第4話
「弟の方がじゃんけん弱いんじゃない?」
「さあ、それはどうでしょうか。普段は仲よくやってますよ。持ち物も共同で使うことが多いし……あ、それでですね、健司の奴、体調が悪いとか云って、途中で計算をやめて、部屋に引っ込んだんですよ。さっき、僕が小部屋から出て来るのとほぼ同時に出て来て、教授や浮城山さんに云っておいてほしいと」
「え? ということは、今、彼はどこに?」
浮城山が狼狽え気味に聞いた。人数分の実験データが揃わないと困るのかもしれない。
「個室の方に。実験の小部屋じゃなく、寝泊まりする方の個室で寝てます」
「具合はどうなんだろう。何て云っていた?」
「気分が悪くなったみたいで。恐らく、寝不足のところへ、あの逆さ眼鏡のせいで拍車が掛かっちまったんじゃないでしょうか」
「回復しそうか?」
「多分、大丈夫じゃないですか。本人も、一眠りしたら治ると云ったし」
「やれやれ。それならいいんだが。今日の分は改めてやってもらうか」
浮城山がデータ集計のために出て行くと、残りの顔ぶれも三々五々、談話室を出て行った。学生の皆は実験疲れを取るために、与えられた個室でのんびりするつもりと云う。
「三鷹さんはどうしますか」
最後に残った三鷹に気を遣ってくれたのか、フランカが聞いてきた。
「行方教授もまだ戻られないようですし、心細くありませんか」
「自分は大丈夫です。心細いと云えば、フランカさんの方ではありません?」
「いえいえ。私は神経が凄く図太いのです。よく、大らかで大雑把と云われます。適応能力があるのでしょうか」
確かにブラジル人の血筋と聞くとそのイメージがあるが、目の前の女性にはそれ以上に繊細さを感じる。大らかな性格と外に向けての細やかさを持っているのだろう。
「フランカさん。自分は実験の他にも、知らないことなら何でも興味があります。あとでアメリカやブラジルについて教えてくれませんか」
「問題ありませんよ。今からでもかまいません」
白い歯をこぼし、さあ行きましょうという風に身体の向きを換えるフランカ。
三鷹は急いで首を水平方向に振った。
「今はいけません。フランカさん、どうかリラックスして休んでください」
「私は別に」
「生意気を云うようですが、あなただけの問題ではないのですから。実験にもしも支障を来しては、伯父に迷惑が掛かります」
「なるほど。了解しました」
一瞬驚き、次に感じ入ったように微笑むと、フランカは何度も首肯した。
「それでは、晩御飯が終わってからにしましょう。私、夜の料理当番の主任しますですけど、そのあとでしたら時間はたくさんあります」
「お願いします」
三鷹とフランカはしばらく並んで廊下を行き、フランカの個室の前まで来た。別れる際になって、フランカが手を叩いた。
「あ、そうそう。三鷹さんの部屋がどこになるか分かりませんが、とりあえず、行方教授の部屋はあちらです」
一番奥の部屋を指差しながら、そちらへと三鷹を引っ張って行く。ドアノブをがちゃがちゃやると、開いていることが分かった。
「まあ、伯父様ったら……」
不用心さに顔をしかめる三鷹。まあ、普段からこうなのではあるが。
「こちらで待っているといいと思います」
「どうもありがとうございます」
フランカに手を振って別れると、三鷹は多少躊躇ったものの、結局は部屋に入ることにした。居室ではなく、実験の間だけの仮の個室なのだからと自分を納得させて。
当然のように、部屋に大した家具はなく、文机と簡単な棚、そして壁収納型のコンパクトなベッドがある程度。携帯型パソコンが机上に置いてあるが、これは伯父の持ち込んだ物に違いない。
その机の下に押し込まれたような格好の鞄から、何冊か本が覗いていた。心理学や工学の専門書の他、パズルの本と歴史小説が一冊ずつといったところ。三鷹は上から順番に見始めた。単語の意味さえ知っていれば速読できるのだが、意外に役立たない。心理学は単語の意味が分からない。工学なら分かるが、知っていることを読んでもつまらない。パズルを速読しても面白くも何ともないし、小説に至っては先に結末を知ってしまう可能性がある。
結局、普通のスピードで読まざるを得ない。尤も、時間を潰すのには好都合だ。三鷹は適当につまみ読みしながら、気になった箇所をメモ書きしていった。
と、三十分も経たない内に、部屋のドアがいきなり、乱暴に開けられた。三鷹が面を上げると、若い男性が一人、戸口のところに腕を掛けて、呼吸を乱している。
その見覚えのある顔に、三鷹は思わず口走った。「寛司さん?」
だが、服が違う。しかも相手の着ているTシャツの胸には、KENJIという文字が横に走っていた。そっくりだが、彼は弟の方だろう。
「あなたが徳田健司さんですね。初めまして。お身体は大丈夫ですか」
「……あ、あの、教授は?」
苦しげな調子で質問され、三鷹は心配が募った。
「伯父は忘れていた品を買いに、車で出て行きました。それよりも、本当に大丈夫なのでしょうか?」
「あ、ああ。教授に会いに来たら、女の子がいて、ちょっとびっくりしちゃっただけだよ。それで君は、教授を伯父さんと呼ぶからには、噂の姪っ子……?」
「噂になっていたかどうかは存じませんが、行方教授の姪です」
「そうか……教授は不在か。いやあ、どうしようかな」
額に汗を浮かべ、きょろきょろと廊下の方を気にする様子。
「どんな御用でしたの」
「ん? 大したことじゃないんだけど、まあ、実験途中で放棄したのをお知らせして、謝っておこうと思ったんだ。早い方がいいだろうしね」
「それなら、自分からも口添えしますから、あとでも平気でしょう。今日はいつもより優しいんだそうですよ、伯父」
「そうなのかい」
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