【人気シリーズ試し読み】華は天命を診る 莉国後宮女医伝／小田菜摘

第二話 女子医官、休日を得る②

　思いもよらぬ問いに翠珠はげんなりする。物騒な話はこれで終わったと思っていたのに、ここにきて振り出しに戻るのか。

「晏中士は、特に不審は抱いていないようでした」

「晏中士？」

「李少士の指導官です。西六殿で栄嬪の担当をしているそうです」

　訝（いぶか）し気にその名をつぶやいた高峻に、夕宵が補足する。

　転倒の報（しら）せを受けた直後は、まず母体と胎児の安全確認を優先するから、その誘因や原因までは詳しく調べなかった。そのときの状況を聞いたのは、少し落ちついてからだった。

「寝起きに眩暈（めまい）がして、そのさいに足を滑らせたとご本人は仰せでした」

「栄嬪の眩暈は、転倒を起こすほどにひどいものなのか？」

　そう問われると、単純に肯定はし難い。

　日常生活に支障が出るほどのひどい眩暈を抱える者は、一定数存在する。彼等はちょっと動いただけでぐるぐると視界が回り、さらに重症化すると寝ていても眩暈が治まらないのだという。

　客観的に見て、栄嬪の症状はそこまでひどくない。立ち上がった際にくらっとするぐらいで、立（た）ち眩（くら）みと言ったほうが適切なほどだ。厳しい言い方をすれば、本人が注意をしていれば転倒につながるほどのものではなかった。

「そこまでのものでは、ないと思います」

　夕宵の表情がさらに硬くなった。病が原因でないのなら、それこそ事件の可能性が高くなる。

「ですが妊娠中の女性は、常に転倒の危険を伴っております。気水が滞りやすく、子に滋養が取られるぶん血も不足しがちです。ゆえに眩暈や立ち眩みを起こしやすい。加えて腹部が出てきますと、どうして足元が見えにくくなります」

　翠珠の説明を聞く夕宵の表情が、心持ち柔らかくなっていた。事件ではなく事故の可能性が高いと知って安（あん）堵（ど）するのは、御史台の官吏でも同じらしい。

　どうやら納得したようだ。となれば、今度はこちらが尋ねる側である。

「なにか不審なことでも起きたのですか？」

　翠珠の問いに、夕宵は不意をつかれた顔をする。

「いや、それは……」

「一方的に訊（き）くだけなんて、ずるいですよ」

　翠珠の反撃に夕宵は気まずげな顔をする。しかし翠珠が折れずにいると、観念したように口を開いた。

「実は今回の転倒に人為的なものがないか調べるよう、呂貴妃から指示があった」

「呂貴妃様が？」

「本日参ったのはそのためだ」

　意外だった。関係を考えれば、栄嬪の災難に小躍りをしてもおかしくないのに。

　翠珠の内心を悟ったのか、横で高峻が苦笑する。

「皇后不在の後宮において、最上位の妃である叔母上には風紀を取り締まる義務があるんだよ」

　責任感が強いと言えばそうだが、河嬪の流産も含めてたがいに相手を疑っていることを考えると、おためごかしのようで気持ちが萎（な）える。

　夕宵はぬるくなった茶をがぶりと飲み干した。

「毒など使わなくても、人を転倒させることは簡単だ。単純に足をひっかければいいし、床に油をまいてもいい。そこまで露骨なことはしなくても、元々妃（ひ）嬪（ひん）が履く絹靴は滑りやすい。床を丁寧に磨き上げるだけでも転倒の誘因にはなるだろう」

「床を磨き上げたことが原因なら、それは事件ではなく過失ではありませんか」

　だとしても結果として栄嬪が転倒したのだから、掃除を担当した者は処分を免れないだろうが。

「それも含めて捜査をする。過失と故意では対応がまったく違ってくる。しかし妊婦の転倒が医学的に起こりやすい事であれば、それも前提に捜査をすべきだと考えている」

　そこで夕宵はいったん言葉を切り、高峻にむかって言った。

「いまから栄嬪のところに行って参ります」

「私も参ります」

　腰を浮かしかけた夕宵に、翠珠は彼よりも早く立ち上がった。夕宵は中腰のまま怪（け）訝（げん）な面持ちで翠珠を見上げた。

「夕宵、そうしてもらったほうがいい」

　高峻が言った。役職ではなく実の名で呼ぶあたり、思った以上に親しい関係のようだ。

「栄嬪の転倒の原因が妊婦故の特性であれば、それを判断するには御史台官より医師のほうが適任だ」

　翠珠が考えていたことを、高峻は端的に言葉にしてくれた。しかし夕宵は釈然としていない。

「……君は、そうとう変わっているな」

「はい？」

「御史台の仕事になど、普通の者はかかわりたがらないぞ」

「かかわりたくはないです」

　正直に告げると、夕宵は表情をひきつらせた。高峻は茶杯を持ったままなんとも微妙な面持ちを浮かべている。

　御史台は社会にとって必要な組織で、そこで働く人達には敬意を抱いている。しかし人を捕縛し、その罪をあきらかにする仕事に普通の人間がかかわりたいと思うはずがない。

「ですが医者として、病がかかわることを放ってはおけません」

　きっぱりとした口調に、夕宵は少し身じろぐ。

　偉そうなことを言ったが、少し前の翠珠であればおそらく名乗りでなかった。未熟な研修医の自分に、さしたることができるとは思わなかったからだ。

　けれど呂貴妃の異変を見つけたことが、無意識の大きな自信となっていた。その自信が翠珠に、多少煙たがられようと患者の苦痛が減るのなら、勇気を持って進言すべきだという考えを与えていたのだ。

　いっぽう夕宵は、どうだろうというように高峻を見る。高峻は茶杯を戻し、じっと翠珠を見上げる。その眼（まな）差（ざ）しがなにかを懐かしむように和らぐ。

「君は、よき杏（きよう）林（りん）になりそうだ」

　翠珠は頰を赤くした。杏林とは医師への美称である。

　高峻が夕宵のほうを見て、促すように首を揺らした。夕宵はその表情に困惑を残したまま、しぶしぶ立ち上がった。

「分かった。では李医官に同行をお願いする」

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第1巻の増量試し読みは以上となります。

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