
「そこまで分かるの?相変わらずトリシアの探査は謎だわ」
確かに、自分で探査術を走らせてもそこまで精密には分からない。精々が所、大きな存在がいてその周辺にいくつか動いている魔物がいる、程度だ。
「どうします?お嬢様方。お姉さんの方は欲しい素材があるみたいですが」
「そうね、女王蟻は私に任せて欲しいかも。他は、まぁどうでもいいわ」
「では、お二人は左舷、私とナズナで右舷を始末しましょう」
「了解!」
「承知致しました」
是非ともお嬢様に合わせて見せる。この、一流の技で。
漲る力が溢れ出す。これはもうお嬢様の力に違いない。お嬢様の力が、私の中に?
あぁ、このナズナは、ナズナはもう……。
飛び込んだ先にはお嬢様の指摘通りの数が犇めいている。問題ない。
トリシアンナお嬢様が先制で風遁第三階位『ウィンドカッター』を発動されようとしている。ならば。
「地は知るだろう!人の知る鋭利をその身を以て知れ!」
カッと目を見開き、全身全霊で土遁第五階位『ラウンドリッパー』を発動する。
周囲が土という事を利用して、全方位から伸ばした無数の棘が右舷の蟻達を突き刺し、その場へと固定する。
すかさず発動したお嬢様の風遁が一瞬にして蟻達を蹂躙し、哀れな物言わぬ破片へと変える。
「流石です!お嬢様!」
「えっ?え?いや、今の、私の『ウィンドカッター』がなくても蟻、死んでましたよね?」
細かいことは気にしてはいけない。トドメをさしたのはお嬢様だ。とにかく可愛い。
「灼熱!爆熱!消え失せろ!」
「留めよ!」
エマヌエーレの水撃系第三階位『スライムモールド』で足止めされた蟻達を、ジョルジュの熱操作系第三階位『テルミット』の急速熱膨張が粉砕する。
内部から破砕される力には流石の装甲も役に立たず、またたく間に巨大な兵隊蟻は駆逐されていった。
熟練の冒険者による連携にはこの程度の魔物はものの数にならない。
「フヒヒ……女王蟻を見るのは久方振りね」
目の前には希少な魔物。即ち希少な素材。
如何に強い魔物の長とはいえ、女王は基本的に無防備だ。
無防備故に周囲の取り巻きが強いのであって、その強いとされる取り巻きも妹達や冒険者の敵ではない。
太くて長い腹に貯め込んだ栄養素は、この魔物どもを産み養うためのものだ。つまり、極めて特殊で濃縮された物質なのは間違いない。
「あんたに恨みは無いけど、魔術研究の為、そのエネルギー、貰い受ける」
「そんじゃ、戻ろっか」
「そうですね」
入り組んだ迷宮意外に脅威となるものは何一つ存在しない。
そもそもただの魔物討伐であれば、階梯6の二人に加えてメディソン家の二人に忍びがいる時点で敵はいないのだ。
魔力光の照らす洞穴の中、本当にこれだけで良いのかと考えていた。
喫緊の脅威は確かに排除した。だが、開拓農地において、脅威となるのはこれだけではないのだ。
防護壁すら存在しない集落が、今後存在していける可能性はほぼ零に近い。
ディアンナお姉様は素材を手に入れてそれで満足だろう。依頼も完遂したので冒険者協会も瑕疵無く報酬を渡してそれでお終いである。
では、依頼者は?
この場を凌いだところで、貯蓄は依頼で使い果たし、今は冬。
得られるものはほぼ何も無く、春を待たずに全滅するだろう。これは予測ではなく、確定事項だ。
本当にこれで終わりなのだろうか。
「お姉様、少しお願いがあるのですが」
「なあに?トリシア。あなたのお願いならなんでも聞いちゃうけど」
「あの集落に、壁を作りましょう」
「女王蟻を、倒した?あぁ、ありがとうございます!」
集落の村長は、目の前の問題を解決出来たことにのみ喜びを表していた。
「依頼料は、既にサンコスタの冒険者協会に渡してありますので……」
「いや、それじゃ足りないでしょ」
「はっ?」
ディアンナお嬢様が容赦なく現実を叩きつける。
「30シルバで討伐依頼を終わらせた、それは良いよ。でも、ここってサンコスタ領だよね。農地を開拓して、生産する以上は税を払わないといけない。協会に依頼した時点でこの場所は既に集落、農地として登録されちゃってるんだよ」
「し、しかしこの村には」
「そうね、払える金も無い、払える物もない。だったら、払えるようにならないとねぇ?」
紅蓮の魔女には悪役がよく似合う。
「お姉様、それではあんまりではありませんか」
天使の役目はトリシアンナお嬢様だ。そもそも存在自体が天使だ。異論は認めない。
「税を払えないのであれば、別の方法で払えるようにすれば良いのです。村長さん」
「は、はい?」
幼気な美少女が両目を潤ませながら手を握ってくれば、それに抗える者などいようものか。
「この村の、北西部分にはかなりの森の恵みがありました。一旦はそれを税として納め、皆さんは農地を開拓しながら頑張ってみませんか?」
一旦街へと戻り、冒険者の二人が依頼の完遂報告をした。その日はそれで終わりである。
次の日、再び二人は昨日の集落へと向かっていた。お嬢様方のお尻はとても綺麗です。
「トリシアは本当に優しい子ね」
ディアンナお嬢様が心からそう仰られる。全く以て全面的に全力で同意するしかない。
「わ、我が領地の税収のためです!領主の娘たる者、領民に安らかなる地を与え、適切な税収を――」
「あーはいはい。分かってるから。お姉ちゃんの前でそんな虚勢張らなくてもいいのに」
それが可愛いのではないだろうか?と小一時間問い詰めたい。
「ナズナ、農地を含む集落の境界から20メトロ外側に線を引いてきて下さい」
「委細、承知しました」
「それじゃあお姉様、始めましょうか」
「はいはい。報酬の分は働きますよー」
言われた通り、走りながら集落の周辺を土遁でほじくり返して線を引く。この程度ならものの数分で終わってしまう。
「終わりました、トリシアンナお嬢様」
「えっ?はやっ!それじゃあ、その更に外、50メトロにもお願いします。終わったら、集落で力仕事が出来そうな人を集めて待っていて下さい」
「かしこまりました」
先程と同じ様に、今度はかなり広く集落を囲む。この線は何だろうか。
こちらも問題なく終わらせて、再び集落の一番奥まった所の小屋に入る。
「村長、いらっしゃいますか」
項垂れて湯を啜っていた村長は、こちらを見てぎょっとした。
「昨日の……まだ何か御用ですかな?」
「この集落で、ある程度力仕事の出来る人たちを集めてください」
「力仕事?何をするのかね?」
「それはお嬢様方に聞いてください」
村長は訝しげに首を捻りながらも、出てきていくつかの家を回りだした。
集落の外から、木々の倒れる音が聞こえてくる。最初に線を引いた位置に丸太の壁を作るのだろう。魔術で伐り倒せばかなりの速度で木材も集まるはずだ。
集落の中央付近から見ているだけでも、目に見えて木々が伐採されているのが分かる。これだけ魔術を連発しても魔力切れを起こさないというのは、今更ながら呆れる他無い。
「あのう、これで全員ですが」
背後から声を掛けられて振り向くと、村長は10代から50代と見られる6人の男性を連れていた。
「わかりました。では、行きましょう」
先導して木々の倒れる音が聞こえてくる方向へと向かう。
「お嬢様、連れてきました」
「あぁ、ナズナ。ありがとうございます」
トリシアンナお嬢様は、ディアンナお嬢様のタクトを使って伐り倒した木を杭の形に整形していた所だった。
「皆さん。この杭を向こうに転がしていって、地面に線の引いてあるところに隙間なく突き刺していってください。地変系の魔術で傾斜をつけてあるので、転がせば楽に持っていけますよ。突き刺したら、杭についている印、三分の一が埋まるまで上から叩いて下さい。こちらも簡単に突き刺さるように工夫してありますので」
積み上がっている杭は既に20本程度の山が2つもある。6人でやっても一周埋まるまでには相当時間がかかるだろう。
「お嬢様、私も運びます」
「そうですね、そうして下さい。板ではなく丸太なので、かなりの時間がかかりますから」
板壁は簡単に立てられるが、強度は脆い。防護壁にはあまり向かないのだ。
丸太であれば労力はかかるが、相応の堅牢さを発揮する。
「あ、あのう、これは一体何をされているのですか?いきなり連れてこられても、その」
「防護壁を作るんですよ。壁がないと不安でしょう?」
「この人数でですか?」
自分を入れて僅か7人、お嬢様方を入れても9人だ。
「はい、この人数で出来るように、お姉様が頑張ってくれています。ご協力をお願いします」
「は、はぁ……」
どうにもこの者たちは煮えきらない。
「自分たちの集落を守る壁を作るのに何を躊躇しているのですか。ほら、行きますよ」
身体強化を掛けて丸太の杭を二本肩に担いで持ち上げる。そのまま自分の引いた線の所まで走り出す。
「え!?あの侍従の人、なんであんなに力強いんだ?」
「まぁ、言われてみれば自分たちの為だもんな。よし、やろう」
「おお、確かに転がせば楽に運べるぞ」
男たちもどうにか動き出す。目的を示してやらないと動かないようでは先が思いやられる。
引いた線の所に杭を持っていき、突き刺すと、驚いたことに勝手にずぶずぶと杭は沈んでいく。目印のところまで埋まって止まった。
これは土遁第一階位『ファンゴ』を使ったのだろう。
本来は敵の足元にぬかるみを生み出して移動力を奪う補助術だが、こうやって地面に何かを立てるのにも使えるのか。
それにしてもこの深さまで、しかも一定範囲に維持し続けるとはまた、とんでもない術の精度と力である。
もう一本、持ってきた丸太を隙間なく詰めて隣に突き刺す。こちらも簡単に埋まった。
振り返ると、男たちも次々と丸太の杭を転がしてくる。既に見本を立てたので、あとは同じ様にやってくれるだろう。
途中に休憩を挟みつつ、夕方まで延々と単調な作業を繰り返したが、その日は半分程度までしか完成しなかった。
ただ、伐り拓かれた周辺は随分と見通しが良くなっており、近づく獣や魔物がいればすぐに気がつくようになっている。
「明日も来ます。それと、明日の昼過ぎ頃には人道支援の食糧配給がここに訪れますので、各自受け取って下さい」
男たちを労っていた村長に、トリシアンナお嬢様が告げる。
「しょ、食糧が!?なぜ、ここに?」
「元々国家事業の食料配給はこの時期に行っているのです。このままでは冬が越せそうもありませんので、配給先にここも入れてもらいました」
昨日の今日でそんな事が出来るものなのだろうか。確かに昨夜、領主様とアンドアイン様にトリシアンナお嬢様は何かお願いをしていたように見えたが……。
「あぁ、人道支援の物資運搬はスパダ商会がやってるからね。北へ向かう途中の位置だから何とかねじ込めたみたいねぇ」
疑問を感じていた自分に気付いたのか、ディアンナお嬢様が教えて下さった。
なるほど、緊急で一つの集落分を入れても問題ない規模の商隊を組んでいるのだろう。それにしても随分と強権的な力技だ。
「まずは自領内、ですよ、ナズナ。お父様もお兄様も二つ返事でした」
「あぁ、確かにそれはそうですね。自領で人が飢えているなど、あの方々が見過ごすはずがありませんか」
ここはぎりぎりサンコスタの領内なのだ。税も納めると確約の取れた以上は、支援も当然だろう。
「国家事業?スパダ商会?お嬢さん方は一体」
「あぁ、そういえばあなた達、よその領からの移民よね。まぁいいわ、明日も来るから、その時に分かるでしょ」
「それではまた明日。皆様、御機嫌よう」
さっさとお二人は飛び跳ねて行ってしまった。自分も村長に一礼してからすぐに追いかける。
全く、あれだけの会話を聞いておいて気づかないとは、鈍いにも程がある。
ただ、わざわざこちらから身分を明かすような真似をお嬢様方はしないだろう。
こちらはお嬢様の意向に従うのみ。ただ只管、あの方の尻……後ろについていくだけだ。
翌日も早朝から三人で邸を出発したのだが、ディアンナお嬢様は一人重そうな荷物を抱えている。
「ディアンナお嬢様、それは?」
「あぁ、これ?今のあの集落の位置だと、輸送隊が入れないでしょ?道を作って看板でも置こうかなと思ってね」
「はぁ、そう言われてみればそうですね。何故あのような飛び地に集落を作ろうとしたんでしょう?」
街道からも、南の農地からもかなり離れて奥まった場所にあった。一応集落の西側に川が流れていたので、取水を考えての事かと思っていたが、それにしても不便で危険きわまりない立地だ。
普通、開拓地というのは街道沿いや既に拓かれた土地に連なるように広げていくものだ。
その方が何かあった時に支援を受けやすいし、物資の運搬も楽だ。
「それなんだけどね、昨日粗方伐採が終わった後にちょっと話を聞いてみたの。どうも、周辺の農地所有者がいい顔をしなかったみたいね」
確かに、隣接した場所を新たに他人の土地とされると様々な問題が起こり得る。
周辺で木材が必要になったりしても遠出しなければならなくなるし、今まで採集で得ていたものが新たな土地の住人と取り合いになったりもする。
拓かれていない山や森は誰のものでもないので、どこかに文句を付けるわけにも行かないのだ。
さらに言えば隣の開拓地で住人が困窮した場合、見捨てるわけにもいかないので、近隣の地に住んでいるものへと負担がのし掛かる。
見るからに資金が足りなそうな移民団であれば、尚更良い顔はできないだろう。
「何もかも足りない状態では、受け入れてくれる場所も少ない、という事ですか」
誰もが余裕のある生活をしているわけでもない。既に得ている権利が奪われそうになれば、その者達も必死で抵抗するだろう。
「まぁ、そうね。無視して近くに作っても、後々近隣での軋轢が生まれたら良い事無いからねぇ。と、言うわけでナズナ」
「はっ」
「伐採はもう終わってるから、集落へはトリシアと二人で行ってね。私は街道側から道作っていくから」
「道を……作る?いえ、承知いたしました。トリシアンナお嬢様の事はお任せ下さい」
たった一人でどうやって、とも思ったが、この紅蓮の魔女ならば可能なのだろう。何より我が姫君と二人きりというのも悪くない。
「お姉様……あまり乱暴な方法は取らないでくださいね。山火事でも起こっては事ですので」
「やぁねぇトリシア。私がそんな事するはずないでしょう?」
思い出したが、この方は火遁を極めたお方だった。確かに、釘を刺したくなる気持ちも分かる。
「それじゃあ行きましょうか。トリシア、悪いけど壁の建築をお願いね」
「私は地変系が苦手なのですが……わかりました。ナズナも手伝って下さいね」
「勿論です、お嬢様。このナズナに全てお任せください」
土遁であれば自分もある程度は使える。お嬢様の為とあらば魔力を空にしてでも使い続けて見せよう。
「いや、全ては任せませんよ……兎も角、行きましょうか」
日課となりつつあるお嬢様を下から見上げながらの走破訓練が始まった。
なんと素晴らしい職場であろうか。
午前中の作業も半ばまで進んだ頃、何やら遠くから落雷のような轟音が聞こえてきた。
定期的に発生する音に驚いて、森に棲む野鳥達が頭上を通り過ぎていく。
「はて。何でしょう?」
「あぁ、お姉様……乱暴な方法はやめて下さいと申し上げたのに」
轟音は定期的に鳴っていて、どうもこちらに近づいてきているようだ。
「お嬢様、あれはディアンナお嬢様の仕業ですか」
「ええ、多分爆裂術を使っているのでしょう。確かに山火事にはなりませんが……」
一般的に火遁は火炎を放つものだが、達人になると発破弾のように爆破も可能となるらしい。はっきり言ってどのような原理なのかは皆目見当もつかない。
音はどんどんと大きくなり、ついには集落の目の前でそれが発生した。
東の方角が一瞬、光が瞬いたかと思うと、耳を劈く爆音とそれに伴う爆風がこちらへと吹き付ける。集落に点在している掘っ立て小屋がビリビリと振動し、東側の小屋など、茅葺き屋根の一部が吹き飛ばされてしまった。
爆風の中心地を見てみれば、木々は根こそぎ吹き飛んで、地面にえぐれた巨大な穴ができている。
その穴の向こうに、今朝見た赤い姿の女性が一人。その後ろにも同じ様な穴がつながるようにして、ずっと東へと続いている。
「やっほー、トリシア、ナズナ。道あらかた出来たよー」
笑顔で手を振って近寄ってくるディアンナお嬢様。
いや、しかしこれは道と言って良いのだろうか。
確かに馬車も通れそうな広い幅で木も岩も完全になくなっているが、穴のせいでここを車が通るのは無理ではないだろうか。
「お姉様!乱暴なやり方はしないでくださいと申し上げたでしょう!第一、これでは馬車も荷車も通れません!」
「大丈夫大丈夫、すぐに地変系で均すから。そんじゃ、戻りながら整地してくるねー」
あんなに強力な術を連発したあとに、再び高度な術で道を整備して戻っていく。
あの方に常識というものは通用しないのだろう。
トリシアンナお嬢様は深くため息をひとつつくと、再び作業を再開された。慌てて自分も作業に戻る。
「お嬢様、吹き飛んだ小屋の屋根は後で私が直しておきます」
「世話をかけますね、ナズナ。ありがとうございます」
午前の作業を終えて、集落の東側にある少し開けた場所で、平たい石の上に座って朝出る時に料理長に持たされた弁当を広げている。
トリシアンナお嬢様は健啖家なので、持たされた量もかなりのものだが、巨大な籠の中にあったパン挟みは既に半分以上がその小さなお体の中へと消えている。
一生懸命召し上がる姿が小動物のようで大変愛しい。見ているだけでお腹が一杯になってしまいそうだ。
「ナズナ、どうしました?食べないと午後からの作業に差し障りますよ」
「は、いえ。頂きます」
邸では食卓を共にする事が無いので、どうしても感覚が狂ってしまう。
いつもは可愛らしい食事風景を眺めているだけなので、ついそのつもりで手が止まってしまうのだ。
慌ててパンに齧り付いて咀嚼していると、馬と車輪の動く音が聞こえてきた。
「輜重隊が来たようですね」
お嬢様が服にこぼれたパンくずを払いながら立ち上がった。
釣られて立ち上がろうとすると、手のひらを向けられて押し止められた。
「ナズナはまだ食べていて下さい。私はもう十分に頂きましたので。あ、お姉様の分は残しておいてあげてくださいね」
「いえ、しかし」
「命令です」
「……はい」
実のところ忍びはそれほど食べなくても二、三日は我慢できる。しかし、命令とまで言われてしまえば従わざるを得ない。
不承不承石に座り直して、食べかけのパンを口に入れる。ただのパン挟みではあるが、マルコ料理長の作るものは何でも美味しい。中身も野菜に肉、卵に魚と種類が豊富で楽しい。
食べながら東に新しく出来た道を眺めていると、音に気がついた集落の住人達が集まってきていた。
目を凝らして見ていると、どうやら馬車の御者はトリシアンナお嬢様の知り合いのようだ。親しげに会話しているのが遠目にも分かる。
便乗して戻ってきたらしきディアンナお嬢様が、村長と何やら話をしているが、唐突に村長がペコペコと頭を下げ始めた。漸く彼女達が何者なのか知ったのだろう。
知らない事だったとは言え、この地の領主の娘に魔物狩りや壁作りをさせた上、食糧の支援まで手配してもらったのだ。最早彼らのメディソン家への恭順は確約されたようなものだろう。
なるほど、賢人は義と仁によって統治するという言葉は故郷にもあったが、その言葉のある地の者がその意味を忘れて久しい。
よもや遠く離れた異国の地でその光景を目の当たりにする事になろうとは、なんとも情けない話ではないか。
腹が八割ほど満たされたのを自覚して、籠に蓋をして立ち上がる。ディアンナお嬢様は昼食がまだだろう。籠を手に下げて馬車の方へと向かう。
「ディアンナお嬢様、昼食にされてはいかがですか」
ひとしきり頭を下げ続ける村長や集落の者にウンザリした様子の方に籠を持ち上げて見せる。助け舟が来た、とばかりに、メディソン家次女は駆け寄ってきた。
「そうさせてもらうわ、ありがとうナズナ」
籠を受け取って離れ際に、気が利くわね、と小さく礼を呟いて、我々が座っていた石の方へと去って行かれた。
「侍従の方も、大変失礼をば致しました」
村長その他が次々と頭を下げてくる。
「お気になさらず。我々が勝手にした事ですので」
短くそれだけ言うと、我が愛しい姫君の側へと近寄る。
「午後からの作業はどうなさいますか?随分とやりにくくなりそうですが」
「気にする必要は無いでしょう。手が足りていないのは変わらないのです」
確かに、ここで放り出して今夜にでも集落が魔物に襲われてはたまらない。今までの苦労が水の泡だ。
「では、そのように」
早ければあと数時間程で壁は完成するだろう。ここの住人が恐縮しようが止めようがそれで終わりなのだ。
とりあえず一人でも先に開始しておこう。戦場でもなんでも、誰かが先陣を切れば後ろに兵はついてくるものなのだ。
午後からは今まで伐採に回っていたディアンナお嬢様も作業に(主に術で)加わった為、午後の早い時間にはもう壁が完成してしまった。
集落の入り口である東の新規街道側には、馬車も通れる巨大な観音開きの扉まで完成している。
反対の西側には人一人か二人通れるぐらいの通用口。これは西側にある川への水汲み等の利便性を考えての事だろう。
僅か二日で小さいとはいえ集落の防護壁が完成してしまうのだから、この二人がいれば冒険者を雇う必要などないのではないだろうか。無論、夜間の防備は必要だが。
「壁はこれで終わりですね、それでは次にいきましょうかお姉様」
「そうね」
そういえば、もう一つ外周に線を引いていたのを忘れていた。そこに何か建造するのだろうか。
木が伐採されて見通しの良くなった集落の外側の途中に、昨日自分が土遁によって地面に線をつけた場所へとやってくる。
「私はこっちから時計まわりにやるから、トリシアとナズナは反対側をお願い」
「わかりました、お姉様」
言ってディアンナお嬢様は土遁第四階位『ランドトランス』で、線を中心とした2メトロ程度の幅を、深さ1.5メトロ程陥没させた。
「ああ、成る程。堀ですね」
「正解~」
見渡しを良くして周囲に堀を掘削しておけば、獣や魔物を一時的にでも足止めしたり、侵入経路を限定させたりできる。
跳躍力の強い魔物に対してはあまり意味がないが、小型のものであれば十分にその機能を発揮するだろう。
「魔物避けだけではなくて、野生の獣が落ちた場合は簡単に捕まえられる罠にもなりますからね。運が良ければ肉や毛皮も手に入ります」
そこまで考えての事だったのかと感心してしまう。やはり見識のある方々は目の付け所が違うようだ。
トリシアンナお嬢様は土遁が苦手との事なので、ここは自分が買って出る。
しかし、僅か10メトロ程掘り進んだ所で力尽きてしまった。
「ハァ……ハァ……うっ、お嬢様、申し訳ございません……不甲斐なき我が身に恥じ入るばかりでございます……」
その場に手をついて肩で息をする。後ろを振り返ってみれば、ディアンナお嬢様が物凄いスピードで平然と掘り進めていた。化け物である。
「ナズナ、無理しないで下さい。お姉様がおかしいだけなので、ゆっくりやりましょう。続きは私がやりますね」
「お、お恥ずかしい限りでございます……」
立ち上がりたくても魔術の発動限界に達した身体は言う事を聞いてくれない。ここまで限界以上に絞り尽くしたのは、故郷の東方地域で暗躍していた暗殺組織のねぐらを壊滅させて、その残党十数人に昼夜問わず追われた時ぐらいだ。
トリシアンナお嬢様の掘る速度も自分とさほど変わらないが、魔力の総量ではやはりお嬢様の方が上らしい。20メトロ掘り進めてもまだ平然としていらっしゃる。
土遁は苦手との事だが、正直言ってこれだけでも並の土遁使いよりは上だろう。
そういえば、ディアンナお嬢様が使う『ランドトランス』では、地形を圧縮したりして変形させるものなので掘り返した分の土が出ないが、今トリシアンナお嬢様の使っている術では残土が脇に積み上がっている。
こちらは第二階位の『グレイブディガー』だろう。所謂穴掘りの術である。
自分もこちらで掘れば良かったと今更ながら後悔する。『ランドトランス』は余りにも消耗が激しい術なのだ。
もう一度振り返ってみると、もう紅蓮の魔女の姿は見えない。いっそあの方一人で良かったのではないだろうか。
20分ほど経っただろうか。まだ立ち上がれずにいると、今度は正面からディアンナお嬢様がやってきた。
「おっけー、トリシア。繋げたらそっちで掘った所固めておくから」
「はい。相変わらず人外の領域ですねお姉様」
「あんたも人の事言えないでしょ」
いや、穴掘りはやっぱり一人で良かったんじゃないでしょうか。
まだ立ち上がれずにいたので、お嬢様が堀の完成を伝える為、完成した防壁を飛び越え、集落へと跳ねていった。あの移動方法はあまり人前では見せてほしくないのだが。
「橋は南北と西にかけてあります。これは集落への入口である東から距離を離すためですので、不便でしょうが、我慢して下さい。馬車を通す時は跳ね橋を東の街道沿いに設置してあるので、それを利用して下さい。いずれは集落内に物見櫓を設置して、可能な限り堀の監視をお願いします。獣や小さな魔物が嵌って出られなくなる事がありますので、その際は上から魔術や弓、槍などを用いて狩って下さいね」
連れてきた集落の者達に、淀みなく堀の活用方法を伝えるお嬢様。鈴を転がすようなお美しい声のおかげで、自分が魔素を取り込む速度も上がったような気がする。いや、上がっているはずだ。
気合を入れて立ち上がった。あぁ素晴らしきトリシアンナお嬢様のカリスマ性。
「メンテナンスですが、雨の後は崩れた場所がないか見回ってください。多少なら大丈夫ですが、斜面が緩やかになってしまうと魔物の侵入経路となりますので、その場合は新たに縦に掘るか固めるかで修復してください」
大体の説明は終わったようだ。更に、ディアンナお嬢様が後を継ぐ。
「それと、昼に配られた食糧は痛みやすいものから先に消費する事。保存の利く穀物や保存食は、冬を越すまでは最後まで残しておいて。今年は徴税を行わないように言ってあるけど、来年の冬前には作物を収穫量に応じて一定量納めてもらうから、早めに貯蔵庫も作っておく事。何か困ったことがあれば、街の警備隊にいるカネサダかラディアスに相談しなさい」
一息にそこまで言って、これで終わりだとばかりに踵を返した。
慌ててこちらも追いかけると、後ろから「何から何までありがとうございました!」と大きな感謝の声が聞こえた。
「ふふ、お姉様。お願いを聞いて下さってありがとうございます」
「貰えるものは貰ったから、その分の仕事をしただけよ」
何か報酬を受け取ったのだろうか。
「良かったですね、ヴァンパイアバタフライの鱗粉が残っていて」
なるほど、あの小瓶の残りを冒険者達から受け取っていたのか。確か一瓶で50ガルダとかいう額を提示されていたが、半分残っていても25ガルダという大金である。
人を雇っての工事費用としては足りないかもしれないが、魔術の研究者としては喉から手が出るほど欲しかったものなのだろう。
「さ、帰るわよ。沢山魔術を連発してちょっと疲れちゃった」
「そうですね、私もお腹が空きました」
「折角ですので新しく出来た道から帰りましょう。私も森の中を走るには少し消耗しすぎましたので」
まぁ、見上げていれば疲れも吹き飛ぶのだが。
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