第一話 女子医官、配転を命ぜられる⑪

 はっきりと翠珠は言った。指導医の意見に真っ向から歯向かうという、なかなかの無礼に対して紫霞は顔色ひとつ変えない。そうだろう。むしろ彼女は翠珠を誘導かつ挑発しているのだから、この反応は望むところにちがいない。もっとも意気込んだ翠珠はそんなことに気づく余裕はなかったのだが。

「私は再発などではなく、呂貴妃様はなにか別の病を発症、あるいは併発しているものと考えています」

「だとしたら、その根拠は?」

 核心に切りこまれ、翠珠は言葉をくす。それが答えられるのなら、こうして紫霞に相談していない。

 答えられずにいる翠珠に、紫霞はおおな所作で首を横に振った。

「それだけでは、まだ確定できないわ」

「ですが……」

「なにをあきらめているの。ここまで押し切ったのだから、本当はもっといろいろと診てきたはずでしょう」

 いよいよ翠珠は追いつめられる。

 分かっている。なにかあるはずだ。あれだけじっと診ていたのだから必ず。

 診断の切っ掛けとなるもの、あるいは不調の原因となる異変を見たはずなのだ。それを見落としているのか、たいしたものではないと考えてしまっているのか。

「……李少士?」

 ここまでずっと黙って様子を見守っていた夕宵が、心配そうに声をかける。しかし翠珠に答える余裕はない。神経を集中させ、呂貴妃と対面したときの光景を脳内に再現するのに精一杯だった。

 考えろ。呂貴妃はどのように振舞っていた。どんな話し方だったか。どんないで立ちだったか──襟の詰まったいろおおそでさんは見るからに暑そうで、実際に呂貴妃はけっこうな汗をかいていた。柘榴ざくろを縫いとった絹団扇うちわを手にしていたが、あんな上品なものではあおいだところで焼け石に水だろう。

 そのとき、のうにぱっとそのときの光景がよみがえった。

「団扇!?」

 翠珠は声をあげた。

 目を円くする夕宵を無視して、翠珠は紫霞に詰め寄った。

「団扇が揺れていました」

「それはしんせん(無意識の震え)?」

「おそらく」

 翠珠は大きくうなずく。神経質な性格から、いらついてのものだと思いこんでしまっていた。けれど、あれが病的なものだったとしたら──。

 翠珠の訴えを受けて、紫霞はなにかを勘定するように一本一本指を折る。

「極度の精神不安。動悸。息切れ。易疲労。発汗がひどく、振戦がある。ねえ、震えていたのは団扇を持ったほうの手だけだったの? それとも両手?」

 あらためて告げられた数々の症状が、箇条書きにしたように頭に浮かぶ。すると学生時代に書物で読んだ、そして実家の医院でも聞いた覚えのある病名がよみがえった。

「──えいびよう(バセドウ病)」

 息を吐くように告げた翠珠の診断に、紫霞は満足げにうなずいた。その傍らで夕宵が、訳が分からぬ表情で二人を見比べていた。



 おいである呂少卿の説得を受けて、呂貴妃は宮廷医局の診察を受けた。

 予想通り癭病の診断が下り、担当医官は、心肝の熱を冷ますせいねつの処方を試み、気を静めるためのはり治療を施術した。

 その結果、数日で症状の緩和が見られるようになった。これにより呂貴妃は宮廷医局への不審を解き、ふたたび治療を受けるようになったということだった。

 杏花舎の作業台で、翠珠は癭病にかんする書物をひもいていた。

 癭病とは中高年の女性に発症しやすい病で、その主症状は多汗、易疲労、動悸、精神不安、不眠、るいそうせ)等々多岐にわたる。その中で一側性の手の震えは、わりと特徴的な症状だった。だというのに神経質な性格のせいにして、あまり気にしていなかったのだから医師として情けなさすぎる。

 ちなみに震え以外の症状は、けつによって起こる婦人科系の症状と重なるものが多いので、実はこの二つの病の診断を誤ることは珍しくはなかった。

 ただし呂貴妃の場合、瘀血の状態にはまちがいなくあり、それは桂枝茯苓丸により改善した。しかしその頃に癭病を発症し、瘀血が悪化したものと勘違いをしてしまったのだ。

 だが桂枝茯苓丸を服用しても改善しない。あたり前だ。病がちがう。

 その頃に再診を受けていれば、癭病は早期発見されていただろう。

 しかし同じ頃に、河嬪の不幸な流産が起きた。いまは事故と結論付けられたが、当初は毒による事件性が疑われていた。

 そこから呂貴妃は、自身の症状が改善しないのは毒によるものと疑念を抱いた。それゆえ医官達を疑い、診療と投薬を拒否したのである。そして外部から薬を求めるようになった。

 しかし処方があっていないのだから、いくら服用したとて改善するはずがない。医師の立場からすれば、数日服用してもまったく変化が見られぬなら薬があわぬとして相談して欲しいのだが、不幸なことに呂貴妃はますます毒にかんする疑心暗鬼を深めていった。もっともその精神不安もいまになって考えれば、瘀血や癭病の影響もあったのかもしれないが。

「癭病か……」

 翠珠は本を閉じた。

 紫霞の誘導尋問のような形だったが、翠珠はついにその診断を導き出した。あれは気持ちが良かった。

「こんな経験もできるんだな」

 あれだけ不満を抱いていた内廷勤務に、ようやく光明をいだした気がした。

 間近のすなどけいに目をむけると、もうそろそろ砂が落ちきりそうである。翠珠は立ち上がり、せんじ薬を煮ている炉まで歩いていった。

 かんふたを外すと、もうもうと蒸気が立ちのぼってくる。瞬く間に額に汗がにじむ。湿度の高いこの季節の煎じ薬作りは、なかなかへきえきする作業である。しかし真夏になればもっとつらいから、この程度で不平など言っていられない。

 蒸気が静まってから中を見ると、薬はよい具合に煮詰まっている。

 炉の火を消したあと、熱いうちに麻布を使ってす。そうしないと生薬に成分が再吸収されかねない。

 一連の作業を終えて、ほっと一息ついたときだった。

 開け放したままの扉から、女官が一人飛び込んできた。芙蓉殿の、栄嬪付きの女官だった。内廷勤務も数日すぎれば、さすがに顔は覚えている。

 彼女はひどく焦った様子で、室内を見回した。

「晏中士は?」

「あ、ちょっと席を外しています。すぐに戻ってくると思いますが」

「すぐに呼んできて!」

 女官は叫んだ。鬼気迫る面容に、翠珠はされかける。

 そう言われても、どこに行ったのか分からない。近頃はどの程度の能力なのか認識してもらえたようで、案件によっては一人で任されるようになっていた。おかげで最初の頃のように、四六時中一緒にいるということはなくなっていた。

 離れるときは、基本行き先は教えてくれるのだが、そういえば今回は「ちょっと」とだけ言って出ていった。

 困惑する翠珠の腕を、女官はがっとつかんで叫んだ。

「栄嬪さまが、転倒なさったのよ」


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