第6話 出会いと淫魔

 ついにこれを着る時が来てしまった。

 考えることをずっと先延ばしにしていたのだが、目の前に迫ってくると否が応にもその事実からは目を背けることは出来ない。

 王都滞在4日目。時間は午後3時半。トリシアンナは、いつもの共同浴場から戻ってきて、兄にそろそろ着替えて準備しろ、と言われたことでこの事実に直面している。

 三着目のドレス。真っ赤で一際目を引くそれは、トリシアンナが最後まで着ることを先延ばしにしてきたものである。

 持ち上げてみただけでわかる、露出の多さ。

 布地自体が胸から下にしか無い。それだけならまだ良い。ぱっくりと開いた背中の部分は、お尻の上まで何もないのだ。背中は丸出しである。

 どうかすると胸の部分がめくれて露出してしまうのではないかという不安に加えて、後ろは自分で確認できないため、もし下着がはみ出しでもしようものなら恥ずかしくて表に出てこれなくなってしまうだろう。

 何故姉はこのようなスタイルの良い人にしか似合わないような服を寄越したのか。

 もしこれを着るのが二人の姉、どちらかであればまだ良い。きっとスタイル抜群の二人にはよく似合って、世の男性の視線を独り占めにしてしまう事だろう。

 しかし、幼児体型の寸胴にこれを着せてどうしようというのだ。

 トリシアンナは、産まれて初めてユニティアの選択に疑問を持った。いくら考えても理解できない。

「なんだ、まだ着替えていなかったのか」

 兄が寝室から出てきた。いつものフォーマルな縦縞の衣装である。男性にだけ楽な選択肢があるのはずるいのではないだろうか。

「……今、着替えます」

 トリシアンナは下着とコルセットとドレスを持って広い方の寝室へと入り、扉を閉めた。

 全体的にはどう着ればよいのかは流石に分かるが、胸元をどうすればいいのかがわからない。しかし、いつまでもこうしているわけにもいかない。覚悟を決めて気に入っていた白いドレスを脱ぐ。

 背中から下着が見えた時に、同じ赤ならば目立たぬだろうと、これまた派手で扇情的な下着に履き替える。相変わらず半分以上が透けていて頼りない。

 本命のドレスに身体を通す。そもそも袖がないので、袖を通すことは出来ない。

 ことりと音がしたので何かと見れば、小さな箱が絨毯の上に落ちている。何だろう。

 開けてみると、中には小さな透明の宝石をつなぎ合わせた首飾りが出てきた。服の間に忍ばせてあったのだろうか?いずれにしても、これも着けろという事だろう。

 胸元の位置を合わせてみると、内側にはこれまた大きな上げ底が。謁見の時に着た紫のものより、一回りほど大きい。

 どうやって胸と密着させるのかとあれこれ見ていると、内側に紐のようなものがあるのに気付いた。この紐、どうやらドレスの上半身部分に行き渡っているようだ。

 試しにきゅっと引っ張ってみると、見かけに反して硬い素材のドレスがすっと身体に密着した。なるほど、内側から締め付けるわけだ。

 四苦八苦しながら平たい胸の位置を調整する。上げ底が見えても具合が悪いだろうし、無い肉を寄せるようにして前に持ってくれば、一応は格好がついた。

 下を見ると、谷間がある。無いものを作り出す錬金術だろうか。

 入っていた首飾りを首に回し、後ろで留める。一応はこれで見苦しくないだろうと、漸く着替え終わって寝室から出る。髪は鬱陶しくないように前髪だけ頭の上にバレッタで止めて、後ろは流したままだ。だって背中が隠せるから。

「お兄様、終わりました」

 夕暮れ前の街を眺めていた兄は、振り返って驚愕の表情を見せた。

「お前、それ……盛りすぎではないか?」

「帰ったらユニお姉様に言って下さい」


 夜会用の踵の高い赤い靴に履き替え、兄と一緒に宿の廊下を歩く。走ったら踵の部分が折れそうだし、何よりもう足が痛い。

 絶望的な気分になりながら、表に止まった馬車へと乗り込んだ。

 馬車の中で白い手袋をはめながら、外を見る。

 夕食時の街はそこかしこから良い匂いが漂い、往来の人々も家路を急いでいる人が多い。

 彼らの生活の中に、王城で催される宴の事は一切関わりのない事なのだろう。

 彼らが自分を見たら、どのように感じるのだろうか。

 綺麗な服を着て、豪華な食事をして羨ましい、妬ましいと思うのだろうか。

 それはある意味で正しい。この街の中にも外にも、明日食べるパンが無い人達は、少なくない数いるだろう。

 この世界も前の世界と同じく、飢えること無く、寝る家があるというだけで恵まれている方なのだ。

 そこから見れば、自分たちの生活というのは、民から吸い上げた税金で贅を尽くし、驕慢と怠惰の極みに映るかもしれない。

 否定は出来ない。違う立場に産まれていれば、トリシアンナとてやはりそのように感じただろう。

 だからといって、彼らと生活を交換する事など出来ないのだ。統治者には統治者のやるべき事があるし、それを怠れば世の中はもっと悪くなる。

 ふと、サンコスタの街でラディアスの言っていた言葉を思い出した。

 冒険者になろうと思ったことがある。しかし、自分の好きな街の役に立ちたくて、都市警備隊に入ったのだと。

 きっと自分にもそういう道が見つかるはずだ。民と生活を交換する事はできなくても、民のために出来る事がある。そんな道が。

 馬車は一昨日と同じ道を通って王城へ入る。以前と同じ場所、但し先日とは違う夕闇の迫る中庭に降り立つと、やはりモリス政務官が出迎えてくれた。

「トリシアンナ殿、本日はなんとも素敵な装いですな」

 褒めてくれてはいるのだろうが、トリシアンナには皮肉にも聞こえてしまう。

「ありがとうございます。足元が不慣れなものですから、ゆっくり歩いてくださると助かります」

「承知いたしました」

 中庭を正面に抜けて奥へと進む。会場は一階にあるようだ。

 不安定な足元に四苦八苦しながらなんとかたどり着いたそこは、巨大な扉がいくつもあるホールだった。

 内部は報告の際に訪れた時のような殺風景な部屋とは全く違い、これでもかと言う程にきらびやかな広間だった。

 見上げるほどに高い天井に、魔力光の宿ったシャンデリアがいくつもぶら下がっている。

 南側から北側へ、東西の両脇に一定の間隔で細かい彫刻の施された太い柱が並び、突き当りには大きな螺旋階段が設置されている。

 床には真っ赤な絨毯が敷き詰められ、その上にところどころ、大皿がいくつも乗った巨大なテーブルが無作為に並ぶ。

 泊まっている宿のような豪華さとは全く趣を異にしているのは、なんといってもそのサイズだろう。

 まるでこれこそが王国の威であると主張せんばかりに、何もかもが通常よりも大きく、広く、巨大だ。

 その大きさに圧倒されていると、盆の上に飲み物のグラスを乗せた女性が脇から近寄ってきた。

「メディソン様、ようこそいらっしゃいました。お飲み物をどうぞ」

 給仕と呼ぶには大分派手な、太ももの高い位置まで足の見えるスカート。

 着ている服のデザインこそ給仕のそれと変わらないが、部屋のスケールとは逆に全体的にこちらはサイズが小さく、腕から胸元、腹、足とあちこちから肌が露わになっている。

 トリシアンナは自分の格好が派手だとは思っていたが、流石にこれと比べればマシだろう、と思うような下品さを感じた。

「これは、国王陛下の趣味なのですか?」

 受け取ったグラスをひっくり返さないように気をつけて歩きながら、無表情を保ったままこっそりと兄に囁いた。

「どちらかといえば王弟殿下の趣味だな。宴の責任者は、王城取締官である王弟殿下だ」

「言っては何ですが、なんというか、下品です」

「顔には出すなよ、内心では殆どの者がそう思っている」

 兄とは違って弟は派手好きな性格をしているらしい。テーブルにかかっているクロス一つとっても、美しい刺繍は兎も角、それぞれのテーブルが極彩色を放っている。美しい大皿が原色に塗れて台無しだ。

 王城取締官という役職も初めて聞いたが、宴の責任者というあたり、政治からは極力遠ざけられているのだろうという印象を受ける。なるほど、先王が早々に後継者を決めたというのも納得のいく話である。

 宴の趣味一つでそこまで判断するのもかわいそうだとは思うが、流石にこの感性では海千山千の貴族を相手にするには無理があろう。仮に神輿だとしても、過度な贅沢好きは臣下として御免被る。

 派手なテーブルの合間を縫うようにすすんでいると、ちらほらといる人の中から寄って来る者がいる。

「おお、メディソン家当主代理殿。久方振りですな」

 がっしりした体格の血色の良い、立派な口ひげを生やした紳士が声をかけてきた。

「これは、エッシェンバッハ伯。ご無沙汰しております。ご機嫌はいかがでしょう」

 エスミオ地方領主、ゲルハルト・フォン・エッシェンバッハ公その人だった。

「いやいや、穏やかな南国と違って領地が火の車の忙しい中、なんとか駆けつけましてな、喉が乾いて、ほらこの通り」

 言ってグラスの中身を飲み干す。兄が即座に手を上げ、派手な格好の給仕を呼び、手ずからグラスを取ってゲルハルトに手渡した。

「予定の詰まる中での長旅、大変でしたね。ですが、私も久しぶりにお会いできて、心から嬉しく思っております。ハインリヒ殿は、本日は?」

「ああ、息子は留守番だよ。なかなか出来た息子でね、ある程度内政を任せてももう大丈夫なのだよ」

「左様でしたか。素晴らしい後継者をお持ちで、羨ましい限りです」

「なんのなんの、代理殿とて見事にお役目を果たしておるではありませんか。メディソン伯も随分と鼻が高かろう」

「私などはまだまだ若輩者です。エッシェンバッハ伯、今後とも、どうぞよしなに」

 ゲルハルトは上機嫌でいやいや、こちらこそ宜しく頼みますぞ、と大きな声で笑った。

「おや、それでそちらのお嬢さんが、例の?」

 そこで漸く気付いたとばかりにトリシアンナの方を見る。

「トリシアンナ・デル・メディソンと申します。お初にお目にかかりますわ、ゲルハルト様。父と兄がいつもお世話になっております」

 丁寧にカーテシーを行う。家格こそ同格ではあるが、相手は領主、こちらは末子。箸にも棒にもかからない存在、とまでは言わないが、立場の差は大きい。

「おお、おお、なんとも可愛らしい。真っ赤なドレスが良くお似合いだ。代理殿、将来が楽しみですな!」

「いや、お恥ずかしい。ついてくると言って聞かないものですから」

 トリシアンナが挨拶すると、ゲルハルトは先程までとは少し違う色に変わった。

 不思議に思っていると、それでは、またと言って別の人間の方へと向かっていった。

「変わった方ですね」

「そうか?誰も彼もあんなものだ」

 兄の表情も感情もあまり何も変わっていない。いちいち腹を立てていてはこの世界では生きていけないのだ。

 会話の微妙な含みだけにあらず、にじみ出る感情の色も、あまりアンドアインに対して良いものではなかった。そもそもエスミオ領主は、代々サンコスタ領主とはそりが合わないのだ。

 それぞれが南西と北東の山脈で領地を隣り合わせにしているものの、険しい山脈のせいで双方に直接の交流は少ない。

 サンコスタからエスミオへと向かうには、一旦エストラルゴまで北上した後、そこから東へ数日移動しなければならない。

 王都からの距離も大差無いため、何かとエッシェンバッハはメディソンに対抗意識を燃やしているところがある。

 領地の運営方法も産業も真逆で、エスミオは鉱業と工業を中心に高い収益力を誇るが、その分税率も高く、領地内の貧富の差は非常に大きい。

 僻地には鉱山のみを拠り所にする貧しい村が点在し、一旦領地内の食料生産高が落ちるとたちまち価格が高騰し、困窮する事態となる。そのために、国家事業の人道的支援として、周辺領地から食糧の配給を行っているのだ。

 この支援をエッシェンバッハは、ライバル達に借りをつくるのが嫌だと、あまり良く思っていないらしい。それなら自身が領地内で食糧生産を増やせば良いものを、農業は儲からぬ、家にパンがないならよそから買えばいいじゃないか、という態度である。

 そういう点で、一次産業を主体とするサンコスタとはまたひとつ折り合いが悪いのだ。

 それにしても兄のソツのなさは大したものだ。

 このような事情を知っていて、また言葉の端々に棘があろうとも、徹底して下手に出るが、さりとて極端に謙る事もあまりしない。

 顔色一つ変えずに絶妙な塩梅で受け流すあたり、この歳にして良くもまあ、この境地に達したものだと感心する。

 そうこうしている間にも、各地の領主達にこちらから、あるいは向こうから挨拶に回っている。

 これは中々大変だ。トリシアンナは頭の中に地図を思い浮かべて、先程から顔を合わせた相手の顔と名前を刻み込む。

 小太りのゲルハルトの次にこちらから挨拶したのは、人当たりは如何にも好々爺といった感じの長身の老人。王国北東部に位置するセストナード地方領主、アールステット伯。

 その会話中にやってきた眼鏡の小柄な御婦人が、南西部、サバス地方シルベストレ伯代理のアデリナ婦人。

 兄が初日に飲んでいたワインの産地、北西のノルドヴェスト地方からは、如何にも武人といった風に勲章をぶら下げ、黒黒とした口ひげを生やした、四角いお顔のランカスタ伯。

 かつて大侵攻の最前線となった西部ランタナ地方は、丸い眼鏡の奥に鋭い目をした神経質そうな痩せ型の中年男性、ウェリントン伯。

 まだ来ていない地方領主もいるようだが、僅かな時間でこれだけ覚えるのは大変だ。

 二度と会うことがない、というのなら忘れても問題ないだろうが、流石にそうはいくまい。

 仮にも地方の領主様やその代理相手に、次の再会時にどちら様でしたっけ、などと失礼な事が言えるはずもない。

 次々と現れる偉い人達に揉まれるように、トリシアンナは笑顔を振りまきながら愛嬌たっぷりに接して見せる。

 兄と会話をしている時は色々と含む感情を持った領主もいたものの、トリシアンナが笑顔で挨拶すると、皆揃って優しい色に包まれていた。

 ゲルハルトの時と同様。子供の見た目は強力な武器、という訳だ。

 挨拶回りが一段落ついたところで、兄と一緒に他とは離れたテーブルに移動する。足がまた少し痛くなってきたので、近くの椅子へと腰掛けた。

「お兄様、お疲れ様です」

 兄は平然としているが、あれだけ会話に神経を使っていれば疲れないはずはないだろう。

「何、大した事はない。お前の方こそ大丈夫か、慣れない靴で歩き回って疲れただろう」

「少し足先が痛いですけれど、暫く休めば大丈夫です。……それにしても、地方領主同士の関係性とは複雑なものなのですね」

 お互いの感情を見ていればわかるのだが、大雑把に分けてメディソンに好意的な領主は半分ほど、残りの半分は敵対的か、どちらでもないかであった。

 しかし、メディソンに好意的なもの同士の領主の間が良好かと言えばそんな事はない。

 単純に勢力が分断している、という単純な図式ではないのは、それぞれの置かれた地方の事情や歴史が複雑に絡み合っているのだろう。

「ふむ、あれだけで分かるのか。例えば?」

「そうですね、アールステット伯とサバスのアデリナ様はこちらに好意的だと感じました。逆にエッシェンバッハ伯、ウェリントン伯はそうではないと感じます。他は、どちらでもないでしょうか。けれども、アールステット伯とランカスタ伯の間はかなり険悪です。エッシェンバッハ伯とウェリントン伯にしても、お互いを警戒しているような気がします」

 友達の友達は友達、敵の敵は味方、という図式は一切存在しない。

 各領主には、それぞれ仲の良し悪しがあり、そこに相手の関係性は殆ど影響していないように思える。これは、それぞれの領地が独立自治を保っている、という証左ではあるのだが。

「……お前は本当に6歳なのか?少し怖くなってきたぞ。いや、逆に子供ならではの鋭敏な感性とも言えるか。しかし、あまりに的確だな」

 感情が見えるというある種の裏技によるものなのだ。この短時間の会話でそこまで把握するのは、流石に普通の人間には無理だろう。

 兄の勘違いに任せて、トリシアンナはそのまま沈黙を保つ事にした。

 暫く足をぷらぷらさせて休んでいると、会場の北側が少し騒がしくなった。

「陛下がおいでになったようだ。私達も行くか」

 足も大分良くなったので、椅子から飛び降りて後ろへ続く。今日は王弟殿下と王太子殿下もお見えになる。相手の自分に対する好感度がどうなるかは分からないが、貴族の一員として、一定以上の礼儀は尽くさねばならないだろう。


 アルベール国王陛下は、クリストフ王太子殿下を伴って、順番に散らばった地方領主に挨拶して回っている。今回の宴の目的の主眼は地方領主への労いなので、そこいらにいる王都の貴族には挨拶こそするものの、殆ど時間をかけていない。

 先王とシモーヌ王妃は体調が優れないらしく、出てきてはいないようだ。

 サミュエル王弟殿下は独自に挨拶に回っているが、何故かそういった主目的とは関係なく、ただ近くに寄ってきた貴族と普通に会話しているだけだ。

 派手な趣味の服装とは裏腹に、その外見は面長の朴訥そうなイメージで、話す相手に全くこだわらず、素直な感情の起伏を見せている。要するに、あまり深く物事を考えないタイプなのだろう。

 しばらく広間の中程でその光景を眺めていると、国王がこちらに気付いて、息子を連れて駆け寄ってきた。

「アンドアイン!どうだ、楽しんでいるか?」

「国王陛下、勿論ですよ。酒も料理も、実に上質で素晴らしい」

 その言葉に、アルベールは少し困惑したような感情を見せる。

「そうか、すまんな。毎回のことだが、サミュエルに任せるとした以上、横槍はなかなか入れづらくてな」

 言外に『酒と料理以外は微妙だ』と言われたのだ。貴族の言い回しをすぐさま察知する辺り、国王も相当に慣れたものなのだろう。

「クリストフ、私の親友に挨拶を。それと、彼の妹君にもな」

 はい、と、まだ幼さの残る少年が頷いた。

「クリストフ殿下、ご機嫌麗しゅう。アンドアイン・デル・メディソンでございます。こちらは末の妹、トリシアンナです」

 兄が臣下の礼をしたのに倣って、トリシアンナもカーテシーを行う。

「初めまして、クリストフ王太子殿下。トリシアンナ・デル・メディソンですわ。どうぞよしなに」

 王家の側から先に挨拶をさせるわけにはいかない。こちらからが礼儀であろう。

 しかし、何故か返事が来ない。顔を上げると、父によく似て整った顔立ちの少年がこちらを凝視していた。

「……殿下?」

「あ、ああ、済まない。クリストフ・エル・ケミストランドだ。宜しく」

 王太子から、トリシアンナはここにいる誰からも向けられた事のない感情を視て取った。

 いや、この会場に限らず、今までに向けられたことの無い感情である。

 不思議に思っていると、その王太子殿下はつかつかとこちらに近付いてきて唐突に言った。

「トリシアンナ、余の妃になって欲しい」

「……はっ?」

 意味がわからない。今ここで会ったばかりだ。お互い何も知らない、というか何もかもすっ飛ばしすぎではないだろうか?

「クリストフ殿下、お戯れを」

 固まっているトリシアンナとの間に、兄が割って入った。

「そ、そうだぞクリス。お前はいきなり何を言っているのだ。失礼にも程があるだろう」

 我に返った国王も援護する。

「決めたのです。彼女こそ、いずれ王となる私の妃に相応しいと」

 同年代を見たことがない故の一目惚れだろうか。それにしても、あまりにも強引だ。

「あの、殿下。お気持ちは大変嬉しいのですが、わたくしと殿下では身分が違いすぎます。殿下にはもっと相応しい方がおられるはずですよ」

 極めて常識的な意見だ。少なくともこの言葉が王太子以外の、この場にいる全員の総意だろう。

「身分などどうとでもなろう。余は王太子だ」

「クリス、王太子だからこそだ。王の妃は王都の貴族から選ぶと決まっている。地方領主の末娘を娶ったとなれば、法の横紙破りだぞ。規範たる王族がそれでは示しがつかん」

「何故ですか父上。王都の貴族と地方領主は同格のはず。であれば何も問題ないはずです」

 意外に形だけはしっかりと纏めているようだが、置かれた状況が見えていないのはやはりまだ子供だからだろう。いや、トリシアンナとて彼より年下の子供なのではあるが。

「だとしても、早すぎる。お前はまだ9歳だぞ。14になってからでも遅くはあるまい」

 一般的に王族に限らず、男子は14歳、女子は12歳で一旦一人前と見なされる。例外を除けば処女魔術を試すのもその年頃であり、分別のつきだす目安と言われている。

 この無鉄砲に見える王子も、そのぐらいになれば貴族の複雑な事情も理解できるようになるかもしれない。しかし。

「来月にはもう10です。それに、私は既に処女魔術の発現も済ませております。立派な大人です」

 立派な大人は初対面の相手にいきなり求婚したりしないと思う。

「あの、殿下」

 已む無く声をかける。

「いきなり婚約、というのはわたくしも性急ではないかと思います。せめて、もう少しお互いを知ってからでも良いのではないでしょうか」

 とりあえず時間を稼げば、周りが説得する余裕も生まれるだろう。それに、自分はこの場が終わればサンコスタへと帰るのだ。距離が離れれば燃え上がった心も多少は冷めるだろう。

 その言葉に王太子は少し悩み、そしてすぐに頷いた。何故か感情の揺れが大きくなった気がする。

「わかった。ならば、せめて今日は余と共にいてくれないか。父上、宴の最中であれば、一緒にいても構わないでしょう?」

 その言葉に、国王は渋々といった体で頷く。

「あまり羽目を外しすぎるなよ。それと、他の者には絶対に婚約したなどと吹聴せぬように。これが守れないのであれば、お前が14になって彼女と結婚したいと言っても絶対に許さない。分かったな」

「はい!わかりました!では、行こう、トリシアンナ」

「あ、お待ち下さい殿下、あまり走るのは苦手で」

 トリシアンナは手を引かれ、引きずられるようにして連れて行かれる。仲良くするとは言ったものの、とんでもない事になってしまった。

 間違いなく、これは兄の言っていた地方領主がやってはならぬ『余程の事』だろう。

 救いを求めるように兄の方を振り返ったが、国王や他の貴族の手前、立ち尽くすままでどうすることもできないようだった。


「トリシアンナは、どんな料理が好きなのだ?」

 会場の一角、あまり人目の多くない場所で、クリストフは立ち止まった。

 近くのテーブルから小皿を持ち出し、取り分けてくれようとしている。甘やかされて育った子かと思いきや、意外にも女性の扱いには慣れているらしい。

「そうですね、殿下。嫌いなものはあまり無いですが、やはり海辺の産まれですので……魚料理などが好みです」

「魚か、余も魚は好きだぞ。これがそうだな、ほら」

 取り皿に白身魚にホワイトソースをかけたものを取って、寄越してくる。お腹は減っているので、有り難く頂戴した。

「それと、トリシアンナ。余の事はクリスと呼んで欲しい。仰々しい言葉遣いもいらないぞ、お互い、まだ子供なのだからな」

 先程は大人と言い張り、今度は子供と宣言して憚らない。調子の良いことだが、微笑ましくもある。

「そうですか、では私の事もトリシアと呼んで下さい。宜しくお願いします、クリス」

 兄と国王の事を思い出して応じておく。やはり同年代の友達がいなくて寂しいのだろう。

 他人の目があるならば兎も角、少なくともこの場では相手に合わせてやりたい。

 立ったままというのも何なので、丁度良い高さに段差のある柱を見つけて、そこに並んで座る。傍から見れば微笑ましい光景に見えるだろう。

「トリシア、余はそなたを見た瞬間、その美しさに心を打たれてしまったのだ。跳ねた魚が、初めて見た月の女神に恋をしてしまったように」

「アリエステスの詩ですね、クリス。流石に博識です」

 男女の恋を歌った詩の一節だ。しかし、あまり子供が詠むには適していない内容だったはずだが……そういえば、先程からクリスの視線は時折、自分の胸元にちらちらと向けられている。思春期特有のあれだろうか。こんな格好をしている自分も悪いといえば悪いのだが。

「なんだ、知っていたのか。トリシアこそ、よく知っているな。その詩に興味が?」

「そうですね、アリエステスの描く心の機微は、とても繊細で、美しいものです。こう、心に染み込んでくるような」

 かの詩人の表現は、他人の感情を視ることのできるトリシアンナに大きな影響を齎した。その詩集を読み終わった時に、感情に対する自身の認識がいかに表面的であったかを思い知らされたのだ。

 何故かそれ以降、自分の感じる事のできる色が増えたので、もしかしたらこの能力は、トリシアンナ自身の内面の変化によっても成長するのかもしれない。

「余もそう思う。特に男女の関係性を詩にしたものは素晴らしい。余も、そなたとそのような関係性を築いて行きたいのだ」

 少し不穏な気配を感じる。あれは、基本的に男女の赤裸々な行為も積極的に詩にしているのだ。ひょっとしてクリストフが言っているのは、そういう事なのだろうか。

「ですが、クリス。あの、そういうのはまだ早いというか」

「そういうの?そういうのとは、何の事だ?」

 考えすぎだったかもしれない。この王太子の感情は最初から色を殆ど変えていない。動揺した様子もないので、単に大人の恋に憧れているだけなのかもしれない。

「いいえ、なんでもありません。もっと何か食べましょうか」

 一緒に並んで、色とりどりのテーブルを巡る。大人の感覚で見れば確かに下品なのだが、子供の目から見ればこれはこれでカラフルで楽しいものなのかもしれない。

 ひょっとしたらサミュエル王弟殿下も、友達のいないクリストフ王太子を気遣ってこのようにしたのかもしれない。……そこらを歩いている給仕の格好は別としても。

 肉料理や豆料理を並んで取っている時に、クリスは自然と肩に手を回してきた。特に嫌な気分にもならなかったので、横を見て微笑んで見せる。

 彼の自分に向ける感情に、敵意や害意といったものは全く感じられない。単純に自分に向けられているのは、純粋な好意であると言えるだろう。

 婚約するかどうかはさて置いても、今この場では、彼の小さな恋人の振りをしてあげても良いと自然に思えた。

 見た目の許す限り腹に料理を詰め込んで、先程の柱の所へ戻って来た。そこそこ時間が経ったようだが、兄は今どうしているのだろうか。気になって見回してみたが、見える範囲には見つけられない。気配を探ると、どうやら王弟殿下に捕まっているようだ。

 あの王弟殿下は、観察している限りでは随分流されやすいタイプに見える。朴訥で面長な見た目も相俟って敵こそ作りにくいが、王族や貴族としてはあまり適格の無い人なのだろう。

 たまたま王族として産まれてしまったが故に、彼には彼なりの悩みもあるのかもしれない。

「トリシア、随分食べたが、喉が渇いただろう。飲み物を持ってきたぞ」

 気づけばどこから持ってきたのか、同じ飲み物の入ったグラスを2つ、クリスが手にしていた。

 ありがとうと言って受け取って、匂いを嗅いで気がついた。

「クリス、これ、お酒ではないですか?」

 聞くと、王太子は悪びれもせずに笑った。

「そうだぞ、貴族なんだし、飲めるだろう?余も何度か飲んでいるが、一、二杯程度ならなんともないさ。酒精も濃くない酒だからな」

「ええ、まぁ、飲めるには飲めますが」

 兄が間違えて頼んだのと同じものだ。あの時は二杯飲んでも、別段前後不覚になるという事はなかったし、何より渡してくれたクリスに感情のゆらぎは見られない。一貫してこちらに対する好意しか感じない。酔わせてどうこう、などという不埒な考えを持っているようには見えなかった。

「それでは、余とトリシアとの運命的な出会いに」

 二人でグラスを掲げて、口を付ける。やはり同じものだ。

 僅かに含まれた酒精が、柑橘の甘さを引き立てて喉の奥へと消えていく。仄かに帰ってくる酒精の香りも心地良い。

「どうだ?」

「美味しいです」

「そうか、良かった」

 無邪気な笑みを見せる王太子は、年相応の少年そのものだ。少し警戒しすぎたかもしれない。

 酒精が入り、より陽気になったクリスは上機嫌で語る。

「詩も良いが観劇も良いな。トリシアは今上演されているあれを観たか?」

「はい、丁度昨日、兄と一緒に観てきました。国も身分も異なる二人と、そこに絡まる様々な人間関係……複雑ですけれど、人の感情をつぶさに描ききった素晴らしい舞台でした」

「そうだろう?余もあれが気に入ってな、もう都合3度は観に行ったのだ。特に主演の彼の演技は素晴らしい。間に入る女優たちの高いコーラスも――」

 楽しそうに語るクリスは、先程と同じ様に肩へと手を回してきた。左手には空のグラスを持ったままだ。ふと、トリシアはクリスの声が遠くなっているのに気がついた。

 酔って睡魔が来たか、と思って軽く頭を振るが、何故か逆に眠気はひどくなる。

 明確に感じられるのは上腕を支えているクリスの手の、温かい感触だけ。

 温かい?

 クリスは手袋を外している。

 無礼講に近い形式の宴でも、公的な場では手袋をつける慣習がある。それは王族でも同じだ。それは、直接伝達による密談を防ぐためであり――

 思考の海に呑まれ、トリシアンナの意識は深く沈んでいった。


 薄暗い部屋の中、立派な天蓋のついたベッドの上で、二人の男女が絡み合っている。

 いや、男女というには未だ二人共あまりにも幼い。成人すらしていないように見える。

 組み敷かれているのは長い金髪をベッドの上に広げている少女。

 身につけていたらしき赤いドレスは脱ぎ捨てられ、皺になることも厭わず側に丸められている。

 少女の瞳の焦点は合っておらず、上に覆いかぶさっている少年のされるがままになっている。しかし、頬は上気し、口元には微笑みさえ浮かべている。

 少年の唇や指先が彼女の敏感な部分に触れるたび、小さな嬌声がその口から漏れる。

(これは、私。これは、クリス)

 クリスの右手が、トリシアの背中を撫でる。肩の後ろから徐々に下へと下がっていき、小ぶりな尻に到達した時、またトリシアは耐え難い快楽に打ち震える。

 クリスの唇はトリシアの首筋から鎖骨へ、そして緩やかな膨らみを描く胸元へ移動していく。

 触れられる所全てが痺れを伴う快感となってトリシアの脳髄を刺激する。

(これが、愛されるという事。身分?理性?そんなもの、どうでもいい)

 自分が望むのであれば家族も許してくれるだろう。クリスは次期王位継承者だ。貴族の反発など、王の威光の前では蟷螂の斧に過ぎない。

 この人が欲しい。この人のものを、自分の中に。

 クリスがトリシアの乳房を撫で回し、吸い上げる。先端の敏感な部分を強く刺激され、また一つ、トリシアは小さな声を上げる。

 違和感があった。

 胸?

 自分の乳房はこんなに大きかっただろうか。

 頭の中に紫電が走る。

 目の前に広がる青い海、青い空、白い艦。そして、人の顔。


「ッッ!!!」

 瞬間的に覚醒する。

 目の前には幻覚と同じクリストフの顔。

 口づけをするつもりだろう。

 怖気を感じてトリシアンナは麻痺した身体を全力で動かし、辛うじて右腕のみを上げることに成功する。

「……殿下。ここでそのような事をされては、周りに誤解を招きます」

 人差し指でクリストフの唇を押し返し、反動で背後に倒れ込む。

 動かない肉体を強引に動かして全力を出してしまった影響で、循環器が脈動し血管に触れた神経が悲鳴をあげる。

(薬を盛られて淫魔術を使われた!?ここまでやるか!?)

 先程までのは淫魔術、正式には催淫魔術とよばれる禁術だ。

 直接伝達という接触法の発展形で、術者のイメージを構成と化して強引に相手に流し込む術。

 脳に直接作用する術式の関係上、場合によっては被術者が廃人になってしまう事もある為、使用を禁じられている危険な魔術である。

 通常、健康な者同士ではこの催淫魔術というのはまず成功しない。

 伝達魔術のようにお互いが魔素と構成の流通を許可している状態であれば兎も角、皮膚にも魔導抵抗があり、それを打ち破るには相当な魔力差が無いと不可能だからである。

 しかし、何らかの要因によってその抵抗を弱体化させてしまえば、構成が通ってしまうのだ。

 そのための酒精と、それに相互作用する何らかの薬だったのだろう。

(危なかった。粘膜接触で直接流し込まれたら、絶対に戻ってこられない所だった)

 直接伝達と同じく、皮膚の接触よりも、粘膜接触時のほうが魔導抵抗が圧倒的に低くなる。

 粘膜接触とは即ち、キス、そして性行為である。

 一旦それらによる催淫魔術の侵入を許してしまえば、以降の抵抗はまず不可能となってしまう。所謂性奴隷化だ。

 クリストフが先程口づけをしようとしたのは、トリシアンナが覚醒した事を見て取って、抵抗できないようにもう一度催淫魔術を流し込もうとしたのだろう。

「何を言うのだ。誤解などと。そなたは余の妃となるのであろう?であれば、誤解など何も無いではないか」

 勝手に既定路線にするなマセガキが。誰もそれを許可などしていない。

 どうにか抵抗しようとするが、薬の影響で意識が混濁している。

 体内に入り込んだ成分を水撃系魔術で分析しようと試みるが、その薬物の影響でまともに構成を組めない。

 首を捻じ曲げて左手の親指を噛んでみるが、顎の力も弱っているようで僅かに手袋が破れたのみで、痛みでの覚醒も伴わない。

 解毒の魔術は、本人の意識が明瞭でないと殆ど役に立たない。このような薬物には非常に無力なのである。

(お兄様……お姉様……ッ!)


「クリストフ殿下、トリシアも。どうなさいました」

 つまらない話を繰り返す王弟殿下に辟易して、逃げて来てみれば、妹がぐったりしている。

 そんな状態ながらも何故か王太子殿下が妹の指に押し返されている、という状態だった。

「ああ、アンドアイン殿。いや、トリシアが誤ってお酒を飲んでしまったようで……大事はなさそうだが、今、余の部屋に運ぼうかと思っていたのだ」

 見れば妹は虚ろな目をして、荒い息を繰り返している。しかし、妙な話だ。

「トリシアは、その……殿下の持っている酒を、何杯飲みましたか?」

「いや、一杯だけだが」

 なるほど。

「おい、トリシア。聞こえているか。全く、弱い癖に見栄を張ったな?」

 言いながら瞳孔を確認する。若干開き気味ではあるが、意識はあるようだ。

 頬に触れてみると、一部の鎮静剤に見られる筋肉の弛緩状態が確認出来た。

 頬に触れた自分の腕に、トリシアンナの左手が被さる。

『お兄様、薬を盛られて、淫魔術をかけられました』

 手袋の一部が破れて、指が露出していた。

『直接伝達か。公式の場で見つかったらタダでは済まんぞ』

「全く、しょうがないな。殿下、後は私がどうにかしますので」

 こいつ、大事な妹にとんでもないことを。だが、この子供一人にそこまでの周到さがあるとは思えない。間違いなく裏にこのやり口を仕込んだ奴がいる。

 表面上は笑顔を取り繕う。慣れたことだ。こんな事は造作もない。

 胸の奥に静かな炎が燃え上がる。どこのどいつだ、俺の大切な妹にこんな事をした奴は。

『お兄様、怒らないで下さい。どうか、穏便に』

 この妹はいつだってこうだ。勝手に人の心を察知して、先読みする。人の心を感じ取る能力に長けているのだろう。

 だが、そんな能力を使って、他人の顔色を見ながら生きる人生など、どこが面白いというのだ。そんな下らない人生を送るのは、自分一人で充分だ。

 妹の腋の下へと腕を回し、抱き上げる。脱力しているというのに驚くほどに軽い。こんな小さな子どもが。

「アンドアイン殿、それでは私の部屋へ……」

「殿下」

 笑顔のまま告げる。

「お戯れもほどほどになさいませ。お父上には私から伝えておきましょう。殿下自身に咎が及ぶことはありません、ご安心を。ですが」

 笑顔を貼り付けたまま、すっと目を細くする。

「あなたにそのやり方を吹き込んだ人間は、厳しい咎を受けるでしょうな」

「そんな、叔父上はただ私を」

 語るに落ちた。

 固まっている王太子をそのままにして、親友の下へと向かう。

 誰であろうと、自分の大切な家族に手を出す輩は絶対に許さない。


「国王陛下、少しお耳に入れておきたい事が」

 王都の貴族と気のない話をしていたアルベールは、こちらの発した言葉に気づくと、顔色は変えないまでも緊張した。

「おお、そうか。すまんな諸君。少し友人と語らいたい事が出来た」

 言って、窓辺の人気のない所に誘った。

「どうしたのだアイン。それに、それは……トリシアンナ殿?どうされたのだ?」

 親友が全く関わっていないことに安堵する。そうだ、こいつがそんな謀略に許可を出すはずがない。

「いや、何。間違えて酒を飲んでしまったようでね。酔い潰れてこのザマさ」

 賢い友人はすぐにその意味を察知したようだった。

「そうか、それは申し訳なかったな……少し外の風に当たろうか」

 言って完全に人気のない庭へと誘う。

「何があった」

「アル。お前の家族は、随分と性急に新たな王族を作りたがっているようだな」

「……クリスか。何をした?」

「妹に催淫魔術をかけた」

「……」

 禁術を王族が使う。この意味は果てしなく重い。

「公開するつもりは当然無い。したところで不利益を被るのはこちらだし、国が混乱するだけだからな。ただ、身内の尻ぐらいは自分で拭いてくれるのだろう?」

「無論だ。しかし、催淫魔術だと?一体誰が教えたのだ。それに、簡単にかけられるものではあるまい」

「貴族の御婦人方の中には、不眠症で悩んでおられる方も多いようだな」

「盛ったのか」

「症状から、十中八九間違いない」

 瞳孔の拡張、筋肉の弛緩を見るに、子供にとってはかなり強い薬だ。しかも、それを酒精と同時に。

 呼吸が止まらなかったのが奇跡のようなものだろう。最悪の事態を想像して、また怒りがぶり返してきた。妹が腕の中でぴくりと動く。

「子供の悪戯にしては度が過ぎているな。魔術と一緒に誰かが吹き込んだか……見当はつくか」

「さあな。甥っ子は可愛いものだから、少し世話をやきたくなったのかもしれないなぁ」

 国王は黙る。

「なあ、アル。俺はお前のことを親友だと思っているよ。でもな」

 笑顔を貼り付けたまま顔を向ける。

「俺はどっちかというと家族の方が大切だ。特に、この子に」

 普段は絶対に変えない表情を、冷たい無表情へと戻して言う。

「何かあった場合、王家と言えども覚悟はしてもらう」


 長い沈黙の後、アルベールが口を開く。

「そろそろ『耳』を内側へ向ける必要があるのかもしれん」

「寧ろ今まで何故それをしなかった、国王が」

 家族を信じたい気持ちがあるのはアンドアインも同じだ。だが、明らかに疑惑の強いものを放置するというのは訳が違う。

「一昨日の報告も精査する必要があると思わないか?なんで『わざわざサンコスタくんだりまで』誘拐犯がやってくるんだ。なあ?」

 窓辺から離れ、室内へと戻る。

「報告や処罰には期待していない。王族と貴族の体質は理解しているつもりだ。俺たちの仲も今まで通り。だがな」

「妹には二度とこのような手出しができないようにしろ。これはお願いではない」


 芳しい香りに惹かれて目を覚ました。

「お腹が空きました」

 第一声はそれだ。

「パン挟みを頼んでおいたぞ。もう遅い時間だったがギリギリだったな」

 見ればソファの前のテーブルに、4切れのサンドウィッチが載った皿が並んでいる。

「ありがとうございます。……なんだか、ご迷惑ばかりおかけしているみたいで」

「気にするな。家族を守るのが俺の仕事だ」

「それ、どこかで聞きましたよ」

「そうだったか?まぁ、何度でも言うさ」

 兄は茶葉を蒸らしながら、機嫌が良さそうに鼻歌を口ずさんでいる。

 しかし、その内心はトリシアンナには筒抜けなのだ。

「ご友人と……国王陛下とお話をされたのですね」

「聞こえていたのか」

「いいえ、薬のせいで気絶していました」

 それは本当にそうだったのだが、兄はトリシアンナが気を使ったのだと思ったようだ。

「お前が心配するような事ではないさ。私は今まで通り、あいつも今まで通り。ただ、ちょっとあっちの家族にはぎくしゃくする事も出てくるかもしれないがな。それはこっちの知ったこっちゃない」

 何があったのかは大体想像がつく。この部屋で以前に想像していた通り、身内が原因だったのだろう。

「あの、ああなってしまってから言うのも変なのですけれど」

 一応は誤解は解いておきたいのだ。

「なんだ?」

「クリストフ殿下は、本気であれが正しいことだと思っていました。多分、いえ、絶対に。ご本人にはあれが悪い事だと分からなかったのです」

 彼の感情は最初から最後まで一貫していた。それは、トリシアンナをどうやってでも自分の物にすることが、最善の事だと確信していたからだ。

 そこに悪意は無く、ただ純粋だった。

 手段の良し悪しを判断出来なかったのは、単に彼がまだ子供だったというだけなのだ。

「お前は優しい。だが、あの宴でのお前の人間観察の力を見る限り、それはおそらく間違いないのだろう。王太子殿下もその純粋さ故に騙されたのだとは思う」

「はい」

「しかしな」

 紅茶を高いところから注ぎながら兄は言う。

「理性があっても、感情は消せない。この私が言うのだからわかるだろう」

「はい」

 誰だって、大切な家族が凌辱寸前までいけば正気でいられるはずがない。

 この普段は温和で冷静で、何があっても動じない兄が、自分が催淫魔術をかけられたと知った途端、表には出さずともあそこまで感情が激昂したのだ。

 仮に同じ状況であったとして、トリシアンナ自身、怒るなと言われてもそれは無理な話だろう。

「もういい。美味いものでも食べて寝れば、明日には忘れるだろう」

 そうだ。そうしなければ人間は生きていけないのだ。

「はい、あの」

「なんだ」

「今日も一緒に寝てもいいですか?」

「好きにすればいい。……待て、まさかとは思うが、催淫魔術は残っていないな?」

 台無しだ。パン挟みという名のサンドウィッチをかじりながら、少し憤慨した。

 慎重さにも程があるというものだろう。


 長くも短くも感じた王都滞在もこれで終わりだ。

 あの魅力的な共同浴場を離れるのは名残惜しいが、トリシアンナは旅の相棒である旅装へと着替えて、宿の隣りにある厩で人を待っていた。

「お嬢様!おつとめご苦労さまでした!」

 エンリコ、フィリッポ、ルチアーノの三名が、外から手を振りながらやってきた。

「おつとめって。なんか収監されていたみたいなのでやめてください」

「ありゃ、そうですかいね!」

 意味も分からず三人はガハハと笑う。気安い関係が家族以外に増えるというのは、とても良いものだ。

 馬車に乗り込む前に、兄が紙と封書を取り出して言った。

「トリシア。最後に国王への親書を書くのだが、何か言っておきたい事はあるか?」

 国王陛下へ言いたいことはあまりない。しかし、ずっと気になっていた事はあった。

「クリストフ王太子殿下に向けて書いていただいても良いでしょうか?」

 兄は物凄く複雑な感情を見せた。それはそうだろう。万が一、お慕いしておりますなんて書こうものなら、即座に呼び戻されて婚約の儀に発展しかねない。そうなれば、王都の貴族を巻き込んで地方領主間の戦争だ。

 そんな事を書けと言うはずがないだろう。思わず笑ってしまった。

「トリシアンナの胸は上げ底です、と、そう書いて下さい」

 アンドアインは、周りの視線も気にせず大爆笑したのだった。


 行きも帰りも、王都からエストラルゴまでの道のりは平穏だ。

 野営するまでも無く宿場町は点在し、冒険者によって掃討されたのか、魔物の気配一つ見えない。

 整備された冬の街道にはあまりすれ違う馬車も無く、ただただ退屈な時間に揺られているのみ。

 平和なのは良い事だが、やることが無いので退屈でしょうがない。

 行きは仕留めたダイアーウルフの毛皮処理という仕事があったため、多少は暇を潰せたのだが、その毛皮はもう綺麗に畳まれて荷物の中だ。

 こうなるともう、会話ぐらいしかすることがない。しかし、周囲にいるのは男ばかり。

 比較的良く喋るルチアーノも、今はフィリッポの引く荷馬車の方へと移動して、荷物の点検をしている。

 側にいるのは寡黙な兄だけだ。

「そういえばお兄様、王都での事はどこまでお父様に報告されるのですか」

 二人きりなのだ、馬車の進む音で、御者台には殆ど声が届かない。多少際どい会話も許されるだろう。

「王太子殿下との事は、求婚されたという事実以外は沙汰が出るまでは伏せておく。それ以外はまぁ、細大漏らさずといったところだな」

 催淫魔術は兎も角として、周囲で他の貴族も求婚を聞いていた可能性は高い。そこは誤魔化せないだろう。

「なるほど、細大漏らさず……お兄様が酔って私にお酒を飲ませて、同衾した事もですね」

 兄は顔に全く出さずに動揺した。なんとも器用なものである。

「言い方に悪意があるようだが?」

「まさか。仲が良いのは素晴らしい事ではないですか」

 退屈なのである。何か喋っていないと欠伸がでそうなのだ。

「そうだな、ではお前が往来で演劇の赤裸々な話をしたり、図書館でぐずったことも言わねばな」

「……お父様を心配させるのは、あまり良くないことですよね」

 お互い様だったことに気付いて、笑って誤魔化した。

「冗談は兎も角として、どのような沙汰が下ると思われますか」

 地位の高い人間は、総じて身内の恥を表に出したがらない。

 特に王族ともなれば、国民の不安を掻き立てる、という理由で、事と次第によっては完全に握りつぶす事も厭わない。

 足場が揺らぐという事を極端に恐れるのだ。

「王太子殿下と王弟殿下の言い訳次第だろうな。まぁ、王太子殿下は子供という事もあって不問、王弟殿下とて、王太子の事、世継の事を思ってとでも言えば、精々が所、数日の謹慎程度で終わるだろう」

 それも、表には出さずにもっともらしく別の理由をつけ、国王と先王が命令できる範囲で。

「まぁ、そうなりますよね。それにしても、本当にあれは王弟殿下が仕組んだことなのでしょうか」

「どういう意味だ?」

 兄は特にそこを疑問に思っていなかったようだ。

「私が見る限り、王弟殿下もそこまで謀略を巡らすような人ではなさそうでした。結局、あの方自身も誰かに吹き込まれたのではないかと私は見ているのですが」

 良く言えば朴訥で素直、悪く言えば周囲に流されがちであまり頭の回らない人、というイメージである。

「人柄を見ればそうだろうな。だが、損益という視点から見れば、立派な理由がある」

「王弟殿下にですか?」

 王位継承権を唯一持つ甥っ子に、早めに好みの可愛い嫁を斡旋してやろう、ただそれだけだと思っていたが。まぁ、やり方は兎も角としても。

「そうだ。まず、王位継承権を持つ王太子殿下が、地方貴族の末娘を無理矢理娶ったとする。そうするとどうなる」

「貴族間の静かな戦争になりますね。謀略も飛び交うでしょう」

 あまり考えたくもない話である。そうなった場合、矢面に立つのは自分の家族なのだ。

「それだけで済めば良い。だが、その影響は王族にも飛び火する。次代の王が、即位前に慣例を破るのだ。別の頭にすげ替えようという動きが加速するのは間違いないだろう」

「ああ、なるほど……でも、あの王弟殿下が王位を望みますか?」

「そこはわからんな。お前の言う通り、王弟殿下が即位することでやりやすくなる貴族はいくらでもいる。そいつらとの裏取引が済んでいれば、王位を狙おうという気にもなるのではないか」

 流されやすい男が、乗せられて、という事か。

「更に言えば、別に王太子殿下がお前を娶らなかったとしても問題はない。要は、他の貴族たちにこの子が次の王で大丈夫か、と思わせることが出来れば良いのだ」

「なるほど、そうなると、強い薬を使ったことにも納得がいきますね」

「何?どういう事だ」

 つまり。

「つまりですね、仮にその薬で私が……あの場で死んだとしましょう。薬を盛った王太子殿下が、王弟殿下に唆されて、と証言した場合、道連れです。王位継承候補者がいなくなります。となれば、外戚を持ってくる事になるでしょうね」

 まぁ、その前に怒り狂った姉が王都へと殴り込んでくる可能性が高いが。

「王弟殿下の考えなしの性格を利用したというのか」

 どっちに転んでも、裏で糸を引く輩にとっては利益となる事なのだろう。

 上手く行っても傀儡の神輿を担げる、ダメだとしても、自分たちの息のかかった人間を送り込める。寧ろ後者の方が利は大きい。

 自分で思いついておいてなんだが、悪知恵だけは働く王都の貴族連中の事だ、それぐらいの事は考えつくだろう。

「だが、それだと王弟殿下が『薬はあいつから貰った』とでも証言してしまえば、自分たちに累が及ばないか?」

「しらばっくれれば良いのですよ。最近眠れないと聞いたのでよく効く薬を渡した、そんな事に使うなんて思っても見なかったって。頭の回る連中の事です、言質を取られるようなヘマはしていないでしょう」

 言ってみれば、こうすれば良いと指示するのではなく、匂わせればいいのだ。

 王太子殿下にはできるだけ早くお世継をこしらえてもらいたいですなあとか、サンコスタに新しく産まれた子は大変可愛らしいと評判ですよだとか。

 それとなく即位に対する欲を煽るのだって、海千山千の連中にとっては容易い事だろう。

「なるほどな……まぁ、あくまでも想像に過ぎないが、だとしたら王都の闇は相当に根深い事だな」

 権力、利権が大きくなればなるほど闇は深まるものだろう。

「それにしても、トリシア」

「はい?」

「今からそんなに貴族の考え方に馴染んでどうするつもりだ。あまり褒められたものではないぞ?」

 確かに、6歳の子供が謀略だのなんだの、物騒な話である。

「そうですね、済みません。でも、どうしても考えてしまって」

 ただでさえやることがないのだ、身体を動かさないと頭が回ってしまう。

「頭が良いというのも問題だな。頼もしいと思えば頼もしいが……将来、お前がとんでもない悪女になるのではないかと、私は今から心配だよ」

 何故誰も彼もそう言うのか。

「王都の空気に当てられただけです、多分。サンコスタに戻ったらまた、裏山を駆け回るので、こんな事は考えなくなりますよ」

「それはそれで、貴族の娘としてどうなのだ?」

 ではどうしろと言うのだろうか。

「そうだ、曲がりなりにも求婚されたのだ。一度母上にお願いして花嫁修業でもしてみるか?」

「えっ、いえ。それは流石にまだ早いので遠慮しておきます」

 冗談ではない。藪をつついて蛇を出すとはまさにこの事だ。


「トリシア!」

 エストラルゴに到着して、宿屋に接した厩で馬車を降りた所だった。

「エマさん、もう歩き回って大丈夫なんですか?」

 宿屋から飛び出したエマヌエーレが抱きついてきた。

「あなたが治してくれたって、ジョルジュから聞いたの。ありがとう、感謝の言葉もないわ!」

「あ、あの、エマさん。それは出来れば」

 あまり大声では言って欲しくない。どこから漏れるかわからないのだ。

「あっ、そうだったわ、ごめんなさいね。若旦那も。護衛の任務ができなくなったのに、滞在費や治療費まで出していただいて」

「気にする事は無い。任務中の事故なのだから、こちらで補填するのは当然の話だ。二人共、もう怪我は良いのか?」

 奥からジョルジュも出てきていた。

「はい、若旦那。お陰様で。まだ激しく動くと痛む時はありますが、戦闘も問題なくこなせます」

 その言葉に、アンドアインは少し考える仕草をした。

「ふむ、そうか。実はな、王都でも色々あったので少々疲れていてな。少し寄り道して、テルマエシタに寄って行こうかと思っていたのだ」

「テルマエシタですか?それって」

「うむ、湯治には丁度良いだろう。無論、道中の依頼料はその分上乗せさせてもらうが、どうだ?」

 テルマエシタはここからやや南東、エスミオ領へと続く街道から南へ枝分かれした突き当りにある、領界付近にある山間の街だ。

 大きな街からは少し離れているものの、豊富に湧き出る温泉を求めて訪れる客の多い、所謂温泉街と呼ばれる場所である。

「何から何まで……ありがとうございます」

 深く頭を下げる二人。これはトリシアンナにとっても思ってもみなかった僥倖だ。

「お兄様!温泉、温泉に行くのですか?」

「ああ、二人が完全に恢復していたら迷うところだったが、私も少し疲れた頭と身体を癒やしたい。帰りは3、4日ほど遅くなるが、その程度なら構わないだろう」

 ここからテルマエシタへは、馬車だとおよそ半日で辿り着く。つまり、2、3日逗留するという事だろう。願ってもない話だ。

「一度行ってみたいと思っていたのです。お兄様。ありがとうございます!」

 王都の宿にあった大浴場も良かったが、何と言っても温泉である。

 温泉に行くと聞いて喜ばない人間など一人もいないだろう。多分。

「気にするな、私が行きたいだけだ。明日は早めに出るから、寝坊するなよ」

「わかりました!」

 元気良く返事をしたトリシアンナであったが、遠足の前日の子供が如く、翌日は眠い目を擦りながら馬車に乗り込む羽目になったのだった。


「おお、これがテルマエシタ……」

 馬車はもうもうと湯気を立てている川沿いの、緩やかな坂道を登っていく。

 川向こうと対称に、道の脇には宿と商店が終わりのない程に軒を連ねている。

 トリシアンナはどこか郷愁を感じさせるその光景に魅入られていた。

「若旦那様、いつもご利用の宿でいいですか?」

 御者台でエンリコが怒鳴る。

「ああ、そこで頼む。馬もいつもの所に入れてきてくれ」

「承知しました」

 いつもの、と言う事は、兄は割とこの街に来ているということだろうか。

「お兄様はこの街に良く来られるのですか?」

「あぁ、まぁ、多くて年に二回程だな。理由は……分かるだろう」

 やはりあの宴は心労が激しいのだろう。加えて長時間の馬車旅ともなれば、温泉に浸かりたくなる気持ちも分かる。

「夏もご一緒してもよろしいでしょうか」

「半年ごとに王太子に迫られることになるが、それでもいいのか?」

「……もう少し考えてみますね」

 休みたくなるには相応の理由があるのだと、身をもって思い知らされた。

 馬車は坂道をゆっくりと進み、やがて一際大きな建物の前で止まった。

「そんじゃ、みなさんは必要なお荷物を持って降りて下さい。俺はフィリッポと馬を置いてきますんで」

 二台の馬車は御者以外を下ろすと、そのまま坂道を登っていった。

「厩は近くに無いんですね」

「山の中の街だからな、平たい場所が少ないんだ。歩いてもそうかからん場所にあるから、先に全員分の宿帳を書いておこう」

 兄はそう言うと、茅葺きの大きな建物の中へと入っていった。

「全員、ここで靴を脱いでいってくれ」

 入ると横幅の広い靴脱場が広がっていた。

 土間から一段高く、板張りになった場所の少し奥にカウンターがある。

 靴を脱いで側の靴箱に入れる。なんだか懐かしい。

 冒険者の二人は慣れないようで、ぎこちなく靴を脱いで板間に上がった。靴がそのままだったので、靴箱に入れるように言う。

「トリシアはここに来たことあるの?」

 慣れた様子のトリシアンナに、エマヌエーレが問いかけた。

「いえ?初めてですけれど。どうしてですか?」

「いや、なんか妙に慣れてるからさ。靴をここで脱ぐのも、その棚に入れるのも、迷いなくやってたじゃない」

「あ、あぁ」

 言われてみれば、土間で靴を脱いで靴箱に入れる、などという動作はこの世界では一度も体験したことがなかった。

 あまりにも当たり前の事すぎて、変わった所だと頭が認識していなかったのだ。

「まぁ、色々と勉強はしていますので。ここにもいつか来てみたいと思っていたので、予習済みです」

 嘘である。

「へぇー、流石に領主様のお嬢様となると違うんだねぇ」

 エマヌエーレもジョルジュも、只管感心しきりである。

 まさか様式が以前の世界と似ているなどとは言えるはずもない。

「エマ、ジョルジュ。二人は同じ部屋でいいか?あとは……うーんそういえばここは3人部屋と、次に大きい部屋は大部屋しかないのだったな」

 折角の温泉宿なのだ。夫婦を一緒にするのは当然だろう。

 となれば、残りは馬を置きにいったエンリコ、フィリッポ、兄と、隣にいるルチアーノ、そして自分の5人だ。別に部屋割りを悩む必要もないだろう。

「何か問題でも?」

 とことこと兄とルチアーノの近くに寄って、背伸びをして従業員の示している、空いている部屋の配置図を見る。

 三人部屋と、二人部屋。二人部屋の方が少し宿泊価格が高く、部屋に個別の風呂もついているらしい。三人部屋は少し広く、こちらにはベッドが無く、地べたにマットと毛布を敷いて寝るスタイルのようだ。

「お兄様、何を悩んでおられるのですか」

 何も悩む必要などないだろう。

「いや、一人部屋が無いのだ。かといって、三人部屋を余計に2つとるのは流石に散財が過ぎると思ってな」

 旅も終わりなので、そこまで路銀に余裕がないのかもしれない。しかし、またこの兄は馬鹿な事を考えている。

「悩む必要など無いではありませんか。お兄様と私で二人部屋、残りを三人部屋で。あ、これでお願いします」

「お、おい、トリシア」

「なんですか、三人部屋の方がいいんですか?」

「そうではなく」

「今更何を恥ずかしがっているのです。行きもそうでしたが、私達は兄妹なのですよ。同じ部屋で何の問題がありますか」

 従業員から鍵を受け取って、片方をルチアーノに渡す。

「ほら、行きましょう。私は早く温泉に浸かりたいのです。下らないことで時間を消費しないでください」

「トリシアンナお嬢様はユニティア様に似てきましたなぁ」

 ルチアーノが何故かしみじみと言う。姉も同じ様にしてここに来たことがあるのだろう。

 渋々付いてくる兄の事は気にせず、鍵に書かれた番号の部屋へと、意気揚々と向かうのであった。


「おおー、……温泉旅館です」

 貧しい生まれだった以前、温泉宿に泊まる事こそなかったが、家計を支えるために下働きをした事があった。

 部屋の掃除や布団の上げ下げ、料理の配膳や湯船の掃除。やれることは何でもやった。

 宿泊客が寝静まった後、旅館の主人の好意で、こっそりと温泉に入らせて貰えたこともあった。

 実入りはさほどでもなかったがそれが楽しみで、そこでの仕事は全く苦にならなかった。

「旅館?」

 聞き返す兄の言葉をこちらは聞き流して、奥の引き戸を開け放つ。

 そこには、板張りの廊下のような場所の奥に、竹の塀で囲まれた家族用らしき小さな露天風呂が設置されていた。

「すごいですよお兄様、部屋に露天風呂です!初めて見ました!」

「いや、そもそもお前は温泉自体が初めてだろう」

「全部初めてです!」

 興奮して変なテンションになっている事を自覚する。しかしそれは仕方のない事なのだ。

「早速入りましょう!あっ、夕食は何時でしょうか?時間がないのならその後にしないと」

 ふらふらと部屋の中を見て回る。大きなベッドが一つ置いてある以外は、見れば見るほど温泉旅館そのものである。床は畳ではないが、一面に獣の革を敷き詰めてあって、絨毯ではないけれども、靴下越しの足の裏は温かい。

 壁には何故か床の間まで設置されていて、東方諸島の掛け軸が掛けてある。

 元の世界のようだが、ところどころ独特の文化が混じり合っていて面白い。温泉地というだけで文化が似通ってくるものなのだろうか。

「落ち着け、トリシア。今は昼過ぎだろう、夕食はまだ先だ」

 そういえばそうだった。朝早く出て、着いたのが昼の弁当を食べて少し後だったのだ。

「よし、では温泉に入りましょう、お兄様。部屋のがいいですか?大浴場がいいですか?」

「部屋のって……お前、一緒に入るつもりなのか」

「いけませんか?」

 そういえば部屋の風呂はそんなに大きいわけではない。二人入れば湯船はいっぱいになってしまうだろう。

「うーん、少し狭いでしょうか。でも、私は小さいですから十分に入れますよ?」

「そうではなくてだな、お前は、俺と入って平気なのか」

 言われてはたと気づく。

「……私は平気ですが、お兄様が恥ずかしいですよね、申し訳ありません、つい」

 家族風呂なのだから、当然一緒に入るものと思い込んでいた。

 しかし、この兄はどうにも妹達にも気を使う傾向にあるのだ。うっかりとそこを失念していた。

 そういえば、ベッドも一つしかない。この部屋は夫婦か恋人同士で泊まることを前提にした部屋だったのだろう。兄が躊躇していたのはその事だったのだ。

「大浴場に行きましょうか。エマさんたちも来ているかもしれませんよ」

「いや、俺は……」

「折角温泉地に来たのに、時間の余裕があって湯に入らないという選択肢は無いでしょう。ほら、行きましょう」

 兄の手を取って部屋から引きずり出す。案内板を見れば、大浴場は入り口のすぐ近くにあったようだ。早く浸かってゆっくりするのだ。もうそれ以外の事は考えられない。

 入り口付近のカウンターの前に来ると、部屋着に着替えたジョルジュ夫妻に出くわした。

「あっ、エマさんたちもお風呂ですか?丁度良かったですね」

「あら、トリシア。ふふ、折角来たんだから堪能しないとね」

 普通はこうなるだろう。隣にいるジョルジュもこちらを見て微笑んでいる。

「そういえばお部屋のお風呂は見ましたか?あれも、一日いつでも入れるんですよね、すごいです」

「そうね、ちょっと狭いけど。ねえ、ジョルジュ」

 夫の方は曖昧に微笑んでいる。お熱い事だ。

「そっちは夕食後に入れば良さそうですね。お二人でも、詰めれば十分に浸かれると思いますよ」

「お、おいトリシア」

 兄が横槍を入れようとするが気にしない。

「それじゃ、行きましょう。露天風呂の大浴場ですよ!楽しみです!」

「そうね、行きましょう」


 大浴場は大きく分けて3つに分かれていた。

 男性用、女性用、混浴。

「おお、ここは混浴風呂があるのですね」

「そうみたいねぇ」

 入口の間で立ち尽くす一同。そこへ、男性用から一人の男が出てきた。

「おや、若旦那様達も風呂ですかい?いやあ、温泉ってのはいいもんですなあ。それじゃ、俺はお先に失敬」

 フィリッポが全身から湯気を立てながら部屋へと戻っていった。このタイミングからして、厩から戻って部屋につくなりすぐにここへと向かったのだろう。相当慣れている。

 彼が立ち去るのを見送ってから、トリシアンナは隣の兄を見上げて言った。

「お兄様、混浴に入りましょう」

「絶対に拒否する」

 アンドアインはさっさと一人で男性用に入っていってしまった。

「ああ、待ってくださいよ若旦那」

 それを追いかけるジョルジュ。

「二人共、恥ずかしがり屋なんですね」

「……そうねー、でも、トリシアって精神年齢の割に結構奔放なのね、意外だわ」

「そうでしょうか?家族でお風呂に入るのは普通では?」

 その言葉に、エマヌエーレも曖昧な笑みを浮かべる。部屋の兄と同じ反応だ。

「まぁ、他の男性が入ってきても困るし、女性用にしときましょ」

「そうですね」

 二人して明らかに暖簾としか思えない布の門をくぐった。


 全く、どうしてあの妹は風呂に関してはああなるのか。

 僅かにぬめりを帯びた湯に全身を包まれながら、凝り固まった筋肉を弛緩させる。

 少し熱めの湯が、身体の内部まで染み込んでくるような感覚がある。

 筋の一つ一つが解きほぐされるような快感に、思わず唸り声が出てしまう。

「若旦那、トリシアンナお嬢様ってあんな方でしたっけ」

 少し離れた場所に、ジョルジュが入ってくる。

「いや、妹はな、何故か風呂に関してはああなるのだ。理解出来ん」

 ジョルジュは、はは、と乾いた笑いを湯気の合間に響かせた。

「平気で俺たち二人で部屋の風呂に入るってのを当たり前に仰った時はぎょっとしましたよ。いや、そりゃね、夫婦だしそういう事もしますけど」

「すまないな、あの子は観劇の後もそうだったのだが、どうにもまだ、女の子としての自覚が足りないのだ」

 考えてみればまだ6歳なのだ。性自認を明確にしろと言われてもぴんとこないのだろう。

 ただ、その割にはところどころで自分の魅力を利用しようとしたり、露出の多い服を恥ずかしがったりと、妙に大人っぽい所もあるのだが。

「あの年頃だと、裸で走り回ったりする子もいますからねえ。でも、お嬢様はそんな事は絶対にしないでしょうし、どうにもなんというか……」

 アンバランスなのだ。異常に明晰な頭脳を見せたかと思えば、暴走した子供のように振る舞う時もある。小さな馬車に暴れ馬が括り付けられているようなものだ。

「まぁ、その差が可愛いといえば可愛いのだがな」

「兄バカですねぇ」

「……すまん、声に出ていたか」

 ジョルジュはまた、はは、と笑った。

「見た目があれですからね、もう、誰が何と言おうと貴族のお嬢様じゃないですか。それが、ショートソード振り回して」

 その先は言い淀んだ。あれだけ強力な魔術を平気で行使するのだと言いたいのだろう。

「あれはな、我が家で一番の怪物になる。人を見る目は既に私以上だ。経験を積めばユニティアの手配能力も超えるだろう。力は……まぁ、ラディアスを超えることは難しいかもしれん。しかし、魔術の才能に関して言えばディアンナのそれも超える可能性がある」

 口に出してぞっとした。それは最早、人間と言えるのか。

「とんでもないっすね。まぁ、メディソン家なら別に不思議とは思いませんが」

 そうなのだ。代々、我が家の人間は、他者と比べて一部の能力が突出した才能を持つ子を産む。当のアンドアイン自身も並の魔術剣士よりは遥かに強い。

 血によるものと言えばそれまでだが、それにしたって、『普通』の子が産まれた試しがないのだ。呪いと言っても違和感は無いだろう。

(呪い、か)

 思い至るのはあの雷光剣カサンドラだ。曽祖父が使っていたあの剣、それをあのトリシアンナは当然の様に抜いてみせた。

 真実を告げるもの。その真実とは、概ね統治者の不都合となるような事が多い。

 それ故に、メディソン家に次の雷使いが産まれた時は、国そのものの災いになるだろうと噂されてきたのだ。

 だが、曽祖父の告げた事実は当たった。そして、曽祖父はその事実から国を守るために戦い、死んだ。妹も、ひょっとしたら同じ道を辿るのだろうか。

 嫌な想像を振り払うように、胸元から掬った湯で顔を擦った。独特な匂いが仄かに薫る。

 馬鹿な事だ。自分は家族を守るのが仕事だと宣言した。ならば、死んででもその目的を達成してみせよう。そのためであれば、魔物にも、悪魔にでもなってみせる。

「エマさん!何食べたらこんなに大きくなるんですか!」

 妹の声が、竹で作られた柵の向こうから聞こえてきた。


(おおお、おおおおおー)

 脱衣所から露天に出ると、立派な石造りの湯船が広がっていた。

 豊富な湯量があるのか、こんこんと湧いて出る湯が、湯船の端、少し高くなったところから溢れ出てきている。

 温度調節のためか、引かれた水の蛇口が近くに設置されており、ちょろちょろと細い線を引いている。

「温泉です。紛うことなき温泉です」

 全裸で仁王立ちになり、しみじみと言う。

「いや、そりゃあそうでしょう。温泉に来ているんだから」

 後ろから前を布で隠したエマヌエーレが入ってきた。

「それは分かっているんですが……この感動を、どう言い表せば良いのか。かの詩人アリエステスも、温泉に関する記述は一切記していませんでした。温泉に入るという人類の最終命題に関する事を、あの鬼才が一言も触れていないなんてことがありえましょうか。それは即ち、かの天才をもってしてもこの感動を言い表す言葉が無かったのではないかと想像します。つまり」

 そこでトリシアンナはぶるりと震え、胸を抱きかかえた。

「ほら、トリシア。寒いんだから意味のわからない能書き垂れてないで、一緒に入りましょ」

「そうですね、温泉があるのに入らないなんて、温泉に対する冒涜に他なりません。では」

 洗い場がないのでそのまま浸かるのだ。ここはほぼ源泉かけ流し。多少の汚れなんて気にしてはいけない。

 「あっ、エマさん!布は湯に漬けてはいけませんよ、畳んで、頭の上に乗せるのがマナーです!」

「えっ、そうなの?」

 前を隠したまま湯に浸かろうとしたエマヌエーレは、慌てて畳んで、頭の上に乗せた。

 トリシアンナもそろそろと足先から湯に浸かる。通常の風呂よりも温度はやや高めだろうか。ピリピリと刺すような感覚が皮膚から伝わってくる。

「あ゛っ、あ゛ぁ~」

 そのまま肩まで浸かり、両手足を伸ばして大の字になる。

 末梢神経から、温泉成分である硫黄、炭酸、鉄、マンガン、ニッケルその他諸々の成分を感じる。いや、遊離イオンそのものを皮膚が感じるわけがない。気の所為だ。

「何それ、気持ちよさそうだけど、なんかお年寄りみたい」

「あぁ~、分かっていませんねエマさん、これが温泉の楽しみ方なんです。ほら、やってみてください。こうすると指先や腋の下なんかからも温泉を感じられるんですよ」

 恥じらいも何もなく腋も股もおっぴろげている。だが、今の時間は隣にエマヌエーレがいるだけだ。何を恥ずかしがる必要があるだろうか。

「うーん、本当?なんか疑わしいんだけど」

「嘘じゃないですよ、一度やってみてくださいよ、ほら」

「そう?それじゃ」

 エマヌエーレも少し深くなっている所に移動すると、仰向けに大の字になった。

「あっ、ほんとだ。こうすると全身でお湯を感じられるわね」

 仰向けになったエマヌエーレの姿を見て、トリシアンナはぎょっとした。

「う、浮いてる……!」

 自分が大の字になったのは湯船の中だ。多少の浮力はあるけれど、基本的に全身湯に浸っている。しかし、彼女は。

「待ってください、その2つの浮き袋も沈めて下さい。それは温泉に対する冒涜です」

「えっ?でも、勝手に浮いちゃうんですもの」

「いやいや、おかしいでしょう、エマさん!何食べたらこんなに大きくなるんですか!」

 大きいものは二人の姉で見慣れている。それは良い。しかし、湯船に浮かぶ2つの島は、普段見ているそれよりも迫力が違うように感じられるのだ。

「えぇ?多分トリシアよりも良いものは食べてないと思うけど。だって、食べ物で変わるなら、お姉さん達も一緒のもの食べてるんでしょう?違うんじゃない?」

 誠に論理的な回答だった。

「それもそうでした。となると、何が違うんでしょう。環境?」

「あのねえ、トリシア」

 エマヌエーレが笑いながら近寄ってきた。

「トリシアはまだ6歳でしょう?それで胸が大きかったら逆におかしいじゃない。これからよ、これから」

「あっ、そういえばそうですね。周りがもう迫力満点の人ばかりなのでつい……」

 幼女の乳がでかければそりゃあおかしいだろう。何を当たり前の事を。

「うーん、でも、このまま成長しない可能性もあるんですよね、時々、そういう人いますよね」

「えっ、どうなんだろう、よくわかんない」

 兄曰く、それは持てる物の傲慢だ。

「それじゃ、エマさんが普段その、胸に関して影響のありそうなものとか、心当たりありますか?」

 大きければそれは物凄く邪魔だろう。しかし、ある程度あれば武器になると学んだのだ。毎回上げ底でだまくらかすわけにもいかないだろう。

「うーん、影響ねえ……あぁ、好きな人に触ってもらうとか?」

「ジョルジュさんにいつも触ってもらってるんですか?」

「……それ、ここで聞くの?」

「すみません」

 流石に突っ込みすぎたと反省する。

「うーん、しかし、好きな男性に触ってもらう、ですか……あっ」

 幻覚の中ではあるが、その経験があった。あれそのものは自分の身体ではないが、その感触は思い出せばまだ残っている気がする。

「え、何?経験あるの?え?」

「あっ、いえ、あれはその、気の迷いというか、無かったことに」

「えぇっ!?誰?誰に!?その歳で!?」

 迂闊だった。あれは絶対に他人に漏らしてはいけない出来事だ。

「いや、それは相手が勘違いしていただけで……その、上げ底なのに」

 あれ?これも迂闊だったか?

「つまり、トリシアはもう男性に胸を触られた事があるんだ。しかも何か複雑な事情があって」

「あー、いや、触られたというか吸われたというか、あと他の人に言わないで頂けると」

「すわっ!?……言わない、言わないから。誰?誰よ?」

 口を開けば泥沼に嵌っていく気がする。これは露天風呂の開放感のせいなのか。

 ひとしきり誤魔化してどうにかその場を収める。まさか、王太子にそのような事をされたなどと口にすれば大騒ぎになってしまうだろう。

 ようやく落ち着いた隣で、エマヌエーレが湯に浸かっている。その左腕には、痛々しい肉の盛り上がった傷跡が残されていた。

「傷、残ってしまいましたね。済みません、まだ未熟で」

 母や上の姉ぐらい熟達していれば、もっと傷跡を残さないか、あるいは綺麗に治っていたかもしれない。トリシアンナは、傷を塞ぐので精一杯だった上に、治療の途中で力尽きてしまったのだ。

「謝る事じゃないでしょう?命を救けてくれたのに、それ以上を望むなんて贅沢にも程があるわ。大体、冒険者なんて傷が付き物なの。これぐらいで気にしてたらやってられないわ」

「そうですか……ありがとうございます。でも、助かって本当に良かったです」

 あの時は必死だった。たとえ触れ合った時間が短くとも、知り合った人間が死んでいくのを見るのはもう沢山だ。この世界では、可能な限りそれは避けたい。

 トリシアンナは湯を掬って、ばしゃばしゃと顔を洗った。


 着替えを済ませて、浴場の前の廊下で兄が戻ってくるのを待っている。

 今着ているのは王都でも着用していた白いドレスだ。

 あまり日常的に着用するものでは無いような気もするのだが、デザインが気に入ったので、擦り切れた旅装では少し、という場所ではこちらにしている。他は、この場には明らかに似つかわしくないだろう。

 温泉の効能か、特に暖房など入っていない廊下でじっとしていても、身体がぽかぽかとして温かい。

 エマヌエーレは先に部屋へと戻ってしまったが、兄とジョルジュはまだ中にいる。

 余程気に入ったのかとも思ったが、少し長すぎる気がする。あまり長く浸かりすぎると湯あたりするので、逆に身体に悪いのだが。

「おや、お嬢様。若旦那様をお待ちで?」

「ルチアーノ。ええ。ですが、少し長すぎる気がします。ちょっと呼んできて貰えませんか」

 気配を探る限り、倒れているという事はないだろう。自分が待っていると伝えてもらえれば出てくるはずだ。

 ルチアーノはわかりましたと言って、男湯に入っていった。

 程なくして、兄とジョルジュが連れ立って出てきた。

「トリシア、別に待っていなくても、先に戻っていてよかったんだぞ」

「いや、部屋の鍵はお兄様がお持ちではないですか。入れません」

「あぁ……そうだった。済まない、忘れていた」

 兄にしては珍しい。中で何かあったのだろうか。

「お二人共、随分長かったですね。いくら気持ちが良くても、あまり長く浸かりすぎると身体を壊しますよ」

「あぁ……」

「ええ、まぁ」

 どうにも歯切れが悪い。視える感情も良く分からない色だ。

 気にしても仕方がないと思って歩き出す。

「そういえば食堂が見当たらないようですが、夕食はどこで食べるのでしょうか」

 平屋の建物は広いが、それらしき場所は見当たらない。別の建物にでもあるのだろうか」

「ああ、ここは食事は全て部屋へ運んでくれるんだ」

 そんなところまで温泉旅館なのか。

「いいですね、人目を気にせず食事ができるので、気が休まりそうです」

「そうだろう。私が宿を毎回ここにするのは、これがあるからなんだ」

 人付き合いにつかれれば一人にもなりたくなるだろう。無理矢理二人部屋にしたのは悪かったかな、と、少しだけ後悔した。ただまぁ、兄を一人にすると部屋が増えて無駄遣いを強いられてしまうので、これ以外の選択肢は無かったとも思うが。

 外に出る必要が無いとの事なので、トリシアンナは部屋に戻ると早々に夜着に着替えた。

 そしてそのまま、大きなベッドへと寝転がる。

「あぁ~、やっぱりいいですね温泉。お肌もつるつるで身体がぽかぽかします」

 ただ、血流が上がって体温が下がりやすくなっているので、湯冷めには気をつけなければならない。

 ベッドの上をごろごろと転がりながら悩む。クリストフ殿下に会うのは気が進まないが、この温泉旅館というご褒美はどうにも魅力的に過ぎる。

 このためだけに半年に一度、兄についていってもいいと思えてしまう。

 いや、しかしまたあの様な騒動が勃発すれば、今度は両親が王都に行くのを許可しなくなるだろう。何度も隠し通せる事ではないのだ。

 うんうん唸りながら広いベッドを右に左に転がりまわる。兄は変なものを見る目でこちらを眺めている。

「そういえば」

 と、起き上がって兄に尋ねてみる。

「護衛の二人はここ、初めてなんですよね。連れて来られた事は無かったのですか」

 もう何度も一緒に王都を往復しているような雰囲気だったのに、エマヌエーレは温泉は初めてだと言っていた。

「あぁ、あの二人が護衛してくれる様になったのはここ1、2年だが、夏と冬は来られなくて、別の護衛を付けることが多かったのでな。理由は特に聞いていないが」

「そうですか。冒険者として何か他の依頼があったのかもしれませんね」

 冒険者という職業に書入れ時のようなものがあるのかどうかは知らないが、他に割の良い依頼があればそちらを優先する事もあるだろう。基本的に冒険者とは自由人なのだ。

「夕食が待ち遠しいですね、お兄様。どんな料理が出るんでしょう」

 山間の街なので、海産物はあまり期待してはいけないだろう。冷凍技術が発達していると言っても、わざわざここまで運んでくるとなれば相応に価格も上乗せされる。

 やはり近くにいるシカやイノシシ、あるいはクマなどの肉がメインか、山菜や川魚を主としたものか。

 兄が選んだ宿なのだから、そこはそれなりに期待しても良いだろう。

「泊まる時期にもよるので何とも言えんな。まぁ、王都のあそこと比べては駄目だが、相応のものを期待しておけば良い」

「あの宿の料理は美味しいんですけれど、量が少ないのですよねえ」

 少しずつ持ってこられても間が持たないのだ。

「ここはその心配は無いぞ。料理は足りなければ頼めばいくらでも持ってきてくれるし、パンとライスも最初に纏めて持ってきてくれる」

「ライスがあるのですか」

 王国近隣で米を主食とする地域は少ない。東方諸島と、大陸の南西にある一部の地域だけだ。

 保存も利くし色んな料理に合うのだが、大陸では多くの地域で小麦が大量に栽培されていることから流通量は少なく、値段はやや割高になる。

 食べる人も少なくて値段も高いとなれば、提供する店も少なくなるのは必然とも言える。

「夕食を持ってきた時に、どちらが良いか最初に聞かれる。俺はパンにする事が多いがな」

「それでは私はライスにします。そうすれば両方食べられてお得です」

「領主の娘が、これはまた随分と小さい事を言うな」

 兄が笑った。

「庶民の感覚を理解していると言ってください。領民の感覚知らずして統治などできません」

「そうか。お前が立派な領主になる事を期待しているよ」

「お任せ下さい」

 間違いなく次期領主はこの兄だ。そして、その次は兄の子になるか、それともスパダ家で産まれた子を呼んでくるか。普通に考えればトリシアンナがサンコスタの領主に収まる事にはならないだろう。

 しかしそういえば、兄に意中の人がいるとは聞いたことが無い。

「お兄様はご結婚なさらないのですか?」

 今まで気にした事も無かったが、本来ならば兄にも子供がいても良い歳頃だ。

 少し年上とはいえ、国王陛下にも9歳の子供がいるわけで、領主の長男としては少し晩婚ではないだろうか。もう22歳である。

「あぁ、うむ。相手が見つからなくてな」

 それは嘘だろう。見た目も悪くなく、強くて優しくて気遣いも出来る。領主の跡取り息子とあらば引く手あまたどころの話ではないだろう。いくらでも見合いの話もあるはずだ。

「そのような事は無いでしょう。望めばいくらでも見つかると思いますが」

「いや、私も領主代理としての仕事が忙しくてな。今はそれどころではないのだ」

「……そうですか」

 兄が困った色になり始めたので、この話は終わりにしておく。

 兄は兄なりに考えがあるのだろう。自分は兄の親ではないのだし、そこは自分が突っ込んで良い領域だとも思えない。

 確かに、領主代理としての仕事は大変だ。それに付いてこられる嫁を探すというのも難しいことは難しいだろう。

 優しい兄の事なので、貴族のごたごたに他人を巻き込みたくないと考えているのかもしれない。

 トリシアンナは再び仰向けになると静かに目を閉じた。

 今はまだ想像する事も出来ないが、仮に将来、自分が相手を見つけるとするのならば、この兄のような人が理想だろう。

 理想が高すぎてだれも見つからない、という事はありえそうだが。

 なんとなく王太子殿下の事を考える。

 あれも見た目は悪くないが、いかんせん精神が未熟過ぎる。いずれ兄や国王のようになれば、と考えたが、そもそもあり得ない話だ。

 わざわざ王国に火種を撒き散らすような真似はしたくない。

 第一、子供を産める身体にすらなっていない相手を強引に手籠めにしようとする人間など、真っ平御免である。以前の世界ならば犯罪だ。いや、こちらの世界でも王族でなければ間違いなく捕まる事だろう。

 彼らは理性や常識という言葉をどこに置いてきたのだろうか。

 いや、彼らにとってはそれが常識だったのかもしれない。常識とは、自分を取り巻く世界によって変わるのだ。

 取り止めのない思考の渦に揉まれているうちに、いつしかトリシアンナは穏やかな闇の中へと沈んでいった。


「起きろ、トリシア。そろそろ食事の時間だぞ」

 気持ちよく眠っていた妹を起こすのは少し気の毒に感じるのだが、放っておいて自分だけ食べるわけにもいかない。

 妹も夕食を楽しみにしていたようなので、起こさなければ逆に恨まれるだろう。

「ほぇ?あ、お兄様、おはようございます」

「おはよう。顔を洗ってきなさい。もう部屋に運び込まれるぞ、ほら、下着が丸見えではないか」

 すっぽり被る形の薄手の夜着を身に着けているため、シーツも被らずに寝返りを打てばこうなるに決まっている。いくら歳の離れた妹だとはいえ、こんなところを宿の者に見られては流石に体裁も悪い。

 寝ぼけ眼を擦りながら、妹が洗面所へと歩いていく。と、ほぼ同時に扉がノックされ、移動式のテーブルと共に料理が運び込まれてきた。

「お待たせしました。本日のご夕食をお持ちしました。主食はパンとライス、どちらになさいますか?」

「私はパン、妹はライスだ。パンはそこそこで良いが、ライスは多めに置いていってくれると助かる」

 人目が無い分、妹はそれはもう凄い勢いで食べる事だろう。

「承知いたしました。お飲み物は何をお持ちしましょうか」

「酒と、あとは何か子供向けのものを」

「お酒は何に致しましょう。醸造酒、蒸留酒がそれぞれ葡萄、米、麦、がございますが」

「そうだな、偶にはエールも良いな。では、麦の醸造酒を二瓶頼む」

「かしこまりました。お子様向けのものは、丁度今の時期、山林檎の果汁がありますので、そちらをお持ちしますね、暫くお待ち下さい」

 宿の従業員はそう言うと、部屋の真ん中に置いた移動テーブルを固定して一旦出ていった。

 二段になったテーブルの上には、塩焼きにした川魚や、良く煮込まれた肉のシチューなど、5品目が所狭しと並んでいる。

 下の段にはグラスが2つとライスを入れた桶が2つ、パンを盛った籠が一つ。流石にこの量のライスは妹でも食べきれないだろうから、残れば少し自分が食べても良いだろう。

 部屋の隅からサイドテーブルと椅子を引っ張ってくる。妹には少しテーブルが高すぎるので、こちらに取り分けたものを置いてやれば良い。

 そこまでしたところで、妹が濡れた前髪をかき分けながら戻ってきた。

「今飲み物を持ってきてくれるから、もう少し待ってくれ。ほら、取り分けてやるから。何が良い?」

 テーブルの上を見て目を輝かせた妹に言う。

「あっ、はい。それでは、まずこの川魚と……これは、塩漬けでしょうか?ラディッシュの塩漬けですね、それとシチューと、この山菜ときのこを煮たもの、あと、これは何でしょう」

 大きな皿の上に載った、平たくて丸いもの。

「これはトラットリアのメニューに良くあるピッツァだな。我々が食べる事はあまり無いが」

「ははあ、これがピッツァですか。初めて食べます。パンみたいですけれど、ライスで食べても良いものなのでしょうか」

「どうだろうな、試したことはないが」

 物珍しそうにテーブルの上をしげしげと眺める妹。色々と物を識っている子だが、これは初めて見るようだ。

 結局妹が全ての料理を所望したため、取り皿を3つに分けてサイドテーブルに並べてやった。少しはみ出しそうで危なっかしい。

「お飲み物をお持ちしました」

 扉をノックして、瓶を4本抱えた従業員が入ってくる。

「ああ、済まない。そこに置いておいてくれ」

 テーブルにはもう物を置くスペースがないので、チェストのようなサイドボードに置くよう指示する。

「かしこまりました。お料理もお飲み物も、お代わりご用意できますので、御用がありましたらそちらの呼び鈴をお引き下さい。それでは、ごゆっくり」

 部屋の隅に取っ手のついた紐がある。これを引くと、従業員の待機場所に呼ばれた部屋が表示される、という仕組みらしい。

 常に人を部屋ごとに待機させるよりは、確かにこちらのほうが圧倒的に効率が良いだろう。

 瓶の栓を抜き、妹のグラスに黄色い液体を注いでやる。自分にはよく冷えたエールだ。

「無事の帰還と、護衛の二人の快癒を願って」

 黄金色に泡立つグラスを掲げる。妹も手に持ったものを掲げた。

 そしてすぐに、妹は顔をグラスに近づけて香りを嗅ぐと言った。

「お、お兄様。これはひょっとして林檎の果汁では?」

 知っていたか。

「ああ、この時期になると山に沢山成るらしいな。普段は塩漬けにしたりするらしいが、この時期だけは果汁も出回るぞ」

「そうですか……そうだ、確かに果汁にしてしまえば良いのですよね、別にそのまま食べなくても」

 また変な事を考えているのだろうか。

「山林檎をそのまま食べるのか?美味いものじゃないだろう」

 食べられない事も無いが、甘味は薄く、実も硬い。ものによってはスカスカで、塩漬けにしたり料理に入れたりしなければ、そのままではとても美味いと言えるものではない。

「いえ、特別甘いものをかけあわせて品種改良すれば……あ、これはただの理論上の話なんですけれど」

「それが出来ればそうするかもしれないがな、そこまで苦労しなくても、柑橘なりなんなり、最初から美味い果実もあるだろう」

「それは、そうなんですけど」

 妹は時々こういった特殊な発想をする事がある。良く話を聞いてみればなるほどと思わせるのだが、その着想がどこから湧いてきているのかは謎だ。

「果汁にすれば甘くて美味いからな、ここの特産品でもある。あまり日持ちはしないがそこいらでも売っているし、土産に何本か買って帰ろうか」

「はい、是非。出来れば買えるだけ」

「瓶だぞ。フィリッポの馬車を潰す気か」

「そうですよねえ」

 トリシアンナはこの世の終わりのような悲しみ方をしている。そんなに好きなら、商隊に頼んで冬場は定期的に取り寄せてやろうか。

 ラディッシュの塩漬けを摘んで、エールを流し込む。塩気に渇いた喉を通る刺激が堪らない。

 そのまま魚の塩焼きを両手に持って身を齧る。こちらも良く塩が効いていて香ばしい。エールに実に合う。

 ここの料理は、シチューのような汁物以外は全て手に持って食べられるものばかりだ。

 付属するスプーンだけですべて用が足りてしまうので非常に楽である。

 妹も無言でライスとシチューを交互にスプーンで掬っては、夢中で口を動かしている。

 空になったグラスにエールを注いでいると、また妹がおかしな動きをしているのが目に止まった。

「何してるんだ?」

 川魚の塩焼きの、尻尾を折っている。

「あっ、はい。食べやすいようにと」

 尻尾を折り取った魚の首元にスプーンで切れ込みを入れ、そのまま身を押さえた。

 頭を持って引っ張ると、背骨がずるりと頭にくっついてきて抜けた。

 そうして出来た身だけの部分を、妹は嬉しそうにスプーンで切り分けては頬張っている。

 理屈はわかる、わかるが。

 アンドアインは考えることをやめて、再びエールを煽った。もう、この妹については考えるだけ無駄だろう。発想が天才的というか、突飛過ぎるのだ。

「もっと食べるか?」

 あっという間にテーブルの上が寂しくなる。

「はい。シチューと、魚をもう少し食べたいです」

 健啖な事だ。しかしまあ、自分もまだ胃の空間には余裕がある。

 呼び鈴の紐を引いて、飲み物を含めた追加の注文を頼む。既に準備してあったらしく、殆ど待つ事もなく、湯気の立つ料理と飲み物が届けられた。

「このサーヴィスは良いですねぇ、王都の宿みたいに気を使わなくても良いですし」

「そうだな、料理の内容も凝った物じゃなくて食べやすい。まぁ、湯治に来て肩が凝っては意味がないだろうからな」

「なるほど。言い得て妙です」

 笑い合いながら料理に手を伸ばし、飲み物を口にする。家族との食事は心の休まる一時だ。いくら気のおけない友人がいたとしても、同じ様にはいかないだろう。

 先程、妹が結婚の話を持ち出した時には少し困惑した。

 確かに、領主の長男である自分がこの歳まで独身だというのは違和感のある話であろう。

 気遣った妹はあまり詮索して来なかったが、相手を決められないのには理由があるのだ。

 今まで、十数件は見合いを勧められ、受けてきた。しかし、どの女性をみても、自分のこの殺伐とした世界に馴染めるようには思えなかったのだ。

 見目麗しく、心根の優しい女性は大勢いた。しかし、領主の妻として王都へと出向き、腹の底が自分たちの燃やした消し炭で真っ黒になった者共と会話し、その意図を読み、差し障りなく物事を進められるような、そんな聡明な女性というのはそうそう居るはずもない。

 半数はただ優しいだけ。残りの半数は領主の妻という立場に夢想しているだけの者たちだ。

 裏の裏まで読み、次の次を考え、それに疲弊した夫の事を理解できるものなど、居たとすればとっくに頭角を表してどこかで活躍していることだろう。

 家族となるのに、家族の疲労を理解できない相手と一緒にいても、逆にこちらが気を回さねばならず、余計に疲れるだけだ。

 そういう意味では、長女と三女は完璧だろう。

 長女は既にその能力を、嫁いだ先の大商会で遺憾なく発揮している。

 三女においては王太子からの求婚という予測し得ない問題こそ発生したものの、宴での如才の無い立ち回りに加えて、ほんの僅かな時間で領主どもの関係性まで鋭く見抜いていた。

 もう少し大きくなれば自らの魅力を自覚し、それを縦横無尽に利用するようになる事だろう。

 正直な所、今すぐ父や自分の代わりにあの中へ放り込んだとしても、平気で生き延びてくるだろうという怖さがある。

 もしも自分が結婚を決めるとすれば、一緒にいて痛みや苦しみや疲れを分かち合い、理解してくれる彼女らのような人としか考えられないのだ。

 しかし、そんな化け物のような人物がそうそう居るわけがない。

 化け物のようなその妹は、あらかた主菜を食べ尽くしてピッツァにかじりついている。

 頬にトマトのソースがついていたので指で拭ってやると、嬉しそうにありがとうございます、と微笑んだ。癒やされる。

 化け物を癒すのは、同じ様な化け物にしか出来ない事なのだ。


「ふー、もう食べられません」

 ベッドに大の字で寝転んで、トリシアンナはチーズ臭い息を吐く。

「本当に良く食べたな」

 兄も呆れた声を出している。

 都合川魚を4尾、シチューを3杯、ピッツァも一人で半分ほどは平らげた。漬物や山菜はどれぐらい食べたか覚えていない。

 ライスも懐かしくてついつい食べすぎてしまい、小さめのお櫃1.5杯分は食べただろうか。

「しかしもう、後は寝るだけです。無敵です」

「歯は磨けよ」

「分かっています。今は休憩の時間です」

 この世界で虫歯の治療は難しい。削り取るしかないのだ。

 とはいえ、簡単な水撃魔術を使えばムラなく口腔内は綺麗にできるので、きちんとしていれば滅多にう歯となることはないのだ。

 治療はできずとも予防が簡単という、この世界独特の病、それが虫歯である。

 食事の後の幸福な時間。ふと気になって、他の同行者はどうしているのかと気配を探ってみる。

 斜め向かいにいる三人は、食後にカードで遊んでいるのか白熱している。どうやらエンリコが一人だけ勝っているようで、他の二人は難しい顔をしているのが目に浮かぶ。

 左隣の夫婦は、食後にお茶でも飲んで談話しているのか穏やかな感情が視える。こちらはこちらで楽しんでいるようだ。

 特別変わったこともない。変わったのは自分の腹回りだけだ。

 薄手の上品な生地に包まれた可愛らしいお腹が膨れて、満腹感を主張している。

「こういうのも何だが……お前はオンとオフの差が激しいな」

 何の事だろうか?

「オンとオフ?ああ、裏表という意味ですか?」

「そうだ。まぁ、俺も人のことが言えた義理ではないのだがな」

 違いない。この兄ほど、内心と表面の一致しない人間などいないだろう。

「貴族には大切な資質ではないですか。誇りましょう」

「まぁ、そうなのだがな……俺はお前が羨ましいよ」

 自分は完璧な兄が羨ましいと思うのだが。

「隣家の嫁は出来たように見える、ですね」

「そう思うか」

「思いますよ、お兄様」

 お互い様なのだ。

 よいしょとばかりに重い身体を起こすと、洗面所へと向かう。

 虫歯の防止も当然だが、横で眠る兄にチーズ臭い息を吐きかけては申し訳がない。

 軽く口の中を濯いだ後、水を含んで水撃系第一階位『フロウ』を口腔内に発現する。

 閉じた口腔内で暴れまわる水流が、歯や歯茎の隙間に入り込んだゴミを隅々まで洗い流す。そのまま吐き出して、再度濯げばおしまいだ。歯ブラシなんていらない。使う水も少ない。ビバ魔術である。

 胃の中までは流石に洗浄できない、というかしてしまえば穴が空いてしまうので、人と会う時には臭いの強いものは控える必要がある。これは変わらない。

 僅か数十秒ですっきりした口の中になり、これであとは気持ちよく眠るだけだ。

「もう寝ますか?」

 兄に声をかける。

「ああ、先に寝ていいぞ。魔力光も落としておこう」

 壁にあるツマミを捻ると、部屋が途端に薄暗くなる。

 今では当たり前のようにある魔力光の照明だが、これが開発されたのはごく最近だったそうだ。

 光の概念がこの世界ではどうにも分かりにくかったらしく、一般的に使用される魔術も第一階位で打ち止め、というような認識だったらしい。

 数年前、魔術学院のある才媛が、コケや菌類、一部の海棲生物が放つ燐光を調べ上げ、それを調整できる魔術装置を開発し、それが爆発的に広まったのだ。

 あの騒がしい姉の仕業である。

 お陰で今やどの宿にも、安くて便利なこの装置は取り付けられており、元の世界の電灯よりも遥かに扱いやすい照明器具として使われている。

 薄暗い部屋の中、兄が洗面所へと移動するのを感じた。

 最早、どこで何をしていようと少し注意を向けるだけで、家族の気配は察知する事が出来る。

 およそ2キロメートルの範囲までそれは広がっているが、常に見ているのは個人の秘匿領域まで見てしまう事になる為、普段はあまり意識しないようにしている。

 自分と同じく口腔内の清掃が終わった兄は、戻ってくると、革張りの床にごろんと横になった。

「……お兄様、疲れを癒やすためにここに来たのに、そんな事をしては意味がないではないですか」

 堪らず声をかける。

「いや、しかしな」

「しかしもかかしもありません。ほら、こっちに来てください」

 兄が渋々起き上がり、自分と離れたベッドの隅に、背中を向けて転がった。

 どこまで強情なのか。

「ちゃんと真ん中に寝ないと、後ろから抱きつきますよ」

 脅し文句が効いたのか、慌てて近くに寄ってくる。最初からこうすれば良いのだ。

 流石に言った手前、兄を抱きまくらにして寝るのは憚られる。

 シーツを引き上げ、おやすみなさいと言って目を閉じた。

 気配を探れば、別に緊張する事も無くリラックスはしているようだ。それはそうだろう。小さな妹が横に寝ていたからといって、何も気にする必要など無いのだから。

 気を使うにしても、もう少し家族に対しては楽にしてほしいものだ。そうでないと、潰れてしまう。

 大きく深呼吸して、何気なく起きていた他の者達の気配を探った。

 男部屋のカード遊びは終わって、結局エンリコの一人勝ちのままだったようだ。それでもみんなで酒を注文して、比較的楽しそうにしている。

 夫婦の部屋は。

(!?)

 いけない、これは感じ取ってはいけない状況だった。

 健康な若い夫婦が、寝る前になってすることは一つ。その可能性に思いが至らず、うっかりと探ってしまった自分に嫌悪感が募る。

 2つの柔らかな色が、点滅しながら蠢いている。何をしているかは明白だ。

 鍛えに鍛えた自分の能力が恨めしい。意識を逸らそうとしても、一度認識してしまうと中々そこから外すことができない。

(……結構激しいんですね)

 光は時折上下を入れ替えながら、激しく明滅している。昼間に見たエマヌエーレの裸体を思い出して、思わず顔が熱くなる。

(あれが……ジョルジュさんのあれを……)

 普段の二人を思い浮かべるともう脳内が勝手にフル回転してしまう。果たして6歳の幼女が、このような妄想をする世界があるだろうか。いや、ここにあるのだが。

 隣では酒が入っていたせいか、既に寝息を立てている兄がいる。

 荒くなってきた呼吸を察知されてはまずいと、口元に手を当てる。それがまた、何故か劣情を催して歯止めが効かなくなる。

 明滅が一段と激しくなり、それが頂点に達した後、穏やかな色に変化して、重なった。漸く終わりか。

 勘弁して欲しい、と、自分が勝手に覗いたくせに自己中心的なため息を吐いて、力を抜く。

 もう寝てしまおう。早く寝てしまおう。

 腹は満腹、寝具も心地よい。隣には安心できる兄が寝息を立てている。そう、すぐに寝られるはずである。そう思った矢先に。

(えっ、二回戦!?)

 再び燃え上がった色が明滅を始める。怪我で長い間できなかった分、ここで発散しているのか。

 兎にも角にも、このままでは落ち着いて眠れない。どうにかしなければ。そうだ。

 トリシアンナはそろそろとベッドから降りると、外にでようと足を忍ばせた。

「トイレか?」

 いきなり声を掛けられて、びくんと立ち竦む。

「……いえ、もう一度お風呂に入りたくなったので」

「程々にしておけ、1時間経っても戻らなければ迎えに行く」

 兄の警戒心を甘く見ていた。寝ていると思っていても、寝所での変化には敏感なのだ。

 とはいえ、1時間もあれば隣の部屋の行為も終わるだろう。それまでゆっくりと湯に浸かって、また気持ちよくなってから眠ればいいのだ。

 夜着のまま、トリシアンナはそっと部屋の扉を開けた。

 隣の部屋の前を通る時が一番緊張した。可能な限り足音を立てぬように通り過ぎると、小走りに大浴場へと向かう。大丈夫だ、離れていれば意識も外しやすくなる。

 兎に角露天風呂だ。リラックスして、暫く経ってから戻る。それだけでいいのだ。

 小走りのまま脱衣所へ飛び込み、近くの籠の中へと夜着と下着を脱ぎ捨てると、岩に囲まれた湯船の中へと一目散に駆け込んだ。


(ふぅ……危ない所でした)

 危ないのは自分の行動だろう、と思わないでもないが、距離を離せたせいでようやく意識を外す事に成功した。

 この感覚は視線と同じく、一度気になったら中々外すことができないのだ。便利ではあるが、その点は厄介なところである。

 湯船の中で足を伸ばしながら、大きく息を吐いて身体の力を抜いた。

「やっぱり温泉はいいです」

 思わず言葉に出てしまう。あとはゆっくりと身体を暖めて、ほとぼりが冷めた頃に戻って眠れば良いだけだ。もう何も怖くない。

 落ち着いて周囲を見回すと、昼間入った時よりも少し景色が違って見える。浸かっている場所のせいだろうか。

 疑問に思っていると、脱衣所の方に二人ほど、入ってくる気配が感じられた。夕食から少し経った時間でもあるし、宿泊者が入ってきたのだろう。顔を合わせても適当に愛想でも振りまいていればいいだけの話だ。

 そのまま目を閉じる。肌を微妙に刺激する温泉の効果が心地よい。

「おい、いるぞ」

「いや、どうせ婆さんとかだろ、期待するとがっかりするぞ」

(男性の、声?)

 女湯に男性が?痴漢だろうか。自分一人だからいいものの、他に人がいれば大騒ぎになるだろう。

「いや、入り口の服、見ただろ。すんげえエロい下着だったぜ。こりゃあれだ、欲求不満の若い貴族の御婦人が、一夜の出会いを求めて入ってきてるに違いねえ」

「ああ、なんかすげえ高級そうな服だったしな……やべえ、緊張してきた」

 どういう事だ?まさか堂々と行為に及ぶつもりだろうか。いや、まて、声と気配にまるで罪悪感というものが感じられない。そして、今いるここは。

(あっ、こ、混浴!)

 急いでいたせいで混浴風呂に入ってしまった。

 兄と一緒であれば恐らく問題はない。悪い虫がつきそうになれば、睨みを効かせて追い払ってくれるだろう。だが、その兄は一時間後に迎えに来ると言ったまま、部屋である。

「失礼しま~す」

 湯気の向こうに、若い男性のシルエットが2つ。これは非常にまずい。

 大きな岩陰に身を隠し、できるだけ身体を縮こまらせる。やばい、やばい、やばい。

 二人の気配が、湯の中に入る音と共にこちらへと近づいてくる。

 冬場の露天風呂は湯気が濃く、遠くからではどんな人間なのか判別できない。これがもし、幼女にも劣情を催すような男だったら。

 いや、待て、そんな人間はそう多くは無いはずだ。入っていたのが幼い子どもだと分かれば、単ににこやかに談話して終わる可能性も高い。

「こんばんは~、ご一緒失礼しま~す」

「あの、お一人ですか?」

 クリストフ王太子が発していたのと似たような気配。こ、これは。

 慌てて岩陰を回り込むようにして逃げる。男の影はそれでも近寄ってくる。

 多勢に無勢だ。もし回り込まれでもしたら、逃げようがない。そうなれば。

 思えばあんな下着を履いてきたのがまずかったのだ。どうみてもあれは、大人の女性が身につけるような、しかも、ある意味男性の欲望を誘うようなデザインである。まさかここにきてそんな罠が発動しようとは……!

 近寄ってきた影に、ひっと小さな悲鳴を上げて逃げ回る。水音で居ることがばれてしまうが、今更後の祭りだろう。

「逃げないで下さいよ、俺等、別に悪いことしようってんじゃないですから」

「そうですよ、一緒に温泉、楽しみませんか?」

 そんなに欲望の気配をダダ漏れにして良く言えたものだ。自分でなくとも普通の女性なら恐怖を覚えるだろう。

 岩を回るように逃げるが、気配が動くのを感じる。想像していた最悪の事態が起こった。挟み撃ちだ。

 両側から男の気配が迫る。このまま捕まったらどうなるのだろうか。子供だと分かって、見逃してくれるだろうか。しかし、あんな下着を履いているとバレてしまっているのだ。もしかしたら……もしかしたら。

「ご、ごめんなさい!」

 耐えきれずに岩の上に登ると、浴槽へと向けて雷撃系第一階位『ソーンズ』をぶっ放す。

「「あがっ!?」」

 二人の男はまたたく間に感電して、仰向けになって浮かんだ。

 年の頃は20に届くかどうかだろうか。この若さで、ここを利用できるものなのかと無駄な思考はとりあえずはねのけて、脱衣所へと飛び込む。

 身体の拭き上げもそこそこに、その『すんげえエロい下着』と『高級そうな服』を身につけると、這々の体で部屋へと駆け戻った。

「なんだ、もう戻ったのか。温泉だからといって、あまりはしゃぎすぎると逆に疲れるぞ」

 部屋に戻ってきた妹にすぐに気付いて声をかけてきた兄だったが、そのまま大あくびをすると再び眠ってしまった。

 荒い息を沈めながら、兄の横へと潜り込む。隣は既に眠っているようだった。もう気配は感じない。

 心の中で気絶させてしまった二人にごめんなさいごめんなさいと繰り返し侘びながら、きつく目を閉じて無理矢理に意識を飛ばした。


「ありゃ?点検中ですかい?」

 朝風呂に入ろうとしたフィリッポは、大浴場が閉鎖されているのに気付いて声を上げた。

「ああ、お客さん。すみませんね、昨夜、清掃にはいろうとしたうちのもんが、浴槽で気絶してる冒険者さんたちを見つけまして……もしかしたら魔物でも近くに潜んでるんじゃないかって、周辺を調べてる所なんですよ」

「そうかい、そりゃおっかねえなあ。まぁそんならしょうがねえや。いつぐらいには終わりそうなんです?」

「まぁ、あと一時間ぐらいですかねえ。清掃は終わってるんで、その頃またいらしてください。どうも、ご迷惑をおかけします」

「いやいや、いいってことよ。安全第一だからね」

 少しがっかりはしたが、また後で入れば良い。それにしても、山の中にあるせいか物騒な事もあるもんだ。


 朝食は焼いた卵、所謂目玉焼きに、干した川魚の炙り焼き、煮込んだ野菜の味が十分に染み出したスープだった。

 昨夜のことをぼんやりと思い出しながら、ライスと共にそれらを胃の中へと入れていく。

「どうした、寝不足か?」

 兄が心配して声をかけてくる。

「いえ、その。ちょっと、いえ、なんでもありません」

 まさかあの恐怖を再びこんな暢気な温泉宿で体験するなどとは思わないではないか。

 混浴風呂に入ってしまった自分の失態は棚にあげつつ、トリシアンナは魚を齧った。

「大丈夫か?もう少し寝ておくか?」

 心から心配してくれている兄の言葉が心に痛い。

「大丈夫です、食後のお茶を飲めば落ち着くと思うので」

「そうか?ならいいが」

 この世界に生まれ落ちて6年と数ヶ月。身も心も少女になってしまっているのだ。仕方がないではないか。あれは不可抗力だ。別に殺してしまったわけでもないし。

 扉の外からルチアーノの声が聞こえる。

「えぇっ!?朝風呂、やってないの?」

「ああ、なんか冒険者が二人、倒れてたってんで周辺調べてんだとよ」

 フィリッポの声も聞こえる。

「そりゃまた物騒だなあ。男風呂で?」

「いや、混浴だってよ。もしかしたら女に化けた魔物でもいたのかもな」

「やめてくれよ、そんなんいたらほいほいついていっちまうだろ」

「ガハハ、そうかもな!」

 トリシアンナは齧っていた魚を皿に戻して、スープを啜った。

「トリシア、まさかお前」

 スープの中に入っていた葉野菜を咀嚼して飲み込み、兄に向かって微笑む。

「どうしました?お兄様」

「……いや、何でも無い」

 これではまるで自分が悪女のようではないか。断じてそんな事は無い。


 食後のお茶を飲んで一息入れると、エマヌエーレが部屋の前にやってきた。

「トリシア、一緒に街を見て回らない?」

 兄に許可を求めると、護衛が一緒なら良いだろうと許しが出た。ついでに銀貨を10枚程、小遣いとして手渡してくる。

「あまり重たいものを買いすぎるなよ。昼はどうするんだ?」

「外で摂ってくると思いますが、足りなければ戻ってからも食べます」

 健啖な台詞に呆れつつ、兄はそうか、と言って手元の本へを視線を戻した。

 旅装に着替えて防寒着を羽織り、長身の女冒険者と共に宿を出る。外には薄っすらと雪が積もっていた。

「ジョルジュさんは放って置いて良かったんですか?」

 一応男部屋の三人にも声をかけたのだが、昨夜遅くまで飲んでいたらしく、朝風呂に入ったらまた寝るとの事だった。

「うん、疲れてるから今日はいいって」

「あぁ、成程。それはそうでしょうね」

 昨夜の事を思い出して、少し遠い目をする。今夜は決して隣に意識を向けないようにしよう。

「何?何か含みがあるみたいだけど」

「はっ?いえ、そんな事はありませんが」

 どうにも調子が出ない。寝不足気味なせいだろうか。

 雪は既に止んでいるが、薄く雪化粧された道端や木々が、川から立ち上る湯気に透けて見える。どこか郷愁を感じさせる風景に、懐かしさを覚えながらゆっくりと坂を下っていく。

「エマさんも、ここに来るのは初めてだったんですよね」

 冒険者はあちこち移動して回るというイメージがあるので、有名な観光地であるテルマエシタに来たことがないというのは少し意外だった。

「そうねぇ、普段はサンコスタを根城にしてるのもあるけど、ここって依頼の多い地域と少し離れてるじゃない。それに、この近辺で討伐や調査の依頼があると、真っ先に売り切れちゃうのよ。ほら、依頼者によっては経費で宿代が出るじゃない」

「あー、なるほど。確かにそうですね。仕事のついでに温泉に入って、となれば、この辺りの依頼には人気がありそうですねぇ」

 昨夜の若い冒険者二人も、恐らくはそういった口だったのかもしれない。あの宿は結構な宿泊費がかかるはずだ。

 しかし、その魔物討伐や調査を冒険者が気絶させられて、宿の者が調査をするというのは、なんだか立場が逆転しているように思う。いや、自分のせいなのだが。

「あっ、見て、トリシア。あのお店、変わったもの売ってる」

「本当ですね、あれは……提灯でしょうか」

 紙で出来た照明器具が店先に並んでいる。いくつか点灯しているのを見るに見本だろう。

「ちょうちんって言うの?何に使うのかしら」

「うーん、光を出せる魔術師には必要ないと思いますが、暗い夜道を歩く時の灯りにしたりですね。あとは夜やってるお店の入り口にかけておいて、営業中ですよって印にしたりとか」

「へぇ、そうなんだ。トリシアは物知りだね。ちょっと見ていこっか」

 二人で店の入り口をくぐると、中はそのまま、雑貨店だった。

 小さな小物を売っているだけでなく、お茶や、干した川魚などの保存食も並んでいる。

 お土産用の雑貨店、という所だろうか。

 少し薄暗い店内の奥には、暖炉のある小さな板間が設置されていて、そこで店番らしき老婆がお茶を啜っていた。

「見て、トリシア。東方諸島みたいなお茶があるよ」

「あれっ?本当ですね。この辺りでも緑茶を作っているんでしょうか」

 茶の製造過程で高温を加えると、発酵が抑えられて緑色をした煎茶が出来る。

 紅茶のように華やかな香りこそ無いが、独特の落ち着いた風味は商人や貴族の中にも好む者は多い。

 トリシアンナも緑茶は好きだが、基本的に輸入品ばかりなのでそこそこ高い高級品なのだ。あまり飲む機会は無い。

 包装を一つ持ち上げて価格を見ると、輸入品の7割ぐらいの値段がついている。これでも紅茶に比べれば随分と高いが、安い事には違いない。

「安いね、いくつか買って帰ろうかな」

「そうですね。ただ、今買うと荷物になってしまうので……宿に戻る帰り道でまた寄りませんか」

「そうだね、そうしよっか」

 老婆にまた来ます、と声をかけて、店先に出た。

 緑茶といえば和菓子が欲しくなるが、生憎と似たような菓子は無い。そもそも砂糖が南方諸島からの輸入品であり、塩や酢に比べると調味料としては高価な部類に入る。

 砂糖の原料となる種類の黍をサンコスタでも栽培しようとした事はあったらしいのだが、どうにも上手く育たなかったようだ。

 緑茶と菓子、といえば、航空機の搭乗員に補助糧食が配られた事があった。

 緑茶と小麦、色んな材料を砂糖と混ぜて固めたようなもので、固くて口の中の水分を奪っていくため、あまり美味いとは感じられなかった。まぁ、腹は大体減っていたのでそんなものでもあれば嬉しかったのではあるが。

 時にはヒロポンや酒の入ったものまであったが、流石に操縦中にヒロポンは兎も角、酒精の入ったものを摂取するのはどうなんだ、と思っていた。

 酒か。

「エマさんは、お酒を結構飲んだりします?」

「え?唐突だね。まぁ、好きなのは好きだけど、毎日飲むとかは無いかな。ジョルジュも同じだよ」

「そうですか。いえ、冒険者の方ってみんな酒豪みたいな偏見があったもので。さっき緑茶を見た時に、そういえば蒸留酒とお茶を混ぜる人もいたなあって思い出したんです」

 紅茶にブランデーを入れることもあるし、焼酎の緑茶割りなども結構一般的だ。

 カフェインとアルコールという、全く逆の効果のものを同時に摂取して大丈夫なのかと思わなくもない。

「あぁ、なるほどねぇ。そういえば、紅茶に少しだけお酒入れる人もいるもんね」

「兄はそういうの嫌いますけどね、味が濁るとか言って」

「あはは、若旦那らしい。私はお砂糖入れるのは好きだけど、あんまりお酒はいれないなぁ」

「そうですよね、大体、頭をすっきりさせるお茶に頭をぼんやりさせるお酒を入れるってどうなんでしょう」

「味の好みってだけじゃない?そのためだけにお茶やお酒を飲む人ばっかりじゃないでしょうし」

「それもそうですか」

 そもそも嗜好品なのだから、効能ばかりに目をやっても意味はないだろう。

 あまり中身の無い話をしながら、雪化粧の坂道をゆっくりと下っていく。ある程度店の途切れたところで橋を渡り、川向うの坂道を今度は逆に上っていく。

 こちら側も街並みは大して違いがない。商店、商店、宿、商店、宿と続く。

「あれは何でしょう」

 行く先一際目につく派手な看板が出ている、石造りの大きな建物が見えた。明らかに周囲の景色から浮いている。

 今の時間営業はしていないようで、建物の扉は締め切ってあり、窓辺にも気配はない。

「あー……あれはトリシアには関係ないお店かな」

 言ってエマヌエーレは川側からさり気なく身体の位置を変え、トリシアと建物の間に挟まるように並んだ。

 トリシアンナは神経強化で視力を強化して、看板を眺める。

『完全指名式!一時間7シルバより』

(ああ、そういうお店ですか)

 確かに自分には全く関係の無い店だ。

 隣を歩くエマヌエーレにしても、そこで働く気がなければ関係がない。

 関係ない二人で店の前を通り過ぎようとしたとき、不審な男が二人、隣の建物の陰からこちらを見ているのに気がついた。

「エマさん、あれ……」

「しっ、目を合わせちゃ駄目」

 よく見れば男の意識はこちらというよりも、手前の建物、つまり『そういうお店』に向いているようだ。そう認識したところでくすりと笑ってしまう。

 恐らく、初めて『そういうお店』に入ろうと連れ立って来たものの、扉が閉まっているので営業しているのかどうか陰から観察している、というところだろう。

 近くに寄って確認したい、さりとて堂々と行くのは恥ずかしい、とそういった感覚なのだろう。

 男たちの真横を通り過ぎるとき、ちらりと顔が見えた。どこかで見た気がする

(……あっ)

 風呂場で気絶させた二人だった。あの連中、性懲りもなくこの街で色を求めているようだ。

 まぁ、こういう店に入る分には誰も文句はなかろうが、それにしても些かがっつきすぎではないだろうか。折角温泉街に来たというのに、他にやることはないのか。

「エマさん、ああいうお店って、他の街にもありますよね。サンコスタにも」

「えっ、あぁ、気付いてたのね。そうねえ、サンコスタにも港通りの酒場の並んでいる辺りにいくつかあったかも。あんまり詳しくはないけどね」

 わざわざ観光地に来てまですることではないだろう。トリシアンナは呆れた。

「さっきの人達、多分あのお店が開いてないか確認してたんだと思いますよ。普通に入口の前で見れば一発でわかるのに」

「あぁ……そういう事だったのね。なんかこう、初々しい感じ?」

 初々しいといえば初々しいのだろうか。

 トリシアンナはふっと口元を歪めて笑った。

「あっ、お茶屋さんがありますよ、エマさん。休憩していきませんか」

 少し上ったところにカフェが見える。木造の2階建てで、それぞれにテラス席もあるようだ。

「そうね、暫く休んで、それから戻りましょうか」

 品の良いベルの音を鳴らして店内に入り、2階の窓辺近くの席へと陣取った。

 客はほとんど入っておらず、僅かに地元の猟師らしき人達や、中年の女性二人組が話に花を咲かせている。

 注文を取りに来た給仕に、エマヌエーレは紅茶とパンケーキを、トリシアンナは山林檎の果汁と同じくパンケーキを2枚、注文した。

「前から思ってたけど、トリシアって結構食べるわよね」

「ええ、その……使えるようになってから、妙にお腹が空くんです。朝食べた後、鍛錬して2時間もするともう何か食べたくなったり」

 邸の周りを走り終わり、身体を拭いて部屋で本を読んでいると、もうお腹が鳴ってくるのだ。いくら食べざかりと言っても少々異常ではないだろうか。

「うーん、時々そういう子、いるらしいよ。なんか魔素の消費を別のもので補える人がいるとか聞いたことあるし、それじゃない?」

「そんな体質があるんですか。確かに、その、高度なのを使うとお腹の減りも早い気がしますが」

「それってその分回復も早いってことでしょ?いいじゃない」

 そうだろうか。でも、魔術の行使に関係なくお腹は減っている気がする。

「でも、冒険者としては良くないかもね。栄養補給を頻繁にしないといけないとなると、荷物がどうしても増えちゃうから」

「そうですね、遠くまで移動する事もできなくなりますし……どうにかしたいです」

 まだ子供だからこの程度の量で済んでいるが、もしこのままの体質で大人になってしまえばどうなるか。

 いくら領主の娘なので食費はどうにでもなるといっても、あまりに大食漢では体裁が悪いだろう。大食らいの貴族令嬢なぞ、一般的な貴族令嬢のイメージとしては乖離しすぎている。

「別にいいんじゃない?太るってわけでもないんでしょ?」

「はあ、太りはしませんけど」

 食べた直後は兎も角、成長する以外に体型は殆ど変化がない。どこに消えているのか全くわからないのである。

「じゃあいいじゃない。男の人だって、いっぱい食べる子が嫌いなんて人、殆どいないと思うわよ」

「そういうものでしょうか」

 別段男性に好かれたいわけではないのだが、嫌われないというのならそれはそれで良い事だろう。まぁ、確かに汚い食べ方をしては百年の恋も冷めるだろうが、そこは流石に貴族としての体裁は整えている。

 食べ物の話をしていると食べ物が運ばれてくる。

 

 たっぷり蜂蜜のかかったパンケーキが2枚。ナイフで切り分けて口に運ぶ。

 ふわふわとしていて甘く、じわりと口の中で溶けていく。

「ほら、そんなに可愛い顔して食べるんだもの。トリシアはそれでいいと思うわ」

「ふふふ、ありがとうございます」

 食事は楽しい。色々なものが食べられる身分というのはとても素晴らしいものだ。

 隣に気の合う友人や家族が居てくれれば、それがもっと楽しい時間になる。

 二人で温泉の話や、先程の雑貨屋で見つけた品の話を取り留めもなく垂れ流す。お互いのパンケーキが半分程になった時、横合いから声をかけられた。

「お姉さん、お一人ですか?」

 長い髪をポニーテールに纏めた軽薄そうな男、その後ろには、逆立つ短髪の男。

 ……先程娼館の近くにいた二人だった。

「見て分からない?連れがいるの」

「あれ、お子さんでしたか」

 相当に失礼な話ではないだろうか

「私が護衛してる人の妹さん。そんな歳に見えるのかしら」

 じろりと睨むも、男は怯んだ様子もない。

「そうでしたか、ではそちらのお嬢さんもご一緒に、お茶でもいかがです?」

 勘違いした上におまけつきでも結構です、というのも中々に肝の太い事である。

「私は構いませんよ、エマさん」

「へ?トリシア、何言ってんの?」

 よりによって階梯6の冒険者に声をかけたのだ。彼らがどういう反応をするのか、すこし見てみたくなった。

「お兄さんたち、勿論ご馳走して下さるのですよね?」

「えっ、そりゃあもう!喜んで!」

 となりの席から椅子を持ってきて、いそいそと同席する二人。ここまで素直だと逆に感心してしまう。

 エマヌエーレはこちらを見て怪訝そうな顔をしているが、見返してにやりと微笑んだ。

 何かを察した彼女は黙る。

 短髪の男が愛想笑いを浮かべながら口を開いた。

「えっと、お姉さん、どちらから来られたんですか?」

「……サンコスタよ」

 渋々答えるエマヌエーレ。トリシアンナは、給仕を見つけると黙って手を上げた。

「サンコスタかぁ〜、良い所っすよね!魚は美味いし、街も綺麗だし。久々にこの仕事の後、行こうかなぁ〜」

 ポニーテールが相槌を打つ。要するに付いてくると言いたいのだろう。露骨すぎる。

 続いて短髪逆毛の男が身を乗り出す。

「さっき護衛って言ってましたよね、ひょっとして冒険者なんですか?」

「そうね、一応は冒険者よ」

「へぇーっ、偶然っすね!俺らも実は冒険者なんすよ!」

 偶然も何も、冒険者なんて掃いて捨てるほどいるのだ。観光地で貴族のような格好をしていない、地元民を除けば8割以上の確率でそうだろう。

「お兄さんたちも冒険者なんですね、ここには依頼を受けて来られたのですか?」

 無邪気な子供を装って横から合いの手を入れる。

「そうさ、お嬢ちゃん。こう見えて結構強いんだぜ、俺たち。なあ」

「ああ、最近階梯3になったばかりなんだ。それで、山の魔物の生息調査を受けてここにいるってわけさ」

 上機嫌で話をしている。トリシアンナは、階梯3と男が言った時にエマヌエーレがこっそり笑ったのを見逃さなかった。

 冒険者は駆け出しの無階梯から始まり、実力と依頼に応じてそのランクを上げていく。

 階梯3ということは、多少慣れてきて気が大きくなる時期、という辺りだろう。なるほど、上がった祝いも兼ねてここで羽目を外している、というわけだ。

「すごいですね!お兄さんたち!攻撃魔術も使えるんですか?」

 更に煽ってみる。奥の階段から皿に山盛りのパンケーキを乗せた給仕が上ってくるのが見えた。

「そりゃそうさ、冒険者が魔術を使えなきゃ話にならないからな。俺の得意な術は地変系さ。第三階位まで使えるぜ」

 逆毛の男が胸を張る。一般人よりは高度なものを使えるようだ。

「俺は風圧系だな。こいつが補助で、俺が火力。ブラッディボア程度なら、二人であっという間だ」

「わあ、お強いんですね。今までの依頼のお話なんかも聞かせて頂いても?」

 おだてると二人は気を良くして、ぺらぺらと自慢話を始める。トリシアンナは運ばれてきたパンケーキを頬張りながら、へえとかすごいですねとか適当に相槌を打っている。

 エマヌエーレはというと、紅茶のおかわりを啜りながら冷めた目で二人を観察していた。

 別に馬鹿にするために話をさせたわけではない。単純にこのランクの冒険者はどのような依頼をこなしているのか、少し興味が湧いたのだ。

 ジョルジュとエマヌエーレは若い割に階梯が高く、受ける依頼も実入りの良い護衛が多い。要は、自分たちのような貴族や商人と一緒にいる事が多いのだ。

 一般的な庶民の依頼とはどういったものか、報酬はどれぐらいか、どの程度の魔物を相手にしているのか、また、行動範囲は。

 話を聞いていると、彼ら――逆毛の男はケヴィン、ポニーテールの男はロバートと言った――は、主に王都とエスミオダスを行き来しながら各地の冒険者協会で受けた依頼をこなしているらしい。主要な根城はエストラルゴといったところだろうか。

 魔物は多くが低位から中位とされるものを相手にする事が多く、最大でもネストレス程度のようだ。

 ネストレスとは、季節や時期と関係なく活動する、巨大な灰色熊の魔物である。

 特に北方に多く生息しているが、その巨体の維持のため、餌を求めて人里に降りてくる事も多い。

 体高は小さいもので3メートル程、大きく成長したものでは5メートルを超えるものもいるようだ。

 毛皮も硬く、力も強いため脅威と捉えられがちだが、群れを作らず単独行動が多いので、階梯の低い冒険者でも複数で力を合わせれば討伐は可能だ。

 魔物で恐ろしいのは、知能が高かったり群れで行動したりする連中なのである。

 二人、ケヴィンとロバートは、そのネストレスと戦った時の事を熱演を交えて一生懸命にアピールしている。

「そこで、俺が奴の足元を崩して体勢を崩させたところに、こいつの『ウィンドカッター』の連射でどうにか退治できたってわけさ」

 恐らくは他の冒険者と協力して倒したのだろう。所々話の辻褄が合わない所があったが、勿論そこには突っ込まない。

「すごいですね、素敵です!」

 上品な仕草で最後の一欠片を口に放り込んで、彼らを褒め称える。エマヌエーレは既に紅茶を飲み終わり、退屈そうにしている。

「どうかな、お姉さん。良ければこの後一緒に」

「あっ、もうそろそろ宿に帰らないと。エマさん、旦那様もお待ちでしょう、帰りましょうか。お兄さんたち、ごちそうさまでした!面白いお話をありがとうございます、それでは!」

 ぴょんと椅子から飛び降りて、エマヌエーレの袖を引く。

「そうね、ご馳走様。ごめんなさいね、夫が待っているもので」

 唖然とした二人を尻目に、二人は颯爽と店の外へと出ていったのだった。


「トリシア、あなた、本当に良い性格してるわ」

 呆れたエマヌエーレが道すがら呟く。

「別に彼らを馬鹿にしたかったわけじゃないですよ。あれぐらいの冒険者の話を聞いてみたかったのです。実際、随分と面白い話が聞けました」

 一般の人々にとっては、ルナティックヘアやブラッディボアといった下級の魔物でも十分な脅威になっている。トリシアンナやディアンナは平然と駆除しているが、魔術が使えても戦えない人は圧倒的に多いのだ。

 それこそいくらでも魔物は湧いてくるので、冒険者の仕事は常に存在するという事だろう。

「それにたっぷりご馳走してもらえたので、浮いた分、お茶を沢山買って帰りましょう?」

「……やっぱり貴方、悪女になるわ」


 行きに入った雑貨屋で、目をつけていた緑茶と、山林檎を薄切りにして油で揚げた菓子を買ってみた。山林檎自体は生でははそれほど甘くないが、火を通せば甘みも出るのではないかと目をつけていたのである。

 両手に紙袋を下げて宿への坂道を上っていく。時刻は昼を過ぎ、丁度家ではおやつを食べるぐらいの時間帯だろう。

 先程お腹いっぱいパンケーキを食べた後だが、夕食までにお茶をしても大丈夫な腹具合だ。

「部屋でお兄様とお茶にしようと思うのですけれど、エマさんもジョルジュさんと一緒にどうですか?」

「え、まだ食べるの?大丈夫?」

「ええ、少し歩いて動いたので。夕食まではまだ時間がありますし」

「はー、育ち盛りねぇ。私達も子供が出来たら、食費の事も考えておかないと」

「多分私ほど食べる子供はいないと思いますよ」

 自分でも少し異常だと思う。しかし、腹が減るのは減るのだし、仕方がないのだ。

 不思議な事に、王都で例の事があってから余計にその傾向が強くなった。もしかしたら、身体が危険に対応できる力を付けようとして、沢山のエネルギーを必要としているのかもしれない。

 宿の部屋に戻ると、兄は昼寝をしていた。起こさないように慎重に紙袋を置いたつもりだったが、気配に敏感な兄はすぐに気がついた。

「戻ったのか。何もなかったか?」

 まるで寝起きとは思えない明瞭な言葉と顔つきは流石である。

「ええ、エマさんも一緒でしたから。お土産用に緑茶とお菓子を買ってきたのですが、今少しご一緒にどうです?」

「そうだな、もうそんな時間か」

 兄は起き上がってくるとティーポットに水を入れるために持ち上げる。

「お兄様、緑茶もそれで淹れて良いのですか?」

 何か違う気がする。

「駄目なのか?いや、俺は淹れたことがないのだが」

「あぁ、そうでしたか。宿の人に言って、専用の道具を借りてきましょう。ここならきっとあるはずですので。お待ち下さい」

 言って廊下へと出て、従業員がいるであろう入り口付近のカウンターへと向かう。

「あら?」

「「うげっ」」

 エントランスロビーに行くと、丁度先程の冒険者二人が帰ってきたところだった。それにしてもあまりにも失礼な反応ではないだろうか。

「お二人共、この宿にご宿泊されていたのですね」

 白々しくすっとぼける。風呂の事はどうせ覚えていないだろう。

「お、お嬢ちゃんもここだったんだ。奇遇だね」

 逆毛のケヴィンが頬を引きつらせながら言う。

「ええ、そうですね。先程は大変ご馳走様でした、また宜しければお話を聞かせてくださいね」

 にこりと笑って、カウンター内にいた従業員に緑茶の事を説明する。

 二人は逃げるようにして、トリシアンナ達の部屋とは逆の廊下へと小走りでかけて行った。

 何も逃げなくてもいいだろう。少々奢らせはしたが、何も怖がらせるような事はしていないのに。

 緑茶専用のポットを持ってきてくれた女性の従業員に礼を言って部屋へ戻る。

「ん?どうかしたのか?」

 少し膨れている妹に気付いたのか、戻るなり兄が声をかけてきた。何とも敏感な事だ。

「いえ、先程同じ宿に泊っている方と街でお会いしたのですが、今戻ってこられたところに挨拶したのですけれど、逃げられてしまいました」

「また、何かしたのか?」

 またとは。

「どちらかといえばされたかもしれません」

 うっかり口を滑らすと、兄の感情が変化した。まずい。

「何?何をされた?」

「ああ、いえ、大したことではないのでお気になさらないで下さい」

 専用のポットの蓋を開けてみる。形こそ違うものの、中に茶こしのような網が入っている。やはり、こちらでもこの淹れ方なのだろう。

 網の上に乾燥した茶葉を入れ、別のポットで作った湯を注ぐ。

「何をされたんだ?」

 兄は意外としつこい。

「何でもありませんよ」

 風呂で追い詰められて気絶させたなど、間違っても口に出来るはずがない。

 そんな事を告白されても兄だって困るだろう。

 ゆっくりとポットを揺すると、いい香りが立ち上り始めた。良いお茶だ。

 細かい作法や淹れ方など忘れてしまったが、適当でもそこそこに美味いものが飲めるだろう。

 流石に湯呑みなどは無いので、普通に温めたティーカップに注ぐ。薄緑色の綺麗な茶が出てきた。

「ほう、そうやって淹れるものなのか」

「あまり詳しくは無いですが」

 2、3度に分けてカップに注ぐと、先程買った揚げ林檎を少量、皿にあけた。

「どうぞ、お兄様」

「うむ、ありがとう」

 兄は熱い茶を吹いて少し冷まし、口に含む。少し眉間にしわが寄った。そりゃあそれでは熱いだろう。

 自分は同じ様に吹いた後、音を立てて啜った。

「こら、トリシア」

 下品と感じたのか、兄がその行為を嗜める。

 無視して揚げ林檎を一つつまんで口に放り込んだ。香ばしい油の香りと塩の味が最初にして、噛みしめるとじわりと酸味を含んだ甘さが広がる。やはり当たりだった。

「お兄様、緑茶には緑茶の作法があるのです。こう啜ることで香りが鼻に抜け、より美味しく感じられるのですよ」

「何、そうなのか?」

 同じ様に啜って驚いた顔をした。

「ほう、なるほどな。紅茶のような強い香りは無いが、香ばしく、落ち着く香りだ。なるほど、普通に飲んでは香りを感じにくいのか」

 兄も揚げ林檎に手を伸ばす。味わっている感情を見る限り、気に入ったようだ。

「あまり緑茶を飲む機会はなかったが、中々良いなこれは。しかし、専用のポットが必要となると……」

 すっかり忘れていたがその通りなのだ。サンコスタの邸にこれがあるとは思えない。

「そうですね、お土産にと買ったのですが、どうしましょう」

 紅茶と同じやり方で淹れてしまうと、恐らくこのような味は出せないだろう。

「一つ、このポットと同じものを買って帰ろう。ここで売っていなくてもサンコスタの街になら、東方諸島からの輸入品の中にあるだろう」

「本当ですか?ありがとうございます!」

「いや、俺も飲みたいからな」

 二人で揚げ林檎を茶菓子にして、暫しの間お茶を楽しんだ。

「お前たちが出ていった後、ジョルジュと少し話したのだが」

 兄が空になったカップを置いて言った。

「怪我はもう大丈夫なので、明日には引き上げようかという話になった。こちらとしてはもう一日ぐらい逗留しても良いと思っていたのだが、彼が恐縮してな。お前はどうしたい?」

 怪我の治療費まで出してもらって、温泉休暇まで貰えるとは思っていなかったのだろう。ジョルジュの気持ちもよく分かる。

「そうですね、温泉から離れるのは名残惜しいですけれど、私もそろそろ邸が恋しくなってきました。他の方々が良ければ、私はどちらでも結構です」

「そうか、ジョルジュもエマヌエーレにも聞いてみると言っていたし、彼女が帰るというのなら明日、発つ事にするか」

 今日もまだ昼下がりだ。今夜と明日の朝、存分に湯を堪能してから出れば良いだろう。


 その日の夕食を再び腹いっぱいに食べた後、食後にもう一度温泉に浸かろうとトリシアンナは浴場へと向かっていた。

 夕食の内容を思い出す。

 鹿肉と猪肉を野菜と一緒に豪快に焼き上げたものをメインに、茹でたキノコと山林檎のサラダは特に気に入った。珍しい組み合わせだが、使われている甘辛いソースが独特で後を引く旨さだった。

 幸せな気分で廊下を歩いていると、何やらエントランスホールの方が騒がしい。

「いや、だから俺たちだけじゃキツいんですよ!今すぐエストラルゴの協会に応援を要請してください!」

「しかし、あなた方の依頼の中に、調査と同時に討伐も必要ならば行うと……」

 何だろう。何かあったのだろうか。

「どうかしましたか?」

 宿の支配人と、例の冒険者二人が言い合いをしている。

「あぁ、お客様。実は今、大浴場の方に熊の魔物が現れたと」

「ネストレスだよ!あいつはやばいんだ!早く応援を――」

 聞くなりトリシアンナは身を翻し、部屋へと駆け戻る。荷物の中からショートソードを引っ張り出すと、すぐさま部屋を飛び出した。驚く兄が何か言ったが、聞いている暇は無い。

 街中は人目も多い。それ故に一々魔物の気配を探ったりはしなかったのだが、定期的に探査しておくべきだった。

 よくよく考えれば山間の街なのである。先程食べたイノシシやシカがそこいらにいるのだ。当然、そいつらを餌にする魔物だっているだろう。

 それよりも重大なのは、大浴場に出た、という事だ。

 支配人がそれほど慌てていないところを見ると、人死にが出たという事ではないのだろうが、放っておけば餌を求めて宿の中に侵入してくる可能性があるし、何より風呂場を壊されてはたまったものではない。今日これから、そして明日の朝だって入るつもりだったのだ。

 ネストレスの腕力は強い。仕切りに使われている竹の壁など、平気で叩き壊してしまうだろう。そうなってしまえば大浴場は営業中止だ。

「浴場、ネストレスが出たのはどこですか!」

「お、お客様?危険ですので――」

「混浴だよ!危ねえからお嬢ちゃんは、って、なんで剣持って」

 返事もせずに走り出す。混浴という事は、またあの二人はぞろ色気を出して中で待ち受けていたのだろう。人の少ない浴場で良かった。

 脱衣場を駆け抜けて浴場へ飛び込む。昨夜よじ登った大きな岩の陰に、蠢いている大きな獣の影が一つ。いた。

 後ろ向きに湯に浸かっていた巨大な熊が、こちらに気付いてのそりと身体を起こす。でかい。

 体高はおよそ3メートル半といったところか。ネストレスの中では標準か、やや小さいサイズだろうか。それでも立ち上がると見上げるばかりの大きさである。

 トリシアンナは先制で雷撃系第二階位『バーブドワイヤ』を湯船に向かって放つ。『ソーンズ』の数倍の電撃茨の鞭が群れとなり、大気を引き裂く激しい音を立てながら湯船に直撃、一部をネストレスの巨体に打ち付ける。

 瞬間的に発生した電気抵抗による熱が、弾ける音を立てて水分を蒸発させる。

 激しい感電と熱に、熊が苦悶の声をあげて身を捩る。しかし、電撃は分厚い皮の表面を焦がしただけのようで、すぐさまこちらに怒りの視線を向け、湯を掻き分けて迫り来る。

 神経強化によって動体視力と反射神経を増したトリシアンナは、覆いかぶさる熊の右腕脇からすり抜け、すれ違いざまに風圧系第二階位『エアソー』を剣全体に発現。そのまま振り抜いて背後へと抜ける。

 毛と皮と赤黒い血飛沫が舞う。真空の鋸に脇腹を大きく斬り裂かれ、灰色の巨体は怒りの咆哮を上げる。

(ショートソードでは斬撃で致命傷を与えるには厳しいですね。ならば刺突か)

 しかし、急所に届くかどうかはわからない。通常の熊であれば兎も角、この魔物の皮下脂肪や筋肉の厚さは自分にとって未知数だ。

 刺したはいいが、そこからの電撃も届かず、止めをさせなければ得物が抜けなくなる。最悪、捕まって締め潰される。

 牽制で『ソーンズ』を連射して立ち位置を調整する。ダイアーウルフと同じく、生半可な雷撃ではまともにダメージは通らない。

 かといって物理攻撃でもトリシアンナの剣と膂力程度では、絶対に致命傷を与えることなど出来ないだろう。

 いくつか手はあるが、最も簡単なのは火力の導線を作ってやれば良い。通らないのであれば通るようにすれば良いのだ。

 雷撃の茨を投げつけて、徐々に浴槽へと誘導する。いかに頑丈な肉体を誇ろうと、内部に流れる電撃は防げまい。

 水撃と雷撃の併せ技をぶちかまそうと、水撃系第二階位『アクアプレッシャー』の構成を作り出す。と、その時、脱衣場から誰かが飛び込んできた。

「おい!危ねえって言ってんだろうが!」

 ネストレスの意識がそちらへ向かう。知能の低い熊は、標的をトリシアンナからケヴィン達へと変更すると、そちらへ突進した。

(余計な事を!)

 灰色熊の初速は時速40キロメートルを超える。サイズが違えど遅いという事は無いだろう。このままでは、男達は抵抗する間もなく肉塊にされてしまうのは必然。

 水撃系を取りやめて、瞬時に磁力系へと切り替える。まだ実際に試したことはないが、これでないと間に合わない。

 磁力系第一階位『マグマテリアル』を自身と剣に発動、同時に第三階位『リニア―』で、目標までの磁力の道を開く。

 身体を引っ張られる猛烈な感覚と共に、トリシアンナは矢の様に飛んだ。

 自らを磁性体と貸し、瞬時に切り替わる磁力の場を生成することで圧倒的な推進力を得る。制御が非常に困難な事から、電撃系第四階位『マニピュレイション』中にのみ可能となる、三重同時展開の急速直線加速魔術である。

 雷鳴の如く凄まじい速度で、立ち上がった熊の首元に激突する。流石にこの速度であれば貫けぬ物など無い。白磁に輝く剣身が、根本まで深々と熊の肩に突き刺さった。激突の反動で、トリシアンナ自身もまた大きく弾き飛ばされる。

 男に襲いかかろうとしていたネストレスは大きく体勢を崩し、前のめりに倒れる。ひぃと声を上げて後ずさるケヴィンとロバート。踏み潰されてはいないようだ。

 強かに浴場の床に身体を打ち付けたトリシアンナは、一瞬呼吸が止まって呻く。

 いくら猛スピードを出せようが、肉体の強度はそのままなのだ。

 喘ぎながら身体をうつ伏せにし、無理矢理起き上がる。刃を突き刺した反動で手のひらが痛い。

 剣を刺した程度ではネストレスは倒せない。霞む視界に対象を見つけて狙いを定める。

 こちらへと向き直った魔物の背後には冒険者が二人。このまま雷撃を放ってしまえば、彼らに知られてしまう事になるがやむを得ない。名乗ったわけではないのだ、構わないだろう。

「雷霆よ。宵闇を切り裂く一条の――」

 第四階位『フラッシュサーペント』を発動する直前、熊の頭が吹き飛んだ。

 そう、吹き飛んだ。斬れて飛んだのではなく、頭そのものが血風とともに消滅した。

 一瞬にして脳を失い、巨大な灰色熊は首から汚らしい噴水をあげながら、どう、とうつぶせに倒れ込んだ。脈動と共に次々と溢れ出る血が、石造りの床を赤く染めていく。

「何をしているんだ」

 冒険者の後ろに立っていたのは兄だった。正に一撃であの巨体を葬ったのだ。

「お兄様。助かりました」

 兄はつかつかと倒れた獣に近寄ると、刺さっている剣を少し揺らし、事も無げに引き抜いた。剣身を少し眺めると、ぶんと血払いする。飛沫が床に新たな赤い斑点を刻む。

「今までまじまじと見たことは無かったが、中々の業物だ。手入れは怠るなよ」

 腰から布を引き出して拭うと、落ちていた鞘に納めてこちらへと手渡した。

「勝手に走り出したと思ったら、風呂場で魔物狩りか、全く。この程度の魔物だからいいようなものの、お前は貴族の子女なのだぞ。護衛の二人に任せるなり、他にいくらでもやりようがあっただろうが」

 怒ってはいないようだ。ダイアーウルフの件で、一応は実力を認めてもらえたという事だろう。

「申し訳ありません。ジョルジュさん達を呼びに言っている間に、浴場が壊されたらどうしようかと思って」

「せめて私に一声掛けていけ。そもそも私が出たほうが早いだろうが」

 確かにその通りだろう。一撃なのだ。それでも、いきなり兄に泣きつくのはやはり少し情けない気がするのである。

「私でもどうにかなるとは思ったのですが……」

 横槍が入らなければ、とまでは言えない。

 ちらりとへたり込んでいる二人を見ると、兄もそちらへ振り返って言った。

「お二人共、怪我は無いかな。ふむ。では、あとは宿の従業員に清掃を任せて戻る事にしよう」

 さっさと戻って行ってしまう。トリシアンナもその後を追いかけて、小走りでついて行った。

「き、貴族って、みんなあんなに強いのか……?」

 呟くケヴィンの声が後ろから聞こえたが、気付かない振りをして兄を追いかけた。


 結局、近くにいたのはこの一頭だけだと判明したので、混浴風呂だけは閉鎖され、あとは問題なく営業が再開された。

 混浴風呂は山に向いている竹壁が完全に壊されてしまったので、暫くは使えないとのことだ。利用客も少ないため、もしかしたら次に来る時には無くなっているかも知れない。

 折角なので一度家族で広い風呂に入ってみたいなと思っていたのだが、仕方のない事だろう。どうせ次兄は兎も角、長兄は恥ずかしがって一緒に入ってはくれないのだ。

 改めて女性用の露天風呂で湯に浸かっている。先程の戦闘の疲れがみるみる抜け出ていくようだ。やはり温泉は良い。

 つるつるする肌を湯でこすりながら、周囲を見渡す。

 今はエマヌエーレと一緒ではないが、湯気の立つ露天風呂には他の客もそれなりに多い。

 殆どが中年以上の女性で、近くで話をしている若い二人組は、商家の姉妹だろうか。昨日までは見かけなかったので、今日到着したのかもしれない。こちらの浴場が壊されなくて本当に良かった。温泉地に来て温泉に入れないなんて、考えただけで絶望的な気分になる。

 楽しそうにしている二人を見ていると、ふと、トリシアンナも二人の姉が恋しくなってきた。

 流石にもうこれ以上の厄介ごとは無いだろう。野営も一回残っているが、ダイアーウルフのネームドを退治したのだ。奴らの縄張りだったあの地域は、暫くは静かなものだろう。

 幼女は大きな欠伸と伸びをひとつすると、温まった身体を抱えて脱衣所へと戻っていった。


 翌朝は、少しゆっくりしてから出発した。どうせ途中の野営を抜かす事はできないので、野営を一度だけで済ますのであれば事前にエストラルゴで一泊しないといけないのである。

 急いで出発してもあちらの街で暇を持て余すだけなので、午前中に兄と土産を買い込み、早めの昼食を摂ってから出立した。

 荷馬車の苦手な下り坂をゆっくりと下っていくと、例の二人組が前を歩いているのが見えた。通り過ぎたところで、馬車の後ろからにっこりと笑って手を振ってやる。

 二人はこちらに気付くと、相当に引き攣った笑顔でこちらに手を振り返した。

「流石に怖がらせてしまいましたか」

 振り返ると、エマヌエーレとジョルジュも苦笑いをしている。

「彼らの実力ではまぁ、そうでしょうね。俺たちも若い時はああだったかもしれません」

「若い時って。年寄りみたいな事言わないでよ」

 護衛の二人の向かい、兄の横に座り込む。

「お二人が階梯3の頃って、どんな感じだったのですか?」

 二人はまだ20代の半ばだ。ケヴィンとロバートともそう大して歳は違わないのである。

「そうですねぇ、階梯3ってと、18になった時ぐらいだったか?」

 ジョルジュがエマヌエーレに振る。

「あー、そうね、二人で開拓地護衛に当たってた頃だし、それぐらいかな」

 開拓地護衛とは、新たな集落を形成するために、開墾や防壁が完成するまで、現地で魔物の脅威から開拓民を守るための仕事である。

「その歳で既にそんな依頼をこなしていらしたんですか」

 ある程度の数を集める事になるとはいえ、無防備な状態の人や土地を守らないといけないのだ。常に緊張を強いられるし、楽な仕事ではない。

「まぁ、当時は功を焦ってた時期でしたからね、彼らと似たようなものですよ。成功すれば新たな拠点も出来るし、そこでの顔も売れる。協会からの評価値もでかいですから」

「まぁ、結局守りきれなかったんだけどねぇ」

 守れなかったのか。

「俺たちみたいな奴がいっぱいいたんですけどね、まぁ、多勢に無勢ってやつです。なんとか開拓民だけは逃して、生き残ったのは俺たちと、あと数人……俺たちを含めて6人だけでした」

 ジョルジュは少し遠い目をした。

「開拓地は出来なくても、ちゃんと人を逃せたなら十分な仕事ですよ。その若さで生き残ったのなら、その頃からお二人は相当に強かったという事です」

 集落の開拓は、元々成功率の低い事業なのだ。今点在している各地の村や町にしたって、多大な犠牲の上でどうにか成り立った場所なのである。

「はは、お嬢さんに褒められると嬉しいですね。まぁ、失敗はしましたけど、なんとか生き残ったってんでそこから評価も上がりやすくなりましたし」

「失敗から得られる教訓もあるからね、冒険者は……別に冒険者に限らず、生き残ってナンボなのよ」

 生きていれば、生きてさえいれば。

 人は学習する。

「そうですね、その通りです」

 ならば、人を殺す為に自ら死地に向かう者は、学習する人足り得るのだろうか。


 往きと違って帰りは本当に何も無かった。

 エストラルゴで一泊し、早朝から街道を南西に向かう。途中で野営を入れて、次の日の夕方にサドカンナに到着、再び一泊してサンコスタへ。

 温かい我が家へと帰ってきたのだ。

「それじゃあね、トリシア。若旦那も、またご指名頂ければ嬉しいです」

「あぁ、その時は是非頼む」

 サンコスタの西門の外、待っていたエンリコの荷馬車に荷物を積み替えている最中、別れの挨拶をする。

「エマさん、旅の間、ありがとうございました。楽しかったです」

 そう言ったトリシアに、エマヌエーレは抱きついてきた。

「ありがとう、トリシア。貴方に命を救けて貰った事、絶対に忘れないから。困ったことがあったらいつでも呼んで。必ず駆けつけて、あなたの力になるから」

 耳元で囁かれて、少し目頭が熱くなった。

「もしかしたら、また半年後にも会うかもしれませんよ。温泉、気に入っちゃったので」

 誤魔化すようにして笑う。

「みなさんも、長旅お疲れ様でした。またお願いする事もあると思います、どの時はどうぞ、宜しくお願いします。ありがとうございました」

 御者の二人と従者にもお礼を言う。彼らがいなければ、道中は物凄く不便だったに違いない。

 それぞれと固い握手を交わして、積替えの終わった荷馬車へと乗り込んだ。

 蛇行する坂を登れば、そこはもう我が家だ。

 半月と少しの間ではあったが、もう随分と長い間留守にしていたような気分になる。

 色々な事があったが、それは間違いなく今後の糧となっていく事だろう。

 少しだけ成長した自分は、父と母、兄と姉にこう言うのだ、ただいま戻りました、と。

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