第3話


 いわゆる逆さ眼鏡を初めて体験して、頭の中が少々混乱気味になった三鷹だが、面白くも感じていた。明日の午前中には、試しに計算問題に挑戦してみることに決めた。

「そろそろ時間なので、ひとまずここまで」

 浮城山は不健康そうな外見には合わない、弾んだ調子で云って、席を立った。

 それを待っていたかのように、談話室のドアが開く。女性が二人、相次いで入って来た。

「終わりました」

 先に入った金髪女性が流暢に云う。褐色の肌を持つ、健康的な美女と表せる。その緑がかった目が、三鷹を捉えた。

「彼女が教授の姪っ子さんですか」

 浮城山へ視線を戻し、尋ねる。三鷹はすっくと席を立ち、名乗って頭を下げた。

「ご丁寧にどうもありがとう。私はケリー=フランカです。アメリカ合衆国から来ました。と云っても、血筋はブラジルにあります。専攻は数学なのですが、この実験も大変興味深く、面白そうなので参加しました」

「実際にやってみて、どうですか。自分も先ほど、少しだけやってみましたが、面白かったです」

「面白いけれど、疲れる」

 両腕をだらんとさせ、肩で息をつくオーバーゼスチャー。そのフランカの後ろにいた黒髪の女性が口を開く。

「六時間やれば、たいていのことは疲れるわ」

「楽しいことでも、そうかもしれません」

 三鷹は彼女にも自己紹介をした。

「私は宇津井真音まいん。下の名前は、真実の音と書く。三鷹さんは中学生だっけ。出来すぎなほどお嬢さんな格好してるけれど、それは普段から?」

 関心があるのかないのか、長い髪を鷹揚にかき上げながら奥のテーブルまで足を運び、椅子に着いた宇津井。

 三鷹は素直に答えた。

「趣味ですね。色々な服を着るのが好きなんです」

「へえ。お金が掛かるね」

 卓上の灰皿を手元に引き寄せると、細長い煙草をくわえ、吸い始めた。ふと壁際を見れば、空気清浄機らしき立方体(直方体か?)が低く小さな音を立てて作動している。

「あ、煙草だめ?」

 視線に気付いたか、口から煙草を離し、三鷹を振り返る宇津井。

「マナーを知る人ならかまいません」

「私はOK――と解釈してよいのかな」

 いかにも愉快そうに頬を緩め、宇津井が聞く。三鷹は縦巻き髪を揺らして頷いた。

「自分もマナー知らずのところがあると思いますので、ご鞭撻のほどをお願いします」

「いいよ。ほんと、育ちがいいって雰囲気が漂ってるわ。あ、伊倉君。何か食べる物か飲む物ない? はっきり云って小腹が空いた」

 中学生に遠慮した訳でもないだろうが、煙草の火を半ばほどで消した宇津井は、冷蔵庫に目をやる。

「教授が買ってきてくれた物がいっぱいあるよ。ああ、俺、アイスをもらった」

「こんなに涼しいのに」

 呆れたと顰めっ面になる宇津井は、次に、思い出した風に聞いた。

「行方教授は?」

「塩胡椒を買い直しに、再び出て行かれたよ」

 浮城山の返事に、へえーと意外そうな反応を見せた宇津井。矢張り珍しいのだと三鷹は確信した。

「宇津井さんもクラッカーでよいですか」

 クラッカーの箱とジュースのペットボトルを持って、フランカが聞く。元々彼女は丁寧な言葉遣いをするようなので断定はできないが、宇津井の方がフランカよりも学年が上らしい。

「もらうわ。サンキュー。伊倉君も見習ったら」

「生憎だが、俺は同輩以下に奉仕する趣味は持ち合わせてないので」

 三鷹の前にフランカがやって来た。「あなたはどうですか?」

「自分は……飲み物だけいただきます」

 フランカが怪訝そうに眉を寄せる。

「何か」

「さっきから気になっていたのです。『自分』というのは、『私』のことですか。それとも『あなた』の意味ですか」

「ああ」

 ひょっとすると、外国の人には特に紛らわしいのかもしれない。合点して、笑みを交えて説明に掛かる。

「自分の場合、『自分』は『私』です。『自分』が『あなた』を意味するのは、西日本で多いのではないかしら」

「私の大阪人の友達は、どちらの意味でも使います。おかげで、ややこしくてたまりません」

 辟易したような苦笑いを浮かべるフランカは、はっとしてコップを差し出してきた。

「どうぞ御一献……ではありませんね。お酒ではないのだから」

「あははは。いただきます」

 日本人以上に言葉に敏感なのかなと、感心させられる三鷹。

 しばらく歓談していると、再びドアが鳴った。

「失礼しまーす。終わりました」

 二枚目だが擦れてなさそうな若い男性が現れ、俊敏な動作でドアを閉める。

「お、寛司君も終わったか。ジュースとクラッカー、もしくはアイスが待ってるぞ」

 宇津井の言葉に頷きを返すと、彼は手にした用紙を浮城山へ渡す。そのときやっと三鷹の存在に気付いたらしい。座る前に足を止め、「ああ、教授の姪ですか」と尋ねる。

 三鷹が名乗ると、相手も丁重にお辞儀を返してきた。

「徳田寛司です。二年生なので、こき使われています」

「そういう君は、健司君を顎でこき使っているそうじゃない。たった数分、早く生まれてきただけなのに」

 口を挟んだのは再び宇津井。ジュースを呷って、満ち足りたように笑みを浮かべている。

「あれは時折、遊んでるだけですって。その日の朝、じゃんけんして負けた方は勝った方の云うことを何でも聞くっていう。まあ、何でもっていうのは大げさですけど。常識の範囲内で」

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