第二話 女子医官、休日を得る①

「それで栄嬪も子供も無事だったのね」

 卓上に幾皿も並べた豪華な料理のむこうで、露骨につまらなそうに鈴娘は言った。悪意もここまで堂々と言われると、むしろすがすがしいほどだ。

 午睡から目覚めた栄嬪が、寝椅子から立ち上がろうとした瞬間に足を滑らせたのは一昨日おとといのことだった。

 地響きが聞こえるほどに派手な転倒だったらしいが、幸いにして母体にも胎児にも影響はなかった。ちなみにあのあと紫霞はすぐに戻ってきて、翠珠を連れて芙蓉殿に走った。

 事のてんまつは瞬く間に広がり、薔薇殿をたまわじゆんひんはあからさまに舌を鳴らし、木蓮殿に部屋住みをしているしようの一人などは、ぬか喜びだったと床をり飛ばしたという噂だった。

 ちなみに河嬪が流産をしたときは、ほとんどの妃嬪・侍妾がおおいに同情していたという話である。翠珠はまだ会わせてもらえていない河嬪だが、医官達の誰にいても、朗らかで優しい女人であったと答える。高慢で感情的、かつ底意地が悪いとの評価で一致している栄嬪とは正反対である。

(そういえば呂貴妃様も、河嬪様のところには見舞いを届けたらしいものね)

 馬薬舗で鈴娘が口走っていたことを思いだした。

 数日しかたっていないのに、はるか昔の出来事のように思う。あの時は内廷勤務になるなど夢にも考えてもいなかった。まして最上位の妃の殿に呼ばれて、食事をごちそうになろうとは。

 半こく程前になるだろうか。杏花舎で仕事をこなしていると、呂貴妃担当のとうたいから芍薬殿への招待の旨を伝えられた。翠珠の母親程の年齢の冬大士は、呂貴妃の誤解を解いてくれたことに、これといった屈託もなく素直に感謝の意を述べた。

 ちなみに紫霞からは、呂貴妃に自分のことは話さないようにくぎを刺されている。指導医がいることは承知しているだろうが、栄嬪の担当だと知られるとややこしくなるからというのが理由だった。

 気乗りはしなかったが、招待されたとあってはしかたがない。しぶしぶ芍薬殿を訪ねると、まずは呂貴妃が居住する正房に招き入れられた。

 数日振りに再会した呂貴妃の姿に、翠珠は驚かされた。

 まんじゆしやの花を織りだしたおおそでさんをまとった姿は、以前と変わらぬ威容を備えていたが、触れると火傷やけどをしそうなぴりぴりとした雰囲気はずいぶんと和らいでいた。

「李少士。そなたのおかげで私は快癒を得た。礼を言うぞ」

 驚くほど素直に感謝の意を示されて、拍子抜けする。

 そのあと診断に至った経緯を色々と訊かれたが、紫霞の名は言わずに東六殿の医官達に論議してもらったと説明をした。そののちしようぼうの一室に連れていかれ、鈴娘の給仕でいまに至っている。

 小皿に取り分けてもらった茄子なすと豚肉のいため物は、っぺたが落ちるほどに美味おいしかった。ひき肉と野菜をこねて作ったあんを、小麦の薄皮で包んだ揚げ物もぱりっとしていて舌鼓を打つ。

「美味しいです」

 素直に感想を告げると、鈴娘は得意げな顔をする。悪い人ではないのだが、いかんせん率直すぎる。いくら嫌いだからといって、皇帝のちようの不幸を願うような発言を躊躇ためらいもなく口にすべきではない。

「遠慮しないで、もっと食べなさいよ」

「いや、もうおなかいっぱいですよ」

「じゃあ詰めさせるから、持ちかえりなさい」

「そうさせていただければ、助かります」

 料理はまちがいなく絶品だが、さすがに量が多い。しかしこの季節の食べ物は日持ちしないから、杏花舎に戻ったら医官達におすそ分けをしようと思った。

 鈴娘より少し地位が低そうな女官が、料理を詰めはじめる。

 食事を終えて鈴娘がれてくれた茶をすすっていると、隣室との間仕切りを抜けて夕宵が入ってきた。つい最近まで呂貴妃から面会を拒絶されていた彼の姿を見て、翠珠はまゆを開いた。

「鄭御史、呂貴妃様のご勘気が解けたのですね」

 開口一番としてはいかがなものかと思う言葉に、夕宵は顔をしかめた。その彼の後ろから、もう一人別の男性が姿を見せた。

 初対面のその人は、夕宵に負けず劣らずの美形だった。

 歳の頃は三十を少し越したくらい。長身そうで、気品に満ちた端整な顔立ちの人物だった。しかも彼が身に着けた交領大袖蘇芳すおういろほうは、高官の官服である。

「君が李少士かい?」

 穏やかな口調で問われ、かえって翠珠は緊張する。それでなくともたいていの女性の目をくぎけにするほどの美男子だ。

「あ、あの……」

「さようでございます。しようきよう

 ぎこちない態度を見兼ねたのか、代わって夕宵が返事をする。その姓に翠珠ははっとする。

「え、では呂貴妃様の?」

おいだよ。呂こうしゆんだ」

 翠珠は椅子から立ち上がりかけた。呂貴妃との縁故でなかったとしても、大理寺の次官だ。座ったままあいさつをしてよい相手ではない。しかし高峻はやんわりと「そのままで」と言って、翠珠を座らせたままにした。

「このたびはたいそう世話になったようだね。上の容態も安定し、私の後輩へのご勘気も解けて安心しているよ。本当にありがとう。かねてより礼を伝えたいと思っていたのだが、偶然にも居合わせていると聞いたので訪ねたんだ」

「そんな、もったいない……」

 人品のよさがにじみでた丁寧な物言いだった。貴顕とは、まさにこういう人のことをいうのだろう。

「お二人とも、どうぞおかけください」

 鈴娘は、かれに椅子をすすめた。見ると彼女も頰を赤くしている。若い夕宵には強気でも、年回りが近い高峻にはしおらしい。

 夕宵と高峻は、翠珠の向かいに並んで席を取った。鈴娘が手際よく茶を淹れ、二人に差しだした。翠珠が飲んでいるものと同じ、色の薄いしろちやである。茶葉を微発酵させたもので、熱を取る作用があるのでこの季節にはふさわしい。

 夕宵は一口含んだあと、高峻に話しかけた。

「呂少卿にご一緒していただくと、内廷への入場が簡便で助かります」

「私とて融通が利くのは、芍薬殿だけだ」

「まったく捜査を外廷に任せるのなら、もう少し手続きを簡単にしてもらいたいものです。かつては外廷の者はほとんど出入りできなかったというから、そのときに比べたらだいぶんましなんでしょうけど」

あんなんごく以降か。確かに二十年も経つと考えれば、もう少し合理的に動いて欲しい部分はあるな」

 しきりにぼやく夕宵に、高峻は苦笑交じりに同意をした。気の置けない関係。仲の良い兄弟のようなやり取りだった。温厚な兄と、ちょっと気の強い弟といったところか。

「安南の獄って、皇后様が亡くなられたという?」

 翠珠の問いに、高峻は少し驚いた顔をした。

「君ぐらいの若者でも知っているのか?」

「詳しくは存じませんが、内廷での太監の影響力を失墜させた事件だとうかがっております」

 まだ生まれていなかった翠珠はもちろん、せいぜい三、四歳だった夕宵も記憶はないだろう。

 安南の獄とは、今上の皇后を自死にと追いやった事件である。

 今上が即位してまもない頃、第一皇子の母・賢妃の食事への毒物混入が発覚した。

 当時皇帝は、まだ皇后を立てていなかったが、候補は二人いた。一人は第一皇子の母・賢妃。もう一人は皇帝のちようあいを独占していた淑妃である。ちなみにこの頃の呂貴妃は入宮したばかりで子もおらず、まだ若いひんに過ぎなかった。

 当時、後宮で起きた事件の捜査権は、太監で構成される内廷警吏局にあった。

 捜査の結果は、淑妃を追い落とすための賢妃の自作自演というものだった。これを賢妃は否定し、抗議のための自死を選んだ。

 しかしその後、事件は御史台の再捜査により意外な結末を迎える。

 淑妃をはじめとした他二妃が、捜査権を持つ太監を操って賢妃のえんざいをでっちあげていたのである。

 皇帝は激怒し、三妃を廃した上で全員に死を賜った。冤罪の主導をした警吏局長の太監はりよう刑に処せられ、共犯の太監達にも酷刑が科せられた。いっぽうで賢妃は皇后に追贈され、遺児である第一皇子は立太子された。いまの皇太子がそれである。

 後宮の人員を半分に減らしたとまで言われるこの大事件以降、太監による内廷警吏局は御史台の管轄下に置かれるようになり、扱う事件は窃盗やけん等の軽犯罪のみとなった。事実上の解体で、重大事件が起きたときは外廷から御史台が介入するようになっていたのだ。

「叔母上は、安南の獄を目の当たりにしておられる。ゆえに毒物にかんしてはどうしても神経質になってしまわれる。そのご気性ゆえに、ご自身も周りも病に気づかなかったのだろう」

 そこで高峻はいったん言葉を切り、空になった茶杯をゆらりと揺らした。

 鈴娘が新しい茶を注いだ。高峻は優雅な所作で茶杯を傾け、そのまま上目遣いに鈴娘を見た。すると鈴娘はなにかを察したように、料理を詰めさせた女官とともに部屋を出ていった。

 事の次第がつかめぬ翠珠に、夕宵が急に表情を硬くして尋ねた。

「栄嬪の転倒に、事件性はないか?」

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