第二十二話 決意



「意外な要求だな。記憶を返せ、ではなくて、研究資料をよこせ、と?」


「はい。ついでに魔草もください」


 ついでに、と翠雪ツェイシュエは図々しくも魔族の皇子にねだる。それに対して、緑葉リュイェは口の端を上げてふっと笑みを浮かべた。


「ひとつだけと言っていなかったか?」


「魔草の研究資料の中に、肝心の魔草がなければ意味がないでしょう? あなたが本当に私の母の仇かどうかは、記憶を取り戻してから判断します。次に会う時を、楽しみにしておいてください」


 翠雪ツェイシュエは自分の目で見ていないもの、確信がもてないものを簡単に信じることをしない性分だった。わざわざ自分をここに連れて来た意図。緑葉リュイェはなんのために余計なことまで話したのか。そもそもなぜ、今、この時宜じぎに接触してきたのか。なにも翠雪ツェイシュエの中で解決していないのだ。


 母の仇かもしれない、魔族の皇子。唯一の手がかりでもある。今この時を逃せば、二度と遭遇することはないかもしれない。だが自分がこの者に勝てる要素が微塵もないという事実を、翠雪ツェイシュエは自覚していた。


 ならば真実を知るために、どんな手を使ってでも生き残る方が先決だろう。


「いいだろう。では俺の望みを聞いてもらおうか」


 猫背気味の背を真っすぐに伸ばし、翠雪ツェイシュエをじっとりと見下ろしてくる緑葉リュイェ。長い前髪に隠れてはいるが、顔の左半分を覆う青紫色の皮膚にどうしても目がいく。指にとまっていた蝶が突如、ふたりの間に挟まるように翅を羽ばたかせて視界を遮る。


 緑葉リュイェはその邪魔な紅蝶を鷲掴みにすると、その手が炎を上げて燃え上がった。それを目の当たりにした翠雪ツェイシュエはさすがに驚き、この紅蝶がただの蝶でないことを思い知る。自分でもなぜかわからないが、緑葉リュイェの焼け続けている腕よりも、その手の中でじたばたと火の粉のような鱗粉を散らす紅蝶の方が心配だった。


「····その子を、離してあげてください」


「俺の望みを叶えてくれるのだろう?」


 翠雪ツェイシュエは紅蝶を救うため手を伸ばそうとするが、緑葉リュイェの右眼に囚われて身動きができなかった。再び強く握られた左手首に、ひやりと背筋に悪寒がはしる。燃え続ける左腕。藻掻く紅蝶。


 そして――――。


「俺の望みは、お前のその絶望した顔だ」


 真実を見ていた唯一の目撃者。どこか懐かしさを覚えたその紅蝶が、翠雪ツェイシュエの目の前で潰され、弾け飛ぶように紅い光の粒と化してしまう。同時に緑葉リュイェの腕から炎が消え、爛れた皮膚と衣がみるみるうちに元に戻って行く光景が、翡翠の瞳に映った。


 蝶の形を失った無数の紅い光の粒は、最期の挨拶でもするかのように翠雪ツェイシュエの方へと流れ込んできて、そのひと欠片が肌に触れた時、様々な映像が断片的に頭の中を駆け巡った。


 あまりの情報量に耐えられず、翠雪ツェイシュエは強い眩暈を起こして倒れ込む。緑葉リュイェは手首を掴んだまま、ぐったりと地面に沈んだ翠雪ツェイシュエを満足げに見下ろし、くつくつと笑っていた。


「あの時の約束はちゃんと守ってやった」


 時が来れば返す、と約束した。


 そして記憶も一部だが戻ったことだろう。すべての記憶を戻すのは危険だと判断した。それに、面白くない。これから疑わなくても良い者まで疑い、壊れていく様を観察する方が楽しいに決まっている。


「あとは好きにすればいい。資料はくれてやる。残された記憶を取り戻す頃には、あいつが動き出すだろうしな」


 そうなれば、また新たな章の幕開けとなるだろう。人間の中でも狂った部類に入るあの者ならば、さらなる混沌を齎すはず。それは彼らにとっては最悪であり、自分にとっては最高の暇潰しなのだ。


 翠雪ツェイシュエを抱き上げ、部屋を出る。どんな夢を見ているのか気になったが、その苦痛に満ちた表情を眺めているだけでも十分に楽しめた。愛しい実験体。まだまだ観察は続くだろう。


「さあ、人界に帰るといい。俺の用事はすべて済んだ。魔草の研究資料はあとでお前の部屋に置いておいてやる」


 緑葉リュイェの足元に歪みが生まれ、床に膝を付いて翠雪ツェイシュエの身体をゆっくりとその中へと沈ませる。完全に沈んだ頃に歪みの中から手を抜くと、口元に笑みを浮かべた。


 再び逢うことがあれば、その時はどんな表情で眼で自分を見てくれるだろう。

 自分の両親が"誰に殺されたのか"を知った時、どんな顔をするだろう。


 記憶が改変された理由。その企みを知った時、またあの顔を見せてくれるだろうか。


 緑葉リュイェの口元に浮かぶそれは、どこまでも歪んだ感情で作られた、不気味な笑みだった。



******



 見たくないもの。知りたくなかったこと。懐かしい面影。繋いだ手の感触。

 あの時、縋るように伸ばした手は間違いだった?

 あの優しい眼差しも、声も。

 触れた肌も、唇も、全部。


 間違いから始まった感情だと?


 様々な記憶の渦が押し寄せて来て、翠雪ツェイシュエの精神を侵していく。楽しい時も嬉しい時も悲しい時も、全部。自分の隣には、ある少年がいたこと。その少年はいつも傍にいてくれて、お互い想い合っていたこと。


 どうして彼の存在が、自分の中からすべて消えていたのか。

 消されてしまったのか。

 誰がなんのためにそんなことをしたのか。


 あのひとが望んだこと?


 翠雪ツェイシュエは考えれば考えるほど、心が圧し潰されていく。この身はすでにあのひとと繋がっていて、あのひとを想う気持ちに偽りはなかった。しかしそれが意図して作られた感情だったのだとしたら、悍ましいと思った。


 彼を忘れてしまった隙間を埋め、そこに成り代わった存在。眩暈がする。目を開けたくない。現実に戻りたくない。なにも知りたくない。嘘なのか本当なのかも、もうわからなくなった。信じてもいいのか、わからなくなった。


 膝を抱えて蹲り、翠雪ツェイシュエは顔を埋める。そんな中、ふとなにかの気配を感じた。ゆっくりと瞳を開け、目の前の光景に息を呑む。そこにはあの少年と幼い自分が向かい合って立っていた。


 何頭もの血のように紅い蝶が、ふたりと翠雪ツェイシュエの周りをひらひらと舞っていた。ふたりには自分の姿は見えていないようだ。


 丁度ふたりの真ん中で蹲っていた翠雪ツェイシュエは、ぼんやりと目の前に広がる幻想的な光景を見つめていた。これも記憶の一部だろうか。


「俺たちの一族は、生涯の主と認めたひとを一生かけて守るんだ」


 少年が何の迷いもないまっすぐな瞳で、幼い翠雪ツェイシュエにそう告げる。


「だから、決めた。すべてを敵に回しても、必ず君を守ると誓うよ」


 ひらひらと舞う紅蝶が、そこにいるはずのない翠雪ツェイシュエの傍に一頭やってきて、右肩にそっととまった。ゆっくりと翅を下ろし、なにかを語りかけるかのように離れようとしない紅蝶。これは、この蝶が記憶した思い出なのだろうか。


 蝶を肩に乗せたまま、楽しそうなふたりの顔を見ていた。幼い自分は困った顔をしながらも、どこか嬉しそうに笑っている。こんな風に笑う自分自身を見るのは、なんだか不思議な感覚だった。


「······あの子は、」


 一緒にいる少年は、自分がよく知る人物に似ていた。確証はないが、なんとなくそんな気がした。


 あの時もずっと傍にいてくれたのに、どうして記憶から消えていたのか。あんなに大切に想っていたひとを、どうして忘れてしまったのか。


「真実を、知るために····あのひとを疑うしかないんですね、」


 信頼していたひと。ずっと、慕っていたひと。想いを告げられた時、心から嬉しいと思った。同じ想いなのだと、胸の奥がじんわりとあたたかくなったのを憶えている。信じたいのに、疑念ばかりが生まれてしまう。最初に抱いた疑念が、どんどん大きくなって、確かめずにはいられなくなった。


 記憶の欠片。すべて思い出したわけではなかった。自分の中にあった記憶と紅蝶が見せた記憶にはズレがあった。そこにあの事件の真実が隠されているのだろう。だったら、覚悟を決めるしかない。


 知りたいことを、知るために。自分の感情さえ利用して。その口から真実を語らせるしかない。


 空間が歪む。その先に映ったものに、安らぎを覚えた。雨に濡れ、蹲っている少年。自分を捜してくれていたのだろうか? あれから一体どのくらい時間が経っていたのか。曇り空のせいで正確な時刻はわからない。


 抱きしめられたとき。

 守る、と決めた。


 幼い日に抱いたあの淡い想いを、守ろう。

 たとえこの身が穢れようとも。

 この想いだけは、純潔のまま。


 あの頃のまま。


 たとえあなたが、すべてを忘れてしまっていても。もういちど、あなたに――――。



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