第一話 女子医官、配転を命ぜられる④
まるで世間話をするように言われたので、翠珠はそれが辞令だととっさには気づかなかった。
「あ、あの、私ですか?」
「この場で、他に誰がいるのよ」
紫色の比甲を着けた
四十代も半ばを過ぎているのに、きっちりと結った黒髪には一筋の白髪も見当たらない。小柄でほっそりとした
医官も含めて、女医の既婚率はわりと高い。相手は同じ医師が一番多いが、医官にかぎって言えば宮中勤めの官吏もいる。ちなみに翠珠の父親は南州の役所に勤める地方官吏である。ただし離婚率も普通の女性に比べて頭抜けて高く、そのあたりも世間の目が厳しい一因でもあった。
「内廷勤務って、なぜですか!?」
「私が
突き放すように向次長は言う。なるほど。これぐらい冷静でなければ外科医は務まらないのだろう。
「
「知りません。私、太監(
「そうよね。医療院勤務のあなたに、どこで目をつけたものやら」
解せないというように向次長はしばし首を
「ともかく、太監長が自ら頭を下げてきたのだから断りようがないでしょう」
「太監長って、そんなに偉い人なんですか」
「そんなことはないわ。いまは昔みたいに、太監が横暴を働いている世じゃないからね。理屈の通らぬことであれば断れるわ。でも長官から誠実に懇願されたら、そりゃあ了解するわよ」
この場合、翠珠の意向はまったく反映されない。医官にかぎらず、上が指示した場所で黙って勤務するのが官吏というものだ。翠珠のような少士が次長の命に逆らうなど論外である。
そう分かってはいても、一応食い下がる。
「わ、私は家を継ぐために、医療院で研修をつづけたいのです」
「それならなおさらいいじゃないの。医療院のような広範囲な診療は実家に戻ればいくらでもできるでしょう。でも後宮での勤務は、他ではまず経験できないわよ。若いうちに経験はいくらでも積んでおきなさい」
理屈は一枚も二枚も向次長が上だった。
がっくりと
「あなたならどこでも大丈夫よ。なんと言っても首席卒業なのだから」
臨床の場と学校の成績はちがう。一年と少しの研修期間で痛感したことを反論したかった。実際学校の成績が抜群でも、臨機応変が効かずに
「とりあえず、新しい指導医を紹介しておくわ」
もう、そこまで決まっているのか? ここで未練が完全に切れた。でも世話になった拓中士にだけは礼を言いに行かなければと
「
緑色の比甲を着けたその人は、
年の頃は三十前後で、けして若い盛りではない。
しかし彼女の突き抜けた
官服に包まれた身体はすらりと背が高く、優雅なその立ち姿は青空の下で
初雪の肌。きりりとした
見る者に緊張を強いるほどの
女子医官であればまちがいなく太医学校の先輩のはずだが、これほど美しい卒業生がいたとは知らなかった。一年でも在学期間がかぶっていれば、かならず記憶に残っていただろう。
ぼうっと
「あなたが李少士?」
翠珠はわれに返り、急いで一礼する。しくじった。本来であれば弟子である自分から頭を下げなければならないというのに。
「よ、よろしくお願いします」
「こちらこそ。
思ったよりも気さくに晏中士は名乗った。しかも空に描くようにして、名の文字まで教えてくれた。なるほど、紫の霞か。紫木蓮を連想したのは、あながち見当違いでもなかったようだ。
「李翠珠です。出身は南州で──」
「出身地とか、入学前の情報はいりません」
「え?」
「学校と医療院で、なにを学んできたのかだけでけっこうよ。時間が惜しいから話は医局に行きながら聞きます。次長、忙しくして申し訳ありませんが、またのちほど説明にうかがいます」
一方的に告げる紫霞は、すでに
「いいわよ。こちらも急な依頼だったから、気にしないで」
「すみません。では、また」
向次長に退出を告げると、紫霞は簾をくぐりぬけた。翠珠はあわてて後を追い、隣室から回廊に出たところでようやく追いついた。翠珠は別にのろまではないが、背の高い紫霞とでは足の長さがちがう。しかも彼女はけっこうな
翠珠が追いついたのを見計らったように、紫霞は質問を投げかけてきた。
「医療院では、これまでどんな患者を診てきたの?」
「多種多様です。なんといっても景京中の老若男女が集まりますから」
「なるほど。そのあたりは内廷とはちがうのね」
「そうなのですか」
内廷勤務の場合、基本的に患者は女性が多い。とはいえ太監もいるので、性別による疾患の偏りはさほどでもないと思っていた。
「診療はやはり、婦人科系の病が中心になりますか? それとも妊娠関係が?」
「そのあたりが中心ね。それと──」
「それと?」
「解毒」
さらりと告げられた不穏な単語に絶句する。思わずその場に立ち止まった翠珠に、紫霞ははじめて足を止めた。
「解毒というより、毒の有無を調べることが主な仕事になるわ。解毒よりも摂取しないことがなによりだから」
「あ、あの……やはりそんなことが多いのですか?」
恐る恐る尋ねた翠珠に、紫霞は冷ややかな
翠珠はびくっと身を揺らした。ひょっとして
夕宵には、堕胎目的で牡丹皮を仕込むのは現実的ではないと説明した。さりとて流産をした河嬪の部屋から、覚えのない牡丹皮が見つかった事は不審にちがいないのだ。
背筋がひやりとした。
「おそらく、世間が思っているほどではないわ」
ため息交じりに紫霞は言った。
「へ?」
「考えてもみなさい。同じ
「──確かに」
身内ではなく他人に故意に毒物を摂取させることは、それほどに難しい。相手が用心していればなおのことだ。現実は物語や戯曲とはちがう。鼠に
「でも妃嬪の方々が心配だと仰せなら、納得していただくためには調べてさしあげないとしかたがないでしょう」
気のせいか紫霞の物言いは、やや面倒くさそうだった。
なるほど、毒の調査とはそういうことか。
しかしそんな疑心暗鬼になるほど、後宮は
たちどころに気持ちが重くなる。仕方がないと半ば
(いったい、どうして私が?)
嘆き以上に、強い不審の念がこみあげる。
はたしてこの理不尽な人事は、宮仕えだからしかたがないの一言で済ませて良いものなのだろうか? 翠珠は答えを求めるように紫霞を見た。斜め後ろから見る彼女の顔は、正面から見るときとちがう憂いを帯びた美しさがあった。女医よりも良家の貴婦人であるほうがふさわしい美貌に、翠珠の中である記憶がよみがえった。
(え? 晏中士って、あの晏紫霞のこと?)
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