第七話 闇への誘い



 天雨ティェンユーが宿から外に出ると、あの怪しい女の姿は消えていた。しかし向っていた方角は見ていたので、無言で外套を乱暴に頭から被ると、雨足が先程よりも激しくなる中森の方へと駆け出す。


 やはりこの森が妖魔の拠点なのだろうか?


 あの女が犯人とは思えないが、おそらく誘われていることは間違いない。あえて敵の誘いに乗ることで、その思惑を知るのも悪い手ではない。


 だが、相手は妖魔の中でも上級より上の特級である。対峙すれば自分でもどうなるかわからない相手だ。目的だけでも知れれば、幸運だろう。


 村と森の境界辺りで女の後ろ姿を見つけた。あのふらふらとした足取りのまま、森へと入っていく。どう考えても罠の匂いしかしない。だが追わないという選択肢もない。


 天雨ティェンユーは距離を置きながら、女を追う。女は迷うことなく、明確に目的地へと向かっているように見える。


(あの女····生きた人間ではないようだ。もしかして殭屍きょうしか?)


 殭屍きょうしとは、魂が消失した器だけの状態の死体に強い陰の気が大量に入り、本能のまま動き出す厄介な存在。痛みを感じず、いくら攻撃しても向ってくるため、完全に倒すにはその身を燃やすしかない。


 邪を封じる符を使うのも手だが、それは一時的な対処の仕方でしかなく、陰の気がそれを上回ってしまえば再び動き出してしまうのだ。つまり足止め程度にしかならない。


 殭屍きょうしは自我を持たず、人間を食料としてみなしている。唯一残る本能である"食欲"を満たすため、人間のニオイがすれば迷わず襲ってくるはずだ。しかし目の前の女は天雨ティェンユーには目もくれずに、目的の場所へと向かっているように見える。


殭屍きょうしを操れる奴なんて、聞いた事がない)


 嫌な予感がする。これ以上ひとりで進んでも良いかどうか。だが、まだなにも得ていない。ここで見失ってしまえば、得られるはずのものも得られなくなってしまう。


 天雨ティェンユーは外套の隙間から滴る雨粒で視界が悪い中、薄暗い森の奥へと進むしかなかった。



******



 首筋に指が触れようとしたその時、翠雪ツェイシュエはその瞳を開く。寝台から転がるように反対側へと素早く距離を置き、自分に触れようとしていた目の前の者に対して強い嫌悪感を覚えた。


「誰ですか、あなた?」


 お互いの顔が認識できる程度には明るさのある部屋の中、まだ上手く回らない頭で冷静に観察する。その者は自身を偽ったり隠すこともせず、自分に触れようとした手を伸ばしたままの姿勢で、こちらに視線だけ巡らせた。


 見た目だけならば二十代前半くらいの青年。全体的には短いが前髪だけ長く、左眼が隠れているのが特徴的で、隠れていない右眼は薄緑色をしていた。


 白い衣の上に薄緑色の羽織を纏っており、少し猫背気味なところを見るに武芸などの心得はなさそうだ。雰囲気的にいえば、とても陰鬱で暗い印象を与えるだけでなく、なにを考えているかわからない不気味さもある。


 ただひとつだけ、わかる。彼は、ひとではない。鬼でもない。


(魔族····しかも、相当まずい相手ということだけは、確か)


 正直、自分でさえ触れられる寸前でやっと気付いたのだ。気配がしないなんて、魔族の中でもかなり位の高い者、としか今は判断できない。


「······お前をずっと見ていた。ずっと前から、お前を知ってる」


 ぼそぼそとその者はそう呟いた。同時に、その口元がにやりと歪む。それに対して翠雪ツェイシュエはぞくりとなにか嫌な冷たさを感じた。


 その声は想像していたよりも若さのある声だったが、どこまでも暗い声音だった。


「····俺の顔を焼いた、女の顔と同じ」


 翠雪ツェイシュエに触れようとしていた手をそのまま自身の顔の方へと近づけ、長い前髪で隠れた左側に触れる。そっと頬まである長い前髪を掬い上げ、くつくつと不気味な笑みを浮かべて翠雪ツェイシュエの方を向く。


 その長い前髪の下にあったもの。それは、まるで呪いでも受けたかのように青紫色に変色した皮膚と、眼球がなくぽっかりと開いた穴がひとつ。


 翠雪ツェイシュエはその悍ましさに眼を逸らしたくなったが、意地でもそんなことをしたくなかった。


(あれは····呪詛?)


 彼の戯言を鵜呑みにするつもりはないが、翠雪ツェイシュエはある可能性が頭に浮かんでいた。自分と似ているという女性の話。もうひとつは、この青年の顔を焼いた呪詛。そのふたつだけでも、十分だった。


「あなたが····母上と父上を殺した、あの時の魔族のひとりだと?」


 当時十歳だった翠雪ツェイシュエを襲った悲劇。


 突然奪われた両親の命と、ささやかだったが幸せな時間。そして両親が長きに亘って研究をしていた膨大な資料と、所持していた宝玉や法器、宝具。そのほとんどが奪われてしまった。


 手元に残ったのは、まだ途中だった煉丹術の研究資料と、翠雪ツェイシュエが肌身離さず持っている母親の形見である大扇だけだった。


「····興味深い。そういう認識・・・・・・か」


 否定も肯定もしない青年に、翠雪ツェイシュエは眼を細める。偶然にもほどがある。それに、青年の言葉も気になった。復讐という概念は翠雪ツェイシュエの中では優先事項ではなく、それよりもあの事件の真相を知ることの方が大事なのだ。


「どういう意味ですか? あなたは、何者です?」


「····共に来れば、教えてやる」


 掬い上げていた手を下ろし、今度は少し離れた位置にいる翠雪ツェイシュエに向かって手を差し伸べてくる。その声音は抑揚がなく、どこまでも不気味な雰囲気しかない。教える気が本当にあるのかどうかも、全く読めない。


 だがこれだけはわかる。これを断るという選択肢はないということ。この宿にはあの老人と少年がおり、彼はなにも言わないがそれを盾にしている。ついて行かないという選択肢を選べば、次に出てくる言葉はわかりきっているのだ。


「いいでしょう。その代わり、この村のひとたちには手出しは無用です。それが破られたら、私もなにをするかわかりませんよ?」


 天雨ティェンユーがいないのは、なにか理由があるのだろう。今はその方が好都合だ。この者と失踪事件が無関係とも思えない。しかしこの状況は、あまりにもできすぎている気もする。


(やはり、あの時の記憶は····いえ、まだ結論を出すのは早い)


 ずっと、気になっていたことがある。


 それを口にすれば、今まで積み上げて来たものすべてがガラガラと崩れてしまうほどの、絶望感を覚えるだろう。


 けれども翠雪ツェイシュエには知る権利があった。捻じ曲げられた事実ではなく、真実を知る権利が。


 寝台を挟んでふたり、視線が重なる。なにかを決意した翠雪ツェイシュエは、一度瞼を伏せて気持ちを落ち着かせた後、ゆっくりと自ら青年の方へと歩みより、細い指先を青年が差し出している指の上に置く。


 その指に触れると、自分よりもずっと冷たい感触が伝わってくる。握られた手は意外にも気遣いがあり、乱暴に扱われることはなかった。


 白い道袍を纏っているだけの軽装のまま、行きましょうと青年に声をかける。魔族の青年はその堂々とした態度を気に入ったのか、ふっと口元を緩めると、黒く歪んだ空間を目の前に出現させ、導くように翠雪ツェイシュエをその空間へと誘う。


 その姿が闇に呑み込まれるように消え失せたちょうどその頃、扉を叩く音が誰もいない部屋に響く。


 反応のない様子を不思議に思った少年は、勝手に開けるのも不謹慎と思ったのか、そのまま声をかけることもなく、下の階へと戻って行くのだった。



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