第4話 魔術と策動の始まり

 翌朝、トリシアンナは自室のベッドの中で目を覚ました。

 視界に映るのは見慣れた天蓋。いつもの通り、上体を起こそうとして、身体と同時に自らも悲鳴を上げた。

 人のものとは思えない絶叫に驚いたのか、侍従が一人、血相を変えて室内に飛び込んでくる。

「何事!?いかがされましたかトリシアンナお嬢様!?」

 トリシアンナは、起き上がろうとした姿勢のまま、ベッドから床に転げ落ちていた。

「ふぇ、フェデリカですか……?すみません、身体が痛くて……」

 声から侍従の一人であると判断して、尻を突き出した格好のまま救けを乞う。

「す、少し起き上がるのと……あと、着替えを手伝ってもらえると助かります」

 言いながら徐々に昨日の記憶が蘇ってくる。

 早朝から吐くまで走らされ、大きな街を一日かけてうろつき周り、挙句の果てに最後は重い剣を背負ったまま登り坂を持久走。筋肉疲労の回復過程による激痛は必然である、と。

 いつものレースでフリフリな夜着に着替えているのは、気絶している間に誰かが着替えさせてくれたのだろう。身体も拭いてくれたらしく、汗の臭いは身体からはしていない。

「あぁ……かしこまりました。昨日はその、大変お疲れ様でした」

 6歳の肉体にとっては、疲れたとかそういう段階を既に飛び越えていたように思う。下手をすればそのまま死んでいたのではないだろうか。

 軋む身体を動かすたびに電撃のような激痛が走る。痛みが原因で目が覚めなかったのは、それだけ疲れて動けなかったからなのだろう。

 時々小さい悲鳴をあげてはフェデリカに恐縮させつつ、なんとか着替えを済ませる。今日はもうまともに活動する事はできないだろう。

 侍従に礼を言って下がらせると、二度寝を決め込もうかとベッドの上でうつ伏せになる。 今日はもう動きたくは無い。動きたくはないのだが。

「お腹が空きました」

 階下からは朝食の良い匂いが漂ってくる。昨日の昼から何も口にしていないのだ。自らの胃までもが体中の筋肉や筋と同じく、痛みを訴えている。

「うう……」

 三大欲求たる空腹感には流石に抗い難く、痛む身体を黙らせながらベッドから降り、扉へ向かう。蛞蝓の這うかの如き遅さで進むうち、一つ閃いた事を実行してみる。

「動きと反射を司る。それは躯体を駆け巡る稲妻」

 体内の魔素を、外部に放出するのではなく自らの体内、いや、神経系統に循環させる。

 電撃系第四階位『マニピュレイション』を体内に展開。

 網のように張り巡らされたニューロン細胞を伝う電気信号を選別、痛みを感じるものに減衰をかけて緩和する。

(上手くいきました。あまり多用すると肉体の危険信号に気づかなくなる可能性はありますが……今日一日だけなら問題ないでしょう)

 動く度に悲鳴を上げる状態だったものが、体中があちこち少し痛い、程度の感覚までに落ち着く。あまり長いことこの状態を続けると、また魔素欠乏症で倒れてしまうだろうが、朝食を食べた後、また部屋に戻ってきて横になれば良い。

 発動限界にさえ気をつけておけば、とりあえずは今日一日は乗り切れるだろう。

 抗い難い飢餓感を慰めるために、階下から漂ってくる香りに向かって、ふらふらと食堂へと足を向けた。


 メディソン邸における食堂は一階の広間から西側、厨房からパントリーを間に挟んだ南側に位置している。

 サンコスタへとやってきた客人との会食も考慮して設計されており、長女を除く家族5人で利用するには少々広すぎる空間である。

 中に入ると、ちょうど姉のディアンナに、侍従長のハンネが配膳をしているところだった。

「あら、おはようトリシア」

「おはようございます、トリシアンナお嬢様。こちらへどうぞ」

 ハンネは、長くて大きなテーブルの隅、姉のすぐ横にトリシアンナ専用の椅子を用意してくれた。大人用の椅子では彼女にはまだまだテーブルに背が届かないのだ。

 椅子によじ登って座り、白く塵一つないテーブルクロスを前に、一息つく。

「おはようございます、ディアナお姉様、ハンネ」

 言って、神経操作を少しだけ緩める。座って落ち着いた状態とはいえ、たちまち体中が悲鳴をあげる。

「トリシア、それ」

 気づいた姉が心配そうに声をかけてくる。

「ああ、はい。昨日の今日で流石に身体がまともに動きませんので」

「いやいや、っていうか処女魔術発現が一昨日でしょ、なんでそんな肉体操作系の中位魔術を平気で使ってるのよ。いくら理論は理解ってるって言っても」

「必要は無理を通して道理を引っ込めるものなのです、お姉様。……こうでもしないと、お腹が減って死にそうだったので」

「いや、だったら部屋まで運ばせればいいじゃないの」

 呆れた様子で姉が言う。確かにその通りだった。

「気が付きませんでした。昨日の一日でラディお兄様の脳筋が伝染したのかもしれません」

 その言葉に、姉は声を立てて笑った。

「アッハハハハ!アレと一緒に一日回ったらそうなるかもねえ。大変だったね、昨日。あの筋肉ダルマが気絶したあなたを背負って帰ってきた時は、思わず消し炭にしてやろうかと思ったわ」

「お姉様とお兄様が本気でやりあったら、この邸が消し飛ぶんじゃないですか?私は寒空の下で野宿するのは御免ですよ」

「その時は私が抱きしめて暖めてあげるから大丈夫」

「出来れば遠慮したいので、そうならないようにラディお兄様に釘を刺しておきますね」

「もう刺せる釘なんて残ってないわよ、あの鋼鉄マッチョには」

「違いありません」

 他愛無い話をしている間にも配膳は進み、目の前にはいつもより品数の多い朝食が並んだ。

 厨房担当のマルコ料理長はもう結構な高齢ではあるが、その確かな舌と腕に加えて、トリシアンナがいつもより空腹だろうという事を察してか、わざわざ多めに用意してくれるその心遣いの細やかさが心に滲みる。

 形式上の祈りを済ませて、空腹を満たすためいそいそと、さりとて礼儀を損なわない程度に料理へと手を伸ばす。

 籠の中には山と積まれた焼き立てのパン。黍のスープに、4種の野菜を使ったサラダ。ポーチドエッグに茹でた腸詰め、くし切りにして素揚げにした芋。今日はそれに加えて、白身魚のムニエルとそら豆のトマト煮が並んでいる。

 トリシアンナは、いつもよりも早いペースでそれらを口に運ぶ。

 思えば、この世界に産まれ落ちる前では、こんなに贅沢な朝食を口にしたことは無かった。

 貧乏な実家にいた時は当然としても、比較的恵まれていると言われる海軍の食糧事情でも、これほどの食事を毎日など、夢のまた夢だった。

 この世界でもこれが一般的ではない事は重々承知の上だ。

 今は明らかに恵まれている。過去の不遇の揺り戻しというには行き過ぎているように思うものの、それでも与えられた待遇を拒絶するほどに自分は聖人でも愚者でもない。

 口の中でほろほろと崩れる白身魚を飲み込むと、余韻を楽しみながら柑橘の果汁を喉に通して一息ついた。

「そういえば、お父様達は?」

「もうとっくに終わらせて執務室よ。ラディ兄さんも今日は仕事」

 疲労のせいで寝過ごしたようだ。そういえば、ディアンナはいつも自分たちが食べ終える直前ぐらいに食堂へとやってきていた気がする。

「アインお兄様は今頃どの辺りでしょうか」

 昨日、トリシアンナ達が鍛錬と称して街へ出掛けている間に、長兄のアンドアインは近況報告のために王都セントラへと出立している。

 地方の領主は三ヶ月に一度、当人若しくは代理人を王都へと送り、直接政務官と国王に、それぞれの地域の近況報告を行う義務を課せられている。

 これは駐在官のいる王都直轄地も例外ではなく、地方政治の健全性を保つため、という名目で行われている。

 駐在官のいない地方でも、国王直属の隠密部隊がこっそりと地域の政情を把握しているらしく、その報告と領主の報告の間に相違が無いかという、王都に対する反抗心の炙り出し的な意味もあるようだ。

 通信魔術や報告書でもよかろうとトリシアンナ自身は考えているが、定期的に王都に呼び寄せることで、国王の権威を示す意味合いもあるのだろう。

「さあねえ。昨日の昼前に出たばっかりだし、まだサドカンナ村に着いたかどうかって所じゃない?」

 サドカンナ村は、サンコスタの街から馬車で街道を一日ほど北上した所にある、エストラ地方に属する集落である。

 人口は1000人に届かない程度。主な産業は農業と畜産業、林業である。

 元々はこのサンコスタ地方を開拓するにあたっての中継点として産まれた場所で、街道整備の拠点としても使われている。

 森林を切り開いて作った集落という性質上、しばしば魔物による被害が発生しており、討伐や駆除の依頼を受けた冒険者が頻繁に立ち寄る場所でもある。

 中継点としての性質と冒険者が集まる場所、ということで、宿泊施設や交通の要所としての馬場が充実しており、サンコスタ地方とエストラ地方の主要都市、エストラルゴとを行き来する人々が、必ず立ち寄る場所でもある。

 そのためか在住人口の割には、比較的活気のある場所だとも言える。

「昨日の昼前だと、野営もしたでしょうからまだ着いてはいないかもしれませんね」

「随分と中途半端な時間に出たからね。それなりの人数だし、準備もしてるから問題ないとは思うんだけど」

 大名行列というわけではあるまいが、道中の護衛に侍従、御者と、領主の立場相応の人数で移動する事になる。人員の準備が整うまで出発できない事が、このように移動の枷となる場合も多い。

「王都ですか。私も一度行ってみたいです」

 小さい頃に呼び寄せた様々な学者は、多くが王都出身であった。そのため、空いた時間に街の様子や学院、王城の様子など、多様な話を聞いたのだ。

「そんなに良いとこでもないけどね。人は多いし、うるさいし。治安もサンコスタより良いとは言えないかな」

 食後のお茶を冷ましながら姉は言う。

「お姉様は王都の学院に在籍されていたのですよね。治安が悪いというのは意外です」

「人が多けりゃ悪い事考える奴も増えるからねえ。あの広い王都じゃ司法官も足りてない感じがしたし」

「司法官ですか?騎士団や警備兵ではなくて?」

 その言葉に姉はひらひらと手を振って言った。

「犯罪の取締りは全部司法官がやってるの。騎士団はあくまでも王城の警備と王族や要人の警護。警備兵は私設しかいないし、司法の知識もないから。まぁ目の前で起きた現行犯ならとっ捕まえるでしょうけど、それだけね」

 聞けば、王都の法律をきちんと理解した人間でなければ犯罪の防止や犯罪者の逮捕といった行為は行えないそうだ。

 この世界の識字率を考えると、それではとても王都内の全てを取り締まる事などできないだろう。

「まぁそんなわけでね、結局王都在住の貴族や商人は私設の警備員を雇うわけ。スラムになってる地域なんてそりゃもうひどいもんよ。あそこじゃ金も地位も力も無い人間は、自分より弱い者から奪うしかないんだから」

 司法官とてそんな社会の底辺を救うために、積極的に働こうとは思わないだろう。自らは難関試験を突破した勝ち組なのである。道端の乞食を一人犯罪者から守ろうが、誰も褒めてはくれないのだ。

「司法官に下部組織は無いんですか?要は手を増やせばいいだけだと思うんですけれど」

「犯罪を減らして税収が増えるってんならやるかもね。人を雇えばその分取った税金は出ていくわけだし。そもそもそんな事しなくても勝手に王都には人が集まるし、犯罪が増えたからって別に税収は減らないの」

 一攫千金を夢見て、各地方から首都へ上京してくる感じだろうか。確かにそういった面はあるかもしれないが、それにしても国王陛下のお膝元でスラム街とは。

「なんだか複雑な気持ちになってきました。……まぁそれでも、一度は見ておいた方がいいかなと思うのですけれど」

 いくら箱入り娘だとはいえ、貴族の子女がその国の首都の様子も知らない、というのは色々と問題がある気がする。別段街の全てがスラムというわけでもなし、話に聞く劇場や図書館なんかも見ておきたい。

「そう?この邸とサンコスタの街の方がよっぽど雰囲気いいと思うけどねぇ。でもそれなら、次にアイン兄さんが行くときに連れて行って貰えば?トリシアには甘いから、多分OKしてくれると思うよ。さて」

 飲み干したカップを置いて、姉は立ち上がる。

「部屋に戻るのに助けが必要かしら?」

「……お願いします」


 2階の西側の部屋、以前は上の姉であるユニティアの使っていた部屋が、今のトリシアンナの自室である。

 神経操作が発動限界に達したため、一旦切って魔力の補充を行う。切った途端に体中が再び悲鳴を上げ始めた。

 部屋に連れてきてくれた姉は自室に帰るでもなく、物珍しそうに部屋を見て回っている。

「なんだか懐かしいなぁ。時々この部屋にお邪魔しては、姉さんにお茶とお菓子をねだってたっけ」

 ベッドに仰向けで転がっている妹の方はといえば、返事をするのも億劫でああとかへえとか適当に相槌を打っているだけである。

「おお、これが例のドレッサー……なるほど、おお、あった」

 ドレッサーの奥に収納されている剣を確認して、感心したように頷いている。トリシアンナは寝っ転がって天井を眺めているため、色と気配でそう判断しているだけだが。

「うーん、でもこれって、物を収納しておくというよりも、裏に通路を隠しておくとかそういう目的で作られたように見えるなぁ」

 確かにそれは隠し扉を開けた時、トリシアンナ自身も考えた事である。

 隠し扉のサイズ自体が大きく、人一人が十分に通り抜けられそうに見えるのだ。単純に物を隠しておくだけならば、もっと隠し扉自体は小さい方が目立たないだろう。

「最初はそのつもりだったのかもしれませんね。お父様も『敵が多かった』みたいな事を仰っていましたし」

 部屋というのは窓を除けば袋小路である。襲撃を受けた際に窓の外を張られてしまえば、逃げたくとも逃げられない。

「かもねぇ。案外、あの地下室への扉の前に置いてあったとか?」

「あそこはあそこで袋小路でしょう。長く潜めるほど広い場所でもないですし、火でも点けられたら丸裸ですよ」

 どれだけ地下室が頑丈に作ってあろうとも、館自体は大半が木と石で作られたものだ。一部に都市外壁に使っているようなコンクリート様の部分もあるにはあるが、基礎部分や柱など、重要な部分だけだろう。焼けてしまえば石造りの入り口は簡単に見つかってしまうし、何より燃焼による酸欠と熱で地下室はひとたまりもないはずだ。

「それもそうだね。まぁ、今更有力な地方領主の館を襲撃しようなんて血迷った連中もいないだろうけど」

「ここは領主とその家族そのものが強すぎますから。まともに落とそうと思ったら、それこそ騎士団の三分の一ぐらい連れてこないと無理じゃないですか」

 父は権力闘争の際、その頭脳だけではなく武力としての実力をも行使していた事は有名であるし、母はそんな父をサポートする強力な水撃系術師である。

 アンドアインも父に負けず劣らずの実力者であるし、常に落ち着き払った冷静さはまるで戦場の指揮官のそれである。

 騎士団に退団を惜しまれる程のラディアスは言うに及ばず、この姉は魔術学院の最年少修了記録を塗り替え、今尚たゆまぬ努力と研究を続ける魔術の専門家であり、火炎と熱操作のスペシャリストでもある。

 今は街に住んでいるが、ユニティアも母と同じで有能な水使いなのだそうだ。

 また、多少老いたとはいえ侍従長のハンネは昔、祖父の仕事を陰となって支えた実力者であると聞いているし、彼女の認めた侍従や使用人達も、一定の魔術や武術の心得のある者ばかりである。

 控えめに言ってこんな化け物だらけの巣窟を襲おうなどという酔狂な輩など、まずもっていないだろう。

「真っ向正面からじゃ無理だろうね。てかトリシア、あんたもそのうち間違いなくその強すぎる家族の仲間入りだから」

「えっ」

「えっ、って何。処女魔術で第五階位をぶっぱなしてその翌々日には肉体操作の中位魔術を平気な顔して使ってるでしょ。しかも大きくなったら雷光剣を振り回すおまけ付き。家族の中でも成長度合いは極みつきよあんた。」

 言われてみればそうかもしれない。しかし、

「お姉様達に到底追いつける気がしないんですが」

 両親は兎も角として、自分が進む間にも兄や姉はまだ成長を続けているのだ。いくら自分の成長度合いが早かろうが、ある種の極みにいる存在にはとてもではないが敵う気がしない。

「そりゃまぁ、私達も努力はしてるわけだけど、私の処女魔術は第四階位『ブレイズウォール』だったし。中位と上位じゃ構成の理解に明確な差があるのよ」

 火炎系第四階位『ブレイズウォール』は、他の火炎系と同じく、魔素の燃焼点を具現化して広範囲に撒き散らし、炎の壁を作って対象の侵入を阻む、防御的な魔術である。

 防御的とはいっても発動点の火力は凄まじく、その燃焼持続時間の長さから熱に強い魔物すら閉じ込めて焼き尽くすというとんでもない魔術である。

「第四階位と言ってもほぼ上位魔術じゃないですか。特に火炎系は制御が難しいはずですが」

 一般に勘違いされやすいのだが、熱を扱う魔術と火炎を扱う魔術は大きく違う。

 熱というのは主として物質の分子振動の活性化によるもので、魔術構成を用いて魔素に働きかける事で”比較的”簡単に操作出来る。振動を活性化させれば熱を、沈静化させれば冷却を行う事が出来る。つまり、熱を扱う事が得意だという者は、同時に冷却も得意であるという事が多い。港で氷や冷凍魚を作っているのもこれだ。

 一方で現象としての火炎は違う。

 発火させるのに熱の発生を使う事もあるのだが、そもそも燃焼とはその多くが可燃物質と酸素の化合による化学反応なのである。

 通常の木材などを燃やすのであれば、熱を操作して着火点まで高めた上で点火し、燃焼させる。単純に言えば炭素の酸化反応だ。基本的に何も無いところに火は出せないものなのだ。

 火炎魔術の基礎とは、”何もないところ”に魔素を利用して発火点と燃焼物を生み出し、その状態を継続的に発生させつづける、というものだ。

 ただの熱を上下させるだけのものとはわけが違うというのは、もうこれだけで理解できよう。制御が非常に難しく、才能があれども処女魔術の発動事故で最も多いのがこの火炎系なのである。故に、火炎術師は他よりも一段高いレベルに居ると言われる。

「私では、火炎系はお姉様のように上手く扱えない気がします」

「解析の進んでいない雷撃系の使い手に言われてもねって感じだけど。まぁいいわ。魔術の話しついでに、せっかくだからお勉強しておく?」

 言ってディアンナは机から椅子を引っ張り出してきてベッドの横に置いた。

「そうですね、ずっと寝ているだけというのも暇ですし……お姉様とのお話は楽しいです」

 その言葉に姉は顔をへらりと崩して、手を伸ばしてトリシアンナの額をかきあげた。

「それじゃあ今の話の続きになるんだけど、魔術原理の解析について。意味はわかるよね」

「はい。自身の魔術に対する理解度によって、魔術構成の効率が変わってきます。それを学問として誰にでも理解できるようにするために調べるのが、魔術原理の解析、ですね」

 魔術は生来的に体得している者が殆どであるため、何故自分がその力を行使出来るのか、あまり理解していない者も沢山いる。その状態では当然ながら事故も多い。

「そう。現象としての理解度が高ければ高いほど、緻密な構成を素早く、効率的に組む事が出来る。一般的に魔術は詠唱して行使するもの、みたいに思われがちだけど、簡単な魔術であれば、一定以上の理解度になればほぼ無詠唱で発現できるようになる。無詠唱とまでいかなくとも、端的に言葉を発してイメージを補うだけでも使えるようになったりね」

「だからお姉様みたいに理解が深まると、中位でも詠唱無しで発現できたりするんですね」

「そう。理解度は即ち魔術の安定性と速度を上げる、一番重要な事なの。それを、誰もが理解できる形に落とし込むのが解析の目的ね。さて問題。今現在で巷に溢れてる魔術の種類で、解析の進んでいない現象はどれぐらいあるでしょう」

「わかっていない、ではなくて、解析の進んでいない、ですか?」

 その言葉に姉は微笑み返す。

「流石ねえ、トリシア。そう、全く分かっていないものもある。けれどそれは、単純に解析のしようが無いぐらいに術者が少ないだとか、若しくは魔術で扱うことのできない現象と”思われてる”って事ね。だから、今聞いているのは、一応は解析に着手されてはいるけれども、全然見当がついていないって現象の数ね」

 トリシアンナは少し考え込んだ。

 自分の雷撃系が全く進んでいないという事は、電子や陽子、中性子という、原子を構成する存在が認知されてないという事だろう。彼女自身、大雑把にとはいえ化学や物理を齧っていなければ確認しようの無いものだ。

 熱も分子振動ではあるものの解析が進んでいるという事は、使用者が多いので別のアプローチがあるのかもしれない。

 少なくとも電気に類似する現象は概ね解析されていないだろう、という予測は立つ。

「光に関する現象、振動を伴わない遠隔通信に関する現象、私の使う電撃と、あとは磁性でしょうか?」

「ほぼ正解ね。実は火炎もそれに含まれるの。あとは生物使役と一部の生態強化、具体的に言えば脳の強化ね」

 なるほど、流石に脳みそにどう働きかけているのか、などは調べようがない。

「脳の方はわかりますが、火炎もなのですか?使い手は結構多いイメージなのですが」

 それこそ極めて一般的な部類に入るだろう。扱いが難しくとも使用者はごまんといるはずだ。

「殆どが才能を持って産まれた子か、一部の火炎しか扱えない人ばっかりなの。で、沢山いる火炎の使い手は大体が魔術学院で学んだ人たちね。彼らは、特定階位の、特定の魔術しか使えない。第二階位の方の『ファイアボール』だとか、同じく第二階位の『フレイムアロー』だとかね」

 つまり、下位の魔術しか解析されていないという事か。

「それはつまり、火炎にも原理の種類が沢山あって、分かっているのは下位に属する一部だけ、という事なのですか。お姉様の使う第四階位以上の火炎系魔術は、才能があるものにしか扱えない、と?」

「そうね。私は広範囲の燃焼や、急速な燃焼による爆発も扱うことが出来るけど、原理がまだ解析されていないの。私自身はなんとなくこういう理屈だろうなーってのは分かるんだけど、それを説明するだけの理屈が今の段階じゃわかってないみたい」

 『ファイアボール』や『フレイムアロー』は、空間に投擲するという共通点がある。実際に可燃物を燃やしてみれば、ああ、これは周囲の空気に含まれる何かを使って燃えているのだなと理解は出来よう。

「お姉様、質問なのですが……火薬はご存知ですよね」

「鉱山の発破に使う硝石の事?ええ、分かるけど」

 唐突な質問に小首を傾げて姉は答える。

「硝石ですか、多分鶏糞なんかから作られているとは思うんですが、他の物質を合成してそれを作ったという話は聞いたことがありますか?」

「?いえ、聞いたことがないわね。そもそもあれって作り出せるものなの?」

 余りにも奇妙な反応だった。火薬の爆発的な燃焼反応は知っているのに、火薬の合成を知らない。そもそも化学研究が進んでいないのか。

「つまり、鉱山で発掘に使われている爆薬は自然に発生したものを抽出しただけに限られているわけですね、そうですか」

 これは魔術が発達しているが故の弊害なのかもしれない。可能な事が先に沢山ありすぎて、そのせいでその元となるものが魔術の下位互換として研究もされていないのだ。

 誰でも簡単に火が点けられるのに、マッチやライターを作ろうという者が現れないのは当然だろう。

「そもそも硝石の生産は王室で管理されてるから、殆ど表に出回らないんだよね。私だって実際に見たことは無いし……あと、発破に使われるって言っても、鉱山で実際に発掘作業をしてるのは地変系の魔術師らしいし」

 概ねその言葉で合点がいった。爆薬の開発が進むと一般に大きな火力が出回り、宮廷魔術師擁する王室の力が削がれるといった所だろう。確かに地変系を扱う術師がいるのならば、鉱物の採掘にもそれほど苦労はしないだろう。

 地変系魔術とはその名の如く、大地に干渉して直接物理現象を起こすものである。

 ラディアスの使っていた『ランドサーチ』のように探査系もあるにはあるが、大半は落とし穴を生成したり、大地を隆起させて対象の足元を不安定にしたりといった、間接的な補助魔術が主体となる。

 強力なものになると地面を槍の様に尖らせて串刺しにする、なんていうのもあるが、基本的に土や砂を対象とする為、そこまで攻撃的ではないという印象が付き纏う。

 しかし、発掘や地質調査といった面では圧倒的な需要があるだろう。

 何しろツルハシを振るって硬い岩盤を掘らずとも、一部を隆起させたり陥没させたりするだけで掘り放題なのである。これではダイナマイトのような、扱いやすい爆薬の突破口的発明が起きないのは必然であろう。

 ただし、地面を弄って楽に鉱物を取り出し、これを大量に精製するとなると、当然の事ながら公害、所謂鉱毒もより発生しそうではあるが。

 この世界の鉱物が自然界にどのような影響を与えるか、という情報は今のところ得られていない。精々以前の世界でもあった銅や水銀は危ないだろうというその程度だ。

 それにしても、爆薬である。

「お姉様、硝石の成分なのですが、それ自体に木材のような燃えやすいものと、空気中にある、燃えるのに必要なものを両方とも含有していると思われます。故に急速に燃焼を起こして、いわゆる爆発、と呼ばれる現象になっているのかと」

 その言葉に、姉は訝しげな表情と色を浮かべた後、急速に顔色を変化させた。

「待って、確かにそれは私が認識していた構成に近い。だとすると、それは」

 中空を見つめたまま、目まぐるしく脳を駆け巡る電気信号。その動きが感じられるほどに急速な思考を目の前の姉は行っている。

「トリシア」

「え?は、はい」

 目の前に姉の整った顔が迫っている。

「次の論文にはあなたの名前を連名として書くから、いいでしょ」

 この短時間でもう論文に出来るほど思考を纏めたとでも言うのだろうか。本気でこの姉は規格外に過ぎる。

「ええと、それは構わないのですけれど……王室で生産と流通を禁止されているものを分析して公表しては流石にまずいのでは?」

 その言葉に、わかりやすいほどに姉が絶望に染まった。

「そっか……確かにそうね。いや、まって。硝石からじゃなくて火炎魔術師のパイオニアとしての研究結果なら問題ないでしょ。着想は伏せて、あくまでも新たな理論予測としてなら」

「ああ、それなら多分大丈夫ですね。分かる人が上にいたら公表を前に握りつぶされるかもしれませんが」

「そうなるよねぇ、まぁでも一応は書いてみるか。で、効率化をどうするかだけど」

 段々と研究者としての顔になっていく姉に、もう少し付き合おうと思った。

「構造としては、雪の結晶をイメージすればいいのではないでしょうか。分解が容易で安定性もある。六角形は一番安定した三角形の構造を6つ重ねた形ですので」

 暗記させられた航空燃料の構造式を思い浮かべて言った。

「あのジジイの『物質を構成する要素の考察』の内容?そんな基礎分野の論文、良く覚えてるわね。まぁでも、確かにそうね。爆薬としてはおそらくその構造が一番効率的なのかも」

 うっかりと口に出してしまったが、この世界でも英俊はいるものだ。しかも姉の直接の師でもあったとは。

 強力な爆薬の原料であるトリニトロトルエンも基本的にはベンゼン環にニトロ基が3つとメチル基が一つくっついた形をしているのだ。

 トリシアンナが言わずとも、ヒントを得ていた以上はいずれこの聡明な姉はその形に行き着いたであろう。

「よし、とりあえずこの線はこれでいくとして……ねえトリシア、もっと何かない?」

「もっとって」

 便利なヒントの引き出しか何かと思われている気がする。

「火炎系は置いといて、じゃあトリシアの使ってる雷はどう?電撃はトリシアの中でどういうイメージなの?構造は?」

 迫る姉の顔はキラキラと輝いている。根っからの研究者なのだろうが、少し怖い。

「え、ええと。大雑把でもいいですか?」

 うんうんと頷く姉に仕方なくといった感じで応じる事にした。

「そうですね……電気はまず、小さな粒です」

「電気?粒?」

「あっ、えっとその」

 どうにもこの勢いに押されては口が滑りやすい。

「電気というのは、雷の力の事です。私が勝手に言いやすいように名付けました。で、小さな粒というのは……魔素です」

「魔素?魔素も粒?」

「はい、同じ様にイメージしていました。魔力を説明するときに、体内の魔素の圧力と放出する力、量をそれぞれ魔力圧、魔力として言いますよね。電気もそれと同じです」

 極めて似ているのだ。人体として操作できるかそうでないか、この世界と以前の世界との違いはそれだけに近い。

「雷を見えないぐらいまでに細かく分解すると、小さな粒の集まりになります。それは雨雲の中でお互い擦れあって力を大きくして、境界との差、つまり電圧が大きくなります」

「魔術発動前の体内の魔素と魔力圧の関係ね」

 電圧とはつまり電位差の事だ。高い所から低い所へ。水も空気も流体は全て同じ。

「圧力が高まって、それを抑えていたものを破って力となって放出する、魔力圧と魔導耐性と同じですね」

 大気は基本的に絶縁体であるため、その空間を破るほどまでに大きくなっているが故に雷は凄まじいエネルギーを持っているのだ。

「それで、なんで粒なの?」

「それなんですが」

 言ってトリシアンナは光子系第一階位『ビジブル』を発動する。

「さっき、解析の進んでいない現象として光を上げましたよね。これも、粒です。同時に、波です」

 疑問符を浮かべる姉。流石に抽象的過ぎたか。

「暗い部屋の中で、隙間のある箱の中に蝋燭を入れて見ると、隙間のところだけじゃなくて、もう少し広い範囲がぼんやりと光りますよね。これは、光がまっすぐ進む光線ではなくて、広がる性質を持っている事を示しています。それから、弱い光を2つ重ね合わせると、その重なった部分はより明るくなる。これらの性質を重ね合わせて得られるのは、無数の粒による波のそれではないかと推測できるのです」

「……」

「実は電気にもそれが当てはまります。おそらく魔力もそうです。これは魔素も粒子性と波動性両方の性質を持ったものだとの仮説が――」

 考えながら口を動かしていると、静かになったのに気付いてふと我に返った。

「お姉様?」

「うん、ごめん。ちょっと考えてたんだけどさ」

 流石に調子に乗りすぎた事を、トリシアンナは遅まきながら後悔した。

「粒の事は良く分からなかった、良く分からなかったけど」

 

「明日から一緒に魔術の研究、しよ?」



 その日は結局、夕方までベッドの上から動くことは出来なかった。

 昼食は姉に指摘された通り、部屋まで運んでもらって済ませ、どうにか動けるようになったのは日も大分傾いた頃だった。

 手すりを伝いながら、ロビーに続く吹き抜けの中央階段を降りていると、丁度正面の扉を開けて、ラディアスが帰ってきたところであった。

「ラディお兄様、おかえりなさい」

「おお、トリシア。もう動けるのか?流石に若いと回復も早いな!」

 ラディアスも別に年寄りというわけでもあるまい。

「私は若いというより幼いのです。若いというのならお兄様だって十二分に若いでしょう」

 確かに朝は全く動けなかった事を考えれば、この時間までに痛みが引くというのは随分早いとは思う。恐らく翌日には元通りだろう。

 相変わらずわははと笑う兄の声を聞いて、侍従の一人がおかえりなさいませ、と、近寄ってきて彼から上着を受け取る。

「その様子なら明日は大丈夫そうだな。俺は明日も仕事だから、鍛錬は自分でするんだぞ」

 食堂へと連れ添って歩きながら兄が言う。

「自分で、ですか。走る事や筋力の鍛錬ならいつでもできそうですが」

「手始めに限界まで家の周りをぐるぐる走るといいぞ。俺も子供の頃はそうやって鍛えた」

 走るだけでは肺活量の向上にしかならないと思うのだが、と思い、聞いてみる。

「走るだけですか?腕立て伏せとか、起き上がり動作とかは」

「今はまだ走るだけでいいぞ。その歳で無理に筋肉をつけると、あちこち成長の邪魔になるからな」

「ああ、確かにそうですね」

 骨もまだ伸び切っていないのに、繋がった筋肉だけ肥大してしまえば身長が伸びなくなってしまうかもしれない。身体が小さいままではカサンドラも振れないし、何より不便だ。

「うむ。お前が大人になった時に、胸が小さいのはお兄様のせいだとか言われるのは困るからな」

「そっちですか」

 今更なので怒る気にもなれない。しかし、別に胸は小さいままの方が色々と楽そうに感じるのだが。

 立派な物をお持ちである姉二人の姿を思い出して、軽くため息をついた。


 翌朝、完全に疲労と痛みの抜けたトリシアンナは、朝食の後にハンネにお願いして、運動用の着替えを用意してもらった。

 綿で出来た白い襟付きシャツに、深草色の織物のベスト。下は同じ色の膝丈キュロット。

 前々日のようなあまりにも適当なものではなく、一応はまともな服だな、と思えるような格好である。髪は邪魔になりそうだったので、首の後ろで括ってある。

 いくら館の周りを走るだけだとは言え、訪問者が現れないとも限らないし、使用人とはいえ他人の目もあるのだ。あまり変な格好をするわけにもいかない。

 表に出て軽く準備運動をしていると、通いの使用人や侍従達を乗せた馬車がやってくるのが見えた。

「おはようございます、トリシアンナお嬢様。これから運動ですかな?」

 御者台に座っている厩番のフランコが手前で馬を止め、声をかけた。

「おはようございます、フランコ。毎日ご苦労様です。みなさんも、おはようございます」

 馬車から出てきた4人にも挨拶する。

 侍従のジュリアとパオラ、庭師のジュゼッペに力仕事の得意なマッテオ。器用なアメデオは今日は休日のようだ。

 皆口々に挨拶をし、トリシアンナに軽くハグをしてから西側の勝手口へと向かっていく。

 フランコもそれでは、と帽子を持ち上げて軽く頭を下げると、同じ方向にある厩の方へと馬車を引いていった。

 メディソン家には、住み込みで働く者と街から通っている者がいる。

 住み込みで働いているのは侍従長のハンネを筆頭に、料理長のマルコ、先程の厩番であるフランコに、侍従のフェデリカとジョヴァンナの5名。通いの5名と合わせて、昼間は概ね5人から8人程度が立ち働いている。

 住み込みの者はフランコ以外独身であり、週6日のうち2日ある休みの日には、ハンネ以外殆どの者が街にある実家へと帰っている。ジョヴァンナは最近いい相手を見つけたらしく、結婚して通いにしようか、と考えているらしい。

 往復には厩番のフランコが馬車を引いて朝と夕、2回の往復を行っているが、フランコが休みの日にはハンネか、若しくは非番の日にラディアスが送迎役をしている。

 侍従も使用人も、皆最低限の事は出来るため、料理長や厩番などの専門職がいなくてどうにもならない、という事態にはなっていない。とはいえ、マルコが居ない日の食事にはあまり期待ができないのも事実なのではあるが。

 馬車を見送って再びその場で身体を温める。夏も終わり、山側から冷たい風が吹き下ろすようになる時期までもう少し。海辺の南国らしく冬も雪こそあまり降らないが、二階の窓から北や東の山々を眺めると、美しく雪化粧をしているのを見ることができる。

 十分に体温が上がったと感じたところで、トリシアンナは館の周囲を時計回りの方向に走り出した。

 スタート地点である邸の南側は広く開けており、大きな馬車が数台いても問題なくすれ違う事が出来る。ここから南へ、ゆるいつづら折りの下り坂が街へと続く唯一の道だ。

 邸の西側には大きな馬小屋と馬車を置くスペース、馬小屋の北には納屋があり、三頭いる馬達の食事である飼葉や掃除用具、園芸や工作用の作業道具などが保管されている。

 北側に回ると、南のように広くはないが、魔物避けの為にある程度間伐された林になっている。館の陰となって大半は日陰となってしまう薄暗いところであるが、影の切れるところまで北へ進むと、ディアンナの作った実験場と呼ばれる広場になっている。

 邸はやや東西に長い造りをしているため、広場を左手に見ながら走る殺風景なこの区間が最も長く感じる。北側には倉庫や保管庫といった部屋が多く、窓も少ない。

 2階の中央に見える窓は、行き止まり廊下の突き当りだ。両隣が書庫と衣装室。

 その中央を通り過ぎて少し奥に、邸の裏口がある。三日前に姉に連れられて出てきたのはここだ。

 出口には簡素な石畳が敷いてあるのだが、すぐに踏み固められた土へと変わっている。

 東側へ出ると、暖かな秋の日差しが身体に降り注ぐ。比較的開けた場所となっており、ここにも荷車など大きなものを置く倉庫が設えてある。

 倉庫の向こう側にはこれまたつづら折りの坂道になっており、少し降りていくと、サンコスタ湾へと注ぐ渓流の一つが流れている。

 今は降りては行かないが、川には小さな水車小屋が設置されていて、館の中にある水の大半は、ここから引き上げた水を浄化して使用している。また、この水車は穀物を挽くための動力としても使われている。

 一周して戻ってきたが、既に息が上がっている。流石に一日二日ですぐに体力がつくというわけはない。それでもトリシアンナは気力を奮い立たせて2周目にとりかかった。


 結局初日は精一杯頑張って三周が限度であった。三周目の最後の方など、殆ど歩いているのと変わらないような速度まで落ちていたのだが。

 汗を拭いて着替えよう、と正面から中に入ったところ、眠そうに目を擦りながら降りてくるディアンナの姿が目に入った。

「おはようございます、ディアナお姉様。今日はまた随分と遅かったですね」

 姉が寝坊気味なのはいつもの事だが、今日に限っては殊更にそれが顕著だ。

「あ、おはようトリシア。いや、昨日トリシアと話してた事を纏めてたら、いつの間にか朝になっちゃってて。ちょっとは寝たんだけど」

 吸い込まれそうに大きな欠伸をひとつして、そのまま姉は続ける。

「朝ごはん食べたら行くから、準備しててー」

「準備……?ああ」

 昨日、研究に付き合ってくれるようお願いされていたのを思い出した。

「どちらでお待ちしていれば?」

「裏の実験場ね、すぐ行くから」

 またすぐ外に出るのであれば着替える必要は無い。汗だけ拭いておこうと思い、トリシアンナは厨房に顔を出して桶一杯分の水をもらうと、浴室の脱衣場に向かった。

 脱衣所で上半身だけ裸になり、冷たい水を染み込ませて絞った布で身体を拭う。

 運動で火照った身体に冷たい水と布の感触が心地良く、腋の下を拭う時などは口から大きな吐息が漏れる程の快感だった。

 久しく忘れていたこの感覚を思い出して懐かしくなり、そのままごしごしと顔も拭った。

 結局肌着だけ着替えると、元の服装のまま裏口から外に出た。日陰は少し肌寒い。

 少し足早に実験場と称される荒れ地に移動し、日当たりの良い場所にあった切り株に腰掛ける。未だ初秋の陽気は優しく、じっとしていると眠くなってきそうだ。

 多少の疲労もあり、うとうととし始めたところで姉ががちゃがちゃと騒々しい音を立てながらやってくるのに気づいて、頭を覚ました。

「いやーごめんごめん、おまたせー」

 姉は金属の棒の先に丸い的のついたものをいくつか担いでいた。それらを徐に近くへと投げ出すと、腕まくりをするような仕草を見せる。

「とりあえず、私の昨夜の成果を見てくれるかな」

 言って、腰につけていたケースから、飾り気も何もない、ただの棒状の金属を取り出した。

 銀色の光沢を放つそれは、姉の肘から指先ほどまでの長さ。根本が親指ほどの太さから先端に近づくにつれて細くなっている。四角錐を極端に細く長くしたような形状。知らない人が見れば、本当にただの金属の棒にしか見えない。

「アルジェンティニウム製の魔杖……」

「そうよー、名付けてディアンナタクト。ちょっと持ってみる?」

 ひょいと手渡されて戸惑いながらも持ち上げて眺める。

 とにかく軽い。同じ大きさで鉄であればもっと重量感を感じるものだが、元の世界のアルミニウムに近い比重だろうか。

 その上で持っただけで分かる、体中の魔素が吸い込まれそうなほどの魔導率。余程の純度でなければこの感覚はなし得ない。

 現在発見されている鉱山で発掘される鉱石中の含有率、およそ0.05%の金属で、これだけの量をこの純度で精製、成形するとなると、いったいどれぐらいの発掘量が必要になるものか。

「これが家一軒と同じぐらいの値段ですか、なるほど」

 自分の名前を魔杖につけるセンスはいかがなものかと思うが、魔術の心得があるものなら持っただけで分かる大業物である。

「学院の最年少記録を塗り替えたんだから、ご褒美としては安いものじゃない?私の為にあるような魔杖だし」

 返して貰ったタクトを器用に指先でくるくると回しながら姉は放言する。傲慢に聞こえないのはそれに見合った実力あってこそのものだろう。

「それじゃ、少し軽めに撃ってみますか」

 ディアンナが表情を変えて北の虚空を睨む。銀のタクトが閃き、中空に輝く軌跡を産む。

「暴爆よ。其は連なる自壊、焦熱の波壊」

 巨大な構成がディアンナの手元から伸び、タクトの先から波濤のように膨大な魔力が放出され、遥か先の虚空で現出する。

 瞬間、音が消えたかと思うと、耳をつんざく轟音とともに巨大な爆発が上空で炸裂する。

 橙色の灼熱が空間そのものを吹き飛ばすかのように大気を振動させ、遅れて発生した凄まじいまでの衝撃波がトリシアンナ達を叩く。

 突き抜けた衝撃波は後方の館を揺らし、窓ガラスがビリビリと振動する。どこか遠くで、パリンという何かが壊れるような音がした。

 圧倒的な暴威が収まると、トリシアンナの世界は上下が逆になっていた。吹き飛ばされて逆さまに転がっていたらしい。

 逆さまに立っている姉が得意げに言い放った。

「火炎系爆裂魔術第七階位『エクスプロージョンノヴァ』ふふーん、前人未到の領域に突入ね」

 平然と軽口を叩く姉に鳥肌が立つ。

「なんですかこれ!戦術級の破壊力じゃないですか!ていうか使う前に言って下さい!」

「やーねえ、これでも抑えて撃ったのよ?まぁ、威力がちょこっとだけ想定以上だったけど」

 姉はタクトをしまうと、妹を抱き上げて頬ずりした。

「トリシアのヒントのおかげよ。また一歩、目標に近づいたわ」

 これ以上何を目標としているのだろう。少し恐ろしいが興味はある。

「あの、お姉様の目標って?」

「不可能と言われる三系統への到達」

 妹の顔を覗き込みながら、姉は不敵に笑う。

「時間、空間、創造。所謂神の領域ってやつね」

 時間。三次元世界では絶対に操作が不可能と言われる領域。

 空間。空間への直接関与。瞬間移動。空間圧縮等。

 創造。文字通り、無から有の創造。不変の法則を捻じ曲げる神の領域。

「……できるんですか、そんな事」

「さぁね。時間と創造は多分、まだまだ先の話だけど、空間に関してはちょっとだけアテがあるから、これからかな」

 もうこの人には誰も追いつけないのではないだろうか。呆れて声も出ない。

「ディアナ!今度は何だ!」

 何故か既視感を覚える父の声が響き渡る。


「さて、ちょっとだけ邪魔が入ったけど続けましょうか」

 怒って出てきた父に、姉は「実験すると言ったじゃないですか」と口ごたえして、限度を考えろとこっぴどく叱られていた。

「次からはもっとこう、家に被害の出ないところでやりませんか?」

「うーん、あんまり奥に行くのも危険だしなぁ。歩くのだるいし」

 あまり反省はしていないようである。

「そんな事より本題本題。トリシアはさ、ある程度雷の原理を理解してるんだよね」

 先程持ってきた的のついた金属棒を、広場の北側に突き刺し始める。大して力を入れているように見えないのに、深くサクサクと突き刺さっているのを見る限り、何か地変系の魔術を使っているようだ。

「はあ、まぁ一応は。昨日言ったように言葉にするのは難しいのですけれど」

 姉は全ての的を地面に突き刺し終えると戻ってきた。

「それでね、今日からトリシアの魔力を鍛えようと思うの」

「話の繋がりがよくわかりません」

 天才はこれだから。

「つまりね、こういう事。未解析の雷撃系を、ある程度理解して使える人間がいる。でも言葉にして伝えるのは難しい。なら、どんどん使える雷撃系の魔術を増やして、私自身が現象そのものを解明していけばいいのよ」

「なるほど」

 火炎系と同じ、アプローチの違いという事だろう。間近で雷撃を観察して、その現象から原理を推測していく。言ってはなんだが、事実ありきの確認による解析という点では、科学のそれに近い手法だ。

「それで、私の魔力を鍛えるというのは?」

 見るだけなら、今からでも第一階位、第二階位程度ならばいくらでも見せる事ができる。それではダメなのだろうか。

「ある程度上位の魔術を観察したいの。でも、トリシアはまだ蓄積できる魔力量がそこまで多くないじゃない?いくら上位魔術を使えても、すぐに息切れしてちゃ効率が悪いもの」

「あの、それって上位魔術を連発しろってことですか?」

 とんでもない姉である。

「いやいや、まぁそれは追々考えるとしてね、トリシアも、魔力量が高まるに越したことは無いでしょ?」

「それはまあ、そうですが」

 カサンドラを手にするようになれば、持っているだけで魔力が失われる。身体を鍛えることでその度合いは減っていくだろうが、魔力量も高めておいたほうがより安全だろう。

「と、いうわけで!ディアンナ先生の魔術特訓講義〜」

 ぱちぱちと自らで拍手しながら、奥に刺さった的を指差す。

「あれを雷撃の下位魔術で連続して撃って欲しいんだけど、その前に」

 トリシアンナの後ろに回って耳元で囁く。

「昨日使ってた肉体操作、あれかけてみて。どういう方向性でもいいから」

「えぇ?でも、あれは痛みを消すために使っていたもので」

「それだけじゃないでしょ?多分、別の方向性も持たせることができるはず。わかるんだから」

 確かに、神経系統に作用する魔術であればもっと他のこともできるが……。

「まぁ出来ますけど。そっちの方向で使うのも初めてだからちょっと怖いです。失敗したら最悪、神経が焼き切れて寝たきり状態になるかも……」

「あー、大丈夫大丈夫。危なくなったら私が止めるし、最悪そうなってもお母様なら治せるから」

 ぎょっとした。

「は?神経をですか?」

 以前の世界ではそんな事は絶対に不可能だった。どうなっているのだこの世界の魔術というのは。

「10年ぐらい前かなあ。街でね、馬車とぶつかって瀕死になった子がいたらしいのよ。怪我は治ったんだけど、腰から下が動かなくなってね。それを聞いたお母様が、行って治して来たんだって。その子、確か今はラディ兄さんと同じとこで働いてるはずよ」

「警備隊でですか。治したというのは本当のようですね」

「そうそう、だから安心して使っていいから。ほら、早く早く」

 そうは言っても神経である。損傷すれば相当に痛いだろうし、治るから良いというものではないと思うのだが。

 半ば理不尽に思いながらも、トリシアンナは電撃系神経操作第四階位『マニピュレイション』を発動する。

「動きと反射を司る。それは躯体を駆け巡る稲妻」

 魔素で神経伝達系に働きかけ、反射速度を引き上げる。と、急激に世界の見え方が変わってくる。

 木の葉のざわめきの一枚一枚、全身をそよぐ空気の流れ。はては姉の呼吸や心臓の鼓動まで把握できそうなほど、世界がゆっくりと、確かな輪郭を伴って見えるようになる。

「神経を伝わる信号の速度と強度を強化しました。お姉様、それで、どうすればいいですか」

「へえ、すごい。こうやるんだね。それじゃ、その状態を維持したまま、あれを電撃で撃ってみて」

「えっ、このままですか?第四階位を維持したまま?」

「そう。維持したまま。早く」

 同時に複数の魔術を制御しろという事だ。通常の状態なら構成の混同が起きて暴走してしまうだろうが。

 トリシアンナは無言で指先を北にある的に向け、電撃系第一階位『ソーンズ』を次々と放った。

 鞭のようにしなった細い雷撃が空気を引き裂き、狙い違わず全ての的のど真ん中に命中して弾き飛ばす。トリシアンナにはその命中の瞬間、金属を伝って電撃が地面に帰る瞬間までもが時間が止まったかの如く、冷静に確認することが出来た。

「これでよろしいですか」

 言って『マニピュレイション』を解く。急激な感覚の落差で、軽く目眩を起こした。

「……言われて一発で成功しちゃうんだ。正直危なくなったら隣で補助しようかと思ってたんだけど」

 そのために姉は自分の後ろに回ったのか。一応ちゃんと安全性も考えていてくれたらしい。

「多分、かけたのが神経強化でなければ無理でした。この強化は魔術の精度も上げられるみたいです」

 感覚が研ぎ澄まされれば、当然のように魔術の発現にも余裕が出来る。流れている時間の感覚が違うのだから当然だろう。速射に連射だって可能だ。

「とんでもない強化魔術ね。普通、肉体強化って言ったら血流量を上げて筋持久力を上げるだとか、筋肥大を促して一時的に力と瞬発力とかを上げるみたいなのだけど」

「うーん、多分それも簡単なのだと出来ると思いますけれど……なんか、嫌じゃないですか」

「……分かるわ」

 年頃の乙女や年端も行かぬ幼女がいきなり筋肉達磨になるのを想像して、二人は同時に笑いあった。

「どっちにしても、今の私程度の筋力じゃそんな事してもあんまり効果がなさそうですし」

 そういった自己強化というのは、ラディアスのような元々力の強い人間が使うものだろう。トリシアンナやディアンナには必要の無いものだ。

「そうね。さて、それは兎も角として、同時に二つの魔術を使ったけど、消耗はどう?」

 言われてトリシアンナは自分の状態を確認してみた。

 魔力の消耗自体は大きい。『ソーンズ』の連射はそこまででもなかったが、増幅に向けた『マニピュレイション』は、痛みを抑える時に使っていた時よりも遥かに魔力の流出が激しいようだ。ただ、体感時間の割には発動限界までまだまだ余裕がある。

「魔術を二種類同時に使う事自体は消耗の影響はなさそうです。ただ、神経操作は強化に使うと結構消耗しますね」

「まだ余裕はある?」

 その言葉に頷くと、姉はよしよしと頷くと、次の話を持ち出してきた。

「大丈夫そうなら次にいきましょ。次は実戦よ、実戦」

「実践?先程から魔術は使っていますけど」

「そっちじゃないの。戦いの、実戦」

 実際に魔術を使って戦う相手とは。

「それって、魔物を狩るという事でしょうか。あの、それは流石に家族の誰かに言っておいたほうが」

 裏山に分け入って生息している魔物を探すにしても、迷って戻れなくなっては大きな問題になる。魔術が使えるといっても、まだ6歳の子供なのだ。

「私がついていくから大丈夫だって。裏山には何度も入ってるし、もう庭みたいなものだよ。それに、いい毛皮や肉を持ってる魔物だったらちょっとしたお小遣い稼ぎになるよ?」

 それはそれで魅力的な話なのだろうが、そもそもトリシアンナは一人で街に行く事をまだ許されていない。金があっても使い道がないのだ。

「お金があっても使い道がありませんよ。そもそも、街に行かないと換金すらできませんし」

「だいじょーぶ、私が一緒に行けば良い事でしょ?ついでに一緒に買い物とかお茶とか」

 それは中々に魅力的な提案だった。

 ラディアスの案内は楽しむというより見学的な意味合いも強かったし、トリシアンナ自身も多少は楽しめたとは言え、兄の目的や好みに振り回された一日だった。

 このお気楽な姉とは趣味も嗜好も合うことが多いし、トリシアンナの行きたい場所を言えば、喜んで案内してくれるだろう。

「それじゃあ、少しだけ」

「よっし、それじゃあ行きましょうか!」

 姉は本当に裏山に出入りしているらしく、迷うこと無く広場の北西にあった小さな獣道へと妹を連れて入っていくのだった。


 裏山は背の高い木々が比較的広い間隔で生えており、樹上の生い茂る葉のせいか、下草や茂みが殆ど無く、割合に歩きやすい。

 広葉樹が殆どであるので、腐葉土や木の根本に生える苔やキノコ、大きくとも背の低い羊歯植物程度である。

 ほんの少し、歩いて数分程度だろうか。姉は立ち止まって妹を振り返った。

「探査術は使えるよね?」

 トリシアンナは少し考えたが、頷いた。

「風圧系が使えると思います。常時展開はちょっと厳しいですが、周辺探知ぐらいなら」

 恐らく姉も同じような事が出来るだろうが、兄のように動き回りながら常時展開などという芸当はトリシアンナには流石に厳しいだろう。

 一方で反射や局所的な差圧を一瞬感知するだけならば、理論さえ理解していれば可能だろうと判断した。

「うん、それでいいよ。近くに魔物がいないか探ってみて」

 トリシアンナは頷くと、意識を集中して風圧系第二階位『ブレスソナー』を発現させた。

 周辺、2・300メートル程の球形範囲で、生物の動きによる空気の差圧変化、呼吸音を探る。ほんの一瞬、微弱な魔力波を放ってその反応を見るだけだ。

「周辺300メトロにはいないようですが、ちょっと待って下さい」

 良く良く考えれば、トリシアンナは探査術以外に気配を探る力をもっているのだった。

 魔術に使うそれではなく、気配を探る意識の範囲を広げる。東の方角、500メートルほどの距離に、魔物らしき色が視えた。

 武器が光っているのを初めて見た時に、不思議に思って色々と調べてみたのだが、どうやら特定の魔素濃度を持つものも自身は感知出来るらしい。

 光って視えた武器は強い力を持つ魔物の素材を使ったものらしく、恐らくはカサンドラもそうなのだろう。

「見つけました。ほぼ真東の方角、500メトロです」

「おっ、結構広い範囲探知できるんだ。優秀優秀」

 実は魔術で探したんじゃありませんとは流石に言えず、曖昧に笑って誤魔化す。

 基本的に探査魔術というのは、自身を中心に円形、または球形に展開するものなので、範囲がほんの少し広がるだけで必要な構成と魔力量は大きく増大する。

 面積と体積が半径の二乗、三乗に比例して増えるのと全く理屈は同じ事である。

「それじゃあ、魔物に近づいてからは会話はストップね。直接伝達で会話するから」

「わかりました」

 直接伝達とは、振れた相手同士で魔素の波長を合わせて――これはトリシアンナの解釈であり、実際には魔素のやりとりを合わせる、といった表現がなされることが多い――構成を言語に変換して意思疎通を図る技術である。

 魔導率の低い衣服等を通しては出来ないので、直接肌を触れ合わせるか、これは滅多に無いのだが、姉の持っているような極端に魔導率の高い物質を介して行う。

 稀にこの技術を遠隔で行える才能を持った者がおり、それは通信魔術師として各重要都市に配置されている。

 緊急連絡等が迅速に行えるが、一度に送れる情報が限られるため、地方で一定の権限を持つ者の指示でしか行うことは出来なくなっている。

 この直接伝達であるが、密談が簡単にできてしまうという理由により、例えば重要な会議であるとか、自分よりも地位の高い人の前では全員が手袋を着用する、という習慣が根付いている。

 最も、重要な会議の場で机の下でこっそりと手をつなぐ、なんていう気持ちの悪い真似は殆どの者がしたくはないだろうが。

 ともあれ、姉と手を繋ぐのには何の躊躇いも無い。差し出された白く柔らかい手を握り返して、茂みの少ない森の中を進んでいく。

 暫く歩いたところで、目的の色が蠢いているのが近くに視えた。

 姉を木の陰に引っ張り込み、陰から覗く。

『お姉様、いました。正面やや右の方向。シダの茂みの後ろです』

 直接伝達で情報を送る。

『んん〜?お、本当だ、よく見えるね。あれは……ルナティックヘアか』

 大型犬ほどの大きさの巨大なウサギが、茂みの影で木の根を齧っている。

 ルナティックヘアとはその名の通り、雑食性の凶暴なウサギである。

 普段は木の根や山芋を掘り起こして食べているが、小動物や鳥、時には鹿なども襲って餌にする事がある。

 こいつが増えすぎると木が立ち枯れを起こし、果樹や木材としての価値が無くなってしまうこともあり、魔物の中でもブラッディボア等と同じく害獣に指定されており、駆除の対象にもなっている。

 人の住んでいる所に出てくる事もあり、畑を荒らされたり、時には子供が襲われる事もある。

『トリシア、出来るだけ毛皮に傷を付けずに倒してみて』

『傷を付けずにですか?わかりました』

 姉の意図はなんとなく分かる。ルナティックヘアの毛皮は防寒着や富裕層の襟巻きとして需要が高いため、きれいな状態で手に入れる事ができればそれなりの価格になる。

 加えてこれは魔術の鍛錬を兼ねている事も考えれば、先程の的当ての焼き直し、ということだろうとトリシアンナは判断した。

 徐に『マニピュレイション』を掛け、木の陰を飛び出す。

 真っ直ぐにルナティックヘアのいる茂みへ向かって駆け出す。

「え、ちょ」

 後ろで何か聞こえた気がするが、目の前に集中。こちらに気づいた大ウサギが前歯を剥き、血走らせた視線をこちらに向けた。

 向かってくるのが小さな生き物だと認識したウサギは、こちらに向かって右へ、左へ跳ね回りながら向かってくる。『いかれうさぎ』の別名にふさわしく、獲物を撹乱させる動きで、急所であるトリシアンナの首元めがけ、鋭い跳躍を放った。

 迫るウサギの顔面。トリシアンナは両手の親指を立て、拳を握りしめると、躊躇いなく飛び込んでくるウサギの顔面、赤く血走った両目に親指を突き立てた。

 ずぶりと眼球の潰れる嫌な感触と同時に、ウサギが小さな悲鳴を上げる。その瞬間、両親指の先から雷撃系第一階位『ソーンズ』を獣の体内に解き放つ。

 火薬の破裂したような音と共に白い足先から大地に稲妻が走り、びぎっという気味の悪い断末魔を残して、ルナティックヘアは伸び切った身体をびくんと痙攣させると、だらりとその場に崩れ落ちた。

「お姉様、やりました」

 獲物の目から指を引き抜いて、こびりついた眼球の残滓をポケットから取り出したハンカチで拭き取る。これは染みになってしまうかもしれない。

「え、えぇぇ?な、なんか思ってたのと違うやり方だけど。お、おめでとう?」

「ありがとうございます」

 神経操作を解いて再度の目眩に頭を振って仕切り直すと、目の前に横たわった巨大な獣を見下ろした。

「毛皮は……うん、足先がちょっと焦げた以外は綺麗ですね!高く売れそうですよお姉様!」

 トリシアンナは自分の体中をまさぐって、はっと気がついた。

「困りました。ナイフを持ってきていません。これを担いで帰るのは大変そうですが」

「えっ、何?ここで解体するつもりだったの?」

 姉は不思議なことを聞くものだ。血や内臓は早めに抜いておかないといけないし、持ち帰ってから処理すると捨て場所に困る。何より重い。

 山の中でなら、捨てた内臓や食べられない部位の肉は獣や魔物が勝手に処理してくれるし、骨まで抜けば持ち帰るにも軽い。他に方法も無いと思うのだ。

「あっ、そうだ。お姉様、タクト貸して下さい」

 一つ思いついて試してみる事にした。

「えぇ……?汚さないって約束してくれるならいいけど」

 ものすごく嫌そうな顔をする姉。

「大丈夫ですよ、直接は触れませんので。はい、ありがとうございます。それじゃお姉様、こいつの耳を持って、背中あわせに担いで持ち上げて下さい」

 訝しげに、しかし渋々といった調子で姉はその通りに、ウサギの耳を掴んで背負った。

 トリシアンナの目の前には、だらりとむき出しになった獣の腹。

「動かないで下さいね」

 言うなりトリシアンナはタクトの先に風圧属性第二階位『エアソー』を発現させた。

「おお、すごいですこのタクト。構成の維持がとっても楽です!」

「えっ、なになに?何してるの?」

「そのままそのまま、動かないで下さいね」

 トリシアンナは魔杖の先端に取り付けるように発動させた真空ののこぎりを、横に向けてウサギの喉元に当てた。

 ぶしゅん、と黒く焼けた血が軽く飛び散る。ぱっくりと開いた喉の切れ目を、今度はそのまま縦に切り裂いていく。真空で出来た鋭い刃は苦もなくウサギの表皮と腹膜を切り裂いていく。切れ目が丁度下腹部に差し掛かったところで、支えを失った内臓が上から順にぼどぼどと地面へと落ちていく。

「あっ、なんか嫌な音がしてる!しかも臭い!」

「静かにして下さいお姉様」

 内臓を全て出してしまい、脂肪や肉も取り外そうとしたところで、トリシアンナは失敗に気がついた。

「あっ、しまった……ごめんなさい、お姉様」

 その声に姉は蒼白になって声を上げる。

「えっ?何?どうしたの?怖いから早く教えて?」

「いえその……雷撃術を直接撃ち込んだせいで、肉が丸焦げになってしまっています。毛皮は無傷ですが、これでは肉は食べられませんね」

 なんと勿体ない。これだけの大きさであれば、十分な可食部があったはずなのに。

「そ、それだけ?なんだ……そ、そうね、ルナティックヘアの肉はシチューやリゾットに入れると美味しいけど、仕方ないよね。だから、早く終わらせて?」

「すみません、わかりました」

 即席の自動刃で黒焦げになった肉を削ぎ落としていく。硬い骨も難なく切り裂く刃を見ていると、これもこのステッキのおかげだろうな、としみじみと感じ入った。少し欲しくなってきてしまうほどに。

 前後の脚や頭部は無理だが、体内は概ねすっきりと削ぎ落とした状態になった。今の状態を言ってみれば、ルナティックヘアのひらきである。

 こっそりとタクトに付いた返り血をハンカチで拭い取ると、震えている姉に声をかける。

「終わりましたよ、お姉様。もう少し前に進んでから下ろして下さい、下、内臓まみれなので」

 ひっと息を呑んで飛び退いた姉が、後ろ向きにどさりとウサギだったものを落とす。もう少し優しく置いてほしい。

 トリシアンナは開いた状態で横たわっているウサギだったものを内向きに畳むと、半分に折って小脇に抱えた。

「うーん、頭と脚がまだ重いですね。まぁ、しょうがないです。戻ったら誰かに頼んで綺麗にしてもらいましょう」

 ディアンナタクトを返して声をかけると、やっと立ち直ったのか姉も引き攣った笑みを見せている。

「そ、そうね。私は最初からそのつもりだったんだけど……なんていうか、トリシア、ワイルドだね」

「?そうですか?普通ですよ」

 獣を狩るとはこういう事ではないのだろうか。話に聞く冒険者達だって、多分同じことをしているだろう。

「それにしても肉は残念でした。次からはもっと倒し方を考えないといけませんね」

「そうね……こう、私は風圧系の真空波で首を斬るとかそういうのを想定してたんだけど」

「ああ、確かにそうですね。毛皮に傷をつけてはいけないとばかり考えていたので。よく考えたら首から上は必要ありませんでしたね」

 重いので首も斬って置いていきましょうかというと、姉はもういいからと大袈裟に頭と腕を振った。優しい姉の、妹に手間をかけさせまいとする心遣いが嬉しい。微妙に恐怖の感情が見えているが、いくら強くてもやはり姉も良家のお嬢様なんだなあと、奇妙なところで感心してしまった。


 ウサギだったものを小脇にかかえたまま、屋敷の裏手から東側を通って南側に出る。流石に裏口から直接家の中へと血まみれの毛皮を持ち込むのは憚られるので、誰か表にいないかと探していたところ、南側の花壇で花の手入れをしているジュゼッペを見つけた。

「こんにちは、ジュゼッペ」

 声をかけると庭師は顔をあげ、相好を崩した。

「やあ、これはディアンナお嬢様にトリシアンナお嬢様。お二人でお散歩ですか?」

 麦わら帽子に首から汗拭き用の布を掛け、スコップを片手に持った丸顔の庭師はそういうと、トリシアンナの抱えているものに気がついた。

「おや、トリシアンナお嬢様、それは?」

「ルナティックヘアの毛皮なんですが、最後まで処理しきれていなくて。誰か、手の空いている方はいませんか?」

 広げてみせると、ジュゼッペは感心して声を上げた。

「おお、こりゃあ立派なウサギですな。どれ、おーい、マッテオ!ちょっと来てくれ!」

 大きな声で館の西に向かってさけぶと、はーいという元気な返事が聞こえて、体格の良い若い男、マッテオが走ってきた。

「どうしたんすか、ジュゼッペさん。あ、こりゃお嬢様方、こんにちは」

 二人がこんにちは、と返事をするのを待って、庭師が話を継ぐ。

「お嬢様方がな、ウサギを狩ってこられたので、ちょいと毛皮に整えようと思ってな、ちょっくら手伝ってくれ」

「へえっ!?こりゃ立派なルナティックヘアですね。内臓の処理まで。これをお二人で?」

「正確にはトリシアが一人で殆ど全部やっちゃったけどね」

「はぁー、たまげたな。よっしゃ、お嬢様方、後はおまかせ下さい。きちんと処理しておきますんで」

 ありがたい、と思うと同時に、トリシアンナはまた少し申し訳ない気持ちにもなるのだった。

「ありがとうございます。肉も取れれば良かったのですが、私が未熟なもので……次はみなさんも食べられるように狩ってきますね」

 そういうと、二人は一礼すると、たまげた、たまげたと言いながら東の水車小屋の方へと歩いていった。

「邸で働いている方はなんでも出来て頼もしいですね」

 実際、侍従にしても、何かを頼んでみると意外なほどになんでもやってくれる。

 お互いの仕事を補う事が多いというのもあるのだろうが、まさか毛皮の処理まで当たり前のように出来るとは思わなかった。

「まぁねえ、私も時々熊やら猪やらも狩ってくるから、多分そのせいもあるだろうけど」

 恐ろしいことをさらっという姉。

「熊ですか……っていうかお姉様、熊や猪なんて大きな獣、どうやって運んでるんですか?」

 思えば、ほぼ手ぶらで狩りに行こうと連れ出した姉が不可解だ。普通であれば最低限、ナイフとロープぐらいは持参すべきだろう。

「私を誰だと思ってるのよ。地変系を使えばどんな重いものでも転がして運べるでしょ?」

「あぁ……思いつきませんでした。と言うより、そんなに連続して『ランドトランス』なんて使ってたら、普通の人は一瞬で魔素欠乏症になっちゃいますよ」

 要は土地を一時的に隆起させて傾斜を作り、摩擦を弄って好きな方向に滑り落として運ぶといった事をしていたのだろう。

 そういえば最初に入った獣道が、獣道にしてはやたらと広範囲に草がなくなっているなと不思議に思っていたのだ。

 現場で解体の経験が無かったというのは、多分持ってくるだけ持ってきて後は使用人に丸投げしていたのだろう。彼らの苦労が忍ばれる。

「今度から、二人で行くときは袋とロープも持っていきましょう。ナイフは……さっきのタクトでやった『エアソー』のほうが楽なのでいらないかもしれません」

 そう言うと、姉は少し嫌そうな顔をした。

「最高級の魔杖を解体ナイフ代わりに使うの、ちょっと嫌なんだけど」

「何を言っているんですか。道具は使ってこそですよ。使えるものは使う。杖で土を掘ることもあれば鞘を釣り竿として使う事だってあるんです」

 後者はやや無理があるかもしれない。とは言え、無駄な荷物は減らせるに越したことは無いだろう。姉のいない時は仕方がないが、いずれ自分一人でも山に入ることを許可されれば、良い山刀でも買おうかな、と考えるのだった。


 その日の夕刻、館にいる家族全員が揃って食堂で夕食をとっていたところ、少々問題になった。

「ディアナ。あなた、トリシアを連れて裏の山に入ったそうね」

 母が静かに尋ねた。少し怒っている。

 ぎくりと背を竦ませた姉は、入ったけど、と小さく答えた。

「あのね、ディアナ。いくら魔術の才能があるからといっても、トリシアはまだ6歳の女の子なのよ。魔物だっている裏山に入って、何かあったらどうするつもりだったの?」

 母は若干心配性な所があるが、それは子供たちを大切に思っているが故だろう。現に母、マリアンヌは少し怒ってはいるものの、どちらかというと心配する気持ちの方が強いようだ。

「私もついてるし、大丈夫だよ。それに、トリシアってば凄いんだよ。第四階位を発動しながら同時に攻撃魔術もバンバン連射しちゃったりしてさ。ルナティックヘアを狩った時も」

 そこでラディアスが口を挟んだ。

「何?ルナティックヘアを?トリシアが?一人で?すごいな!まだ鍛え方が足りないと思っていたが、あの速さについていけるのか」

 感心したように頷いている。トリシアンナは、母の方をちらっと見て、そのまま手元の肉料理をナイフとフォークで切り分け続ける。

「ラディ、少し黙っていてくれるかしら?ディアナ。まだルナティックヘアだから良かったものの、ダイアーウルフやロックエイプの群れだったらどうするつもりだったの?妹を抱えて逃げ切れた?」

「え、いやぁ、そいつらはもう私がとっくに裏山じゃ狩り尽くしてるし……暫く寄ってこないんじゃないかなあって、あはは」

 ダイアーウルフはここよりもやや北方に棲む狼の魔物で、通常の狼と同じく、群れを作る。

 獣である狼の倍以上の体高を持ち、鋭い牙に強靭な顎、何よりもボスを中心とした統率の取れた集団で獲物に襲いかかるため、生半可な人間では絶対に太刀打ちできない恐るべき魔物だ。

 実際、このダイアーウルフに壊滅させられた開拓村は過去に大量にあったようで、集落殺しという異名まで持っている。

 ロックエイプもまた、基本的にボスとそのハーレムを中心とした集団で行動する、巨大な猿の魔物だ。

 体表面がその名の通り異様に固く、半端な攻撃では傷一つ負わせることが出来ない。

 盛り上がった筋肉から想像出来る通りに腕力も恐ろしく強く、人の身体を簡単に引き千切る程の剛力である。

 更に恐ろしいことにこいつらはある程度知能が高く、冒険者を待ち伏せして挟撃したり、悍ましい事に人間の女性を攫って性欲処理の玩具にしてしまうという事もあるようだ。

 これは群れがボス中心のハーレムとなっており、下位の雄猿に雌が回ってこない事が理由ではないかと言われている。

 こちらもまた、襲われればただでは済まない。運が良ければその場で五体をバラバラにされて貪り喰われる。運が悪ければ……言うまでもないだろう。

 というより、そもそもそいつらに遭遇して狩ったという姉は一体どうなっているのだろうか。もはや人間ではないのでは?とトリシアンナは切り分けた牛の肉を口に運びながら思うのだ。

「しかしな、ディアナ。私達の心配も少しは考えてくれないか。魔術の実験をするのは構わないし、妹に教えるのもまぁいいだろう。しかし、この歳でいきなり魔物狩りというのは」

 父も困った様子で母に同意する。

 そこで仕方なく、トリシアンナは口を開いた。

「ごめんなさい、お父様、お母様。私がディアナお姉様に連れて行って下さいとお願いしたのです。魔術を試したかったのもあるのですが、その……周辺の魔物を狩っておけば、邸の人たちも安心して仕事が出来るかなと思って」

 大分話を盛った。大体嘘である。

 姉に唆されて連れ出された上に、その理由が『小遣い作って街で姉と楽しくお茶やお買い物がしたい』という極めて不純な動機からである。

 しかし、あまり両親を心配させてしまうのはよろしくないだろう。善意の嘘は必要悪であると、トリシアンナは思う。

 しかし、悲しそうに項垂れる可愛らしい幼女の嘘は、それなりに効果があったようだ。

「そう。あなたは優しい子ね、トリシア。でも大丈夫よ、この家にいる人たちはみんな自分の身は自分で守れるから。あなたがそんなに頑張ろうとしなくてもいいのよ」

 母は態度を和らげて言う。姉への矛先は完全に収まったようだ。

「そうだぞ、トリシア。しかしまあ、あれだ。魔物狩りがしたいのなら、私達に一声かけてからにしてくれないかな。ディアナやラディだけじゃなく、他にも誰かに付いて行ってもらうから」

「えっ、俺も一緒に魔物狩りをしてもいいんですか!」

 空気を読まない兄。

「宜しくお願いします、お父様、お兄様」

 こう言わざるを得ないではないか。


 翌日。兄は今日も仕事であるので、トリシアンナは昨日と同じく、朝やってきた使用人の面々に挨拶をしてから、邸の周囲をぐるぐると回った。

 昨日よりは一周多く回れたので、意外に効果のあるものだなと思いながら、昨日と同じ様に厨房に顔を出す。

 桶に貰った水を持って脱衣所に入ろうとしたところで、ジュゼッペに声をかけられた。

「ああ、いたいた、お嬢様。昨日の毛皮が出来たのでお持ちしましたよ。どうです?元がうまいこと処理されていたもんで、中々上質なもんに仕上がってますよ」

 広げて見せられたウサギの毛皮は、見事な処理が施されたものだった。

 綺麗に油汚れを落とされて真っ白になった毛はふわふわとしてあたたかそうで、内側も隅々まで丁寧に鞣されている。

 頭と脚は落とされているものの、切断箇所の処理もしっかりとされていて、このまま羽織っても防寒具として通用しそうなほどだ。

「すごいです!こんなに上手に出来るんですね。ジュゼッペもマッテオも、本当に器用ですね」

 その言葉にいやあ、と丸顔の庭師は照れて続けた。

「そんで、どうします?これで服や襟巻きを作るんならハンネさんやパオラ辺りにお願いしますけども」

 自分で使うというのも良いかもしれないが、それではこの素晴らしい仕事をしてくれた人達に報いることはできないだろう。

「いえ、これは街にいって換金してこようかと思います。お二人にも、作業の手間賃をお渡ししますので」

 その言葉にジュゼッペは大袈裟に恐縮する。

「そんな、とんでもない!俺たちはただ、自分の仕事をしただけですんで!お給金も十分すぎるほどにもらっていますし、お嬢様にそんな事をさせては、俺たちが叱られてしまいますよ!」

 そうはいっても普段の仕事ではない余計な手間を取らせたことは事実だろう。

「うーん、しかしそれでは……そうですね」

 要するに金ではなく、気持ちとしてならいいという事だろう。

「ありがとうございます、ジュゼッペ。マッテオにもお礼を言っておいて下さい」

 一旦はその場で収めておく事にする。庭師はそれで、ニコニコとしながら西の勝手口の方へと歩いていった。また庭師の仕事に戻るのだろう。

 改めて手元に残された毛皮を見る。表はふわふわと温かい肌触りで、裏は滑らかな革地。なるほど、これが高額で取引されるという理由も分かろうというものだ。

 頬ずりしてみようとしたが、自分が汗をかいたばかりだと言うことを思い出し、慌てて脱衣所へと駆け込んだのだった。


 その更に翌日の事。トリシアンナは姉のディアンナと共に、二度目のサンコスタ港湾街へとやってきていた。

 可能な限り早起きをして、朝に弱い姉を叩き起こし、ハンネに両親へ街へと行く旨を伝えてもらい、使用人たちを迎えに出ようとするフランコを捕まえて、馬車に乗せてもらってきたのだ。勿論、背負った袋には昨日の毛皮が詰め込まれている。

 街の外で待っていたパオラとマッテオを乗せて、フランコは再び坂を上って行った。勿論、マッテオには毛皮のお礼をしっかりと伝えておいた。

「いやー、私も街に来るのは久々かも」

「お姉様はいつも実験場か部屋にしかいませんからね」

 元々出不精なのであろう。あまり動かないのにこの見事なプロポーションを維持出来ているのは不思議な事であるが、魔術というのは意外と体力も使うものである、と、ここ最近は思うようになってきた。

 魔術を使う時に酷使するのは主に脳であるが、これがどうも身体の中の栄養分を持っていくらしく、魔術の同時発動をするようになってから、矢鱈とお腹が空く。

 朝走っているのもそうなのだが、昼を食べた後に魔術の鍛錬を行うと午後のおやつが待ち切れないぐらいに空腹感が襲ってくるのだ。

 元々、子供というのは成長に栄養が必要で、食べ盛り、育ち盛りという言葉があるぐらいなのだが、それにしても度が過ぎているように思う。

 食欲が旺盛なので料理長のマルコなどは本当に嬉しそうにしてくれるのだが、あんまり食べるので母などは末の娘が太りすぎないかどうか、常に心配しているようなのだ。

「とりあえず、毛皮を取り扱っているお店に行きたいのですが、お姉様はご存知ですか?」

「任せて、私達が良く行く店に連れて行ってあげる」

 私達、というのは恐らく上の姉のユニティアの事だろう。この姉の性格上、街に寄った時には必ず姉の元へと立ち寄り、お茶を飲みながら長話をするはずだ。

 上の姉も使う店なら間違いは無いだろう。トリシアンナは完璧で頼もしい姉であるユニティアの事を、無条件に信用している。

 丈の短いぴっちりとした上質な服に身を包んだ姉と共に、これまたあちこちにレースのついた可愛らしいスカート姿の妹は、街行く人に振り返られながら大通りを歩いて行くのだった。


 訪れた毛皮店は東西の大通りに面した、高級店の立ち並ぶ中にあった。

 店先には贅沢にもガラス張りのショーウィンドウが存在し、値札を見てトリシアンナがたまげるほどの毛皮服が複数置かれている。

 姉は臆することも無く中に入り、軽く手を上げて店員を呼んだ。

「いらっしゃいませ。お探しものでしょうか?」

 シンプルながらも上品な背広を着込んだ女性が対応する。すらりと背が高く、ディアンナよりも頭一つ分ぐらい大きい。

「そうね。まずは買い取りをお願いしたいのだけれど」

「かしこまりました。こちらへどうぞ」

 武具店でも感じたことだが、大通りに面した店は総じて店員の対応が非常に丁寧である。

 基本的に裕福な人間を相手にする事が多いので、必然的にそうなるのだろう。

 奥のL字になった会計カウンターの奥側で、先程の店員が向こう側に回った。

「拝見いたします。……ほう、これはまた上質なルナティックヘアの毛皮ですね。鑑定士を呼びますので少々お待ち下さい」

 背の高い店員が奥に引っ込んだ後、トリシアンナはぐるりと店内を見回してみた。

 客の数はそう多くない。広い店内に数名、明らかに貴族の御婦人や大商人の奥様と思われる方が、店員を相手に立ったまま何やら話し込んでいる。

 近くに吊るされている毛皮で出来た子供用の防寒着を何気なくみて、ちらりと目に入った値札に、くらりと目眩がした。

「このサイズで1.3ガルダ……子供用ですよね、これ」

「ん?何か気に入ったのでもあった?」

 姉がこちらに気づいて言った。

「へえ、可愛いじゃない。トリシアに似合うかもね。値段?うん、こんなもんじゃないの」

 この姉といいラディアスといい、やはり貴族の金銭感覚は少し違うのか。

 街に出る度に文化的衝撃を受けている気がする。自分も早くこれに慣れないといけないのだろうか。しかし、庶民の感覚を知らずして統治が務まるとも思えないが。

 そんな無用な心配をしていると、奥から単眼鏡をかけた初老の男性が出てきて声をかけた。

「ディアンナお嬢様。いつもご贔屓にありがとうございます。今日はルナティックヘアの毛皮だとか」

「ええ。結構な上物だからサービスしてくれると嬉しいわ」

「ご期待に添えるよう致しましょう」

 男は白い手袋をはめると、毛皮の間を覗いたり、裏返して触ったりと具合を確認している。

「これはまた、非常に上質ですな。ここまでのサイズでこれほど美しい毛並みは稀です。処理もきっちりとしてありますし、こちらの手間も省けます。……では、これでいかがですかな、お嬢様」

 初老の紳士は傍にあった小さなメモ帳にサラサラと金額を書き込んで、ディアンナに見せた。それを見たディアンナは少し難しい顔をして、しかし何やら悪戯をする時に似た感情をトリシアンナは感じ取った。

「そうね、まぁ普通ならこれぐらいだけど、このサイズと状態よ?ねえ、トリシア、あなたもこの金額、どう思うかしら」

 言って妹を抱き上げると、その書き記された金額を見せた。

 相当に数字を書き慣れたであろう流暢な筆跡で、そこにはCu-2,60,00-と書かれている。最小単位のカッパドだ。100カッパドで1シルバ、100シルバで1ガルダだ。つまりこの金額は2.6ガルダ。この街の一般的な船乗りの月収の1.3倍。

「……はっ?」

 思わず声が出た。僅か一日の、たったあれだけの狩りで2.6ガルダ?

「ほら、妹だってこう言ってるのよ?わかるでしょ?」

 しかし単眼鏡の紳士はトリシアンナのこの声を別の意味に受け取ったようだった。

「いやはや、メディソン家のお嬢様方相手では本当に商売がやりにくいですな。わかりました、こうしましょう」

 紳士は紙に書かれた数字に二本、線を引いて取り消すと、2,6の部分を3,0に書き換えた。

「うーん、まぁ、いいんじゃない?トリシアもこれなら良いわよね」

「あ、はい」

 合わせるしか無いというのはこの事だろう。3ガルダである。

 この毛皮を一枚売っただけで、一般的な街の4人家族が1ヶ月、何不自由無く暮らせる額だ。

「お渡しはどう致しましょう?全て金貨でも?」

「いえ、街でちょっとお茶したいから。一枚分を銀貨でお願いできるかしら」

「かしこまりました。領収証はいかが致します?」

「いらないわ。売却だもの」

「承知致しました」

 姉と紳士の二人だけで話が進んでいく。

 とりあえず体裁を保つために動揺を表に見せないようにだけ気をつけながら、トリシアンナは穏やかな笑みをひたすらに浮かべていた。


「またのご利用をお待ちしております」

 大通りにまで出てきて深々と頭を下げる二人の従業員。姉は慣れた調子でひらひらと手を振って、トリシアンナの手を引いた。

「ふふふ、どう?驚いたでしょ」

「……驚きましたよ。お姉様も意地悪ですね。それにしても3ガルダとは」

 姉から渡された袋には。金貨が2枚と銀貨が100枚。ずっしりとした重さが伝わってくる。

「今回のは流石に状態が良かったからね。私がここに持ってくるのはまぁ、基本的に希少な魔物の毛皮ではあるんだけど、ほら、転がすじゃない」

「あぁ」

 『ランドトランス』で地面を転がせば、それはどれだけ気をつけても毛皮の質は落ちるだろう。今回は斬る事すら躊躇った自分の仕事で、しかも現地である程度処理してから運んできたものだ。言わば専門のハンターが現地処理した新鮮な肉のようなものだろう。

「それにしても3ガルダ、3ガルダですよ、お姉様。たった一日の、あれだけの時間と労力でこの値段です」

「気に病む事は無いんじゃない?あの店なら、あの量を加工すれば5か6ガルダぐらいの商品にはなるし、職人の手間賃を考えても結構な儲けよ」

 確かにあの店に並んでいる商品はどれも高額だった。それを考えれば、買う人間がいるならば店としては全く損をしていないのだろうが。

「なんか、ラディお兄様と買い物をした時も感じたのですが、どうにも一般庶民との金銭感覚が私達とかけ離れている気がするんですが」

 あのような店を利用するのは相当な富裕層ばかりだろう。需要が一定数あるのもわかる。だが、人口割合で言えば圧倒的に多いのは庶民なのだ。その感覚を思えば、素直に儲かったと喜ぶ気分になれないのが素直な気持ちである。

「まぁ、そうね。ラディ兄さんは騎士団にいた後こっちでも高給取りでしょ。私も時々希少な魔物を狩って今みたいな取引してるわけだし、発明品のロイヤルティも定期的に入ってくるから。トリシアンナがそう思うのも当然よね」

 その辺り、きちんと理解して説明してくれるのはラディアスと少し違う所だ。

「それでも私達は領主の娘だから。ちゃんと、相応に浪費しないといけないの。いい?トリシア。上にいる者がみんなケチってお金を出すのを渋って、貯め込んだらどうなると思う?」

 言われて、考える。

「そうですね、そうなれば、一定数出回っている貨幣の量が減ります。王国が新しく作らない限りは、流通貨幣の量が減れば経済が滞ります」

 現在の貨幣を発行しているのは王国の、独立した機関である貨幣造幣局だ。ここは全ての支配領域での金属産出量を管理しており、貨幣を作る量に他者の影響が絶対に及ばないような、極めて厳格な管理を行っている。製造した貨幣の量すら公表されていないし、国王ですらその量を知る事は出来ない。

「そうね、出回ってるお金の量が減る。商会や銀行も融資を渋るし、そうなるとどんどん新しい商売は出来なくなっていく。ま、そうなったら経済冬の時代よね」

 貨幣は流れさせてこそ意味がある。そのために、持てる者は持てる者相応に消費するのが正しいと言えるだろう。

「大通りの大店舗も、需要と供給があるから存在しているのですね、当たり前の事ですが」

 トリシアンナが報酬を払うとジュゼッペに言った時、彼は大げさに断った。つまり、それだけの報酬が彼らには支払われているという事だ。改めて、この街の事を良く考えているのだと、自らの家族に感嘆を覚える。

「ふふ、トリシアは本当に賢くていい子だわ。私の言う事を10言えば100考えてくれるんだもの」

 人目も気にせず、大通りで姉は妹を抱き上げて頬にキスを浴びせる。

「や、やめてくださいお姉様。下ろしてください」

「えー、いいじゃない姉妹なんだし。スキンシップよスキンシップ」

 姉の溢れる愛情に溺れそうだ。兎に角この状況から逃れる為に、トリシアンナは次の行き先を提案する。

「それより、お姉様。私は先程の毛皮を仕立ててくれた二人にお礼がしたいのですが」

 金銭で渡せば、充分に報酬を貰っている使用人には先の経済の話のように問題があろう。しかし、モノを買って渡せば、そのモノを買った店に金が渡り、貨幣は循環する。これならば何も問題は無いだろう。

「もう!本当にあなたは良い子ね!私の話を聞く前に最適の答えを先に見つけていたなんて。よーし、じゃあジュゼッペとマッテオに最適なプレゼントを探しに行こっか!」

 強すぎる姉の愛に辟易しつつも、引きずられるようにトリシアンナは街の商店を次々に回る事になったのだった。


「これはどう?デザインもいいと思うんだけど」

「それはお姉様の基準でしょう。贈る相手はジュゼッペですよ、もう少し考えてください」

 街の雑貨店で、まずは庭師であるジュゼッペに贈るものを選んでいた。

 庭師であれば好みそうなもの。しかし仕事に必要なものとなればそれは経費になってしまう。その塩梅が難しく、姉と喧々諤々の議論を重ねているわけだ。

「ほら、庭師でしょ?お花の柄とかいいんじゃない?このスプーンとか」

「お姉様、ジュゼッペにはご家族もいらっしゃるのですよ。単独でそのようなものを贈っては迷惑です。それよりはこちらの、ほら、あの実用的で頑丈そうなハサミなどいかがでしょうか」

「えー、ちょっと流石にそれは無骨じゃない?それに、ハサミだとあの真面目なジュゼッペの事だし、仕事の道具として使いそうだし」

「確かに……あっ、ではこのナイフなどはどうでしょう?デザインも素敵ですし、ほら、栓抜きもついていますよ」

「あ、アハハ!本当だ。いいんじゃない?ジュゼッペは家で結構お酒飲むって言ってたしさ。ナイフならコルク抜きも出来るし」

「そうなんですか?じゃあ、決まりですね。すみません!これを」

 結局、色々な機能のついたナイフを贈る事にした。価格は5シルバ。彼の成した仕事に比べれば余りにも安すぎるとは思うが、使わない置物を贈っても仕方がないだろう。

 一旦その雑貨屋を出て、次へ向かう。

 マッテオは最近結婚したばかりの、マッチョな若者だ。

 彼が何故メディソン家に使用人として仕える気になったかと言えば、どうやら歴代当主の強さに惚れ込んで、是非その近くで仕事をしたいと思ったからであるらしい。

 普段からとても気のいい若者で、特にラディアスの愛馬であるアルフォンソと仲が良く、その面倒を良く見てくれている。

 愛妻家でもあり、毎週メディソン家に通いながらも、休みの日には家族と一緒にあちらこちらへと出かけていると聞いたことがある。

「マッテオへのプレゼントなら、やはり食べ物でしょうか」

 たくさんの量があれば家族も喜ぶ。マッテオも喜ぶだろう。

「そうね、でも、渡すのは邸でしょう?あんまり日持ちしないのは良くないかもね」

「直接お家に持っていくのは?」

「ダメでしょ。旦那の勤め先のお嬢様が直接お礼を持ってきたら、家族だって恐縮しちゃう」

「そうですね。では、日持ちして、毎日食べるものを少し豪華にする、みたいなのはどうでしょうか」

 主食に少し添えるだけで嬉しくなるもの、というのは存在するのだ。

 トリシアンナは、海苔の佃煮やしらす干しといった海産物を思い浮かべてうっとりとした。

「良いわね、例えば安い黒パンにだって柑橘やベリーのジャムをつければごちそうになるだろうし」

 改めて文化的衝撃を思い出したのだった。


「はー、疲れたわ」

「お疲れ様です。お付き合いありがとうございます、お姉様」

 港にほど近い、海を見渡せるカフェで二人は寛いでいた。

 時間はまだ昼の前、まだ昼食には早い時間ではあるのだが

「ふふ、トリシア、お腹減ったんでしょう」

 見透かされてトリシアンナは少し顔を赤くした。

「お姉様と魔術の鍛錬を始めてから、妙にお腹が空くのです。多分魔素充填の影響だと思うのですが……」

「分かってるって。私も急激に魔力が増えた時は、それを補う為に食欲が増えたからね。それに、食べたい時に食べないと、こうなれないぞー」

 言って姉は自分の胸を下から持ち上げた。重量感のある脂肪の塊が、目の前で揺れている。

「……邪魔ではないですか?」

「……ちょっとねー」

 本人にしか理解できない悩みも、やはりあるにはあるのだ。

 結局二人はそこで、少し早い昼食にする事にした。


 秋の海風を感じながら姉と会話する時間は楽しく、ついつい長話をしてしまう。

 昼前の時間を過ぎて、そろそろと人が増えてきたなと思い、二人はカフェを後にした。

「そんじゃ、行きましょうか」

「はい、お姉様」

 どこに行こうかというのはお互い言うまでも無く、姉の所に決まっている。

 メディソン家の姉妹は本当に仲が良い。

 それはとりもなおさず、長姉の包容力が圧倒的だからである。

 メディソン家の長女として、どこに出しても恥ずかしくない、完璧で慈愛に満ちた姉。

 スパダ商会に嫁いでも尚、そのメディソン家の完成形とされる能力に陰りは見えず、本来、時期スパダ家の後継とされる現当主の息子の嫁として入ったにも関わらず、早くも実務の取締役として遺憾なくその実力を発揮している、兎に角すごいお姉ちゃんなのだ。

 ラディアスと一緒に訪れた時とは違い、姉も妹も、良家の子女に相応しい出で立ちをしている。それでも、一般的な常識を身に着けているディアンナとトリシアンナは、表通りから路地に入った、長姉の家の正面玄関から入る事にした。

「お兄様と来た時は、大変でした」

 あの時を思いだして、今も尚顔から火が出るほどの羞恥を感じる。

「あー、うん。まぁ、そうなるだろうね。あのバカ兄貴だと」

 まさかあの格好で正面から入るなどと、貴族の娘として本来予測できる行動だろうか?

「ディアナお姉様は時々暴走しますけど、ラディお兄様に比べればまだマシです」

「えっ……えっ?私、暴走してる?」

「あっ、呼び鈴を鳴らしますねー」

 暴走しない兄姉などいない。但しユニティアお姉様を除く。

 大きな商会からすれば裏通りと言われても仕方のない入り口ではあるが、通り自体の広さはそれなりで、家屋も周辺のものと全く遜色ない。

 小さな呼び鈴を鳴らして、出てきたのは以前にも面識のあるマウラ・ジュリアーニ女史であった。

「これは、ディアンナ様にトリシアンナ様。若奥様にご用ですね?どうぞ、中へ」

 普段は商会で書類作業をしているはずだと思ったが、今日は姉の専属としてこの家にいるようだ。別の日には別の従者がいるのだろう。いずれにしても、面識のある人が対応してくれて助かったと、トリシアンナはささやかに安心した。

 以前にも通った家屋構造を抜け、二階のユニティアの部屋へと入る。

「あら、ディアナ、トリシア。いらっしゃい。今、おっぱいをあげてるからちょっと待っててね」

 姉はラファエロとクラウディアを両腕に抱えているところだった。兄がいれば入れなかったであろう。

「アハ、可愛い~」

 姉の乳首に一生懸命吸い付く甥と姪に、ディアンナは頬を緩ませて魅入っている。

 実際、可愛らしい。世の中にこんなに可愛い生き物がいていいのかと思うほどに可愛い。

 ぷくぷくとした頬を精一杯に動かして、目を開くことも大変だという具合に乳を吸っている。これが可愛くなくて一体何を可愛いと言うのであろうか。

 周囲が暖かな光に包まれている。トリシアンナが産まれた頃の様に。

 気づけば自分も同じ感情を持っている。こうやって、愛というものは連綿と受け継がれていくものなのだろう。


 暫くして、天使のような甥と姪は吸い疲れて眠ってしまった。

 子供たちをベッドに寝かしつけると、ユニティアは二人の妹に微笑みかける。

「ふふ、トリシアが来るのは二度目ね。今日は随分と可愛らしい格好じゃないかしら?」

 以前の格好を揶揄するような、それを妹自身が知っていてるからこそ言える冗談でもある。

「はあ、ラディお兄様はどうしてああなのでしょうか。街に来るなら最低限の格好ぐらいはさせてくれれば良かったのに」

「騎士団にいたせいなのかしらね?でも、騎士団にも女性がいるとは聞いたことがあるし」

「ラディ兄さんって女性に興味ありすぎるくせに、全然その辺成長してないでしょ、あれはもう変えられない性格なんじゃない?」

「女性に興味といえば、酒場に連れて行かれたのには驚きました」

「あぁ……いくらクラーケンの子供を食べるためと言っても、ねえ」

「クラーケン?何それ?」

「トリシアがね、クラーケンの子供を食べたいって言ったみたいなの」

「えっ?トリシア、あなたクラーケンを食べたの?」

「ただのクラーケンじゃないのよ、ディアナ。トリシアは自分でトドメをさして、しかも生でむしゃむしゃと食べたのですから」

「え、えぇー!?」

「ユニお姉様、言い方、言い方があるでしょう。確かに生では食べましたが、ちゃんと然るべき調理をしてですね――」

 姉妹の会話というのは、概ねこういった平和なものなのであるべきだろう。

 トリシアンナは、ずっとこういった時間が続けばいいのにと願って止まない。


 すっかり話し込んでしまい、随分と時間が経った事に気づいたのは、双子の甥と姪が目を覚ましてむずがり始めたからであった。

「そろそろ帰ろうかな、姉さん、お邪魔しました」

 すっかり冷えた紅茶の残りを飲み干して、ディアンナはカップを置いた。

「そう、気をつけてね。あぁ、そうだわ、お父様とお母様にお土産を持って帰って頂戴」

 ぐずる双子をあやしながら、器用にユニティアは枕元のベルを鳴らした。

「お呼びでしょうか」

「二人が帰るみたいだから、用意してあった物を渡してもらえる?」

「畏まりました」

 マウラは扉を開けて待っている。

「それじゃ、姉さん、また来るわ」

「お姉様、お体にお気をつけて」

 二人で姉に別れの挨拶をして、一階に降りて紙袋を受け取ると、来た時と同じく、玄関口から路地に出た。

「そうだ、トリシア。折角スパダ商会に来たんだから、トリシアの口座を作っておこうよ」

 スパダ商会は主要都市ほぼ全てに支店を持っており、銀行と同じような預金口座も作る事が出来る。証紙と魔力で押した拇印さえあれば、どの支店でも手数料無しで貨幣の出し入れが出来るのだ。

「あぁ、確かにそうですね。使わない大金を持ち歩くのも問題があるでしょうし……表に行きましょうか」

 大通りに出ると、今度は臆すること無く正面の入り口から商会に入る。

 相応しい格好さえしていれば、何も気後れする事は無いのだ。

 商会内のロビーは、以前と変わらず静かな喧騒に包まれている。

 午後で業務も一段落ついたのか、カウンターの奥で仕舞い支度をしている従業員も見受けられる。

 以前に兄と向かった居並ぶカウンターの方へ歩いていくと、見知った顔がいた。

「おや、ディアンナお嬢様。と、トリシアンナお嬢様。こんにちは。また、若奥様へ?」

 笑いながらディアンナが答える。

「そっちはもう済んだのよ、ポートマンさん。今日は妹の預金口座を作りに来たの」

「おや、左様でございましたか。それではこちらにご記入と、魔力印をお願いしてもよろしいですか?」

 一枚の用紙と、特殊なインクを染み込ませた朱肉のようなものを差し出してくる。

 トリシアンナの身長ではカウンターに手が届かないので、姉に誘われるまま、入り口近くのソファとテーブルを使わせてもらうことにした。

 綺麗に印字された申込用紙に、太い枠で囲まれた部分がある。ここに記入しろという事だろう。

 トリシアンナは記入欄に必要事項を書き入れていく。生年月日、年齢、性別、名前、住所。

 保証人の欄の他に、16歳に満たない者は保護者の承諾が必要、とある。

「お姉様、これはどうしましょう」

「両方とも私が書くからいいよ。私もスパダ商会に結構な額を預けてあるから、身元は問題ないと思う」

 親で無くても良いというのは助かる。姉に保証人と保護者の欄に記入してもらい、最後に青い朱肉で拇印を押した。

「書けました」

 ポートマンの所に持っていき、自分の目線よりも高いカウンターに紙を載せる。

「はい、確認致します。それでは、証紙をお作りしますので少々お待ち下さい」

 トリシアンナからは見えない向こう側でごそごそと何かを取り出す音がして、カウンターの上に何かが置かれた。

「それでは、この証紙の上にもう一度魔力印を……」

 そこで話が止まる。姉が笑いながら、背の届かないトリシアンナをひょいと持ち上げた。

「失礼、この証紙の上にも魔力印をお願いします」

 目の前には自分の手のひら程度の大きさのカードが置かれている。右下隅に透明な枠があり、そこの上に魔力印、と書かれていた。ここにもう一度拇印を押せば良いのだろう。

 もう一度インクを親指につけて、ゆっくりと印をつける。差し出された小さな布で指を拭っていると、その上に透明なフィルムが貼り付けられた。

「こちらが本人証明の証紙となります。預け入れの際は見せるだけで結構ですが、お引き出しの際には、係員にこの魔力印に親指を乗せてお見せ下さい」

 貰った証紙の印のところに、親指を乗せてみる。裏返して反対側から覗くと、押された印が青く浮かび上がって、指紋の形と重なった。

「へえ、便利なものがあるんですね」

 確かにこれなら本人確認が楽にできるだろう。良く考えついたものである。

「すぐに口座に預け入れをされますか?されない場合は、空口座を防ぐために手数料をお預かりしているのですが」

「あっ、はい。これをお願いします」

 革袋から十枚程銀貨を避けて、残りを袋ごと預ける。

「確認致します。……金貨2枚に銀貨55枚ですね。2ガルダと55シルバ、確かにお預かります」

 ポートマンは裏写りする帳簿の紙に金額を書き入れて、一枚剥がしてこちらに寄越した。

「こちらが現在のお預かり金額です。引き落とし等でお買い物をされる際、預かり金額を超えてしまうと、自動的に不足分の借り入れ状態となりますのでご注意下さい。借り入れ金は発生日から30日、一月で5分の利息がついてしまいますので、こまめなご確認をお願い致します。はい、こちらが利用に関する約束事になります。良く読んでおいて下さいね」

 小さな文字でびっしりと約束事の書かれた紙を渡された。

 口座開設と同時に、自動的に借金の出来る機能もついているわけだ。なるほど、それで空口座防止の為に必ず一定額の預け入れが必要になる、という事だろう。

 偽名で空口座を作って大量に買い物をしてとんずら、という事への、一定の牽制にはなるだろう。まぁ、追い詰められた人間は形振り構わないだろうけれども。

 返してもらった革袋に手元の銀貨を入れ直し、軽くなった袋を首からかけて懐に入れる。

 財布も買ったほうがいいかも、等と言いながら、姉と連れ立って表へと出た。


「どうする?まだ見て回る?」

 姉の言葉に少し迷ったが、帰りましょう、と答えた。

 財布なんかも見てみたいといえば見てみたいのではあるが、それは次の機会でも良いだろう。

 目的があって街に来る方が楽しいだろうし。

 大通りをゆっくりとした歩調で西へと進む。向こう側から少し大きな馬車がやってくるのが見える。丁度後ろからやってくるものと鉢合わせしそうだ。

 姉は気にせず歩いているようだが、トリシアンナは少し道の端に寄って立ち止まり、やり過ごすことにした。

 向かってくるのは3頭立ての大きな馬車。中に居るのは結構なお金持ちなんだろうなあ、と、何気なくそちらの方に意識が向いた。中には3人ほど乗っているようだが、目立って変な感情は視えない。前方を歩いている姉に意識を戻そうとした時、視界と口が塞がれた。

「!?」

 声を出そうと思ったが、猿轡を噛まされたのかくぐもった声が喉の奥で鳴っただけだ。

 トリシアンナは急に身体が持ち上げられ、自分が誰かの肩に担がれている状態であると認識した。

 担いでいる相手は走っているのか、ひたすら揺れて気持ちが悪い。

 硬い肩が腹に何度もめり込んで吐きそうだ。

(これは、人さらい、でしょうね。とりあえず下ろして貰いましょうか)

 触れている腹の辺りから、雷撃系第一階位『ソーンズ』を最小火力で発現する。

 バシンという何かを叩きつけるような音がして、担いだ人間が痙攣してつんのめるのを感じた。

(あっ、しまった)

 慣性の法則に従ってトリシアンナの小さな身体は前方へと投げ出される。目の見えない状態では受け身はまともに取れないだろうが、とりあえず両手の親指と人差し指で三角形を作り、地面に触れた感触と同時に肘を曲げ、前転の要領で転がった。

 転がりながら目隠しと猿轡を外す。運んでいた人間は急いでいたのか、腕を縛られていなかったので助かった。

 両の手のひらは擦りむいてしまったが、頭を打って気絶しては元も子もない。

 トリシアンナが素早く起き上がって振り返ると、膝をついている男の姿が目に入った。

「おい!何してんだ馬鹿野郎!急げ!」

 後ろから怒号が聞こえる。人さらいは一人ではなかったようだ。

 振り返ると見るからに人相の悪い男が二人、走って駆け寄ってくる。

「うるせえ!このガキ、何かしやがった!」

 まだ痺れが残っているのか男は跪いたままだ。トリシアンナは逃げようと思い、その男の方へと駆け出した。

「待て!このガキ!」

 後ろから男たちが追ってくる。歩幅が違いすぎるため、このままではすぐに追いつかれてしまうだろう。膝をついて蹲っている男の横を通り過ぎる時、全力で風圧系第一階位『ブリーズ』を放った。

 暴風が一瞬吹き荒れ、男の身体を横倒しにする。狭い路地で男の身体が障害となり、一瞬追いかけてきていた二人の足が止まる。

「ガキが、あの歳で魔術だと?くそっ、舐めやがって!」

 後方の魔素の動きを感じ取ってぞっとした。

(フレイムアロー!?こんな狭い路地じゃ、避けられない!)

 火炎系第二階位『フレイムアロー』は、大気中を連続して燃焼させながら進む火炎放射の術だ。空中を飛んでいくように見えるのが矢に似ているためこう呼ばれるが、フレイムスロアーの方が正しいのではないかと下らない事を一瞬で考える。

 防御の構成を組んでいる暇はない。出来るだけ離れて減衰した状態でないと、丸焦げにされてしまう。自分を攫うつもりではなかったのか。

 短絡的な人さらい達の行動に苛立ちを募らせるが、どうしようもない。馬鹿に鋏とはこの事だ。

 後ろから魔術が放たれるのを感じる。同時に身体を前へと投げ出し、地面にヘッドスライディングする。真っ白なブラウスとスカートが砂埃を巻き上げて、自らもその色へと染まる。

 頭の上を燃える炎が通過していくのを感じる。転んで避けたせいで一気に距離を縮められた。このままでは捕まってしまう。

 振り返ると、男たちの手が正に今、トリシアンナに向かって伸びようとする所だった。

(逃げられない、やるしかない!)

 既に展開を始めていた第四階位『マニピュレイション』を発動。伸ばされた手をかいくぐるようにして、足元へとスライディングタックルを放つ。

 痩せた男の足元から背後に回り込むと、即座に相手の膝裏へと回し蹴りを放った。

 非力な自分の打撃では相手を無力化する事はできないが、関節の裏を強かに叩かれた男の体勢が崩れ、海老反りになる。トリシアンナは後ろ向きに男の顎へと手を回すと、遠心力を利用して首投げの要領で自分の前に引きずり倒した。

 力が足りないせいで投げ飛ばすことこそ出来なかったが、、うつ伏せの状態で腹を地面に打ち付けた男が苦しげに唸る。

「このっ、ガキ!」

「語彙力の無い方々ですね」

 続けて向かってきた禿頭の男に、再び最低限の力で第一階位『ソーンズ』を展開。ビシリと電撃が命中し、男が軽く仰け反る。

 脇から長髪の男が短剣を抜いて突き出してきた。子供相手に魔術だけでなく刃物まで持ち出すのか。

 次々と突き出される鈍色の刃を、強化された視神経でもって躱し続ける。

 今の状態では当たる気がしないが、流石に息が上がってくる。

 神経強化で反応速度を上げられても、肉体そのものは子供のままだ。このまま続けばいずれ力尽きてしまう。その前に、なんとか無力化しなければ。

 とはいえ、トリシアンナの使える魔術の選択肢では、殺傷力が強すぎるか全く無いかのどちらかしかない。人間相手に手加減して攻撃魔術を使う場面など、全く想定していなかったのだ。

(力加減を間違えると……)

 黒焦げになったルナティックヘアの体内を思い出した。

 避け続けているうちに、先程投げ飛ばした痩せ型と、痺れさせた禿頭も立ち上がってきている。このままでは本当に、こちらが先に力尽きてしまう。

 狭い路地であっても、大の男三人に続け様に襲いかかられては休む暇がない。

 終わりか、と覚悟した時、ぼん、という音がして一番手前の男が後方に10メートルほど吹き飛んだ。

 直後にすとん、と空から人が降ってきた。目の前には、見慣れたお尻と太もも。割って入るような形でディアンナが腕を組み、男たちの前に立ちふさがっていた。

「あんた達、余所者ね。この街に住んでいる人間なら、私達に手を出そうなんて絶対に思わないはずだから」

 唐突に現れた人間に男たちは驚いたようだが、それが若い女と見るや、すぐに襲いかかってくる。

「女一人に何ができる!捉えてマワしてやる!」

 下卑た感情をむき出しにして、愚かな男どもが姉に襲いかかる。しかしその足は大地に掴まれ、つんのめった男達は顔面を盛大に地面へと打ち付けた。

 地変系第三階位『マッドロック』で、泥濘と化した地面を即座に硬化させ、対象の足元を封じたのだ。身動きの取れない男どもは無視して、姉は振り返ってしゃがんだ。

「トリシア、大丈夫?怪我とかしてない?」

「ありがとうございます、お姉様、助かりました。……大丈夫です、少し手のひらを擦りむいただけで」

 その言葉を聞いて、ディアンナはトリシアンナの手のひらを見た。

 軽症ではあるものの、擦り剥けて血まみれになった小さな手を見た途端、姉の怒りが即座に爆発した。感情が炎の如く真っ赤に燃え上がる。

「あんた達、あたしの大切な妹の肌に傷をつけたわね」

 溢れ出して立ち上る魔力が姉の髪を揺らす。膨大な魔素が彼女の手元に集中し始める。

「お姉様!殺してはいけません!」

 その言葉が聞こえたのか聞こえていないのか、怯える男達にディアンナは構成を解き放った。

 ぱん、と火薬の爆ぜるような音が響いたかと思うと、目の前の三人は気絶していた。

「殺しはしないわよ。まぁ、鼓膜の2つや3つは破れたかもしれないけど」

「鼓膜は2つしかありませんよお姉様……」

 安堵から力が抜け、その場にしゃがみ込む。着ている服は砂に塗れてあちこちが茶色く変色しており、手のひらはヒリヒリと痛み続けている。

「とりあえず警備隊に連絡しないと。トリシア、手、大丈夫?」

「すぐに治せるとは思いますが、まずは洗わないと」

 傷口に砂や雑菌が入った状態では治療もままならない。どこかで洗わなければ。

「大通りに出ましょ。水は近くの店でお願いしたらいいわ」

 姉はトリシアンナを立たせると、気絶したままの男たちをちらりと見てから大通りへと向かった。


 大通りに出てすぐの服飾店に駆け込み、賊に襲われたことを説明した。

 店主はすぐに人を警備隊の詰め所へと走らせ、奥で手を洗う為の水まで提供してくれた。

「通報があったから来てみりゃ、襲われたのはお前たちだったのか」

 十数分経ってから、走ってやってきたのは兄のラディアスと二人の部下だった。片方は以前、北口の門で見た警備兵である。

「私達、というより、トリシアね。大方裕福な家の子供を攫って身代金を取ろうとしたか、売り飛ばそうとしたかってとこでしょ」

「はぁ、身の程を知らん馬鹿もいたもんだな。多分余所もんだろうなぁ」

「でしょうね」

 5人で連れ立って路地に入ると、男たちの一名はまだ気絶したまま、残り二人は足を抜こうとして藻掻いているところだった。

「オイコラ、都市警備隊だ。ちょっと詰め所まで来て話を聞かせてもらおうか?」

 兄と二人の警備兵は手慣れた様子で男達を後ろ手に縛ると、『マッドロック』を解除して引き立たせた。

 鼓膜は破れていないようだが耳が聞こえにくいらしく、離せだの殺すぞだのと大声で喚いている。

「お前らも、悪いけど話聞かなきゃいけねえから一緒に来てくれ。調書作るからな」

 連れ立ってぞろぞろと大通りを歩いていく事になった。

 傍からみれば異様な光景である。

 この街で知らぬものはいないだろうというラディアスとその部下が、大声で喚く男を引っ張っている。それだけなら日常の風景だが、その後ろに領主の娘が二人、しかも小さい方は真っ白な服を砂まみれ、埃まみれにしている。

 面子もそうだが、これでは被害にあったのが誰か一目瞭然だ。

 明日になれば、領主の末娘が暴漢に襲われたという噂が街中に広まっている事だろう。

 気にしても仕方のない事なのだが、トリシアンナは自分に注がれる好奇の視線に、少し居心地の悪さを感じていた。


「なるほどなぁ、馬車を避けて道端に寄ったら路地裏に引っ張り込まれた、と」

 調書を作るから、と、案内されたのは、詰め所入り口のすぐ近くの応接間だった。

 無骨な造りの外観に反して、ソファもローテーブルもしっかりとした高級品で、意外にも落ち着いた感じの部屋である。

「それで、トリシアは男に担がれてて、雷撃魔術を使って一旦脱出した、と。あ、こりゃまずいな」

 兄は困った顔をした。

「トリシアが魔術を使えること、公的には内緒にしとかなきゃいけないんだった」

「ああ、そういえばお父様が言ってたわね。6歳の娘が処女魔法で第五階位の雷系の使い手だなんて報告したら、今すぐ宮廷魔術師に引っ張られるから内緒にしておけって」

「え、そうなんですか?」

「実際にすぐに連れてこいってことは無いだろうけど、将来的によこせって事にはなるでしょうね。だから、12歳ぐらいになった時に適当に風圧系あたりだったってでっちあげて報告するって」

 それは、良いのだろうか。

 トリシアンナとしては愛する家族と離れて王城勤めなど、可能な限り遠慮したいところではあるが、国王の臣たる地方領主がそのような虚偽の報告をしても許されるものだろうか。

「まぁ実際バレるわけがないからな。誰だってそんな話聞いたら嘘だって思うだろ。だから、黙ってるのが八方丸く収まるってもんだ」

 確かに、余程街中で希少な魔術を見せびらかしたりでも無い限りはまずバレないだろう。家族と使用人に箝口令を敷いてしまえばそれで終わりである。

 どこからか漏れたにしても、そんな突拍子もない話はただの噂だと鼻で笑われておしまいだろう。

「まぁそんなわけだし、ううん。攫われかけたが紅蓮の魔女がすぐに気づいてボコボコにした、でいいか」

「紅蓮の魔女?何ですかそれ?」

 流れ的に姉の話ではあるとわかるのだが。

「そういうの恥ずかしいからやめてくれる?大体、公的な調書がそんな適当な書き方で良い訳ないでしょ」

「わはは、冗談だ。まぁ調書はちゃんと書くけどよ、ディアナはそっちの通り名の方が有名だからな」

 どうにもこの次姉にはこっ恥ずかしい二つ名のようなものがついているらしい。ただ、確かに姉は赤系統に統一した服装を好むし、トリシアンナから見ても良く怒っては真っ赤になっているように視える。あくまで視えるだけだ。

「ええと、被害状況だが、領主の末妹、トリシアンナ・デル・メディソンが両手に軽い擦過傷……そうだ、トリシア、手は大丈夫か?」

「はい、もう治しました。軽症でしたので」

「そうか、盗られた物とかはないか?」

 そう言われて、トリシアンナは身体をまさぐる。

「あっ……お土産と贈り物が」

 手に下げていたはずの紙袋が無い。

「ああ、これか?大通りの端に落ちてたのを、通報した店の店主が拾っておいてくれたぞ」

 はいよ、と紙袋を渡されて中身を確認する。特に損傷した様子もなさそうで、ほっと胸を撫で下ろした。

「良かった。お兄様、お店の方にお礼を申し上げたいのですが」

「ああ、後で俺から必ず伝えておく。父上からも後日お礼が届けられるだろ。そんで、加害者、まぁ犯人についてなんだが」

 兄は手にしたペンの反対側で軽く後頭部を掻いた。

「やっぱりつい最近、他所から来た人間だったよ。三人ともエスミオ地方出身の元冒険者。大分前……三年程前にエスミオダス冒険者協会を除名されて、行く先々で略奪なんかして食いつないでたっていう、典型的な冒険者崩れの犯罪者だな。それなりに魔術や武器の扱いに慣れてるもんだから、元々の素行が悪い奴は割とこういった道を辿りやすいんだ」

 エスミオ地方は、このサンコスタ地方とも山脈を挟んで一部境界を接する東の地方だ。

 税収の多い工業国家で、金属や鉱石の産出が多く、武具製造や金属加工品の生産が盛んである。

「ラディ兄さん、そいつらからトリシアの事が漏れる心配は?」

「無いだろ。大体、誰が冒険者くずれの誘拐犯風情の言葉に耳を貸すんだよ。んで、続きだが、どうにも聞き出したところによると、王都の一部で人身売買の裏ルートがあるらしいんだな。あいつらはそれを聞き出して、あちこちの町や村で少女を物色してたらしい」

 少女だけ?

「どうにも胡散臭い話でどこまで本当かわからんのだがな、王都の貴族の中にゃ、そういった趣味の奴が結構いるんだとよ。つまり、人身売買には一部の貴族が絡んでるっつう話だ」

 姉がまた激しく赤くなった。

「何それ、つまり、王都の貴族の中に、ご法度だと知ってて尚人身売買に手を染めてて、しかも小さな子を……一歩間違ったらトリシアがそいつらの手に渡ってたって事?」

「胸糞悪い話だがそうなるな。次の王都への訪問の時、兄貴に王室へ報告してもらう。犯罪者の戯言だと握りつぶされる可能性もあるにはあるが、何もしないよりゃマシだろ」

 気分の悪くなる話だ。他人の趣味にどうこう言うつもりは無いが、立場と金にあかせて他者を、しかも年端も行かぬ少女を慰みものにするなど、許されて良いはずがない。

 更に言えば、姉が来てくれなければ自分がその道に放り込まれていたかもしれないのだ。

 トリシアンナはそこまで想像して背筋が寒くなった。

「まぁそんなわけでだ、獲物探してサンコスタまで遥々やってきたそいつらは、大商会の前で裕福な家の娘はいないかと見張っていたんだな。そこに、お前とトリシアが出てきた。少しでもこの街に住んでりゃ隣にいるのが紅蓮の魔女だって気付くんだろうが、連中、女一人と娘一人ならこれは攫いやすそうだ、ついでに身代金もせしめてから売っぱらってやろう、とこう、短絡的に考えついたってわけだ」

 一部合理的ではあるが理性と倫理が欠けている。ついでに言えば品性も無かったが。

「ふん、で、あいつらの処分はどうすんの?なんなら手伝ってあげてもいいけど?」

 どこまで本気なのかはわからないが、姉はまだ怒りを滲ませて言う。

 ラディアスは冗談じゃない、と左手を振った。

「領主の娘を誘拐しようとした事は事実だが、未遂だ。一旦ここの地下に留置しておいて、罰金が払えれば釈放、まぁ払う金なんかあったら誘拐なんざしないだろうから、王都に引っ張っていって地下牢につなぐか、エスミオで2年か3年強制労働の後開放、ってところだろうな」

「絶対に出てきたら同じことするわよ。消しといた方がいいんじゃないの」

「出来るんならそうするさ」

 出来ないのである。犯罪者の扱いは地方に一部委任されているものの、地方で寛大すぎる処置をされた犯罪者が、別の地方で再犯に及んだ場合は、最初の処置を行った地方領主の責任問題となる。

 故に罰金にしても法外な額になるし、大半の犯罪者は払えない。それなら沙汰は出身地か王都に任せましょう、となるのだ。

 もしかしたら王都の治安がそれほど良くないのは、一部釈放された犯罪者が王都に居着いているからではないのか、とも考えてしまう。

「何にしても奴らには暫くここで頭を冷やして貰うさ。余所者の犯罪者にここの税金で飯を食わせてやるのも癪だが、勝手に処分出来ない以上は外に出すよりはマシだろ」

 ひとまずはこれで終わり、という事だ、と、兄は話を打ち切った。

「すっかり遅くなっちまったな。俺もあいつらのせいで残業だ。とりあえず夜勤の連中に引き継ぐから、一緒に帰ろうぜ。腹減っちまったよ」

 兄はそう言って部屋を出ていった。部屋に姉と二人きりで取り残されてしまった。

 静かになると、トリシアンナは路地裏に引っ張り込まれた時の事を思い出さずにはいられなかった。

 意識が他に向いていたためか、悪意ある者の感情の色に全く気が付かなかった。一度覗いたその歪んだ色は、街の人達の真っ直ぐな感情とは違う、濁った不鮮明な、煙のような色をしていた。もしあのまま抵抗せずに連れ去られ、王都の知らない貴族の下へと売られていたとしたら。

 自分の周囲を気味の悪い煙が覆っているような気分になり、今更になって震えてきた。

 俯いて両手をぎゅっと握りしめていると、いつの間にか隣にやってきていた姉に肩を抱かれた。

「怖かったでしょ。もう大丈夫だから」

 覆った煙を温かい色が塗り替えていく。

「あの、お姉様。本当に、助けてくれてありがとうございます。あのままだったら、私」

 その言葉に、姉は今度は頭を抱きしめて言った。

「大丈夫。お姉ちゃんはトリシアが危険な目にあっていたら、必ず助けに来るから。絶対に」

「絶対に、ですか?」

「そう、絶対」

「お姉様」

「何?」

「初めて、人に対して魔術を使いました。でも、怖くて……やらなきゃやられるっていうのは分かってるんです。でも、やりすぎちゃったらって。そう思ったら」

 姉は抱きしめる力を強くした。

「トリシアは優しいから。でも、それでいいよ。怒るのも、やり返すのも、全部お姉ちゃんがやるから、大丈夫」

 柔らかい姉の腕と胸に抱かれて、トリシアンナは少しだけ涙を零した。


 街の北門を出た所で待っていると、坂の上から今日の勤めを終えた使用人たちを乗せた馬車がやってきた。御者台に座っていたフランコは、待っているトリシアンナの格好を見て仰天した。

「トリシアンナお嬢様!どうなさったんですかいそれは!」

 兄がかいつまんで話をすると、フランコも姉と同じくプリプリと怒り出した。

「とんでもねえ奴らですな、全く」

 尚も怒りの冷めやらぬ厩番をどうにか宥め、帰ってきた侍従のジュリア達に挨拶して、入れ違いに馬車へと乗り込む。使い込まれた内装は居心地も良く、隅々まで掃除が行き届いている。

 兄は愛馬であるアルフォンソの背中に跨って、馬車の前を先導するように移動している。例のごとく、『ランドサーチ』で周辺を警戒しているようだ。

 隣には姉がいて、周辺を兄が警戒してくれている。疲労と心地良い馬車の揺れに、トリシアンナはいつしか夢の中へと落ちていった。


「もう少し詳しく話を聞かせなさい」

 帰ってきた三人の様子を迎えたハンネからの報告で聞いた父、ヴィエリオは、食堂で夕食を摂る二人の下へとやってきて言った。

「叱ろうというのではない。無論、ディアナの監督不行き届きの面はあろうが――」

 首を竦めるディアナに一瞬目をやったが、ラディアスに視線を戻す。

「誘拐犯の話だ。エスミオダス出身だと言ったな」

 ラディアスが応じる。

「いえ、本人達はエスミオから、としか。まぁ、冒険者協会があるのはエスミオダスですから、その認識で間違いないのでしょうが」

「ふむ。エスミオダスの冒険者くずれが、王都の人身売買か。少し妙だな」

「何か気になるところでも?」

 王都はこの大陸で最も人や物が集まる所だ。犯罪者とはいえ、いや、犯罪者だからこそ、人の多いところで仕事をしようと思うのは当然だろう。

「王都の情報は私の所にも流れてくる。特に、貴族の把握している範囲であれば、基本的には細大漏らさず、といったレベルだと思ってくれて良い。だが、貴族が人身売買に関与しているとなると、どこかしらに煙が立ちそうなものなのだが」

「聞いたことありませんか」

 うむ、と唸るヴィエリオ。

「確かに、妙ね。人の噂話が三度の飯より好きな王都の貴族が、他人を蹴落とす材料となりそうな情報に全く気づかないというのは。『耳』はその事は?」

「わからん。少なくとも王の『耳』は情報を掴めていないのではないかと思う。少しでも疑い有りとなれば、多少なりとも調査に動くものなのだ」

 ディアナも考え込んでいる。ラディアスだけが理解できずに、聞き返した。

「どこが妙なんだ?それと王都の人身売買と、何の関係が?」

 ディアナが応じる。

「おかしいでしょ。外から来た冒険者くずれが簡単に見つけられるようなルートよ。王都にいれば耳の敏い連中なら、すぐに気がつくはず。ましてや、王の『耳』がその事に気づかないはずがないのに」

「それだけではない」

 ヴィエリオが続ける。

「わざわざ王都から、私が言うのもなんだが、こんな遠くの地方まで人を攫いに足を伸ばすものか?物や家畜ではない、生きた人を運ぶのだぞ。距離が長ければ長いほど、捕らえた者が逃走する可能性があるし、何より周囲に勘付かれる確率が上がる」

 ディアナも言う。

「そう、それに、王都だっておざなりになりがちだとは言え、街に入る前に人相風体の確認ぐらいはするはず。人が攫われれば、当然手配書ぐらいは回るでしょ。裕福な家の子なら尚更よ」

「うーん、あいつらはそこまで考えてなかったとか?」

 だから、とディアナは続ける。

「頭の弱い人間なら余計にわざわざ足を伸ばすなんてことしないって。どんなに馬鹿だって近くで捕まえて売っぱらって、逃げる先にここを選ぶ方が楽だって考えるでしょ。逆じゃない」

 その言葉にラディアスも頭を抱える。

「だとしたら、分からないことだらけだぞ。おかしいってのは俺でも分かったよ。でも、そのおかしい行動をした理由に思い当たらねえ」

「そうね……いっそ人身売買の話は奴らの大嘘、って事にしたほうがまだ納得はできるわ」

 その場合、捕らえたトリシアンナをどうするつもりだったのか、という疑問はまた別に生まれるのだが。

「いずれにせよ、この事は国王陛下にご報告せねばならんな。王のお膝元で遥か昔に禁止された人身売買、しかも子供を売り買いするなどという事が起きているなど、醜聞どころの騒ぎではない。いくら仕事に熱心でない司法官とて流石に無視できるものではあるまい。アインには私から話しておこう」

 そこで、ディアナは思い出して、仕方なくといった風に口を開いた。

「あのう、お父様。その、アイン兄さんの王都へのご報告の事なんですけど」

「何だ?また王都で買って来て欲しいものでもあるのか?」

「いえ、それも勿論あるんですが、その、トリシアがですね、次の近況報告の際に、アイン兄さんについていきたいと」

 その言葉に、ヴィエリオもラディアスも目を丸くした。

「はっ?まだ6歳だぞ?もう謁見するのか?」

「まだ処女魔術の報告すらしていないではないか。ダメだ。早すぎる」

 反対も当然だろう。そもそも、その王都の不安材料をさっきまで話していたばかりなのだ。

「うーん、でも、トリシアは絶対についていくと思いますよ。お母様もアイン兄さんもトリシアには甘いし」

 その言葉に二人はまた唸る。

「うむ、まぁ、私もトリシアにお願いされては……いや、ゴホン。まぁ、アインが一緒ならば滅多な事はないだろうしな」

「えぇー、父上、なんか俺たちの時と反応違う事ないですか?」

「信用度の問題だ、信用度の」

 名実ともに既に次期当主としての評判著しい長兄は、家族からも、また早くも国王からの信頼も篤い。

 現国王は20を過ぎたばかりで即位して、すぐにアンドアインが領主代理としてサンコスタ地方の近況報告を行うようになった。

 前国王と比べられる事を嫌う本人としても、年の近い上に聡明で冷静なアンドアインは、特に気を許した間柄となっているのだ。

 周辺を老獪な年寄り達が固める中、その古狸達と互角に渡り合う同年代の貴族、となれば、嫌でも距離が近くなろうというものだ。

「と、兎も角。この二件はあれが帰ってきたら伝えておく。お前たちはこの件を他言してはならんぞ」

「「言いませんって」」

 二人が声を重ねた時、食堂の扉がぱたんと小さく開いた。

「何を言わないのですか?二人共」

 トリシアンナ夜着のまま、不思議そうに尋ねた。

「お、おお、トリシアンナ。どうしたのだ?お腹が空いたかね」

「あっ、はい。お父様。馬車の中で眠ってしまったみたいで……あの、まだ何か残っていますか?」

 疲れもすれば腹も減るだろう。特にここ数日、トリシアンナは食事を食べ損ねることも多かったが、今日は流石に空腹に耐えかねて起きてきたのだろう。

「おお、ラディもディアナもまだだぞ、さあ、一緒に座って食べていきなさい」

「ありがとうございます」

 ヴィエリオは自らトリシアンナの椅子を持ってきてやると、抱き上げてその上に座らせた。

「それでは、私はもう休むので、三人で楽しく食事にしなさい。あんまり夜更かしをしてはいけないぞ」

「はい、お父様」

 にこりと微笑んだトリシアンナに父も笑顔を見せ、そそくさと食堂を出ていったのだった。

 呆れて見送った二人を不思議そうに見るトリシアンナ。

 それを待っていたかのように、パントリーの奥からやってきたハンネが温めた料理を並べ始めた。

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