第26話 初めて

 軽くノックをする。それだけで、すぐにリベルタは部屋の扉を開けた。


「シャルル様!」

「入るぞ」


 返事を聞くよりも先に部屋の中へ入る。相変わらず物が少ない部屋だ。


「頬の傷、本当に大丈夫なんですか?」

「ああ。もう血も出ていないだろう」

「でも、少しだけ痕が残ってる」


 いきなりリベルタの手が頬にのびてきて、一瞬身体がかたまった。けれど優しい手つきに、緊張が解けていく。


「せっかく、綺麗な顔なのに」


 褒められるのには慣れている。それなのに、妙に胸が騒ぐのはどうしてだろう。

 きっと、鳶色の瞳のせいだ。


「シャルル様、ごめんなさい」


 シャルルの頬から手を離し、リベルタは深々と頭を下げた。


「傷つけるな、殺すなと言われていたのに。俺、ちゃんと頑張ろうって思ってたんです。でも、シャルル様の血を見て、冷静でいられなくなって」

「……リベルタ」

「初めてなんです、こんなの」


 リベルタがそっと息を吐く。


「貴方が傷ついたのが怖かった。貴方を傷つけたあの男が許せなかった。……憎くて、怒りで頭がいっぱいになって……ただ、それだけでした」


 以前リベルタは、人を殺す時に、生きている実感があると言っていた。

 赤い血が、とても綺麗に見えるのだと。


「あいつを殺して、自分が生きていることを実感したか?」

「……分かりません。そんな余裕、なくて」


 ごめんなさい、とまたリベルタは頭を下げた。


「血は……貴方の血は、とても綺麗でした。でも俺は初めて、血を見て怖いと思ったんです」


 注意しなければ、きちんと教育しなければ……そう思いながら、シャルルはこの部屋にやってきた。

 けれどこんなことを言われたら、どうすればいいか分からなくなってしまう。


「貴方を失うことが、俺は今、なによりも怖いんです」


 まるで神に祈るような眼差しで、リベルタに見つめられる。

 王子という立場上、いろんな目で見られてきた。けれどこれほど純粋で、恐ろしい眼差しは初めてだ。


 リベルタとずっと一緒にいれば、俺は、自分のことを神だと勘違いしてしまうかもしれない。


「なにかをなくすのが怖いなんて思うのも、俺は初めてなんです。俺はシャルル様に出会うまで、なにも持っていなかったから」


 シャルルを見つめ、リベルタはにっこりと笑う。


「あの日、俺を見つけてくれて、ありがとうございます。シャルル様の役に立てるよう、なんでもします」


 危ない。そう分かっているのに、シャルルはリベルタから目を逸らせなかった。


「……リベルタ。腹は空いてないか? 一緒に、夜食でもどうだ?」

「いいんですか? ぜひ!」


 本当は、こんなことを言うためにここへきたわけじゃない。

 厳しく注意するつもりだった。


 俺は、こいつの目を曇らせたくないと思ってしまった。こいつから向けられる眼差しを、心地いいと思ってしまった。


 リベルタに見えないように、そっと息を吐く。


 今日は久しぶりに、眠くなるまで酒を飲もう。たまには、そういう日があってもいいはずだ。





「シャルル様、朝ですよ。朝食の用意ができました」


 何度も耳元で名前を呼ばれる。しかし瞼が異様に重く、シャルルはなかなか目を開けることができなかった。

 しかも、頭が痛い。完全な二日酔いである。


「せっかくの朝ご飯、冷えちゃいますよ」


 リベルタに身体を揺さぶられ、シャルルはようやく目を開けた。目が合うと、リベルタはいつも通りにこっと笑う。


 こいつ、俺の倍は飲んでたよな?


 好きなだけ飲め、と言うと、リベルタは水を飲むような勢いで酒を飲んだ。おそらく、一人でワイン5本は飲んでいるはずだ。

 にも関わらず、リベルタはいつもと何も変わらなかった……というのが、シャルルの曖昧な記憶である。


「……朝食はここに持ってきてくれ。起き上がれそうにない」

「分かりました!」


 すぐにリベルタは朝食がのったトレイをベッドまで運んできてくれた。

 あまり食欲はないが、食べなければ回復しない。


 まずは、とミルクの入ったコップに手を伸ばしたところで、激しいノックの音が部屋中に響いた。


「リベルタ、すぐに扉を開けてやれ」

「はい!」


 リベルタが部屋の扉を開けると、ヒューが中に入ってきた。ベッドの上で食事をしているシャルルを見て、はあ、とこれみよがしに溜息を吐く。


「特務警察部隊の隊長ともあろう方が、これほど行儀の悪いことをなさるとは」

「行儀は悪くても、絵になるんだからいいだろう」

「それにこの部屋、酒臭すぎますよ。換気もしていないのでしょう」


 文句を言いながら、ヒューはベッドの近くにある窓を開けた。びゅうっ、と冷たい風が部屋に入ってくる。


「で、朝からいったい何の用なんだ?」

「事件ですよ。しかも久しぶりに、遠方からの依頼です」

「どんな事件なんだ?」

「最悪、最低の事件ですよ」


 ヒューの声には怒りがこもっている。シャルルは手に持っていたコップをトレイに置いた。


「ケルクス伯領で、少女ばかりを狙った連続殺人事件が起きているらしいんです」

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