第7話 帰還

 半月以上にも渡る王都への往復を終え、邸に戻った翌日。二階の西側にあるトリシアンナの部屋に、三人の姉妹全てが集まっていた。

「この部屋も久しぶり。ほんの数年しか経っていないのに、もう随分来なかったみたいに感じるわ」

 緩くウェーブのかかったブロンドの美人、一番上の姉であるユニティアが懐かしそうに言った。

「家具の位置も何も変えていないので、お姉様が出ていった時そのままですよ」

 違っている所といえば、学者から借りたり書庫から持ち出した本が、デスクの上や周囲に平積みにされている所ぐらいだろうか。

 元々この部屋はユニティアが使っていたのだが、彼女がスパダ家に嫁いで空き室になっていたところをトリシアンナが譲り受けたのだった。

 当時はまだトリシアンナも3歳だったので、5歳でこの部屋を使うようになってからはまだ1年程しか経っていない。

 歳の離れた姉が使っていた家具は今でもトリシアンナには大きすぎて、家具としての役割を果たしているとはあまり言い難い。

 ベッドこそ広くて快適ではあるが、机の椅子もドレッサーも化粧台も、6歳の子供が使うにはまだまだ時期尚早、といったところである。

「私は時々お邪魔してるけどねー」

 二番目の姉、ディアンナが窓辺から戻ってきた。

「ディアナは私がいる時も良く出入りしていたものね。ノックせずに飛び込んでくる癖はもう直ったのかしら?」

 姉の言葉にディアンナは少しバツの悪そうな顔をした。

「子供の時の話じゃない。もうそんな事しないってば」

「ディアナお姉様、そんな事をしていたのですか」

 お茶の用意をしながらトリシアンナは姉を誂う。

「ディアナったら、お茶の時間になるとここに飛び込んできて『姉さん、お菓子食べよう!』って。男の子みたいでしょう?」

「ふふ、今もあまり変わらないかもしれませんね。今なら『トリシア!魔術の実践にいくよ!』でしょうか」

 三つ子の魂百までとは言うが、生まれ持った性根というのはそうそう変えることが出来ないのだ。無論、その奔放さがこの姉の魅力でもあるのだが。

「もー、二人共やめてよ。いいからお茶にしよ、お茶に」

 部屋の隅から引っ張ってきた丸テーブルを囲んで座る。これも、姉二人が使っていたものをそのまま使用している。トリシアンナの座る一つだけ背の高い椅子は、一階の食堂から拝借してきたものだ。

 兄が買ってくれた緑茶用のポットを使い、ティーセットにはあまり似つかわしくない薄緑色のお茶を淹れる。皿にあけた茶菓子は、お土産にと買ってきた薄切りの揚げ林檎である。

「あら?緑茶なのね。珍しい」

「ほんとだ。変わった香りがするね」

 姉二人が物珍しそうに覗く。

「テルマエシタに寄った時、安かったので買ってきました。こちらのお菓子もそこで」

 兄と二人で、この組み合わせの良さは確認済みだ。姉二人もきっと喜んでくれるだろう。

「えっ、温泉に行ってきたの?いいなぁ」

「まぁ、道中色々ありましたので……お兄様が疲れを癒そうと仰って」

 その温泉地ですら色々とあったのだが。

「ユニお姉様は、緑茶を飲んだことが?」

「ええ、東方諸島から来られるお客様も多いから、うちのものが淹れて出すこともあるのだけれど……これはその時の物と比べて随分色が薄いのね。茶葉も混じっていないし」

 それはひょっとして淹れ方の違いではないだろうか。

「どうぞ。熱いので気をつけて下さい。啜って飲んでも大丈夫ですよ」

 白磁のティーカップに緑色のお茶が入っているのはなんとも不思議な感覚になるのだが、どうせすぐに慣れるだろう。トリシアンナはこうした文化的衝撃を何度も慣れで克服してきたのだ。

「ありがとう。……あら、以前飲んだのとは違って上品な味がするわ」

 ユニティアの言葉に、ディアンナもどれどれ、と口をつける。

「ほんとだ。紅茶と全然違うけどこれも美味しいね。うん、このお菓子とも良く合う」

 パリパリと音を立てて揚げ林檎を齧り、ずずっと茶を啜るディアンナ。適応力が高い。

「ユニお姉様の以前飲んだ緑茶とは、どのようなものだったのですか?」

 緑茶も物によって味も濃さも香りも違う。

「そうねえ、もう少し緑色が濃くて、茶葉がところどころ混じっていて……あと少し渋みが強かったわ」

「うーん、それって……このポット、緑茶専用のポットなんですが、これもテルマエシタでアインお兄様に買ってもらったものです。こういうのって、ご覧になったことありますか?」

 蓋を開けてより細かい網状になった中蓋と注ぎ口を見せる。

「これは、似たようなものが東方諸島からの輸入品の中にあったような。あ、もしかして緑茶ってこういうポットで淹れるものなのかしら?」

「渋すぎたというのなら、多分茶器と出す時間のせいですね。東方諸島の方は淹れ方を教えて下さらなかったのですか?」

 普通は茶葉を輸入したら淹れ方や道具も一緒に入ってくるものだと思うのだが。

「お茶はみんな同じ様に淹れるものだと思い込んでいたのよ。まさかポットの構造が違うなんて思いもしなかったわ」

「へー、ユニ姉さんでもそういう思い込みする事あるんだ」

 ディアンナが心底驚いたという風に言った。

「外からの見た目ではわかりにくいですからね。お茶の葉自体も紅茶と緑茶は本来同じものですし、そう思ったとしても仕方がないです」

「え、そうなの?」

「発酵させるかどうかの違いですね。どっちも基本的に同じ植物から採れるものですので」

「トリシアは物知りねえ。あたしは魔術関係以外の事はからっきしだから」

 あははとディアンナが笑う。

「良い事を教えてもらえたわ、トリシア。早速うちでもこれと同じものを使って淹れてみようかしら。実はね、緑茶はうちではあまり評判が良くなかったのよ」

「それは悲しい勘違いですね。是非、この淹れ方でスパダ商会の皆さんに振舞ってあげて下さい」

 これを機に緑茶も流行るかもしれない。そうすると需要が増えてまた値上がりするかもしれないが。

「それよりさ、トリシア。王都はどうだった?道中色々あったって言ってたけど、話聞かせてよ」

 元より三人集まったのはこの話をするためだったのだ。

 ユニティアなど、昨日の夜にトリシアンナが帰ってきたと知るなり、双子を連れて早速実家に帰ってきたのだ。

 可愛い双子の甥と姪は、別の部屋でハンネと侍従達が面倒を見ている。

 両親などは初孫が嬉しくて頻繁に様子を見に行っており、仕事が手に付かない状態のようだった。

 トリシアンナはずずっと茶を啜ると、どこまで話したものかと少し悩んだ。

「そうですね、まずは……ダイアーウルフのネームドがいる群れに襲われました」

 一般人にとっては衝撃なのだろうが、二人の姉は少し驚いた程度だったようである。

「お兄様がいるならなんともなかったでしょうけど……トリシア、怪我はしていない?」

「おー、そりゃまた珍しいのに出くわしたね。ダイアーウルフかぁ、毛皮がコートにぴったりなんだよね、銀色で上品でさ。ネームドなら相当でっかいでしょ?毛皮は?ねえ」

 感想が、ちょっとお出かけしたら転びそうになった、ぐらいのものと、最早魔物を素材としてしか見ていないもの。普通の家庭だったら大騒ぎになりそうなものだが。

「私は大丈夫だったのですけれど、護衛の方が大怪我をして……どうにか治したのですが、大きな傷が残ってしまいました。ネームドの毛皮は、アインお兄様が魔術で粉々にしてしまったので、済みません。あっ、でも普通サイズのなら一つとってきましたよ。後でお見せしますね」

 後でお土産を渡す時に一緒に見せれば良いだろう。どう加工するかの話は後回しだ。

「まぁ、大変だったわね。でも、治した、という事は、トリシアが魔術で治したのかしら?」

(あっ、しまった)

 姉の瞳が不穏な光を帯びる。

「き、緊急でしたので……私が治さないとその方は亡くなられていたでしょうし」

 人命には代えられないだろう。必要に迫られての行動だったのだ。

「そう、それは仕方がないわね。でも、それだと、しなくても良い口止めをさせる事になったのではないかしら。困ったわねぇ、本来ならばそのような事が無い様に気を配るのが引率者の務めでしょうに。後で少しお兄様と話をしてみるわ」

 ごめんなさいアインお兄様と、口を滑らせたトリシアンナは後悔した。ただまぁ、耳の早い姉の事なので、いつかは知ることになっただろう。早いか遅いかの違いである。

「ネームドなら仕方ないでしょ、姉さん。あいつらは群れで来るんだから、手の薄くなる部分が出てくるのはしょうがないって」

「そうねえ。でも、怪我をしたのがトリシアだったらどうかしら」

「森を全て焼き払う」

「やめてください」

 本気でこの次姉はそういう事をやりかねない。

「と、兎も角、その方も命は助かったので、その療養も兼ねて帰りに温泉に寄ったのです」

「あーなるほど」

 どうにか話を逸らす。二人の姉は地雷を踏む度に感情が苛烈になるのが怖すぎる。

「それでさ、王都はどうだったの?」

 ディアンナが聞いてきたので、王都でやっていた事を思い出す。

「ええと、部屋のお風呂に入って、ごはんを食べて、寝て、ごはんを食べて、お風呂に入って……」

「なあにそれ?お風呂と食事しか記憶に残っていないの?」

 ユニティアがころころと笑う。

 実際そうなのだから仕方がないのだ。

「そうは言いますが、ユニお姉様。お部屋にいつでもお湯がでるお風呂がついている上に、大浴場はあのサイズなのですよ。記憶に残るに決まっているじゃないですか」

「まぁ、そういえばそうねぇ」

「あー、わかるわ。あのお風呂、うちにも欲しいなぁ」

 同感ではあるのだが、それは無理な話だろう。

「維持費がとんでもない事になりますよ。無理です」

「流石にあれはちょっとねぇ。一泊あれだけの金額を取っているから出来る事なのよ」

 宿泊費を思い出してトリシアンナも頷いた。一日泊まるだけで普通の家庭が二ヶ月暮らせる額なのだ。

「うーん、そうなんだけどね。常にお湯が出せるってのは、どうにかすればできそうじゃない?水槽だけは普段のとは別に作ってさ、中に魔導率の高い加熱装置を置いて、浴室辺りで操作できるようにすれば」

 確かにディアンナならできそうだが。

「それ、ディアナお姉様しか使えないじゃないですか。水槽のお水をお風呂に使う温度まで上げるのに、毎回熱操作で瞬時に沸かすんですか?水槽のお掃除の手間も二倍じゃないですか」

 飲用にも使う水は、館の裏手、見えない天井裏に水槽を設置していて、そこに水車小屋からポンプのような魔術装置で引いた水を浄化した上で入れている。

 水は浄化していると言っても水槽自体は定期的に洗浄しないと不衛生なので、半年に一度、専門の業者を呼んでいるのだ。

「私専用じゃ、駄目?」

「駄目です」

「駄目ねぇ」

「駄目かぁ」

 そういうのは自分一人で暮らしている時にやる事だろう。ただ、気持ちは分からないでもない。

「あの贅沢に慣れると誰でも駄目になってしまいそうですけどね。ああ、そういえばディアナお姉様は、帰る時にここに住むと言って駄々をこねたそうですね」

 下の姉はげっと言って唸った。

「アイン兄さん、余計な事を」

 ユニティアはそれを聞いてまた上品に笑った。

「私もあそこにずっと居たら駄目になってしまいそうね。あの大浴場は特に」

「ですよねぇ」

 広々とした空間に大きな浴槽、香り湯や薬湯、打たせ湯にサウナや水風呂だ。

「あっ、そうだ。お二人に王都で髪用の洗剤を買ってきましたよ。先月発売されたばかりのもののようですので、ユニお姉様も是非使ってみて下さい」

 宿で使ったものがあまりにも具合が良かったので、従業員にどこの物か聞いて、図書館の帰りに買っておいたのだ。

 スパダ商会の若奥様であるユニティアなら、良いものはいずれ手に入れて使い出すだろうが、先月出たばかりの物であれば、流石にまだ使ったことは無いだろう。

「まあ、そうなの?嬉しいわ。帰ったら早速使わせて貰うわね」

「ありがとうトリシア!やっぱり女の子は気が利くわ〜」

 まぁ、父や兄二人では流石に家族の髪の事には気が回らないだろう。それは仕方のない事だ。

 母は滅多に王都へは出向かないだろうし、今までこういう土産もなかったのかもしれない。

「お風呂もいいんだけどさ、あの宿の食事も良かったよねぇ」

「一階のレストランかしら。私が行ったのはもうかなり前だけれど、その時も良かったわ」

 どちらの事だろうか。恐らく夕食の事だろう。

「確かに、とても美味しかったです。お兄様も随分とお酒が進まれたようで」

 その後のことは兄の名誉の為にも言わないほうが良いだろう。

「でも、ちょっと量が少なくなかった?」

 こちらはトリシアンナの感想と同じようである。

「そうかしら?私も最初はそう思ったけれど、最終的にはそうでもなかったような」

 この上品な姉には十分な量だったらしい。

「私も少し少ないなと感じました。なので、後でお部屋にお菓子を持ってきて貰いましたが」

 二日目の話だ。

「えー、そんな事出来たんだ。私が行ったときはアイン兄さんもお父様も何も言わなかったのに」

「最近始まったサーヴィスだったのかもしれませんよ。持ってきてくれるといっても時間の制限はありますし、お菓子も料理も簡単なものだけでしたから」

 ディアンナはそっかー、と悔しそうな顔をしている。些細な事ではあるが、食べ物の話は誰でもムキになりやすいものだ。

「あまり食べすぎると服が入らなくなりますよ、ディアナ。そうだ、服と言えば、私の見立てた服、どうだったかしら」

「あっ、そうだ。お姉様、素敵な衣装、靴や宝飾品まで、ありがとうございました」

 あのドレスと下着一揃いに首飾り、コルセットと靴まで合わせて一体いくらかかったのか。怖くてそれは聞けない。

「気に入ってくれた?どれもトリシアにとってもよく似合うと思って選んだのよ」

「はあ、素敵すぎてその、私には少し役者不足で早かったのではないかと思いましたが……」

 なんといっても上げ底である。

「えーどんなの?着た所見てみたいなぁ」

「そうね。そうだわ、今日、私は客間に泊まっていくから、夕食の時に着て見せて頂戴。そうね、赤いドレスがいいかしら。あれが一番似合うと思ったのよ」

 あれが一番似合うと思った姉は、ある意味正しいしある意味間違っていると思われるのだが。

「えぇっと……でも、あれって少し露出が多すぎませんか?それに、胸も……」

 ささやかに抵抗を試みる。しかし、未だにこの家で三番目に発言力のある長姉には効かなかった。

「夜会に出るならあれぐらいでいいのよ、トリシア。結婚式に出るわけじゃないんだし、女の子なんだから男性の視線を独り占めにするぐらいの気概を持たなきゃ」

「おお、なんか聞くだけですごそう。夕食が楽しみだなぁ」

 無駄な抵抗であった。

「はぁ、まぁ、効きすぎなぐらいに効果はあったようですが」

 あの格好で笑顔で挨拶をすると、険悪な諸侯もにっこりと微笑むのだ。強い事は強い。

 強すぎて別の弊害もあったが。

「あら、何かあったのかしら」

 またしてもユニティアの目が光る。

「えっ、何?何があったの?」

 ディアンナまで乗っかってくる。これは話さざるを得ない。まぁ、薬や催淫魔術の件は避けて言えば問題はないだろう。アンドアインもその事自体は両親に言うと言っていたのだし。

「その……クリストフ王太子殿下に求婚されてしまいまして」

「「はぁっ!?」」

 場が凍りついた。

「も、勿論丁重に断りましたよ!そもそも身分が違いすぎますし」

 その言葉に、二人共笑っていない目で、口の上だけでは安堵したかのように言った。

「そうね。トリシアが物事をよく分かっていて嬉しいわ。もし王族、しかも王位継承者と婚姻なんて事になろうものなら……うふふ」

「トリシアは可愛いからね、王太子殿下も参っちゃったんでしょ。わかるわぁ……ふふふ」

 上の姉は黒い謀略を思いついたような感情を見せ、下の姉に至っては言葉の後に小さく殺す、と呟いていたのが聞こえてしまった。

 これで薬を盛られて催淫魔術をかけられました、などと言おうものならどうなっていたか。トリシアンナは背筋が寒くなった。

 しかしそもそも原因はあの姉の選んだ扇情的な格好のせいではないだろうか、と、少し理不尽にも思うのだが。ともあれ、本人に決して悪意の無かった王太子が恨まれては少しだけ可哀想だ。

「いやその、殿下も同年代のお友達がいらっしゃらないようで、寂しかったのでしょう。決していやらしい気持ちがあったわけではないと思いますが」

「いやらしい目で見られたの?」

「まぁ……」

 あれ、おかしい。王太子殿下をフォローしたはずなのに。

「違います!違います!そもそもあのドレスと上げ底がそういうものなので!」

「随分と王太子殿下の肩を持つじゃない。その気になっちゃったのかしら」

「あらあら」

 最早何を言っても悪い方にしか転がらないようだ。いや、誰も彼も6歳の子供に向ける感情ではないだろう。

「あっ、お茶が無くなりましたね!ちょっと下で水を貰ってきます!」

 これ以上は口を開くよりも退散するのが賢い選択だろう。

 トリシアンナは水差しとポットを持つと、そそくさと部屋を逃げ出すのであった。


「どう思う、姉さん」

「そうねぇ……王太子殿下と何かがあったのは間違いないでしょうけれど」

 妹の去った部屋で、二人の姉は、空っぽのカップを手に弄んでいる。

「クリストフ王太子殿下って、確かまだ9歳でしょ。私のトリシアに変な事するような歳とも思えないけど」

「あなたの、ではなくて、私達のトリシアですよ。まぁ、でもねディアナ。王族や貴族というのは、周りに吹き込まれてませた考えを持ちやすいものなのよ。トリシアだってあの歳で随分と大人びているでしょう?」

「あれはトリシアだからじゃないの?うーん……確かにその傾向はあるかもね、でも」

 得られる知識の量が多ければ多い程、精神的な成熟は早くなる。しかし、それはあくまでも精神的なものだ。

「子供同士で何かできるとは思わないけど。まぁ、せいぜいスキンシップがあったとかその程度じゃないの」

 性成熟が未熟な者同士で出来る事など限られる。トリシアンナの言っていた通り、いやらしい目で見られた、程度の事で本来は間違いは無いはずなのである。

「……スキンシップ、ねぇ」

「何?どうかした?」

「いいえ。ただ、王太子殿下本人はそうでも、周りが余計なことをした可能性もあることはあるのよ」

「王太子殿下を、周囲の誰かが唆したってこと?」

「あの感性の鋭いトリシアが、どうも王太子殿下を庇っているように感じたの。となると、何かされたのはご本人からだとしても……」

 そこまで言ってユニティアは言い淀んだ。これ以上は不敬になるか、若しくは大切な末妹が他の貴族の連中にとんでもない事をされたかどちらかになる。

 しかし、彼女にそこまでの悲壮感は感じられなかったし、もしそんな事があればアンドアインが黙ってはいないだろう。

「考え過ぎね、私の悪い癖だわ」

 そう、彼女に何かがあったにせよ、余程の事であればトリシアンナの事を宝石のように大切にしている長兄が何もしないはずがないのだ。

「ただ、求婚されたのは間違いないようね。これは少しだけ厄介だわ」

「なんで?トリシアが振ってそれで終わりじゃないの?王族なんて王都の有力貴族の娘と結婚するものじゃない」

「そうよ。だから厄介なの」

 人間の執着とは思いの外強いものだ。特に、手に入りそうで手に入らないものに関してはそれが一層強くなる。

 王やそれに準ずる権限を持つものに、その誘惑は非常に多い。その事を王都の貴族や地方領主が知らないはずがないのだ。

 妹の些細な言葉から、そこまで考えてしまうのはユニティアの悪い癖だった。しかし、その悪い癖から得た着想に備えておいて無駄という事はない。

「緑茶もいいけど、このお菓子も結構美味しいわね」

 山林檎を薄切りにして、油で揚げて塩をまぶした菓子を口に入れて笑った。

 アンドアインよろしく、ユニティアも内面を隠す事に関しては一日の長がある。


 トリシアンナが水差しを手に階段を降りている頃、丁度アンドアインは両親への報告を終えた所だった。

 最後まで黙って頷きながら聞いていた両親だったが、報告が終わると、軽く嘆息を吐いた。

「小さな問題が一点、少しだけ厄介な問題が一点か」

 ヴィエリオの言葉に、マリアンヌとアンドアインも首肯する。

「同行者については信用の出来る者たちです。御者のエンリコは父上の頃からの付き合いですし、フィリッポとルチアーノはスパダ商会です。冒険者の二人も”あの”トリシアが懐いていたので問題ないでしょう。漏れる心配はほぼありません」

「問題は……王太子殿下の方だな」

 ヴィエリオは白いものが目立つようになり始めた顎を擦る。

「トリシアが断り、周囲が窘めたというのならば、それほど大きな問題にはならぬように思うが、問題は殿下がどの程度あの子に執着するか、か」

「子供故の無鉄砲さがありますからね。国王陛下はまず許さないでしょうが、周りが余計なことを吹き込むと少し面倒な事になります」

 幼い王子に貴族ならではの悪知恵を吹き込めば、抜け道を作り出してくる可能性はある。

 そして、その事によって利を得るものもまた多いのだ。

「クリストフ王太子殿下に、未来のお妃様候補はいらっしゃらないの?」

 マリアンヌが至極当然の事を聞く。

「数名居るには居る。だが、彼女らの親同士が細かい牽制をし合っている上に、年齢が年齢故に王太子殿下とはまだ顔も合わせたことがないのだ。漁夫の利を狙ったと思われるのも問題の一つか」

 やはりあまり宜しくないタイミングであったと言わざるを得ない。

「暫くはあの子を王都へ連れて行くのはやめておきましょう。問題が拗れます」

「そうね。私もあの子を危ない目にはあわせたくないし」

 ダイアーウルフの事を言っているのだろう。些少ではあるが確かにそれも問題ではある。

「そうだな。だが、いつまでも処女魔術の件を先延ばしにするわけにもいかん。問題はいつその報告を行うかだが……」

 王都の政務官は、この国の貴族全ての情報を所有している。その情報の中に、誰がどの魔術を得意とするか、どの程度の使い手なのかという事まではっきりと記録してあるのだ。

 理由は一つ。宮廷魔術師に適する人材を集める為だ。

 武術や魔術に秀でた貴族は、最低限の二年間、王国に奉仕する期間が義務付けられる。

 武術が優れたものは騎士団へ。魔術に飛び抜けた才能がある者は宮廷魔術師へ。

 ただ、騎士団は兎も角、宮廷魔術師には王都の魔術学院に在籍していれば、その期間は取らないという決まりもある。

 魔術学院で優れた研究員や教師となれば後続の育成に役立つため、そこにいる間は無理に取り上げないのである。

 ただ、ディアンナの場合は極めて例外的な措置が取られた。

 通常であれば彼女程の才能がある場合、学院修了と同時に王城へと引っ張られる。

 しかし、彼女の場合は学院在籍中に成した成果が余りにも突出しすぎていた為、在野の研究者として家に戻ることを許された。これは極めて稀な例である。

 学院在籍中に発見した新たな魔術法則が4つ、王国に極めて大きな影響を与えた発明が7つ。更には若干12歳で全ての過程を修了するという、過去の最年少修了記録を大幅に塗り替える偉業まで達成している。

 これを王城に閉じ込めておくのは流石にまずいだろうという事で、本人の希望通り実家へと戻されたのだ。

 実際、実家に戻ってからも彼女はコンスタントに研究成果を論文として発表しており、この選択は間違いではなかった、と、学院の教師達からも判断の妥当性が評価されている。

 さて、騎士団と宮廷魔術師ではその在任期間が大きく違う。

 騎士団の場合は最短で2年在籍すれば、後は本人の希望によってどうするかは自由だ。

 無論騎士団とて有能な人材は手放したくないので、給与面や身分の保証など、極めて大きな優遇措置が取られている。

 故に、貴族で実家の跡を継げぬような子弟の場合は、望んでそのまま騎士団に永久就職する者も多い。

 だが、宮廷魔術師は違う。

 宮廷魔術師には独自の秘匿研究があり、それに関わった者は機密漏洩の防止の為、中々外に出して貰えない。

 勿論、優遇措置は騎士団とも似たようなものであるため、やはり家督を継げないような貴族の中には宮廷魔術師を志す者も多い。

 しかし、そうした高度な秘匿研究のせいか、かなりの才能があると認められた者にしかその門戸は開かれない。そして、その門が開いた後に中に入ってしまえば、まず出てくる事が出来ないのだ。

 あまりに早い段階で高度な魔術を扱えると判断されると、魔術学院に入ったとしても、修了後に間違いなく引っ張られる。ディアンナの場合は極めて稀な例外なのだ。

 既に先駆者としてディアンナが様々な発見や発明を行ってしまったため、後続のトリシアンナが同じ様な実績を積み、同じ様な措置をされるという可能性はほぼゼロに近い。

「少なくとも一桁の歳では駄目でしょう。最低限、10を越えてからが宜しいかと」

「うむ。報告する魔術の階位も落とし、属性も変えねばならん。あの子が雷撃以外に得意としている魔術は何だ?」

 聞かれてはて、とアンドアインは首をひねった。

「雷撃以外にですか。護衛のエマヌエーレを治療した時は、第五階位の高度な水撃魔術を使っていましたが……そういえば、地変以外は全て同等程度に扱えるようです。雷撃の精密さと展開の速さが突出していますが、それ以外は……まぁ、強いて言えば私と同じ風圧でしょうか?」

 ダイアーウルフを倒した時の様に、雷を使うなと言われれば彼女は好んで風圧系を使う。火炎のように周囲に影響を及ぼさず、真空波や幻影など、様々な用途に使えるのが好みのようだ。

「それはまた、なんとも。いかにも宮廷魔術師が欲しがりそうな能力だな。分かった、あの子の処女魔術は風圧系第三階位『ウィンドカッター』であったとしよう」

 魔物の退治だけでなく木材の伐採なんかにも使われる、比較的用途の多い攻撃魔術である。強すぎず弱すぎず、無難な選択だろう。

「あの子がその時までに王都に行きたいと言った時は、可哀想だが許可は出さない。賢い子だ。その理由も分かってくれるだろう」

「わかりました。それではこれで」

 アンドアインは二階の東側にある執務室を退出し、軽く息を吐いた。

 両親にはトリシアンナが薬を盛られた上で催淫魔術をかけられた件は話していない。そのため、誘拐犯の疑惑についても『耳』を使うという話を報告しただけで納得はしてくれた。

 家族を謀ったようであまり気分の良いものではないが、言ってしまえばこれはこれでもっと大きな問題になってしまう。当人達のみ知る事実としておいたほうがいくらか無難だろう。

 吹き抜けになっている二階の廊下の向こうを、水差しを抱えたその当人が歩いている。

 こちらに気付いたのか、にこりと笑って手を振るのが見えた。こちらも軽く振り返しておく。

 二度とあのような事が起こってはならない。

 恐らく次の正念場は処女魔術発現報告の時だろう。それまでに、可能な限り出来ることをしておかねばならない。


「おやっさん、只今戻りました」

「おやっさんはやめろっつってんだろうがラディ。丁度いい、これ読んでみろ」

 昼の休憩から戻ってきたラディアスは、顔を出した総隊長室でカネサダ・ソウマ総隊長に封書を差し出された。

「なんすかこれ。王都の司法官からの回答?」

 封書の裏書きを見てラディアスは少し驚いた。地方領主直轄組織とは言え、遠隔地の警備や警察組織にわざわざ王都の司法官からの回答が来るというのは非常に稀だ。

「秋口に妹さんを攫おうとした奴らがいただろ。その処分の知らせだとよ」

「へぇ、わざわざご丁寧な事で」

 中に入っていたのはたった一枚の紙だった。書面を読み進めるラディアスの眉間に、疑惑の皺が寄る。

「有力貴族である地方領主の娘に手を出した咎につき……極刑?おやっさん、これ」

「あぁ、まず十中八九尻尾切りだろうよ」

 如何に文面の罪が重かろうと、事件は未遂で終わっているのである。三人が三人とも打ち首獄門とは穏やかではない。

 どれだけ厳しい処罰が下るにしても、精々エスミオでの重労働か王都の地下投獄を数年、程度が適当な落とし所だろう。いきなり極刑というのはあまりにも性急かつ重すぎる。

 ラディアスとて、大切な妹に手を出した愚か者どもは自らの手で始末しやりたいとは思ったものの、それでも秩序を守る者の一員として、最低限、罪と罰の落とし所は弁えている。

「極刑ってのもアレですけど、わざわざ知らせてきたって事は」

「他言するなって事だろうな。ご丁寧にエスミオ領主の処刑同意サインまで入れてよ」

 回答書の一番下に、司法長官と連名でハインリヒ・フォン・エッシェンバッハと書かれている。領主本人ではなくて、代理の息子の方だ。

「こんな事したら、人身売買にエスミオが噛んでるって言ってるも同然じゃないですか」

 確かに王都、もしくは他領地で罪人の処分をする場合、その罪人の出身地の領主の許可を取る必要がある。かと言って、僅か数ヶ月で迷いなく処刑の判断を下すというのは、余りにも性急すぎる。他の貴族が知れば裏があると勘ぐられるのは間違いないだろう。

「だから、俺等に黙ってろって事なんだろうよ。というか、他の証拠は絶対に見つからないっていう自信かもな」

「『耳』にも探られないという?」

「あるいは人身売買自体嘘だった可能性も含めてな」

 寧ろその可能性の方が高いかもしれない。兄のアンドアインは昨日、王都から帰ったばかりだが、当然例の件は国王陛下に報告している事だろう。

 この封書が今日届いたという事は、処分自体はもっと前、近況報告以前に行われていたのは間違いない。

 であれば、兄の報告直後に『耳』が動いたとしても、何も出てこない可能性は非常に高い。いや、悪賢い貴族の連中がそのようなヘマをするはずもないだろう。

「……納得いかないっすね」

「まぁな。だが、俺たちに出来る事はもう無い。一応領主様にご報告はするが、死んじまった奴を問い詰めることはできねぇしな。直接エスミオ領主に聞くってのもまぁ、無駄だろうよ」

 親愛なるサンコスタ領主の大切な末娘を略取誘拐など断じて許されない。故に厳しい処分をした、と言われて終わりだ。

 逆に娘を拐かそうとした犯人の処分に不服でもあるのかと突っ込まれて終わりだろう。

「親父と兄貴がどうするかに任せますよ。俺はそういう頭使うのは苦手なんで」

 こうした政治的なやり取りは自分の手には余る。賢い父や兄、あるいは姉であれば何かしら考えつくのだろうが、少なくともそれは自分の役目では無いように思う。

「まぁ、領主様や若旦那様なら適切な対応をして下さるだろうがな、でもなぁラディ」

「なんすか?」

 目の前の総隊長は、あまり見たことのない困った顔をして言った。

「お前も多少は貴族のやり方を覚えとけ。お前は強い。このまま行きゃあ俺よりも遥かに強くなるだろうさ。だがな、強さってのは何も腕力や魔術の階位だけじゃねえんだぜ」

 それはわかりきったことでもあるのだが。

「分かってますよ、おやっさん。両親やきょうだい見てりゃ嫌でもそれはわかりますって。ただね、俺にはこれしか無いんですよ。家族の中で、多分俺が一番頭が悪い。それでも、俺に出来る事はあるんです。俺は俺のやるべき事をやるだけなんです」

 魔術の強さで言えば上の妹、ディアンナが圧倒的だろう。政治的な駆け引きや人間関係のバランス構築は長兄のアンドアインが圧倒的で、父の後継者は兄しかいない。

 貴族の暗躍に対抗するなら経済から裏をかく姉のユニティアに勝てるものは居ない。仮に兄がその力を必要とすれば、いくらでも証拠を残さない範囲でサポートする事だろう。

 そして、下の妹トリシアンナ。

 言動から推し量れるだけでも貴族としての素質を見れば兄や姉に迫る勢いだ。魔術の素質としても、いきなり第五階位という時点でディアンナを上回る。そして、剣を握らせた時のあの構え。

 当人は本で読んだと言っていたが、あれは知識だけで得られるようなものではない。

 深く構えた重心に、見えないほどのレベルで切っ先を僅かに揺らす、隙のない構え。

 肩幅より僅かに開いた足の、踵をほんの少し浮かしたどの状況にも対応できる、まるで死線を幾度も超えてきた熟練の剣士のそれだ。

 初めて目前にいるカネサダと手合いした事を思い出し、背筋がぞくりとしたのだ。

(そう、あれは東方の剣士のそれに近いものだ)

 隙あらば一瞬で首を掻っ切る殺意の籠もった剣術。

 騎士団のように受けて捌いて薙ぎ払う、正統派とされるものとは筋の異なる剣。

「ダメ元で聞いてみるんですが、ソウマ総隊長」

「あぁ?なんだよ改まって」

「総隊長が妹……トリシアに稽古をつけて頂く事って、できますかね?」

 壮年の総隊長は呆れた声を出した。

「ハァ?てめえが居るのになんで俺が稽古つけるんだよ。買いかぶるのも大概にしやがれ。いいか、てめえは間違いなく俺が見てきた中で最高の剣士だ。今のまんま鍛えりゃあと数年で俺を超えるのは間違いねえ。その剣士が直接見てるってえのに、妹さんの鍛錬にてめえで何の不満があるってんだよ」

 そうなのだ、そうなのだが、そうではないのだ。

「いやぁ、そういう事じゃなくってですね、妹の剣は独特でして」

 頭が悪いので説明のしようがないのだ。感覚を言葉にするのは難しい。

「あぁ、わかるよ。要は流派っつうか、剣の方向性の違いなんだろうよ」

「あっ、そうそう、それです」

 全てを破壊する自分のそれとは違って、妹の剣は一瞬で相手の急所を引き裂く、そういうイメージなのだ。そしてそれは目の前の男の剣と一致する。

「あのなぁ、剣の方向性ってのはそりゃあ独自のもんがあるよ。でもな、基本ってのは変わらねえ。お前が教えたところで、お嬢様はお嬢様なりの道を見つけ出すだろうさ。それが」

 それが。

「それが、剣の道って奴だろう。俺がてめえに俺のやり方教えたって、結局はお前の色が付いた剣にしかならねえ。なら」

「お前のやり方で教えてやれよ。あのお嬢様は、それを飲み込んで昇華できる資質がある……だろう?」

「……なんで見たことないのに分かるんすか」

 その言葉に呵呵と笑って壮年の男は言った。

「分かるに決まってんだろうが!お前がそんなに剣を教える事に迷うなんてえのは初めての事だからな。んで、俺に指南を打診するってことは、あの可愛らしいお嬢さんはとんでもねえ剣士になるってことだろ。馬鹿にすんな。そんくらい分かるよ」

 わかるのか。自分にはわからない。

「まぁ、おやっさんがそう言うなら」

「馬鹿野郎。てめえはてめえに自分の考えにもっと自信を持てや。確かにお前は賢くはねえよ。でもな、考え方ってのは賢いか賢くないかじゃねえんだ。お前は、お前に出来ると思うことをやりゃあいいんだよ」

 自分に出来ることを。

「あぁ、そうですね。確かにそうです。いやぁ忘れてましたよ」

「ケッ、脳筋のくせにいっちょ前に悩みやがって。まぁあの可愛いお嬢さんが大切なのは分かるけどよ」

 実際可愛いのだから仕方がない。絶対に守らなければならないのだ。

「まあよ、脳筋は別としても報告書の誤字だけは直せよ。お前は次の総隊長なんだからよ」

「気をつけてはいるんですけどねえ」

「頼むぜ次期総隊長。ほれ、巡回の時間だろ、アドニスとウェインが待ってるぞ」

「了解です!」

 駆け足で中庭を抜けて詰所の入り口に向かう。

 そうだ、自分は自分に出来ることをやるだけだ。

 鍛えて、鍛えて、鍛えて。何者にも負けぬ力を身に着け、そして、この街を。家族を守るのだ。

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