第六話 あなたじゃない



 あの子に名を呼ばれた。

 大嫌い、と言われた。


 やはり夢の中の少年は間違いなく自分で、けれどもいつも傍にいる少女が誰かはまだ思い出せない。俯瞰で見ているような感覚だが、感情はなぜか共有してしまうのだ。


(····なんであの子は泣いたんだ?)


 ぼんやりとした視界には天井が映り、夢の中の「大っ嫌い!」を完全に引きずっている自分がいた。思い出したら最後、あの声が幻聴として頭の中で繰り返し響いてしまう。


 夢の中の幼い自分が好意を持っている少女からの、その衝撃的な言葉に思いの外憂鬱になって、天雨ティェンユーは頭を掻きながら身体を起こした。


 背を向け横向きで眠っている翠雪ツェイシュエに視線を移す。寝台の上に茶色い髪の毛が無造作に流れているのが見えた。


 かけていたはずの薄い布団が床に落ちており、縮こまるような体勢で丸くなっている姿は、まるで猫のようだ。


 この数日、彼と共に過ごして気付いたのだが、見た目に反して生活面は適当で、食にもまったく興味がないようだった。


 大概は煎餅(粉を混ぜて焼き、具を挟んだもの)や饅頭で済ませる事が多かったり、気を付けてやらないと一日中なにも口にしないということも多々あった。


 今までどうやって生きてたんだろうか、と天雨ティェンユーは不思議でならなかったが、その辺りは風獅フォンシーが手を回していたのだろう。彼はひとつの事に集中すると、それ以外はどうでも良くなるようだ。


 寝台を下り、落ちていた薄い布団を拾うと、そのまま翠雪ツェイシュエの上にかけてやる。彼に弟子入りをした理由。道士たちとの共同生活や身の入らない無意味な修練が嫌だったと言ったが、風獅フォンシーが言った通りそれだけが理由ではなかった。


(また夢が少しだけ動いた····あれは、俺の曖昧な記憶の一部なんだろうか)


 そ、と茶色い髪の毛のひと房に触れる。予想以上に柔らかいその髪の毛は、あの夢の中の少女と似ていた。あの少女の特徴は茶色い髪の毛と口元だけ。同じ色の髪の毛だから気になるのだろうか。


(だが、彼じゃない。夢の中の少女の顔は思い出せなくても、彼女の傍にいる紅蝶が目印になる。なにかあれば遠く離れていてもわかる)


 翠雪ツェイシュエがあんなことを言うから、夢を見たのかもしれない。


「····はは、うえ······ちち、うえ······」


 ぎく、と思わず触れていた髪の毛から手を離す。もぞもぞと動いて翠雪ツェイシュエがこちら側に寝返りをうった。その目尻に溜まっていた涙がほろりと頬をつたう。不謹慎だが、それを見た天雨ティェンユーはなんとも言えない気持ちになった。


 あんな夢を見たせいか、その涙を拭わずにはいられない。起こさないように気を遣いながら親指だけで触れ、眼を細める。


「····おいて····いかない····で····」


 ぎゅっと敷物を握りしめた指先が、少しだけ震えていた。


 彼もまた、自分と同じ。幼い頃に両親を殺されたのだという。詳しくは聞けなかったが、風獅フォンシーが彼を保護しなければ今ここにはいなかっただろう。


 天雨ティェンユーは幼い頃に両親を魔族に殺され、自身も死にかけているところを風獅フォンシーに救われた。その時のことは今でもはっきり憶えているのに、それ以前の記憶が所々曖昧になってしまったのだ。


 翠雪ツェイシュエが抱えているものも、おそらく同じだ。両親が殺されるところを近くで見ていたのかもしれない。自分だけが生き残ってしまったことに、罪悪感を覚えているのだ。


「大丈夫。誰もあなたを責めたりしない。誰にもあなたを責める権利はない」


 天雨ティェンユーはあの時風獅フォンシーに言われた言葉を、そのまま口にする。強く握りしめすぎていつも以上に白くなった指に自分の手を重ね、優しい声音で囁く。それは、自分が言われて救われた言葉だった。


 誰に何を言われようが関係ないという顔で、翠雪ツェイシュエは今まで任務をこなしてきたようだが、誰とも関わらず、ひとりで研究に没頭しているのは、感情を誤魔化すための手段だったのだろう。でなければ、こんな風に涙を流すわけがない。


(俺は、必ずあの子を捜し出す。そして、あの時の約束を果たす)


 そのためにも、夢の続きを見る必要があった。

 顔を思い出せないのは、なぜなのか。


(今はまだ、風獅フォンシー様に恩があるからここから離れられないが、思い出せたらすぐにでも)


 少しだけ力の抜けた指先に安堵して、ゆっくりと重ねていた手を離す。冷たい指先の感触が薄れていき、触れていた手に視線を落とす。


(····調子が狂う)


 あの時、泣かせてしまった少女。拭えなかった涙。これはその代わりだとでも言うのか。そんな都合の良い話、あるわけがない。


 お互いの顔がわかるくらいの薄暗い部屋の中で、ただじっと翠雪ツェイシュエが眠る姿を見つめていた。


 またその涙が零れてしまったらと思うと、目が離せなくなる。これはどういう心境の変化だろう。自分の記憶を取り戻すために利用しているだけなのに、なんだか胸の辺りが痛む。


 けれども、本当に守りたいのはあなたじゃない。


 守りたいのは、あの子だけ。

 永遠を誓った、あの少女だけ。

 暗い気持ちが襲って来て、表情が歪む。


「すべてを思い出すまでは、あなたの傍にいる。あなたという存在を守る」


 思い出したら、もう、必要ない。


 その時はなにも言わずに消える。きっと翠雪ツェイシュエは厄介者がいなくなって清々することだろう。風獅フォンシーがいるからひとりにはならない。理解者がひとりでもいるなら、それは救いだから。


 天雨ティェンユーは一度瞼を閉じて気持ちを落ち着かせ、ゆっくりとその灰色がかった青い瞳を開く。雨の音は止むことなく、今も降り続いていた。窓の方へ足を運び、外の景色を何の気なく眺める。


 重たい色の雲のせいか、今が夜なのか朝なのかはっきりとしない。雨も一定の音を奏でていて、そこまで激しくはないが外を歩くには傘が必要だろう。そんな中、ひとつの影が視界の端を過った。


 この雨の中、ふらふらと路を歩く人影。遠くてはっきりとはわからないが、服装を見るに女のようだった。ただの散歩と済ませるには違和感があり、このまま見過ごすという選択肢はなかった。


 まだ眠っている翠雪ツェイシュエを起こすことなく、天雨ティェンユーは外套を素早く纏い、ひとり部屋を飛び出していた。




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