第二十三話 距離感



 翠雪ツェイシュエはぼんやりとあの時のことを思い出しながら、あてもなく指を伸ばしていたことに気付く。


 二年前に決意したこと。あの想いを、あの唯一の光を今も抱いて、この身を穢し続ける矛盾。疑念がなかった時と今では、あの行為・・・をしている時の嫌悪感が違いすぎた。


 寝台で眠るのが嫌でしょうがない。

 繰り返してきた情事と、その時の感情を思い出してしまうから。


 あのひとと交わした言葉。

 触れ合った身体や唇。

 純粋でまっすぐな気持ち。

 なにもかも全部。

 ぜんぶ。

 嘘だったら良かったのに。


 なにも知らずに慕っていた頃の、自分の愚かさ。

 思い上がり。

 唯一と疑うことなく向けていた感情も。


 ぜんぶ。


 消すことなどできないと知っているから。


 そんな捨てきれないあのひとへの感情が罪悪感を生み、純粋に自分を好いてくれているのだろうあのひとの気持ちが、さらに自分自身を蝕む。


 真実を知りたい。教えてもらえないなら、思い出すしかない。緑葉リュイェがまさかあの約束を守るとは思ってもいなかった。魔草の研究資料とそれを確かめるための十分な量の魔草が、翠雪ツェイシュエの部屋に届けられていた。


 彼が自分をずっと観察していたという事実をそれによって証明されてしまったわけだが、どこまで視ているのか、視ていたのか、考えると悪寒がはしる。なんの気配もなく、どうやって観察をしているのかさえわからないのだ。


(あの魔草の根は乾燥させて燃やすことで幻覚を見せる効果があり、違う魔草と組み合わせることで、記憶を混濁させることができるということはわかりました)


 そしてある魔草をさらに調合することで催眠状態になり、そこである程度の記憶操作や消失を齎せることもわかった。自分の中から天雨ティェンユーの記憶がすべて抜け落ちていること、一部の記憶が塗り替えられていることがまさにそれだろう。


 では誰がそれを行ったのか。望んだのか。あの時、緑葉リュイェと協力関係にあったのは誰なのか。それをして"誰が"得をするというのか。


 犯人が自分の存在を知られないようにするためにした、と考えるのが普通だろう。同時に、緑葉リュイェが実験のために回りくどいやり方で自分たちを生かした、という見解もある。


 そのふたつがこの事件をややこしくしているということもあるが、それだけではない何か深い闇を感じた。本当の目的はやはり煉丹術の秘伝書だろう。


 母が口にした言葉から、それを奪おうとした者が犯人で間違いない。しかも両親の道友の中の誰かであること、もしくはその道友の知り合い、親しい者、と広げていくと、もはや捜すことなど不可能に近い気がする。


 だが翠雪ツェイシュエはその中のひとりである風獅フォンシーを疑っていた。彼の父が秘伝書の事を彼に話し、その死後、門派を大きくしたいという願いを叶えるための手段として手に入れようとしたのではないか。そう、推測している。


 ただ、どうして自分や天雨ティェンユーを引き取って近くに置いているのか。監視のため?それとも他に別の理由があるのか。


 実のところ、援助はしてくれているがあの秘伝書を完成させることを望んでいるようにも思えず、どちらかといえば自分に執着しているような気さえして、そこに矛盾がある。


 これを一度考えてしまうと、ぐるぐると思考が巡り最初の疑問に戻ってしまうのだ。

 まだ答えを出すには材料が足りない。それだけははっきりとわかる。


(····私の記憶と天雨ティェンユーの記憶を照らし合わせられたらいいのですが、彼の記憶もどこまで当てになるかわからない状態で、確信もないのにそんな提案、できるわけがない)


 はあ、と嘆息して俯く。手は伸ばしたまま、届かない書物の背表紙をなぞる様に触れていた時、一瞬だけ目が眩みぐらりと身体が傾いだ。


 え、と翠雪ツェイシュエが気付いた時には、本棚が遠く上の方へあった。踏み台が先にばたんと倒れる音がし、自身の身体も仰向けのまま、床に向かって放り出されている状態だった。


 次に来るだろう衝撃に対して反射的に眼を閉じたその時、声が聞こえた。


「危ない!」


 背中にぶつかった感触。床よりは柔らかくあたたかささえあった。がたん! という大きな音に続いて、周りや自身の頭上にばさばさと書物が落ちる音、そして思ったよりは激しくなかった衝撃を不思議に思い、ゆっくりと瞳を開く。


 そのあたたかさの原因と、少し痛みはあるが思ったほどではなかった理由を知る。


「····翠雪ツェイシュエ、頼むから床に書物を積むのは止めて欲しい。これがなかったらもう少しまともに受け止められた」


 投げ出された身体を受け止めたのはいいが、足場が悪かったことと積み上げられていた書物が崩れ、そのまま後ろの本棚に背中を打った挙句、翠雪ツェイシュエを抱き止めた状態で、書物が散乱した床にそのまま沈む羽目になったのだ。


「すみません······怪我はないですか?」


 ぎゅっと後ろから抱きしめられる形で、床に座り込んでいた。ふたりを受け止めた本棚が衝撃で倒れなかっただけ幸いだったが、自分の下敷きになってしまっている天雨ティェンユーの小言に対して、さすがに謝るしかなかった。


「背中と尻が痛い。埃臭い。落ちてきた書物のせいで頭と首が痛い。今からこの惨状を片付けることになるかと思うと、気が滅入る」


 棒読みでそんなことを言う天雨ティェンユーの表情は、翠雪ツェイシュエには見えなかったが、きっと眉間に皺を寄せて怒っているに違いない。


「俺が早く戻らなかったら、どうなっていたと思う? あなたはもう少し自分の運動神経の悪さを自覚するべきだ」


「は? 別に助けて欲しいなんて頼んでませんけど? あなたが余計なことをしなければ、自分で上手く受け身を取ってました」


 あ、つい口が····と翠雪ツェイシュエは思ってもいないことを口走る。言い切った後に思い直してももう遅い。


 あんな言い方をされたら翠雪ツェイシュエがどう答えるか、想像できたはずなのだ。しん、と気まずい空気が流れる中、くつくつと笑う声が零れる。それはすぐ後ろから聞こえてきた。


「そんなこと、できないくせに」


「ちょっと、馬鹿にしないでください。一応これでも首席道士なんですからね?それくらいできます」


 天雨ティェンユーが珍しく笑うので、翠雪ツェイシュエは頬を膨らませながらも冗談まじりに言葉を返す。気まずい空気が一変して、和やかな雰囲気に変わった。翠雪ツェイシュエも小さく笑みを浮かべ、眼を細める。


「おふたりとも、仲良しなのはよ〜くわかりましたから、ちゃんと片付けてくださいね?」


 そんな中、大きな音を聞いてやって来たのはいいが、強制的に目の前の光景を見せつけられていたヤンが、これ以上は····と思って声をかけた。


「待ってください。なにか誤解してます」


「これは事故だ」


 ふたりは真顔でそんなことを言うが、後からやって来てこの状況を見てしまえば、ただふたりが昼間からいちゃついているようにしか見えなかった。

 はいはい、と適当に答えてヤンはさっさと部屋を後にする。


(まあ、大体なにがあったかはわかるけど。ふたりともお互いの距離感おかしいの、自覚なさそうだからな····俺がなんとかしてあげないと)


 ヤンがあんな風に言った後も、天雨ティェンユー翠雪ツェイシュエを抱きしめたまま放さなかったのは無意識だろう。普通ならやましい場面を見られていたと知ったら離れると思うのだが。自覚がないから恥ずかしいとも思わないのだろうな、と分析する。


 けれども天雨ティェンユーの、翠雪ツェイシュエは自分のものだとでもいうように放さない、そのいじらしさというか、無自覚の執着心に、ヤンは少しだけ心配になる。


(まあ、俺としてはふたりがくっついてくれるのが、一番嬉しいからいいけど)


 先のことなど考えても仕方がない。ヤンは鼻歌を歌いながら、昼餉の準備を始めるのだった。



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