第一話 女子医官、配転を命ぜられる⑥
翌日。翠珠は調剤室で煎じた薬を手に、紫霞とともに芙蓉殿にむかった。
皇城の正殿・太正宮の北側には、皇帝の居住区となる皇帝宮がある。その北側に
南北に位置するこの三つの宮を中心に、東西にそれぞれ六つの殿が建っている。
東六殿と呼ばれる建物は、木蓮殿、芍薬殿、
西六殿は
さらにその北側には、やはり東西対称に皇子や皇女の為の住まいがある。書庫や劇場等の施設。それらの建物をつなぐ回廊は各区域の境界にもなっている。
東西十二殿の中でも、木蓮殿、芍薬殿、菊花殿、梅花殿の四つは特に格が高い建物とされ、
いまから訪ねる栄嬪は芙蓉殿。流産の憂き目にあった河嬪は梨花殿で、共に西六殿居住である。
この東西各六殿を担当する女子医官は、中士以下でそれぞれに六人が定員だ。男子医官も配属されてはいるが、外廷の仕事も兼任しているのであまり係わってこない。
四妃以上の高位の妃は、さらに上の大士が四人で担当している。しかし現在は皇后不在で、妃の身分にある者は呂貴妃しかいない。だからといって、大士達が暇を持て余しているわけではない。対象の患者は少なくても、後任の指導、組織の管理、書籍の編集等、大士にはそれ相応の仕事があるのだった。
『芙蓉殿』と記した看板を掲げた朱塗りの門をくぐると、その先は石畳を敷いた
正面には正房。両脇には
掃き掃除をしていた若い太監が、紫霞とその後ろに立つ翠珠に目を留めた。
「晏中士」
「こんにちは。栄嬪様の薬をお持ちいたしました。取次ぎをお願いします」
「あ、はい……」
太監はちらちらと翠珠を見る。その反応に紫霞は
「彼女は李少士といいます。今日から西六殿配属になりましたので、栄嬪様にも紹介しようと思って連れてまいりました」
「ああ、そうですか。ではお知らせしてきます」
太監は
程なくして戻ってきた彼は、翠珠達に中に入るように促した。
彩豊かな
「証拠はあがっているのに、なぜ呂貴妃を逮捕できないの?」
えらく不穏な発言に、さすがの紫霞も動きを止めた。
先日の馬薬舗での一件が、あのあとどうなったのかなど翠珠は知らない。拓中士に話したら『後宮のことは厄介だからかかわるな』と言われた。もとよりそのつもりだったが、まさか数日後にこんなことになるとは──。
ちなみにあの翌日、馬薬舗の店主が医療院を訪ねてきた。
差し入れの山盛りの
『うちにかぎらずだけどね』
当面内廷には、外部からのあらゆる薬の持ち込みが禁止となったそうだ。薬舗のほうは商売あがったりだろうが、内廷の人間は大方の薬は医局で調達できるから別に困ることもない。それにおそらくだが、市井の薬舗より杏花舎にある薬のほうが質は良いはずだった。
だというのに、なにゆえ呂貴妃は市井の薬舗で牡丹皮を求めたのか。
ここにきて、ふと翠珠は迷った。
馬薬舗でのことを紫霞に話しておいたほうがよいのだろうか?
様子をうかがうと、紫霞は思いっきり
隣室には、
栄嬪でまちがいないだろう。
「いったい御史台はなにを考えているのよ! 私が河嬪の二の舞になったら──」
栄嬪は興奮して立ち上がりかけたが、ぴたりと動きを止め、とつぜん中腰のまま顔をしかめる。
「栄嬪様」
間近に控えていた女官と同時に、紫霞が声をあげて彼女に近づいた。
栄嬪は
「ちょっと
「ご懐妊中は、お静かにお過ごしください」
「──あら晏中士。ちょうどよかった」
顔をあげた栄嬪はけろっとしていた。眩暈はもう収まったらしい。
「どうなの? 河嬪の流産の理由は分かったの?」
「そのことですか」
抑えてはいたが、紫霞の声音には
それにしてもこれほど華やかに着飾った、いくつも若い皇帝の
「私はあくまでも医師ですから」
そう前置きをしてから紫霞は語りだした。
「河嬪様が口にしたものは、食事から薬まですべて御史台が調べました。いまのところ堕胎を促すようなものは見つかっていません。なぜ梨花殿から牡丹皮が見つかったのかはいまだに不明ですが、半年にもなろうという妊婦に流産目的で服用させるには牡丹皮では効き目が弱い。ゆえに呂貴妃様は無関係。河嬪様の流産は不幸な事故であるというのが、御史台が出した結論のようです」
紫霞の説明に、翠珠は驚いた。馬薬舗での騒動に巻きこまれてから数日。いつのまにそんなことになっていたものか。
(じゃああの人、私の言いぶんを聞いてくれたのかな?)
再度調査を行うと言っていた夕宵のことを思いだす。もちろん最終的に判断をしたのは彼の上官だろうが。
しかしこの説明に、栄嬪は納得しなかった。
「その話は御史台官から聞いたわ。まったく、いくら呂貴妃に積まれたものやら。そんな馬鹿な話があるものですか。妊娠中の河嬪は、
「ないとは言えません」
「使えないわね、御史台も医官局も」
栄嬪は金切り声をあげ、手にしていた絹
「ご期待に沿えず、申し訳ありません」
紫霞が頭を下げたのを見て、翠珠は内廷仕えの理不尽さを痛感した。どう考えたって無茶苦茶を言っているのは栄嬪のほうだ。
高貴な方を診る機会が多い宮廷医局は、出世にもつながりやすく女子医官の勤務先としては花形である。しかしそれだけ気苦労も多いのだと、昨日今日だけで骨身に
(医療院に帰りたい……)
翠珠が
紫霞の謝罪を受けても、栄嬪の怒りは収まらない。女官が手渡した団扇を
「まったく、貴妃だからってなにを遠慮しているのよ。呂貴妃なんて、完全に
妊娠中の不安定な精神状況を配慮しても、人格を疑わざるを得ない発言だ。年上の相手に対して若さで優位に立とうとするのは、まあ若い女性にはありうる。この手の思考の持ち主は、いずれ自分が年を取ったときに、その価値観により人よりいっそう
しかし河嬪の子供に対する発言は、いくらなんでもひどすぎるだろう。それに同じ南州出身の立場として言わせてもらえば、河嬪の実家は藩王に匹敵するほどの経済力を持つ豪商である。けして侮られる家柄ではないと翠珠のような庶民は思うが、官尊民卑はこの国の昔からの慣習だ。いずれにしろ栄嬪のいまの発言は、相手の生家に関係がなく許される
女官達になだめすかされ、いらいらと団扇を揺らす栄嬪の腕の動きが少しずつ落ちついてきた。彼女の胸元で揺れる小鳥が静まったのを見計らって、紫霞がおもむろに口を開いた。
「栄嬪様。いつものお薬をお持ちしましたので、いまから準備をさせてよろしいですか?」
「誰、その娘は?」
ここにきて栄嬪は、はじめて翠珠を見た。この騒動の間、翠珠は紫霞のうしろでずっと立ち尽くしていた。
「紹介が遅れました。昨日より内廷付きとなりました、李少士です」
「よ、よろしくお願いします」
翠珠はその場に
「信頼できるのでしょうね? 河嬪の二の舞になるのはごめんよ」
「太医学校を首席で卒業した
「ならいいわ。準備をしてちょうだい」
翠珠が立ち上がると、女官が置炉の前まで案内する。湯を沸かすのみならず、
鉄瓶を火にかけ、温まった頃合いを見て下ろす。茶杯に注いだ煎じ薬を、間近に控えていた女官を介して栄嬪に渡す。なにか疑いの言葉をかけてくるかと思ったが、存外に黙って薬を飲みほした。
栄嬪が杯を女官に返したのを見て、紫霞が言った。
「では、あとはいつもの通り。残りを二回に分けてお飲みください」
感情は面に出さずに淡々としていた。栄嬪の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます