第二十二話 決意
「意外な要求だな。記憶を返せ、ではなくて、研究資料をよこせ、と?」
「はい。ついでに魔草もください」
ついでに、と
「ひとつだけと言っていなかったか?」
「魔草の研究資料の中に、肝心の魔草がなければ意味がないでしょう? あなたが本当に私の母の仇かどうかは、記憶を取り戻してから判断します。次に会う時を、楽しみにしておいてください」
母の仇かもしれない、魔族の皇子。唯一の手がかりでもある。今この時を逃せば、二度と遭遇することはないかもしれない。だが自分がこの者に勝てる要素が微塵もないという事実を、
ならば真実を知るために、どんな手を使ってでも生き残る方が先決だろう。
「いいだろう。では俺の望みを聞いてもらおうか」
猫背気味の背を真っすぐに伸ばし、
「····その子を、離してあげてください」
「俺の望みを叶えてくれるのだろう?」
そして――――。
「俺の望みは、お前のその絶望した顔だ」
真実を見ていた唯一の目撃者。どこか懐かしさを覚えたその紅蝶が、
蝶の形を失った無数の紅い光の粒は、最期の挨拶でもするかのように
あまりの情報量に耐えられず、
「あの時の約束はちゃんと守ってやった」
時が来れば返す、と約束した。
そして記憶も一部だが戻ったことだろう。すべての記憶を戻すのは危険だと判断した。それに、面白くない。これから疑わなくても良い者まで疑い、壊れていく様を観察する方が楽しいに決まっている。
「あとは好きにすればいい。資料はくれてやる。残された記憶を取り戻す頃には、あいつが動き出すだろうしな」
そうなれば、また新たな章の幕開けとなるだろう。人間の中でも狂った部類に入るあの者ならば、さらなる混沌を齎すはず。それは彼らにとっては最悪であり、自分にとっては最高の暇潰しなのだ。
「さあ、人界に帰るといい。俺の用事はすべて済んだ。魔草の研究資料はあとでお前の部屋に置いておいてやる」
再び逢うことがあれば、その時はどんな表情で眼で自分を見てくれるだろう。
自分の両親が"誰に殺されたのか"を知った時、どんな顔をするだろう。
記憶が改変された理由。その企みを知った時、またあの顔を見せてくれるだろうか。
******
見たくないもの。知りたくなかったこと。懐かしい面影。繋いだ手の感触。
あの時、縋るように伸ばした手は間違いだった?
あの優しい眼差しも、声も。
触れた肌も、唇も、全部。
間違いから始まった感情だと?
様々な記憶の渦が押し寄せて来て、
どうして彼の存在が、自分の中からすべて消えていたのか。
消されてしまったのか。
誰がなんのためにそんなことをしたのか。
あのひとが望んだこと?
彼を忘れてしまった隙間を埋め、そこに成り代わった存在。眩暈がする。目を開けたくない。現実に戻りたくない。なにも知りたくない。嘘なのか本当なのかも、もうわからなくなった。信じてもいいのか、わからなくなった。
膝を抱えて蹲り、
何頭もの血のように紅い蝶が、ふたりと
丁度ふたりの真ん中で蹲っていた
「俺たちの一族は、生涯の主と認めたひとを一生かけて守るんだ」
少年が何の迷いもないまっすぐな瞳で、幼い
「だから、決めた。すべてを敵に回しても、必ず君を守ると誓うよ」
ひらひらと舞う紅蝶が、そこにいるはずのない
蝶を肩に乗せたまま、楽しそうなふたりの顔を見ていた。幼い自分は困った顔をしながらも、どこか嬉しそうに笑っている。こんな風に笑う自分自身を見るのは、なんだか不思議な感覚だった。
「······あの子は、」
一緒にいる少年は、自分がよく知る人物に似ていた。確証はないが、なんとなくそんな気がした。
あの時もずっと傍にいてくれたのに、どうして記憶から消えていたのか。あんなに大切に想っていたひとを、どうして忘れてしまったのか。
「真実を、知るために····あのひとを疑うしかないんですね、」
信頼していたひと。ずっと、慕っていたひと。想いを告げられた時、心から嬉しいと思った。同じ想いなのだと、胸の奥がじんわりとあたたかくなったのを憶えている。信じたいのに、疑念ばかりが生まれてしまう。最初に抱いた疑念が、どんどん大きくなって、確かめずにはいられなくなった。
記憶の欠片。すべて思い出したわけではなかった。自分の中にあった記憶と紅蝶が見せた記憶にはズレがあった。そこにあの事件の真実が隠されているのだろう。だったら、覚悟を決めるしかない。
知りたいことを、知るために。自分の感情さえ利用して。その口から真実を語らせるしかない。
空間が歪む。その先に映ったものに、安らぎを覚えた。雨に濡れ、蹲っている少年。自分を捜してくれていたのだろうか? あれから一体どのくらい時間が経っていたのか。曇り空のせいで正確な時刻はわからない。
抱きしめられたとき。
守る、と決めた。
幼い日に抱いたあの淡い想いを、守ろう。
たとえこの身が穢れようとも。
この想いだけは、純潔のまま。
あの頃のまま。
たとえあなたが、すべてを忘れてしまっていても。もういちど、あなたに――――。
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