第十七話 疑念



 ぽつりと、無意識に零れた言葉。


「······紅い蝶、」


 翠雪ツェイシュエは意味深な表情で宙に漂う紅い蝶たちを見つめていた。緑葉リュイェのあの隠し部屋で見た、鉄の鳥籠の中にいたあの紅蝶の姿が頭に浮かぶ。あの後、彼が何と言ったか。なにをしたか。誰にも言えない秘密を抱えたまま、ここにいる。


(やはりあなたが····私の、)


 視線が重なる。灰色がかった青い瞳。紅い蝶が彼を守るように飛び交っている。その光景は悍ましくもあり、毒々しくもあり、美しくもあった。


「あなたが遅いから、全部俺が葬った」


 ゆっくりと近付いて来たふたりに対して、天雨ティェンユーが強がりを言う。紅蝶に隔たれた先。翠雪ツェイシュエが何か言いたそうだった。


「これは、俺の一族だけが持つ能力で、使うには色々と代償が····、」


 こちらを見つめたままなにも言ってこない目の前の師に動揺したのか、天雨ティェンユーの方が言い訳でもするように眼を逸らす。あの数をすべて焼き尽くすには、無理を押し通すしかなかったのだ。


「痛みますか?」


 左手に握られている刀剣をつたい滴る赤。そこから生まれ続ける紅蝶に目を奪われながらも、翠雪ツェイシュエ天雨ティェンユーの左腕に衣の上からそっと触れた。


「私のせいですね。先に救援を呼ぶべきでした。この村の者たちが殭屍きょうしになっているだろうと予想していながら、あなたをひとり残してしまったこと。私の判断が間違っていました」


「別にこれは····奴らにやられたわけじゃない。自分でやったんだ。あなたの判断がどうとかそういう問題じゃなくて、俺が選んで決めたことだ」


 左腕に触れていた翠雪ツェイシュエの右手を掴み、傷から離した。血で汚れた指先が目の前にあり、天雨ティェンユーはばつが悪そうに眼を細めた。


 確かに軽傷ではない。あの殭屍きょうしたちを浄化するにはなるべく多くの血が必要だったため、かなり深く切りつけた。そのせいで、いつもよりも血が止まるのに時間がかかっているのも事実だった。


「だから、あなたには関係ない。無駄に気にされても困る」


 天雨ティェンユーは『気にしないで』という気持ちでそう言ったつもりだったが、その他人行儀な言葉に対して翠雪ツェイシュエはますます曇った表情になった。


(心配してくれているひとにその言い方は····色々と誤解されてそう)


 ヤンはふたりのそのやり取りを黙って見ていたが、どちらもなんだかぎこちない印象を受けた。宿にやって来た時は気付かなかったが、ふたりの関係は親しいというよりも、なにもわからない他人同士という表現の方が正しい気がしてきた。


「あの、おふたりは結局、どういう関係なんですか? 翠雪ツェイシュエさんは風明フォンミン山の道士さまで、天雨ティェンユーさんも同じ門派の道士?」


 冷たい翠雪ツェイシュエの手を握り締めたまま、天雨ティェンユーは「まあ、そんなところだ」と答える。嘘は言っていないし、間違いでもない。一応、同じ門派に属していて、一応、師と弟子の関係。それ以上でもそれ以下でもない。


「もうすぐ火柱に気付いた見張りが掌門しょうもんに異変を伝え、救援がやってくるはずです。騒がしくなる前に、ヤンのおじいさんのご遺体を葬りましょう」


 身体は天雨ティェンユーの方を向けたまま、首だけヤンの方へ向け、翠雪ツェイシュエは優しい声音で呟く。


 あのままにしておけば、老人も殭屍きょうしになってしまう恐れがあった。それを伝えるにはあまりにも酷だったので、あえてそのことは告げなかった。そうならないように丁重に弔う必要はあるだろう。


 ヤンはその気遣いに感謝し、天雨ティェンユーはようやく掴んでいた手を解放した。


 宿に戻るまでの間、三人の間をひらひらと紅蝶が飛び交っていたが、しばらくすると一頭ずつすぅっと消えて、月明かりだけになった。


 天雨ティェンユーが小柄な老人の遺体をひとりで運び、ふたりはその前を穴を掘るための道具を手に歩く。


 村の外れにある墓地へと辿り着くと、ヤンは自分の両親が眠る墓の前へと翠雪ツェイシュエたちを導いた。木の札が立っているだけの簡易的な墓だが、この村ではこれが普通のようだ。


 離れた場所で符を使って大きな火を熾し、無言のまま三人は浅く穴を掘る。この地域は火葬する風習があるため、遺体を焼く必要があったのだ。


 そうしている間に、風明フォンミン山の方から十人ほどの道士たちを率いた風獅フォンシーの姿を目にした翠雪ツェイシュエは、村の方へとひとり戻って事後報告をしに行った。


 天雨ティェンユーヤンだけがその場に残され、無言が続く。ひとが焼けるニオイを近くで感じながら、言葉にならない感情がヤンの中に渦巻いていた。


 誰かのせいにもできず、理不尽に奪われた唯一の家族であった祖父。肉が焼け完全に骨になるまでは時間がかかるだろう。


 思い出せば背筋がぞくりと冷え、指先が震えた。あんな化け物になってしまうなんて、村の皆に一体何があったのか。なぜ自分だけ生き残ったのか。


 祖父が命を賭して守ってくれたこと、翠雪ツェイシュエが救ってくれたこと、もちろん感謝している。しているけれど、もう本当に、この世でひとりきりになってしまった。


「父さん、母さん、じいちゃんの魂をふたりがいる所へ連れて行ってあげて」


 せめてどうか、ふたりの許で穏やかに暮らせますように。


 そう、願わずにはいられなかった。



******



 火竜の火柱が立った。見張りの者がその異様さに驚き、慌てて報告に来た。それはあの麓の村から上がったもので、風獅フォンシーはすぐに道士を集めた。


(····やはり翠雪ツェイシュエを行かせるべきではなかったのかもしれない) 


 後悔しても今更遅い。


 この依頼を受けた時から、嫌な予感はしていた。依頼は村の代表からのものだったが、失踪人の数を思えば、大事にしたくないという理由だけで遅らせるには違和感があった。それでも彼らを行かせたのは、彼らならなにがあろうと上手く動けると思ったからだ。


 だが、あの翠雪ツェイシュエが救援を知らせる彩光の中でも、身の危険を表す火竜の火柱を上げたことによって、風獅フォンシーは少なからず焦った。特級の妖魔だったとしても、苦戦はするだろうが負けることはないだろう。少し特殊な失踪事件。そのくらいの印象しかなかった今回の依頼。


 村に着き、すぐに翠雪ツェイシュエの無事を確認できた。村のあちこちに焼け焦げた跡があり、その数の多さに目を瞠った。話を聞けば、一部を除いた村人全員が殭屍きょうし化していたという。こんな事例は初めてで、それが魔族の仕業だと聞いて納得せざるを得ない。


「すみません。私が天雨ティェンユーの実力を見誤り、大袈裟にしてしまったようですね。殭屍きょうしを葬り、同時に救援を呼ぶためとはいえ、あの符はやりすぎでした」


 新しく作り出した符の効果を試すには十分な状況だったわけだが、威力が強すぎたのが裏目に出てしまったのだ。


「いや、君たちが無事で良かった。魔族と接触したと言っていたが、」


「はい、それに関しては私の落ち度です。逃げられた上に、犠牲者を多く出してしまいました。どうやって村人たちを殭屍きょうしに変え、私たちに悟られないように隠していたのかも謎のままです」


 この血はどうした? と、風獅フォンシーは右手の指にこびり付いたままの赤を心配そうに見つめ、翠雪ツェイシュエの手を取った。


「私の、ではありません。だから、気にしないでください」


天雨ティェンユーが術を使ったか。あれを使うのは控えるようにと言ってあるのだが····そうせざるを得なかったということか」


 風獅フォンシー天雨ティェンユーの退魔師としての力のことを知っているようだ。翠雪ツェイシュエ風獅フォンシーの手から自分の手を引いて、胸元へと持っていく。ぎゅっと握りしめ、何か言いたそうな翠雪ツェイシュエの心情を察したのか、風獅フォンシーは「どうしたんだい?」と訊ねる。


「私は、あなたを信じてここまでやってきたつもりです。あなたは····私に何か隠していることはないですか? この先も、信じていいんですよね?」


 翠雪ツェイシュエの口から出たその言葉の意味を、風獅フォンシーはどうしても理解することができなかった。

 この一日半ほどの間に、彼の身になにがあったというのだろうか。


「もちろんだ。私が君に隠し事などするはずがない。あの日から、君を大切に想う気持ちは、少しも変わっていないのだから」


 しかしこの小さな綻びがやがて大きな亀裂になり、破滅へと繋がることなど、この時のふたりは知る由もなく。



 多くの謎とわだかまりを残したまま、二年の月日が流れた――――。



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