第3話 鍛錬、そして港湾街

 彼女には兄が二人、姉が二人いる。

 上の兄、アンドアインは既に成人しており、地方領主の代理として、また父の補佐として頻繁に王都とサンコスタを行き来している。物腰は穏やかで理知的であり、時期当主として既にその片鱗を見せている、と内外でも評判が高い。

 ラディアスという名の次兄は長兄に比べて活発で、こちらは武芸の才能があると認められた為、王国騎士団に2年ほど在籍したあと、現在はサンコスタ都市警備兵の要職を務めている。

 貴族とは思えぬほど親しみやすい性格からか、住人たちに大変好かれており、仕事が終わった後や休みの日には、酒場で地元民達と親交を深めているらしい。

 風貌がどことなくトリシアンナに似た長姉のユニティアは、彼女が産まれて二年後に、街の有力者の息子と結婚している。

 現在はそちらで暮らしているが、時々帰ってきては姉妹三人揃ってのお茶会を楽しんでいる。

 彼女に最も歳が近く、会話の機会が多いのが次姉のディアンナである。

 トリシアンナが6歳の誕生日を迎え、暫く経ったある晩秋の日、魔術学の講義を終えた彼女が本を抱えて2階の廊下を歩いていると、そのディアンナが見つけた、とばかりに近寄ってきた。

「ごきげんよう、トリシア!魔術学の講義は終わったの?」

 実験の邪魔になるからと肩の上で刈った金髪、小さく整った顔の中の、少しつり上がった大きな目を優しく細めて問いかけてくる。

「はい、ディアナお姉様。この後パラケルス先生にお借りしたこのご本を読もうかと」

 魔術の才に秀でたこの姉は、事あるごとに何かと彼女に構おうとしてくる。今も抱えた書籍がなければ、いつものように抱き上げられて頬ずりされていたところである。

「そんなに抱えてちゃ前が見えないでしょ?少し持ってあげるね」

 言うなり重ねた本を上から3冊、トリシアンナから取り上げてまじまじと見つめる。

「『空間上における魔素固定化』、『粘性体の流動について』、『現存する希少属性に関する法則』……これ、魔術学院の名誉教師や宮廷魔術師の書いた論文じゃない。もうこんなの読んでるの?」

 半ば呆れた様子で隣に並ぶ。

「はい。先生がこれぐらいならもう理解できるだろうと……お姉様はもうそちらに目を通されたのですね、さすがです」

「いやいや、あたしが読んだの、これが発表された時だから2年前よ。いくらなんでも6歳には早すぎるでしょあのジジイ」

 この姉とて、その魔術学院を若干15にして飛び級で卒業し、自室で研究を重ねる飛び抜けた才媛である。それをしてジジイ、と呼ばれるのはこの論文を著した魔術学院の名誉教師、兼学長であるパラケルス・ウィンガーその人であるのだが。

「お姉様もパラケルス先生に教わったんですよね、先生もお姉様のことを随分と褒めておいででした」

 そうトリシアンナが言うと、姉は短い髪を揺らして肩を竦めた。

「話が合わなくて随分ケンカしたけどね。あのジジイは理論理論で実践が疎か過ぎるのよ。現象は実際に起こっているのをその目で見て感じなきゃ、完全に理解する事なんてできないのにさ」

 歩きながら零す姉に、思わず吹き出してしまう。

「先生も似たような事を仰っていましたよ。『あの子は実力も知性もあるのに慎重さが足りん。実践はまず安全値を定めてから行うものだ』って」

 薄桃色や橙がかった黄色といった複雑な色を発しながら姉は再び肩を持ち上げた。

「ま、いいわ。ほら、扉開けるわよ」

「ありがとうございます」

 トリシアンナの自室は、元々上の姉であるユニティアが使っていた部屋である。

 家具や調度品は殆どそのままであるため、まだ小さい彼女にはどれもサイズの大きすぎるものだ。

 窓際に置いてあるベッドは両手足を大きく広げても全体の四分の一ほどしか専有しないし、机も椅子も背丈が高すぎて、座るだけで精一杯である。

 窓枠も高すぎて、一人では窓も開けられない。

 全く興味のわかない化粧台に至っては、引き出しを開けたことすらない始末だ。

 部屋の中が何もかもビッグサイズな彼女にとって、読書スペースは専ら敷き詰められた毛足の長い絨毯の上である。読み終わった後に机の上に戻すのも大変なので、その机の脇には読み終わった書籍が平積みされている有様である。

「はー、すごいねトリシア、これもう全部読んだの?」

 一応は丁寧に積み重ねられた絨毯の上のそれを持ち上げ、机の上に積み上げつつ、姉が感心した声で言う。

「そちらのは講義のおさらいのようなものでしたので……今日お借りしたものは少し時間がかかると思います」

「なるほどねえ、うん、うん。もう理論はバッチリじゃない?と、なれば」

 唐突に姉は小さな妹を抱き上げて頬にキスをすると、頭陀袋を抱えるように持ち上げる。

「もう実践しかないでしょ!」

「へ?あの、お姉様?」

「裏の実験場へゴー!」

「は?いや、ちょ、待ってください!うごっ!ゆ、揺れるぅ!」


 裏の実験場、とは、邸の北側、木々生い茂る森の一部を、ディアンナ自身が勝手に伐採整地した空間の事である。

 大人が大股で歩いて20歩四方ほどの広さに、土がむき出しになった地面が顔を覗かせている。

 ところどころ焼け焦げたりえぐれたり穴があいたりえぐれたりえぐれたりしているのは、ディアンナの”実験”の跡だろう。

 館自体が街から離れている上、街から見ても影になる部分なので、多少大きな音を立てたり目立つ事をしても大丈夫、という訳である。

「さて、生徒トリシアンナ君」

「……なんですかディアンナ先生」

 乗ってあげると彼女の歓喜が大きく色となって視える。

「魔術とは実践あるのみだよ!さあ!君の力を見せてみたまえ!」

 大袈裟に両手を広げ、マッドサイエンティストもかくやと言わんばかりの態度を示す姉に嘆息を吐く。

「お父様とお母様が、まだ早いと仰ってましたよ。何が起こるかわからないからって」

 それを聞いた姉は、妹の前で屈んでずいっと顔を近づける。

「トリシアは試してみたくない?自分に何が出来るのか、自分がどこまで出来るのか。あれだけ理論を学んだなら試してみたいはずよ、違う?」

 真剣な顔をしているが、内心の悪戯心と好奇心が妹には筒抜けなのである。しかし。

「確かに、私も一度試してみたいとは思っていました」

 この世界の理を知るにつれ、姉の言うように、自分に何が出来るのか、という興味は常に持っていた。得体の知れない法則という認識だった頃に比べれば、随分と理解も進んだように思う。

 訓練飛行もそこそこに戦場へ駆り出されるような忙しさと今では全く違うのだ。

 この世界で翔んでみたい。

「オーケー、処女魔法発現のやり方は分かるよね?」

「はい、ええと……確か、目を閉じて体内の魔素……魔力の存在を感じ取る」

 すっと瞳を閉じて呼吸を落ち着かせる。

 最も暴走事故が多いのはこの処女魔法発現時、つまり初めて魔力による現象の発現を行う時である。

 潜在的な力が大きすぎて自らの肉体まで効果の対象としてしまったり、また逆に発現の為の構成が不十分で、魔素の逆流により廃人となってしまう例が多い。

 トリシアンナは、慎重に自らの肉体に秘めたエネルギーを探り始める。

「魔力の流れを感じたら、体内を循環しているイメージを持ってみて。」

 姉の言葉に、脳内で体中に張り巡らされた循環器官を想像する。心臓から大動脈、枝分かれした毛細血管まで。隅々まで行き渡った血潮が、心臓に戻り、肺からエネルギーを受け取る。

 呼吸はそのままに体温が上昇する。体中を巡る魔素が活性化して行き場を求めだす。

「いい感じ。ある程度まで魔力が高まったら、なんでもいいから好きなものをイメージして。それがあなたの処女魔法」

 姉の言葉に、明晰夢のように覚醒した脳が過去を探り出す。

(気分が高揚するこの感じ、ちょっと似てる)

 操縦桿を握り、海上を、虚空を縦横無尽に飛び回る爽快感。戦闘は嫌いだが、飛ぶ事は好きだった。

(イメージ……航空機なら、風?流星や彗星は、ちょっと違う。なんだろう。なんだろうこれ)

 見たことの無い機影が脳裏に浮かぶ。攻撃機でもない、爆撃機でもない。

(風……烈風……?いや、違う。なんだろう。これ、これは)

「紫電」

 自然と口から出た。

 いつの間にか掲げていた右手の先に、体内から集めた魔力が殺到する。事象が現象となり発現する。

 大気を引き裂く轟音と共にそれは出現した。目を眩ませるほどの青白い閃光が、放射状に無数の帯となって目前へ放たれる。林立する木々に突き刺さったそれが、炸裂する爆音と共に上空へと残った咆哮を打ち上げる。直後、周辺の電離した空気がじりじりと耳障りな音を立てて徐々に霧散していった。

「だ、第五階位『ブリッツシュフィアーツ』!?嘘でしょ……?は、初めて見た……!」

 ディアンナが驚愕の声を上げ、呆然と妹と前方を交互に見遣る。

「えっ、ちょっとまって。雷属性?ていうか6歳で第五階位?まってまって、混乱してきた!」

 明確に冷静さを失った姉に困惑していると、背後から大声が聞こえた。

「何事だ!ディアナ!またお前か!」

 真っ赤な色を発しながら館の裏口から走って出てきたのは、長兄のアンドアインだった。父の書類作業を手伝っていたらしく、振り上げた手と袖にインクが滲んでいる。

「アイン兄さん!?ご、ごめんなさい、いや!今のは私じゃなくて!いや、私のせいなのかもしれないけど違うの!」

 怒りのせいか珍しく息を切らせ気味に広場に到着した兄は、目の前の惨状を見て絶句した。

「これは……今度は何の魔術を試したんだ。前から言っているだろう。大規模な魔術実験をする際には私か父上に一言告げろと。やるなとは言わん。が、不意打ちは勘弁してくれ」

 すぐに怒りを引っ込めて諭す様は、妹たちを心配する兄のそれに戻っていた。

「違うんです、アインお兄様。ごめんなさい、これは私が……」

「そう!そうなの!すごいのよトリシアってば!処女魔術でいきなり雷撃系の第五階位を使ったの!」

 長兄は一言何?と呟くと、哀れな犠牲者となった森の構成員達の方へと歩いていった。

 扇状に黒焦げとなった前方の木々は、殆どがその幹の半ばから折り倒され、倒れた幹も縦に引き裂かれた状態になっていた。

 電撃の直撃による衝撃に加え、大電流の抵抗熱によって炭化した上に、発生したアークサンダーの影響である。

「トリシア、これは本当にお前がやったのか?」

 兄の問いに、申し訳無さで隠れてしまいたい気分のまま、小さな末妹は頷いた。

 その様子をみたアンドアインは喉の奥で小さく唸ると、

「父上と母上を呼んでくる」

 言うなり館へと踵を返した。


 長兄に引きずられるようにやってきた両親は、広場奥の光景を見て全く同じ反応を示した。

「驚いたな、僅か6歳で第五階位というのもそうだが、しかし、雷撃とは」

 熱や冷気といった熱エネルギー、火炎のような化学変化に関するものや、水撃、地変、風圧といった物理現象を利用したものは、この世界ではよく知られた魔術属性である。

 しかし、電位差により発生する電撃というものは、この世界ではあまり馴染みのないものだった。

 自然現象の雷というのは当然認知されているが、あまりに大きなエネルギーと原理の不明確さから、上位魔術の使用が可能な魔術師は非常に少ないのである。

 トリシアンナもこの点は理解していたのだが、以前の世界では当たり前のように使われていたエネルギーであり、基礎的な知識を有していたのも影響しているのかもしれない。

「ねえ、あなた」

「うむ。三人とも、着いて来なさい」

 マリアンヌが促すと、父ヴィエリオは館の裏口へと歩みだした。


「いずれ私の後を継ぐアンドアインには教えるつもりだったのだが」

 あまり使われていない一階の北西側にある倉庫。雑多なものが積み上げられた合間を縫って、突き当りにあった壁の燭台を、ヴィエリオは引っ張って回した。

 がちゃり、と何かが外れる音が聞こえた後、壁紙の切れ間と思われていた部分が僅かに広がった。

 ヴィエリオは近くに無造作に置いてあった薄い金属片、ただのガラクタにしか見えないそれを、その隙間に差し込むと思い切りこじ開けた。

 石の擦れる耳障りな音と共に、僅かに黴のような臭気が漂う。現れたのは地下への階段であった。

 ディアンナの生み出した魔術の明かりに照らされ、漆喰で固めただけの壁に囲まれながら降りていくと、程なく狭い小部屋にたどり着いた。

 大人が両手を広げて二人分程度の広さのその部屋に、明らかにその場に似つかわしくない、荘厳な雰囲気を漂わせる祭壇が設えてある。その祭壇の上に、これまた異質なものが鎮座していた。

「剣?父上、これは?」

 黒地に鮮やかな金色の装飾が施された鞘。そこから推測できる刃渡りは通常のロングソードと大差ないと思われるが、鍔には小さな緑色の宝珠が埋め込まれている。

「お前たちの曽祖父、ひいおじいさんが若い頃に使っていた剣だ」

 その言葉にアンドアインとディアンナは息を呑む。

「まさか、これはカサンドラ!?戦場で喪われたと聞きましたが?」

「カサンドラ?」

 疑問符を浮かべるトリシアンナに、ディアンナが続ける。

「雷光剣カサンドラ。私達のひいおじいさん、雷光騎士ベルトロメイが使っていた剣よ。だけど、70年前の『大侵攻』の時、彼の死と共に行方不明になったと言われてる」

「『大侵攻』……西部を中心とした魔物の大規模発生の事ですね」

「そうだ。原因は未だ不明だが、いずれまた起こると言われている。だからこそ王国は常に騎士団や宮廷魔術師を擁して戦力の維持に努めているわけだ」

 ヴィエリオが言葉を継ぐ。

「ともあれ、その『大侵攻』の際に、お前たちの曽祖父が他の冒険者や騎士、魔術師たちと共に、ついには魔物の大群を追い返した。彼らの命と引き換えにな。その時にこの雷光剣カサンドラは喪われた、という事になっている」

「しかし父上、ここにあるということは」

 アンドアインの言葉に、ヴィエリオ・デル・メディソン伯は頷く。

「当時共に従軍していた一人の侍従が、死屍累々たる戦場から密かに持ち帰ったのだ。表向き喪われたとした理由はいずれ説明するが……アイン、この剣を抜いてみなさい」

 祭壇から無造作に持ち上げた宝剣を、息子に手渡す。

 受け取った長兄は、怪訝な顔をしながらも柄に手をかけ、一気に引き抜こうとした。

「むっ?ぬっ……抜けませんな、これは。ひょっとして錆びているのでは?」

 彼は再度思い切り力をこめてみたが、鞘に収まった宝剣はびくともしない。

「やはりだめか。次はディアンナ、お前がやってみなさい」

 父に促されて兄から剣を受け取ったディアンナはちょっと嫌そうな顔をした。

「兄さんの膂力で抜けないものを私が抜けるわけがないでしょ?まぁやってみるけど」

 魔術の才媛が柄に手をかけて引き抜こうとする。が、やはりその剣は頑なに殻を閉ざしたままだ。

(ん?今なんかちょっと宝珠が光ったような気がしたけど)

 家族の様々な感情の色に混じって、僅かに異質な輝きが剣から発せられたのをトリシアンナは感じ取った。しかしそれもすぐに消え失せ、顔を真っ赤にしながら柄を引っ張る姉の姿が目に映り、少しおかしくて口元が緩んでしまう。

「やっぱりダメね、これ。どうなってるのかしら」

 単に錆びていると判断したのではないのが魔術の研究者らしく、あれこれと剣の角度を変えては眺め回している。

「実はな、お前たちには言っていなかったが、ラディアスが騎士団の務めを終えて戻ってきた時にも一度抜かせてみたがダメだった。ひょっとして、と思ったのだが」

「ラディ兄さんでも?うーん、この剣、確かメテオライトから打ち出したって伝わってるし、錆びてるってことは無いと思うんだよねぇ。あのロックエイプ並のバカ力でも抜けないって、やっぱり何か条件があるのかも。……ん?あぁ、それで」

 父に剣を返したディアンナは何か思いついたようで、末妹に顔を向けた。

 受け取った父も6歳の娘に近寄ると、横に向けた宝剣を両手に持って差し出す。

「抜いてみなさい。重いから気をつけて」

 重心となる鞘の根本付近で受け取ると、言われた通りにずしりと重い。通常の錬鉄や鋳鉄の比重とは異なる重量感が、美しい黒地の鞘の見た目と相俟って、まるで歴史の重さを伝えているかの如くに感じられる。トリシアンナは戸惑いながらも鞘を抱きしめて斜めに抱えると、右手でしっかりと柄を握り締めた。

 鞘の中からかちん、と音がして柄に埋め込まれた宝珠が淡く黄色く輝き出す。そのまま鞘から引っ張ると、鈍く輝く剣身がその姿を見せる。

「……やはり」

 何故か神妙な顔つきを見せる父と母からは、不安と心配の色が見え隠れする。

「なんと……」

「マジ?」

 二人の反応は打って変わって驚き一色だ。そろそろと姿を露わにする鈍色の剣身に、吸い込まれるように見入っている。

 トリシアンナは一気に剣を抜き放ち、掲げようとした。

 そして、自らの体が剣に対して圧倒的に小さいことに絶望した。

「……。」

 6割ほど抜き放ったところで固まる。これ以上はどうやっても腕の長さが足りないのだ。美しい鞘を地面に放り出すわけにもいかず、そのまま動きが完全に止まってしまった。

「……アイン、手伝ってやりなさい」

「……はい、父上」

 優しい兄が鞘の端を持って引き抜いてくれた。母と姉は顔をそむけているが、笑っているのは明白だった。そもそも彼女には感情が視えるのだ。

 釈然としないままに剣に目を戻す。ただの金属とは違う、まるで細かな粒が埋め込まれたかのように鈍く光る刃は、うっすらと金色の輝きを纏っている。両手で掲げてみると、乾いた枝でも持ち上げたかのように驚くほど軽い。先程までは抱きしめなければ持ち上げられぬ程であったのに、今はまるで体の一部になったかのように両手に馴染んでいる。

「これが、カサンドラ」

 美しく輝く剣を眺めているうちに、何か意識が吸い込まれていくような気がしてくる。魅入られているのだろうか、と視線を外そうとした瞬間、脳が揺さぶられたかのような目眩を感じて、彼女はとさり、とその場に崩れ落ちた。

「トリシア!?」

 真っ先に駆け寄ったマリアンヌが彼女を抱き起こす。虚ろに開いた目がぼんやりと母の顔を見返している。

「トリシア!どうした!マリアンヌ!この子は一体」

 娘の脈をとり、瞳を覗き込んだ母は、僅かの後に安堵のため息を漏らす。

「魔力切れね。こんな小さな体であんな大魔術を使ったものだから……それにしても、ここまで普通に歩いてこれたのに……変ねえ」

 ほっとして小さな身体を抱き上げると、首をかしげながら降りてきた階段へと向かう。

 ひとまず大丈夫そうだ、と残された三人も力を抜くと、顔を見合わせてアンドアインが剣を拾い、揃って追いかけるように狭い地下室を後にした。


 彼女が目を醒ますと、そこはいつもの自室のベッドではなく、邸の北側にある応接室のソファの上であった。

 少しふらつく頭を軽く振って深呼吸し、意識を明確にすると、重厚な黒檀製のローテーブル上に置かれた宝剣と、それを取り囲むように座る家族の姿がある事に気づいた。

「おはよー、トリシア。気分はどう?いやー、まさか魔素欠乏症とは、この天才魔術研究者の私の目を持っても気づけなかったよ」

「逆にあなたが気付かなくてどうするんですか、ディアナ。言っておきますが、トリシアを唆してあんな高度な魔術を使わせたこと、許していませんからね」

「とはいえ、怪我の功名ではある。トリシアがまさかひいお祖父様と同じ、雷撃系の使い手だとはな」

「アンドアイン、お前がその態度では他の者に対して示しがつかん。上に立つものの責務として、ディアナには相応の懲罰が必要だろう」

「えぇ〜?トリシアなら絶対大丈夫だって確信してたよ?まぁいきなり第五階位ってのはちょっとびっくりしたけど」

「現にトリシアは魔力切れ、魔素欠乏症を引き起こしたではありませんか。高位の魔術を使った時点で休ませるべきだったのです」

 寝起きに各々が発言しまくるのを受けて、トリシアンナは少し目眩を感じた。これは魔素欠乏症とは全く別の理由に違いない。

「それなのですが、お母様」

 少し乱れた衣服を整えつつ口を開くと、家族の視線が集中する。

「この剣、カサンドラですが、どうも鞘から抜いた状態では、使用者の魔力を少しずつ吸っているようなのです。抜剣して掲げた時、あまりにも軽く感じました。恐らくは鍔のところにある宝珠を使った魔術装置なのでしょう。剣自体の重量は変えずに、使用者の魔力を使って補助術がかかるようにしてあるようです。」

 剣が肉体の一部になったかのような一体感を思い出して軽く震える。

「使用者が非力であればあるほど、その補助術は強くかかるはずです。第五階位の魔術を使ってしまった後に、非力である私が持ったために魔素欠乏症を引き起こしたのでしょう」

 肉体の表層は半透膜のようなものである。

 魔素というものは空間にも体内にも満ち満ちている。肉体の持つ許容量、即ち魔力量に足りない分は外部から自然と体内に入ってはくるものの、基本的に逆は起こらない。

 そうすると、体内の魔素と外部の魔素に密度の差が発生する。その差の大きさが魔力圧であり、これをして一般的に魔力と呼んでいる。

 圧力差が大きければ大きいほど外部に放出した時の力が強くなり、内部の魔素量が多いほど連続してその力を発揮できる。魔術とは、何らかの触媒を用いて肉体表層の半透膜を一部分破り、自ら構成を構築した魔素を外部に放出することで現象を引き起こす事なのだ。

 このカサンドラという剣、いや、剣の魔術装置は、適合する魔力を持つ者と剣との間にある境界線を、かなり曖昧にしてしまう効果があるようだ。それがあの異様過ぎる一体感の正体であろう。

「持っただけでそこまで分かるものなのか。いや、逆に持った者にしかわからんのだろうな」

 父がテーブルの上を見ながら呟く。

「話を聞く限り、私のタクトと似たようなものかしら。ただ、吸われるというのは……」

 姉も何やら考え込んでいる。

「もうじきラディアスが帰ってくるだろう。ここに来させるようハンネに伝えてあるから、お前はもう少し横になっていなさい。顔色があまり良くないぞ」

 そういえば部屋の中にいるのは家族だけだ。地下室でもこの父は触れていたが、あまりこの剣について外部に知られたくない理由があるのだろう、と、ソファに横たわりながらトリシアンナは思った。

 肌触りの良い材質で出来たソファに横たわっていると、じわじわと自分の魔力が回復していくのを感じられる。

 この特殊な感覚は以前の世界では存在しなかったもので、なんとも言い難い快感とむず痒さを伴う。

 言うなれば激しい運動の後に一瞬にして筋肉痛となり、それが徐々に解けていくような感覚。

 或いは凍傷直前まで冷え切った肌を、人肌よりやや温い程度の湯に浸している感覚とでも言うか。

 長兄と次姉が剣について何事か言い合いをしているのをうつらうつらと夢心地に聞きながらこの快感に浸っていると、ゴンゴン、と、ノックにしては些か乱暴な音が扉から響き、それに誰かが応える間もなく長身の男が扉を開けて部屋に侵入してきた。

「なんだなんだ親父。人払いなんかして、家族全員で夜逃げの算段か?」

 言葉の内容とは裏腹に、只管に軽妙で明るい声色。誰が聞いても冗談だと分かるのは、勘違いを防ぐ意味でも大切な事だ。そしてその理由を、この男――次兄のラディアスは良く心得ている。

 短く刈った金髪に、厳しい訓練のせいかやや角張った、それでも端正な顔つき。

 服の上からでも分かる引き締まった強靭な肉体と、家族の中でも最も大柄な威容ではあるが、瞳には湛えた優しさがにじみ出ており、使用人(特に女性)からの信頼も厚い。

 少し、いや大分大雑把な部分はあるが、それが魅力的にも映るようだ。

「おかえりなさい、ラディ。そっちの……トリシアの横に座って頂戴」

 母が促すと、横たわっていたトリシアンナに多少ぎょっとしたのか、ほんの少し仰け反ると、それでも色々と察したのか空いたスペースに優しく腰掛けた。

「トリシアはどうしたんだ?それに、この剣……まさか、誰か抜いたのか!?」

 流石に外に聞こえないように声を落として問う。

「兄貴が?」

 無言で頭を振るアンドアイン。

「ディアナ?」

 若き魔女は皮肉げな笑みを浮かべて肩を竦める。

「そんな、それじゃ……おいおい、マジかよ」

 横たわっている末妹を見下ろして驚愕の表情を顔に貼り付ける。

「この子は雷撃の魔術を使った。そういう事なのだろう。」

 その父の言葉に次兄は再度仰け反る。

「なんだよ……お前ら、家族揃って俺を誂おうってのかよ……いや、分かってる。分かってるんだ嘘じゃねえってのは。ちょっと感情が追いつかないだけで」

「まぁねえ、気持ちは分かるわ」

 やや乾いた笑いを漏らしたディアンナにつられて、ラディアスも引きつった笑みを浮かべた。

「ごめんなさい。そのせいでこの有様です」

 どうにか体内の魔力圧が戻り、トリシアンナは起き上がる。起き上がった拍子に少しふらついたが、隣の兄が慌てて肩を抱いて支えてくれた。

 話の出来る状態だと確認できたのか、この場の長が厳かに口を開く。

「聞いての通りだ。トリシアはカサンドラに選ばれた。即ち、今日からこの剣の所有者はこの子、トリシアンナ・デル・メディソンとなる。知っての通り、この剣は本来この世に存在しないものだ。それ故、この子がこの剣を所持しているということは、全員が口外せぬように。無論、侍従達にもだ」

「そうは言っても」

 姉が口を挟む。

「いきなりこの子が立派な剣を持ち歩いてたら誰だっておかしいと思うよ?勘の良い、ちょっと魔術なり歴史に詳しい人間なら、カサンドラとこの子を紐つけて考えてもおかしくない」

 真っ当な指摘にヴィエリオも頷く。

「うむ、それはある程度考えてある。まず、トリシア。この剣はお前の部屋に置いておきなさい。ユニティアの使っていたドレッサーの奥が隠し扉になっている。その中であれば掃除に来た者も気付くまい」

「えっ?は、はい」

 ベッドや机以外の家具には殆ど触れなかったため、気づかなかった。しかしなぜそんなものの存在を。

「何故そんな事を知っているのか、という顔だな。あのドレッサーはな、元々私がマリアンヌに贈ったものなのだ。何も実績の無かった当時は、当主になりたてだった私に反発する者も多くてね、使用人にも間者が紛れ込んでいる可能性があった。マリアンヌにまで手が及んでは困ると思って、本当に大切なものを人知れず隠せるようにと、信頼できる香具師に頼んで細工してもらったのだよ」

「はあ、それをユニお姉様が引き継いで、あそこに置いてあったわけですか」

 父の現役時代は物騒な話ばかりなのである。

「そうだ。話が逸れたが、ある程度お前が大きくなり、剣を振り回しても大丈夫だろう、という頃合いになれば、誕生日か何かの祝いに一振りの剣を贈る。鞘の装丁をよく似せたものをな。武器商人なり鍛冶師から買い与えた、という体裁にしておけば誰も怪しむ者はおるまい。与えた剣はカサンドラと入れ替えて、同じ場所にでもしまっておけば良かろう」

 確かに、きちんと足のついたものであれば誰も疑問には思わない。しかし、その上で彼女は、そこまでして秘匿しなければならない理由が気になっていた。

「カサンドラは」

 父は口に出して言い淀む。

「カサンドラには、『真実を告げるもの』という異名がついている。一聞すればそれは良い事の様に思えるだろう。しかしな、真実は時に、残酷で、耳をふさぎたくなるような事も多い。矜持の無い権力者にとっては特にそうだ」

 それはつまり

「歴代の所有者は、概ね皆、優れた人格者であったと聞いている。しかし、その最期はどれもその人徳に見合ったものではなかった。ある者は疎まれた末に濡れ衣を着せられ謀殺された。ある者は嘘つきと蔑まれ、辺境に封殺された。またあるものは」

「決して勝てぬ戦の渦中に投げ込まれた」

 沈黙が場を支配する。大きく傾いた西日だけが窓から差し込み、この言葉の帳を照らしている。

「だがな、トリシアンナ」

「はい、お父様」

「お前がそうである必要はない。剣は剣だ。それ以上でもそれ以下でもない。いくら特別な剣であろうと、人の生を左右する事などあるはずがない。私は、お前に自由に生きてほしい。必要とあらば、逃げろ。それがいいと思うならば、口を噤め。謹厳である必要も、誠実である必要も無い。お前は、お前自身がこれで良いと思うように生きよ」

 父自身、世襲とはいえ今の地位に至るまでは紆余曲折あったであろう。地方領主というのは領地の統治者ではあるものの、結局の所王国の一要職、地方の貴族であるに過ぎない。故に、表に裏に権力闘争は相応に苛烈だったのだろう。刻まれた彼の皺には幾度も見えぬ涙が流れたに違いないのだ。

「承知しました。私は、私の生きたいように生きます。ただ」

 ただ

「家族に顔向けできないような生き方だけはしないつもりです。それが私の選択ですから」

 まだ数年、僅かに数年ではある。

 然し乍ら、トリシアンナはこれまで慈しみ、愛してくれた家族を誇りに思っていた。

 家族という関係そのものが希薄だった前世。家族とはそういうものだ、という、半ば諦めの境地にあった自分に降り注いだ暖かな光、色。

 愛し、愛されるという想いが、人にとってどれほど大切な事かを教えてくれた父母、兄姉に、自分も出来る限り応えたい。だから

「剣の運命なんて、ただの迷信です。私は、ずっとお父様、お母様、お兄様、お姉様達と一緒です」

「トリシア〜!」

 姉が唐突に抱きついてきた。隣の巨漢を跳ね飛ばし、ぎゅうぎゅうと顔に胸を押し付けてくる。

「ちょ、お姉様、苦しいです!息ができません!」

「そんな難しい事考えなくていいんだよ!トリシアはまだこんなにちっちゃいのに!」

 場を崩したディアンナに、周囲は気の抜けたように息を吐いた。

「そうだな。よくよく考えれば何もそんな深刻に思い詰めることではなかったな」

「当たり前だろ、兄貴。下らない事ばっかり考えてるとハゲるぞ」

「ハゲてはいない」

「ハゲるぞって言ったんだ。心当たりでもあんのか?」

「二人共、髪の心配なんてしなくてもいいのよ。お父様だって、私のお父様だってフサフサだったのですから」

 いつもの他愛ない会話に思わず頬が緩む。しかし、姉はまだ離してくれない。そろそろ本気で苦しくなってきた頃、父が止めに入った。

「やめなさい、ディアナ。トリシアが苦しがっているだろう。剣の運命の前にお前が絞め殺す気かね」

 慌てて、しかし名残惜しそうに胸を離した姉は、それでもそのままでは終わらんとばかりにトリシアンナを膝に抱えて座った。今度は後頭部に豊かな膨らみが当たっている。

「さて、剣についての決め事はこれで終わりだが……トリシア、確かカサンドラには補助魔術が自動的にかかると言っていたな」

 剣と肉体の一体化、ある種の軽量化魔術だろう。

「はい。扱う者が一番使いやすくなるようにされているようです」

 その言葉に父はひとつ頷くと言った。

「うむ、それでは明日から、ラディが非番の時に剣術の稽古をつけてもらいなさい。剣を抜く度に倒れてしまっては意味がないだろうからな」

「ああ、それで俺を待ってたのか」

 次兄、ラディアスは恵まれた体格と剣技のセンスを各所に認められ、16歳になるなり2年間の騎士団出向を命じられた。本来であればそのまま王都に残り、騎士団内で出世の道を歩むはずであったのだが、本人がどうしてもという事で、義務の2年間が終了すると同時に、こちらへと舞い戻ってきたのだ。

 

 騎士団を去る時には騎士団長から随分と慰留があったらしいが、当人に全くその気が無いと分かると泣く泣く手放したそうだ 

 騎士団仕込みの剣術も引っさげて戻った彼は、当時、発足して間も無かった都市警備隊に入隊し、すぐさま要職へと就き、日々サンコスタの治安を守る日々が続いている。

「よし、それじゃあ明日から早速やるか!俺の指導は厳しいぞ!」

 見るからに熱血指導の得意そうな彼に、やや不安を感じながらも頷く。

「はい、宜しくお願いします」

 早く力をつけて、最低限、この剣を持つに相応しい人間にならなければいけない。

 姉に後ろから抱きしめられているという、志とは些かかけ離れた状況で、トリシアンナは決意を新たにする。



 翌朝、6歳の少女は日の出と同時に叩き起こされた。

 ノックと同時に扉を開けて押し入るという、女性の部屋に入るには圧倒的にデリカシーの無い行動でもって妹を連れ出した元騎士団、ラディアス・デル・メディソン都市警備第一隊長は、兄自ら持ってきた運動用の、簡素というには余りにも粗末な衣服(侍従長のハンネに用意させたらしい)を手渡すと、妹の着替えをその場で見守るという、これまた紳士としてあるまじき行為に手を染め、着替え終わるやいなや、駆け足で館の外へと連れ出した。

 出掛けに事情を察していたらしいハンネと、いつも髪を梳いてくれる侍従の一人、フェデリカが哀れみの目でこちらを見ているのが印象的であった。

「何はあっても体力だ!体力が無いと剣も振れない!危なくなっても逃げられない!つまりは基礎体力作りを行う!」

 非常に簡潔でわかりやすい説明を行った兄は、当然の如く妹に走破訓練を行わせた。所謂ランニングである。

 その場で軽く跳ねたり身体を反動をつけて捻ったりした後、兄を追いかけて走り出す。

 追いつけない。当然である。

 まず歩幅が違う。巨漢の兄が一歩踏み出す距離を、小さな妹は3歩駆けないと進めない。

 速度も違う。体中隈なく鍛え上げられた兄は、まるで野生の獣かと言わんばかりの瞬発力で進む。イノシシもかくやである。方や妹はこれまで本より重いものを持ったことがないし、邸の中では走ると危ないからとロクに走ったこともないのだ。

 持久力も違う。この兄は、騎士団で任務の際、通信魔術師、所謂通信士(通信用の魔術に長けた非常時の連絡係)が病気で倒れた時に、自らの足でもって馬でも2日かかる距離を半分ぐらいの時間で走って伝令の任務を行ったそうだ。いや、そもそも馬を使え。

 妹のほうはそれはもう言わずもがなである。前世では軍にいた以上、いくらか鍛えてはいたのだが、身体がそもそも違うのだ。蝶よ花よと大事に箱の中で育てられた幼女である。

 そんなわけで、邸から出ていくらも経たないうちに、街へと続く下り坂の途中で兄の姿を見失った。いや、あっという間に視界から消えたと言ったほうが正しいか。

「これは、どうしろというのでしょうか」

 とはいえ、そのまま突っ立っているわけにもいかない。無い筋肉に鞭打って、非常にかわいらしい――そう、子供が走っているのだから可愛らしいのだ――ペースで街の方へと降りていった。

 出る時に兄はどこへ行く、とも言っていなかったが、周辺は魔物のいる森であるし、行ける方角といえば街へと続くこの道しかない。兄とて馬鹿ではあるまいし、行った先で待っているのだろう。またたく間に悲鳴をあげる肺を無理に無視しつつ、馬鹿ではないですよね、多分。と少し心配になりながら走り続けた。


 およそ一時間ほど、幼女は走り続けた。下り坂とはいえ、激しい運動をしたことのない肉体がそんな事をすればどうなるかは想像に難くない。

 案の定、筋肉は疲労物質の蓄積により動かすことすら困難になり、呼吸器は無惨な喘鳴によって無茶を訴えかけ、耳以外、顔面のあらゆる穴から体液を垂れ流すという、深窓の令嬢にはおよそ似つかわしくない姿へと成り果てていた。

 そこまで無理をする必要も無いのではないかと一時は考えたものの、周囲は魔物の生息する森である。疲労によって魔術すらロクに使えない状態の幼女を見つければ、これ幸いとばかりにおいしいおやつにされてしまう事はまず間違いないだろう。

 最早まっすぐに歩くことも出来ない状態で、そろそろ倒れて楽になろうという脳の指令を肉体が受け入れようか、という所で、行く先に兄が仁王立ちしているのを脳が認識した。

 視覚で認識したのか、それとも生来の感覚で認識したのかの判断すらつかない状態で、安堵と共にその場にへたり込むトリシアンナ。

 自分のものとは思えない呼吸の音をさせながら四つん這いになり下を向けば、涙と鼻水と涎の入り混じった液体がぼたぼたと乾いた地面に染みを作っていく。

「おっ、ようやく追いついたなトリシア!初めてにしてはよく頑張ったぞ!」

 耳鳴りのせいで何を言っているかあまり聞き取れないが、どうやらそんな感じの事を言っているようだ。返事をしようにも、酸素を求める肺と気管支は言うことを聞かない。そもそも立ち上がることも出来ない。

「おに゛――ま゛――いま――で――ゲホッ!グフォッ!ヴォエッ!」

 発音には舌と声帯だけではなく、正常な呼吸も必要なのだなあと、瞬間的に回らない頭でも考えてしまう。現実と切り離された脳とは別に、咳と共にせり上がる嘔吐感に抗えず。

「オヴォヴォヴォヴォッ」

 一度出てしまうと全て出るまで止まらない。昨夜の未消化物を胃液と共に全て大地へと献上し、それでも出し足りぬとえづく胃の腑が収まるまで、ひたすらオエオエと声にならぬ声を発し続けた。

 一通り出すものを全て出してしまって、ようやくの事、トリシアンナは横倒しに転がる。吐いている間はまた呼吸ができなかったので、再び肺は酸素を求めて喘鳴を繰り返している。なぜこんなことに。

 ぶちまけられた吐瀉物の酸っぱい匂いが鼻をつく。滲んだ視界の陽光を遮って、見慣れた顔が覗き込んだ。

「大丈夫か?まさかここまで必死に走るとは思わなかったんだが……疲れたら歩いて来るだろうと思ってな、すまんすまん」

 人気のない林道に放り出しておいてぬけぬけと宣う兄。文句を言おうにもその気力が湧いてこない。

「おきざりに、されれば、いやでも、おいかけます、わかって、やっていた、のでしょう?」

 なんとか声は出た。皮肉のひとつも言ってやりたいところだが。

「うん、まぁその点は悪かった。ほれ水。ここからは一緒に歩いて行こう」

 ぐったりとして動けない妹を半分起き上がらせると水の入った水筒を渡し、少し汗臭い手ぬぐいで顔を拭ってくれる。

「領主自慢の可愛らしいお嬢様とは、とても思えないご面相になっているぞ。おまけに少し胃液臭い」

「今拭いてくれたせいで、それに汗臭さが加わりました」

「わはは、汗の臭いは全身からしているぞ。今更気にするな」

 兄はくさいくさいと笑いながら、妹の脇の下に手を入れて抱き起こす。多少は疲労が抜けたのか、一応は立つことが出来た。

 汗と涙で顔面に張り付いた前髪を払い避けて行く方向を見ると、港湾を取り巻く街並みと、更にそれを取り囲む白い外壁が一望出来た。

「よし、それじゃあ行くか!」

 そういうと、ラディアスはトリシアンナの小さな手を引いて、今度はゆっくりと歩き出した。


 サンコスタ地方の主要都市、サンコスタの街は、その名の示す通りの港町である。

 主要産業は漁業であるが、南方諸島及び東方諸島との貿易港、大陸への玄関口としての役割も担う。

 南方の香辛料や砂糖、珈琲、東方の文化芸術品や衣料品など、王国に流通するこれらのものは、全て一旦この街を通る。その為、必然的に商業都市となり、年々肥大を続けてきた。

 それ故現在の街を取り囲む外壁は、三度目の拡張工事によって築かれたものである。

 街が広くなり、人が増えれば治安も悪くなる。そのため、当代の領主は既に存在していた自警団や水夫達から腕っぷしに自信のある者達を集めて教育を施し、都市警備隊として領主直轄の組織を作り出した。

 この成功に倣って、他の各都市でも組織立った警備隊を擁するようになった。

 その都市警備兵の第一隊30人を率いるのが、隣で幼女の手を引いている次兄、ラディアス・デル・メディソンその人である。

 都市外壁が近づくにつれ、その高さと堅牢さがわかるようになる。

 高さは凡そ成人男性の3倍。材質は東の山中から切り出された火山岩を挽いた砂と、泥と土を混ぜて焼いて固めたもの。以前の世界で言うところのコンクリートと鋳物を混ぜあわせたような代物である。

 加工時に金属質の魔物から採取した物質を混入させているため、地震にも十分に耐えるであろう頑強さを誇る。当然建造費用は相当にかかっただろうが、見る者を安心させる威容は十分にその価値のあるものだろう。

 その外壁の一部、重々しい扉が半分だけ開かれた所に、2名の警備兵が立哨している。一人が近づくこちらに気付くと、気安げに手を揚げた。

「ラディ隊長!今日は非番では?」

「おう、そうだぞ!今日は妹の社会見学だ!」

 兄も手を上げて応じる。

「えっ、妹……?俺はてっきり隊長の隠し子かと」

「馬鹿言え、こんなでかい子供のいる歳じゃねえぞ!」

 慣れた様子で冗談を飛ばす警備兵に少し呆気にとられるが、条件反射的に挨拶をしておく。

「お初にお目にかかります。トリシアンナ・デル・メディソンと申します。兄がご迷惑をおかけしていなければ良いのですが」

 これまた反射的にカーテシーを行おうとして、自分が汗臭い運動着なのに気づき、慌ててお辞儀で誤魔化す。

「こりゃあご丁寧に、どうも。迷惑だなんてとんでもない。酒場でもなけりゃぁ隊長は滅法頼りになる方ですよ」

「そうだぞ、トリシア。あと、そんな王族や他の貴族にするような堅苦しい挨拶はいらん。街ではそういうのはよせ」

「承知しました」

 トリシアンナとしてもその方が楽なので、同行する兄のお墨付きとあらばそのようにさせてもらうつもりであった。何にしても、今の格好では何をしても様にならないのだ。

「それじゃ、どうぞトリシアンナお嬢様。」

 ありがとうと言って大きな扉を潜り、広くて薄暗い通路と受付のようなカウンターを通り過ぎると、微かな潮の香りと人の行き交う大きな通りに出た。

「ようこそ、サンコスタ港湾街へ」

 兄が正面に立ち、冗談めかして言った。

「ところでお兄様、社会見学とは?鍛錬ではなかったのですか?」

 そのまま歩き出したラディアスに小走りでついて行きながら問う。

「ついでだついで。トリシアはまだ街に来たことがなかっただろう?自分の家が治める領地の事を知るのも、立派な鍛錬の一つだ。脳みそも身体の一部だからな」

「そうでしたか……あの、ありがとうございます」

 やはり兄は兄なりに考えての行動だったらしい。できればこんな粗末で薄汚れた汗臭い格好ではなく、もう少しましな姿で訪れたかったのではあるが。

 胸元を引っ張ったり腋を上げたりして臭いを嗅ぐ。やはり汗臭い。あと土臭い。

「わはは、港街で汗の臭いなんて気にするな。港はもっと磯臭くて汗臭いぞ!海の男まみれだからな!」

 そう言われればそうなのかも知れないが、兄は矢張りデリカシーに欠けているようだ。これでも姉が言うには意外とモテるというのだから良くわからない。

「それで、どちらに?」

 不満はあれど、嘆いてもどうにもならない。勝手のわからない場所では案内役に全て任せるしかないのだ。

「そうだな、まずは俺の職場へ挨拶に行こう。一応領主直轄組織だから、顔を通しておくのが礼儀だろうしな」

「警備隊の詰め所ですか?わかりました。それで、あの」

「なんだ?」

「その、詰め所なら浴場とか……あったりしませんか?」

 振り返った兄の顔は困ったような訝しそうな、なんとも言えない顔と色をしていた。

「まぁ、水浴びする場所なら中庭にあるにはあるが……お前、男だらけの詰め所で裸になる気か?子供に欲情する奴ぁいないとは思うが……それでもお兄ちゃんは心配だぞ」

「……我慢します」


 トリシアンナ達が入った街の出入り口は、丁度街の中央真北に位置する。そこから南の港区画までまっすぐに貫く大きな通りがあり、途中で東西の出入り口を結ぶ通りと交差する。

 街の主要な施設はその周辺に固まって存在しており、サンコスタ都市警備隊の詰め所もまた、その一区画に立地していた。

「おいラディ!ついに隠し子を連れてきやがったな!」

 聞く方は二度目となる冗談に、トリシアンナは少し不安になってきた。

 ひょっとしてこの次兄はそんなに手の早い事で有名なのだろうか。

「だからぁ、おやっさん。こんなでかい子のいる歳じゃねえって」

「あの、こんにちは。妹のトリシアンナと申します。」

 連れて来られたのは警備隊の執務室、一番奥の総隊長室だった。という事はつまり、目の前にいる目つきの鋭い壮年の男は、警備隊のトップであるカネサダ・ソウマその人であろう。

「このように見苦しい格好で申し訳ありません。ソウマ総隊長でいらっしゃいますね?父からお話は伺っております。大変頼りになる方だと」

 出来るだけ丁寧にお辞儀をする。

「トリシア、そんな堅苦しいのはいいって言ったろ。ほら、おやっさんはこんな人だし」

 水を差すラディアスをじろりと一瞥して牽制した後、表情を緩ませて男は言った。

「トリシアンナお嬢様。ご丁寧な挨拶痛み入ります。生憎と男所帯ゆえむさ苦しい場所ではありますが、どうぞ、ごゆっくりと見学していらして下さい。……おいラディ」

「なんすかおやっさん」

「人の前でそのおやっさんはやめろ。こんな可愛らしい妹さんにとんでもねえ粗末な格好させやがって。どうせ鍛錬だーとでも言って走らせて来たんだろ。本当にしょうがねえ奴だなお前は」

 図星を突かれて怯む兄。もっと言ってやって欲しい。

「まぁ、それはさて置くにしてもだ、明日お前が出てきたら聞こうと思ってたんだけどよ、昨日のあれは何だったんだ?」

「昨日の?……あぁ、ウチの近くで雷が落ちたっていう……あぁ」

 兄はちらりとこちらを見てから言った。

「ありゃあ、妹の魔術でしたよ。心配かけて申し訳ありません」

 嘘は言っていない。

「魔術だぁ?またディアンナお嬢様かよ。まいったね、今度はどんな魔物が出たのやら」

 当然の如く、目の前の幼女が雷撃魔術を放ったなどとは思わないだろう。

「まぁそんなわけで。報告書、いります?」

「いやいいよ。領主様も若旦那様もご存知なんだろ。お忙しい方々に手間ぁかけさせるわけにはいかねえよ。おめえも非番だろ」

 ひらひらと手を振る。

 話を打ち切りたい兄は、安堵を悟られぬように妹の手を引いて言った。

「そんじゃおやっさん、詰め所をゆっくり見させたいのは山々なんですが、他にも色々と見せてやりたいもので」

「港に行くのか?」

「一通りは連れて行ってやろうかと」

「そうか、あんまり女の子に無理させんなよ」

「わかってますって」

 本当に分かっているのだろうか。

 カネサダに感謝の言を述べ、数名が剣術の訓練を行っている中庭を抜けて入り口に戻る。横目で見たが、確かに中庭の隅に水を引いている場所があった。流石に訓練している警備兵に気を使わせては申し訳ないので、ここで水浴びをするわけにはいかなかった。


「さて、じゃあまずは港から行ってみようか」

 目抜き通りを南に進むと、一段と潮の香りが強くなる。居並ぶ建物の向こうに、ひどく懐かしい、心のざわめく色が見えた。

 街よりも一段低くなったところが港区域となっていた。海鳥の喧騒と波の音。大声で怒鳴り合う海の男たち。ここは、自分の良く知る港とそれほど大きな違いは無いように感じられた。

 皆、ケンカをしているかのように大声を出しているが、感情の色を見る限り、怒っている人間は殆どいない。沢山感じられるのは信頼、歓喜、そして多少の疲労と、少しの焦燥。

「良い港街のようです」

 言ってしまってからはっと口を噤んだ。しかし兄は気にした風も無く応えた。

「だろう?俺はここの空気が好きでさ、毎日見てても飽きないんだよ」

 穏やかな感情を流しながら兄は言う。

「いい街だよ、ここは。活気があって、みんな元気で楽しそうだ。俺が騎士団やめて戻ってきたのは、この街の役に立ちたいって思ったからなんだ」

「分かる気がします」

 自分がこちらにくる直前は、港といえば忙しいだけの軍港しか見られなかった。しかし、もっと前、子供の頃はここに似た港を見ていた気がする。

「ま、港の連中はケンカっ早いのが玉に瑕だがな。そんなわけで俺の仕事も大忙しってワケだ」

「警備隊冥利に尽きますね」

「いっつも思うんだが、お前って妙に小難しい物言いするよなぁ。本ばっか読んでるとそうなんのかね」

「お兄様が受けた教育の割に適当すぎるだけです」

「それ、兄貴にも親父にも言われたよ」

 下らない事を言い合いながら波止場を歩く。早朝の漁による荷下ろしは既に終わっているらしく、今忙しく立ち働いている人々は交易関係の人間らしい。

「あれは東方諸島の船ですか?」

 どこか懐かしい感じのする意匠があちこちに施された、一際目につく巨大な輸送船を指さして聞いてみる。

「そうだな。ユニ姉さんの嫁ぎ先の商会が取引してる船だ。ほら、応接室に飾ってある掛け絨毯あるだろ。あれも確かあの船で運ばれてきたものだぞ」

「へえ、そうだったんですか」

 独特な格子模様の壁掛け布が、確かに応接室に飾ってある。他の調度品に対してあんまり合ってないなあと不思議に思っていたのだが、スパダ商会からの贈り物だったのかと納得した。

 応接室に飾ってあれば大商会との繋がりを暗に示すことができるだろうし、また体面上そうせざるを得ないのだろう。

 トリシアンナ自身はそういった政財の癒着は好むものではないのだが、時に財力の誇示が政治に直結しているのも事実である。好き嫌いで測れるものではないだろう。

 彼女はどこか懐かしそうに海側を眺めていたが、三分の二程見終わった頃、兄が手を引き、港のすぐ隣に設置された市場の方へと誘った。

「まだちょっと昼飯には早いけど、腹、減っただろ。新鮮な魚でも食おうか」

 言われてみれば、トリシアンナは自らのひどい空腹感に気がついた。

 朝から何も食べていないし、胃袋の中身は母なる大地へと返還済みである。疲労のせいで忘れていたが、一度自覚してしまうと、小さな腹が痛みを覚えるほどに空腹を訴えている。

 是も否も無い。兄の言葉に頷いて市場へと足を向けた。


「よう!ラディの旦那!お子さんかい?ついに身を固める覚悟が出来たのかい?」

 三度目である。

「行く先々で言われたよそれは。こんなでかい子のいる歳じゃねえってこれも三度目か?四度目か?」

 笑いながら声を掛けてきたのは、天幕の張られた市場に入ってほど近い場所にいた、頭の綺麗に禿げ上がった中年の男だった。

「妹だよ妹。それよりおっさん、適当になんか今日入ったいいのを2、3見繕ってくれよ」

「はいよ、ちょっと待ってな」

 例によって妹のトリシアンナですと名乗った後、ざっと周囲を見渡す。

 遥か遠くまで見渡せるほど広い市場の中には、どこも同じ様な白い箱が積み上げられている。天幕のある部分だけが店のようだが、それにしても多い。店の数はざっと見ただけでも200は下らないだろう。

 近くに所狭しと並べられた白色の箱には、どれもぎっしりと氷が詰められている。それぞれの箱には、今朝水揚げされたばかりらしい、見るからに新鮮な魚が乗っている。

 元の世界では見たことのない魚種もいるようだが、殆どは知っている魚と似たようなものばかりである。獣にせよ魚にせよ、世界が違ってもある程度の生態は似通ってくるものなのだろう。何か珍しいものは無いかと箱の間を縫うように歩いていると、隅の方にぽつんと、明らかに他の箱とは違う扱いがされているものがあった。

「おじさん、これは?」

 紙の袋に一尾ずつ魚を入れている男に聞く。

「あー、お嬢ちゃん、そりゃ海の魔物の子供だよ。網に混じって結構大量に捕れるんだがよ、売り物になんねえから大体はその場で海に捨てるんだ。そんでもどうしても混じって水揚げされちまう事があるもんで、仕方なく置いてるんだが……まぁ売れねえから大抵は捨てちまうな。ほれ、気持ち悪いだろ?」

 氷の上でも元気にうねうねと蠢いているそれは、明らかに見たことのある生き物だった。

(どう見てもイカ……紋甲イカそのものですねこれは)

 昔食べた刺身の味を思い出す。

「おじさん、これおいくらですか?」

 胴の部分だけでも30センチメートルはあるだろうか。これだけ立派なイカを捨ててしまうのはもったいない。安ければ兄に言って買ってもらおうと思って聞く。

「一応は5カッパドって値段付けちゃあいるけどよ、まぁこの値段でも当然売れねえよ」

 異常に安い。

 市場の前で売られていた柑橘の果汁が一杯8カッパド。兄が買おうとしている魚3尾で2シルバとちょっと。1シルバが100カッパドなので210カッパドである。

 投げ売りも投げ売り、殆どタダみたいなものだ。

「お兄様、お兄様。これ、これを買って下さい」

 急いで兄を呼び寄せる。箱の中身を見た兄は、露骨に嫌そうな顔と色をした。

「なんだこれ、おいトリシア、これクラーケンの子供だろ?こんなもん買ってどうすんだよ。食いたいもんがあるなら別のにすりゃいいだろ」

「そうだぜお嬢ちゃん、いくら安いっつってもやめときな。第一食うったって食い方もわかんねえぞ?」

 店の親父にまで反対される始末である。

「調理法なら知っています。だからお兄様、お願いですからこれ、買って下さい!」

「そこまでしてこいつが欲しいのか?変わった奴だなぁ。まぁ、お前が何か物をねだるなんてのは初めての事だし、まぁいいか。親父、そのクラーケンの子供もつけてくれ」

 頭まで下げた妹に対し、半ば渋々と、それでも妹にものをねだられたことが嬉しいらしく、親父にそう告げる。

「はいよ。物好きだねえ、お嬢ちゃん。まぁこっちは処分する手間が省けて嬉しいけどよ。ほれ、値段はおまけしとくよ」

 別の紙に包まれたイカらしきものを渡されて、トリシアンナは満足げな笑みを浮かべた。

 紙の中で、まだうねうねと元気に動いているのが分かる。

「よし、そんじゃ行くぞ」

 兄は金を払うと、妹の手の中のものを見ないようにしながら市場を奥へと進んでいく。

 広い市場の中では、先程の店主と兄のやり取りと同じような光景がそこかしこで行われている。大抵は街の住人だろうが、中には箱ごと大量に買い付けている姿もちらほらと見られる。恐らくは飲食業か、宿泊業を営む人たちなのだろう。

 流通の要となる街では例外なく、そういった物流を担う仕事をする人たちの為に、宿や飲食の需要がある。産業が人を呼び、人の需要に応える形で新たな産業が発達する。そうやって街は大きくなっていくのだ。

 飲食業といえば、手に入れた生の魚介類をどうやって食べるのか。大抵こういった市場では、市場で購入したものを持ち込みで調理してくれる店がある。兄もそこを目当てに進んでいるのは間違いない。

 果たしてたどり着いた、その手の店が並ぶ通り。その中でも、妙にケバケバしい看板を掲げている地下の店に、兄は躊躇いもなく降りていった。

「いらっしゃーい」

 開いた扉に付けてあるベルの音に、少し気だるげな声で女性が応じる。

「持ち込みで。調理法は任せる」

「あら、ラディじゃない。こんな時間に珍しいね。飲む?」

「昼間っから飲まねえよ、モニカ。連れがいるんでな。」

 後ろから着いてきたトリシアンナに、モニカと呼ばれた女性は大きな瞳を瞬いた。

「あら?その子」

「妹だ」

 流石にもう慣れたのか、機先を制するラディアス。思わず苦笑いして、妹もぺこりと頭を下げる。

「トリシアンナと申します」

 格好は兎も角、礼儀正しい幼女に女も微笑み返す。

「ああ、そういや何年か前に領主様に新しいお子さんができたって聞いたわね。そっかー、よろしくね、トリシアンナちゃん。あたしはモニカ。ここの食堂兼酒場の店主代理」

「よろしくおねがいします」

 兄がカウンターの上に、紙包みを置いている。トリシアンナではその高さに背が届かないので、紙包みを兄に渡すと、これまた嫌そうな顔をして紙の端っこをつまんで受け取り、すぐに他の魚の隣に置いた。

「俺も妹も腹ペコなんだ、急ぎで頼む」

 言うなりさっさとカウンターの向かいにあるテーブルの席へと腰を下ろした。兄に続いて椅子によじ登ったところで、カウンターの中から小さい悲鳴が上がった。

「ひゃっ!な、なにこれ。魔物の子供!?」

 よくよくイカというのはこの世界では評判が悪いようだ。その魔物、クラーケンがどれほどの被害を及ぼしているのかという証左でもあろうが。

「わはは、やっぱり驚いた。悪いがそれも頼むわ。妹が食いたいって言うから買ったんだ」

 愉快そうに笑う兄をカウンター越しに女が睨む。

「頼むったって、こんなもん調理したことないわよ!っていうか先に言いなさいよ!腰抜かすかと思ったじゃない」

「わりいわりい。いや、ここならそれも料理として出せるかなと思って来たんだけどよ、やっぱダメか?」

「大概の魚はさ、毒あるところも食べられないところも知ってるからいけるけど、流石にこれはねえ」

 聞く限りでは魚介類の調理に関して、兄はここの店主にそれなりの信頼を置いていたようだったが、それでも無理のようだ。仕方なく、トリシアンナは声をあげる。

「あの、もし宜しければ厨房をお借りできますか?私が捌き方を知っていますので」

 椅子から飛び降りてとことことカウンターの方へと向かう。

「え、できるの?大丈夫?」

 トリシアンナ本人ではなく、兄の方に疑問を投げる。兄は兄で、

「本人が出来るってんだから多分大丈夫だろ。こう見えて妹は色々出来るんだ」

「色々できるっていっても……こういうのって経験がさ。まぁ、保護者がいいって言うならいいけど」

 モニカはカウンターの扉を開けてやり、少女を中へ招き入れると、棚から取り出した布で簡単な前掛けを作ってくれた。

「懐かしいねえ、私も子供の頃は親の手伝いをする時、こうやって前掛けをしてもらったもんさ」

 手慣れた様子で足元に置いてあった木箱を調理台の前に寄せてくれる。

「ありがとうございます。ナイフをお借りできますか?」

「はい、これ。気をつけてね」

 目の前の調理台には紙包みから這い出てきたイカ、もといクラーケンの子供が蠢いている、渡されたナイフを見ると丁寧に研がれており、使いやすそうだ。トリシアンナは憐れな魔物の子供の目の上、頭の付け根から胴体の方へと向けて、躊躇いなくナイフを突き刺した。

 途端にその生き物は動きを鈍くし、真っ白に変色する。そのまま足と頭を掴むと、ゆっくりと揺すりながらワタを引っ張り出した。

「へ、へぇ……こいつってこうやってシメるのね。初めてみたわ。いや、そもそも食べられるの?これ?」

 トリシアンナは後ろを振り返ってにっこりと笑う。

「食べられますよ、この、内臓は塩漬けすればお酒に合うものになるんですが……今はやめておきましょう。黒い墨袋を破ると調理場が大変な事になるので気をつけないといけません。この目とくちばしは食べられないので外して、あとは、この羽みたいなのをとって甲羅を……」

 キモを切り離し、素手で目と嘴をえぐり取る。エンペラを外し、そのまま胴体の隙間に手を入れて、紋甲イカ特有の大きな甲羅を取り外す。

「手慣れてるのね……まるで何度もやったことあるみたい」

「……本で読んだだけです。私は器用なもので」

 かなり苦しい言い訳だが、彼女の色を視る限り疑惑を感じている様子は無く、一応は納得してくれたらしい。モニカはふーんと感心したように相槌を打つと、黙々と作業を続けるトリシアンナの手元を凝視している。

「うお、うおお、すげえな。綺麗に分離してら」

 興味が湧いたのか、兄がカウンターの向こうにやってきてこちらを覗き込んでいる。

 相変わらず腰が引け気味なのが若干情けない。

 胴体の皮を剥がし、端を落として形を整えるとトリシアンナは言った。

「お皿を用意できますか?」

「えっ、もう?」

 驚いて皿を用意するために後ろを向いたモニカの姿に、トリシアンナもまたぎょっとした。

 前からでは気が付かなかったが、彼女は前掛けの下に殆ど何も着用していないように見える。申し訳程度に下半身を赤いドレスのようなものが覆っているが、お尻の上半分は殆ど丸見え状態だ。

(そういえば、酒場だとも言っていましたね)

 独特な紫色を感じてじろりと兄の方を睨むと、案の定、彼女の後ろ姿をだらしなく凝視している兄の姿があった。

「お兄様」

 妹の冷たい視線にはっとした兄は、取り繕うように大きく咳払いをした。

(気持ちはわからないでもないですが)

 この身体になって6年。精神は肉体に引きずられるというが、それは体験上概ね正しい。

 人は自分の身体を認識し、それに合わせるように精神構造は変化する。また人からどう見られるかによっても変化していくものだ。

 酒場の店主が扇情的な格好をしているのも、酒場という場所と、どう見られているかという本人の認識で、着るものも立ち居振る舞いもそれに相応しいものへと変わっていくのだろう。だが、それはそれとしても。

「行く先々で変な勘繰りをされたくないのであれば、まずは態度から改めてはいかがですか?」

 ため息と共に囁くと、兄は申し訳無さそうに、善処します、と呟いた。

「これでいいかしら」

 四角い平皿をモニカが持ってきて調理台の横に置いた。

「ありがとうございます。いいお皿ですね」

 言ってからトリシアンナは、目の前の空間に向けて魔術の構成を構築し始める。

「え、おい、魔術で調理すんのか?ちょ、ちょっと待って」

 魔素の動きを感じ取った兄が身を乗り出すが一切気にせず、トリシアンナは産まれて二度目となる魔術の構成を解き放った。

 目の前に現れたのは煌々と輝く光体。熱こそ発していないが、直視するとかなり眩しい。

 トリシアンナは板状になったイカの胴体をぺろりと持ち上げると、光子系第一階位『ビジブル』で生み出した光球の前に翳した。

 光の透き通る肉に、異物は見られない。すぐに魔術を霧散させると、再びナイフを持って切り分け始める。

「?今、何してたんだ?」

「すごーい、トリシアンナちゃんってもう魔術使えるんだ」

 細い短冊状にイカ肉を引くように切る。作業の手を止めずにトリシアンナは答えた。

「虫がついていないか確認したんです。直前まで生きてたので大丈夫だとは思いましたが、念の為」

 流石に空っぽの胃の中に食いつかれて、出もしない内容物を吐かされてはたまったものではない。ただの目視でも一応は取り除けるが、イカは身が白いせいで虫体の発見が難しいのである。

「虫?虫って、虫か?」

「そうです、魚に寄生してる虫」

「あー、あれね、あれって魔物の子供にもついてるんだ?」

「ついてる時ありますねえ、青魚の内臓ほどじゃないんですけど」

 普段から魚を調理する人間ならば割と目にする機会はある。兄は頭に疑問符を浮かべているようだが、詳しい事は教えてあげないほうが良さそうだ。

 平皿に半分に折った短冊状の肉を盛り付ける。ツマは無いが仕方がない。

「一つ、出来ました。クラーケンの子供の刺身です。モニカさん、ビーンズソースとホースラディッシュはありますか?」

「あ、あるよー。東方諸島から来るお客さんも多いからね。はいこれ」

「ありがとうございます」

 邪道かもしれないが、上からビーンズソース――大豆の麹黴による発酵を利用して作った調味料――所謂醤油をまぶすように掛ける。

 ホースラディッシュの先をナイフで削るように剥き、ささがきにしたものを更に細かく刻む。まとめて皿の端に盛ると、一応は格好が付く形になった。

「できました」

「できたって、これ、切っただけの生だよな?」

「はい、生です」

「これ食うの?」

「はい、食べます」

 くどい兄の言葉を肯定して受け流し、次の工程に入る。

「あー……私、他の魚に取り掛かるね。他に必要なものあったら言ってね」

 モニカが置きっぱなしになっていた他の魚を持って、逃げるように奥へと引っ込む。あまり生食の文化が無いので仕方がない事だが、やはり抵抗があるようだ。牡蠣だけは生で食べるようだが。

 残った足の部分に手をつける。こちらは吸盤をナイフで削り落とせば下処理はほぼ完了。

足を一本ずつに切り分けて、長いものは半分に切る。

「モニカさん、火を使わせてもらってもいいですか?」

「はーい、こっちへどうぞ〜」

 奥の竈に近づくと、酒場の店主はお尻を見せながらフライパンで魚を蒸し焼きにしていた。蓋の隙間から香草の香りが漂ってくる。

「失礼します」

 網に載せて直火の遠火で軽く炙る。少し反ってきたところでビーンズソースを振りかけ、また表面を炙る。ソースの焦げる良い香りが漂い始めた所ですぐに引き上げた。

 モニカの調理はまだ時間がかかりそうだったので、別の皿に無造作に盛って厨房を出た。


「なあ、本当にそれ食うのか?無理しなくていいんだぞ」

 二皿を手に、最初に座ったテーブルへと戻るなり兄が声をかけてきた。

「だから食べますって。良ければお兄様も召し上がりますか?」

 その言葉に、大袈裟に頭と両手を振って拒絶する兄。そこまで嫌わなくても、と少し悲しくなったが、それならば自分が独占できるという事でもあるので、有り難く海の恵みを頂戴することにした。

 見た目は完全にイカの刺身と炙りゲソである。フォークで軽く透き通る身を贅沢にも2、3本持ち上げて一息に口に入れた。

 ねっとりと絡みつくような舌触り。歯で噛みしめるとコリコリとした歯ざわりと共に、噛みちぎられたそばから特有の旨味と甘みが溢れ出す。たまり醤油に似たソースの香りと塩気が合わさって、口腔内に得も言われぬ幸福感を産み出す。

 添えたホースラディッシュも、わさびと遜色ない辛味と香りである。ともすれば生臭さを感じる生の海産物の後味を、その鼻にツンと来る清涼感でもって洗い流す役目を果たす。

(美味しい)

 今度は炙った足に手を伸ばす。

 卓上にあった塩を軽く振りかけると、こちらもまとめて2本口に放り込んだ。

 香ばしく焦げたソースの香りに、生とはまた違う食感。表面はカリッとしていながら、もっちりとした芯の部分は噛めば噛むほどにじわりじわりと旨味の塊を吐き出す。

(これも美味しい)

 軽く顔を綻ばせながら黙々と魔物の子供を口に運ぶ妹を、兄は違う生き物を見るような目で見ている。その感情の色は少なくとも心地良いものではないのだが、空腹を満たす感覚と美味による多幸感はそれを忘れさせてくれる。

「はーい、おまたせ〜。こっちが香草蒸しで、こっちがオイル焼き、あと一つは今煮てるから、もうちょっと待ってね」

 皿の上を粗方胃の腑に落とし込んだところで、モニカが先程の魚料理を運んできた。

「おお、助かったぜ。待ってるだけじゃ辛くてよ」

 救いの神が来たとばかりに、兄がナイフとフォークを手に取る。目の前の妹など忘れたかのように、魚の身を切り分け始めた。

「トリシアンナちゃん、それ、美味しいの?」

 料理を運んできたモニカは、一心不乱に皿の上のものを食べているトリシアンナに声をかけた。

「はい、とっても美味しいです。モニカさんも良かったら召し上がりますか?」

「えっ、うーん」

 旨そうに食べる姿に、先程よりは大分悩んでいるようだった。トリシアンナも、ただ礼儀として聞いただけなので別段返答には期待していなかった。

「生はちょっと……だけど、そっちの炙ったもの、一つもらっていい?」

「はい、どうぞ。軽く塩を振って召し上がって下さい」

 塩を振って、恐る恐るといった感じでゲソを口に運んだモニカは、暫く噛み締めていると驚いたように声を上げた。

「あら、美味しい。炙っただけなのにこんなに味が出るのね」

「お酒にも合いますよ。葡萄酒とはちょっと相性悪いですが、エールやラガーにはぴったりのはずです」

 その言葉に、兄が反応する。

「おい、なんでそんな事を知っている。まさかお前」

 失敗した。

「……って、本に書いてありました。お兄様。まさか私がお酒を嗜むとでも?」

「まぁ、そりゃそうか。そうだよな、そもそも家にエールなんて置いてねえし」

 父が蒸留酒派で助かった。美食に浮かれて余計なことを口走ってしまった事を、トリシアンナは深く反省した。

「なるほどねえ、確かにこれは麦酒と合いそう。でも魔物の子供かぁ……置いてたとしても多分注文されないよねえ」

「メニューに載せるのは難しいでしょうね。そもそも水揚げされても海上に殆ど捨てちゃってるらしいですから、入手するのも大変でしょうし」

 異質な文化のものを商品として普及させるには、まず社会全体の偏見を取り除かねばならない。加えて、商品として確保できるだけの流通量が必要になる。たまたま手に入ったものを常連にこっそりと裏メニューとして、程度ならできるだろうが、結局はその程度で終わってしまう事だろう。

 誰も欲しがらない刺身の、最後の一切れを噛み締めながら考える。こんなにおいしいのになあ、と。

 皿の上が無くなっても、空腹感はあまり収まらなかった。元々胃が完全にからっぽだったのもあるが、後半は少し考え事をしながら食べていたのが悪かったようだ。

 目の前に座っている兄を見ると、旺盛な食欲でオイル焼きを食べ尽くし、香草蒸しの方に手を付けているところだった。

 イカを独り占めしてしまった手前、分けてくれとも言い出しにくく、所在なさ気にもじもじとしていると、モニカが次の皿を運んできた。

「はーい、パインフィッシュの姿煮でー……ちょっと、ラディ。あんたなんで一人で二皿全部食べてんのよ」

 その言葉に兄が少し噎せた。

「ゴホッ、あ、そ、そうか悪い!トリシアも腹減ってるよな!いや、つい。なんかこう、アレを食べてるのがな、なんというか」

「あっ、気になさらないで下さいお兄様。私はこっちのを全部食べてしまいましたので」

 内心とは裏腹に兄をフォローするが、モニカは二人の間にどんと煮魚を置くと、目を釣り上げた。

「ダメに決まってんでしょ。ほら、トリシアンナちゃんいくつ?6歳?育ち盛りでしょうが。もっと食べないと。ほら、あんたは水。」

 水差しから乱暴に兄の木製コップに注ぐと、自らナイフとフォークを握って煮魚を取り分け始めた。

「ありがとうございます、モニカさん」

 正直、助け舟が出されてほっとした気分になって、心から感謝の言葉を口にした。

「いいのいいの。ほら、こいつって変に気を回すかとおもったら、デリカシーも細やかさも全然足りてないでしょ?最初はね、人当たりも顔もいいから声かけられた女の子は結構簡単に靡いちゃうのよ。で、結局正体がバレてご破算ってね」

「なるほど……分かる気がします」

 鍛錬にかこつけて街の中を案内してくれるのは良いが、こちらの格好や臭いにまでは気が回らない。空腹には気づいてくれるものの、いざ食事が始まればこちらの様子にはあまり気を配らない。根が優しく善良であり、家柄も良くて騎士団にいた経験もあり、見た目も悪くない。初対面の印象からのギャップを考えればさもありなん、というところである。

「おい、子供になんて話してるんだよ!」

「ひょっとしてモニカさんも?」

「ご名答〜、まぁ、お得意さんだから悪くはしないけど」

 抗議の声をあげる兄を無視して、行く先々でからかわれたのには理由があるのだな、と苦笑した。街に溶け込み、周りから愛されるという点では、領主の息子としても、警備隊の一員としても十分に合格点だろう。本人の幸不幸は別として。


「また来てね〜」

 扉の外まで送ってくれたモニカに手を振りかえして、再び兄と共に歩き出す。

「良く利用するんですか?」

 小走りで兄の横をついて行きながら聞いてみる。

「まあな。市場の付近じゃあそこが一番料理が美味い。夜になるとあいつの親父が厨房に入るから、モニカは専ら給仕と酒の提供だけになるが」

「その割には空いてましたね」

「昼に店を開け始めたのは最近なんだ。昼間は親父が寝てて出せる料理も少ない。あそこに行く客はもっぱら親父さんの料理目当てだからな」

「夜だとお尻も近くで見られますからね」

 兄は、うっ、と唸るとそのまま押し黙った。一つ有効な手札を手に入れたトリシアンナは上機嫌で続ける。

「次はどこに連れて行ってもらえるんですか?」

 日は中天に差し掛かり、往く街もどこかゆっくりとした時間が流れている。

「そうだな、そろそろユニ姉さんに会いにいくか。商会もそろそろ昼休みだろうし」

 言われて少し考える。ごく自然な疑問が浮かび、その解消に有効な手立てが無いと分かると、仕方なく口にした。

「スパダ商会に?この格好でですか?領主の子息と令嬢が、サンコスタどころか王国で最も大きい商会の一つである所にこの格好で?」

 裸同然の男たちがうろつく波止場や市場、労働者御用達の酒場ならばい知らず、貴族や商人への融資や外国の商会同士の大きな商談も頻繁に行われる場所なのだ。

 そこへ見る人が見ればわかるこの地方の領主関係者が、見るからに見窄らしい格好で現れればどうなるか。

 領主への信用が毀損するだけならまだいい方だろう。場合によっては両家の関係性の破綻や、王都まで話が上れば貴族資格の剥奪まであり得る話ではないだろうか。

 何よりこんな格好で、汗と土と魚の臭いを振りまきながら綺麗に内装の整った場所の敷居を跨ぐというのは恥ずかしすぎる。

「嫌です。絶対に行きません」

 そこまで思い至ったトリシアンナが、顔面を蒼白にしてその場で足を止める。

「なんだ、ユニ姉さんに会いたくないのか?」

「お姉様には会いたいです。産まれたばかりという甥と姪の顔も見たいです。でもこの格好では絶対に!嫌です!」

 確かに優しいユニティアであれば、そのような行為も笑って許してくれるだろう。精々無礼な兄が絞られる程度に違いない。しかし、商会にいるのは姉だけではないのだ。

「せめてどこかで着替えさせて下さい。それと、身体も拭かせて下さい」

 その言葉を、兄は別の意味に受け取ったようだった。

「ははあ、久しぶりに会うからおめかししたいってか?そんなもん気にすんな。ほれ、行くぞ」

 言うなりラディアスはひょいと妹を肩に担ぎ上げると苦もなく歩き始める。

「離してっ!離して下さい!嫌です!絶対に行きませんから!」

「わはは、抵抗しても無駄だぞー」

 苦し紛れにじたばたと手足を動かしてみるが、鍛えに鍛えた男の頑強な肉体はびくともしない。トリシアンナは今日ほど自分の非力さを悔やんだことは無かった。

 近くを犬を散歩させている年配の御婦人が通ったが、何故か微笑ましそうに笑いながら会釈をして通り過ぎていった。

暴れる幼女を抱える体格のいい男など、普通に考えれば即、都市警備隊に通報されても良いものだが、そもそもその幼女を抱えている男が街の警備隊で一二を争う程に有名な人間なのだ。トリシアンナの事など、精々駄々をこねる子供にしか見えなかったに違いない。

 斯くして十数分もの間、兄に丸太のごとく抱えられた憐れな妹は、サンコスタで最も規模も権威も大きな建物の前に連れてこられた。

 観念して暴れるのをやめた妹を見て取って、兄は漸くその場に彼女を下ろした。

「ほれ、着いたぞ」

 言って手を引いて、堂々と正面の入り口から入ろうとする。せめて搬入用の裏口から声をかけるという気遣いは、最早この男には期待するだけ無駄なのか。

 半ば引きずられるように立派な金属製の扉を通ると、果たしてそこは大商会の顔と言って十分に面目を保てる造りの内装であった。

 敷き詰められた絨毯は機能性の観点から毛足こそ長くはないが、丁寧にクリーニングされ、シミひとつ見当たらない。壁紙から調度品に至るまで、いやらしくない程度に高級感を感じさせ、広い入り口の脇に設置された、簡単な目隠しの衝立が立てられたスペースでは、南方諸島の商人らしい男が二人、商会の人間と和やかに会話をしている。

 正面に目を向けると、銀行業務も兼ねた長いカウンターが横たわっており、幾人もがカウンター越しに融資や商品買い付けの手続きを行っている。

 兄は迷うことなく、そのカウンター窓口の一つに向けてずんずんと進んでいった。

「おや、ラディアス様。本日はどういったご要件でしょう」

 そのカウンターに座って書類に判を押していた、眼鏡をかけた小太りの男性がこちらに気づいて声をかけた。

「やあ、ポートマンさん。姉に会いに来たんだが、大丈夫かな」

 眼鏡の紳士はこちらの格好など全く気にも止めない様子で応える。

「勿論ですよ。こちらへどうぞ。そちらのお嬢様は?」

 流石に大商会の従業員は教育が行き届いているらしく、顔見知りでも不躾な冗談は飛ばさない。

「末の妹ですよ、ほら、トリシア」

 促されて仕方なく、挨拶をする。

「初めまして、トリシアンナと申します……このような見苦しい格好で大変」

 申し訳ございません、と、消え入りそうな声で続けた。

 表面上、目の前の彼はこちらの格好を全く気にしていないように振る舞ってくれているが、トリシアンナには、彼が顔を上げた瞬間に発した驚きの感情が見えてしまっていた。

 その上で礼儀を失しない丁寧な対応をしてくれているのだから、紳士的な彼に感謝すると共に厚顔無恥な兄を蹴り飛ばしたい衝動が沸き起こってくる。

 小太りの紳士はにっこりと笑うと、

「お気になさらず。さあ、こちらから裏へどうぞ。おーい、ジュリアーニ君、ちょっといいかな」

 彼がカウンターの脇にある鍵を手で開けて持ち上げると、人一人が通れるぐらいの隙間が空く。二人がカウンターの内側へと入ると、奥で書類作業をしていた女性が一人、こちらへとやってきた。

「忙しい所すまないね。こちらのお二人を若奥様のところへ案内してあげてくれるかな。それと……」

 カウンターの内側はそうでもないのだが、先程からトリシアンナは外にいる人達の視線が気になって仕方がなかった。

 それはそうだろう。豪奢な内装に似つかわしくない格好の二人組が突然あらわれ、カウンターの奥へと入っていけば嫌でも人目を引く。そこへ向けられる感情の大半は好奇という、大変に居心地の悪い視線だ。早くこの場から離れてしまいたい。

「かしこまりました。お二人とも、こちらへどうぞ」

 彼女の心を読んだわけではないだろうが、タイミング良くジュリアーニと呼ばれた女性が先導して歩き出した。

 ほっとして後をついていく。隣を見上げると、兄が気づいてこちらに笑いかけてきた。顔に書いてある言葉を読むとこうだ。「な?大丈夫だっただろ?」

 トリシアンナはこっそりとその踵を蹴飛ばした。


 カウンターの裏を抜けると、中央に小さな噴水の設置された広い庭が広がっていた。きれいに植えられた芝生の上にはいくつかベンチが置いてあり、商会の従業員らしき人々がちらほらと昼食をとっている。

 前を歩く女性が右に方向を変えて歩き出したため、遅れそうになって慌ててついていく。

 庭を囲っている植え込みの合間に石畳が敷いてあり、その先に2階建ての瀟洒な家屋が顔を見せた。

 中に入り、入り口の脇にある階段を登って2階へ。廊下の奥、右側の奥で女性は立ち止まった。

「若奥様、お客様でございます。」

 彼女がノックをして声を掛けると、中からどうぞ、と返答があった。

「失礼致します」

 扉を開けて二人に入るように促し、自らも入って扉を閉めると、その脇に佇む。

 商会の従業員ではあるが、同時に姉の侍従のような立場の人なのだろう、とトリシアンナはあたりをつけた。

「あら、ラディ。それに、トリシア。いらっしゃい、よく来てくれたわね」

 大きなベッドに寝間着姿の姉が起き上がっていた。

 緩やかなウェーブを描くブロンド。小さな顔に優しさの溢れる瞳を収めた、絵の中から出てきたかのような美しい女性は、こちらを見て微笑んだ後、少し困ったような顔をした。

「どうしたの?その格好。トリシア」

「お、お姉様……ごめんなさい、私は嫌だったのですが、お兄様が無理矢理……」

「そう。全く、困った子ね」

 ため息をひとつ、そしてそのまま扉の脇に立つ女性に向かって言った。

「ごめんなさい、マウラ。忙しい所申し訳ないのだけれど、私のかわいい妹に浴室を使わせてあげたいの。お湯の用意をしていただけるかしら。あと、彼女には着替えもお願いできる?出来るだけ動きやすい服装を」

「承知いたしました。お嬢様、こちらへどうぞ」

 やはり姉は全てを察してくれているようだった。というより、これが一般的な貴族教育を受けた者の反応だとトリシアンナは思うのだが。

 扉を出る前に、少し意趣返しがしたくなって振り向いた。

「そうだ、お兄様。お尻の見える女性がいる酒場に連れて行ってくれてありがとうございます。」

 そのまま扉を閉めた。自分が戻るまでの間、兄は優しい姉にこってりと絞られる事だろう。


 浴室は同じ家屋の一階に設えてあった。

 大商会の家族が使う家屋にしては小さすぎるため、主の息子夫婦が使うために建てられた、離れのようなものなのだろう。

 それでも一通りの設備が揃っているあたり、スパダ商会の財力を推して知る事が出来よう。

 この街に限らず、王都ですら一般の家庭には浴室など無い。

 温泉の湧き出る一部の地域は例外だが、そもそも湯を沸かすには燃料か、若しくは熱を操作する魔術の使い手が必要になる。

 自宅に浴槽や沸かすための設備を設置する場所やコストに加えて、使用する度に燃料を一々使うほどの余裕は庶民には無いし、そもそも本人がそうなら兎も角、湯の為だけに魔術師を一人を雇うなんて馬鹿馬鹿しいことこの上ない話だ。

 そんなわけで、姉の気遣いに感謝しつつ脱衣所の前に立っている。

「浴槽にお湯を張るには間に合いませんので、中の桶にご用意してあります。石鹸や香油はご自由にお使い下さい。私は外で待機しておりますので、何かありましたら遠慮なくお声がけ下さいませ」

「えっ、あ、はい。ありがとうございます。随分と準備が早いですね」

 浴室からすぐに出てきた女性――マウラ・ジュリアーニといったか――に感謝の言葉を告げると、彼女はにっこりと微笑んで脱衣所の外へと出ていった。

 恐らくはトリシアンナ達が表に訪れた際、気を回したポートマン氏が別の人間に先回りさせて用意してあったのだろう。なんとも細やかな気配りの出来る紳士だ。

 自分を取り巻く(一部を除いた)環境に心から感謝しながら、汗と土と潮の臭いが染み付いた麻の運動着を脱ぐ。上下とも籠に丁寧に畳んで入れて、下着に手をかけた。

(これは、うーん、もうダメですね)

 汗でべったりと自分の下半身に張り付いていた白い布地は、元々高級な生地で出来たものだ。運動による大量の発汗を存分に吸い込んだそれはじっとりと重く、恐らくは洗っても元のような肌触りには戻らないだろう。

(捨てるしかないですね。でも、まさか下着無しで帰るわけにもいかないし……)

 外に立っているジュリアーニ女史にお願いしようかとも一瞬考えたが、湯を沸かしてくれただけでなく着替えまで用意してくれるというのに、これ以上を望むのは流石に憚られた。

(石鹸で洗ってみようかな。最悪、しっかり絞れば多少は気持ち悪くても履くことはできるかも)

 やむを得ず、トリシアンナは脱いだ小さな布切れを手に浴室へと足を踏み入れた。

 スパダ別邸の浴室は、メディソン邸のそれと比べればいくらか小さいとはいえ、3、4人で利用しても問題ないほどの広さがあった。

 滑りにくく水はけの良い石材で出来た床の奥に、広々とした浴槽が鎮座している。今はそちらは空であるが、床に置かれた大きな木製のたらいに、なみなみと湯気を立てる湯が満ちていた。

 トリシアンナは近くに置いてある湯桶を使って湯を掬うと、頭から一気にざぶんとかぶった。

 少し熱めの湯が、汗とともに肌を流れ落ちる感覚がこの上なく心地良い。もう一度同じ様に湯をかぶり、水を吸って重くなった自らの長い金髪をぎゅっと絞った。

「うへえ」

 絞られてぼたぼたと流れ落ちた湯は、汗と埃でひどく濁った色をしていた。観念した彼女は石鹸を取り、両手でしっかりと泡立て始めた。

 泡立てた石鹸で丁寧に髪を揉み洗いしながら、トリシアンナは上階の気配を探った。

 ここ最近の事ではあるが、邸の中の人物であれば、感情の色や大きさ、強さや点滅などのその他の特徴で、誰が何をしているのかがある程度わかるようになっていた。

 案の定、彼女の残してきた置き土産で、兄はユニティアに静かに責められている様子がわかる。

 自分と容姿の良く似たあの姉は、決して表面上は怒りを露わにしない。けれど、怒らないわけではないのだ。

 彼女が本気で怒った時は静かに、理知的に、あまりにも慇懃で丁寧な言葉で諭すように責める。

 反論の出来ない言葉で外堀を埋めるように、じわじわと相手から謝罪を引き出すそのやり方は、ラディアスやディアンナのみならず、長兄のアンドアインですら太刀打ちの出来ないものだ。現に今も、兄の気配は恐怖に打ち震えているように感じられる。

 気の利かない兄も、これで少しは自分の意見を受け入れてくれると良いのだが、と、叶わぬ願いを吐息と共に吐き出して、桶に掬った湯に髪を漬け、残った泡を洗い流した。


「詳しく聞かせてもらえると嬉しいのだけれど、ラディ?」

 隣ですやすやと寝息をたてている双子を起こさないように、静かな声で問うた。

「違うって、それはあれだ、トリシアが魔物の子供を食いたいと言うから」

「嘘というのは、多少はもっともらしく聞こえるようにつくものではないかしら」

「本当なんだって!……市場で投げ売りされてるクラーケンの子をあいつが見つけて、食べるから買ってくれって」

 声が高くなったところをユニティアに静かに見つめられ、慌てて声のトーンを落とすラディアス。

「そう、それで?」

「それで……そんなもん料理出来る人間なんてしらねえから、モニカのとこへ」

「おかしいわね、あそこのご主人は夜しか厨房に立たないはずだけれど」

 あっというまに急所を突かれてしまう。

「あなたが一時期あの酒場の子に言い寄っていたのは知っていますよ。事実、あそこの料理は美味しいとうちの商会でも評判で、通う者もいます。ですけれど、何も幼い女の子を連れて行く所ではないのではなくて?」

「……おっしゃる通りです」

 はあ、と姉はこれみよがしにため息をつくと、続ける。

「それだけではありません。トリシアのあの格好は何ですか?」

「何って、そりゃあ鍛錬の為の」

「あんな小さい子に騎士団仕込みの鍛錬を?誰が言い出したのですか?」

「いや、そりゃ父上ですけど」

 その言葉に、ユニティアは少し考える仕草をした。

「昨日聞こえたあの落雷、あれはディアナかと思っていたのですが、まさか」

 その言葉に大きな弟は息を呑む。その様子を見て取って、全てを姉は悟った。

「なるほど、行き過ぎた英才教育も考えものですね。しかしそうだとしてもです」

 静かに睨む。

「あのような格好で街に来させてはダメでしょう。この地の領主の令嬢なのですよ。長たる者に連なる者は、最低限、それなりの格好をしていなければ、その領地の民そのものが他所の領地の民から侮蔑の対象となる事もあり得ます。子供の頃、教わりませんでしたか?」

「聞いたような、そうでないような」

 曖昧な返事をする弟を見つめ、更に言う。

「では今後覚えておいて下さい。大体、運動をするにしてももっとましな服装もあったでしょう。なんであのような、農地の方が寝間着に着るような格好なのですか」

「いやそれは、ハンネに頼んだらあれを出してくれたから」

 その言葉にまた一つ、大きなため息。

「大方、街に出ると言わずに、鍛錬するから汚れてもいい服を出してくれとでも言ったのでしょう。そりゃあハンネだって邸の近くで運動するだけだろうと勘違いしますよ。」

 図星を突かれて弟がまた唸る。

「もう一つ。あなた、あの子を連れて正面から来たでしょう。トリシアはさぞ嫌がった事でしょうね」

「なんで分かるんだ……」

「分からないあなたがおかしいのです。先程も言いましたが、外国からの訪問者も多い商会に、領主の子息と令嬢が見窄らしい格好で現れたらどうなりますか?」

「いやー、それは黙ってりゃわかんないでしょう」

 ユニティアは、自らの顔に貼り付けた笑みに凄絶さを増した。

「では、ラディ。店の者があなたを見つけた時、あなたは何と呼ばれましたか?」

「え、あ」

「質問です。正面から現れた客が店の奥に消えていけば、当然商会の誰かの縁者だろうと推測します。そこに、ラディアスという名前が聞こえたとしたら、少しでもこの地方を知っている方であれば誰を想像するでしょうか?」

「……すみません」

 何度目かわからないため息をこれみよがしに吐き出して、姉は続ける。

「ただでさえあなたは色々な意味で有名なのです。しかもその体格ですから目立ちます。少しは領主の息子としての自覚を持ってもらわないと困ります」

「……すみません」

 最早一言一句たりとも反論する事はできず、壊れた魔術装置のように同じ言葉を繰り返すことしか出来ないラディアス。

「あなたよりトリシアの方が、余程物事を理解していますよ。もう少し妹の言葉にも耳を傾けなさいな」

「……はい」

「あの子にこの街を見せたいと思ったあなたの優しさはとても素晴らしい事です。今後は気をつけて下さいね」

 大きな体を殊更小さく縮めて恐縮する弟に、姉は漸く鉾を収めた。

「ところで、魔物の子供をあの子が食べたがったという話ですが、本当なのですか」

 一難去ってまた一難。彼は思い出したくもない食材の話をさせられる羽目になったのであった。


(さっぱりしました)

 浴室から脱衣所へと戻ってきたトリシアンナは、全身から湯気を立てながら深呼吸した。

 髪と身体を隈なく石鹸で洗い流し、汚れた下着を洗っても尚、たらいの湯は半分以上残っていたため、折角だからと全身をたらいに横たえて湯に沈めてきたのだ。


 たらいの端から頭と髪をはみ出させ、大の字になって木槽の中に沈むのは少々下品だとは思ったが、動き回った肉体が疲労を訴えに訴えていたので、やむなく、といった具合である。

 湯に漬かってぼうっとしている間に、その場の思いつきで下着を乾かす事にした。

 風圧系第一階位『ブリーズ』を使用して下着を中空に飛び回らせていたのだが、全裸で大の字になった自分の上を、これまた下着がびゅんびゅん動き回る光景はなかなかにシュルレアリスムに溢れる光景であり、知らずのうちにふふふと笑ってしまっていた。

 何も知らない人間が見れば、頭がおかしくなったのではと思われる情景である。

 しかしながら、人生で二度目の魔術がイカについた寄生虫確認のため、三度目が自分の下着を乾かすために使うというのは、ひどく魔術というものを冒涜しているのでは、という気分にさせる。

 実際にはこういった雑用に広く使われているものであるので、本来は気にする必要もないのではあるが、記念すべき三回目が下着を眺めてヘラヘラしている状態というのは、流石にどうかと思わざるを得ない。

 無論の事、市場で見かけた大量の氷や、輸送に使われる冷凍処理などは全て熱操作系魔術師によるものであるし、港の船舶に使われている魔素動力回路は複数の魔術師が交代で動かしている。

 今浸かっている湯だって、元々の水は湾に注ぐ川から引いた水路の水を、魔術装置によって汲み上げ浄化して得たものだ。加熱には流石に燃料を使ったほうが安上がりだが、魔術であれば火を熾す手間もいらず、早い。なかなか冷めないこの湯もそうやって沸かされたものだろう。

 この世界では魔術とは身近なものであり、魔術無しでは最早立ち行かないと言っても過言ではない。生活も政治も戦争も、全て魔術ありきのものだ。

(あちらの世界の戦争と、どちらが悲惨な結果になるか、というのは考えるだけ無駄ですね)

 戦争は押し並べて悲惨なものだ。比較するまでもない。それに、どちらかといえばこちらの世界は魔物の脅威の方が遥かに大きい。その魔物を討伐するのも、やはり魔術が中心となっている。

 ともあれ、予め渡されていた大きな布で身体を拭いた後、すっかり乾いた下着を手にしたまま、脱衣所の自分の脱いだ服の所へと向かう。

(あぁ、やはりもうこの下着はダメですね)

 歩きながら広げると、すっかり縮んでしまっている。履こうと思えば履けるだろうが、この状態だと紐のように自分の尻と局部に食い込んでしまいそうだ。

 最悪の場合、履かずに……いやいや、人として流石にそれはまずい。しかしこれを履くのもまたそれはそれでまずいことになりそうだ、と悩みながら置かれた着替えを見て、安堵した。

 ジュリアーニ女史が用意してくれたらしい着替えの上には、真新しいシンプルな下着が乗っかっていた。何も言わずとも気を回してくれた彼女に心から感謝しつつ、下着に脚を通し、新しい服に袖を通す。

 今まで着ていた大雑把で粗末な麻のシャツとズボンと違い、着替えはそれなりに見栄えのするものだった。

 暖かみを感じさせる薄い橙色の上下で、上は港街らしく船乗りを意識した、大きな襟が背中の半分ほどまで垂れている。襟の合わさる胸元に小さなリボンのワンポイントが付いており、女児用であることを強調している。

 下は丈のやや短いスカートだった、履いてみると膝のやや上まで脚が見え、少し落ち着かないが通気性も良く、快適である。一番下にはご丁寧に真っ白な靴下まで用意されていた。

 用途の無くなった古い下着の処理に困ったが、外に出た後、どこかのくず入れにでも捨てれば良いだろう。縮んでいるせいで、小さく丸めて握りしめれば誰にも気づかれまい。

 全身を入れ替えられた爽快感に少し酔いつつ、脱衣所の扉を開けた。

「お湯と着替え、ありがとうございました」

 笑顔で外に立っていた女性に声を掛けると、こちらの姿を見て微笑み返してきた。

「良くお似合いですよ……あら、少し御髪を整えてから戻りましょうか」

 言われて気がついたが、肩の後ろまで伸びた髪は、半端に乾いて少しざんばらになっている。鏡を見る余裕が無かったので全く気が付かなかった。

 言われるままに脱衣所へと戻り、隅にあった鏡台の前に座る。後ろに立ったジュリアーニ女史が、香油を両手に塗り込めてから、手ぐしでトリシアンナの髪を漉き始めた。

「綺麗な御髪ですね。それにとても素直です」

 褒められて少し照れ笑いを見せる。ふと、思い至って聞いてみる事にした。

「ジュリアーニさんは、姉の髪もこうやって見ていらっしゃるのですか?」

「マウラで結構ですよ。そうですね、お産の前辺りから、お一人では辛そうでしたので……普段はご自身でお手入れされておいでしたよ」

「姉の髪は少し癖があるので、大変ではないですか?」

 問うと、マウラはふふっと声に出して笑った。

「確かに、そうですね。ご存知ですか?奥様が唯一しかめっ面を見せるのは、鏡台の前に座っている時だけなのですよ」

 言われて、トリシアンナは実家でも姉が自分の髪を梳いている姿を見たことがないのに気がついた。

 櫛が引っかかる度に髪を引っ張られ、眉間に皺を寄せる姉の姿を想像して、彼女も少し声に出して笑ってしまった。

「面白い話を聞きました。姉は実家にいる時も完璧でしたので」

「私が教えたことは内緒にしておいて下さいね?はい、終わりましたよ」

 鏡の中の自分を見ると、驚くほどに造形の整った美少女が微笑み返していた。最初の頃は戸惑ったものだが、もう違和感は無い。

「何から何までありがとうございます」

 ぴょこんと鏡台の椅子から飛び降りて、お辞儀をするのも慣れたものだ。

「とんでもございません。奥様の妹君ですから、旦那様のご家族のようなものですよ。脱衣所の外に新しい靴も用意してありますので、そちらをお履きになって下さいね」

 全く以て至れり尽くせりとはこのような事を言うのであろう。兄の行動は全く褒められたものではないが、ここに来て良かった、とトリシアンナは思った。

 何度述べたか分からない感謝を口にして、真新しい格好の少女はご機嫌で階段を上って行った。


 姉の寝室に戻ると、感じていた気配そのままの光景が広がっていた。

 兄はどこかしょんぼりと項垂れて、大きな身体を可能な限り小さく縮こませているように見える。

 姉は変わらず、穏やかな笑みを浮かべたままだが、先程下で視た感情の動きは比較的に苛烈であった。相当この弟をやり込めたのだろう。

「おかえりなさい、トリシア。さっぱりしたかしら?」

 姉の含むような言葉に、ちらりと部屋の隅の兄を見遣る。

「はい、大分すっきりしました。ありがとうございます、ユニお姉様」

 こちらも別の意味を含ませて笑顔で応じると、姉も我慢出来なかったのか上品に笑った。

「その服、よく似合っているわ。やっぱり女の子なのだから、普段から身綺麗にしないと。ほら、こっちに来て」

 姉がベッドの上で身体の位置を変えると、先程のやり取りにもかかわらず、すやすやと眠っている双子の姿が見えた。

「手前が男の子でラファエロ、奥が女の子でクラウディアよ。仲良くしてあげてね」

 小さな甥と姪を見ると、ふんわりとした気持ちが湧き上がってくる。暖かそうな布に包まれた双子は、混じりけの無い白い色を発している。あまりにも小さく弱い、愛しい赤子。

 自分が同じような頃にずっと感じていた愛情の色を、この子達も身体いっぱいに受けているに違いない。そしてその中に、今は自分も含まれているのだろう。

 自分と同じ様に感情の色を視ることは出来なくても、この暖かな気持ちは感じているのだろうか。感じていて欲しいとトリシアンナは心から思った。自分がそれを受けて育ったのだから。

「かわいいです」

 思わず声に出したトリシアンナの隣に、少し立ち直った兄が立つ。

「トリシアが赤ん坊の頃を思い出すな。俺は騎士団に出向する直前だったが」

「産まれてすぐ王都に行きましたからね。さぞ妹が恋しかったのではありませんか」

 姉の言葉に、兄は照れて少し笑った。と、何かに気づいたようにトリシアンナの手を見て言った。

「ん?何持ってんだトリシア。ゴミか?捨ててやるぞ」

「あっ、それは」

 避ける間もなく取り上げられる。

「なんだこれ?」

 小さく丸められた布を目の前でぺろんと広げて、その形状にラディアスは凍りついた。

「……ラディ、そういうところですよ」

 姉が黙って手を出すと、兄は震える手でそれを差し出した。


 多少のトラブルはあったものの、二人は見飽きる事なく甥と姪を眺めていた。

 暫くして、窓から差し込む日が少し傾いたのを見て取って、兄が口を開いた。

「そろそろお暇するか。姉さんもお産の後で身体が辛いだろうに、急に押しかけて悪かったな」

「大丈夫ですよ。トリシアも、また来たい時にいつでも来ていいですからね」

 姉はそう言うと、枕元にあった小さなベルを鳴らした。

「こちらの正面玄関へ案内してあげてくれる?流石に商会の正面からでは帰りづらいでしょうし」

 扉を開けて現れたアウラに、二人が帰る旨を伝える。彼女はかしこまりました、と答えて、先導するように部屋を出た。部屋を出る直前、姉が思い出したように呼び止めた。

「そうだ、トリシア。……クラーケンの子供は、美味しかった?」

 満面の笑みを浮かべて応える。

「とても美味しかったです」

「そう、良かったわね」

 姉も微笑んで、そのままベッドに身体を預けた。

 おくびにも出さなかったが、姉が少し動揺しているのをトリシアンナは理解していた。


 案内された東側の出入り口から出ると、東西の表通りから北に伸びている、比較的広い路地に出た。

 こちらから見ると、姉の家は立派ではあるがごく普通の民家に見える。

 商会の一部というよりも、商会の敷地の隅っこに家が立っている、という風情だ。

 この辺りの風景に溶け込んでいるあたり、新しい嫁が地域に馴染めるよう、商会の主がかなり気を使って建てたのだろうと感じられる。

 歳の離れた姉が大商会の中であっても大切にされているようで、トリシアンナは少し嬉しく思った。

 表通りに戻ると、来る時は中天であった太陽が少し傾いており、夕刻までには間があるが、既に午後は大半を過ぎた事が分かった。

「結構長居したな。トリシアも姉さんやディアナとおんなじで、風呂、長いよなぁ」

 中々染み付いた性根というのは治らないものなのかもしれない。トリシアンナは呆れた顔を作って兄を見上げた。

「お姉様に散々絞られたでしょう。まだ懲りていないようですね。……女性は髪が長いので時間がかかるのです。」

「ディアナもか?あいつの髪はそんなに長くないぞ」

「お兄様であれば石鹸で適当に洗ってそのままでしょうけど、そんな事をしたら私達の髪はごわごわになってしまうのです。ディアナお姉様だって、短いといってもお兄様達みたいにツンツンなわけじゃないでしょう」

「なるほどなあ、俺はてっきり風呂で何か他の事でもしてるのかと思ってたよ」

 他の事とは一体何の事か。それは6歳の子供に聞かせるべき事なのだろうか。

「お兄様」

 表情の消えた面相で冷たく言い放つ。

「どのようなご想像をされようとそれはお兄様の自由ですが、もう一度お姉様とじっくりお話して戴く必要がありそうですね」

 その言葉に兄はびくりと背を竦ませる、見えるのは恐怖の色。

「……時々姉さんやお前が別の生き物のように感じる事があるよ」

「理解が及ばない、という事でしたら、お互い様だと思いますよ」

 別の生き物と言うのは大袈裟だが、人は誰しも他人の事を理解など出来ないものだ。

 なんとなく言葉を交わして、なんとなく分かった気になっているだけ。

 トリシアンナとて、他者の感情が見える分、他人よりいくらかは分かった気になれる、というだけだ。

 本質的な理解は、当人でなければ、いや、当人ですら自らの心の動きをどれだけ把握しているだろうか。

 自らの事すら曖昧模糊としたものをして、理解出来ているなどというのは傲慢だろう。

「そういう難しい意味じゃなくてだなぁ」

 言いたいことは分かるのだ。以前の世界の事を考えるにつれ、時々自分もこの世界から隔離されているような感覚を持つことはある。

「例えば、そうですね、私が魔物の子供を喜んで食べた事、お姉様に話しましたよね」

 ぴくりと反応する兄に笑って、違います、と手を振った。

「私が美味しかったですと答えたら、お姉様は笑っていましたけど、結構驚いていたはずですよ。私とお姉様の間でもそうなんです。きょうだいだってこれだけ違うんですから、分からなくて当然なんです。大切なのは」

 ――恐れない事です。

 いつの間にか先を歩いていたトリシアンナは振り返って言った。

「恐れない事?」

「はい。分からない事は恐ろしい事です。だって、他人が何を考えているか、世界がどうなっているのか分からないのは、何かが起こった時にそれに対処できないという事ですから。怖くて当然なんです。だからといって」

 午後の大通りは朝ほどには人通りが多くない。それでも道の中央は引っ切り無しに荷馬車が行き交い、往来に人がすれ違う。

 あるものは笑い、あるものは落ち込み、それぞれの生活の中、切り取った一部分がここに垣間見える。

「恐れて、そのまま、わからないままにはしないでしょう?行く先々で、お兄様は色んな人たちから声をかけられました。それは、人を理解しようとして、恐れずに会話を重ねた結果ではないですか?私とお兄様の間も、お兄様とユニお姉様との間も同じなんですよ。だから、私はそんな勇気のあるお兄様の事が、好きです。勿論、もう少し気を使って欲しいなと思う所はありますけれど」

 兄はその言葉にふっと頬を緩ませる。

「本当に、お前はとてもその歳とは思えないような事を言うな。分かってるよ、俺もお前の事は大好きで、大切な妹だ」

 唐突にその妹を持ち上げると首の後ろに回し、太ももを抱え込んで自分の肩に載せた。

「ちょ、ちょっとお兄様?」

「そういやお前さ、冒険者になれる素質あるぞ。クラーケンの子供をシメただろ?ああやって躊躇いなく生き物を食材にできる奴ってのはそうそういないんだ」

「話を逸らさないでください。なんで肩車!?」

「ディアナもなー、今でこそ平気で魔物を丸焼きにしたりしてるけど、最初の頃は泣いて大変だったんだぜ。本能的に命を奪う事が……これも怖いって事なんだろうなぁ」

 抵抗するのは諦めて、兄の話を聞くことにした。

「そうですね、私も怖いといえば怖いです。でも、躊躇ったらそれだけ相手を苦しめる事にもなりますから」

「それがわかってて、ちゃんと出来るのが偉いんだよ。魔物を相手にするってことは、躊躇すりゃあこっちがやられるって事だからな」

 冒険者。

 この街にも冒険者協会の支部がある。余程の罪人でもなければ、協力金を協会に収めて登録するだけで、地域の持ち込み依頼などを解決する事で金銭を得られるようになる。

 謂わば日雇い労働の斡旋所とでも言うようなところだ。

「貴族にも冒険者っているんですか?大体は騎士や魔術師になると思うのですが」

 この兄の腕前ならば、魔物を狩って生きることも可能だろう。しかし、今の仕事を含め、俸給の高い騎士になる道もあるのに、わざわざ危険を冒して日雇い労働をする必要もないだろう。

「いる。というか、そう大きくもない家で家督を継げず、大した力も持っていない奴は結構その道を選ぶみたいだな。曲がりなりにも貴族として生きてきた以上、商人や農民になるのは恥ずかしいって事なんだろうが」

「それで、上手くやっていけるんですか?」

 その言葉にわはは、といつもの様に笑う兄。

「まぁ、やっていけるわけねえよなぁ。腕も未熟、精神も未熟で上手くいくほど、冒険者って奴も甘くねえからな。大抵は自分の実力を見誤って、分不相応な魔物狩りに挑戦して、さようなら、だ」

 ある種の口減らしではないか。

「そうじゃない奴だって勿論いるさ。あの剣……いや、俺らの先祖であるベルトロメイ卿も、元はと言えば冒険者だ。実績を上げて国家に関わる大事を何度も解決して、その功績で騎士の称号を得て、貴族として今の領地を与えられたんだしな。……最初はこの街、さびれたただの漁村だったらしいぜ」

「雷光騎士、と呼ばれているのに冒険者だったのですね。……つまりこの地は、冒険者上がりの成り上がり貴族にはお似合いの辺境、というわけですか」

「そういう事だ。で、ひいじいさんはここで嫁を貰って、必死に頑張ってこの地を整備した。暫くして大侵攻があって、ひいじいさんは死んじまったけど、その息子……爺さんだな、俺も朧げにしか覚えていないが、その人が2回目の拡張をするまでに街を広げた」

「今の壁がお父様の代で三回目ですから、代々この街を大きくしていっているわけですね。改めて尊敬します」

 並大抵の努力ではないだろう。今の街並みを見て、一体誰がここは最初、寂れた漁村だったと想像できるだろうか。

「まぁそんなわけで、冒険者っつっても捨てたもんじゃないのさ。信賞必罰がしっかりしてるって言えばいいのかな」

 ふと、疑問に思って尋ねてみた。

「お兄様は、冒険者になろうと思わなかったのですか?」

 その言葉に、兄は即答した。

「最初はな。でも、街を見ているうちに、個人で出来ることなんてたかが知れてるって思うようになった。だから、父上が都市警備隊を作るって聞いた時に、ここで頑張ろうって真っ先に思った」

 大きな街では沢山の人々が、それぞれの生活を営み、それぞれがお互いの生活に薄く広く関わっている。確かに個人として、冒険者として関われるのは依頼を通してだけだ。

 その点、領主直轄の都市警備隊であれば、積極的に街の問題に関われるし、力になれるだろう。

 自由という点では比べ物にならないが、それでも、街に関してだけ言えば警備隊の方が影響は大きい。

 兄は兄で、深く考えた末での結論だったのだと改めて感心した。

 ちくちくする頭を少しぎゅっと抱きしめてみた。

 やっぱり少し汗臭いのですぐに力を緩めた。


 肩車をされながら街を歩き、暫くすると朝通った目抜き通りに差し掛かった。

 しかし兄は北に折れる事はせず、そのまま西に向かって歩いていく。

「どこへ向かっているのですか?」

 最初は戸惑っていたが、視点が高いと街の様子がよく見える。

 汗の臭いと、ともすればスカートの隙間から下着が見えそうになる以外は意外と快適だ。

「街で一番でかい武具店さ。警備隊の装備もそこから卸してるから、まぁ、例によってお得意様だな」

「何か買いに?」

 非番で街中にいる今でこそ兄は丸腰だが、家を出る時には立派な大剣を履いていた。警備隊の詰め所に一旦預けてあるようだが、あの剣はまだ十分に使えそうに思える。

「鍛錬っつっても走るのは基本の基本だからな。あの剣……いや、剣術を学ぶなら、お前も扱える長さの剣がいるだろ」

 確かにその通りだ。未だあの剣を扱うには身体の大きさが足りていないが、さりとて扱えるようになってから練習をする、というわけにもいかない。

「短剣じゃあ短すぎるし、ショートソード辺りをちょっと見てみよう。気に入らなけりゃ他の店を当たってもいい」

 そうこう言っているうちに、スパダ商会ほど大きくはないが、2階建ての頑丈そうな建物に到着した。

 入り口には厳しい面構えの警備員が2名。武器を扱う場所である以上、警備も厳重なのだろう。その警備員に、兄は軽い調子で声をかけた。

「よう、おつかれさん。ちょっと中、見せてもらうぜ」

「これは、第一警備隊長。お疲れ様です。非番ですか?」

 トリシアンナは不思議に思った。こちらに立っている警備員は、都市警備隊ではなく、武具店の私設警備員であろう。制服も都市警備隊のそれとは異なる。不思議そうに見ていると、髭面でいかつい顔のもう片方の警備員が、相好を崩して彼女に声をかけた。

「お嬢ちゃん、お父さんの買い物の付き添いかい?えらいねえ」

 まさかの不意打ちであった。上から覗き込むと兄は、またかよ、という顔をしている。

「すみません、私、妹なんです。兄が私に剣をプレゼントしてくれると言うものですから」

 その言葉に、髭面は少ししまったな、という顔になった。隣の細面の警備員がおいおい、と声をかけた。

「第一警備隊長はそんな年齢じゃないだろ?すいませんねラディアスさん、こいつうちに入ったばっかりで」

 年齢は髭面の方が高そうに見えるのだが、職場としては細面の方が先輩らしい。

「いいよ。もうそこら中で言われるもんだから慣れた。はぁ、俺ってそんなに老けてるかなぁ」

 しきりに恐縮する髭面と、おかしくてしょうがないといった風情の細面に通されて店内へと入る。ごゆっくり、と声をかけられて、トリシアンナは兄の頭の上から頭を下げた。

「お兄様、多分肩車してたからですよ。そりゃ親子にも見えますって」

 そうだった、と、まるで忘れていたかのように妹を下ろす兄。そこへ、店員と思しき前掛けをした男が近寄ってきた。

「これは、ラディアス様。本日はどういったご要件でしょう。修理でしょうか?更新でしょうか?」

「ああ、悪い。今日は警備隊の用事じゃないんだ。妹に一本見繕ってやろうと思ってな」

 隣にいるトリシアンナをちらりと視線で指して言った。その妹も軽く頭を下げる。

「左様でございましたか。どういった物をお探しでしょう?護身用の短剣でしょうか?魔杖も良いものが揃っておりますよ」

 魔杖とは、概ね先端に魔導性の高い宝珠なり鉱石なりを埋め込んだ、魔術発動補助用の武器である。

 魔素の導通性を高め、より魔術の発動を楽にしてくれるもので、その形状は殆どが杖の形をしているため、魔杖と呼ばれている。

 実際には魔導性さえ高ければ形状は何でも良いのだが、発動点となる先端に宝珠を埋め込むと、どうしても杖のような形になってしまう。

 当然の事ながら先端は脆く、打撃武器としては殆ど役に立たない。精々柄の部分で土を掘る事が出来る程度だ。

 ただ、希少ながら特殊な鉱石や金属を加工して、武器全体の魔導性を高くしたものもある。その場合、形状は剣であったり槍であったり、あるいは盾として扱えるものもある。

 当然ながらその場合は魔術の発現補佐だけでなく、武器や防具として扱うこともできるが、材質自体が希少であるため、非常に高価なものとなってしまう。

 実は姉のディアンナが一振り持っているのだが、それ一本でこの街の家が一つ買えてしまうぐらいの値段だったらしい。

「魔杖もいいが、剣を見せてくれ。短剣ではなくてショートソードだ」

「かしこまりました。こちらへどうぞ」

 広い通路の両脇に棚が並び、量産品の武器が種別毎にずらりと並ぶ。

 なるほど、一国の武器庫並の量であるがゆえに、警備も厳重とならざるを得ないのだろう。

 店内のそこかしこで警備員が目を光らせており、安全な街の中とは言え、一種の物々しさを醸し出している。

「ショートソードですとこちらのエリアでございます。お決まりになりましたらお呼び下さいませ」

 言って一礼すると、店員は新しく来店したらしい他の客の元へと向かっていった。

「ショートソードはあまり見たこと無かったが、結構種類があるもんだなぁ」

「儀礼用も多いみたいですね」

 鞘や柄の部分に華美な装飾を施したものが多く見られる。恐らくは、貴族や大商人の子弟に贈られるものだろう。実用性というよりは宝飾品といった類の扱いのようだ。

 これはこれで美しいが、求めるものとはちょっと違うので視線を移す。

 次に目についたのは、お得用!と書かれた木のケースに、傘のように乱雑に詰め込まれたものだ。

「うーん、流石にこれはちょっとな」

 鞘も無しの抜き身の物も多い。一本持ち上げて見ると、微妙な打ちムラも多く、素人目に見ても値段相応、という感じである。一本3シルバ均一。

「粗悪品の在庫処分でしょうね。使い捨てならまぁ、許容範囲でしょうか」

「残念だがこれもパス、だな」

 続いて一般的な量産型の並ぶ棚に移動する。

 大量の鋳型を用いて一度に生産できる代物で、先程のものよりは材質も品質も均一で、安定感があり信頼性もそこそこ高い。値段も一本15シルバから20シルバと、刃渡りの長さによって値段の差はあれど、手頃な価格である。

「私はこれで構いませんが」

 中間の長さよりやや短いものを持ち上げて言う。

「まぁ、待て。折角だし銘入りのも見てみようじゃないか」

 宝飾剣の並ぶ奥に、武器工の銘が入った一本物の並ぶエリアがある。まあ見るだけなら、とトリシアンナは兄と共にその場所に近づいて、奇妙な違和感を覚えた。

(あれ、光ってる?)

 よく見ると、台の上に置かれた剣の中に、薄ぼんやりと色を放つものが一つ。おかしいな、と思って気配を探ると、驚いたことに他の武器種の中にも同じようなものが、僅かではあるが存在する事に気づいた。

「お兄様、あの剣ですが」

 光っている、と、言おうとして口を噤んだ。この光は、恐らく他の人には見えていない。

 感情の色と同じく、自分だけに見えている現象だろう。

「お?何か気になるのがあったのか」

 近寄って見ると、確かにうっすらと光っている。横に並んでいる他の剣とは明らかに違う。

「この剣は……ええと、ハイデルベルグ?随分と北の街ですね。そこの職人の手によるものと。値段は……えぇー」

 剣台の下に置かれた値札を見ると3.6ガルダと書いてある。この街の一般的な船乗りの月の収入が200シルバ、つまり2ガルダ程度なので、その倍近い価格である。

 自分で稼いだ金ならば兎も角、兄に買ってもらうのに流石にこれはちょっと、と、台に戻した。

「なんだ、やめるのか?気に入ったんじゃないのか」

「いえ、確かに気にはなるのですが、値段が……」

 どれどれ、と値札を見た兄だがなんだ、という顔をした。

「すまない!この剣を見させて欲しいのだが!」

 と、声を上げて店員を呼ぶ。

「えぇ?ちょっと、お兄様、3.6ガルダですよ?」

 小声で囁いたが、ラディアスは特に気にした風もない。

「まぁ、ショートソードにしちゃ高いといやあ高いが、これぐらいなら問題ないぞ。両手剣や魔杖なんざこれの倍ぐらいのがごろごろあるからな」

 そういえば兄の俸給を確認したことがなかった。よくよく考えればこの兄は騎士団にも在籍していたわけで、金銭感覚が一般のそれとは少し違うのかもしれない。

「お待たせしました、こちらへどうぞ」

 先程の店員が最寄りの会計カウンターへと誘った。そう言えば入り口に『店内での抜剣はご遠慮下さい。品定めされる方は最寄りの店員へご相談下さい』と、でかでかと書かれた看板があった。

 抜き身の特売品はいいのかなあと下らない心配をしながら、トリシアンナは自分の首ほどの高さの台に置かれた剣を見た。

「こちらは北方からの流れ品でして、ハイデルベルグの工匠の作となります。仕上げと焼入れに北方特有の魔物の牙を使用したと言われておりまして、剣身が特に白色の強いものとなっております。ご確認下さい」

 流れ品、つまり借金のカタに取られてそのまま返済出来ずに商人の手に渡った品、というわけだ。この武具店は随分手広く商売の地域を広げているようだ。

 北の魔物の素材を使った、ということで、少しでも珍しがられる南の地域で売ろう、という事だろう。

「トリシア、抜いてみろ」

 兄に促されて台に手を伸ばしてその手に取ると、相応にずしりと重い、金属の感触が伝わってくる。

 流石に持っただけでふらつくような事は無いが、これを振り回すにはもう少し筋力をつけなければならないだろう。

 トリシアンナは右手で柄を、左手に鞘を持ち、一息に抜き放った。

 鞘の形状から分かっていたことだが、その剣は片刃の直刀だった。

 刃渡りは50センチメートル程であろうか。一般的な剣よりも一割から二割は細く、反りは全くと言って良い程に無い。刃は峰に沿って薄く彫られた溝に向かって、刃先で鋭く湾曲している。形状を見る限り、断ち切るというより突き刺すのに向いた剣、という印象である。例えは良くないが、以前の世界の無頼者がよく使う長ドスを伸ばしたような形状をしている。

 剣身は驚くほどに白く、金属特有の光沢が殆ど感じられない。何よりも剣自体の白さより、放たれる白色光の方にトリシアンナは魅入られた。

 ただの白ではない。無垢な透明感のある白色ではなく、なんというか濁って濃い白なのだ。

(こんな色の光は初めて見ました。およそ生き物の発する色ではないですが……)

 そもそも物質から発色するという現象を、彼女はここで初めて見た。いや、実際にはカサンドラという前例があるにはあったのだが、あれは単に魔術装置によるものだと思い込んでいたのだ。

「気に入ったみたいだな、それにするか。済まないが、これと、二本吊るせる剣帯も見繕ってくれないか」

「二本差しですか?畏まりました。少々お待ち下さい」

 店員はカウンターの裏にある扉に入り、一旦姿を消した。

 トリシアンナは剣を鞘に戻すと、再びカウンターの上に載せて聞いた。

「本当によろしいのですか?結構な額だと思うのですが……」

 その言葉に兄はにやりと笑うと、

「子供がそんな心配するもんじゃないぞ。少し遅めの誕生日プレゼントだと思っておけばいいさ」

「そうですか、ありがとうございます……因みにお兄様、下世話なお話なんですけれども、今のお仕事で月にいくらぐらい貰っているのですか?」

 苦もなくこれだけの金額を出せる兄の懐事情がどうしても気になった。

「そうだな、捕物の臨時報賞を合わせて、月に大体9ぐらいか?諸々の税金払って手元に残るのは7から8ってところだな」

 トリシアンナは軽く目眩がした。

「それは……領主直轄の都市警備兵というのは、随分と高給取りなのですね」

 市井の平均よりも遥かに高い。船乗りであれば中規模の船団長、大商会ならば中堅の役職者か支部長クラスだろう。

「あのなあ、俺はこれでも隊長だぞ。俺の上にいんのはおやっさん……総隊長だけだ。平はもっと少ねえよ、半分から三分の一だ」

 それにしたって割の良い職場であることに間違いないだろう。いや、治安維持の為に身体を張っているのだから当然といえば当然かもしれないが。

「それだけ収入があるのなら、いくらでも女性が寄って来るのではないですか?」

 顔よし身長よし家柄よし収入よしの完全無欠なモテ男ではないか。

「おお、自慢じゃないがモテるぞ!」

 その割に長続きしないのは、やはりこの性質のせいなのだろうか。トリシアンナは急に、この恵まれた環境にいる兄が不憫に思えてきた。

「……いつか良いお相手が見つかるといいですね」

「なんでかわいそうな人間を見る目で俺を見るんだよ」

 金だけ目当ての性悪女に引っかからないのは、一応は兄にも見る目があるという事だろう。そこだけが救いだと、なんだか九死に一生を得た時のような気分になった。

「大変お待たせしました。あのう、済みません。うちにある剣帯で一番小さいのがこれなんですが」

 下らない話を断ち切るように、店員が二本のベルトを持って出てきた。

 頑丈そうな張り合わせの皮革のものと、軽金属らしき鎖を編んで作られたものだ。

「うーん、そうかぁ。やっぱ子供用のは無いよなぁ」

「はい、お子様の場合は剣帯に吊って持ち歩くという発想が無いものでして……はっきり言えば需要が全くないのですよ」

「まぁ、大体は親が持って歩くか乗り物での移動になるだろうしなぁ」

 子供が儀礼用に剣を腰に吊るという事はまずないだろうし、そういった儀礼に出るような裕福な家庭であればベルトもオーダーメイドだろう。量販店には用が無い。

 かといって、吊るさないと持ち歩けないような重量の剣を、子供が持ち歩くというのはかなり非常識だ。あったとしてもまともに剣は振れないだろう。

「トリシア、試しにつけてみろ」

 兄は皮革製の方を店員から受け取って、ひょいと妹に渡した。

 ベルトの調整を最小まで短くして腰に回してみる。

「ぶかぶかです」

 くびれもでっぱりも殆ど無いような幼児体型では、尻にすらひっかからない。

「あっ、でもこうすれば」

 左肩からたすき掛けにしてみる。これならば、吊るした剣の重量は肩にかかるので一応は持ち歩くのに問題はなさそうに思える。

「うーん……まぁいいか、どうせすぐでかくなるだろ。それじゃ、これも一緒に頼む」

「よろしいのですか?かしこまりました。お支払いはどうなさいますか?」

 基本的にある程度の金額までの売買は、貨幣そのもの、所謂現金取引が主流である。

 しかし高額な買い物になればなるほど、金を持ち歩くリスクが大きくなる。

 そのため、一定以上の買い物をする場合は、銀行や商会での銀行止、商会止という信用払いにする事が一般的だ。

 当然の事ながら、これらは銀行や商会に預金という形で口座を作っておく必要がある。

 大きな商会や銀行であれば、一定規模の都市の支店、どこでもこの止払いが出来るので、裕福な人間が旅行や出張をする際には、支払いの殆どをこれで済ませる事もある。

 ただし、利用には手数料がかかるため、実際に引き落とされる額は額面よりも5厘ほど多くなる。

「現金で払う。手間もないしな」

 言って兄は尻から財布を引きずり出すと、金貨を四枚、カウンターに置いた。

「ありがとうございます。剣帯の分はサービスとさせて頂きますね。税込みで3.78ガルダとなりますので、22シルバお返し致します」

「そうか、悪いな」

 心得たという感じで店員も応じる。

「今後ともご贔屓に。宜しくお願い致します」

 高額な買い物、一般的に1ガルダを超える買い物の際には、王国からの税がかかる。

 5分という金額ではあるものの、モノの値段が値段だけに、庶民から見れば結構な額となる。

 そのままかけてしまえば消費を躊躇わせる事になってしまうので、大商会やこういった大きな店では、値引きと称して買い物客に便宜を図ったりする。

 無論、ただで値引いてばかりいては商売としての意味が無くなってしまうので、対象となるのは今後も継続して購入の望めるお得意様、というわけだ。

 経済というのはいつの世も、持てる者に有利に出来ている。

 それが良い事だとは断言出来ないにしても、その恩恵に与ることに拒否反応を示すほど、トリシアンナも潔癖症ではない。

「お心遣い、感謝しますわ」

 短いスカートの端を摘んで礼を行い、幼女としては些か不釣り合いであろう営業スマイルを見せると、何故か店員も兄も引き攣ったような微笑みを見せている。畏怖の感情というのは、この場に似つかわしくないとトリシアンナは思うのだが。


「おい、あんまり大人を困らせるな」

 剣を吊ったベルトを肩にかけ、背中の具合を確かめていた妹に兄は言う。

「自明の事でしょう。上に政策あらば下に対策あり、ですので」

「それはまあ、そうなんだが……お前、自分が領主の娘だって事を忘れてねえか?」

 言われて少し考える。領主の支配下で大きな店舗を展開する商人。そこで、領主の息子が買い物をして、王国の税を意識した値引きを行われ、応じる。

「あっ」

 それはとりもなおさず、領主自身が王国の税制に不満あり、という意志を示したと取られかねない行動である。暗黙のやり取りであれば兎も角、トリシアンナのように正式に礼を示してしまうのは流石に問題があろう。

 あまりにもそこに暮らす民の立場に寄り過ぎて、すっかり自分の立ち位置を忘れていた事に、トリシアンナは気付かされた。

「ご、ごめんなさい……なんというか、思わぬ高い買い物のせいで、つい」

 迂闊過ぎた。

 既存の制度に対して従属し、その恩恵を受ける立場としての行動としてはあまりにも軽率だったと言わざるを得ない。

「え、いや、そこまで大げさに反省しなくてもいいけど……まあ、気をつけてくれよ」

「心得ました」

 まさかこの兄に政治的な立ち位置を窘められるとは、思ってもいなかった。

 いい加減に見えても、やはり抑える所は抑えているのだなと、妹は兄の事を少し誇りに思うのだった。

「よし、それじゃあ、行くところには行ったし、そろそろ帰るか」

「はい、お兄様」

 道すがら警備隊の詰所に寄り、預けていた兄の剣を回収した後、来た道を引き返して、南北に貫く目抜き通りに出る。そこから北に向かえば、領主邸宅に続く道に。

「あの、お兄様。馬車は?」

 ただ歩いていこうとする兄に問う。

「馬車?なんでだ?」

 行きを鍛錬と称して走らせたこの兄である。無論、帰りもそのつもりだったのだろう。

 トリシアンナは、先程までの兄に対する評価を改めて見直すことにした。

 この重さの剣を背負ったまま走って帰れと?


 結論から言えば、トリシアンナは領主の邸宅まで自力で到達する事は出来なかった。

 下り坂で手ぶらの状態でも、街までの距離を走るだけであの有様だったのである。

 今度は逆に登り坂、加えて背中に金属の塊を括り付けている状態では、その結果は自明の理というものであろう。


「よーし、じゃあ帰りはちゃんとついていてやるからな、お前はお前のペースで走れ」

 兄は首や肩をごりごりと鳴らしてその場で足踏みをする。

「あの、お兄様。現実的に考えて私の体力で、この荷物を背負ったまま走るのは無理です。というか、無理です」

「大丈夫だ、今度は俺がついているからな!」

 意味がわからない。隣に兄がいるだけで身体能力が向上するというのなら、兄の周りは筋肉モリモリのマッチョだらけになってしまうではないか。

「その論拠がわかりません。……まぁ、走れというのなら走りますが……今度吐くと昼に食べたクラーケンが口から出てくるかもしれませんね」

 その言葉に一瞬怯んだ様子を見せた兄だったが、一応は冗談だと受け取ったようだ。そのまま本気にしてくれれば良いものを。

「消化された後なら俺が退治できるから問題ないぞ!よし!行こう!」

 何故かその場で太ももを大きく上げる動作を繰り返し始める。これも鍛錬の一種なのだろう。トリシアンナに否という選択肢は最初から用意されていないのだ。いつかの理不尽な現実を思い出して、若干陰鬱な気分となりながら足を前に踏み出した。

 走り出してすぐ、この兄の異常さを目の当たりにする事となり驚愕させられた。

 太ももを大きく上げたり、後ろ向きに走ったり、時々しゃがみこんだと思ったらすごい勢いで跳ね上がってその場で腕立て伏せを始めたり、とにかく兄は奇っ怪な動きを鍛錬として取り入れている。しかも、妹の走る速度に合わせながら。

 それよりももっと驚いたのは、このような奇行を行いながら魔術の展開を行っている事だ。

「ぜぇ、ぜぇ……お、にいさま、なんでそんな、……ぅごきながら、探査術を」

「おっ!気づいたのか!流石だなトリシア!周りは森だ!周囲に魔物や賊がいるかもしれないからな!常に警戒を怠ってはいけないぞ!」

 ひょっとしてこの兄は、往路でもこうやって警戒していたからこそ、妹を一人で走らせられたのか。

 集中を必要とする探査魔術、兄の場合は得意な地変系統の第三階位『ランドサーチ』を行っているようだが、これだけ激しい動作をしながら漏れなく探査を行うというのは、探査を専門とする魔術師にだって難しい芸当だろう。まぁ、兄の基準で言えばこれが”激しい動作”に該当するかどうかは怪しいところであるが。

 探査魔術にはいくつもの種類があり、概ね術式を展開した範囲においての変化を察知する、という、原理としては至極単純なものである。

 風圧系が得意な者であれば気流の変化を、水撃系が得意な者であれば、大気中に微量に存在する水分の変化を、兄のような地変系を得意とする者であれば、大地の微妙な振動を、それぞれ展開した範囲で反応を受動的かつ能動的に探るものである。

 基本的にそれらは瞬間的に行うものと、一定時間展開し、警戒に使うものとに分かれるのであるが、兄が行使しているのは後者のそれである。

 瞬間的に行うものは所謂アクティヴソナーのようにピンを打って反応を探るもので、一定時間展開するものはパッシヴソナーのように、常に聞き耳を立てているようなものだと思えば良い。

 どちらの方が魔術的負荷が大きいかといえば、それは勿論展開状態の持続する後者である。

 専門家ですら集中を要するこの構成を、奇妙な動きを行いながら事もなげに常時展開する兄は、控えめに言って化け物だと断言できる。

「俺は攻撃魔術は苦手だがな、王国には宮廷魔術師もいることだし、騎士団ではこういった補助魔術をきちんと使える事が大切なんだ」

 王国騎士団というのはこんな変態じみた事を当たり前の様に行う集団らしい。再びの大侵攻に備える存在というのは伊達ではない、ということだろう。

 肉体的にも魔術的にも自らとはかけ離れた存在に呆れながら、自らに降り掛かった理不尽を噛み締めつつ、朦朧とする意識の中、トリシアンナは体力の限界を迎えて激しく大地に接吻したのであった。

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