第5話 王都

 翌日もトリシアンナは日課としたランニングの為に館の表へと出る。

 いつものように馬車に乗ってやってきたジュゼッペとマッテオに、毛皮のお礼だと街で買ってきたものを渡す。二人共大袈裟に恐縮していたが、喜んではくれたようで感情の色はとても良い色をしていた。

 準備運動をしていると、今日は非番らしい次兄のラディアスが姿を見せた。

「おっ、ちゃんと毎日鍛えているようだな!感心、感心」

 兄も動きやすそうな――というか常にこの兄は動きやすそうな格好をしているのだが――出で立ちで現れて、身体をグイグイと動かし始める。

「お兄様も鍛錬ですか?」

 暇さえあればこの兄は自分を鍛えている。際限が無いのかと呆れるほどに。

「そうだな、常に動かさなければ身体は鈍っていくからな」

「休息日も必要かと思いますが」

「わはは、ちゃんと毎日寝ているから大丈夫だぞ」

 常識の通じない肉体をお持ちのようだ。

 先に準備運動を終えたトリシアンナは、ではお先に、と走り出した。

 体の調子は悪くない。昨日あれだけ動き回っても筋肉疲労は全くと言って良い程に無いし、走り始めた後も身体の軽さを感じる。それどころか、何故か微妙に感覚が鋭敏になっているようだ。

 周辺の気配を探ると、館の中にいる家族と使用人の位置が手に取るように分かる。誰がどこにいるか、どのような感情を抱いているかまで明瞭に察知できる。昨日まではここまで明瞭ではなかったと思うのだが。

 と、一周目の後半に差し掛かった頃、ラディアスの気配が凄まじい勢いで近付いてくるのを感じた。

「わはは、トリシア!随分とゆっくりしたペースだな!」

 全力疾走かと思うようなペースで、後ろからやってきた兄は追い抜きざまに声をかけていった。あんなに飛ばして持つのだろうか、と、トリシアンナは自分のペースを乱されないように冷静に走り続ける。あんなものに釣られてペースを上げてしまえば、あっという間にバテてしまうだろう。肺活量を上げるには常に全力で走れば良いというものではないのだ。

 邸の南側まで戻ってきて、漸く一周目、というところでまた兄が後ろから追い抜いていった。

「わはは!わはは!」

 もうこれは別の生き物ではないだろうか。

 トリシアンナが瀕死の体で5周終える間に、兄は既に15周程も(途中で数えなくなった)走り終わっており、戻ってきた時には既に筋力トレーニングを始めていた。

 汗を拭こうといつもの通りに邸へ入ろうとすると、兄が身体を上下させながら声をかけてきた。

「そうだ、トリシア。折角買ったんだ、今から剣を振ってみるか」

 そういえば、買ったショートソードは一度も抜く機会もなく部屋に置きっぱなしである。

「良いのですか?その、……成長が止まるとか」

「やりすぎなければ大丈夫だぞ。それに、剣は握っている時間が長ければ長いほど自分の身体に馴染むものだ。振ってみるのに早いという事はないぞ!」

「そうですか、では、部屋から持ってきます」

 汗を拭くのは後回しにして、部屋から細身の剣を持ち出した。当然のことながら、カサンドラは抜けない為、ドレッサーの奥だ。

「よし、ではまず正面に構えてみろ」

 はい、と頷くと、トリシアンナは白い刀身を抜いて青眼に構えた。細身ながらも金属らしい、ずしりとした重さが腕に伝わってくる。

「ん?……トリシア、お前どこかで剣を習ったか?持ち方も正しいし、初めてにしては随分と様になってるな」

 ぎくりとした。剣道、柔道は誰もがやっているものだという認識があったのか、自分が6歳の幼女だという事をすっかり忘れていた。

「ほ、本で……」

「……いや、そりゃ無理があるだろ。握り方や構えは兎も角、重心の置き方や足の開き方、視線の位置なんかどうみても剣を振ったことのある奴のそれだぞ」

 他のことは兎も角、剣に関しては異様に鋭い。

「それでは、私は剣の天才持ちだということで、ここはひとつ」

「わはは、天才か!それはいいな!」

 あまり深く考えない兄はそれ以上詮索する事も無く笑った。

「それじゃ、振ってみろ。まずは、縦に10本だ」

「はい」

 振りかぶってから正中に沿って、切っ先を胸の位置まで振り下ろし、止める……ことが出来ずに行き過ぎてよれた。

「気にするな!もう一本!」

 続けて二本、三本と刃をふらふらさせながら振り続ける。あっという間に腕と背中が悲鳴を上げる。

「9……10!」

「よし、一旦休憩。ふむ、やはりまだ身体ができていないな。構えが様になっていたから、もしかしたらと思ったのだが」

 考え込んでいるラディアスの横で、トリシアンナは膝をついて肩で息をしていた。真剣がここまで重いとは。

 持ち上げたり構えたりする分には問題ない。しかし、振り回すにはもっと背中から腕にかけての筋肉が必要になるだろう。

「まぁ、慣れだ。これから毎日、同じ様に刃筋を通して振ってみろ。縦が終われば斜めに左右、同じ様に10本、横薙ぎ左右、切り上げ左右だ。突きに関してはまた来週にでも教えてやろう」

「は、はい」

 これを毎日、合計70本。

「あ、あの、お兄様」

「なんだ?」

「本当に成長が止まったり、しません、よね?」

 兄は歯を見せて無言で笑い、その問いには答えなかった。


 それ以降、トリシアンナは毎日走り込みと素振りを行い、午後からはディアンナと一緒に研究と称した魔術の鍛錬と、実戦を兼ねた狩りを行った。

 毎度毎度魔物の処理を使用人たちに任せるのは(姉は兎も角)気が引けたので、どうしてもとせがんで処理のやり方を教えてもらい、手伝う形で少しずつ覚えていった。

 二ヶ月もすると体力や筋力がついたこともあり、毛皮や肉の処理にも慣れ、自分一人でもある程度の事が出来るようにはなった。

 短い秋は終わりを告げ、雪の降らない南国の冬がやってくる。


「本当に着いて来るのか」

 トリシアンナの自室に訪れたアンドアインは、この二ヶ月の間、何度も繰り返した問いをトリシアンナに投げかけた。

「ちゃんとお父様とお母様には許可を取りましたよ」

 こちらも何度も繰り返した答えを返す。

「道中、何度か野営をすることになるぞ。風呂にも入れないし、家にいる時のようにちゃんとした食事も出来ない。況してや今度の近況報告は真冬の移動だ。北に行けば行くほど寒くなるし、雪も降る」

「お風呂も食事の事も承知しています。防寒着だってしっかりと準備していくので問題ないでしょう」

 秋口の事件があってから、事実上街に遊びに行くのを禁止されたようなものだったので、冬になるまでに魔物を狩り、自前で防寒着を用意したのだ。

 一応、両親に言えば使用人の誰かを連れて行く事は出来ただろうが、自分の目的の為に本来の仕事を放り出させてついてきて貰うのは流石に気が引けたのだ。

 言えば買ってきて貰う事も出来ただろうが、そうすると毛皮を売った時に見たあの値段の物、いや、それ以上の物を与えられかねない。

 ルナティックヘアの毛皮を売った自分の小遣いもまるまる残っているのに、あんなに高価なものを買ってもらうのは、いくら経済の事を説かれたとしても中々に抵抗のあるものだ。

 結局自分で狩った魔物を、使用人に教えてもらって毛皮の処理から縫製まで、全て自前で準備することにしたのだった。

 流石に店で売られているものに比べれば微妙な部分もあるが、それでも外側だけ見れば高級店で買ったものとそう変わりは無いだろう。

「それでもだな……」

 未だに兄は渋っている。連れて行かないというわけではないのだろうが。

「秋口の事件の事を気にしておられるのですか?」

「む?うむ……」

 不確定ながらも人身売買の元締めがいる王都へと行こうというのだ。兄の心配も妥当なものだと理解はできる。できるが。

「それを報告する必要もあるのでしょう?であれば、当事者である私が行くのも道理ではないでしょうか。……あっ、大丈夫ですよお兄様、諸侯の皆様方には粗相の無いよう努めますので」

 その言葉に兄はなんとも困ったような顔をした。

「いや、そこは心配していない。お前はその歳とは思えないほどに大人びているし、それこそディアナを連れて行くよりも余程安心している。分かった、お前がそこまで言うならもう何も言わん」

 流石に事ここに至っては兄も諦めざるを得ないだろう。出立は明日なのだ。

「ご理解頂けて何よりですわ、お兄様」

 その言葉に、兄ははあと小さなため息を一つ。

「私はお前の将来を想像すると恐ろしいよ。ああ、勿論良い意味でだがな。出立は朝7時だ。ディアナではあるまいが、寝坊するなよ」

 時間の概念は不思議なことに以前の世界と殆ど同じだ。一ヶ月が週6日の5週で、10年に一度のうるう月がある点以外はそっくりである。

「わかりました。同行される方は街の前で落ち合うのですよね」

「そうだ。お前には面識の無い者ばかりとなるが、近況報告に何度も同行してもらっている、皆信用できる者たちだ」

 使用人や侍従を連れて行ってしまえば、邸で働く者の休みが取りにくくなってしまう。その為、街に住んで長い者やサンコスタを根城としている冒険者を雇っているのだ。

「楽しみにしています。それでは、お兄様。私はもう着替えて休みますので」

 言うと慌てて兄は部屋から出ていった。この歳でも一応はレディとして見られているという事だろう。もしかしたら、同行を渋っていたのはこの点も含めての事だったのかもしれない、というのは考えすぎであろうか。


 翌日、早めの朝食を終えて予定通りにフランコの引く馬車で兄と共に街の入り口へと向かった。

 前回とは違い今回は雇った相手の都合もついたため、街の北口には既に旅の資材や同行者を連れた馬車が二台、既に待機している状態だった。

 通いの使用人達を乗せるために北口で待機するフランコに別れを告げて、待っていた二台の馬車の一台に乗り込んだ。

「紹介しよう。こちらの御者台にいるのがエンリコ、後ろの荷馬車を引くのがフィリッポ、食事や様々な雑用を担当してくれるのがこのルチアーノ。護衛の冒険者である二人が夫婦のジョルジュとエマヌエーレだ」

 エンリコと呼ばれた口髭の御者が、鍔広の帽子を持ち上げて、後ろにいるこちらへ挨拶する。

 ルチアーノと呼ばれた小柄な男は人懐っこそうな笑顔を見せ、よろしく、と挨拶した。

「初めまして、お嬢様。冒険者のジョルジュです」

「小さな女の子が一緒になるのは初めてね、エマヌエーレよ、エマと呼んで頂戴」

 物怖じしないのは冒険者らしく、二人共笑顔で握手を求めてきた。

「宜しくお願いします、皆さん。トリシアンナ・デル・メディソンです。出来る限りお手を煩わせないよう気をつけますので、どうぞ気兼ねせず、私のことはトリシアとお呼び下さい」

 兄の立場は兎も角としても、旅路に領主のお嬢様も何も無いだろう。特に、二人の冒険者はそういった事にてらいの無いものと見越して伝える。案の定、エマヌエーレは握手の後にこちらに軽く抱きついてきた。

「宜しくね、トリシア。道中の護衛は任せて。これでも私達、階梯6の熟練冒険者なのよ」

「心強いですね、頼りにしています」

 階梯6ということはかなりの熟練者だ。

 冒険者は協会の規定により、階梯1から10までに等級を分けている。

 無実績の新人は無等級から始まり、協会に持ち込まれた依頼をこなすことで少しずつ上がっていく。階梯6まで到達したとなると、見る限り30には到達していないであろうこの若さから見れば、相当なペースで実績を伸ばしてきたという事になる。

 当然のことながら、実力も伴わなければ階梯6などという地位には到達しないだろう。

「急ぐ旅路なので出立するぞ。エンリコ、頼む」

「承知しました」

 上品な帽子の彼が手綱をぴしりとしごくと、普段乗っている物よりも大きな馬車はゆっくりと動き出した。


 早めに出立したため、サドカンナ村には日暮れ前に到着する事ができた。

 早めに野営を経験できなかったのは残念ではあるが、宿泊施設の整っているサドカンナに到達できたのは僥倖と言えるだろう。

 道中魔物に襲われることも無く、トリシアンナは同行した馬車の中の三人と会話を通じて、大いに親交を深めることも出来た。

「それではお兄様、お休みなさい」

 宿の部屋は事前に3室取ってあった。

 兄一人で一室、男性用の大部屋として一室、トリシアンナはエマヌエーレと同室だ。

「あの、エマさん。ジョルジュさんと一緒じゃなくていいんですか?」

 風呂上がりに半裸で美しい黒髪を掻き上げている女性に問うた。

「あー、今更じゃない?あっ、そうか、トリシアは今回が初めてだっけ。旦那……あぁ、メディソンの若旦那の報告に付き合うのはこれで6回目だけどさ、毎回どの宿でも私一人が個室なんだよね。そりゃねえ、次の日も出発が早いのに、別の事で体力使われちゃ困るじゃない?」

 意味深な笑いを見せて近寄ってくる。

「同室が増えて嬉しいわ。トリシア。この仕事以外だと、旦那の相手も毎晩なのよ」

「ま、毎晩……なのですか?それは、また……仲がよろしいのは結構な事ですね」

「え、何、分かるの?最近の子は進んでるのね」

「は?いえ、その、私は少し特殊なのだと思いますが」

「いやねえ、この歳だと普通なのよ。いや、別に私も嫌じゃないのよ?でもね、時にはゆっくり眠りたいじゃない?だから、この仕事は息抜きにも丁度いいのよ」

 気にした様子も無く赤裸々な話を展開する女冒険者。

 しかし毎晩……それにしては、年齢の割に彼女達に子がいるような気配はないのだが。

「ええっと、その、エマさんはつまり、その、そういう魔術も」

 しどろもどろになりながらも、好奇心には抗えずに聞いてみる。

 艶めかしい肢体を見せつけるようにしてエマヌエーレは答えた。

「勿論。冒険者はまだ続けたいからね、”そういう”魔術も使ってるわよ」

 ”そういう”魔術とは、所謂避妊魔術の事である。

 自身の生体操作に属するものは大体が水属性の下位魔術であり、そう難しいものではない。

「冒険者家業がお好きなんですね」

 その振りに苦笑いを見せるエマヌエーレ。

「お嬢様はただの箱入り娘と思ってたけど、別にそういうわけじゃないみたいだね。そうやって理解してくれる人が増えるとやりやすいんだけどなぁ」

 大きな胸を下着で締め付けながら言う。

「この仕事はさ、身体が資本なんだよね。そりゃあ子供は好きだし、いつかは欲しいとは思うよ。でもね、ここまできてさ」

 言ってエマヌエーレは自分の荷物から、冒険者協会の登録証を引っ張り出して見せつけた。

「どこまで行けるのか、試してみたいじゃない。てっぺんはまだまだ先だけど、私達はまだ若い。ここで止まっちゃうのは勿体ない気がしてさ」

 階梯6までこの歳で上がったのだ。当然、その先に行きたいというのは当たり前の事だろう。彼女の場合は、子を成し育てるよりもしたいことを優先しているだけなのだ。

「わかります。私もただの領主の娘としてではなく、可能な限り自立したいと考えていますので」

 意味合いは少し違うだろう。選択肢の多い自分とは違い、彼女の選択肢は狭い。母となるか、栄誉を求めるか。それでも、トリシアンナはその言葉を言わずにはいられなかった。

「トリシア、あなた、冒険者向きな性格してるわ。でもね」

 隣りに座ったエマヌエーレは凄みを含んだ感情を込めて言う。

「産まれた環境が違うわ。あなたには選択肢がある。私達には、それがない」

「……はい」

 それはどうにもならない事だ。自身も恵まれすぎている事は自覚している。かと言って、他人と代われるか?それは無理な事だろう。

 世界には厳然たる格差がある。

 そう、産まれという、本人にはどうしようもならない格差が。

 それは、運と言えばそうだろう。寧ろそれ以外に説明できる言葉がない。

 産まれた時に領主の子であること。

 産まれた時に地方の農地を耕作する者の子であること。

 荒んだ地に産まれ、荒んだ生き方しか出来ぬものも、この世界には大勢いる。

 産まれ自体に格差があってはならぬというのは、本来万人の認める事でもあろう。

 しかし、現実はそうではない。誰もが銀の匙を咥えて産まれる事は出来ないのだ。

「私には、ごめんなさいという言葉は言えません。ですが、それでもあなた方の力を認める事は出来ます」

 言える事はこれだけしかない。

「……あなた、やっぱり変わってるわ。その歳で。まるで私のほうが遥かに年下みたいに感じる」

 その言葉にも返す言葉をトリシアンナは持っていない。

「勘違いしないでね、私は別にあなた達みたいな、産まれの良い人達を敵視しているわけじゃない」

 それは、今までの態度を見ていても分かる。特に感情の視えるトリシアンナには。

「けれど、世の中にはそういった感情を敵愾心に変える奴らがいる。それは、覚えておいた方がいいわ。そして、あなたの善良さを利用しようとする狡っ辛い連中もね」

 言われて少し思い当たる節はあった。

「肝に銘じておきます、エマさん。やはりあなたも善良で優しい方ですね」

 擦れた世の中を渡ってきた冒険者。そこから得られた知見にトリシアンナは、まだ自らの認識を変える必要があるのだと確信し、微笑んだ。

 気づけば目の前に、毒気を抜かれたような顔をするエマヌエーレの姿。小首をかしげると、何故か突然に抱きしめられた。

「それって天然なの?とんでもない悪女ね、あなた。きっと世界を変える悪女になるわ」

 ぎゅっと抱きしめられて、次姉と同じような反応をする人は意外にいるのだな、と、トリシアンナは妙な納得をしたのであった。


 翌朝も早朝からの出立になる。宿にとっても良くある事なのか、他の宿泊客が誰も起きてこない時間に既に用意されていた朝食を摂り、慌ただしく街道を北へ向かって出発した。

 サドカンナから北北東に向かって伸びる街道は、次の目的地であるエストラルゴまで、どれだけ急いでも二日はかかる。道中に宿場町がないのは地形的な問題もあるが、特に魔物の多い森林地域を迂回するように街道が伸びているからだ。

 これまでにも何度か集落を作ろうという試みはなされたらしいが、その都度、ダイアーウルフ等の魔物に壊滅させられ、結局サドカンナの位置まで南に下らなければダメだったという事らしい。

 つまり、サドカンナからエストラルゴまでの間は、この旅程の中で最も危険の多い場所だと言える。

 この地域があるが故に、サンコスタがどれだけ港街として発展していようと、辺境という認識が消えないことの理由となっているのだ。

 十分な護衛を連れた商隊か、若しくは旅慣れた冒険者。そういった者たちでないと、危険の多いこの地域を通り過ぎるにはリスクが多すぎるからである。

「トリシア。今日は野営をすることになるが、お前は外の焚き火の近くではなく、馬車の中で寝なさい」

 出る時に宿で持たされた昼食を取っている時に、アンドアインはそうトリシアンナに告げた。

「馬車の中で?それはまた、どうしてでしょうか」

「ダイアーウルフの縄張りだからですね」

 兄の隣に座っていたジョルジュが答える。

「そうだ。奴らは火を恐れない。あの魔物どもは集落を何度も襲ったせいで、火の近くには餌があると覚えてしまっているのだ。他の野生の獣とは真逆だ」

 集落を作ろうとしたことで、逆に魔狼の餌付けをしてしまっていた、という事か。

 人身による魔物の餌付けなど、笑うに笑えない。

「わかりました。では、焚き火の近くには護衛のお二人が?」

「いや、私とルチアーノも交代で見張りをする。見張りが一人では、複数方向に対応するのが難しいからな。無論、定期的に探査魔術で周囲を警戒する」

「探査であれば私も使えますし、多少であれば私も戦えますが」

 その言葉に、兄は黙って首を振った。

「そういうレベルの相手ではないのだ。お前が普段から狩っているルナティックヘアやブラッディボアとはまるで違う。戦いは私達に任せて、馬車の中にいるんだ。御者の二人も一緒にな」

 御者のエンリコとフィリッポは戦うことが出来ない。雑用のルチアーノは探査魔術程度なら使えるので、火の番もする、という事だろう。

「承知しました。ただ、私も馬車の中から周辺の警戒だけはしておきます」

 その妹の言葉に、兄はこれ以上は言っても無駄だろうと諦めた。

「いいだろう。ただし、眠くなったらちゃんと寝る事。お前はまだ小さいのだからな」

 それきり、普段から寡黙な兄は黙り込んだ。

「心配しなくても大丈夫ですよ、お嬢さん。我々で何度か群れを撃退したこともありますから、安心してお休みになっていて下さい」

「そうですね、ありがとうございます」

 階梯6が二人もいるのだ、そう心配することもないだろう。加えて言えば長兄のアンドアインも、ラディアスほどではないにしても、相当な手練れである。

 この兄は風圧系魔術の使い手で、それをメディソン家に伝わる剣術と組み合わせた戦い方を好む、らしい。

 長兄が武器を持ったり魔術を使ったりする所を、トリシアンナは一度も見たことが無い。ただ、ラディアス曰く「立ち合ったらいつの間にか負けている」という、搦手の得意な魔剣士という扱いになるのだろう。ディアンナをして「兄さんの怖い所は、本領が純粋な強さではない所」という、こちらもなんだか良くわからない評価なのだ。

 何にしても、何度もここを行き来している彼らの言葉に従う他は無いだろう。

 それからはジョルジュやエマヌエーレと次の目的地、エストラルゴの事について話をしたり、ルチアーノに野営のポイントなどを聞きながら、馬車に揺られる少し退屈な時間を過ごしていた。


「今日はこの辺りにしておこう。馬を寄せておいてくれ」

 アンドアインの指示で、二台の馬車は馬を合わせる格好で集まり、中心に火を熾す準備を始める。

 襲撃を受けた時に馬が怯えて暴れると、魔狼の標的がそちらへと向かいかねない。旅の足を奪われてはたまったものではないので、極力馬達を守りながら戦う必要もあるのだ。

 ルチアーノと冒険者の夫婦は手際よく野営の準備を進めていく。幸いにも雨や雪の不安はなさそうなので、天幕は張らずに即席の竈を作り、枯れ枝と落ち葉に熱操作魔術を使用して火を熾す。火打ち石やマッチなどがいらないというのは実に便利だ。

 保存食である干し魚を使用した簡単なスープで手早く夕食を済ませ、御者二人とトリシアンナは馬車へと戻っていった。

 火の気の無い馬車の中は底冷えして寒く、防寒具の上から毛布に包まっても冬の大地の冷たさはしんしんと染み込んでくる。

 旅慣れている御者二人は早々に寝入ってしまったようだが、トリシアンナは簡単な熱操作魔術を使いながら、中々眠ることが出来ずにいた。

 この数ヶ月で、トリシアンナは自身の能力を可能な限り高めてきた。

 魔力や体力、剣術は勿論、感情や魔物の気配を視る能力の強化も行ってきたのだ。

 自身の特殊な能力については、最初はどうすれば強化出来るのかと悩んだのだが、単純に感知可能な範囲ぎりぎりに『目を凝らす』感覚で少しずつ距離を慣らしていき、今では自分の周囲1キロメートルまでは探知可能になっていた。

 慣れるといえば、頻繁に神経強化を行っていたせいか、最近は強化をかけなくても妙に以前と比べて動体視力や身体の反応速度が上がった気がする。

 強い信号を何度も素早く流すことで、身体の方が勝手に順応して神経が太くなってきてしまったのかもしれない。あんまり使いすぎると神経が表に浮き出してきたりしないかな、などと無用な心配もしている。

 どちらにせよあまり強化状態に慣れてしまうのはなんとなく良くないんじゃないか、とは思っているのだが、結局は使わざるを得ない状態も多いので、気になりながらも一旦その悩みは棚上げしてある。

 兎も角、その強化された探知能力では現在のところ、ダイアーウルフらしき魔物の存在は確認できていない。如何に魔物の縄張りであろうとも、エストラ地方南西の森は広い。魔物とて他の生き物を喰らって満足していれば、わざわざこちらまで来ることも無いだろう。

 杞憂であったと少し気が緩み、トリシアンナは少しずつうとうととし始めた。


 二時間程経っただろうか。トリシアンナは妙な気配を感じ取って目を覚ました。

 ほぼ探知可能範囲の限界、魔物の集団が小さな魔物を取り囲み、襲っている。僅か数秒も経たないうちに、襲われた方の反応は消えた。集団は少しの間そこに留まっていたが、徐々にこちらへ向かって散開しつつ近付いてくる。

「お兄様、来ました。北北西の方角およそ800メトロ、6体の集団が近付いています」

 小声で馬車の中から焚き火の方へ剥けて鋭く囁く。

「800だと?本当か?」

「間違い有りません。それぞれが少しずつ広がりながらこちらへと向かっています」

 距離の遠さにアンドアインは一瞬躊躇ったものの、仮眠をとっていた冒険者夫婦を起こす。

 流石に慣れたもので、ジョルジュもエマヌエーレもすぐさま戦闘準備に入り、同時に探査魔術を走らせる。

 放出された構成を見た所、彼らの魔術では、300〜400メートルが限度といったところだろう。兄もそれより少し広い程度だ。群れはある程度広がった後、一定の間隔を保ちながら近付いてくる。あと600。

 トリシアンナは馬車の荷物から白磁の剣を引っ張り出し、鞘から抜き放った。

 気配を感じた御者二人が怯えた様子を見せるが、口元に指を当てて黙っているように示す。

 魔物の群れは北北西を頂点として、今いる位置の真西まで、等間隔に散開したまま距離を詰めてきている。かなり統率の取れた行動であり、随分と人を襲い慣れているようだ。

 残り400、こちらの魔術の探査範囲に入った途端、群れは一瞬にして加速した。

 木々の間を抜けているとは思えない程の速度で近付いてくる。残り200、100、50。

 アンドアインが唐突に光子系第一階位『ビジブル』を複数同時発動し、群れの向かってくる方向に投擲する。

 闇に目の慣れたダイアーウルフの一部は目を光に灼かれ、一瞬動きが止まる。

 構成を読んでいた二人の冒険者の魔術がその地点に炸裂する。

 水撃系第二階位『ヴェイパーウェイヴ』で散布された高濃度の水蒸気に、熱操作系凍結魔術第三階位『ディープフリーズ』の極低温が加えられ、ダイヤモンドダストとなった氷の粒が狼たちを切り裂き、傷口を凍らせる。

 間髪入れずに放ったアンドアインの風圧系第三階位『ウィンドカッター』が、無慈悲にも先頭で凍りついた二頭を切り刻む。

 狼の群れはそれでも怯まず、北の一頭がアンドアインへ、西の二頭がジョルジュとエマヌエーレへと襲いかかる。


 アンドアインに向かってきたダイアーウルフは、フェイントをかけるように左右へステップを踏み、飛びかかる。

 普通に受けては人間など吹き飛ばされるのが落ちだ。しかし、アンドアインは風圧系第一階位『ミラージュ』により、気温と大気圧の差による自らの虚像を作り出していた。

 先程投擲した『ビジブル』による光源の角度から計算し、幻へと襲いかかった狼の側面に立っていたアンドアインは、すれ違いざまに第二階位『エアソー』を切っ先に発動した自らの剣を振り抜く。

 第二階位とは思えない程の切れ味を発揮した真空の刃は、巨大な魔狼を上下真っ二つに分断して振り抜けた。

 息の一つも切らさずにアンドアインは振り返ると、冒険者の方へと向かった二頭の方へと向かう。


 冒険者夫婦と対峙したのは、他よりも一回りほど大きなダイアーウルフの雄、そしてもう一頭はその番らしき雌であった。

 視線を交差させる二頭と二人。雌の後ろでこの群れのボスらしき巨大な雄は、雌の後ろ、高い位置からジョルジュ達を睥睨している。

 先に動いたのはダイアーウルフの雌。与し易しと見たのか、エマヌエーレへと爪を閃かせて襲いかかった。

「お前らもレディファーストってか?生憎とこちらは紳士じゃないんでね!」

 脇からジョルジュが赤熱した大剣を振り回す。雌狼は器用にも空中で身体を捻ってギリギリで刃を回避、しかし、首元の毛に剣が掠った瞬間、毛皮が熱を持って煙を上げる。

 熱操作系第四階位『ヒートエンチャント』によって、形状を保つ極限までに剣身温度を上げられた魔剣は、接触した個体に急激な熱移動を行い、一瞬で炎上させる。直撃すればほぼ全ての魔物を丸焦げにする、凶悪な強化魔術の一つである。

 二人同時は脅威と見てとったのか雌狼は大きく跳躍、エマヌエーレの後ろへと回り込んで挟み撃ちの形にしようと試みる。

「魔物といえども獣、分かりやすいね」

 着地した瞬間、待ち受けていたエマヌエーレの水撃系第三階位『スライムモールド』が発動。密度と粘度を極限まで高められた粘着質の水苔が、その場に狼を固定する。

 間髪入れずに突進したジョルジュの一振りを受け、雌狼は断末魔の絶叫を残して炎上、炭化して絶命する。

 二人はすぐさま残った一頭に向き直ったが、相方が一瞬でやられたというのに、巨大なボス狼はまるで動じていない。相変わらず高い位置から二人を見下ろしている。

 エマヌエーレが先制する。再び第二階位『ヴェイパーウェイヴ』を狼の眼前に局所発動、飛びかかったジョルジュの赤熱剣が水蒸気の塊を両断する。

 急激な温度変化によって膨張した高密度の水蒸気が、煮立った油の中に肉を入れた時のような音を立てて爆発する。

 回避が困難な水蒸気爆発の連携技に、魔狼はその巨体に似合わぬ速度で後方に跳躍。爆発の範囲から逃れると同時に、木の幹を蹴りなぎ倒してその反動でエマヌエーレへと迫る。

 横から突き出したジョルジュの剣を反対へと跳んで回避、執拗にエマヌエーレへと迫る。

 女冒険者は腰から短剣を抜いて投擲。しかし狼はこれを無視、堅牢な毛皮で短剣を弾くと、一つ一つが大人の指二本分はありそうな鋭い爪を振りかざす。

 流石に避けきれず、エマヌエーレは二の腕を割かれて悲鳴をあげる。更に振り返り、襲いかかった狼の間に立ちふさがったジョルジュだったが、剛腕を剣で受け止めるも大きく吹き飛ばされて背後の木に身体を強打し、呻く。

 熱を受けて炎上した部分を狼は自らの牙でかじり取って吐き捨てる。赤黒い血と共に吐き出された前脚の一部が、そのまま炎上、消し炭と化す。

「こいつ、ただのダイアーウルフじゃねえな……ネームドかよ」

 同種を圧倒する巨大さ、相手の攻撃手段を理解して対応する知能。

 歳経た魔物の中には、更に変異を起こして異常に強大化するものが現れる。そういったものを冒険者協会は、ネームドと呼んで忌み嫌っていた。

 腕を割かれたエマヌエーレは片膝をついて蹲っている。ジョルジュも身体に受けた衝撃で剣を手放し、丸腰の状態だ。

 ネームドと呼ばれた魔狼は、ゆっくりと二人を始末しようと歩み寄る。

「それは監獄。無数の断頭台から逃れる術は無し」

 横合いから聞こえた詠唱と共に、ネームドはびくんと動きを止める。

 巨大な狼をすっぽりと包み込むように、更に巨大な立方体に区切られた空気の歪み。

 狼は声をあげようとするが、その喉から発せられた唸り声は歪みの外へは届かない。

 歪みは徐々に大きくなり、極限まで達した瞬間、その空間の内部でネームドと呼ばれた狼は破裂した。赤黒い鮮血が空間を立方体の形に染め、じわじわと空間を垂れ下がる。

 現れたアンドアインが放ったのは、風圧系第六階位『エンドオブプリズン』。特定範囲内に外部から切り離した真空空間を作り出し、閉じ込めた者を内部から破裂させる。

 決まれば絶対に逃れることが出来ない、文字通り必殺の魔術。

 本来ならばここまで大きな空間に作用させる事は出来ないはずであるが、これは風圧系を得意とするアンドアインの切り札の一つであった。

 魔術の効果が途切れると、ばしゃりと汚い音をたてて、かつてネームドだったものの内部が、裏返しで地面にぶちまけられていた。

「済まない、来るのが遅れてしまった」

 アンドアインが二人の下へと駆け寄ってくる。

「わ、若旦那……助かりました」

 荒い呼吸のジョルジュ。

「二人共、手酷くやられたな、すぐに治療を……?待て、ここに来たのは二頭か?……最後の一頭はどこへ行った?」

 妹のトリシアンナから伝えられた敵影は六体。初撃で二体、自分がネームドを含めて二体、ジョルジュとエマヌエーレで一体。倒せたのは五体だ。

「まさか……トリシア!」


(……でかすぎる)

 馬車の後方から侵入してきたダイアーウルフを見て、トリシアンナは改めてその大きさに驚愕していた。

(書物の数字で大きさは知っていましたが、実際に見るとこれほどまでとは)

 馬車の天井に頭がつきそうなほどの体高。10人は乗れそうな、荷馬車としても使えるほどの中に、銀色の毛並みをした巨大な狼が入り口からこちらを見据えている。

 体高は2メートルはありそうだ。体長に至っては見えている範囲から推測すれば4、5メートルはゆうにありそうに見える。

 身長にして120センチメートルに満たない自分から見れば、まさに見上げるほどの巨体、相撲取りと赤ん坊である。

 ダイアーウルフは火に寄せられる、と言ったのは兄の話であるが、単に火気に寄せられるだけであれば、開拓集落が壊滅させられるわけがない。

 火を目印に、匂いで獲物を見つけるのは、考えなくとも当たり前の話だ。なにせ、魔物とはいえイヌに近縁のオオカミなのである。

 自分の後方で震えているのは戦闘能力の無い御者二人。自分が何もしなければ、三人仲良くこの魔狼の腹の中である。

 兄も冒険者の二人も、感知している限り他のダイアーウルフと交戦中である。救けを求めて間に合う次元の話ではない。

(やるしかありませんね。まぁ、人を相手にするよりはマシですか)

「お二人共、口を塞いでじっとしていて下さい」

 匂いを目標とされている以上、音を立てなくても最終的には狙われる。しかし、雉も鳴かずば撃たれまい。より優先目標が動いているのならば、獣はそちらへと向かう。

 いつもの通りに雷撃系神経操作第四階位『マニピュレイション』を発現。周囲の時間が遅延して見える。

 トリシアンナは真正面から目の前の魔狼へと奔る。獲物が自ら喰われに来た、とばかりに、銀色の集落殺しはその顎を大きく開く。

 涎の滴るその牙に挟まれる直前、トリシアンナは姿勢を低くして速度を上げ、顎の下を潜る。すれ違いざまに両手で思い切り、白い刃を水平に閃かせた。

 布を擦るような鈍い音を立てて、刃はほんの少し、脚に生えている銀の毛を切り取っただけであった。

(硬い!?いや、これは毛の摩擦によるものですか!)

 トリシアンナの膂力では、この魔狼には傷一つつける事が出来なかった。

 狼の腹の下から後方へと抜けた小さな少女は、馬車の後方から外へと飛び出しながら大声を上げる。

「来い!こっちだ!」

 反応した狼は踵を返してこちらを向く。当然だろう。

 馬車の中にいるのは固くてまずそうなオス。柔らかくて美味そうなメスは外にいるのだ。

 滴る涎はそのままに、容易く仕留められそうな獲物を求めて狼はつられて外へ出る。そこへ、雷撃系第一階位『ソーンズ』の連射が狼の体表を連続して叩く。

 体表を通って地面へと流れる雷撃に、少しうるさそうに狼は身を捩ったが、それだけだった。

(やはり、この程度の電撃では全く通用しませんね)

 トリシアンナは白く輝く剣を右の半身に構えると構成を編み始める。

(他はお兄様達が片付けてくれる。なら、ここで全力を出しても問題ないはずです)

 所詮、魔物と言えども生物には過ぎないのだ。強度が違うというのならば、生物として弱い部分をぶち抜けば良い。

「烈風よ。戦の申し子よ。疾く、即……」

 詠唱の途中で性懲りもなく獣があぎとをひらく。

「迎え撃て!」

 刃を突き出し、その先端から切り裂く真空波を解き放つ。

 神経強化魔術によって緩やかな世界となった中、風圧系真空魔術第五階位『ディヴォートルナド』を、開いた喉奥へとぶちかます。

 迎撃の真空を伴った烈風が、哀れな犠牲者を無慈悲にも内部から破砕する。

 衝撃波と鎌鼬の相乗効果により、消化器から身体の内部全てを瞬間的にズタズタに切り裂かれた獣は、自らの肛門から自分の中にあったもの全てを吹き飛ばして、悲鳴を上げることすら無く絶命した。

 その場に残ったのは、頭と毛皮だけになった空っぽのダイアーウルフだったもの。そして、後方には原型を全く留めていない、汚らしい肉と内臓と血の塊が散乱していた。

「少し、やりすぎたかもしれません」

 ここまで上位の魔術を使用しなくても、使い方を考えれば第三階位『ウィンドカッター』、あるいは第二階位『エアソー』でもやれたかもしれない。

 雷撃系を人にあまり見せないという条件で、自分がある程度上手く扱えるのは風圧系。あとは概ね使えるにしても中位魔術以下になってしまうので、仕方がないといえば仕方がないのだが。

 上位の魔術行使に疲労感を覚えながら、抜き身の剣を振る。

 刃こぼれ一つしていないのを見ると、斬れなかったのはやはりあの毛の特性によるものだろう。

「トリシア!」

 兄が慌てた様子で駆け寄ってくるのが見えた。

「お兄様、そちらは大丈夫でしたか?おそらくはボスの番がいたはずですが」

「ああ、それは俺たちで片付けたが……これは」

 アンドアインが抜け殻になった狼を見て驚愕する。

「これは、お前がやったのか?」

「ええ、ダイアーウルフというのはとんでもない表皮をしているのですね、少々手こずりました。お兄様が戦うなと仰った理由がわかりましたよ」

 実際、剣に覚えのある程度の者では全く歯が立たないだろう。特殊な摩擦係数の体毛は、斬撃による攻撃をほぼ無効化しているように見える。これを問題なく斬り捨てるような者など……ラディアスなら普通に笑いながら切り刻むかもしれないが。

「いや、表皮というか、まぁ……いや、無事で何よりだ。怪我は?」

「ありません」

 人さらいに襲われた時とは全く違う。食らわなければどうという事はないのだ。

「そうか、良かっ……ではない、あの二人だ。ネームドに襲われて重症だ、早くエストラルゴで医者に診せなければ!」

「ネームドですって!?」

 考えもしなかった報告に今度はトリシアンナ自身が驚愕する。

「お二人共!ダイアーウルフは倒しました!手伝ってください!」

 馬車に向かって声をかけ、最後に狼の反応があった場所へと二人で駆け出す。

 木の幹にもたれかかるようにしているジョルジュはそこまでの重症ではない。

 問題は、腕を縦に切り裂かれたエマヌエーレだった。

 応急処置として兄が肩口で腕を縛っていたものの、出血量は甚大だ。既に彼女の顔色は変わりつつあり、このままでは一刻の猶予もない。

「お兄様!今から街に急いでも間に合いません!ここで処置しないと!」

「ルチアーノ!」

 辛うじて簡単な医術の心得があるルチアーノが傷口を見るが、その顔色は冴えない。

「若旦那様、私の知識だけではどうしようもありません。はやく専門医に診せないと」

 それが出来ないからこそ兄はルチアーノを呼んだのだ。最早、彼らだけでは打つ手がない。ここで何も出来なければ、彼女の命は尽きる。

「ルチアーノさん、湯を沸かしてください。エンリコさんは飲料水を火で消毒したカップに入れて、フィリッポさんは荷馬車から砂糖を持ってきて下さい、急いで!」

 有無を言わせぬ剣幕に、それぞれが走り出す。

「トリシア?何を?」

「お兄様、私は4歳の頃に医術を多少とは言え学んでいます。無論、専門家ではありませんが、今出来る最善の選択はこれしかありません」

 言いながら、エマヌエーレの縛っていない方の脇に手を入れる。脈が弱くなっている。

「赤よ、白よ、板よ、漿よ!集え!産め!塞げ!ああ、なんでもいい!もうなんでもいいから殖えろ!」

 水撃系第五階位『エモポイージ』を発動する。彼女に残った体力次第ではあるが、これしか方法がない。流し込んだ構成の魔力で、強引に造血幹細胞を活性化させ、更に体内のアドレナリン量を増幅。血圧を強引に引き上げる。

 縛って止まっていたかに見えた傷口から、じわりと再出血が増えるが仕方がない。

「お嬢様!持ってきました!」

 渡されたカップに砂糖を適当にぶちこんで溶かし、更にもう一発。

「歌え、踊れ、狂え。酒精の導きこそが我らの宴」

 同じく水撃系第二階位『ドランク』によって、糖を急速に分解してアルコールにする。この際、メタノールやプロパノールが多少混じろうが関係ない。

「エマさん!少し染みますよ!」

 作った消毒液を盛大に傷口へとぶちまけ、ルチアーノの持ってきた熱湯で濡らした布で傷口を拭く。

 そのまま開いた傷口を両手でもって塞ぐ。自分の小さな手も指も、染み出した鮮血で真っ赤に染まる。

「其は無限の増殖!メサイアよ!テロメアよ!なんでも良いから私の命令を聞け!」

 水撃系再生魔術第五階位『リジェネラジオーネセルレア』を開始。体中から魔素の抜け出ていく感覚と共に、両手で塞いだ傷口の血管が、神経が、肉が、皮膚が、がみるみるうちに繋がっていく。

 圧倒的な魔素の喪失感に意識が飛びそうになる。しかし、途中で終えてしまえばエマヌエーレの人生もここで終わる。

 いずれは子供が欲しいと言っていた、もっと冒険者の先を見てみたいと言っていた、彼女の人生が、ここで、終わってしまう。

 脳が焼き切れんばかりの負荷と身体から流れ出ていく魔素に歯を食いしばって耐え、彼女の傷が全て埋まるまで目を血走らせて傷を抑える。まだだ、まだ、もう少し、あと少し。


「若旦那様、気付かれましたよ!」

 目を覚ましてから最初に聞こえたのはルチアーノの声だった。

 視界に、兄の心配そうな顔が映り込む。色も正常に心配そうだ。この兄は、表情と内心を別の色に染めることも多いのだ。

「トリシア、聞こえるか?」

「お兄様、エマさんはどうですか」

 最後の記憶は曖昧だ。

「生きているぞ、お前のお陰でな」

 顔を横に向けると、こちらを見て泣きそうな顔をしているジョルジュと、その膝には多少青ざめてはいるものの、命に別状はなさそうなエマヌエーレが頭を預けて眠っている。

「そうですか、間に合って、良かったです」

 正直なところ、成功するかどうかは分の悪い賭けでもあった。

 水に属する魔術は理論こそ理解していても得意とは言えない分野ではあったし、ましてや第五階位の連発である。一歩間違えれば、助けるどころか逆にその場でトドメを刺していたかもしれないのだ。運が悪ければ自分にも。

「言いたいことはいくらでもあるが、今は休め。じきにエストラルゴに着く」

「そうさせて貰います」

 魔素欠乏症による耐え難い睡魔には抗えず、トリシアンナは再び深い眠りへと落ちていった。


 この妹は一体どういう存在なのだ。

 アンドアインは馬車の中でいつも通りの鉄面皮を保ちながら混乱していた。

 産まれた時には、歳の離れた、娘と言っても良い程年齢差のある妹が産まれた。愛しい、可愛らしい、最も愛すべき存在。その程度の感覚だった。

 彼女は僅か3歳にしてこの世の論理を理解し、あらゆる専門家の教示を、水を吸い込むスポンジのように全て吸収していった。

 自分の発する言葉に、阿吽の呼吸で全て満点の答えを返してくる。かと思えば、年相応のあどけない顔を見せ、風呂や食事等に妙な拘りを持っている。

 ユニティア、ラディアス、ディアンナと、三人の弟妹を見ていた自分にとっても、彼女の存在は明らかに異質に映った。

 無論、彼、彼女らも『メディソン家として』圧倒的に他の人間より秀でていたのには驚いた。だが、その存在には自分も同等のものとして含まれるのだ。

 その視点を以てしても末妹の存在は異常だった。

(ダイアーウルフを初見で、無傷で。しかも毛皮の事まで気にかけて倒しただと?)

 単に倒すだけであれば、ラディアスもディアンナも鼻歌交じりにそれをこなすだろう。

 それは魔力や腕力の強さを考えれば当然だ。だが、守るべき存在を意識しつつ、自分に注意を向けた上で、財貨を残しつつ一撃で、そう、一撃で屠ったと思われる。

(実力にしてもあまりに突出している。年齢から推測できる才能で言えば最早俺を完全に超えている)

 挙句の果てに、母やユニティアが使うようなあの水撃系治癒術である。

 構成や詠唱はまだまだ未熟だったものの、制御は完璧だった。そこいらの街の魔術医よりも遥かに高度なものを、それ単発ならば兎も角、二度も使って見せたのである。

 その代償として今は眠っているが、この子の素養は一体いかほどの物なのだろうか。

 この子は……この子は間違いなくこの世界の宝だ。

 世界に存在する、ありとあらゆる災禍から守らねばならない。それが、ひいてはこの世界を守ることとなる。

 絶対に守らなければならない。例えこの身を、家族を犠牲にしてでも。


「お前たちに言っておくことが……いや、お願いがある」

 トリシアンナが眠りについたあと、暫くして一行はエストラルゴの宿、その一室に集まっていた。

 トリシアンナとエマヌエーレを同じ部屋のベッドに寝かせ、その隣の部屋でアンドアインは話を続ける。

「まずは、トリシアの件についてだ。お前たちが見た様に、彼女は平然と水撃系の上位魔術を使っていた。だが、それはお前たちの夢だ」

 一行は黙っている。

「事情を説明するのが私の義務だろうな。王国へは、彼女はまだ処女魔術を発現していないと報告する。理由は2つあって、どちらも簡単だ。彼女を宮廷魔術師へと取られないため、もう一つは、彼女自身の身を守る為でもある」

「その、若旦那、最初のはわかりますけど、二番目は?」

 ジョルジュの疑問に、言わざるを得ないと判断して答える。

「彼女の処女魔術は雷属性だ。しかも、第五階位を発現している」

 その言葉に誰もが息を呑む。

「知っての通り、我らの先祖は雷の使い手だった。そして、それは王家にとって好ましい兆候ではない」

 不都合な真実を告げるもの。剣は失われたと認識されて久しいが、それでも刻まれた印象は今尚拭い難いものだ。

 魔女狩りというには極端だが、思い詰めた輩に悪意を向けられないという保証は無い。

 そして、それがなされた時に成した者に対する罰則も、愛国心、忠誠心からの行為という事で、微罪、あるいは無罪となる可能性が高い。

 愛する家族にそのような仕打ちをされて、黙っていられるほど彼の家族は大人しい者ばかりではないのだ。

「ジョルジュ……に、限らないな。皆、私の実力は知っているだろう。普段はあまり見せないように心がけてはいるが、戦いとなれば已むを得ずあの程度の魔術は当たり前のように使う。そして」

 一同を見渡して言う。

「私は、剣術と純粋な力で言えば弟のラディアスには及ばない。魔術の威力と扱いでは下の妹のディアンナには遠く及ばない。そして、政治的な裏の手回しにおいては、上の妹のユニティアに遥かに及ばない。私が弟妹達に唯一勝てるものは、空気を読んで上辺を取り繕う、ただその能力だけなのだ」

 そして

「上辺を取り繕うという点で見れば、ユニティアはまだ穏便な方だろう。下の弟妹に関しては」

 その気になれば

「この国を滅ぼす」

「ユニティアとて、本気で怒れば合法的に、そして容赦無く経済面からの復讐に走るだろう。わかるな、この事を公表することは、つまり」

 どこまで本当であろうと、ハッタリかもしれなかろうと、アンドアインの言葉を疑う事ができようか。

「つまり、国家叛逆に等しい行為だと理解してくれると助かる」

 アンドアインとて、どこまで自分を抑えられるか怪しいものだと思っているのだ。

「頼む。私を、私の家族を”怒らせないでくれ”」


 再びトリシアンナが目覚めた時、最初に目に入ったのは見慣れぬ天井だった。

 失われた魔素は十分に補充されており、身体の痛みも、頭の痛みも無い。

 寧ろ、以前よりも自らの中に魔力が漲っている気がする程だ。

 上体を起こし、周囲の状況を確認する。自分の向いている方向から左手側の部屋に4人、右側の部屋に一人。こちらは視馴れた気配で、兄のアンドアインだと分かる。

 隣にあるベッドを見ると、安定した呼吸で寝息を立てているエマヌエーレが居た。

 彼女が生きていた、という事実に改めて胸を撫で下ろす。自分もかなり無茶をしたが、あの時はああするしか無かった。上手くいって本当に良かった。二度はしたくないが。

 状況からすれば、ここはまず間違いなくエストラルゴの宿泊施設だろう。窓の外の景色、東の空が薄明るくなっているのを見ると、時間は日の出前、というところか。

 もう一度眠る気にはなれないが、再びベッドに横になった。

 薄暗い天井を見上げながら考える。

 王都へは、このエストラルゴから3日ほど西へ移動する必要がある。

 街道の途中にはぽつぽつと宿場町もあるため、無理に急いだり、路銀を節約したいのでなければ野営をする必要も無い。

 日中に遭遇する可能性のある魔物は、此処から先、そこまで脅威度の高いものはいないと予測できる。この近辺で危険度の高い魔物が出没するとなれば、ここエストラルゴか王都セントラの冒険者協会から討伐依頼が出るからである。

 拠点があるほどに安全性は増す。故に、ここから先は多少気を抜いても大丈夫だという事だ。

 窓辺に日が差すのを待って、トリシアンナは起き上がった。気づけば服装は防寒着こそ脱がされてはいるものの、下の旅装はそのまんまである。

 同行者である唯一の女性であるエマヌエーレがこの状態であるので、当然と言えば当然か。

 遠慮がちな兄の性格に加えて、いくら幼女とはいえ貴族の娘を脱がして身体を拭くという行為を、他の男性同行者が出来るはずもない。

 入り口の脇にかけてあるルナティックヘアのコートを取り、寒々とした廊下に出る。右手の部屋、兄は、夜明けと同時に目を覚ましたらしい。扉に近付いてノックをすると、どうぞ、と声がした。

「トリシア、もう動いて大丈夫なのか」

 扉を開けて現れた妹に、アンドアインは驚く。

「ええ、魔素欠乏症ももう二度目ですからね。身体が慣れてしまったのかもしれません」

 軽く冗談のつもりで言ったのだが、兄は額に皺を寄せた。

「あまり無理はするな。二人の治療もある事だし、一日か二日はここに滞在しても良いんだぞ」

 ジョルジュの方も強く身体を打ち付けていたため、命に別状は無いとはいえ、治療が必要なのだという。とはいえ、そうすると一日二日では足りないだろう。

「本当に大丈夫です、お兄様。それよりも、あまり長く逗留しすぎては、新年のご挨拶に間に合わないのではないですか」

 一年の括りとして、年の明ける月、それと夏の近況報告では、報告に訪れた地方領主達を労うための宴が王城で催されるという。

 労うための宴といいつつ、王都の貴族や地方領主との間での顔合わせや微妙な政治的駆け引きの場となっており、これに欠席する事は、欠席した地方領主の立場を著しく悪くする事になる。

 更に今回はサンコスタ領主の末っ子も挨拶に参る、という先触れまで送っているので、ここで遅刻や欠席をしてしまうのは致命的だろう。

「お前が心配しなくても大丈夫だ。どうとでも理由はつけられる」

「私が出席する、という時に限って遅刻や欠席したとなれば、そのように小さな子を連れているのが原因だ、とされ、お兄様やお父様が責任を問われます。私自身がどうしてもとお願いして連れてきてもらっているのですから、それでは私の気が済みません」

 兄はまた困っている。自分は兄を困らせてばかりだ。

「そこで提案なのですが、お二人には暫くこの街で養生していただくというのはどうでしょう。無論、滞在費はこちらで持つことにして、帰りがけに良くなった二人を拾って戻れば良いのではありませんか?」

 護衛の任務を半分放棄させる事になってしまうが、怪我をした状態で無理について来られても、言い方は悪いが邪魔だろう。それよりは、任務中の事故ではあるのだし、治療費と滞在費を経費としてこちらで持ち、待っていて貰うのが一番妥当な線ではないだろうか。

「確かに、最も危険な場所は既に通り過ぎた。ネームドとの交戦という不測の事態があったものの、怪我をさせたのは雇ったこちらの責任でもあるな……よし、わかった」

 賢い兄は物わかりも良く決断も早い。

 早速男4人が宿泊している部屋に行くと、恐縮するジョルジュを説き伏せて、こちらは出立の準備に入る。

 エマヌエーレを動かすのはあまり良くないとして、トリシアンナの居た二人部屋で、およそ一週間と少しの間、夫婦水入らずの時間を過ごしてもらう事とした。

 予定通りにエストラルゴを出発できたため、ここから先を無理に急いで野営をする必要もない。いくつか問題は発生したものの、時間的には概ね順調であると言っても良いだろう。

 そこから先は特に何か躓く事もなく、2つの宿場町を経て王都へと真っ直ぐに向かった。

 道中やることも無いので、トリシアンナは内部をからっぽにしたダイアーウルフの毛皮を処理して過ごした。ルチアーノが手伝ってくれたのでこれもすぐに終わってしまったが。

 問題と言えば、途中、宿代を節約する為に兄との同室を申し出たのだが頑として断られた。

 歳の離れた兄妹なのだから気を使う必要は無いというのに、この辺りはどうしても譲らない兄に少しだけ辟易した。まぁ、その程度の事ではあるのだが。


 最後の宿場町を出て丸一日馬車に揺られ、王都セントラにたどり着いたのは、既に夕刻に差し掛かった頃だった。

 昼より少し前から既に王都の威容は目に見えていたのだが、実際にたどり着くのに随分と時間がかかってしまった。巨大な建造物というのはそれだけで感覚を狂わせるものだ。

 そういえば、と、嘗て自分のいた国を象徴するような霊山でも似たような経験をしたのを思い出した。

 山頂に雪を頂く美しくも巨大な山は、近くに見えるのに実際に登るには相当寄らなければならなかった。

 ふとそんな事を考えて、最近は忘れていた過去がひどく懐かしく感じられるのだった。

「やっと着きましたね、お嬢様。相当お疲れではないですか?」

 この数日ですっかり仲良くなったルチアーノに声をかけられた。

「そりゃあもう。ずっと馬車に揺られているせいで、お尻が痛くなってしまいました。最近は馬車を降りてもずっと揺れているような気がして、寝ていても馬車に乗っている夢を見るぐらいです」

 航続距離の長い航空機に乗っていると、地上にいても発動機やペラの振動音がずっと聞こえてくる事は良くあった。それに比べれば馬車の振動などは可愛いものなのだが、こちらも尻が痛いのはどうしようもない。かと言って立ち上がると不安定で危ないので、尻の下に何かを敷いて只管我慢するしかないのだ。

「ははは、それはいくら慣れていてもそうなりますねぇ。痔にだけは気をつけないと……おっと、これは失礼!」

「ふふ、お気になさらず。お兄様もその事は大変気にしていらしたので」

 兄の方を眺めると、こちらは苦笑いをしている。

「最初の頃は母上に治療して貰うのが恥ずかしくて仕方がなかったよ。ただ、その病気の話は国王陛下の前では絶対にしないようにな」

「国王陛下の前で?いや、尾籠な話など恐れ多くて流石にできませんが、それはまたどうしてですか?」

 兄の冗談にしては唐突すぎる。

「国王陛下はな、執務中ずっと座っている事が多いのだ。つまり、職業病というやつだな」

 どこかで聞いたような話だが、なるほど、と納得した。無論、そんな失礼な話題を統治者の前で堂々と出来るはずもないが。

「国王陛下も悩み多きお方なのですなぁ」

 ルチアーノはしみじみと遠い目をした。彼もまた、尻の病に悩まされた事があるのだろう。

「若旦那、そろそろ外壁部です。支度をお願いできますかい」

「そうか、分かった」

 前方の御者台からエンリコが声をかけてきた。

 応じた兄は、荷物の中から書類と印章を取り出している。

「外壁の外にも街が広がっているんですね」

 土壁に藁葺きの、お世辞にも綺麗とは言えない街並みが、外壁の外側、街をぐるりと取り囲むように広がっている。

「ああ、壁の中には入りきれねえですからね。市民権の無い連中が勝手に住み着くんですよ。まぁ、身分証を持ってるか、金さえ払えりゃ入れるんで、中に移動する奴もいるにはいますけどね」

 規模があまりにも大きすぎて、サンコスタのように外壁を広げて作り直す、という発想にはならないのだろう。ただ、これだけ人が多いのであれば考えても良いのではと思うのだが。

 周囲の人々から自分の乗っている立派な馬車に向けられる感情は、あまり良いものではない。嫉妬、羨望、憎しみ。ただ、襲ってやろうという攻撃的な意思は感じられない。

「お兄様、仮にですが……ここに住んでいる方が我々の馬車を襲った場合、襲った方々はどうなりますか」

 あまり答えたくないだろう問いに、兄は真摯に答えてくれる。

「町ごと焼き払われるだろうな。過去にも一度あったそうだ。内部に暮らす王侯貴族達にとって、外壁の外の民は民と認識されていない」

 道理で。含む感情はあろうとも、住処を失うような真似はできないという事だろう。先程エンリコが言ったように、どうにかして中に入れば冒険者登録などで壁を出入り出来る身分になれるのだ。そうなれば、自分も壁の内側の人間になる。かつて自分が暮らしていた外には見向きもしなくなるだろう。

「魔物に襲われることも多いのでしょうね」

 守るもののない住居群など、猛獣や魔物にとって狙いやすい的でしかない。無論の事、彼らも自衛の武器程度は持っているであろうが。

「毎年のように被害が発生していると聞くな。ただ、特別何か対策が取られたという話は聞いたことがない」

 これも当然だろう。先程の話を聞く限り、内部の人間は外の人々を、同じ人間と認識していないように思える。

「同情や哀れみの目を向けるなよ、トリシア。それは持てるものの傲慢というものだ」

「承知しています」

 彼らとてそんなものを向けられても腹を立てるだけだろう。人としての矜持まで失ったわけではないのだから。

 顔を外へと向けるときは、意識せずとも能面のような無表情になってしまう。

 人形のような美しい顔の少女に、このような表情で見られる人々の気持ちとはいかほどのものだろうか。流石に耐えきれなくなり、トリシアンナは馬車の前後に覗く街並みから目を背けて下を向いた。


 巨大な跳ね橋を渡って堀の上を通り、外壁の側にいる衛兵の一人へと、兄が書類とメディソン家の印章を提示した。背筋を伸ばして敬礼した衛兵を尻目に、二台の馬車は広い路の続く街へと入っていく。

 外壁から内部へと続く路にも、引っ切り無しの人の往来は絶えない。

 出入りをチェックする衛兵の数にも限度がある事から、出る方については全く無頓着のようだ。

 これではうっかり身分証を外で無くしてしまえば、中に入れなくなるのではないだろうか。

 貴族のように身なりがしっかりとしていれば、身分証が無くとも調べて中へ連絡はとってくれるかもしれない。だが、そうではない、例えば冒険者や行商人のような人々が、冒険者証や紹介状、あるいは銀行や大商会の証紙などを外で無くすような事があれば、再入場は困難になるのではないだろうか。

 いずれにしても出入りには随分と穴が多いように、トリシアンナには思えるのだった。


 暗い外壁を通り過ぎて内部に入る。広がっている街並みは、意外にも外とあまり変わらないように見えた。殆どの家々は漆喰で塗り固めただけの土壁平屋だ。暮らしぶりに大差は無いのだろうか。

 不思議そうな顔をしているトリシアンナに気づいたのか、アンドアインが声をかける。

「外壁の中でも、王城から遠い、今いる所のような外壁近縁には貧しい者達が多い。単純に地価が安いというのもあるが、良いところに住居を構えるには相応の税金を支払えなければならないからだ」

「住民税も住む場所によって違うということですか?」

 その問いに、兄は頭を振る。

「住民税は一律だ。それ以外に、土地を取得したものはその土地の広さと場所に応じた地税を毎年、何かを建てた場合はその時、高さと広さによって建築税を支払う必要がある」

 つまり、ここに居を構える者は毎年住民税と地税を払い、建物を立てる時に建築費用とは別に税金を納めているという事か。

「随分と厳しいのですね、サンコスタでは住民税と関税、あと一定規模以上の商売にのみ一律でかかる歩合税だけなのに」

 ラディアスと買い物をした時の事を思い出す。

「無論、この王都にもそういった税金はある。土地や建物に税金をかけるのは、まぁある種の人口流入抑制や建築制限の代わりなのだろう」

 ここで暮らすには結構な収入がないと随分と苦しそうだ。その分、物価も高くて報酬も相応に多いのだろうが。

「まぁ、スラムに住んでいるような者達は住民税も地税も払っていないものが大半らしいがな。徴税官だって、彼らが払える金を持っているとは思っていないだろう」

 無い袖は振れぬ。徴税官にしても、一々細かいことで仕事を増やすのは嫌なのだろう。

 行く路を横切る大きな交差点に差し掛かる。中央部には小さな噴水が設置されており、周辺には花も植えてある。

 馬車は左回りに噴水を迂回し、そのまま変わらず西に進んでいく。

 振り返ると、通りを往く馬車は全て左回りに動いている。そういったルールがあるのだろう。

 噴水の交差点を過ぎると街並みはがらりと様相を変えた。

 高い石造りや木造の建物も増え、合間合間に過ぎる南北の通りには、商店も軒を連ねている。

 先程の交差点がスラムとの区切り、という事だろうか。街往く人々の服装も、きちんと整ったものが大半だ。

 そこから3つほど、噴水の交差点を通り過ぎた所で、馬車は西から北へと進路を変える。行く先には遠くに巨大な建造物、王城が見える。

 整備された石畳を馬車馬は蹄を鳴らしながら進み、左手に見えてきた大きな建物の横、広いスペースのある場所へと入っていった。

「これ、厩ですか!?ひ、広い……」

 トリシアンナは思わず声を上げた。

 球技でもできそうなほどの広さに、ずらりと馬用の小屋が並ぶ。奥にはこれまた広い、馬車を数十台は置いておけるようなスペース。通路ですら、それこそ三台の大きめの馬車がすれ違えるほどの広さがある。

 王都の中心部でこれほどの広さを確保しておくのに、一体どの位の地税が必要になるのか、と考えてしまう。

「ここは隣の宿屋が持っている施設だ。利用者は、主に我々のようなもの、と言えばわかるな」

 金払いの良い、定期的に王都を訪れる領主達を主な客としている宿、という事か。

「お兄様、ちなみにここ、一泊いくらで……いや、いえ、いいです。聞きたくありません」

 1ガルダや2ガルダでは済まないだろう。しかし、ここに数日は滞在する事になるのだ。

「そう言わずに聞いておけ。流石にここでは私とお前で一部屋だけしか取っていないが、宿泊料だけで一泊4ガルダだ。食事は朝と夕、頼めば出してくれるが一食あたり4から15シルバ。それに加えて馬車一台の預かり料が一日8シルバ、馬は一頭につき50シルバだ」

 引き連れてきた馬車は二台、馬は5頭。食事を全て外で済ませたとしても、一日当たり6ガルダと66シルバかかる計算になる。食事の額にしたって、高級店のコース並ではないか。

「参考程度に、ルチアーノ達には別の宿をとっているが、そちらは朝食のみ、込みで4人部屋一室の一泊20シルバだ」

 格差に頭が痛くなってきた。

「地方領主は、この程度の額をぽんと出せなければ舐められる。そうでなくとも王都の貴族達からは田舎者扱いだ。貴族の令嬢に相応しい振る舞いを期待しているぞ、トリシア」

 兄は珍しく頭を抱えているトリシアンナを面白がっているようだ。

「あの、宿に入る前に着替えたほうがよろしいでしょうか……?」

「入る時は必要ない。皆旅装だからな。ただ、中ではすぐに着替えたほうが良いだろう」

 トリシアンナも当然そのつもりだった。しかし。

「あのう、お兄様。私、礼装的なものを一着しか持ってきていないのですが」

 謁見と宴の席に失礼でない程度で良いだろう、と思って、あまり衣裳には気を使っていなかったのだ。数日滞在するだけなのに、まさかこんなに格式高い宿に泊まるとは想像もしていなかった。

「先触れを出した時にスパダ商会の系列服飾店へ注文しておいた。宿に送るように言ってある。謁見用と、宴用のドレスもな。トリシアもそろそろ、こういった場に出る服をいくらか持っていても良い頃合いだろう」

 実に用意の良い事だ。

「はあ、沢山持っていてもすぐに小さくなってしまう気もしますが」

「そうなれば仕立て直すか、また買えば良い」

 発想がまるで違うのだ。

 馬車と馬を預け、厩番にチップを弾む。もうこの時点でトリシアンナには馴染みがない。王城での行動に失礼の無いよう、少し兄に手ほどきをしてもらう必要がありそうだった。

 厩から表に戻るのかと思いきや、表通りに出なくても宿の正面に出る通路があった。

 人目につかないように出入り出来るよう配慮している、という事だろう。

 通路を通って正面に出ると、入り口には白を基調としたスリムなスーツに、これまた真っ白な手袋を嵌めた男性が立っていた。

「メディソン様、お待ちしておりました。手荷物をお預かりします」

「ああ、頼む。それと、スパダ商会から荷物は届いているか?」

「お預かりいたしております。部屋へとお運びしてもよろしいでしょうか?」

「頼む。少し早く着いたので、夕食は一時間後にしてくれ」

「かしこまりました。では、こちらへどうぞ」

 一分の隙も無い身のこなしで、宿の従業員は先導して歩く。入り口での受付など一切無い。信用も地位もある相手に対して、現金の取り扱いや宿帳の記入など、無粋に過ぎるという事だろう。

 歩く先々で、すれ違う従業員は笑顔で丁寧な礼をしてくる。兄は何も反応していないが、トリシアンナはつい、つられて笑顔で片手を胸元に上げてしまう。

 ロビーを横切り、階段を通り過ぎたので部屋は一階なのかと思ったが、驚いたことに昇降機が設置されていた。

 この世界では、電気というものは落雷としてしか認知されていない。故に動力は魔力、という事になるのだが、扱いを知らない人間では操作盤を扱うことが出来ないだろう。

 手荷物を下げた従業員が乗り込むのを追いかけて狭い箱に入ると、中にもう一人いた。

「お待ちしておりました、メディソン様。お部屋は5階の東側、502号室でございます」

 中にいた女性はそう言うと、操作盤に触れて構成と魔力を流し込む。ごく軽い重力を感じて、すぐに目的階へと到着する。

「ごゆっくりお寛ぎ下さいませ」

 昇降機の女性は、扉が閉まるまで深くお辞儀をしたままだった。

 この世界での昇降機は初めてだった。いや、前の世界でも乗ったのはそう多くは無いのだが。

 自分が生まれる少し前に地震で壊れてしまった建造物の写真を思い出して、複雑な気持ちになった。そういえば、この世界にも地震はあるのだろうか。

 いずれにせよ動力原理は違った。単純に魔力と重りによるもので、魔術を扱える人間がいないと全く動かないものだったのだ。この為だけに人を使うのか。

 案内された502号室に入ると、あれだけ妹と同室を渋っていた兄が一部屋にした理由がわかった。部屋が多いのだ。

 入ってすぐにあった観音開きをあけると、毛足の長い絨毯に包まれた広い空間のど真ん中に、巨大なソファとローテーブル。左右を見渡すと、左側の手前にはトイレ、奥には3つほど扉の開いた部屋が並んでいて、うち2つは寝室である。片方には一人用、もう片方には二人用の広いベッドがサイドテーブルと共に置かれている。

 残りの一部屋には上品な籐製の円形テーブルと、同じく椅子が3つ。テーブルの上には紅茶を淹れるための水差しとティーセットが置かれていた。

 右側に目を向けると、こちらにはなんと広い浴室までもが設置されている。

 きらびやかな内装から家具、什器に至るまで、全てが最高級品。

「お兄様、ここは本当に宿屋の一室なのですか」

 道中の宿屋との極端な差に目眩がする。

 兄はその言葉を無視して言った。

「お前はそっちの大きいベッドを使っていいぞ。大の字になって寝るの、好きだろう」

「ああ、はい。それは大好きですが、広すぎて不安で夜中にお兄様のベッドに潜り込むかもしれません」

「それは少し遠慮したほうがいいかもしれないな、抱きしめたい衝動を抑えられる自信が無い」

 冗談に肩を竦める兄から意識を外して、浴室を見る。テンションが上がる。

「お兄様、お兄様。この浴室、ガラス張りですよ!同室者の入浴を堂々と覗けますよいやらしい!」

「よく見なさい。内側に下ろせるブラインドがあるだろう。使用時にはそれを下ろすんだ」

「なんでこんな面倒くさい事を?ガラス張りにする意味は?」

「知らん。高級感を出したかったのだろう」

 続いてトリシアンナは窓辺へと寄る。夕刻のため日陰にはなっているが、やってきた方角が一望できる素晴らしい眺めだった。北へと目をやると、沈みかけの西日に照らされた美しい白亜の王城が見える。

 暫く見惚れていると、兄が少し遠慮がちに声をかけてきた。

「窓からの景色は滞在中いつでも見られるぞ。それより、届いている服に着替えなさい」

 室内に圧倒されて意識の外にあったのだが、確かに居間のソファの脇に、丁寧に包装された荷物が置いてあった。

 トリシアンナ達が部屋に来る前に、先回りして運び込んだのだろうか。どうやってその連絡を取ったのだろう。

 疑問を棚上げして、梱包を解く。カラフルな絹製のリボンに包まれたそれは、さながら誕生日プレゼントだ。無駄の極地である。

 中にあった三着の衣裳と二足の靴、更に一緒に入っていたものを見て、トリシアンナは動揺した。

「お兄様、あの、下着やコルセットまで一緒に注文されたのですか?」

「何?いや、私は何も……そうか、ユニ、あいつめ」

 ということは、これはユニティアに頼んだという事か。確かに、いかに兄とはいえ、女性の服装には明るくないだろう。それにしてもこれは。

 一緒に入っていた赤と白、紫色をした三枚の下着を持ち上げてみる。サイズは自分にぴったりだろう。当然である、姉が注文したのだから。

 問題はデザインである。それはいかにも大人向けで、普段履いているようなシンプルなものとは違って、なんだか細かいレースがいっぱいついていて、布地の半分以上は透けている。

「これをお兄様が注文したのだとしたら、正気を疑う所でした」

 上の姉は時々こういった稚気を出す。まぁ、それも含めて姉の事は嫌いではないのだが……。

「……どうするんだ、それ」

 コルセットと下着を指さして兄は言う。

「うーん、コルセットは多分必要ないと思います」

 まだ幼児体型なのに、こんなもので締め付ける必要のあるものが何もないのだ。

「下着はまぁ、せっかく買ってくれたものですし、履きます」

「履くのか……」

 一緒に入っていた『上の下着』は、最早つける意味も理由も無いだろう。

 無いのだ。おそらくは一番小さなサイズなのだろうが、つける意味が無いのだ。

 同じ色合いで揃っている事から見れば、恐らくはセット売りになっていたのだろう。

「お兄様、つけます?」

 持ち上げて聞いてみた。

「私は変態か」

 思わずうふふと笑い声が出てしまう。この部屋の空気に当てられて、頭が変になっているのかもしれない。

 とりあえず、着替えようと思って、一旦止まった。

「先にお風呂に入ってもいいでしょうか。その、汗を落としたくて」

 新品の服に袖を通すのに、旅の埃や汗をつけたままというのは耐え難い。

「ああ、好きにするといい。部屋の浴室を使ってもいいし、一階には広い共同浴場もあるぞ」

「共同浴場まであるのですか!?それは是非、いえ、時間がありませんね。今は部屋で済ませて、食事の後に共同浴場へ行こうと思います」

「……二度も入るのか?」

「入ります」

「そうか、まぁ、好きにするといい」

 兄は二度同じ台詞を吐き、テーブルのあった部屋へと行くと、自ら紅茶を淹れる準備を始めた。この辺りは意外にもマメなのである。

 トリシアンナは着替えを持って、浴室のガラス扉を開けた。

 足元は一段低くなっており、高級そうな石畳の間を粘土で埋めてある。つまり、入ってすぐに浴室である。

 後ろを振り返ると、兄は魔術で沸かした湯を使って茶葉を蒸らしているところだった。

 まあいいか、兄妹だし、と開き直ると、その場で旅装束を脱ぎ始めた。

 脱衣所がないという事は脱衣籠も無いという事だ。已むを得ず、戦闘で少し擦り切れ始めた上下の装束は畳んで扉の脇に置いておく。下着に手をかけようとしたところで、顔だけ振り返り、少しシナを作って言った。

「お兄様、一緒に入りますか?」

 紅茶を淹れていた兄はこちらを見て、抽出しすぎたものを飲んだような渋面を作った。

「どこでそんな事を覚えてきたんだ。いいから早く入りなさい」

 兄の表情とは裏腹に、内心は少し嬉しそうだった事に満足してトリシアンナは笑った。

 浴室内は妙に暖かかった。恐らくは壁の裏側に配管を通してあり、その中に湯を通して室内全体を暖めているのだろう。

 トリシアンナはガラス張りの扉の横にある紐を引っ張り、ブラインドを下ろした。流石に本気で兄に入浴している姿を見せるのは気が引ける。

 蛇口を捻ると当然の様に湯が出る。手元のハンドルを調節すると、温度の調整も簡単に出来る。

 沸かした湯を客が滞在中、常に温度を維持しておく事に加えて、高い場所に飲料水とは別の水槽を置く事を考えると、この『いつでも湯が使える』利便性だけに、一体どのくらいの手間と費用をかけているのだろうか。

 2メートルほどの高さから降ってくる温かいシャワーを浴びているうちに、そんな思考もどうでも良くなってきた。

 贅沢にもシャワーを浴びながら湯船に湯を張り、石鹸と頭髪専用の洗剤を使用して全身を洗ってから湯船に浸かる。

 この行動様式に慣れるとまずい。非常にまずいのだが、今はこの快楽を享受することに吝かではない。

 肌触りの良い布で全身を拭き、風圧魔術で髪を乾かしながら浴室を出た。そこには、既に着替え終わって出る準備万端、といった兄の姿があった。

「さっぱりしたか?着替えて髪を整えたら行くぞ」

 夕食は一時間後という話だったがもうそんなに時間が経っていたのかとトリシアンナは驚き、急いで例の下着のうち、白いものに足を通す。なんだかすぐに破れそうな上、通気性が良すぎて些か心許ない。

 服も何となく同じ色を基調としたものを選んだ。姉は統一感を大切にする人なので、入っていた衣類全てに意味があるのだろう。

 白い衣装は、比較的ゆったりとしたワンピース状のもので、袖は肘の上辺りまでしかない。この時期外に出るには随分と寒そうな格好ではあるが、ざっと見る限りこれが一番布地が多かったのだ。

 胸元から腰まで、中央にウェーブのかかったレースが流れており、全体的に色のない縦縞を意識したようなデザインをしている。

 肩口やレースには小さな透明の宝石が散りばめられており、動く度にそれが天井の魔力照明に反射してキラキラと輝いている。

 スカートになっている部分も折り目のある比較的歩きやすい構造になっていて、横の見えない部分にはスリットが入っているのが確認できた。

 一見すると正しく深窓の令嬢という出で立ちであり、これに前後に鍔広の帽子でも被れば夏のお嬢さん、と言ったところだろうか。

「これ、一着で一体いくらするんでしょうか」

「帰ったら明細を見てみるか?」

「遠慮しておきます。でも、ユニお姉様にはお礼を言っておかないと」

「一応、金を出したのは俺なのだが」

「あっ、ありがとうございますお兄様」

 確かにその通りなのだ。まずは兄に礼を述べるべきだった。

「冗談だ、殆ど必要経費だよ。よく似合っているぞ。髪はもういいか?よし、では行こう」

 サンコスタではあまり見かけない頭髪用の洗剤で洗うと、乾かした後も髪が湿度を保って、しっとりと纏まっている。軽く櫛を通すだけで、驚くほど滑らかに流れる金髪の出来上がりだ。小さなバレッタを付けながら、密かにトリシアンナはこの洗剤を土産に買って帰ろうと心に決めたのだった。


 夕食は一階にある食堂、いや、レストランで取る事になっていた。

 兄と共に例の昇降機で一階まで降り、ロビーを横切って香りの漂ってくる方へと向かう。

 例によってレストランの入り口にはスーツ姿の女性が立っており、こちらを見つけるとすぐに席へと案内された。

 一流店かと見まごうような内装と調度品にはもう驚く事は無かったが、周囲を見回して少し驚いた。

 店内の各所にはさりげなく什器や調度品、絵の描かれた衝立が置かれており、他の席の様子が殆ど伺えないようになっているのだ。

 席が区切られているという感覚はまるで無く、個室のような圧迫感も全く無い。まるで、広い店内を自分たちのみで専有しているような錯覚にさえ陥る。

「王都の高級店とはこういうものなのですね……」

 随所に見られる細かい気配りが、驚くほど繊細かつ計算し尽くされた物なのだ。ここまでやるのか、という具合である。

 あまり挙動不審にだけはならないように気をつけて見回していると、すぐに給仕の男性がやってきた。

「メディソン様、本日はご来店ありがとうございます。ご注文頂いておりますコース、現在用意しておりますのでもう少々お待ち下さいませ。お飲み物は何にいたしましょうか?」

「そうだな、今日のメイン料理に合う葡萄酒を見繕ってくれ。こちらには柑橘果汁のソーダ割りで」

「かしこまりました。只今お持ちいたします」

 静かに礼をすると男性は去っていった。

「トリシア、部屋の風呂はどうだった」

 男性が去ると、兄が話を振ってきた。

「何というか、あの環境に慣れるとダメな人間になってしまいそうです」

「そうか、父上と一緒にディアナを連れて来た時には、帰る時にあいつは、ここに住むと言って駄々をこねた程だからな」

 その様子が目に浮かんで思わず微笑む。

「至れり尽くせりですからね。気持ちはわかります」

「お前が物分かりの良い子で助かったよ。帰り際に泣かれてはたまらんからな」

 お互いに小さな声で笑い声を漏らす。ディアンナが学院以外で初めて王都を訪れたのがいつなのかは分からないが、少なくとも今のトリシアンナよりは年上だろう。

 末の妹が落ち着いていると知っていても、兄は心の片隅で心配していたのかもしれない。

 先程の給仕が盆に飲み物を乗せてやってきた。

「ノルドヴェスト地方、シャトーフルグランスの7年ものでございます」

 兄の目の前に置かれるグラス。給仕は深い緑色をしたガラスの瓶に張られたエチケットを見せ、目の前で栓を抜いてゆっくりとそこへ中身を注ぐ。甘く華やかな香りがトリシアンナの方にまで漂ってきた。

 続いて給仕はトリシアンナの前のグラスに、こちらは透明な瓶から鮮やかな橙色を注ぐ。シュワシュワと細かい泡が立ち、収まるまで待ってから二度に分けて注いだ。

「ごゆっくりどうぞ。間もなく前菜をお持ちします」

「ありがとう」

 兄が礼を言ってからグラスを掲げた。

「トリシアンナ・デル・メディソンの国王陛下謁見を記念して」

 トリシアンナも微笑み、グラスを掲げ、そのまま口に運んだ。

 舌の上を刺激しながら、炭酸と甘酸っぱい果汁が喉の奥へと滑り落ちていく。小さく刺す様な久々の感覚に、思わず頬も緩む。ふと、兄がこちらをじっと見ているのに気がついた。

「?どうしました、お兄様」

「いや、驚かないのだなと思って」

 何の事だろうか。高級店の食前酒など今更驚く事でもなかろうし、別に珍しいものを飲んでいるわけでも――

「ああ、ソーダの事ですか。ええ、美味しいですよ」

 なるほど、確かにこちらの世界で炭酸飲料を口にすることは無かった。

 以前の世界では、艦船にラムネを製造する設備が設置されていたこともあって、頻繁というわけではないのだが、何度も口にしたことがあったのだ。

「そうか、うむ。ディアナがそれを初めて口にした時はなどは、随分と驚いて気持ち悪がったものだが。流石だな」

「あはは……でもお兄様、エールやラガーだって発泡しているでしょう?今更ではありませんか」

「それはそうだが……いや、それは酒ではないか。ん?そういえばお前、確かラディと一緒に酒場へ行ったと言っていたな。まさか、飲まされてはいないだろうな」

 危うく次兄に濡れ衣が着せられそうになったので慌てて否定する。

「まさか。ただ、どんなものかを想像することはいくらでも可能ですよ。ディアナお姉様は事前知識が無いままに口にしたのでしょう」

 なるほどな、と兄は一応納得した。嘘をつくときは、絶対に慌てない事が最も重要な事である。誤魔化し方も随分と堂に入ってきたものだと我ながら少し呆れた。

 実際の所、以前の世界ではどのような方法で炭酸飲料を作っているかなど考えたこともなかった。

 単純に二酸化炭素をものすごく圧縮して水に溶かしているのだろうな、と曖昧に考えていただけだ。

 こちらの世界では、ソーダも例によって魔術を利用して製造している。

 火炎系魔術の残滓からこちらで言う消気、所謂二酸化炭素が発見され、それを集めて極低温で高圧圧縮、水と混合することで、エールなどの微生物が発酵分解過程に生じるものと同じ発泡性が得られることに気付いた者がいた。

 言ってみれば力技である。得られる量に対して消費する魔力が多すぎるし、水撃、風圧、熱操作と多くの過程が必要になる。そのため、ただの炭酸水のくせにやたらと値が張るのだ。

 もう少し化学が発達すれば色んな物から効率よく発生させられるのだが、錬金術という過程を産まなかったこの世界では、どうにもそちら方面の伸びが悪いようだ。

 とはいえ、トリシアンナもどこにどんな物質が含まれているのか、それを抽出するにはどうすれば良いのかという知識はまるで無い。

 完成品は知っていても、それを作る過程を知らないというのは実にもどかしいものだ。

 それ故に、ソーダを初めて口にしても驚きこそしないが、効率よく製造する方法を教える、などという都合の良い事は全くできないのである。

 トリシアンナは今も昔も、ただの消費者であって生産者ではないのだ。

 ディアンナがどの様な反応をしたかという事を面白おかしく話のネタにしているうちに、盆の上に皿を載せた給仕がやってきた。

「4種の野菜を使った前菜でございます。左手前からマリネ、右がボイル、左の奥がチーズと和えたもの、右奥がフライとなっております。ソースはそれぞれに合わせてホワイト、ブラウン、チーズソースとなっており、フライはお好みで塩やペッパーを振ってお召し上がり下さい」

 説明が長くて相槌を打つ事ができない。特に反応できないでいるうちに、給仕はさっと下がってしまった。まぁ、反応を期待しているわけでもないだろうし、されても困るだけだろう。

 真っ白な磁器の皿の上に、色とりどりのカラフルな野菜が小さく纏められている。何がどの野菜かというのは分かりづらいが、段々と考えるのが面倒になってきたので手前から少しずつ上品な仕草とスピードで口に運ぶ。

 美味いのは美味い。非常に美味いのだが……ペースが遅すぎて食べている気がしない。

 食べる側からお腹が減っていく。トリシアンナは食べざかりなのだ。

「部屋に戻った後で何か持ってこさせるから、ここは我慢するんだな」

 普段の食べっぷりを知っている兄が面白そうに言う。こうなると分かっていたのだろう。

「我慢しますよ。味は素晴らしいですからね」

「料理長にも言っておいてやろう。妹が大変褒めていたとな」

「お兄様はそんなに意地悪だったでしょうか?」

 愉快そうに笑う兄に、少しだけ腹を立てる。別に本気で怒っているわけではないが、多少の意趣返しぐらいはしておきたいものだ。

「すまんすまん。お前の食べる姿が可愛らしくて、ついな」

 空に近くなったグラスを持ち上げると、さっと給仕が寄ってきた。

「お褒めに与り光栄ですわ」

 寄ったついでとばかりに、トリシアンナのグラスにも炭酸割りを注いで下がる給仕。

 小さな瓶はそれで空になった。

 その後も順に料理が運ばれて来たが、スープ、メイン2つにデザートと、どれも見事な器に美しい盛り付けで、そしてささやかな量で提供されたのだった。

「こう見ると、お前もやっぱり姉妹で似ているなと思うぞ……ん?おお、済まない」

 何度目かやってきた給仕がグラスに継ぎ足すと、兄の飲んでいた酒瓶が空になった。

「他に何かお召し上がりになりますか?」

 料理店では単価の高い酒を可能な限り売っておくに越したことがない。

「そうだな、何か軽いものを。柑橘のリキュールを貰えるか、そちらにも」

「?かしこまりました」

 給仕が下がっていく。

 トリシアンナは柑橘のシャーベットを少しずつ崩しながら口に運びつつ、考え事をしていた。

 腹は意外にもそれなりに膨れた。ゆっくり食べた事で身体が満足したのだろう。とはいえ、感覚的にはまだ6分目ぐらいなのだ。

 兄は部屋に戻ったら何か持ってこさせると言っていたが、作るのは恐らくここの厨房だろう。味に全く不安はない。寧ろ、楽しみですらある。

 問題は何を頼むかだが、こういった所で所謂ルームサーヴィスというやつを頼むなら、どれが無難、且つ量の多いものなのだろうか。

 やはりスタンダードにサンドウィッチのようなものが良いだろうか、こちらではパンの○○挟み、みたいな全く何の捻りもない料理名で、そもそも庶民の昼食だとかそういうイメージなのだ。こういった高級店で作らせるのはどうなのだろうか。

 考えながら運ばれてきた柑橘の果汁を飲む。甘くて美味しい。そうだ、今食べているデザートのように、甘い物であれば腹にたまるかもしれない。女性にも人気だろうし、淑女が夜中に口にするものとしては妥当な線だろう。そう、なにか甘い、酒精のような香りが

(んん?)

 炭酸の刺激は無かった。するすると喉に入った。甘酸っぱい柑橘の香りもする。

「あの、お兄様、これって」

 飲み干してしまったグラスを兄に見せる。

「なんだ、もう一杯欲しいのか?済まない!同じものを」

 いや、そうではなくて、と言おうとしてやめた。

 別に子供が酒を飲んではならないという”法律は”ここには無い。

 単純に子供に飲ませるのはあまり良いことではないし、大人は当然のことながら飲ませたがらない。生物学的なアルコール代謝の問題はさておき、単なる倫理観の問題なのである。

 無論、平時であれば兄は絶対にトリシアンナに酒など飲ませないだろう。それにしても何故急に、と、兄の方を見た。

 何も変わっていない。この兄は、大きく顔色を変えるという事が殆ど無いのだ。

 内心と裏腹に笑顔や怒り、渋面を作ったりもするが、基本的に冷静沈着、今まで選択を間違えたことなどあるのだろうかという程に、恐ろしく慎重な男なのである。

 今も特別酔っ払っているだとか、そういったことはない。感情の色も正常だ。いつもの通り、自分に対する桃色の優しい愛情を感じる。

 つまりこれは、飲んでも問題ないということだ、と、トリシアンナは判断した。

「ん?どうした?」

「いいえ、なんでもありません」

 実のところ、前の世界でも若い頃から酒は飲んでいた。安い醸造酒であれども、不安をかき消して眠るための薬としては優秀だ。昔は味なんて全く気にしていなかったが、先程飲んだものはとても甘く、美味しかった。

 戸惑いながらリキュールを持ってくる給仕に、ありがとうございます、お気になさらずと声をかけると、安心したような顔を見せて下がっていった。

 この酒は手元にまだ半分ほど残っている柑橘のシャーベットにも実に良く合う。

 シャーベットはそこまで甘くなく、冷たく凍らされた柑橘の酸味が、メインの脂で疲れた口の中を冷やしてくれる。そこへ僅かな酒精を含んだ同じ果汁を流し込むと、甘さがより際立ち、心地良い酩酊感を齎してくれる。

(……酩酊感?)

 流石にあまり酔ってはまずいだろう。明日は昼頃とは言え国王陛下に謁見せねばならないのだ。

「お兄様、そろそろ」

 最後の一匙と一滴を胃の中へ落とし込み、兄に声をかける。

「む?そうだな、では、戻るとしよう」

 兄は立ち上がるとこちらに手を伸ばし、トリシアンナの小さな手を掴むと、しっかりとした足取りで店の出口へと向かった。

 トリシアンナ自身も、多少は気持ちよくなっているもののふらつくでも無く一緒に歩いていける。店を出る時に、入る時に案内してくれた女性の声に送られた。

「ありがとうございました。おやすみなさいませ」


 再び昇降機に乗って部屋に戻るなり、兄は何も言わずにさっさと浴室へと入っていった。

 幼い妹に酒を飲ませた挙げ句に何も言わずに風呂に入るとは、どういう了見であろうか。

 トリシアンナは追いかけて一緒に入ってやろうかと思ったが、流石にそれはまずかろうと思い直す。いくら兄妹だとはいえ、小さな妹に自分の一物をまじまじと見られては気持ちの良いものではないだろう。

 食事をする前は共同浴場に行こうと思っていたのだが、酒精のせいか少し面倒になってきた。

 トリシアンナは早々に夜着へと着替えると、洗面所で歯を磨いてすぐにベッドへと潜り込んだ。

 シーツはパリッとしていて肌触りが良く、部屋も温水暖房が効いているせいか、全く寒さを感じない。余りの心地よさに、トリシアンナはまたたく間に夢の世界へと入り込んでいった。


 翌朝、シーツの中で目を覚ましたトリシアンナは、上半身裸で眠っている兄の腕の中にいた。

 一瞬記憶が混乱するが、徐々に昨夜のことを思い出すうちに、そうか、と思い至った。

 洗面所は入って左側にある。そこから近い部屋のベッドに潜り込んで、すぐに眠ってしまったのだ。

 そこは兄が寝ると言っていた寝室である。兄が隣で寝ているのもそういう事だろう。

 この部屋に入った時も冗談を飛ばしていたし、妹が自分のベッドで寝ていても、兄は風呂から出た後、気にせずそのまま一緒に眠ったのだろうと推測できる。

 折角広いベッドがあるのだからそちらを使えばいいだろうとは思うものの、兄の寝室に潜り込んでしまったのは自分である。ならば、それをして兄にどうこう言うのは筋違いだ。

 時間はまだ早い事でもあるし、謁見は午後からだ。今少し惰眠を貪っても誰も文句は言うまい。そう自分を納得させると、逞しい兄の胸に顔を埋めて、再び寝息を立て始めた。


 暫くして。今度はアンドアインが目を覚ました。

(……飲みすぎたか?いや、たかが葡萄酒一本、そんな事は無いか)

 大きく伸びをして起き上がろうとして、自分にしがみついているものを見つけて動揺する。

「と、トリシア?まさか本当に潜り込んで来たのか?」

 自分の腰あたりに両腕を絡ませて、小さな妹は寝息を立てている。

 眠っている間に妹が潜り込んできた気配は感じなかった。いくら酔っていたとはいえ、自分の寝床に入られて気づかないほどに無警戒ではないのだ。

(……まさかとは思うが、私自ら連れ込んだのではあるまいな)

 記憶が無いのだ。妹と食事をし、部屋に戻ってきたのは朧げながら覚えている。その後、普段の行動であればルーティン通りに風呂に入り……そういえば、妹は共同浴場に行くと言っていたが、自分が入浴中に行ってきたのだろうか。

 いや、今はそれはどうでも良い事なのである。問題は何故か狭い方のベッドに、兄妹仲良く抱き合って眠っていたという事なのだ。

 年の差があるからこそ、妹の事を大切に思い、気を使って愛情も注いできた自負はある。

 それは家族愛であり、それが別の形に変化するなどあり得ない。というか、6歳の子にそんな感情を抱けるはずがないのだ。

「んあ、お兄様……おはようございます」

 妹が目を覚ました。

「と、トリシア、私のベッドに潜り込んで来たのか?」

「潜り込んで?何を言っているのですかお兄様、寝る時から一緒だったではありませんか」

 寝ぼけ眼でとんでもない事を口にする妹。

 つまり、自分は最初から妹と同じベッドに入ったという事か?

「まだ時間はありますよぅ。もう少し寝ませんか?」

 いつもの妹からは考えられないような甘い声で囁く。まさかとは思うが……。

 アンドアインはシーツをめくって自分の下半身を確認する。下着も見たが、その痕跡は無い。当たり前のことだ、と安心して、ほっと胸をなでおろした。

 急に動いた兄に不満を持ったのか、妹も起き上がって来た。

「急がなくとも、謁見は午後からではないですか。迎えの馬車が来るからゆっくりしていようと仰ったのはお兄様でしょう?」

 トリシアンナが兄の顔を見て、そのあと、めくられたシーツの方、つまりアンドアインの下半身の方へと目をやった。

 生理反応でズボンを押し上げ屹立するそれを見て、妹は気まずそうな顔をしてもう一度兄の顔を見た。

「違うぞ、トリシア、これはだな、男はみんな」

「知っていますよ。朝の生理現象でしょう?……あの、すみません」

「いや、いい。知っているのなら、いいんだ」

 アンドアインはそそくさとベッドから降り、用を足すために便所へと駆け込んだのだった。


「本当に覚えていらっしゃらないのですか?」

 ドレッサーの前で髪を梳かしながら、トリシアンナは後ろで着替えている兄に言う。

「お酒もお料理も普通に召し上がって、最後には私にも呑ませたではありませんか」

 兄自らが注文したのだ。飲んでいる時も止めるでもなく、どちらかと言えば上機嫌で話もしていた。話の内容は一貫して筋も通っていたし、酩酊している様子など微塵も感じられなかった。

「何?私がお前に酒を?馬鹿な、そんな事をするはずが……いや、まてよ」

 兄は考え込んでいる。嘘をついていないのはトリシアンナにはすぐに分かることなので、疑っているわけではないのだ。ただ、あの状態で酔っていた、という事が俄には信じがたい事だったのである。

「お兄様ったら、部屋に戻るなり何も言わずにお風呂に向かわれて……そりゃあ、私が寝室を間違えたのが悪いのですけれども」

 なんだか普通の男女の会話みたいで少しおかしな感じがする。言い方の問題だろうか。

「私が眠っているところにやってきて、荒々しくシーツを剥ぐと抱きしめてきたではありませんか。それを忘れたなどと」

 おかしい、そういう意味で言っているわけではないのに、何故かおかしく聞こえる。

「すまん、もう一度聞こう。その言い方は他人が聞けば完全に勘違いされる言い回しなのだが……本当に何も無かったのだな?」

「あるわけがないでしょう!兄妹で!しかも私は6歳ですよ!」

 感情の動きが見えるのだ。兄は酔って、寝床に入ったら愛する妹がいたので、本能に従って抱きしめて眠ってしまった。ただそれだけの事である。

「わかった。すまなかったな、トリシア。うーむ、しかし、普段なら葡萄酒一本で記憶が無くなることなど無いはずなのだが」

「シャトーフルグランスの7年ものと給仕の方が仰っていたでしょう。確か、あれは特別な醸造法を用いて糖度の高い葡萄を使うので、酒精が濃くなる傾向にあるはずですよ」

「そ、そうなのか。良く知っているな。私はいつも勧められたものを飲んでいるだけなのだ」

 一応はというか誰がどう見ても貴族なのに、嗜好品に疎いのは少し問題かもしれない。

「その辺りはもう少し勉強なさったほうがいいかもしれませんね、今までは調子を合わせてこられたかもしれませんが、王都の貴族の方々はお酒にうるさい方も多いようなので」

 何が好きか、と問われただけで化けの皮が剥がれてしまう。今までは若かったために聞かれもしなかったのだろうが、いずれは必要な知識になってくるだろう。

「それにしても、トリシアは平気なのか?その若さで、二杯も呑んだのだろう」

 言われてみればそうである。

「私も寝る前には少し酩酊感がありましたけれど、今はなんともないですね」

 起床時に多少の混乱はあったものの逆行性の健忘も無いし、アルコールは綺麗に分解代謝されてしまったらしい。無論、続けて呑んでも良いという事では絶対に無い。

「そうか……なら良いが、いや、良くないな。済まなかった。恐らくは私の注文の不手際でお前にも出されてしまったのだろう。気づかなくて悪かった」

 平謝りになる兄に、思わず笑いかける。

「もう、気になさらないで下さい。ただ、私の前にお酒が出されているのに、あまりにも平然とされていたものですから、てっきり飲んでも良いものだと思い込んでしまったのです。まぁ、今考えれば、お兄様がそんな事を許すはずがないなとは思うのですが」

 酔っているかどうか分からないのも厄介なものだ。話も通じる、顔にも動作にも兆候が出ないとなれば、誰だって気付くわけがないだろう。

 トリシアンナの場合はそれに加えて、感情を視ることでも判断できるのに、そちらにも全く異常が無かったのだ。気付けと言うのが無理な話だろう。

「それよりも、お兄様。お腹が空きました。昨日は部屋に戻ったら何か頼んでくれるという話だったのに、結局寝てしまったのですから」

「そうだな、では、行くとするか」

 偉い人に会う前には、腹を満たす必要がある。腹が減っては戦も出来ぬし礼節も忘れるのだ。


 朝食は一律4シルバで、所謂ブッフェ形式である。

 好きな料理を好きなだけ皿に持って来て、いくらでも食べて良いのだ。

 一般的な宿屋で、こういった形式で料理を提供することは、まずあり得ない。

 客層が安定しないところでは間違いなく食われるだけ食われてしまうだろうし、そもそも沢山作って提供するという事は、廃棄の可能性を大きくしてしまう事となり、無駄も多い。

 しかし、客が概ね富裕層であり、礼儀を弁えた者しかいないとなれば、これは必要となる給仕の数を減らし、また客の満足度も上げられるという実に優れたシステムであると言える。

 トリシアンナもこのありがたい形式の恩恵に与り、様々な料理を、意地汚く無い程度に精一杯満喫したのであった。

「満たされました」

 都合3回は席と料理の間を往復し、昨夜の遅れを取り返す量を腹に入れたトリシアンナは、部屋に戻って兄の淹れた紅茶の香りを嗅ぎながら、ソファに深く腰掛けていた。

「そうか、良かったな……ドレス、着られるか?」

「迎えが来るまであと4時間ほどもあるでしょう?大丈夫です、大丈夫」

 ぽっこりと膨れたおなかをかかえて、トリシアンナは満足げに紅茶を口に含む。

 品の良い茶葉の香りに混じって、僅かに柑橘の皮の香りがする。

 この世界の人達は柑橘が大好きだ。サンコスタの西にある農園でも、沢山の柑橘の木が植えられている。

 そのまま皮を剥いて食べても良いし、お菓子にも、料理の具材にも、ソースにもする。この紅茶のように、お茶に入れることだって多いし、すりおろして薬の代わりに使ったりもする。酒にも柑橘の果汁や果肉、皮を使ったものは沢山ある。

 反面、リンゴやナシといった果物はこちらではあまり見ない。

 森の中に成っているのを何度か見たことはあるが、実は小さく、あまり甘くない。

 以前の世界にあったのは品種改良の結果ああなったのだろうが、それにしても柑橘以外の果実が少なすぎる気はする。

 南方諸島にはバナナ、東方諸島には桃に似た果物や、ライチィのようなものもあるにはあるが、日持ちしないため、大陸へと持ち込まれるのは大抵乾燥させたものばかりだ。

 椰子だけはいくらか輸入されているが、これは果物として使うよりも、中の果汁や料理の具材、ソースとして使われることの方が多い。

 もっと他の果実も食べてみたいなあと思うものの、魔物の闊歩する森の中へと分け入って果実と種を持ち帰り、何世代もかけて甘い物を選別して品種改良して、となると、流石に自分一代では無理も良いところだろう。

 これも、結果としてこういうものがある、という知識があっても、それを作り出すための技術がない、という典型的な例であるだろう。地道にやってきた先人はとても偉いのだ。

 くちくなった腹をさすりながら、そういえば食べるだけ食べて運動していないなと思いあたった。

 ダイアーウルフの件以降、旅は平穏そのものであり、道中の宿泊施設に泊まった時に朝の鍛錬で多少は剣を振ったものの、基本的に移動中は馬車のなかでじっとしていただけだ。

 ここに来てからはそれすらしていない。当たり前だ。

 剣など振り回して良い場所など無いし、宿内で着ている服は運動には適さないものしかない。今日だって、王城に出向くのには馬車の送迎付きである。動く暇などまるでない。

 太るかもしれない。

 自慢ではないが、トリシアンナは同年代の子供に比べて鍛えられている方だと思っている。

 毎日そこそこの距離を走り、子供には重すぎる剣を振り回し、裏山を駆け回っては魔術を使い、魔物を狩る。そんな日々をこの数ヶ月間休まず行ってきたのだ。

 それが、今やこれである。たったの数日で。

 美しい服の下で丸く膨らんだ自分のお腹が、なんだか怠け者の象徴のように見えてきて仕方がない。

 食べるのは仕方がない。美味しいものをお腹いっぱい食べられるのは幸せなことである。

 しかし、動く必要がないから動かない、というのはいかがなものだろうか。

 醜く肥えた貴族令嬢?となった自分の姿を想像し、ぞっとした。

「お兄様、腹ごなしに少し運動したいのですが」

「……何?今か?」

 本を読んでいた兄は驚いてこちらを見た。

「その、ずっと動いていませんでしたし、身体が鈍ってしまうような気がして」

 その言葉に兄は呆れて言った。

「なんだ、ラディみたいな事を言い出すな。あいつも今のお前と全く同じ事を言っていたぞ。心配するな。僅か数日、動かなかったところですぐにどうこうなったりはしないぞ」

「それは、そうなのですが」

 理屈はわかる、理屈はわかるのだ。

 子供には高い基礎代謝というものがあり、食べなければ成長できない、故に食べる。

 数日間運動を怠けた所で、栄養の大半は身体の成長に使われてしまうのだ。

 しかし、それでも気になるのが乙女心という奴なのかもしれない。いや、そうなのだろう。

「そんなに気になるなら寝室の方で筋力鍛錬でもしたらどうだ。ラディはそうしていたぞ」

 発想が脳筋の兄と同じというのは気になるが、動こうと思えば確かにそれしか無いのかもしれない。

 走る場所も剣を振る場所もないのなら、狭い場所でもできる鍛錬しかないだろう。

 背や胸が成長しなくなる懸念は未だつきまとうが、何もしないよりはマシである。そう判断して、トリシアンナはいそいそと兄の寝室へと入り込んだ。


 半ば冗談で言ったのだが、妹は本当に筋力鍛錬をしている。

 子供のうちは多少食べ過ぎたところでどうという事は無いのに、他の妹たちの影響だろうか。あるいは、脳筋の弟の影響もあるか。

 何にしても自分の寝室からか細く「んっ、んっ」とか「ふぅっふぅっ」とか、変な息使いが聞こえてくるのはあまり気持ちの良いものでは無い。

 少し声を抑えてくれるよう声をかけようかとも思ったが、こちらから提案した事なのでそれも言い辛い。

 先程から読んでいる小説の内容がまるで頭に入ってこない。物語は佳境に達し、これからが面白いところだというのに。

 アンドアインは諦めて本を閉じると、ぬるくなった紅茶に手を伸ばした。

 温度のせいで香りは少し飛んでしまっているが、柔らかで芳醇なふくらみの中に柑橘の爽やかな芳香が交じる。

 アンドアインは南方から入ってくる珈琲よりも、紅茶の方をより好んで飲んでいる。

 頻繁に王都での滞在期間があるという理由もあるが、香りは兎も角として、珈琲のあの苦味があまり好きではないのだ。

 ミルクを入れればマシにはなるが、それも味が濁る気がして好きになれない。

 紅茶に砂糖やジャム、酒なんかを入れる人もいるが、自分は何も混ぜない、茶葉と一部の添加品だけの、すっきりとした飲み口が好きなのである。

 年に4度訪れるこの宿は、季節によって様々な茶葉を部屋に用意してくれる。アンドアインは密かにこの茶を嗜むことを楽しみにしているのだ。

「はぁっ、はぁっ、お、お兄様、お、終わりました」

 茶葉の産地について考えを巡らせていた所、妹が荒い呼吸を弾ませながら寝室から出てきた。

 額には玉の汗が光り、前髪が張り付いている。折角の真っ白なドレスも肩口の辺りまでずり落ちて、そこから白い肌が露わになってしまっている。

「そうか、また、随分と激しい鍛錬をしていたようだな」

 時間にして30分程だろうか。そう長い時間ではないが、この汗の掻きようはどうしたことだろうか。

「以前ラディお兄様に教わったのを実践していたのですが、これはきついです。ただしゃがんで立ち上がるだけだとか、腕で身体を支えてじっとしているだけなのに……」

「子供のうちからあまりきつい鍛錬をすると、背が伸びなくなるぞ。まぁ、女の子は小さい方が可愛いと言う者も多いが」

「ラディお兄様にも言われました。ですが、身長は兎も角として……」

 妹は言い淀んでいるが、敢えてそれ以上聞くことはしない。

 子供に見えて、この妹は随分と精神的な年齢が高い。きちんと淑女扱いしてやらないと気を悪くする事もあるのだ。

「まずは汗を流して着替えたらどうだ。ついでに謁見に着ていくものに換えれば良いだろう」

 あと3時間近くも時間があるが、運動を終えたというのならこれ以上服を汚す事もないだろう。

「はあ、やっぱりこの服では、ダメですか?」

「駄目、という事は無いだろうが……宿の中で着ていた服をそのまま城まで着ていくのは、あまり格好の良いものではないぞ。宿の従業員も見ているし、鉢会う可能性は低いにしても他の貴族もここに泊まっているのだ。別の服に着替えるのが無難だろうな」

 妹が着替えを渋る意味が良くわからない。ユニティアの選んでくれたものであれば、間違いなく上質で品の良いものであるだろうし、きっとトリシアンナにもよく似合うだろう。

 下着の件は別にしても、国王陛下に会うというのに失礼のある衣裳を、あの道理をよく弁えたユニティアが選ぶはずがないのだ。

「わかりました。折角なので共同浴場を利用してこようかと思いますが、今は使えますよね」

「ああ、清掃は深夜から明け方にかけて行っているそうだ。昼間はいつでも入れるぞ」

 良かった、と妹はドレッサーの方へと行き、そこでまた何か悩んでいる様子を見せた。

 ドレッサーの前で着るものに悩むとは、また随分と歳の割にませたものだ。

 少し微笑ましく思って窓の外を見た。

 日は随分高くなってきたが、時間的にはまだ朝である。謁見が終わっても夕食にはまだ時間があるだろうし、帰りに妹と一緒に外で昼食を済ませてこよう。なんならそこから一緒に街を見て回っても良い。

 宴は二日後なので、明日はまる一日何も予定が無い。劇場へ足を運ぶのも良いだろう。あるいは、妹は図書館に行ってみたいとも言っていた。

 そんな事を考えていると、妹は着る服を選んだのか、行ってきます、と言って部屋を出ていった。

 一瞬、ついていかなくて大丈夫かとも思ったが、警備のしっかりとしたこの宿で何か起こるはずもないだろう。気をつけてな、とだけ声をかけて、読みかけだった本を開いた。


 トリシアンナは悩んでいた。

 着替えるのは良いのだが、残った新しい服は二着。

 最初にこの白い衣裳を選んだ理由は簡単で、”最も露出の少ない服”だったからである。

 残りの2着のうち、今畳んで手に持っている方は、その次に露出が少ない方である。

 残った赤いドレスを着るには、かなりの抵抗があったのだ。

 そしてもう一つ、この未だ膨らんだお腹である。

 まだ時間があるとは言ったものの、気を抜けばぽこんと出てきてしまいそうになる。流石に食べすぎたかと今更になって後悔している始末だ。

 挙げ句、悩んだ上にコルセットまで持ってきてしまった。膨らんだお腹で今持っている身体の線を出すような服は、とてもではないが格好悪くて着られない。幼女の妊婦かと驚かれてしまうだろう。

 矯正すればどうにかなるだろう。まさか姉がこのような事まで想定してコルセットを入れたとは考えにくいが。いや、あり得る話ではあるか。

 上の姉であるユニティアは、何かと手回しが良いのだ。出かける時には必要なものを予めすべて準備してあり、行く先への連絡も怠らない。

 彼女にとって、不測の事態という言葉は存在しないのではないかと思われる程なのである。

 いずれにせよ、姉の手回しには感謝するしかない。帰ったらお礼をしっかりと言っておくべきだろう。

 昇降機に乗るのは恥ずかしいので、中央の大きな螺旋階段を降りていく。

 この宿には他の地方領主も泊まっているはずなのだが、不思議なことに全くと言って良い程出くわさない。薄気味悪いと感じることもあるが、服と下着、コルセットを持ち歩いている今はそれが有り難かった。

 一階のレストランとは反対側に、共同浴場は設置されていた。

 男女に分かれた脱衣所の、当然女性用へと入る。以前の世界では自分ぐらいの歳の子は、親と一緒に男湯に入ってくる事も多かったが、流石に今の自分にはその勇気はない。

 遅い朝という時間のせいか、広々とした脱衣所には誰もいなかった。

 聞こえるのは魔術装置で動く扇風機が延々と首を振る音だけ。

 鍵のついていないロッカーを開けて、上の棚に持ってきた服とコルセットを。その場で脱いだ服と下着を下の棚に置く。

 身体を拭く為の布は浴室に入る扉付近に積んであるため、手ぶらで利用できるのは非常に楽でありがたい。

 ただ、他のエントランスロビーやレストランといった施設には必ず人が立っていたのに、ここには従業員の姿は見えない。身体を見られるのを嫌う人への配慮だろうか。のぼせて溺れても今の時間では誰も気がついてくれないだろうし、その点には十分注意する必要があるだろう。

 浴場の扉を開いて、トリシアンナは驚愕した。

 圧倒的に広い。

 家の風呂も十分に広いのだが、サイズが何もかも違いすぎる。

 前の世界で通ったことのある公衆浴場の、三倍近い広さがあるだろうか。

 全て磨かれた石で作られた床、壁、天井、浴槽。壁面にはタイルで作られた前衛的な壁画が施されており、それを天井から煌々と魔力光が照らしている。

 壁際にずらりと並んだ蛇口とシャワーは部屋にあったものと同じだが、それぞれに高価な白檀製の椅子と桶が設置してある。

 そのまま壁際に視線を動かすと、個人用のシャワールームやサウナらしきガラスの扉。

 浴槽はと眺めると、巨大な中央の浴槽には、そのまたど真ん中に女神像のオブジェが設置されており、女神の持つ壺からかけ流しのように湯が溢れ出てきている。

 隣に目をやれば、花の薫りを放つ浴槽、薄く緑色に濁る薬湯らしきもの、滝のように上から湯が打ち付けてくるもの。サウナの近くには湯気の出ていない水風呂も設置されているようだ。

(宿泊客数に比べて、これ、ものすごく無駄じゃないでしょうか)

 ゆうに5、60人は同時に利用できそうな施設である。今の時期の部屋の稼働率がどの程度なのかは分からないが、全て合わせても40人はいないだろう。

 ここまでやるか、という感想しか出てこない。

 しかしながら、そんな事を考える必要があるのは、この宿の経営者の仕事である。

 トリシアンナは開き直って、この広い浴場を独り占めできる快感に酔いしれるのであった。

 一通り全ての浴槽を堪能し、じっくりと身体と心を癒やしたトリシアンナは、脱衣所へと戻ってきた。

 流石にサウナは危ないだろうと利用しなかったが、花湯と薬湯のおかげか身体がぽかぽかと火照って気持ち良い。

 身体を布で拭き終わってもしっとりと濡れた感じがしていて、それでいて幼い肌はよりすべすべとした触感になっている。許されるのであれば毎日入りたいぐらいだ。

 しかし、自分にはこの後困難が待ち受けているのだ。風呂ぐらいで浮かれていてはいけない。

 そうやって自らを戒めると、その試練に立ち向かうべくロッカーを開いたのであった。


「ほう、良いではないか。少し背伸びをしているようにも見えるが、なるほど、良く似合っている。」

 部屋に変えるなり、アンドアインにそう言われるトリシアンナ。

 次に選んだ衣裳は、シックな紫色のドレスだった。

 身体にぴったりと張り付くような上半身には袖が無く、細い紐状のもので胸元から下を吊っているような形状をしている。

 身体の線を強調するラインは尻から足、膝まで続き、そこから先は右端にスリットの入った、ゆるく広がるスカート状になっている。

 スカート部分には金属のような薄い板がいくつも貼り付けられていて、歩いてスカートが揺れる度にこれまた光を反射して眩しく輝く。

 歩く度にスカートが髪と同時に揺れるのが気持ち悪かったので、髪は網付きのバレッタで後頭部に纏めてある。

 鏡に映る自分が、まるで箒にでもなったかのようなその形状に、トリシアンナは戸惑いを隠せない。

「これ、袖がないんですけど……肩から腋が丸見えで変じゃないですか?こんな時期にこんな格好で外に出たら、流石に寒そうです」

 少なくとも冬場に着るような服ではないだろう、とは思うのだが。

「そんなものだろう。王城までは、お前の防寒着を羽織っていけば良い。貴族の御婦人方も皆、そうしている」

「あのルナティックヘアの毛皮をですか?」

「あれで十分すぎる。高級店の毛皮と見た目は遜色無いだろう」

 自分で作った物にそこまで言われれば悪い気はしない。トリシアンナは少し気分を良くして、籐製の椅子に腰掛けた。少しお腹が苦しい。

「しかし、見事に腹は引っ込んだな。子供の消化とは実に早いものだ」

 感心したように兄が言う。気付いていないのだ。

「それに……うん?お前、そんなに」

 兄の視線が胸元に注がれる。

「コルセットですよ、お兄様。流石にこの服を着るのにあの状態では少し。あと、胸が膨らんで見えるのは上げ底です」

「そ、そうか。不躾ですまん」

「構いませんよ、兄妹じゃないですか」

 流石にそこらを歩いている人にじろじろと見られては気分の良いものではないだろうが、兄にはそういったいやらしい気持ちは一切見られないのだ。気を使いながらも、ちゃんと、妹として見てくれている。

 しかし、上げ底とは言えこの感覚は中々不思議な感じである。

 触ってみると、柔らかい材質で出来ているため、ちょっと触れた程度では本物と見分けがつかないだろう。ただ、6歳の子供でこの大きさというのは……少しアンバランスな気がする。

「うーん、やっぱりちょっと変じゃないですか?私のこの背格好でこの大きさでは」

 大きいというわけではない。少し膨らんでいるな、という程度だ。

 しかし第二次性徴も迎えていないのに、この大きさでは異常で、反則ではないだろうか。

「言われなければ誰も気づかないだろう、気にしなくていい。そもそも、男はそんな大きさの基準など全く知らないからな」

「そういうものですか」

 まぁ良く考えればそうかもしれない。見栄えを良くするための化粧や宝飾品と考えれば納得もできる。

「どうする、まだ少し時間はあるが、紅茶でも飲むか」

 兄の魅力的な提案だったが、少し迷ったが断った。

「今は遠慮しておきます。その、この服、脱ぎにくくて」

「あぁ」

 用を足しづらいのだ。また、謁見を中座するようなことがあっては流石に失礼すぎるであろうし。

 あまりにも動きづらいこの服のせいもあって、そのまま時間まで椅子に座って窓の外を眺めている事にした。


 王城から迎えに来た馬車は、トリシアンナ達が移動に使っている大きなものと違い、4人も座れば満席になってしまうような小さいものだった。

 その分装飾や内装には拘っているようで、外からひと目見ただけで相応の身分の者が乗っているとわかる造りである。

 ドレスのせいで足の上がらないトリシアンナを抱えてアンドアインが乗り込むと、無口な御者は恭しく扉を閉め、王城へとゆっくり馬を歩かせ始める。

「謁見は昼を一時間過ぎた辺りからを予定している。前が詰まっていなければ、着いてすぐだろう。同席するのは政務官、財務官のそれぞれの長だけだ。どちらも王都の貴族なので、失礼の無いように気をつけなさい」

 兄が旅の途中にも何度か聞いた話をもう一度繰り返す。自身の確認の意味合いも含めているのだろう。

「承知しました。王弟殿下や王太子殿下は同席されないのですね」

「そちらは宴の方で顔を合わせることになるだろう。今日は、どちらかといえば事務報告のようなものだ。お前の紹介も含めてな」

 現国王、アルベール・エル・ケミストランドは、4年前に父であるフレデリック前国王に委譲されて今の地位に就いた。

 若干20歳という異例の若さで即位した背景には、病弱であった前王が強く望んだ事に加えて、国王存命の間に兄弟による継承権争いに決着をつけるためであったと言われている。

 実際のところ、聡明で王の長子でもあるアルベールを中心として政治を行うのが正当であるという者と、神輿として弟のサミュエルを担ぎ、臣下を政治主体とする立憲君主のような政治体制を望む者との間で、勢力が二分されていたようだ。

 その分断を憂いた前国王が大鉈を振るう形で、国王アルベールを王弟のサミュエルが支える、という決着の付け方をしたのだ。

 現国王は前王の期待通り、的確でそつのないバランスの取れた執政を行っていて、概ね国民達にも支持されている。そういった意味でも前国王の決断は英断だった、というのが一般的な認識となりつつある。

 臣下である貴族達の権力争いは相変わらずだが、現国王の下でそれが表立って争いに発展する事も無く、今の所安定した国家運営がなされている。

 アルベール王には現在、王妃シモーヌとの間に男児が一人おり、それが現在9歳になるクリストフ王太子である。

 馬車に少し大きな振動が伝わる。どうやら、王城を囲む堀にかかる橋の上に到達したようだ。

 元々この城は、北の山から流れてくるレーヌ川と呼ばれる大河の中洲に建造されたものらしい。

 中洲に城など、大雨による洪水の時や戦で水責めにされては終わりではないかとトリシアンナは考えたのだが、治水工事は建造当初、既に魔術による高度なものが確立されており、川の流れを変える工事や浚渫、分流といった様々な工事をすることで、取水と水運に適した都市形態を作るのが目的だったそうだ。

 実際に今、窓から見える堀はレーヌ川の一部であり、街の中にも川や水路が流れている。

 主たる交通の手段こそ馬に譲ってはいるものの、未だに街中や南西地方への水運は生きており、重要な貨物運搬手段として利用されている。

 王都がこれほど大きくなったのも、こうした取水と水運を意識した当初の計画が正しいものであったという事実を如実に示している。

 城のどこで馬車をおりるのかなと窓の外を眺めていると、なんとそのまま巨大な門を潜り、王城の中へと入っていく。

 薄暗い城内の石畳の上を暫く行くと、前方に広い中庭のようなものがあるのを確認できた。馬車はその中庭に入ってすぐの所で停止し、トリシアンナ達はここで降ろされた。

「広い中庭ですね」

 高い建物に囲まれるような場所にあるというのに、広大な中庭には陽の光が差している。

 最も日の高い時間であるとはいえ、これは周囲の建築物に対して十分な広さが確保できているという事だろう。

「そうだろう。騎士団の競技や、王国主催の催し物などもここで行われる。普段は馬の通り道や城で働く者達の休憩場所だがな」

 見れば、木陰に座り込んでお弁当を食べている侍従らしき人々も見える。憩いの場なのであろう。

「メディソン様、長旅ご苦労様でした。待機場所へご案内いたしますのでこちらへどうぞ」

 背の高い、白い髭の老人が正面の奥から現れ、声をかけてきた。

「道中、大禍ありませんでしたかな」

「うむ、魔物のネームドに襲われたが、撃退した。特に問題はない」

「それはそれは。流石はメディソン家の次期当主殿ですな」

「妹や弟に比べればさほどでもないさ」

「左様でございますか。騎士団長も、随分とラディアス様を買っておりましたからな」

「まぁ、あれは多分別格なんだろうな。ただ、もう少し落ち着いてくれれば良いのだが」

 老人ははっはっはと大きく笑って、こちらを振り向いた。

「トリシアンナ殿ですな、初めまして。政務官のモリスと申します。国王陛下より、領主の方々のご案内を仰せつかっております」

「トリシアンナと申します。登城中、どうぞ宜しくお願いいたしますわ」

 これはこれは、と、老人は目を細めて笑った。

「聞いたとおり、歳の割にしっかりとしておられる。ユニティア殿以来の傑物ですなぁ」

「そうだな。あれもまぁ、別格といえば別格だが」

 モリスと名乗った老人は、兄や姉の事も良く知っているらしい。随分と長くこの仕事をしているようだ。アンドアインも特に気を張らずに話をしているあたり、信頼のおける人物なのだろう。

「どうぞ、こちらでお待ち下さい。順番が参りましたら、またお声がけいたしますので」

「ありがとう。ゆっくりさせてもらう」

 下がるモリス老人を見送って、改めて待たされている部屋の中を見回した。

 階段を2階分上ったので、一応ここは三階という事になるのだろう。あまり日当たりの良くない部屋で、石造りの壁、部屋の隅に置かれた椅子が4脚。

 壁に旗が立てかけてある以外は何もない狭い部屋で、今まで居た宿や馬車の中と比べると、随分と殺風景な場所である。

「先程のモリスさんと仰る方とは、長いのですか?」

 何もないので口に出す話題もそれぐらいしかないのだ。

「そうだな、俺が初めて父上に連れられて来た頃から案内をしてくれているので、もう12年以上の付き合いにはなるか。いつでもあの方だ」

「政務官と仰っておられましたが、こうした案内も政務官のお仕事なのですね」

 普通、政務官といえば国内の貴族達の意見を集約して纏めたり、王や高官からの政策を形として纏め、国内に知らせる、と言った仕事が主だったものである。

「政務官にも色々な仕事があるからな。地方領主を含めた貴族に関連するものは、ほぼ全て政務官の仕事になるのではないかな」

「なるほど、聞くだけでも大変そうです」

 我も見栄も癖も強い上に悪知恵だけは働く者共を相手にしなければならないのだ。心労もいかほどか、推し量れそうなものである。

「城内で困ったことがあったらあの方に聞いてみるといい。便所の場所から落とし物まで、大体の事は請け負ってくれる」

「出来るだけご迷惑をおかけしないよう、気をつけます」

 兄の言った事は、つまりそういう事だろう。

 そのまま黙って、お呼びがかかるのを待った。窓の外には同じ様な建物の壁が見えるだけで、こちらも殺風景極まりない。まぁ、王城というものは突き詰めれば王の為の建物であるので、別段他人を持て成すようにはできていないのだろう。

 椅子に座って、締め付けのきつい胸元を修正しながら、手持ち無沙汰な時間を過ごした。


「お待たせいたしました。順番となりましたので、こちらへどうぞ」

 先程のモリス老が呼びに来た。扉も無い部屋なので、戸口に立って呼びかけるだけだ。

 長い渡り廊下を歩き、階段を登る。まるで迷路のようで、今自分がどこに居るのか見失いそうになる。

 一際広い廊下に出て、恐らくこの先が玉座か、と思ったのだが、モリスは正面には見向きもせず、脇にある部屋の扉をノックした。

「メディソン様が参られました」

「入れ」

 促されて中に入ると先程と大差ない広さの部屋の中に、向かい合わせの長机が二台。

 そのうちの一台に、三人の男が座っていた。

「おお、アンドアイン!よく来てくれたな!長旅で疲れただろう」

 真ん中に座っていた最も若い男が立ち上がって、こちらに近付いてくる。

「アルベール国王陛下、ご配慮賜り光栄です。本日は良き日に……」

 口上を述べる兄を、若き国王は手を振って制止した。

「良い、良い。彼我の仲ではないか。この場にはこの者達しかいないのだ。堅苦しいことは抜きにしよう」

 国王陛下は、随分と兄と仲がよろしいらしい。確かに年齢も近く、二人共聡明で優秀であるという共通点はあるのだが。

「おお、そちらが末妹のトリシアンナ殿だな!なんとも、可愛らしくも美しい子ではないか」

「お初にお目にかかります、国王陛下。ヴィエリオが末子、トリシアンナ・デル・メディソンと申します。ご拝謁を賜り、光栄です」

 スカートはつまめないが、丁寧にカーテシーを行う。実質この国、この大陸のトップなのだ。失礼な態度は絶対に許されない。

「うむ。若いのにしっかりしているな。クリスよりも少し下ぐらいか。明後日の宴では顔を合わせると思うが、仲良くしてやってくれ」

「お心のままに」

 こうして対峙すると、なんとも気さくな王様らしい。両脇に座っている政務長官と財務長官も少し困ったような顔をしている。

「では、国王陛下、そろそろ」

 アンドアインが先を促す。長官達もほっとした様子で頷いた。

「おお、そうだな。面倒なことはさっさと終わらせてしまうとしよう。では、報告を頼む」

 アルベール王はさっさと席に戻り、どっかりと椅子に座り込んだ。

「それではまず、報告書をお渡しします。政務長官殿、財務長官殿も」

 小脇に抱えていた、メディソン家の封蝋が施された三通の封書を渡す。

 三人とも特に印を確認するでもなく、封書を開けて中に入っていた分厚い書類をめくりだした。

「まずは、主要都市サンコスタの、秋から冬にかけてのご報告です。経済は引き続き順調、物価は前年度と比較して僅かに上昇傾向にあります。特に東方諸島からの輸出入が順調であり、前年度と比べましても5分程の伸びを見せております。但し、先月の頭に航路にクラーケンが出没しており、その時点での物流は一時的に落ち込んでおります。ですが、現在は航路も復旧し、このままいけば春にはそちらに示す予測よりも、僅かに上回る税収が見込まれるでしょう。」

 そういえば、ラディアスが夕食の場でそんな事を言っていたような気がする。

 海の魔物はその巨体の上に、水上という環境もあって討伐が非常に難しい。大抵は航路からいなくなるまで待つか、出現すると予測される航路を外して船を運行するしかない。

「産業ですが、まずは農業。サンコスタ西の農業地帯は引き続き拡張しており、生産数も前年比で1割増を超えております。畜産はほぼ変わらず、横ばいの推移を続けております。漁業ですが、こちらも資源保持のため、水揚げ量に変化はありません。但し、物価が徐々に上がりつつある事から、税収の面ではプラス、民の生活には少し何か手段を講じる時期に来ていると思われます」

 サンコスタの街の西を出ると、街道に沿って広大な農地が広がっている。

 北側には主に柑橘などの果実が、南側には穀物や牧草地帯が広がっている。

 塩害を抑えるための防護柵が20年以上前に建設されてから、この農地は毎年拡大を続けており、魔物のいる森を侵食し、切り開いて開墾されている。

 生産物の行き先は主にサンコスタの胃袋ではあるが、王都や近隣の地方にも結構な量が運ばれる。

 漁獲の制限は海洋資源の維持の為、品目と重量による比較的厳しい制限がある。

 海産物は海棲の魔物との取り合いとなるため、過剰に獲ってしまうとあっというまに枯渇してしまうのだ。海の魔物は先の条件から討伐しにくく、こちらで漁獲量を制限するしかないのが実情である。

「次に人口動態ですが、こちらも増加の一途を辿っております。外壁拡張後の居住区間にはまだまだ余裕がありますが、外部からの移民の流入により、一部の地域で治安の悪化が見られます。こちらは都市警備隊の増員と巡回の回数を増やすことで対応可能ですので、今年から1割弱の増員を予定しております。ここまでで何かご質問は?」

「少し良いかね、農産物は増産されているようだが、税収はそれに比例していないようだが、これは?」

 王の左隣に座っている財務長官が手を上げた。

「次の報告に予定していました、エスミオへの人道支援の影響ですね。二年前から始めた貧困層への食料人道支援ですが、こちらも年々増加しており、農地を拡張した理由にはそういった背景もあります。人道支援は国家予算での事業であり、マイナスの税収となりますので」

「なるほど、確かに次の資料にあったね、ありがとう」

 兄は他には、と言ったが、長官二人は特に質問も無いようだった。

「続きまして領内の魔物の動向、それから他領地との取引についてですが――」

 兄の報告は続く。理路整然として要点も纏められており、トリシアンナにも理解しやすい。国王陛下も時折頷きながら、資料に何か書き込みをしつつ黙って話を聞いている。

 この報告を聞いているだけで、今、サンコスタ地方がどのような状況にあるのかが手にとるように分かる。

 街を歩いてみないと分からない空気というものもあるが、厳然たる数字によって明確になる事は実に多い。

 経済が上向きで人口も増加、となれば、あとは治安が良ければ、そこの人々の暮らしぶりは良いだろう、というのは単純であり、明白だ。

 勿論、どれだけ数字上の税収や人口動態が良くても、生活環境が悪かったり貧富の差が激しすぎたり、税が高すぎて民の暮らしぶりが悪い、というのは考えられる事ではあるが。

「――以上の結果から、現在のサンコスタ地方は概ね安定した状況にあると言えるでしょう」

 兄が報告を締め括った。

「うむ、ありがとう、アンドアイン。いつもながら非常に明確で分かりやすかったぞ。統治も順調なようだな」

「お褒めに与り光栄です、陛下。長官の方々も、他に何かございませんか?」

 アンドアインの問いかけに、二人の長官もいや、無い。大変結構な報告だったと称賛を口にした。

「それでは今季の報告は以上とさせて頂きます。ご静聴、誠に感謝申し上げます」

 アンドアインに倣って、トリシアンナも頭を下げる。

「そうそう、大したことではないのですが、陛下。お耳に入れておきたい事が。トリシア、少し外で待っていなさい」

「む、そうか。お前たちは下がって良いぞ」

 トリシアンナは長官達と共に、失礼致しますと言って部屋を出た。

 数分もせずに兄は出てきた。

「待たせたな、行くとしようか」

 外で待っていたモリス政務官に案内されて、再び馬車の待つ中庭まで戻ってきた。

「宴は明後日の午後5時より、王城の広間で行われます。時間になりましたら今日と同じく馬車を向かわせますので、宿にてお待ち下さい」

 案内をしてくれたモリス政務官に感謝の意を述べて、二人は帰りの馬車に乗り込んだ。

「お兄様、お疲れ様です。大変素晴らしいご報告でした」

 トリシアンナは馬車の中で漸くと落ち着き、深呼吸をしている兄を労った。流石の兄も、国王と高官二人の前では緊張していたのだ。

「ああ、ありがとうトリシア。毎度の事ながら、長官達の前では緊張するよ」

「それにしても、私はてっきり報告も謁見も、玉座の間で行うものとばかり思っていたので、驚きました。まさかあんなに狭い部屋に偉い方が三人も」

 普通、国王というのは大きな椅子にふんぞり返ってよきにはからえ、というものではないのだろうか。と、偏見を持っていたのだ。

「王都の有力貴族で、後継候補の子弟の紹介ならばそうだろう。それも成人の儀に合わせて、それ専用の儀式として行う。我々はたかが地方領主の子で、しかもお前は末子だ。事務報告のついでで構わんだろう、というのが双方の共通認識だな」

 家格こそ一応は王城の最高官に任ぜられる貴族と同等、という事にはなっているが、やはり一段低く見られるのは仕方のない事だろう。王家の縁者も軒並み王都の有力貴族だ。しかし、その割には。

「お兄様は国王陛下と随分仲がよろしいのですね。あの様に話しかけられるとは思ってもみませんでした」

 その言葉に、兄は胸元を緩めながら少し微笑んで言った。

「お互い、周囲が年上ばかりの中で苦労してきたからな。私は先王の頃から父上の報告に付き合っていてな。同じぐらいの年頃で宴で毎回顔を合わすものだから、自然とああなった」

 なるほど、国王となる前からの付き合いという事か。

「陛下には弟君もいらっしゃるのでしょう?そちらは?」

 御者台に聞こえないよう、兄は少し声を落として言った。

「王位継承者同士には、人には言えない確執があるんだ。アルベール陛下はああみえて優秀でな、サミュエル殿下はその兄と幼少期から比べられて、相当な苦手意識を持っていたらしい。勿論今はそんな事は無いだろうが」

「それは……なるほど、そうですか」

 王位継承権を持つものが二人いれば、周囲の思惑も絡んで複雑な人間関係にもなるだろう。アルベール国王陛下も、王太子だった頃は案外寂しい思いをしていたのかもしれない。

「それで、お兄様と仲良くなられたのですね」

「そういう事だ。まぁ、お互いの立場上公式な場では中々親しくする事も出来ないが……そうだ、クリストフ殿下はまだ一人っ子だ。お前と歳も近い事だし、宴では話し相手になってさし上げてくれ」

 周りが大人ばかりの環境では、同年代の友人が欲しくなる事もあるだろう。きょうだいすらいないとなれば、余計にそうに違いない。

「はい、精一杯、お相手差し上げようと思います」

 その言葉に、兄は心から嬉しそうに微笑んだ。

「幼いお前に無理を言って済まないが、頼む。そうだ、腹が減っただろう。宿の近くで下ろしてもらって、昼はどこか外で食べる事にしよう」

 嬉しい申し出に思わず大声で頷く。

「はい!あっ……」

「どうした?」

「その、あんまり量は食べられないかもしれないので……」

 自分のスリムに矯正されたお腹を擦りながら言う。

「ああ、なるほどな。まぁいいじゃないか。店で食べきれないのならば、持ち帰りが出来ないか聞いてみよう」

 その手があったかと気付かされたトリシアンナは、再び満面の笑みで頷くのであった。


 宿の近くにあった近隣の住民も利用するようなカフェのテラス席で、二人は燻製肉のパン挟みと、赤身魚の油漬けのパン挟みを頬張っていた。

「いつも思うのですけれど、この長い名前、なんとかならないでしょうか」

「そうだなぁ、注文の際にも不便なのに、どうして固有の名前がつかないんだろうな」

「名前をつけると権利問題が発生するからでしょうか?ウチが最初に名付けたんだ!とか」

「あり得る話だな。だが、それならまた別の名を名乗れば良いのではないか?」

「そうやってどんどん増えていったら、何の料理なのか分からなくなりそうですね」

「あー、そうだな。ウチのこの料理は◯◯ってんだ!△△は隣の店!とかな」

「結局不便になりそうですね。どこか、力のある商会がみんなこう呼べ!みたいに名前を広めるとかでもしないと」

「スパダ商会にやらせてみるか?何か良い名前をトリシアが考えて見れば良い」

「そうですね、考えておきます」

 兄は本来寡黙なので、二人だけでここまで会話が弾むことはあまり無い。やはり、重要な仕事から開放されたという安堵感から気が緩んでいるのかもしれない。

「そうだ、トリシア。明日は丸一日空いているから、劇場でも見に行ってみようか」

「よろしいのですか!?」

 言い出せずにいたが、時間があれば行ってみたいと思っていたのだ。しかし、観劇するにも時間と金はかかるし、自分が付いてきたことで旅の費用も余計にかかっている分、自分からは言い出しにくかったのだ。

「勿論だ、時間が余れば王立図書館にも行ってみよう。王都に住んでいるわけではないから借りる事は出来ないが、中で調べたり読んだりするだけならいくらでもできるぞ」

「お兄様、ありがとうございます!大好きです!」

「気にするな。お前のお陰で役目も無事果たせたし、礼のようなものだ」

 特に自分が何かしたという意識はまるで無いのだが、兄がそう言うのであればそうなのだろう。

 トリシアンナは元気に手元のパンにかぶりついたのだった。


 翌日、トリシアンナはやはり元気に朝から兄を振り回した。

 朝食は流石に腹が出ない程度に抑えたものの、運動ついでに劇場まで歩いて行くと言い出し、出歩ける靴が夜会用と礼装用しか無かったため、足が痛くなって途中から兄におぶってもらった。

 観劇後にはその完全に大人向けの内容を往来の中で学術的見地を交えて兄に語っては辟易させ、図書館で興味のあった分野の専門書を読み耽り、時間だと兄が急かしてもなかなか本を手放さなかった。

 楽しい時間というものは過ぎるのが早いものだ。

 夕食後、再び共同浴場を堪能した後に、部屋に運んでもらった焼き菓子を口にしながらトリシアンナは兄に聞いた。

「お兄様。宴には、王国の貴族の方々もおいでになるのですよね?」

「ああ、そうだが」

 兄が自ら淹れた紅茶をトリシアンナの前に置く。

「その中に、クリストフ殿下に近い年頃の方はいらっしゃらないのですか?」

 貴族といっても年齢は様々だろう。ちょうどそのぐらいの年頃の子弟がいてもおかしくないはずだ。

「夏と冬に催される宴は、あくまでも地方領主を労うためという名目だ。王都の貴族が、わざわざ子弟を連れて来るわけにはいかないだろう。彼らは我々への挨拶が目的だからな」

「なるほど……では、その宴以外で殿下が、同年代の貴族の子弟と交流する機会は?」

 サクサクとした焼き菓子は歯ざわりが良く、齧って口の中に入れると唾液を吸ってほのかに甘い味を舌の上に広げる。兄の淹れてくれた甘くない紅茶はスッキリとしていて、その後味を洗い流し、鼻腔の奥に華やかな香りを残していく。

「あるにはあるだろうが……大体が公式の場だからな。貴族の子弟は全て臣下だから、表立って親しくするのは難しいだろう。あまり近寄りすぎると、子供を利用して王家にすり寄ろうとしているとして、他の貴族の嫉妬を買いかねない」

「宴は違うのですか?」

 王城で催される以上は、一応は公的な場だろう。

「まあ、公的な場ではあるのだが、そもそも地方領主というのは常に王家の側にいるわけではない。多少親しくなっても、それで王都の貴族の地位が揺らぐわけではないからな。正直に言えば、『余程の事』をしない限りは地方領主程度が何をしようが、眼中にない、ということだ」

「ふむ……」

 確かに、地方にいる以上は王都での地位には殆ど絡まない。仲良くなろうが、精々地方からの要望に便宜をはかってくれ、という程度のお願いしか出来ないだろう。

「しかし、ということは、地方領主同士ではそういった確執がある、という事ですね」

「……その通りだ。しかし、地方領主の数自体は王都の貴族に比べて非常に少ない。それに国王への謁見に来る分別のつく年頃となれば、だいたいが14から18程度にはなるだろう。今の王太子殿下とは、少し離れすぎているな」

 特に領主の子弟側が年上であれば気後れもするだろう、と、兄は言った。

 のちに臣下となる相手が年上では、なるほど、あまり親しくは出来ないだろう。今の国王陛下と兄の間も、兄の方が年下だ。

 つまるところ、王族の一人っ子というのは概ね成人するまで、ろくな友人も作れない、という事なのだ。流石に少しかわいそうになってきた。

「まだお会いしたことは無いですが、クリストフ殿下にはできるだけ、優しく接してあげようと思います」

「ああ、そうしてくれ。……」

「?どうしました?」

「いや……可能性を考えていただけだ」

「可能性ですか」

 自分が王太子殿下に優しく接する事で起こる可能性。

「ああ、大丈夫ですよ。流石に地方領主の末子では身分が違いすぎるでしょう」

 その言葉に、兄は大きくため息をついた。

「察しが良すぎるのも問題だな。まぁ分かっているのならば良い。それは、『余程の事』に該当するからな」

 兄はどうにも考えすぎるきらいがある。その慎重さが今の兄を形作っている以上、悪いものではないのだが。

「そういえば、昨日の最後にご報告していらしたのはやはりあの件ですか」

 近況報告を終え、部屋を出る前にアルベール陛下と兄は、二人きりで密談を交わした。自分や周囲に聞かせられない、所謂『耳』を使うべき話の事だろう。

「そうだ。王都で人身売買など、あってはならない事だからな。ただの可能性の話だとはいえ、報告しないわけにはいかない。ただ、確たる証拠もないので”お耳に”入れただけだ」

「不可解な点もですか?」

 わざわざサンコスタで、という話だ。

「それも含めてだ。一応は調べると仰ってはいたが、まぁ、何も出てこないだろうな。王の『耳』は、基本的に外に向いているものだ」

 やはり。

「中にいると」

「推測だ」

 あり得ないものを除外していくと最後に残る可能性。兄もそこへと行き着いていた。

「いずれにしても推測ですよね、それに、もう私達に何か出来ることは無いわけですし」

「その通り。この話はもうおしまいだ」

 兄は紅茶を飲み干すと、歯を磨くために洗面所へと入っていった。

 トリシアンナは焼き菓子を食べ尽くし、紅茶を飲み終えた後もまだ少し考えていた。

 『耳』の調査対象とならないレベルの内側となれば、対象者は極めて限られる。ましてや、それが誰にとって得で、誰にとって不都合なのかを考えると……。

 そこで、考えるのをやめた。想像を巡らせるのは悪いことではないが、それによって産まれる先入観は逆に思考の選択を妨げる。

 どうせもうこれ以上自分には関係のない事だ。ならば、精々王太子殿下と仲良くして、楽しい気分で帰途に付きたい。

 帰る頃にはエストラルゴで療養している冒険者の夫婦も、怪我の具合が良くなっている事だろう。また、楽しくエマヌエーレとおしゃべりをしながら、暖かく明るいあの地方へと帰るのだ。

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