第一話 女子医官、配転を命ぜられる⑨

「君は確か……」

 とうぜんだが、むこうもばっちり覚えていた。

 翠珠はへきえきした。よりによって芍薬殿ここで、面倒な相手に会ってしまった。馬薬舗で呂貴妃への嫌疑を晴らしたことに、妙なつながりを勘繰られたら厄介である。

「先日はお騒がせいたしました」

 皮肉のようにも聞こえるが、他に言いようがない。どう受け止めたのか夕宵は気まずげな顔をし、しかしゆっくりと首を横に振った。

「いや、むしろ助かった」

 意外な答えに翠珠は目をしばたたかせる。そういえば河嬪の流産が事故と結論付けられたのは、夕宵が翠珠の意見を取り入れてくれたからかと考えた。

(そのことを言ったの?)

 助かった、と。だとしたら最初の印象よりも謙虚で、かつ公正な人なのかもしれない。鈴娘や安倫公主の高慢な言動を目の当たりにした直後だけに、なおさら思う。

 取次ぎを求めて門内に入っていた太監が、別の太監を伴って戻ってきた。二人が着用している官服は、色合いと意匠が少し異なっていた。

「鄭御史。呂貴妃様はただいまお休み中でお会いできないと」

 え? と声を上げそうになった。そんな馬鹿な。翠珠とは、つい先程話したばかりではないか。

「またか。よほど嫌われたとみえるな」

「あ、そういうことですか」

 うっかり口を滑らせると、夕宵はむっとした。失言だったと翠珠はあわてたが、夕宵は小さく肩を落としただけで、とやかく追究してはこなかった。

 新しくやってきた二人目の太監が、遠慮がちに言う。

「申し訳ございません。しばらくは何度足を運ばれても、同じことかと」

 中にいるときは気づかなかったが、こちらの太監は芍薬殿付きの者のようだ。

 呂貴妃の拒絶は、おそらく先日の馬薬舗での騒動が尾を引いているのだろう。話をしたのは鈴娘だろうが、彼女の気質とあのときの状況を鑑みれば、夕宵のことをよく伝えているはずがない。

「外廷の方がこちらにお越しになられるのは、なにかと手続きが大変でしょう。御気色を見計らって、私のほうから時宜をお知らせいたしましょうか?」

「気遣いには感謝するが、それではあまり意味がない。具合が悪くなられたという話を聞いたので、なにか不審な点がないかを調査しにきたのだから。可能なかぎり時間をおかずに状況を確認したいのだ」

 夕宵の答えに、翠珠は納得した。

 やはり彼はこういう人なのだ。馬薬舗での強引とも取れる捜査も、別に呂貴妃を侮っていたわけではなく、御史台官としての責務を果たしただけだったのだ。

 ゆえに同じ理由で、呂貴妃の様子を確認にきた。相手がひんでもそんたくをしないように、ちようらくした妃嬪でも粗略に扱うような真似はしない。

「それならば、ご心配には及びません」

 翠珠は口を挟んだ。

「私は先程、呂貴妃さまにお会いして、方剤を確認してまいりました。毒などひとかけらも含まれておりませんでした」

「薬にはな」

 すかさず夕宵は返した。

「薬よりも、むしろ食事のほうが危ない」

「食事は大丈夫です。なにしろ調理は芍薬殿内でしておりますから」

 芍薬殿付きの太監は主張するが、食材そのものが危険な場合の弁明にはならない。

「あなた達を疑っているわけではない。しかしその疑念があることを、もう一度呂貴妃様に伝えてきてくれぬか」

「かしこまりました」

 夕宵の要請を受けて、太監はふたたび門内に入って行った。彼の背中を見送る夕宵の横顔には、懸念の色が濃くにじんでいた。呂貴妃を心から心配している者でなければこんな顔はしない。

 どうしようかという迷いが、この人になら言ってもよいのかもしれないという期待に変わる。そう思ったら、すでに口をついていた。

「呂貴妃様は、なにか患っておいでなのかもしれません」

 夕宵は背中を一突きされたように、翠珠のほうを向いた。

「患うとは、病か?」

「そうです」

「なんの病だ」

「それは分かりません」

 からかっているのかと言わんばかりに夕宵はまゆをひそめた。そんな顔をされたってしかたがない。こっちは研修中の身だ。指導医の助けを借りずに、診断などができるはずがない。

 だが呂貴妃をひと目見たときから、その異変は気になっていた。だから話している間中も、ずっと診ていた。彼女の訴えのみならず、見た目、話し方、息遣いを注意深く観察した。

 けれど依頼もされていないのに、それを本人に告げることには躊躇ためらいがあった。研修医という未熟な立場もあるし、そもそも自分の能力ではまだ診断が下せないという引け目もある。

 けれどこのまま不調に悩まされ、疑心暗鬼を深めていくであろう呂貴妃のことを思うと胸が痛む。そして夕宵の誠実さを目の当たりにしたことで、翠珠は彼に相談をする気持ちで訴えた。

「彼女の不調は、病のためだと思います」

 夕宵はまじまじと翠珠を見下ろしていた。

 まともな役人であれば、翠珠のように若く経験も浅い医官の言い分をみにしない。それでよいのだ。御史台の官吏がそんなに安易では、刑事事件の捜査などとうてい任せられない。

 しかし相手の境遇を理由にはなから話を聞くことすらしないのは、これもまた御史台の官吏として失格である。刑事事件の捜査は、身分、職業、年齢、性別のあらゆる先入観をなくして行われなければ、真実がゆがめられかねない。

 果たしてこの人は、どう応じるのか。

「では、どうしたらよい?」

 夕宵の返答に、翠珠は眉を開いた。

「杏花舎まで、おでいただけますか」

 翠珠は提案した。

「私が診てきたことを、指導医に話します。そのうえで私ではなく彼女の診断を仰ぐべきかと存じます」

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