第一話 女子医官、配転を命ぜられる⑦


「呂貴妃様は、どこか患っておられるのですか?」

 芙蓉殿を出るや否や、すぐに翠珠は尋ねた。

 西六殿の宮道は石畳で整備されている。きちんと掃き清められた路面に、どこから飛んできたのか赤い花びらが一片舞い落ちた。

 紫霞は足を止めた。

「栄嬪様の悪口じゃなくて、そっちなの?」

 意外そうに言われて、翠珠はちょっと驚いた。栄嬪の横暴を前にこれといった反応を示さなかった紫霞だが、内心ではやはり不服に思っていたのか。

(そりゃ、普通の神経ならそうなるか)

 なんとなくだけど、ほっとした。表に出すか否かは別として、あの横暴になんの不満も抱かないでいることが宮仕えなら、神経が参ってしまうと思ったからだ。

「栄嬪様の件にかんしては、お相手をした晏中士がなにもおっしゃらないのに、横で見ていただけの私がとやかく言うことはできません」

「本当に、拓中士が言ったとおりのね」

「拓中士のことをご存じなのですか?」

「昔からお世話になっているわ。指導医もしていただいた。ということは、私とあなたは師姉妹になるのね」

 後半の言葉は独り言のようだったが、ひょっとして親しみをこめたつもりで言ったのだろうか。そうなると翠珠にとって紫霞は、師匠であると同時にシージエという立場にもなる。

「拓中士は男女の先入観なく研修生を受け入れてくださるから、指導してもらった女子医官は多いのよ」

 男女の医官局はそれぞれ独立しているが、研修生は性別を問わずに受け入れることになっている。女子医官局が男子医官局の被官だった時代の名残だが、現在でも技術の均一化を図るためにつづいている。

 とはいえ特に年配の男性医官には〝女ごときに〟という偏見もあるし、女性医官の中にも男子は指導したくないという者もいる。

「拓中士に私のことを、いてくださっていたのですか?」

「そりゃあ指導医になるのだから、引継ぎはしてもらうわよ」

 とうぜんのことだとばかりに紫霞は言うが、初顔合わせ時の素っ気ない反応を思いだすと、そんな熱意を持ってくれていたとは意外過ぎる。

 圧倒的な美貌と突き放すような物言い。良くない噂もあって近寄りがたく感じていたが、これはあんがい情に厚い人なのかもしれない。

「拓中士はあなたのことを褒めていたわよ。実家が医院だからか、患者と打ち解けるのが早く、身体の異変を見抜く力がえていると。臨床を重ねていったらきっと名医になるだろうって」

「そんな、おお──」

「女でその才能を持ったあなたが、あの師匠に担当してもらったことは、すごく運がよかったと思いなさい」

 照れ隠しの翠珠のけんそんを、紫霞は真剣な口調でさえぎった。

 迫力に翠珠は息を詰める。紫霞の美しい顔には、一言では言い表せない複雑かつうつくつした様々な感情がからみあっているかに見えた。

 梅雨の終わりに弱々しく明滅する蛍火のように、ぼんやりと翠珠は思った。

 漠然とは感じていた。いままであたり前のように享受していた自身の環境は、女医としてかなり恵まれているのだと。

「呂貴妃様の件だけど」

 あらためて紫霞は切りだした。

「東六殿にお住まいの方だから、私は詳しくは知らない。ただあちらを担当している医官が、数か月前にけつによる症状としてけいぶくりようがんを処方したと話していたわ」

 瘀血とは、血の流れが滞ることをいう。女性によく生じる〝血の巡りが悪い〟という症状もこちらに該当する。桂枝茯苓丸は牡丹皮を主薬とする方剤なので、呂貴妃が馬薬舗で牡丹皮を求めたこと自体に矛盾はない。

「それで最初のうちは調子がよかったらしいのよ。けれどしばらくして急に、宮廷医の診療を拒否なさるようになったらしいの」

「それで市井の薬店で、薬を買い求めていらしたのですか?」

「おそらく、そうでしょうね」

「なぜそんなことに。ひょっとして担当医官が、なにかご勘気に触れたのですか?」

「そうかなと思って本人はだいぶん慌てていたみたいけど、でもそれなら別の医官に交代せよという命令になるでしょう」

「確かに」

 治療に効果がなかったとしても同じことだ。そもそも最初は投薬も順調だったという話ではないか。ならばいったいなにが理由で、呂貴妃は診療拒否をするようになったのだろう。よもや変なじゆじゆつが出入りなどしてやいないか。

(だとしたら、馬薬舗には来ないわよね)

 ということは、薬そのものには頼っているのだ。

 紫霞はふたたび歩き出した。

「さ、次は殿でんに行くわよ」

「梨花殿?」

「河嬪様がお住まいの御殿よ」

 次から次にと、渦中の人物ばかりだ。

 流産という悲劇に加え、栄嬪のあの暴言を聞いたあとでは、一面識もない河嬪になんとなく肩入れしてしまう。

「河嬪様は、もうご回復なされたのでしょうか?」

「身体はだいぶん落ちついているけれど、お心がね」

 もっともな紫霞の答えに、翠珠は言葉もなく黙りこむ。

「特にここ数日のふさぎこみ方はひどくて、診察のためになんとかお顔を見せてもらえるぐらいよ。それも三回のうち一回ぐらい」

 うつの症状の回復は波があることが一般的で、単純な上り調子に回復するほうがむしろ少ない。そうやっていくつかの波を乗り越えて、ようようにして健全な状態を取り戻すのである。

 しかし──。

「ここ数日ですか?」

 梨花殿から牡丹皮が見つかったのも、確かそれぐらいだったはずだ。

 ひょっとしてそれが、なにかの起因となったのだろうか?

 気鬱の状態にある者は、ほんのさいな刺激で気持ちが沈む。健康であれば、それこそ笑い飛ばせるようなことであっても。牡丹皮の存在、呂貴妃への疑いなどが落ち込みの誘因になったとしても不思議ではない。

「あなたは河嬪様と同じ南州出身なのでしょう。故郷の話でもしてさしあげて、少し元気づけてあげてちょうだい」

 しんみりとする翠珠に、紫霞は少し口調を和らげて言った。

 余計な情報はいらぬと自己紹介を中断させたが、さらりと口走った南州という単語を紫霞が覚えていたことに翠珠は驚いた。



 結論を言えば、翠珠は河嬪を励ますことはできなかった。

 というより翠珠だけが会ってもらえなかったのだ。

 たとえあいさつだけでも、初対面の人間とあれこれやりとりをする気力がいまの河嬪にはないのだと、取次ぎ役の女官が言った。しかも河嬪の意向を聞きに一度奥に入ってからの返事だったから、本当にそうなのだろう。同郷であることは告げてくれたそうだが、効果はなかったようだ。

「しかたがないわね。あなたは先に杏花舎に戻っていなさい」

 あまり執着することもなく紫霞が言ったので、翠珠は素直にきびすを返した。

 梨花殿を出て、宮道を進む。掃き清められた石畳とのきを伸ばした塀が延々とつづいている。途中で幾人かの女官や太監とすれ違ったが、知らぬ者ばかりだった。内廷勤務二日目なのだからとうぜんだ。

「結構な人通りなのね」

 翠珠は独りごちた。後宮の美女三千と俗に言うが、いったいどれほどの人間がこの広い内廷に勤務しているものだろうか。翠珠は紫霞からもらった地図を広げた。これは本当に助かった。太陽がほぼ天頂の位置にのぼり、西も東も分からぬこの刻限では絶対に迷う自信があった。

 遠目に西六殿を抜ける門が見えてきた。良かった、道は間違っていなかった。心持ち急ぎ足になるのを自覚しながら進んでいると、やがて門柱前に女官が立っていることに気づく。

「蘇女官?」

 歩み寄ってきたのは鈴娘だった。青灰色のうわぎに深緑色のくんは、街で見た時よりも少し地味な装いだ。ひんに仕える女官が主人より目立ってはならないのは常識である。

「李少士。良かったわ、会えて」

「え?」

 おかしな発言だ。先日まで医療院勤務だった翠珠が後宮にいるのだから「なぜ、ここにいるの?」と訊くべきだろう。しかし鈴娘は驚くどころか、むしろ待ち伏せしていたかのように言った。

 短い思案のあと、はっとひらめく。

 とつぜんの内廷勤務には疑問しかなかった。しかも一面識もない太監長の依頼だというのだから、裏がないはずがない。

「もしや私が急に内廷勤務になったのは、蘇女官が?」

「私ではないわ。さる方のお力添えよ」

「お力添えって……」

 恩着せがましい単語に、この段階ですでに耳を疑っていた。

 ひょっとしてこの人は、私が内廷勤務を栄誉と受け止めていると思っているのだろうか? だとしたらさすがに言ってやりたい。私は医療院の仕事が好きで、あそこで研修を終えたかったのだと。

「あのっ──」

「誰だと思う? 呂貴妃様よ」

 鈴娘が得意気に告げた名に、翠珠はのどもとまで出かけていた文句をみこんだ。さすがにその人相手に「迷惑です」とは言えない。

「馬薬舗で、あなたに助けてもらったことをお話ししたら、そんな優秀な医官が医療院でくすぶっているのはもったいないから、是非引き上げてやるようにとお命じになったのよ!」

 意気揚々と語る鈴娘に、翠珠の頭の中で『裏目』という単語が反復する。本当のことを言えば『恩をあだで返す』が一番ふさわしいが、悪意がないのだからそこまでは思えない。

「あなたに会いたくて、ここで待っていたのよ」

 その言葉に即座に不審を抱く。ならば杏花舎に遣いを寄越せばいいだけだ。こんなところで待つなど、あきらかに不自然である。

 そもそも翠珠がこの時間にここに来たのは、河嬪に拒否されたからだ。そうでなければ、ここに来るのは四半こく後にはなっていた。それも紫霞と一緒に。

(晏中士と離れたのを見計らって?)

 梨花殿からここに来るまで、すれちがった女官や太監を思いだす。やたらと数が多いとは感じたが、ひょっとしてあれは──監視されていた?

 ひやりとしたものが背筋をでる。

 その反応をどう受け止めたのか、鈴娘は高揚していた声音を少し落とした。

「怖がるような話ではないわ。ただあなたに依頼をしたいと、呂貴妃様が」

 断るすべはなかったし、これでだいぶんはっきりした。おそらくだがその依頼のために、翠珠は内廷勤務に回されたのだ。呂貴妃ほどの地位にあれば、新人医官の配属などどうにでもなるはずだ。

 翠珠は腹をくくった。こうなったら〝怖がるような話ではない〟という一言にすがるしかない。

「お伺いします」

 鈴娘は晴れやかに微笑んだ。悪意のない、ごうまんな笑みだった。断られる可能性、その依頼が翠珠にとって厄介事であるなどじんも考えていない。それどころか栄誉を与えているかのような態度である。

(これが、内廷仕えか……)

 圧倒的な身分差の中では、上の者は自分の意向を通すことのみを考え、下の者の気持ちなど露程も考えない。あるいは医療院でも似たような理不尽はあったのかもしれないが、拓中士という良き師に恵まれた翠珠には縁のないことだった。

 内廷勤務は、貴き方々とかかわる華やかな女子医官の花形。

 けれどその栄誉を担うには、時として信じがたい忍従や屈辱を強いられるのだ。二日足らずの勤務で、翠珠はそのことを思い知らされたのだった。


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