第一話 女子医官、配転を命ぜられる⑤


 この国に女子太医学校が開校してから、半世紀近くが経つ。

 近年こそ翠珠のように、家業を継ぐという理由で入学する女子医学生は珍しくなくなったが、少し前までたいていの学生は訳有りだったと聞いている。

 太医学校の入学試験には、とうぜんながら一定以上の教養が求められる。そうなると入学者はある程度恵まれた家の者ばかりになってくる。しかし古い価値観を持つ良家であれば、なおさら娘を女医の道になど進ませるはずがないのだった。

 家族の猛反対を受けて絶縁された者。天涯孤独。離婚歴を持つ者。寡婦も少なくなかったらしい。

 その中でも、晏紫霞にかんする噂はなかなかに際立っていた。

 良家に生まれ、ぼうに恵まれていた彼女は、若くしてとある高官の息子に正妻として迎えいれられた。

 しかし何年もしないうちに、不貞を理由に離縁されたのだという。

 夫の女癖のひどさが理由で離婚に至った場合でさえ、婦人は一夫に添い遂げるべきだと批判される世では、女側の不貞というのはかなり衝撃的だった。

 そこからどういった経緯で女医となったものかは、あきらかではない。そもそも色々噂をされているだけで、真相そのものが不明なのだ。紫霞も含めてある程度より上の世代の女子医官は、前述した事情から訳有りの過去を持つ者が多いので、基本的に他人の過去には干渉しないのだという。

 彼女達に比べたら、翠珠はずいぶんと恵まれている。先日の患者のように嫌な思いをすることはたまにあるが、両親も祖母も、翠珠が医師となることを心から応援してくれているのだから。

「──というわけで、おおよその業務はこんなものね。なにか質問はある?」

 作業台に手をついて紫霞は尋ねた。

 内城にある次長室を出てから半日が過ぎた。ここまで皇城に置かれた宮廷医局内の案内と業務説明。そして顔を合わせた宮廷医官への紹介とに費やされた。男女の医官、あわせて十二、三人程にあいさつをした。

 宮廷医局はきようしやと呼ばれる建物で、診察室や薬局をはじめとした複数の設備を備えている。宮殿の正殿であるたいせいきゆうから少し西に進んだ、外廷と内廷の間に位置する男女兼用の施設である。

 宮殿は、皇城と宮城の二区画で構成される。太正宮から南が皇城。政務を行う外廷である。北が宮城。皇帝の私的空間の内廷、すなわち後宮である。

 太監以外の男性が出入りできるのは、基本として太正宮までとなっている。

 しかし二十年程前に大規模な太監の綱紀粛正がなされてからは、内廷における彼らの影響力は著しく低下していた。その結果、しばし太監以外の男性が内廷にも出入りするようになった。御史台官の夕宵が、後宮の刑事事件にかかわっていたのはその為である。

 とはいえ自由に出入りができるということではなく、一般の男性官吏の内廷への出入りにはやはり制限がかけられている。太正宮を基準とした東西の線状に、太監房をはじめとして、医局や楽房等の男女が行き来する施設が建ち並んでいるのはそのためだった。

 退勤時間まであとわずか。なにか質問はあるかという紫霞の問いに、翠珠は疲労こんぱいしたまま首を横に振った。

「いいえ、おおむねは覚えました……」

「結構。内廷のほうは明日から案内しましょう。とはいっても私の担当は西六殿だから、そこが中心になるけれど」

 なんのことだか全然分からないが、ひとまず翠珠はうなずいた。西六殿というのはおそらく後宮の区画名だろう。明日教えてくれるというのなら、そのときに覚えればいい。

「よろしくお願いします」

「では最後に、ぼうおうとうを三回分調合してちょうだい」

 緊張と疲労でぼんやりした頭に、聞き慣れた言葉が刺さった。よもやここにきて調合を命じられると思わなかったので、翠珠は目をぱちくりさせる。

「……防已黄耆湯」

「分かる?」

「は、はい。水滞を改善する方剤ですね」

「良かった。知らないのかと思ったわ」

 あながち冗談でもないように紫霞は言った。ひそやかに能力を試されていることに気がついた。

 人の身体には、気、血、水の三要素がある。これらが全身の経絡を経てきちんと循環しないと様々な症状が生じる。水滞とは、水の流れが滞った状態をいう。

 翠珠はくすりだんから、必要な生薬を取り出した。てんびんで分量を計測しながら、遠慮がちに尋ねる。

「ひょっとして、どなたかご懐妊中なのですか?」

「さすが首席卒業だけあるわね」

 あまりにもさらりと言われたので、褒められたことにすぐには気がつかなかった。

 水滞の症状として典型的なものに、むくみがある。原因となる状況は多々あるが、後宮という場所で真っ先に思いつくのは妊娠だった。

よう殿のえいひん様がご懐妊中よ」

 誰? と内心で首を傾げた。医療院勤務だった翠珠は、後宮の妃嬪にはまったく関心がなかった。最上位である呂貴妃と流産をしたことで話題になった河嬪は知っていたが、それ以外の妃嬪は名前も宮殿も知らない。

「そうですか。それはおめでたいですね」

 単純に祝いを述べた翠珠を、紫霞はまたもや冷ややかにいちべつする。緊張でどくんと胸が高鳴る。さっき褒めてもらったばかりだというのに、もうこの反応である。まったく春の空のもくれんよりも、凍雲の下のかんたんのほうが形容としてはふさわしい婦人だ。

「おめでたいことは確かだけど」

 紫霞はわずかに表情を曇らせた。

「ただ同じ西六殿の河嬪様の気持ちを思うと、軽々しくおめでとうとは声もあげにくいでしょう」

 つまり流産をした河嬪と懐妊をした栄嬪は、同じ区域に住んでいるわけか。

 確かに心情的にはきついものがあろう。だからといって栄嬪を祝ってやらないのもちがうだろうとは思うが。

「本当なら、それはそれ、これはこれで割り切るべきなのでしょうけど……」

 まるで翠珠の気持ちを読んだように、紫霞は独りごちた。

 どうやら紫霞は、河嬪の境遇に同情を寄せているらしい。正直意外だった。威容ある美貌と淡泊な物言い。加えてまことしやかに流れる過激な噂も手伝って、紫霞に対して怖くて冷たい人という印象を持ってしまっていた。

(良くなかった)

 翠珠は素直に反省し、まるで罪滅ぼしのようにせっせと手を動かした。

 防已黄耆湯の構成生薬は、その名の示す通り防已と黄耆。加えてそうじゆつ。これは先日も医療院で風湿の患者にも調合した。

 紫霞はほっそりとした腕を組み、まるで宝玉のしんがんを見極めるかのような厳しい目で一連の作業を眺めていた。

「できました」

 翠珠は調合した薬を机に置いた。生薬はせんじて使うものがほとんどなので、この段階では茶葉のようにかさばって専用のざるに入っている。

 おそるおそる紫霞の顔を見上げる。身動きひとつどころか、長いまつの一本すら揺れていない気がする。

 大丈夫だ。調合は間違っていないはずだ。

 翠珠にとって、おそろしく緊迫した長い時間が流れた。実質的にはまばたきを数度繰り返す程度の長さだったのだろうが、まるで四半こくも過ぎたような気がした。

「けっこうよ。きちんとできている」

 ようやく紫霞の口から漏れた言葉に、翠珠は胸をでおろした。対して紫霞はにこりともしない。それぐらい当然だろうと言わんばかりである。まあ実際その通りなのだが──。

「明日、これを煎じて栄嬪様にお届けします。あなたに煎じてもらいますから、出勤時間までに調剤室に来なさい。今日はこれで退勤してけっこうよ」

 紫霞は告げた。とりあえず今日は終わったようだ。少し残業になったけれど、初日にしては思ったよりも早く帰れるようだ。

「お世話になりま……」

 退出の挨拶をしかけて、翠珠は途中で口をつぐんだ。紫霞が薬簞笥の引き出しを引いたからだ。

「あの、晏中士はお帰りにならないのですか?」

「私はまだやることがあるの。西六殿担当の医官が二人も忌引きで故郷に戻って仕事が多くなっているの。あなたがここに配属になったのも、それが理由よ」

「そ、それなら私もお手伝いします」

 早く帰りたいのは山々だが、弟子の立場として残業にいそしむ師匠を残しては帰れない。

「けっこうよ。不慣れな人に手伝ってもらっても、かえって時間がかかるわ。そんなことより、こっちをしっかり覚えてきてちょうだい」

 三尺下がって師の影を踏まず。そんな世の常識など知らぬといわんばかりの口ぶりで言い捨てると、紫霞は一枚の紙を手渡した。それは木版印刷で刷られた、後宮の見取り図だった。


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