第一話 女子医官、配転を命ぜられる⑩


 翠珠が杏花舎に戻ってきたのとほぼ同時に、紫霞が戻ってきた。おかげで不在を心配させずにすんだのは幸いだった。

 しかし見知らぬ御史台の官吏を連れてきたのだから、別の理由で心配させた。内廷に慣れぬ翠珠が、なにか不始末でもしでかしたのかと思ったらしい。

 ともかく凡事ではないと判断した紫霞は、話しあう場所をひと目のある詰所から客間に移した。

「いったい、どういうことなの?」

 翠珠と夕宵の顔を見比べ、不審げに紫霞は問う。客間には長卓と四脚の椅子がしつらえてあったが、誰も腰を下ろさなかった。

「晏中士、実は……」

 馬薬舗での騒動を含めて、ここまでの一連の事情を説明しはじめると、紫霞はその美しい顔をみるみる内にしかめていった。そうして話を聞き終えたあとは、地の底から上がってきたようなため息をついた。

「あなたは西六殿に配属されたのよ」

 その一言に、紫霞のゆううつや懸念がすべて凝縮されていた。

 管轄外の診療にかかわっては、そちらの担当医官とのあつれきを起こしかねない。よしんば医師同士ということで事情をんでもらえたとしても、ただでさえさいしんが強い呂貴妃が、栄嬪を担当している紫霞の診療を受けるとはとうてい思えない。そもそも栄嬪に知られでもしたらと想像するだけでぞっとする。

 とはいえ翠珠にも、あの場で鈴娘の誘いを断ることなどできなかった。なぜならあれは誘いなどではなく命令だったからだ。

「申し訳ありません」

「しかたがないわ。呂貴妃様もそのつもりで、あなたを強引に配置換えしたのでしょうから」

 翠珠の謝罪とやるせない事情を、紫霞はあっさりと受けいれた。長く内廷勤めをしているだけあって、理不尽を受け入れる能力は翠珠より高いようだ。

「晏中士。東六殿の医官の方にお話しいただけませんか。呂貴妃様のご容態のことをお伝えしたいのです」

「受け入れるわけがないでしょう」

 けんもほろろに紫霞は言った。最初は東六殿の医官達がかと思ったが、少しして呂貴妃のことだと気づく。指摘されてみれば、確かにそうだ。呂貴妃は宮廷医局全体に不審を抱いている。だからこんな強引な方法で、医療院にいた翠珠を内廷勤務にしたのだ。その呂貴妃が簡単に東六殿の医官達の再診を受けるはずがない。

 二人のやりとりを聞いていた夕宵が、おもむろに口を挟む。

「では、私の上司に口利きを頼んでみよう」

 予想外の提案に翠珠は驚く。

「鄭御史の上司?」

「といっても前の上司で、いまはだい(裁判所のような所)でしようきよう(次官)を務めておいでだ。実は呂貴妃にはおいにあたる方なのだ」

おい様?」

「年はまだお若いが、優秀で公明な方なので貴妃も信用なされている。しかもお二人は同じやしきで、実の姉弟きようだいのようになかむつまじくお育ちになられたと聞いている。身内の進言ならお聞きいただけるかもしれない」

 疑心暗鬼にすっかりさいなまれていたあの呂貴妃に、そんな人物がいたとは想像もしていなかった。

「そんな方がいらっしゃるのなら──」

「御史台の方が、なぜそこまで貴妃様の受診に熱心なのですか」

 ほっとする翠珠の気持ちに水をさす、冷ややかな紫霞の声が響いた。翠珠はぎくりとしたが、夕宵はひるまずに応じた。

「病であることがあきらかになれば、毒物がないことを証明できるでしょう」

 翠珠に対するより丁寧な言葉遣いになったのは、紫霞が年上だからだろう。そういえば鈴娘に対してもそうだった。あるいは多少は紫霞のぼうも関係しているのかもしれない。男女関係なく、彼女の容姿は初対面の相手を軽く威圧する。

「逆にそうではなかったとしたら、私達御史台官は毒物混入を念頭に捜査をしなければなりません」

 ないものをないと証明するのは、本来であれば至難の業だ。しかし病と証明できれば可能となる。つまり翠珠の判断が正しければ、毒の有無にかんする御史台の疑念が晴れるのである。

「貴妃の不調が病なのか、あるいはなんらかの作為があるのか。御史台の官吏として私が知りたいことは真実だけです」

 夕宵の説明に、紫霞はしばらくうつむいて沈思していた。だが、やがて腹をくくったとばかりに顔をあげる。

「分かりました。では呂貴妃様が診察を受けることを説得いただけたら、東六殿の担当医官には、私が事情を説明しましょう」

「かたじけない」

 ほっとした顔の夕宵につづき、翠珠も頭を下げる。

「晏中士。ご迷惑をおかけします」

びる前にすることがあるでしょう」

「はい?」

「呂貴妃様の状態はどうなの? なにをもってあなたは彼女に異変があると判断したのか、それを教えてくれなければ東六殿に説明ができないわ」

 もっともな言い分である。

「私が見たかぎり──」

 翠珠は切りだした。

「呂貴妃様は、かなり激しやすくなっておられるようです。加えてろう(疲れやすいこと)が顕著で、多量に汗をかいておられました。息切れやどうが頻繁に起こるとも仰せでした」

「その激しやすさは、もともとの性格のせいではないの?」

「私は以前の気質を存じ上げませんので、そこはなんとも申せません。ですがそれが本来の性格であれば、患者は不調を訴えることはせぬと思います。けれど呂貴妃様は不調を訴えられた。健康なときに比べ、自身の容態に違和感があったからでしょう。そうなると感情の起伏の激しさも不調が原因なのかもしれません」

 そこで翠珠がいったん言葉を切ると、あとを受け継ぐように紫霞が語る。

「そうよ。血の巡りの悪さは、時として精神不安をきたしやすい。だから桂枝茯苓丸が処方されたのよ。そしてそれは効果を示した。けれどなぜか再発してしまい、また不調となった」

「……再発」

「ちがうの?」

 やけに挑発的に紫霞は言った。翠珠はくちもとに手をあてて思案する。

 はたして再発なのだろうか? 確かに呂貴妃の症状は、血の巡りの悪さによるものに類似している。

 ならば、なぜ桂枝茯苓丸が効かなくなったのか?

 確かに病そのものは変わらずとも、本人の体質が変わったことで以前の処方が効きにくくなることはある。しかし患者本人や周りが、毒を盛られたと疑うほどに悪化することがあるだろうか。

 もちろん疑心暗鬼になっている呂貴妃が、過剰に心配しているだけという可能性もある。けれどその疑心暗鬼、並びに激しやすさなどの精神的な不安定も、病故だと考えたとしたら。

「いいえ。私はそう思いません」

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