第一話 女子医官、配転を命ぜられる⑧



「李少士、楽にせよ」

 頭上から響いた声に、御前にひざまずいていた翠珠はゆるゆると立ち上がった。

 芍薬殿のあるじ・呂貴妃は、炎のようにれつな威容を備えた佳人であった。

 彫の深い整った面差しに、くっきりと濃い化粧が映える。いろの絹に深緑色の糸で吉祥文様を縫いとった、襟の詰まったおおそでさん。高く結い上げたまげの両側には、せいな金細工のかんざしを挿し、細い金鎖と小粒のすいを使ったようが顔の横で揺らぐ。

 蒸し暑い室内でのきっちりとした衣装のせいか、こめかみのあたりにうっすらと汗がにじんでいた。柘榴ざくろの花をしゆうした絹団扇うちわを胸の下で小刻みに震わせているさまが、見る人にかんしような印象を与える。

 呂貴妃は品定めでもするように頭からつま先までゆっくりと翠珠を凝視し、ようやく口を開く。

「先日はそなたが、御史台の私への誤解を解いてくれたそうだな」

「さようにおおなことではございません。ただ鄭御史の主張には、医学的にあきらかな矛盾がございましたので、医官として指摘させていただきました」

「頼もしい」

 ぱちりと音をたてて碁石を置く。そんな響きを持つ声だった。

 身構える翠珠の耳に、別の幼い声が響いた。

「あなた、どうかお母さまを助けてちょうだい」

 やぶからぼうな要求をしたのは、薄紅色のおうくんをつけた小柄な少女だった。

 十三、四歳あたりだろうか。誰よりも呂貴妃の近くにいたので、女官達の陰にかくれていて存在に気がつかなかった。

あんりん公主様、ご心配召されますな。この医官は信頼できますから」

 女官はれんな公主をなだめるが、あまりにも一方的な展開に翠珠は戸惑うばかりである。公主というのはみかどの娘に対する称号だから、この少女は呂貴妃の娘だろう。そういえば呂貴妃には、皇子と皇女が一人ずついると聞いていた。

 それにしても〝助けて〟などと、穏やかではない。

「私はまだ二年目の研修医ですので、ご希望には添えぬやもしれませぬ」

「そんな大変なことは頼まないわ。この方剤が、正しく調合されているかを確認して欲しいだけよ」

 ざるを持って近づいてきたのは鈴娘だった。中にはせんじる前の方剤が入っていた。

「ひょっとして、桂枝茯苓丸ですか?」

「分かるのか?」

 おっ、とばかりに呂貴妃は目を見開くが、翠珠は首を横に振った。

「そうではありません。馬薬舗で牡丹皮を求めていらしたことと、そこで蘇女官からお聞きした症状で、なんとなくそうではないかと──」

 噓である。呂貴妃が桂枝茯苓丸を服用していたことは、紫霞から聞いていた。

 しかし呂貴妃がどうやら宮廷医局に不審を抱いているらしいことを考えると、ここでは言わない方が無難に思えたのだ。

 鈴娘はたんの円卓の上に笊を置いた。歩み寄った翠珠は、あらためて尋ねた。

「こちらは、杏花舎で調合したものですか?」

「そうよ。今朝、医官が持ってきたわ」

 宮廷医局では栄嬪にしたように、煎じたものを提供することが多い。薬を煎じることそのものは難しくないが、弱火で長時間かけて煮出さなければならぬので、各殿でしてもらうには手間がかかるからだ。しかしそれをせずに、あえて方剤の状態で持ってこさせたということは──。

「だから念のために、あなたに確認してもらおうと思ったの」

 悪びれるどころか遠慮したふうもない鈴娘の傲慢さには、なんとなく憎めないところも含めてもはやおそれ入る。

 なるほど。呂貴妃が宮廷医局からの診察や投薬を拒否していたのは、つまりそういうことだったのだ。

 切っ掛けは分からぬが、呂貴妃は宮廷医局に不審を抱くようになった。そして提供される薬を拒み、外で買い求めるようになった。

 しかし今回の一件で、薬を手に入れるのに宮廷医局を頼らざるを得なくなった。

 妙なものが混入されないように、煎じる前の状態で持参させて、その確認をこれまで宮廷とは縁のなかった翠珠に委ねようと考えたわけだ。

(ていうか、そのためだけに私って配置換えされたの?)

 あまりの自己都合に怒りさえこみあげてくるが、貴妃がそう命じたのなら甘受するしかない。気が乗らないまま方剤を確認する。あんのじょうというかとうぜんというかかんぺきな桂枝茯苓丸で、毒物になるものなどなにひとつ入っていなかった。

「ご心配いらぬものと存じます」

 呂貴妃は少しだけ表情を和らげたが、それはすぐに険しいものに戻る。

「河嬪を流産させた犯人が捕まるまで、かつなものは口に出来ぬ」

 呂貴妃は吐き捨てた。強く握りしめた絹団扇が、また震えていた。

「河嬪様の流産は事故だと、御史台は結論付けたとお聞きしましたが」

「信頼できるか」

 いらちをあらわにして呂貴妃は言った。険のある物言いに翠珠は耳を研ぎ澄ます。

 姿形のみならず声にも、さいなことにも神経をとがらせる癇性な性格が如実に現れている。

「きっと栄嬪が仕組んだのでしょう。同じ西六殿同士、毒物を仕込むこともたやすいはず」

 あおるように鈴娘が言った。実は栄嬪も同じく呂貴妃を疑っていたと教えたら、どんな顔をするだろう。好奇心で片づけるには悪質な考えがひょいと浮かんだが、さすがに実行する勇気はない。

「その頃から、私の不調もはじまった」

 絞り出すように呂貴妃が吐露した言葉に、やはりそうかとに落ちた。

 時系列が複雑だが、紫霞の説明と併せて鑑みるに、こういうことだろう。

 当初は宮廷医が処方した、桂枝茯苓丸の服用で不調の改善がみられていた。

 しかし河嬪の流産と同時期から、ふたたび症状に悩まされるようになった。河嬪の流産には不自然な点が多く、当初から人為的な要因が疑われていた。それゆえ呂貴妃は、自分の薬にもなにかの毒物が混入されたのではと考えたのだ。

 要するに呂貴妃は、自身の不調と河嬪の流産に、栄嬪と宮廷医局の共謀を疑っているのだ。

「栄嬪なんて、天罰が下ればいい!」

 それまで黙っていた安倫公主が叫んだ。

「たかだかひんの分際で、貴妃であるお母さまを事あるごとにないがしろにするような高慢な女よ。いったいなぜお父様は、あんなずうずうしい女を特別扱いするの」

 娘として母を思いやっての発言だろうが、高慢という点ではどっちもどっちだ。

 栄嬪をかばう気は毛頭ないが、彼女の位が低いのは、年若く入宮してまだ間がないからだ。後ろ盾や帝のちようあいを鑑みても、出産を無事に終えたらまちがいなく妃の位を賜るだろうと噂されている。

 その一方で年端もいかない少女にここまで言わせるのだから、栄嬪のふるまいはそうとう目に余るものがあったのだろう。

「落ちつきなさい、公主」

 呂貴妃がなだめる。そのまなしには母の慈愛が満ちている。きっと仲の良い母娘おやこなのだろう。しかし若年の安倫公主の高慢な発言に対して一言のとがめもないのは、親としていかがなものかとは思う。

「他にご用件はございませんでしょうか?」

 公主が落ちついたのを見計らい、翠珠はえんきよくに退出を願い出た。方剤の確認は終わっているので、もう用はないはずだ。いやおうなく連れてこられて言付ける間もなかったので、紫霞が杏花殿に戻っていたらさぞかし心配しているだろう。

 はたしてそれは許可されてあんしたのだが、見送りについてきた鈴娘に「また、お願いするわね」と当然のように言われたときは、たちどころに気が重くなった。



 芍薬殿の門を出たとき、見知った顔と鉢合わせした。

 夕宵だった。案内役とおぼしき太監に先導されて、宮道を歩いてきていた。

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